司馬遼太郎氏がモンゴルに行ったのは1973年8月でした。その当時のモンゴルについては、よくわからない国だったようです。その行程も、私が行った37年後の2010年とはまったく違います。
新潟で一泊した。
ここからハバロフスクまで定期航路がひらかれているのである。モンゴルへは、おそらく今後もじかにゆけることはあるまい。ソ連を通らねばならない。われわれはハバロフスクで一泊し、次いでイルクーツクで一泊し、そこのモンゴル領事館でヴィザをもらい、三度目の乗りかえで、ようやくモンゴル高原へ飛びたつことができるのである。(171頁)
私は、2010年1月に成田発のモンゴル航空でウランバートルへ行きました。直行便ではなく、韓国の仁川で乗り継ぐ便です。到着したウランバートルはマイナス34度でした。司馬氏は8月の旅なので、気候については私とはまったく違います。しかし、書かれている印象記はよくわかります。
私の旅行記は「
「マイナス34度のウランバートルに到着」(2010年01月10日)」以降の日々の記録をご笑覧ください。
司馬氏の話は、ロシアのことが長々と続きます。両親がいた満州のことなども言葉を尽くして語られます。ただし、モンゴルのことが主題なので、ここでは言及しません。
イルクーツクにおいて、モンゴルへの入国査証についての話は、私もいろいろな国で体験していることでもあり、我が事のように成り行きを見つめました。何とかなるものなのです。
三分の一を過ぎたあたりから、やっとモンゴルの話になります。
モンゴル人が中国を嫌う理由が、次のようにわかりやすく紹介されます。司馬氏の言葉遣いが辛辣なので、煩を厭わず長文を引きます。
モンゴル人は遊牧の民のせいか、性格が大らかで素朴で、感情を剥き出しにして他民族を憎悪するところがすくないが、地つづきの大地に住む漢民族に対してだけは、生まれる以前からきらいだというところがある。
その理由は、まず民族としての業種がちがうということがあるであろう。遊牧と農耕は同じく大地に依存しつつも、遊牧者は草の生えっぱなしの大地を生存の絶対条件とし、農耕者は逆に草をきらい、その草地を鍬でひっくりかえして田畑にすることを絶対条件としている。かつて内蒙古(いまは中国の一部)で、遊牧圏と農耕圏が入りまじっているあたりでは、このための紛争が絶えなかった。(220頁下段)
(中略)
「蒙古」
という漢民族がことさらモンゴルの音に当てた漢字には、馬鹿、無智という意味と語感が重なっている。農民的政治感覚や商人的経済感覚からみれば、遊牧という素朴な生産社会の中にいる人間など、阿呆としか見えず、だましやすかったにちがいない。
軍閥時代においても、モンゴル人は、漢民族の官吏から見放されていた。中国の官吏は伝統的に農作物を収奪する上に立っているため、農民と遊牧民とのあいだに紛争がおこれば、かならず農民側に付き、モンゴル人には味方しない。
遊牧のモンゴル人からみれば、
「中国人」
という語感は、奸智、高利貸、富裕、軍隊、役人といった印象の総合だったにちがいない。(221頁下段)
私の父は、終戦後の3年間、シベリアに抑留され、強制労働をさせられたことは、先日の
「敬老の日という祝日は必要でしょうか?」(2022年09月19日)の文末に書きました。1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦布告をし、満洲に侵攻してきたのでした。この頃、ハルビン市やチチハル市にいた両親は、ソ連の軍事侵攻と日本の敗戦に伴い、父はシベリアへ、母はさすらいながら日本へと移動しました。まさに、母は『桜子は帰ってきたか』(麗 羅)の世界を体験していたのです。そして、亡くなる前には、中国残留孤児のニュースを常に気に留めていました。こうしたことに関して、司馬氏はソ連について次のように憤りを隠さずに言います。
私は、敗戦のときにソ連が多数の日本人を捕虜にし、シベリアからウクライナ、あるいはモンゴルにいたるまで、広大な地域で奴隷労働をさせたことについて、言いがたい感情をもっている。そのソ連の国家行為をむしろ正当化する言い方はある。反省すべきは日本帝国主義の罪悪のほうではないか、とたとえ言われたところで、私は大人だから、子供のように言いくるめられるわけにはゆかない。連れてゆかれた人が私と同世代のひとびとだっただけに、国家次元の問題よりも、人情としてやりきれない思いを持たざるをえず、国家論抜きのいわば婦女子の情としてである。
