2016年07月21日

国冬本「鈴虫」の長文異同(その3-【給】と【侍】)

 国冬本「鈴虫」巻において、諸本にはない539文字もの長文の異文がある箇所の前後に、どのような文字が使われているのかを確認しています。
 特に、二千円札で有名になった「十五夜の夕暮に〜」の直前にある長文の異文は、どのような意味を持つのかを考えようとするものです。

 なお、昨日書き忘れたことを補っておきます。
 ここで抜き出した3箇所の文章は、「長文異同(539字)」とほぼ同じ分量でその前後にあり、意味の上からも切れのいい箇所を取り出したものです。そして、「異同前(539字)」の文字数が539文字なのは、偶然に「長文異同(539字)」と一致したものです。

 今日は、【給】について見ます。併せて【侍】についても触れます。


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 ここで検討対象とする3箇所で語られている内容については、今は吟味をしていません。物語の内容と用字は密接に関連するものなので、当然それを語る用字に話の内容が強く関係します。また、語学的な視点での解明も必要です。しかし、ここでは書写された文字の違いという現象にだけ注目し、その外形的な違いを確認しているところです。

 ここで【給】については、「異同前(539字)」で15例、それに続く「長文異同(539字)」で7例、「異同後(537字)」で6例見られます。「15−7−」です。
 さらに細かく見ると、「【給】て」が「異同前(539字)」で4例、それに続く「長文異同(539字)」で0例、「異同後(537字)」で2例見られます。「4−0−」です。
 その他でも、「給」に続く文字を見ていくと、さまざまなことを考えさせてくれます。「長文異同(539字)」にある「【給】えり个り」の「え」という語尾の表記も気になります。
 なお、この「給」を平仮名で表記した例は、今回切り出した3箇所には1例もありませんでした。
 さらには、今回抜き出した中で「異同後(537字)」に1例だけ見られる「【侍】へ連と」も、「給」と一緒にその使われ方を考える際に参考となるものです。

 国冬本「鈴虫」におけるこうした文字使いを見ていると、私が仮説として提示したことが、外形的な様態からも可能性が高いのではないかと思われます。
 昨日記した私見を、ここに再度引きます。


物語が、上記表の真ん中に位置する「長文異同(539字)」を破棄した後に、それを挟むようにして存在する旧「異同前(539字)」と新「異同後(537字)」をつなげることで、現行の「鈴虫」が構築されているという拙著『源氏物語の異本を読む−「鈴虫」の場合−』で述べた仮説は、ここでの用語例の出現傾向から見て、決して的外れなものではありません。


 この検討は、さらに続きます。続きを読む
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2016年07月20日

国冬本「鈴虫」の長文異同(その2-【御】と【心】)

 昨日の記事で提示した、国冬本「鈴虫」における539文字もの長い異文は、中秋十五夜の遊宴の場面の直前にある独自異文です。
 これは、二千円札に印刷されたことで広く知られるようになった、国宝源氏物語絵巻詞書の「十五夜の夕暮に〜」という文言の場面に当たります。

 なお、この二千円札の詞書は、二種類伝わる「鈴虫」の絵と詞の内の第一場面のものであり、二千円札の左上の絵とセットのものではありません。二千円札に採択された絵は第二場面です。第一場面の絵巻詞書の冒頭にある、タイトルとしての「すゝむし」という文字列がほしかったがための選択かと思われます。(拙著『源氏物語の異本を読む−「鈴虫」の場合−』29頁に詳説)

 さて、国冬本に長文異同がある箇所の前後に関して、その字数に近い分量の500文字程を切り出して、使われている語句を字母レベルで較べてみましょう。

 これは、私の仮説である、「十五夜の夕暮に〜」の直前でこの「鈴虫」巻は当初は終わっており、その長文を破棄した後に「十五夜の夕暮に〜」を書き足したのではないか、という提言の可能性を考えるヒントを得るためにも有益な検討となるものです。

 ここでは、「御」と「心」に関する用例を見ます。

 次の表で、左端の「異同前(539字)」は539文字もの長い異文の前にある文章の一群から抜き出したものです。
 右端の「異同後(537字)」とある列は、539文字もの長い異文の後の「十五夜の夕暮に〜」以降の文章の部分からの抜き出しです。


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 漢字「御」で始まる語句については、「異同前(539字)」に7例、「長文異同(539字)」に2例、「異同後(537字)」に3例見られます。「7−2−」です。
 さらに、「御心」については、「3−0−」です。

 このことは、「心」という漢字の出現数からも似た傾向がうかがえます。
 「異同前(539字)」では3例、「長文異同(539字)」では8例、「異同後(537字)」では3例なので、「3−8−」となります。

 この「御」と「心」の出現傾向から、「異同後(537字)」の「十五夜の夕暮に〜」は、その前とは異なった本文の様態を見せているといえます。

 この事例から、「鈴虫」の物語は、「異同前(539字)」と「長文異同(539字)」で一旦は終わっていたと想定する私見の妥当性は否定されないと言えるでしょう。
 物語が、上記表の真ん中に位置する「長文異同(539字)」を破棄した後に、それを挟むようにして存在する旧「異同前(539字)」と新「異同後(537字)」をつなげることで、現行の「鈴虫」が構築されているという拙著『源氏物語の異本を読む−「鈴虫」の場合−』で述べた仮説は、ここでの用語例の出現傾向から見て、決して的外れなものではありません。

