2023年05月07日

司馬街道(5)「甲州街道」「葛城みち」

■甲州街道
・武蔵のくに
 武蔵の国の話が、太田道灌のことから始まります。『更級日記』などを引いて平安末期は原野であったことから、朝鮮半島にまで博識は及びます。
・甲州街道
 八王子の話は、かつて立川にいたことのある者としては、もっと聞きたいことです。家康が江戸に幕府を開いた時と、幕末の新撰組の存在を考えると、この八王子は注目したい地域です。
・慶喜のこと
 慶喜に精通しながらも、「いかなる名利にもつながらない精神活動を生涯持続する人」のことが話題となります。文明を下支えする人の例です。
・小仏峠
 新選組と勝海舟のやりとりが、興味深く語られています。歴史の裏面史が、絶妙のタイミングで語られます。
・武州の辺疆
 慶喜がどのような人であったか、ということに関して、さまざまな例を出して慶喜像の構築を試みています。


■葛城みち
・葛城みち
 古代の部族のありようが、今と対比させながら語られます。自在に、今と昔を行き来していきます。
・葛城の高丘
 雄略天皇と葛城王朝の一言主の話です。葛城山麓のグループを「鴨」と言ったそうです。次第におもしろくなります。
・一言主神社
 鴨族のことについて、以下のように語っています。
 京都の下鴨地域に15年間住んでいたこともあり、鴨・賀茂については興味の尽きない話題です。
 鴨族とは、正しくは鴨積(かもつみ)と書かねばならないだろう。積とは種族をさす。アヅミ(安積)、イヅモ(出雲)、いずれもツミ(ツモ)がつく。
 鴨族は葛城の大和山麓一帯に住んでいた種族で、葛城氏と印象が二重うつしになっている。葛城王朝のころは葛城氏が政治をつかさどり、鴨族が祭祀をつかさどるという図式で考えていいのか、それともごく単純に鴨族のなかの王族が葛城氏であると考えていいのか、そのあたりはよくわからない。政治的には葛城氏は、五世紀末にほろぶ。しかし鴨族は政治的存在ではなさそうだからクッキリとはほろびず、ただ葛城の故郷にあってはしだいに衰弱してゆく。それらは「鴨の神々」をかついで諸国に散る。
 鴨族とはなにかということにもっとも早く関心をもったひとりは、太田亮氏であろう。
「鴨の語源は神である。カモ、カミ、カムはもともと同一語である」
 と、いわれるのは、考え方にむりがなさそうである。要するに鴨のひとびとは大和にあって強烈な土着神の神霊を感じる体質のひとびとだったのであろう。
 ついでながら、大和葛城の鴨のひとびとは、のちに山城(京都)平野の一角に住み、そのあたりを開拓して、鴨の地名をのこした。京都の北郊の上賀茂、下鴨、それに鴨川などといった地名や、上賀茂社、下鴨社といった神社は、大和から山城にうつったかれら先住族の痕跡である。
 鴨族の出身で、もっとも知名なのは、古くは役小角(六三四~?)で、中世にあっては鴨長明(一一五五?~一二一六)であろう。(91頁)

・高鴨の地
 古代に関する豊富な知識が、今の時代で何に当たるのかを、直感的に結びつけます。また、今目の前の風景から、古代の様子も透けて見えるようです。司馬氏の炯眼に、あらためて思いを深めました。
 
 
 
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2022年12月29日

司馬街道(4)「湖西のみち」「竹內街道」

■「湖西のみち」
 司馬遼太郎の街道を行く旅は、次の文章で始まります。

「近江」
 というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるような、においをのこしている。
「近江からはじめましょう」
 というと、編集部のH氏は微笑した。お好きなように、という合図らしい。(9頁)


 そして後段で、この湖西の道を最初に選んだのは、次のような考えからでした。いささか挑発的です。

「朝鮮人などばかばかしい」
 という、明治後できあがった日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西のみちを北へすすんでいるのである。(15頁下段)


 「楽浪」や「小松」という地名のいわれが語られています。司馬氏の語り口を伝えるためにも、その部分を引いておきます。

 古代朝鮮の年譜をみると、新羅の王の第二十四代真興王が、西紀五六四年(日本の欽明帝のとき)中国(北斉)の属国になり、北斉からその王は、
「楽浪郡公新羅王」
という称をもらった。つまり新羅と楽浪は同義であり、この湖岸の古称「志賀」に、「楽浪の」というまくらことばをつけてよばれるようになったのは、そういう消息によるものにちがいない。(11頁)
(中略)
 日本には小松という地名が無数にあるが、周防大島の漁港小松が高麗津であったように、ここもあるいは高麗津だったのかもしれない。(12頁)