当時のソ連は、旧満州でひっからげた日本人捕虜をモンゴルにも配給した。モンゴルだけでその数は一万三千八百四十七人だったという。二ヵ年の抑留中、そのうちの一割強(千六百八十四人)が死んだ。(234〜235頁)
父は日本人の捕虜としてシベリアに送られました。この時、モンゴルに送られた日本人の捕虜もいました。父がなぜシベリアだったのかは、何も聞いていません。私はモンゴルに行った折、この日本人捕虜の墓地を訪れました。このことは、
「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」(2010年01月17日)に詳しく書いています。その後、これに関連した話題は、
「モンゴル出身力士の千昇さんと両国で語る」(2019年02月17日)でも触れています。参考までに。
なお、父は1916年生まれ、司馬氏は1923年生まれなので、同世代と言ってもいいでしょう。
満洲では馬の医者だった父は、その川柳における雅号を馬蹄と言っていました。司馬氏の文章にも、馬の話がよく出てきます。モンゴルの紀行文なので当然です。私も、ウランバートルの郊外で馬に乗りました。参考までに、私の雄姿(?)と背後のパオをご覧ください。

司馬氏の話題はキントウンに乗った孫悟空のように、至るところに飛んでいきます。その中で、日本の古典文学に言い及んだ箇所も指摘しておきましょう。ここで、「中国にあっては、『源氏物語』の研究者さえいないという事情」と言っていることの背景は、今が盛んであるだけに、後で調べてみたいと思います。
――モンゴルの秘められたる歴史。
というのである。ときに『蒙古秘史』ともいわれる。また最近、平凡社の東洋文庫シリーズで、村上正二氏の精密な訳注により、『モンゴル秘史』という書名で刊行された。元朝秘史よりモンゴル秘史として定着してゆくほうが、もとの書名に忠実かもしれない。
この書物は、かつてユーラシア大陸を往来した草原のひとびとの秘密を説く宝庫として、十九世紀以来、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、日本、ベルギーなどの学者によって精力的に研究され、戦後さらに、モンゴル学・アルタイ学の参加者のひろがりによって、その研究がさかんになった。日本の『古事記』や『万葉集』は、残念ながら、まだこれほどの世界性をもたない。また隣国の中国において、これについての、あるいはひろくモンゴル学についての著われた学者を見ないのは、中国文明の伝統的特徴という点で、興味がある。自己の文明の周辺に文明は存在するはずがない(事実、それに近いが)というもっとも高貴な保守性のためであろうし、このことは中国にあっては、『源氏物語』の研究者さえいないという事情と、やや通じている。(308頁下段)
車中で、彼女は私に質問されるままに、モンゴルにおける日本語研究の状況を話してくれた。
「研究という所までいっていないけれども、学生のあいだに日本語熱は高いです」
と、彼女はいった。
ウランバートル大学の文学部には、ロシアやフランス関係の学科はあっても、日本文学科とか、日本学科というものはまだない。しかし、近く設けられるという話もある、と彼女はいった。
同大学には正規の講座はないが、日本語研究会といったものがあって、参加者が年々ふえている、という。
「『モンゴル秘史』や『アルタントプチ』の研究をしている学者が、日本のその方面の研究を、日本語で読めるようになると、便利でしょう。きっと便利だと思います」(312頁下段)
司馬氏の文章は、現地の様子を見て来たようにと言いたいほどに、見たまま感じたままで綴られています。そして、対する人の心の中を活写します。旅行記ではなくて、問はず語りです。モンゴルは初めての訪問ということもあり、歴史や地理よりも、情景や人情に重きが置かれているのです。
読者としての私は、自分の現地での見聞を思い出しながら、楽しく読みました。
※私の問題意識から、文字に関して指摘をしている箇所を、メモとして抜き出しておきます。これは、変体仮名の「天・弖・氐」に関するものです。
「氐という文字は低に通じ、卑しいという意味が重なっている。」(225頁上段)
posted by genjiito at 23:39|
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□司馬街道