 また、「異同後(537字)」には「へ多て【心】」という、その前にはない形の使用例もあります。

 今、ここではそれぞれの文章の意味は考慮せずに、あくまでも切り出した範囲内で使われている語句の様態と用例数からの分析に留めています。

 こうした検討は、さらに用例を広げて見ていくことで、より説得力を持った結論へ導かれるものだと考えています。

 以下、「その3」に続きます。
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2016年07月19日

『源氏物語』国冬本「鈴虫」の長文異同(その1-問題点)

 天理大学付属天理図書館が所蔵する国冬本『源氏物語』の「鈴虫」巻は、鎌倉時代末期の写本です。それは、長大な異文が散在する貴重な写本です。

 藤原定家が書写した〈いわゆる青表紙本〉などと較べると、377文字もの異文が挿入されていたり、これまでの写本にはない539文字もの長い本文があったりします。539文字のものは、源氏物語絵巻詞書の直前にあるものです。この絵巻詞書の冒頭の文章は、二千円札の裏面に印刷されています。

 池田亀鑑はこの国冬本「鈴虫」巻の本文を、『源氏物語大成』に収録しませんでした。他の巻は校合に用いているのに、この国冬本「鈴虫」は外されたのです。
 そこで、私は『源氏物語別本集成』の第十巻に、この国冬本「鈴虫」の正確な翻字を収載しました。

 その後、二千円札が出回り始めた頃に、『源氏物語の異本を読む−「鈴虫」の場合−』(臨川書店、2001年)を刊行しました。


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 そこでは、次のような仮説を提示しました。
 特に、二千円札に印刷された絵巻詞書の直前にある539文字もの文章に関する私見には、まだどなたからも反論や評価をいただいていません。ここに一部を再掲して、問題点の所在を確認しておきます。
 
《その1》

 この異文の特徴は、文字数において長いばかりでなく、また話題転換部分である以外に、この異文の中に七人もの人物が登場することです。そこには、女三宮・薫・光源氏・小侍従君・柏木・夕霧・一条御息所の動静が語られるのです。特に、柏木の乳母の姪で、柏木を女三宮のもとに手引きした小侍従君は、流布本本文では、第三十四巻「若菜上」・第三十五巻「若菜下」・第三十六巻「柏木」の後、第四十五巻「橋姫」に登場する人物です。また一条御息所は、朱雀院の更衣で落葉の宮の母親です。婿柏木の早逝に娘の薄幸を嘆き、さらには夕霧と娘の仲を苦慮し、夕霧の誠意を確かめるために消息を送るのですが返事がない中で、夕霧の冷淡さを恨みながら死去するのです。流布本によれば、第三十四巻「若菜上」・第三十五巻「若菜下」・第三十六巻「柏木」・第三十七巻「横笛」の後、第三十八巻「鈴虫」を飛び越して第三十九巻「夕霧」、そして第五十三巻「手習」に登場します。こうした人物の「鈴虫」のこの場面での登場は、どのような意味を持つのでしょうか。私は、物語作者が、ここでひとまず筆を擱いた時の本文の姿を伝える異文ではないか、と思っています。第二十一巻「少女」や第三十三巻「藤裏葉」において、登場人物の多くが呼び出されていたことに思いを致すからです。この国冬本の長文異文が、「鈴虫」の後半から次巻「夕霧」が執筆される以前に存在したと思われる本文の断片と見るのは、空想に過ぎないのでしょうか。(157〜158頁)

 
《その2》

破棄された本文の再活用という事例の確証は、いまのところは得られていません。しかし、今後とも注目したいパターンの異文であることに変わりはありません。
 こうした異文の例は、「輝く日の宮」巻を廃棄した後の再利用の可能性などと関連する問題として、いろいろと想像を掻き立ててくれるものです。今後とも、さまざまな視点で読み解いていきたいものです。(161頁)

 
《その3》

言経本が、国冬本の異文の冒頭と末尾だけを伝えていることの意味は何なのか。私は、これも先にお話したように、貼紙形式で貼付されていた異文表記があまりに長文であるがために、その首尾だけ残して伝えられたために生じたものと考えています。いわゆる、「〜」「……」という省略記号による手法の一つではなかろうかと。いずれにしても、言経本が伝えようとした本文は国冬本と同種のものであることは明らかです。(162頁)

 
 今回、この国冬本「鈴虫」巻を「変体仮名翻字版」で翻字したものを確認しながら、これまでの翻字方法ではわからなかったことを何回かに分けて整理して報告します。
 不定期ながらも続きますので、気長にお付き合いください。
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2016年07月15日

歴博本「鈴虫」巻の気になる変体仮名の表記

 日比谷図書文化館で読み進んでいる歴博本「鈴虫」で、気になる変体仮名の例をあげます。

(1)「遊くれ」(7丁裏3行目)