 地名などの背後には興味深い歴史と文化があり、その話が楽しく語られているので先へ先へと読み進めていけます。


■「竹內街道」
 深泥池、賀茂、出雲、石上など、古代の地名の由来から始まります。
 まずは、春先まで私が住んでいた賀茂のことから。

京都の北郊の土着のひとびとは、下鴨、上賀茂という、古代鴨族が住んでいたと思われるこの地域を総称して単にカモという。モにアクセントがあって、カモッと聞こえる。近江の鴨地帯は古くから蒲生の字をあてた。あの発音である。ついでながらカモとは、出雲族のことであろう。(28頁)


 次の引用が少し長くなるのは、私の生まれ故郷である出雲のことが語られているからです。学問的にどうかは今は措き、記録として引いておきます。

出雲族とはどういうグループかとなれば、もう霧のむこうの人影を見るようで、わかりにくい。大和土着の種族であることはたしかである。イヅモとは、『倭名類聚抄』で以豆毛と発音し、古代発音ではおそらく ingdmo と発音していたかとおもわれる。
「出雲国」
 というのは、明治以前の分国で、いまの島根県出雲地方をさす地理的名称だが、しかし古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。種族名でもあったにちがいない。さらに古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。その大和盆地の政教上の中心が、三輪山である。出雲族の首都といっていい。三輪山は、神の名としては、
「大物主命」
 という。人格神ではない。大物主とは、国土のもちぬしという意味だろうが、この神とこの神の系統の神々については「記紀」などの神話には人格に記述されているが、それは記述法であるにすぎまい。要するに、
「ミワ」
 という種族は、大物主神を種族における最大の神として仰ぎ、三輪山のまわりに住み、ふもとの海柘榴市で市をいとなみ、主として大和東部地方にひろがって農耕をいとなんでいたイヅモであることは、異論がすくないであろう。
 大和のイヅモにはもう一派いる。
「カモ」
 という。のちに鴨、加茂、加毛、蒲生などと書き、地名になってしまうが、もともと種族名であったということは、あらためていうまでもない。カモ族というこの古代の大族は大和の西部にあたる葛城山麓に住んでいて、こんにちでもかれらが祭っていた神々−高鴨阿治須岐高彦根命神社や鴨都味波八重事代主命神社といった長ったらしい名の神社―が、山麓の森や林のなかに遺っている。ほとんど「鴨」ということばがつく。カモ族の主たる神は、事代主命である。
 古代のある時期の大和盆地には、カモ・グループとミワ・グループが併存していたことは、たしかである。この二つのイヅモの言語が、こんにちの日本語にいたるこの国のことばの主調をなすものであろう。そこへ出現するのが、崇神王朝であったであろう。後世、天皇家系の第十代目に組み入れられたこの人が、征服者として三輪山の地に出現したことは、まぎれもない。ミワ族とはまったく別系統の人物であることは、『日本書紀』のなかの噺をみても想像できる。(38〜39頁)


 歴史や地理に留まらず、国語学についても専門家ではない、ということが強調されて話は進んでいきます。
 竹内街道の中腹あたりにある竹内村は、司馬氏の母の実家であることもあり、その道々の報告にも熱気が感じられます。少年時代を過ごした思い出の地であるため、旧懐の情も込められています。
 司馬氏が満州に行ったことも語られています。私の問題意識に抵触する内容なので、今後のためにも長文を厭わずに引いておきます。
 私は満州へ行った。
 最後は東満州の国境あたりにいて、にわかに連隊とともに朝鮮半島を南下し、釜山から輸送船に乗った。私のいた部隊は、当時の世界のレベルからみれば使いものにならない戦車を八十輛ばかりもつ戦車連隊であったが、それでも日本陸軍にとっては虎ノ子であったことはたしかで、アメリカ軍の東京付近に上陸するのにそなえるため、終戦の三カ月前にもどらされたのである。
 私どもの輸送船は新潟港に入り、戦車をつみおろしたが、そのとき、埠頭のむこうから一人の初老の将校がやってくるのがみえた。私は最下級の将校だったから、相手の年齢をみて大佐か少将だろうとおもって敬礼すると、なんと少尉であった。それが叔父であった。叔父との奇遇におどろくより、こんな世界にもめずらしいほどに古ぼけた少尉が、いまからどの戦場に出かけてゆくのだろうということに興味をもち、日本の戦力が底をついていることをこのときほど痛感したことはない。
「朝鮮や」
 と、叔父は憮然としていった。
 いまから思えば、私どもの属した関東軍の主力が逐次南方へ間引かれ、ついに私などの連隊を最後に満州がカラになってしまったあと、日本陸軍はソ連との国境を朝鮮でまもろうと思いつき、そういうことで叔父のようなひとたちを召集したのにちがいない。
「まあ朝鮮へゆくのもええやろ。武内宿禰は百歳か二百歳で朝鮮へ行ったというからな」
 と、叔父はむろん葛城の竹内のひととして武内宿禰が竹内で暮らしていたことを信じていたし、それと自分の運命とが重なり、一種落魄のおもいで、そうつぶやいたのにちがいない。
(いまから朝鮮へ行って帰れるのかしら)
 とおもったが、叔父は私どもをおろした船で朝鮮へゆき、その後ぶじ帰ってきて、畳の上で死んだ。五十代だったから、年齢だけは武内宿禰にあやかれなかった。(54〜55頁)