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 現在私が確認を終えた「鈴虫」巻34本の写本の中では、この箇所は東大本が「夕に」としているだけで、それ以外のすべては「夕暮」か「ゆふくれ」「夕くれ」となっています。国宝の『源氏物語絵巻詞書』の「鈴虫」で、ここは「遊ふくれ」しています。二千円札にも印刷されているところなので、お手元にあれば確認してみてください。
 ここで歴博本が「遊くれ」としているのは、「遊」を漢字と認識して「ゆふ」と読んでのものではなく、あくまでも「ふ」の脱落とすべきものかと思います。
 他本での「遊」の用例を点検したいところです。しかし、これまでの『源氏物語』の翻字がすべて明治33年のひらがなを1つに統制した後の表記でなされている不完全な翻字しかないので、私のもとで進めている「変体仮名翻字版」のデータが集積するのを待つしか、確認の方途はありません。
 『源氏物語』の本文を考えていく上で、『源氏物語』の翻字ですら不正確なものしかないというインフラの整備がなされていない現実を、こんな時に痛感します。ここでは、問題点の1つとして提示しておきます。

(2)「あ弥陀」(8丁表2行目)


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 現在私が確認している「鈴虫」の34本の写本の中では、日大本が「阿みた」であり、それ以外のすべては「阿弥陀」か「あみた」となっています。
 ここで語頭を「あ」とするか「阿」とするかは、何か背景があってのものなのか、今はよくわかりません。この歴博本「鈴虫」が伝称筆者を「伝慈鎮筆」としているように、私もお坊さんかその周辺の文化圏で書写されたものだと思います。とすれば、仏教用語の扱いが漢字に統一されていない表記に、いささか戸惑います。日大本が「阿みた」としているので、この「あ」「阿」の使い分けが、何かあったのかもしれません。
 表記の問題として、しかも仏教語に関するものとして、その一例をここに提示しておきます。

(3)「野へ」(8丁表7行目)


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 現在私が確認している「鈴虫」の34本の写本の中では、陽明本・国文研正徹本・伏見天皇本・国冬本・東大本・国文研俊成本・LC本の7本が「野辺」であり、絵入源氏・湖月抄・尾州家本・高松宮本、為家本、河内大島本、鳳来寺本、明融本の8本が「野へ」で、それ以外の9本は「のへ」となっています。
 ただし、国文研俊成本だけは「野辺」の「辺」に「へ」と傍記があります。
 私が「へ」の字母を問題とするのは、この歴博本「鈴虫」の箇所の翻字を「野部」としたほうがいいのではないか、との思いがあるからです。
 一般的に、「へ」の字母は「部」の旁のオオザトの省略形だとされています。しかし、私はこの見解に違和感を覚えます。私は「辺」の「刀」が「へ」となったのではないか、と思うからです。
 これに関しても、「変体仮名翻字版」による翻字を1本でも多くやり遂げることで、用例を多数集積してから、あらためて考えたいと思います。
 なお、歴博本「鈴虫」に「野」は、もう一例「古野/$【此】」(ミセケチの例)があるだけです。
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2016年07月03日

池田本『源氏物語』が高精細カラー印刷で刊行開始

 待ち望んでいた『源氏物語』の池田本(第3期第1回配本)が、八木書店より刊行開始となりました。
 この池田本は「新天理図書館善本叢書」の中において、全10巻セットとして今後2年で完結するものです。


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 本巻には、「桐壺・帚木・空蟬・夕顔・若紫」の5帖を収録しています。
 岡嶌偉久子さんによる詳細な解題は、次の2編と付編で構成されています。


『源氏物語 池田本』解題 −書誌的概要

各巻の書誌的事項 −桐壺・帚木・空蟬・夕顔・若紫−

〔付〕池田本と伝明融筆臨模本 −書写様式・合点その他の様相から− 桐壺・帚木巻


 本書のカラー印刷については、かねてより八木書店の会長より伺っていました。
 池田本については、次の記事に述べたことにそのすべてを譲ります。

「千代田図書館の調査中に八木書店の会長と池田本談義」(2014年12月04日)

 この記事の末尾で、「翻字確認と字母翻字および校訂本文と各巻の小見出しを作成する仕事をお手伝いしてくださる方を募ります。」と記しました。
 しかし、この作業は遅々として進展していません。すべて私の段取りの悪さからであり、バタバタするばかりの日々の中で停滞しています。お待ちの方々には、本当に申し訳ないことです。

 今回、池田本の精彩な影印版が刊行されたことを契機に、「翻字確認・字母翻字・校訂本文・小見出し」の作成をさらに推進させることにします。
 影印本が全国どこでも見られる環境ができたので、この翻字などの仕事がやりやすくなりました。そのためにも、全国の公共図書館や大学などで、本叢書を配架してくださることを希望します。次の世代が『源氏物語』を読む上で、この池田本は基本資料となるものだと確信しています。
 また、活字本による『源氏物語』の研究だけに終始せず、少しでも多くの方が古写本に接しながら、日本の文化としての変体仮名を読むスキルを次世代に継承するためにも、この本は意義のあるものだと思います。

 そこで、池田本の「翻字確認・字母翻字・校訂本文・小見出し」のお手伝いをしてくださる方を、あらためて募ります。
 本ブログのコメント欄を通して連絡をください。
 新しい『源氏物語』の受容環境を構築するためにも、意欲的な協力者と参加者をお待ちしています。

 この池田本に関するプロジェクトは、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉の主要な事業でもあります。一過性のものではありません。私が作業に関われなくなっても、NPO法人として末長く継承し更新されますので、安心して翻字および校訂の仕事に協力してください。
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2016年06月28日

古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の再確認(その5)

 今回も、「変体仮名翻字版」を作成する際に翻字作業で使う、付加情報としての記号の説明をまとめておきます。以下にあげたものは、従来の使い方と大きく異なるものではありません。

 これは、阿部江美子さんが作ったマニュアルを元にして、再編集したものです。
 これまでのものは、以下の通り本ブログにアップしています。
 参考までに、もう一度列記します。
 
「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その1)」(2015年09月25日)
 
「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その2)」(2016年03月19日)
 
「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その3)−改丁(改頁)に関する新方針」(2016年05月06日)
 
「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加と補訂(その4)」(2016年06月27日)
 
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【補入】記号(「+」(「○」「・」等)
例一 おかた/お+ほ・・・本行「おかた」の「お」の次に「ほ」の補入
例二 ほかた/+お・・・文節の第一字目が補入となっている場合
例三 /+おほかた・・・文節全体が補入となっている場合
例四 おかたおかしき/前お+ほ・・・前の「おかた」の「お」の次に「ほ」を補入
   おかたおかしき/後お+ほ・・・後の「おかしき」の「お」の次に「ほ」を補入
   おかたおかたおかしき/前2お+〈朱〉ほ〈朱〉・・・前から二番目の「お」の次に「ほ」を補入(補入記号、書き入れともに朱筆)
例五 くりて/く±た・・・「○(補入記号)」がなくて「た」を補入
例六 行末の右下に書き添えられた補入文字(ハーバード本「蜻蛉」520196)
    本とて/と±二
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【ミセケチ】記号「$」(「ヒ」「\」等)
例一 おほむかた/む$・・・本行「おほむかた」の「む」がミセケチ
例二 おほむかた/む$ん・・・本行「おほむかた」の「む」がミセケチで「ん」書き入れ(ミセケチ、書き入れともに墨書)
例三 けしき/$・・・「けしき」という文節全体がミセケチ
例四 けしき/$けはひ・・・「けしき」という文節全体がミセケチで「けはひ」と傍記
例五 しはしにも/後し$す・・・後ろの「し」をミセケチして「す」と書き入れ
例六 給へり/給へ$〈朱〉まい〈朱〉・・・ミセケチ記号と傍書が共に朱書き
例七 かほ/ほ$〈朱〉け歟〈墨〉・・・「ほ」を朱書きでミセケチ、「け歟」と墨書で傍記
例八 さしあたりて/あ$〈墨〉シア〈朱〉・・・「あ」を墨でミセケチ、朱書のカタカナで「シア」と傍記
例九 たくひなき/たくひ$〈墨朱〉ひま〈朱〉・・・墨と朱でミセケチ。朱筆で「ひま」と傍記
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【なぞり】記号「&」
例一 かけを/に&を・・・本行「を」の下に「に」と書かれている
例二 きこえむを/△&を・・・本行「を」の下に何の字か不明だが、その字の上に「を」と書かれている
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【合点】記号(朱書の場合は/〈朱合点〉)
例一 つなかぬふねの/〈合点〉・・・文節の第一字目「つ」のところが合点「\」がついている場合
例二 そのつなかぬふねの/つ〈合点〉・・・「つ」のところに合点「\」がついている
--------------------------------------
【濁点】記号〈濁〉
例一 いみしう/し〈濁〉・・・「し」に濁点が付されている
例二 きはきは/後き〈濁〉・・・後ろの「き」に濁点が付されている
例三 さま/\//\〈朱濁〉・・・「/\」に朱筆で濁点が付されている
例四 御てうとゝも/て〈濁〉、とゝ〈濁〉・・・「て」「と」「ゝ」に濁点が付されている
--------------------------------------
【その他の注意事項】
※書写状態を付加情報として記述する際、記入方法がわからない箇所には「?」を付ける。
※翻字や書写状態の記述で迷ったら、個人で判断せずに申し送り事項とする。
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2016年06月27日

古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加と補訂(その4)

 日比谷図書文化館で翻字講座に参加なさっているOさんから、『源氏物語』の写本を「変体仮名翻字版」に作り替える作業中に疑問に思われた、踊り字に関する質問を受けました。