 以上、私の興味の赴くままに司馬氏の語りを引いていることを、お断わりしておきます。
 
 
 
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2022年10月30日

司馬街道(3)「人間の集団について−ベトナムから考える」

 『坂の上の雲』を取材していてベトナムへ行きたくなった、ということから始まります。この紀行文は、司馬氏がベトナム観を語る思索の記録だと言えます。
 このベトナム行きについて、「あとがき」で次のように言います。背景にベトナム戦争があり、同行者は新聞社の後輩だということは、ここでの司馬語りの内容を理解する上で、非常に参考になることです。

 学生時代にベトナムへ行きたいと思っていたのだが、すでに太平洋戦争がはじまっていて、それどころではなかった。
 そのころから三十年ちかい歳月をへて、はじめてサイゴンの空港に降りたときの感動はわすれられない。
 ハノイにも行きたく、その手続きもとっていたのだが、入国許可がおりて来ないままに出発の日が来てしまって、サイゴンだけをえらんだのである。
 この旅行の計画は、昭和四十七年の秋にたてた。そのころアメリカが手をひきそうだという気配が濃厚だったので、「来年の春ごろにはアメリカ兵が一人もいないベトナムを見ることができるのではないか」と推測し、日程をたてた。
 幸い、私がサイゴンの空港についた四月一日(一九七三年)の前日までにアメリカ兵がひきあげてしまい、ついに制服のかれらを見ることなく滞留することができた。

 私は、同行者にめぐまれた。もともとは休暇のつもりでゆくのが、目的だった。 (中略)ところが、ここは戦争をしている国であるために、旅行についての諸事を新聞社に頼むほうがいいと思うようになり、私がかつて若いころにいた新聞社にたのんだ。だから、同行者はみな私の後輩たちということになる。(454頁)


 また、帰国後の印象を次のように記しています。

 私の半生のなかで、このベトナムにおける短い期間ほど楽しい時間はなかったように思える。
 今後もそういう時間があるかどうか、飛行機がサイゴンの空港を飛び立ったとき、窓の下の森と河を見ながら、私にすればめずらしく感傷的になった。いまでも、夢でしばしばサイゴンの雑踏を見る。(455頁)


 さて、司馬語りの内容です。
 韓国とベトナムがよく似ているのは、戦勝記念碑や姓名のことから言えるそうです。

隨の時代に南越帝を征服した将軍は劉方という。劉は当時林邑とよばれていたいまの南ベトナムの海岸地方まで南下してここをも征服し、その首都に「戦勝記念碑」をたてた。中国人は、記録ずきなのである。遠征将軍が異境で戦勝するとかならず記念碑をたて、自分の勲功を後世にまで記憶させようとする。
「韓国軍の南ベトナムにおける不評判の理由のひとつは、戦勝した各地に記念碑をたてたことです」
 と、私はサイゴンの一人の知識人からきいたが、それを現場において確かめることができなかったにせよ、そのことが事実なら興味ぶかいことだとおもった。上代の中国人が遠征してその地を征服した場合の風習が、いまの韓国人のなかに遺っているのである。その記念碑は、旧百済の首都であった扶余市にも遺っている。百済をほろぼした唐の遠征将軍がたてたもので、石塔をつくる時間的余裕がなかったのか、既存の石塔を利用し、そこに碑文をきざみつけたものである。韓国人にとっては痛憤の記念碑であるはずであろう。その中世中国の軍事的風習を、こんにちの韓国軍が南ベトナムの地でくりかえすのはすこし見当ちがいのように思われるが、これが事実とすれば、私自身アジア人ながら、われわれの同血の人々はまことに変なものだとおもわざるをえない。

 朝鮮半島においては、半島を統一した新羅が中国式国家をつくることによって、唐に対して無害の存在であることを示し、平和を保った。この時期に朝鮮人の姓名がいっせいに中国式になるのであり、つまりは姓名まで中国式に変えるほどに中国化した。(328〜329頁)


 サイゴンでの話は、1973年4月からの旅が起点です。

 日本文学を例にして、ベトナム人の本質を見通そうとしています。

 日本人は、日本文学の体質からみてもその発想や日常の動作をみていても中国人や西洋人よりもはるかに女性的なのだが、その面で類似した民族というのはベトナム人しかいないように思える。
 ただ日本人は、何かを思いついたときに、変に男っぽくなりたがるところがあってそういう場合にわれわれはむしろ警戒しなければならないのだが、ベトナム人にはそういう空気負いというものはない。静かでやさしくて一見弱々しいのである。
 こういう民族でなければ、あれほどすさまじかったアメリカの軍事力投入に耐えてゆけなかったであろうし、耐えたあとでもなお、ハノイや解放戦線では、旧日本軍の慣用文章のような変に肩を怒らせた強がりの文章などほとんど見られないところをみると、ほんものの「たおやめ」ぶりであるらしい。(335頁下段)


 ベトナムでねずみを食べる話も出てきます。

「このへんの野は」
 と、B氏はまた窓のそとを指さした。ただの野である。
「うまいねずみが獲れます」
 と、いった。ねずみも、ベトナムにおいては美食のひとつなのである。インドシナ半島全体にねずみを食う習慣があるが、ベトナム人は味覚がうるさくて、ねずみの棲息地をえらぶ。穀物を食っている野ねずみの味というのは、格別なものだそうである。
「小鳥は一羽三〇ピアストルです。ねずみはいっぴき五〇ピアストルです」
 B氏はそもそも値段がちがうのだ、といった。
「雨季になると、ねずみはいっそう旨くなります」
 皮を剥ぐと、白い肉がある。それがなんともいえず淡泊で微妙な味だという。ベトナム料理がそうであるように、一般に淡泊な味を好む。ねずみもヘビも動物としては淡泊な味だから、よろこばれるのだろう。(412頁下段)


 私は、ペルーの首都リマで食べました。写真入りで紹介した「地方料理である鼠の唐揚げをいただく」(2018年08月14日)をご笑覧ください。

 さらに、自分に引き付けて読み進んだ私のメモを残しておきます。万福寺を思い出しながら語るくだりです。

イスとテーブルは、祭壇のわきにある。京都の宇治の黄檗山万福寺の磚の土間にあるイスとテーブルにそっくりだった。
 黄檗山万福寺というのは、江戸初期に中国から日本に入った最後の宗旨で、明僧隠元が幕府の保護のもとに興した。隠元が日本にきたときは、中国では異民族の清の兵が大陸を席巻しつつあり、漢民族の帝室である明朝がほろびようとしていた。その時期に、多くの明の遺臣やあぶれ者がメコン・デルタに流入したように、隠元も日本にやってきたのである。この隠元によって、黄檗山万福寺では、お経を読む発音も他の宗旨とちがっている。現代中国語にちかい音だし、また日常の習慣や料理も現代中国のそれに近い。

 若いころ、万福寺を訪れたとき、磚を敷きつめた廊下で、紫檀だったか黒檀だったか、南方材でつくられた簡素なイスをあたえられて、しばらく待たされた。右手の庭に、真夏の光りがあふれていた。
 そのときの光景と、いまこのイスにすわっている感じがそっくりなのは、なかだちとして中国の文化が存在してくれているからである。黄檗山万福寺の場合は、「山門を出づれば日本の茶摘みうた」という俳句がのこっているほどに中国的なのだが、その万福寺にみられる程度に濃厚な中国文化の受容度が、ベトナムではごく一般的にそういうぐあいだといえるかもしれない。(430〜431頁)


 この「人間の集団について」は、ベトナムの旅を通して得た見聞を元にして、司馬私感を自在に語った報告です。自身の考えを整理しながら語られているので、その思考の過程が重くのしかかり、楽しく読んでいくものではありませんでした。へーッ、そう、なるほど、という感想を持つに留まりました。しかし、ここに提示されているベトナムとそこに暮らす人々については、示唆に富む提言が散見する文章です。もし、司馬氏が今のベトナムを再訪することがあれば、その後のベトナムについてどのような紀行文を記したでしょうか。今のベトナムは、その当時とはまた一変しているはずですから。
 参考までに、私がベトナムを訪問した折のブログの記事をリストアップしておきます。

「大雪警報の中を成田空港へ」(2014年02月08日)

「4時間遅れでハノイの空港に降り立って」(2014年02月09日)