 忙しさにかまけて、「変体仮名翻字版」の凡例の見直しが不十分なままになっています。こうして問い合わせを受けた機会に、少しずつ凡例を整備しています。

 これまでに、以下の通り3回に分けて凡例の追加や補訂をして、簡単な説明をしてきました。
 これらは、あくまでも「変体仮名翻字版」としての翻字データを作成する、作業上の共通理解となる凡例です。翻字データの利用者向けのものではないことを、あらかじめお断わりしておきます。

「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その1)」(2015年09月25日)

「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その2)」(2016年03月19日)

「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その3)−改丁(改頁)に関する新方針」(2016年05月06日)

 今回これらに続き、【漢字・仮名・記号・その他】に関する凡例の補訂版「その4」としてアップして確認しておきます。

 現在、『源氏物語』の「変体仮名翻字版」のデータ更新をしてくださっている方々や、今後このNPO法人〈源氏物語電子資料館〉の翻字活動に協力してくださる方は、この一連の凡例を折々に確認していただけると、よりよい翻字データが受け継がれていくことになると思います。
 今後とも、ご理解とご協力のほどを、よろしくお願いします。


【漢字・仮名・記号・その他】



1 基本的に、書写されているそのままを翻字。以下の場合は要注意。
 漢字表記は【 】で括る。
 例 「【女御】」(「め【御】」とはしない)、
   「【更衣】」(「【更】え」とはしない)、
   「【左近】」(「さ【近】」とはしない)、
   「【御衣】」(「【御】え」とはしない)、
   「【上達部】」(「【上達】へ」とはしない)、
   「ひめ【君】」(「ひ【女君】」とはしない)、
   「【侍】(6ウ)」【覧】」(改丁箇所で泣き別れとなる場合は別個に処置)
   「ゐ【中人】」(平仮名と漢字が混在するものは、漢字の部分のみを亀甲括弧で括る)
  熟語の漢字部分の表記。
 例 【雲】井(「井」は当て字として漢字にはしない。「【雲居】は熟語とする」
  二種類の語意が共存している場合は、それぞれを漢字として【 】で明示。
 例 「【御事】」(「【御】【事】」としない)
   「【物思】ひ」(「【物】【思】ひ」としない)
 例 「【給】【京】へ」(「【給京】へ」としない)
 例 「【入道】の【宮】」(「【入道の宮】」「【入道乃宮】」としない)
2 旧漢字はすべて新漢字にする。
   萬→万、哥→歌、佛→仏、條→条
3 「【見】る」などで「【見】」を活かす場合は、そのまま「【見】る」とする。
   「【形見】」「【見】くるし」などの場合も同様。
   「【身】つから」「【世】けん」「すく【世】」も漢字の意味が活きているものとする。
4 「けしき」「けはひ」の「け」が「気」の場合はそのまま(「気」を残す)とする。
   「をかしけなり」などの「け」は、そのまま仮名にしておく。
5 踊り字は、基本的に書写されているままの記号・符号で翻字。
 例 「【人】/\」
  従来は「人々」としていた。
  ただし「々」が用いられている場合は「【人】々」)。
  これは「/\」や「々」を記号として扱うことによるもの。
  従来は、翻字記号を統一して、電子データ固有の検索の手間を一元化する処置をしていた。
  文節が、「ゝ」または「/\」ではじまる場合。
   ( )内に踊り字を開いた形を付して、当該文節が踊り字で始まらない形を明示。
 例 おほしゝを・ゝしからぬ(をしからぬ)
6 虫損などにより、文字の一部がわからなくても、残っている部分から類推できる場合。
 例 ・・・/□〈判読〉
7 虫損、汚れなどにより、文字がまったくわからない場合は、その字の部分を△とする。
8 明らかに誤字脱字の場合。
  入力ミス等、見落としではないことをはっきりさせる場合には〈ママ〉を付す。
 例 たてまつつるに/つつ〈ママ〉
9 「ハ」「ミ」「ニ」はひらがな表記で統一。
  ただし、明らかにカタカナである場合はそのまま記す。
10 本文注の朱句点「・(赤字)」、墨句点または句点のない場合は、その旨を巻名の最初に記す。
  「朱点」「墨点」「句点なし」は、本文中には入れない。
11 注記が複数の時。
 例 色にも/△&に〈判読〉、も&も、も$〈朱〉・・・読点で区切る
  その注記内にさらに注記がある時。
 例 そしりをも/も+え、傍え=へ〈朱〉
  補入文字の「え」の右横に「へ」と朱書きの文字が傍記されている。
12 削除された文字(塗り消しや擦り消しされた文字)。
 例 なりぬるか/か〈削〉
13 紙面の一部がくり抜かれたような穴となり、文字が欠落している場合。
 例 お△かた人の/△〈破損〉
14 和歌の始発部と末尾には、カギカッコ(「 」)を付す。
15 底本の語句に対応する本文(文節箇所)が対校本文に存在しない時は「ナシ」と表記。
16 落丁の該当箇所には、「ナシ/落丁」と明示。
17 「も」と「ん」について。
   当然「も」と読むべき「ん」でも、表記された字形を優先して書かれているままの文字で翻字。
18 写本に記入された倒置記号について。
   ○印と引き込み線やレ点などを用いて、字句の転倒を正す符号が付された本文箇所
 例 とやまも/記号ニヨリ「とまやも」
19 付箋に異文などの記載がある場合。
  「あしき/=かなしき〈付箋〉」として傍記扱いとする。
20 異本異文注記が上部余白部分に記されている場合。
  「人や/人$我イ〈上空白部〉」として対処。
21 注記混入かと思われるものが本行に書写されている場合。
  「/本行書写」として対処。
22 本行本文に割り注がある場合。
  「よ/(割注)常陸守取婿(改行)少将たかへす」として、本文に関わる付加情報として注記。
23 底本の和歌に関して、一首全体が補入となっている場合。
  「いせ人の/コノ歌ハ補入」とする。
24 ミセケチ記号(「ヒ」「\」等)や補入記号(「○」「・」等)。
   また書き入れ等が朱筆で書かれている場合は、「〈朱〉」「〈朱合点〉」「〈朱濁〉」等の記号を用いる。
   墨筆であることを強調する場合は、「〈墨〉」等の記号を用いる。
 例 いみしう/し〈朱濁〉・・・「し」に朱筆で濁点が施されている。
 例 はねを/〈墨朱合点〉・・・「は」に墨筆と朱筆で合点が施されている。
25 文字に清音で読む事を示す記号がついている場合。
 例 あつしく/つ〈清〉・・・「つ」に清音で読む事を示す記号が施されている。
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2016年06月18日