「ハノイの街中を気ままに歩く」(2014年02月10日)

「32種類目の言語のベトナム語訳『源氏物語』と対面」(2014年02月11日)

「極東学院の委員会が集めた『絵入源氏物語』との出会い」(2014年02月12日)

「本記事へのお問い合わせにお答えします」(2014年02月12日)

「女性主導で進展するハノイ大学日本語学部を訪問」(2014年02月13日)

「ハノイでお洒落な回転寿司屋さん発見」(2014年02月14日)

「ホーチミン市で泥まみれの茶碗を選ぶ」(2014年02月15日)

「ホーチミン大学で『源氏物語』を話題にして懇談」(2014年02月16日)

「帰国前にホーチミン市博物館へ」(2014年02月17日)
 
 
 
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2022年10月10日

司馬街道(2)「モンゴル紀行」

 司馬遼太郎氏がモンゴルに行ったのは1973年8月でした。その当時のモンゴルについては、よくわからない国だったようです。その行程も、私が行った37年後の2010年とはまったく違います。

 新潟で一泊した。
 ここからハバロフスクまで定期航路がひらかれているのである。モンゴルへは、おそらく今後もじかにゆけることはあるまい。ソ連を通らねばならない。われわれはハバロフスクで一泊し、次いでイルクーツクで一泊し、そこのモンゴル領事館でヴィザをもらい、三度目の乗りかえで、ようやくモンゴル高原へ飛びたつことができるのである。(171頁)


 私は、2010年1月に成田発のモンゴル航空でウランバートルへ行きました。直行便ではなく、韓国の仁川で乗り継ぐ便です。到着したウランバートルはマイナス34度でした。司馬氏は8月の旅なので、気候については私とはまったく違います。しかし、書かれている印象記はよくわかります。
 私の旅行記は「「マイナス34度のウランバートルに到着」(2010年01月10日)」以降の日々の記録をご笑覧ください。

 司馬氏の話は、ロシアのことが長々と続きます。両親がいた満州のことなども言葉を尽くして語られます。ただし、モンゴルのことが主題なので、ここでは言及しません。
 イルクーツクにおいて、モンゴルへの入国査証についての話は、私もいろいろな国で体験していることでもあり、我が事のように成り行きを見つめました。何とかなるものなのです。
 三分の一を過ぎたあたりから、やっとモンゴルの話になります。
 モンゴル人が中国を嫌う理由が、次のようにわかりやすく紹介されます。司馬氏の言葉遣いが辛辣なので、煩を厭わず長文を引きます。

 モンゴル人は遊牧の民のせいか、性格が大らかで素朴で、感情を剥き出しにして他民族を憎悪するところがすくないが、地つづきの大地に住む漢民族に対してだけは、生まれる以前からきらいだというところがある。
 その理由は、まず民族としての業種がちがうということがあるであろう。遊牧と農耕は同じく大地に依存しつつも、遊牧者は草の生えっぱなしの大地を生存の絶対条件とし、農耕者は逆に草をきらい、その草地を鍬でひっくりかえして田畑にすることを絶対条件としている。かつて内蒙古(いまは中国の一部)で、遊牧圏と農耕圏が入りまじっているあたりでは、このための紛争が絶えなかった。(220頁下段)
(中略)
「蒙古」
 という漢民族がことさらモンゴルの音に当てた漢字には、馬鹿、無智という意味と語感が重なっている。農民的政治感覚や商人的経済感覚からみれば、遊牧という素朴な生産社会の中にいる人間など、阿呆としか見えず、だましやすかったにちがいない。
 軍閥時代においても、モンゴル人は、漢民族の官吏から見放されていた。中国の官吏は伝統的に農作物を収奪する上に立っているため、農民と遊牧民とのあいだに紛争がおこれば、かならず農民側に付き、モンゴル人には味方しない。
 遊牧のモンゴル人からみれば、
「中国人」
 という語感は、奸智、高利貸、富裕、軍隊、役人といった印象の総合だったにちがいない。(221頁下段)


 私の父は、終戦後の3年間、シベリアに抑留され、強制労働をさせられたことは、先日の「敬老の日という祝日は必要でしょうか?」(2022年09月19日)の文末に書きました。1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦布告をし、満洲に侵攻してきたのでした。この頃、ハルビン市やチチハル市にいた両親は、ソ連の軍事侵攻と日本の敗戦に伴い、父はシベリアへ、母はさすらいながら日本へと移動しました。まさに、母は『桜子は帰ってきたか』(麗 羅)の世界を体験していたのです。そして、亡くなる前には、中国残留孤児のニュースを常に気に留めていました。こうしたことに関して、司馬氏はソ連について次のように憤りを隠さずに言います。