刺激的だった「第3回 古写本『源氏物語』の触読研究会」

 今日は、私が主宰する2つの研究会を、同じ会場で午前と午後に分けて開催しました。


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 プログラムは、予告したように以下の通りです。


(1)挨拶(伊藤鉄也)
(2)2015年度の研究報告(伊藤鉄也)
(3)2015年11月から2016年6月までの活動報告(関口祐未)
(4)研究発表「視覚障碍者による絵巻研究の方法」(尾崎栞)
(5)研究発表「日本語漢字不可欠論再検討
    〜漢字がないと同音異義語でこまるのか?〜」(中野真樹)
(6)研究発表「触文化研究の課題と展望
    ―「無視覚流」の極意を求めて」(広瀬浩二郎)
(7)共同討議(質疑応答、用語確認と実験方法など、参加者全員)
(8)連絡事項(関口祐未)


 全体の内容等については、後日ホームページ(「古写本『源氏物語』の触読研究」の「研究会報告」でお知らせします。今少しお待ちください。

 さて、本日の研究会も、刺激的な内容に満ちた2時間となりました。昼食を兼ねた懇親会を含めると4時間もの長きにわたり、みんなで語り合いました。

 研究会が始まる前から、触読の話で盛り上がっていました。

 右利きと左利きで、点字を読む効率に差があるのか、とか、人間の人差し指は脳の神経支配と関連していること。
 変体仮名が読めているかどうかを判断するのには、資料を模写してもらうとよい、ということでした。この指摘は、現在進行している調査と実験実証において、さっそく実際に取り入れたいと思います。

 4人の全盲の方が参加されていたこともあり、ご自身の実体験を踏まえた具体的な事例を元にした情報交換会となったので、貴重な勉強の場となりました。


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 私は、点字を読むことと墨字を読むことの意義について、あらためて考えさせられました。
 また、文章を解釈する上で、目が見える人と見えない人で違いがあるとしたら、どのような解釈の違いが認められるか、というテーマにも挑戦すべきです。
 作者が言いたいこと、伝えたいことの核心を、見えない人がより的確に読み取ることもあるように思われます。この、思われます、という点を検証する必要がある、と思いました。

 触読に関する調査研究は、まだまだ可能性があります。
 今後の成果を楽しみにしてください。
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2016年06月16日

歴博本「鈴虫」巻だけにある変体仮名「遅」

 変体仮名を意識して『源氏物語』の古写本を読んでいると、いろいろとおもしろいことに出会います。

 歴博本「鈴虫」に、変体仮名の「遅」が3例出てきます。
 しかもそれは、非常に近接した場所にだけ見られます。


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能遅のよ尓 (4ウL9)
(のちのよに)

う遅那可 (5オL1)
(うちなか)

者遅春者越 (5オL2)
(はちすはを)


 カッコ内に示したのは、明治33年に1字に統制された、現今のひらがなを用いて翻字したものです。この統制後のひらがなで翻字をしている限りは、今回のようなおもしろさには気付きません。

 この「遅」は、歴博本「鈴虫」のツレとされるハーバード本「須磨」と「蜻蛉」には、まったく出てこない文字なのです。

 上の画像でもわかるように、折の真ん中に綴じ糸があるので、折の一番内側の見開きの丁にあたる、そのまた真ん中に3例が集まっています。

 今、私には、この書写状態における「遅」の使われ方が意味するところを、うまく説明できません。
 この点について、ご教示をいただけると幸いです。
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2016年06月13日