 私は、敗戦のときにソ連が多数の日本人を捕虜にし、シベリアからウクライナ、あるいはモンゴルにいたるまで、広大な地域で奴隷労働をさせたことについて、言いがたい感情をもっている。そのソ連の国家行為をむしろ正当化する言い方はある。反省すべきは日本帝国主義の罪悪のほうではないか、とたとえ言われたところで、私は大人だから、子供のように言いくるめられるわけにはゆかない。連れてゆかれた人が私と同世代のひとびとだっただけに、国家次元の問題よりも、人情としてやりきれない思いを持たざるをえず、国家論抜きのいわば婦女子の情としてである。
 当時のソ連は、旧満州でひっからげた日本人捕虜をモンゴルにも配給した。モンゴルだけでその数は一万三千八百四十七人だったという。二ヵ年の抑留中、そのうちの一割強(千六百八十四人)が死んだ。(234〜235頁)


 父は日本人の捕虜としてシベリアに送られました。この時、モンゴルに送られた日本人の捕虜もいました。父がなぜシベリアだったのかは、何も聞いていません。私はモンゴルに行った折、この日本人捕虜の墓地を訪れました。このことは、「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」(2010年01月17日)に詳しく書いています。その後、これに関連した話題は、「モンゴル出身力士の千昇さんと両国で語る」(2019年02月17日)でも触れています。参考までに。
 なお、父は1916年生まれ、司馬氏は1923年生まれなので、同世代と言ってもいいでしょう。

 満洲では馬の医者だった父は、その川柳における雅号を馬蹄と言っていました。司馬氏の文章にも、馬の話がよく出てきます。モンゴルの紀行文なので当然です。私も、ウランバートルの郊外で馬に乗りました。参考までに、私の雄姿(?)と背後のパオをご覧ください。

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 司馬氏の話題はキントウンに乗った孫悟空のように、至るところに飛んでいきます。その中で、日本の古典文学に言い及んだ箇所も指摘しておきましょう。ここで、「中国にあっては、『源氏物語』の研究者さえいないという事情」と言っていることの背景は、今が盛んであるだけに、後で調べてみたいと思います。

 ――モンゴルの秘められたる歴史。
 というのである。ときに『蒙古秘史』ともいわれる。また最近、平凡社の東洋文庫シリーズで、村上正二氏の精密な訳注により、『モンゴル秘史』という書名で刊行された。元朝秘史よりモンゴル秘史として定着してゆくほうが、もとの書名に忠実かもしれない。
 この書物は、かつてユーラシア大陸を往来した草原のひとびとの秘密を説く宝庫として、十九世紀以来、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、日本、ベルギーなどの学者によって精力的に研究され、戦後さらに、モンゴル学・アルタイ学の参加者のひろがりによって、その研究がさかんになった。日本の『古事記』や『万葉集』は、残念ながら、まだこれほどの世界性をもたない。また隣国の中国において、これについての、あるいはひろくモンゴル学についての著われた学者を見ないのは、中国文明の伝統的特徴という点で、興味がある。自己の文明の周辺に文明は存在するはずがない(事実、それに近いが)というもっとも高貴な保守性のためであろうし、このことは中国にあっては、『源氏物語』の研究者さえいないという事情と、やや通じている。(308頁下段)

 車中で、彼女は私に質問されるままに、モンゴルにおける日本語研究の状況を話してくれた。
「研究という所までいっていないけれども、学生のあいだに日本語熱は高いです」
 と、彼女はいった。
 ウランバートル大学の文学部には、ロシアやフランス関係の学科はあっても、日本文学科とか、日本学科というものはまだない。しかし、近く設けられるという話もある、と彼女はいった。
 同大学には正規の講座はないが、日本語研究会といったものがあって、参加者が年々ふえている、という。
「『モンゴル秘史』や『アルタントプチ』の研究をしている学者が、日本のその方面の研究を、日本語で読めるようになると、便利でしょう。きっと便利だと思います」(312頁下段)


 司馬氏の文章は、現地の様子を見て来たようにと言いたいほどに、見たまま感じたままで綴られています。そして、対する人の心の中を活写します。旅行記ではなくて、問はず語りです。モンゴルは初めての訪問ということもあり、歴史や地理よりも、情景や人情に重きが置かれているのです。
 読者としての私は、自分の現地での見聞を思い出しながら、楽しく読みました。

※私の問題意識から、文字に関して指摘をしている箇所を、メモとして抜き出しておきます。これは、変体仮名の「天・弖・氐」に関するものです。
 「氐という文字は低に通じ、卑しいという意味が重なっている。」(225頁上段)
 