今週末の触読研究会での尾崎さんの報告内容を公開

 今週18日(土)に開催される「第3回「古写本『源氏物語』の触読研究会」のご案内」(2016年06月10日)に関連するお知らせです。

 発表者の一人である尾崎栞さんの発表原稿である「視覚障碍者による絵巻研究の方法」を、当該科研のホームページ「古写本『源氏物語』の触読研究」の「研究報告」からPDFで公開しました。

 尾崎さんが報告する内容は、目が見えない方や関係する方々に、一日も早くお知らせする価値があると思ったことからの対処です。障害をお持ちの方々と一緒に、元気や希望や夢を共有する上で、意義深いものだと思います。
 さらには、私が推進する【古写本の触読研究】に広く興味を持っていただきたい、との思いを後押しするものとなっています。

 尾崎さんは共立女子大学の学生さんなので、発表することから報告内容の公開までは、指導に当たっておられる先生のご理解をいただいています。多くの視覚障害者に刺激を与えることができる報告だとの思いを共有する中で、この内容を公開することに至りました。

 なお、インターネットに接続する環境はさまざまです。
 上記科研のホームページからはPDFで公開しました。
 しかし、それはA4版2段組みなので、スマートフォンはもとより携帯電話では読み難いかと思われます。そのことを考慮して、以下、ここではテキストで引用しています。
 PDFでご覧いただける方は、まったく同じ内容なので、以下はパスしていただいて結構です。
 


視覚障碍者による絵巻の学習方法



  共立女子大学文芸学部 文芸学科       
  日本語・日本文学コース(四年生) 尾崎 栞


    はじめに


 現在、視覚障碍者が日本美術史や古典文学を研究しようとした時、その方法は確立されているとは言い難い。視覚的な情報を一切得る事ができない中で、美術史や古典文学をどのように学び、研究していくべきなのか。私は大学入学直後から常に考えてきた。視覚的な部分を補う方法を模索し続けた結果、触察が有効であるという事が徐々に分かってきた。というのも、ふだん点字を使っている私は指先で何かを触る行為に非常に慣れており、何より点字は指で読んでいるから、それを応用する形で文字や絵を触察する事も可能だと考えたのである。

 触察と言う方法を用い、大学の先生や助手さんのご協力の元、一年次から目標としていた絵巻研究に、四年生になった今本格的に取り組んでいる。その方法を確立してきた過程を、当事者の視点から記録として記しておきたい。

 なお、絵巻の詞書や絵を立体化するまでの記録は、『平成26年度総合文化研究所助成「変体仮名教材作成の研究︱文学作品を中心に︱」に関する報告』(共立女子大学・共立女子短期大学 総合文化研究所紀要 第22号2016年、代表者 岡田ひろみ)を参考とした。

    一 絵巻研究をしようと思った経緯

 まず、私がなぜ絵巻に興味を持ったのか、そのきっかけを簡単に記しておきたい。

 私は大学に入学して初めて、日本美術史と言う学問領域がある事を知った。仏像や寺院、絵巻や曼荼羅など、制作された時代背景、作者、作品の特徴に至るまで、まだ分かっていないものはあるとはいえ詳細に研究されており、初めて知る事ばかりだった。そのような中で、どうしたら作品の形を覚える事ができるのか、という問題が生じた。美術史を勉強しようとするとき、作品の名前を覚える事は必須であり、作品を見て作品名と一致しなければ話にならない。もちろん作品名だけでなく制作年代も覚える。しかし私の場合、作品名や制作年代を覚える事はできても、肝心の作品の姿形が把握できないので、なかなか学習方法を?めずにいた。

 そんな時、授業中に先生がパワーポイントに映し出した作品を、スクリーンを引き出す棒でなぞってくださった。私はその音を聞いて、持っていた紙に作品の形を書き写した。授業後に先生に見ていただくと、ほぼ正確に作品の形を書き取れている事が分かり、この方法で作品の形を把握していく事にした。自分なりの勉強方法が分かった事で、日本美術史に対する興味は徐々に高まって行った。

 そして絵巻と出会ったのである。元々私は、日本の古典文学が好きだった。そこに絵が付属する絵巻物を初めて見た時の衝撃は、すさまじいものがあった。その時は「源氏物語絵巻」の画像とレプリカを見たのだけれども、文字だけでは表せないような世界観が絵によって一気に広がったように感じたのである。実際は見えていないにもかかわらず、絵巻の持つ強大な世界観に魅了されたのである。卒業論文では絵巻を取り上げたいと考えるきっかけとなった出来事だった。今となって思えば、自分が実際に目で見る事ができないからこそ、中身が気になり、いったい何がどのように描かれているのか明らかにしたいと考えたのであろう。

 とにかく、この出来事がきっかけとなり、絵巻研究がしたいという思いが生まれ、実現に向けて研究方法を模索する事になったのである。

    二 変体仮名の触読

 二年次の授業で、私は変体仮名の触読に取り組むこととなった。『首書源氏物語 夕顔巻』(和泉書院)をテキストとし、変体仮名を読めるようになるべく晴眼者の学生と共に、触読に挑戦したのである。この授業は私が所属する日本語・日本文学コースの必修科目であり、当時は絵巻研究をやりたい気持ちはあったものの、具体的なイメージが?めなかった。そのため、絵巻研究がしたいから変体仮名の触読に挑戦したというより、所属コースの必修科目に変体仮名を読む授業があったから挑戦したという方が正しい。私は変体仮名について知らなかった。つまりまったくの初心者だったのである。