 
 
posted by genjiito at 23:39| Comment(0) | □司馬街道

2022年09月28日

司馬街道(1)「韓のくに紀行」

 『司馬遼太郎全集』(文藝春秋版)読み出しました。
 まずは、〈街道をゆく〉と題するシリーズを収録する第47巻からです。
 〈街道をゆく〉は、私が大学生になった1971年(昭和46年)に、『週刊朝日』での連載が始まっています。ちょうど私が、東京で朝日新聞を配達していた時です。予備校と大学に籍をおいていた時期であり、住み込みで仕事をしていた販売所にあった週刊誌で、毎回楽しみにして読んだものです。大学を卒業してからは、『週刊朝日』を講読していたので、作者が亡くなった1996年(平成8年)まで読み続けた紀行文なのです。
 幅広い知識と行動力で語られる、日本全国各地の歴史と文化と地理に関する内容は、知らない世界と多角的な物の見方を教えていただきました。
 これまで、気の向くままにバラバラに読んでいたので、ここでまとめて一気に読むことにしました。
 今回が初回なので、このシリーズの題目の一覧をあげます(「ウィキペディア」より)。
甲州街道、長州路ほか
韓のくに紀行
陸奥のみち、肥薩のみちほか
郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか
モンゴル紀行
沖縄・先島への道
大和・壺坂みちほか
熊野・古座街道、種子島みちほか
信州佐久平みちほか
羽州街道・佐渡のみち
肥前の諸街道
十津川街道
壱岐・対馬の道
南伊予・西土佐の道
北海道の諸道
叡山の諸道
島原半島、天草の諸道
越前の諸道
中国・江南のみち
中国・蜀と雲南のみち
神戸・横浜散歩、芸備の道
南蛮のみちI
南蛮のみちII
近江散歩、奈良散歩
中国・閩のみち
嵯峨散歩、仙台・石巻
因幡・伯耆のみち、檮原街道
耽羅紀行
秋田県散歩、飛騨紀行
愛蘭土紀行I
愛蘭土紀行II
阿波紀行、紀ノ川流域
白河・会津のみち、赤坂散歩
大徳寺散歩、中津・宇佐の道
オランダ紀行
本所深川散歩、神田界隈
本郷界隈
オホーツク街道
ニューヨーク散歩
台湾紀行
北のまほろば
三浦半島記
濃尾参州記



■「加羅の旅」
 親しみのある語り口で旅行記が展開します。韓国について誤解が生じないように、国名については次のように基本的な考えを最初に述べています。

 まあ、この稿では民族の名称として朝鮮人というぐあいにゆきます。むろん韓国人、韓人、韓民族などと書いたりもするが、それらは便宜上同義語であるとし、いずれも政治的な塩っ気を抜いた言葉のつもりであることをことわっておきたい。しかしながらときに政治的課題にふれねばならないときには、ちゃんと両国の国名を書くことにしたい。(14頁上段)

 釜山に上陸してから、現地ガイドのミセス・イムとの楽しい会話をしながらの、非常にマニアックなピンポイントの旅が続きます。そして、しばしば脱線する話がおもしろいのです。韓国への親近感は、司馬が戦時中に日本軍の一兵隊として釜山にいた、というところにありそうです。
「僕はね、二十三歳のとき釜山駅に降り立ったんです」
 スーツ・ケースを持って――といえば旅情の匂う風景になるのだが、不幸にも中戦車を四輛持って降りた。貨車に縛りつけられている戦車のロープを解き、エンジンをかけてホームへ移動させ、一台ずつホームの傾斜からゆるゆるとおろすころには、他の小隊は目的地である西面廠舎に出発してしまっていた。当方はあわてて出発したが、西面廠舎へゆけ、ときいているだけでその西面がどこにあるのかさっぱりわからない。(後略)(31頁下段〜32頁上段)



■「新羅の旅」
 井上靖の『風濤』を例に引いて、モンゴル(元)の存在を次のようにわかりやすく説明します。
 十三世紀末の高麗朝を舞台とする井上靖氏の『風濤』を読んでもわかるように、高麗人にとっての恐怖は儒教的原理をもたない異民族が中国大陸の主人になることだった。
 元帝国の出現である。
 わずか百万そこそこのモンゴル人が、数億の漢民族を武力で征服し、礼教に拠らずして支配しはじめたのである。礼教の原理によらず、ごく生物的な膨脹への本能でもって元帝国は旋回しはじめるという歴史的異変が現出した。元帝国は高麗朝を武力でおどしはじめた。高麗の物産を収奪し、あげくのはては、
 −−日本を攻めよ。その費用を分担せよ。
と、恐喝した。高麗人は戦慄し、ほろんだ漢民族の南宋を、悲鳴をあげたくなるほどの思いでなつかしんだ。(78頁下段)

 なお、参考までに、私のブログで『風濤』について書いた記事を紹介しておきます。
「井上靖卒読(104)『風濤』」(2010年02月04日)
 総体に、司馬の解説は噛み砕いているので非常にわかりやすいと思います。
 「さて、話が外れた。」と言ってしばしば軌道修正を試みます。この道草談義が、実は楽しいのです。
 この章は、『慕夏堂記』と朝鮮軍に降伏した沙也可の話が興味深く語られます。
 倭とは何かを含めて、いろいろと考えさせられました。


■「百済の旅」
 旅を続ける中で、司馬の頭の中を駆け巡る歴史と文化と人間愛が、自然体で溢れ出づるままに語られていきます。読者は、その語りに耳を傾けながら、韓国の旅に随行していくのです。贅沢な体験です。
 日本人と韓国人の違いを、次のような逸話として伝えています。快調で歯切れのよい意見です。
 日本人というのは議論がへたで、村落の運営でも団体の運営でも、たとえば、ミセス・イムを選出してほぼその決めるがままに従って日本史をつくりあげてきた。それにくらべると韓国人は議論ずきで、ときに激烈に論をたたかわせ、結局はなにごともつくりだすことができなかったという例が多い。
 韓国の小学校などで、先生が、
「一人対一人になれば、韓国人のほうが日本人より能力においてすぐれている。しかし三人対三人になれば、日本人に負けてしまう」
 といって、韓国人がそれぞれ異を立てるという、いわば一面雄々しくもあるこの点を、社会や国家や物事をつくる上での重大な短所であるとして訓戒するそうである。(125頁)

 百済の旅の目的が、次のように明確に示されています。
私の旅の目的には、他国の政情観察というようなものはない。韓とか倭とかというものはなにかという原型を知りたいというのが、この「百済国」への旅なのである。すでに道路は古の百済国の版図のなかに入っていた。(126頁上段)

 この章での特徴は、「〜であろう。」とか「〜にちがいない。」という表現が多いことです。語り手は、大胆な想像を羽ばたかせ、思うがまま、信ずるがままに、自在に語っています。学者の説はともかく、読者としては安心してこの語り口についていけます。

[付記]
 出雲に生まれ半年前までは下鴨に住んでいた私は、次の蒲生と鴨と出雲系に関するくだりはしっかりとチェックしました。忘れないように、引いておきます。
 蒲生の地名は近江だけでなく、鳥取県、大分県など各地にある。鹿児島の蒲生は、カモと発音する。全国に無数にあるカモ(鴨・加茂)とおなじ意味をあらわす異字で、要するに蒲生とは古代出雲系の民族だったとおもわれる鴨族の居住地のことだったにちがいない。
「そうではないでしょうか」
 と、先日、蒲生郡の首邑である日野町の綿向神社の教育委員会に立ち寄って雑談していると、おりから居あわせた同町の宮司社信久氏は、
「私もそうだと思います。この蒲生郡には天孫系の神社がなく、出雲系の神社ばかりですから」
 と、賛成してくださった。ついでながら綿向神社の社家である社家は信久氏で二十四代つづいている。その家系は南北朝時代からはじまった。それ以前は純然たる出雲系の社家で、その社家は滅亡まで五十九代つづいたという。この蒲生郡の草分けの家系だったであろう。(158頁)

 
 また、これまでに本ブログで韓国のことを取り上げた記事は、以下のものがあります。参考までに新しいものから過去の記事へと、リストアップしておきます。司馬さんの紀行文とは直接は関係のないものが多いので、何かのメモとしてのリストです。

「映画雑記『見えない目撃者』(韓国映画・字幕版)」(2020年10月10日)

「春日野での茶道文化講演会で高麗茶碗の話を聞く」(2019年06月09日)

「読書雑記(226)宮脇淳子『日本人が知らない 満洲国の真実』」(2018年05月29日)

「翻訳本『源氏物語』の展示は《中国・韓国・インド編》に衣替え」(2017年06月02日)

「朴光華先生のハングル訳『源氏物語』」(2010年07月05日)

「仁川空港のウォーキング大会」(2010年01月23日)

「あえて仕事を作っていた仁川空港」(2010年01月09日)

「ハングル訳『源氏物語』その後」(2009年01月28日)

「ハングル訳『源氏物語』の不確かな情報」(2009年01月18日)
 
 
 

 
posted by genjiito at 21:37| Comment(0) | □司馬街道