 そのことを考慮した上での変体仮名の触読教材が、日本語・日本文学研究室で制作されていた。以下に教材制作に関して詳細に記した咲本英恵先生の「視覚障碍者向け変体仮名学習テキストの作成について」を引用する。

 テキスト作りの第一の問題は、文字の大きさであった。授業では、和泉書院が出版しているA5版の『首書源氏物語』を用いたが、この作品は、前述のように上下を半分に分け、上半分に古注釈本文、下半分に『源氏物語』本文が載る。本文部分には12行×18文字、およそ216文字の変体仮名が詰め込まれていて、頭注はさらに文字が細かい。そのまま立体印刷しても、文字が小さすぎて指が文字を判断できないから、拡大コピーをする必要がある。どれだけ拡大すればよいのかも見当がつかなかったから、ともかくまずは本文の半分の分量にあたる6行を、A3版に収まるくらいに拡大した。また、テキストの膨大化を避けて、授業で最低限必要な本文部分のみを立体化することにした。

 作業は試行錯誤である。本文の半分の分量にあたる6行をきりとり、倍率を変えて何パターンか拡大コピーする。採用したのは、6行を倍率400%、A4サイズに拡大コピーし、そのA4サイズの本文を、さらにA3サイズに拡大したものである。また、本文の翻刻は10.5ポイントで作り、同じく6行を倍率200%でB4サイズにし、それをさらに倍率150%に拡大、さらにA3版に拡大した。

 次の問題は、文字の触読のしやすさにあった。小さい文字を拡大すれば、文字の輪郭はがたがたになり、直線はぼやけてしまう。それが「あ」や「ま」「め」など、交差する箇所の多い文字の触読を特に困難にさせた。また、コピー台が汚れていたために紙に無駄な点や線や影がカプセルペーパーに印刷され、立体印刷機によって浮かび上がったそれらが触読の邪魔をした。そこでカプセルペーパーに印刷する以前の拡大版テキストの文字を、輪郭を太ペンでなぞりあるいは修正液でけずることでなめらかな直線や曲線を持つ字に変え、文字のほかに余計な黒点や線がついていれば、それも修正液で消した。コピー機の印刷台の汚れもふき取った。(90〜91頁)

 このような手順で制作された教材を用い触読をした。授業中はTAの方がつきサポートをしていただいた。例えば、書き順は指を持って文字をなぞり教えていただいた。仮名字典を引く際もサポートをしていただいた。だが、そう簡単には読めるようにはならなかった。私は一五歳の時に失明したいわゆる中途失明者なので、もともと平仮名や漢字を読み書きしていた素養がある。そのため、平仮名に形が似ている「ひ」や「し」「の」などはなんとか読むことができた。しかし、その他の文字についてはなかなか触読することができなかった。また、仮名字典から該当する文字を探す事も困難であった。その問題は字母である漢字の下に「阿部のア」などと書いた点字シールを貼り、瞬時にその漢字が何であるかを分かるようにした。また、文字ごとにテープを貼り簡易的な枠組みを作り、文字を探しやすいようにする工夫をした。この工夫はとても効果的で、仮名字典から該当する文字が探しやすくなったので、触読の効率が飛躍的に上がった。

 しかし、やはり授業を一人で受ける事は最後までできなかった。他の受講生は読みながら、その場で翻刻をしていく。しかし私の場合、触読する事に精一杯でその場で翻刻して書き取ることはできなかったため、授業後にTAの方にメールで送ってもらっていた。その際は漢字の部分は「 」で囲い、点字で書いた時に分かりやすいようにしてもらっていた。このような工夫をしながら、私は半年間講義を受講した。

 授業の回を重ねる毎に触読に慣れ、読める文字が増えてきた。私の場合、一つの文字を空書きできるようになるまで繰り返し触る事で、文字の形を覚えていった。もちろん多くの時間を費やすことにはなった。しかし、読めたときの喜びは大きかった。その喜びは単に変体仮名が読めたことだけではなく、目の見える晴眼者の学生と同じ文字が読めたことに対するものだった。

 点字は視覚障碍者にとって大変画期的で便利な文字である。しかし、一般に普及しているとは言えず、盲学校を卒業すると読める人に出会う事は少ないのが現状であろう。もちろん私の通う大学には点字を読める人は一人もいない。そのため、私は孤独を感じていた。自分が書いた文字も誰にも読んでもらえないことはもちろん、配付される資料もその場では読む事ができない。そんな状況下で、変体仮名を立体印刷することで、晴眼者と同じ文字を読むことが可能になった。咲本先生も先のレポートで述べておられるように、立体化した変体仮名はそういった観点から見ると、ある意味で〔平等〕な教材なのではないだろうか。

    三 視覚障碍者による絵巻の学習方法

 以上のように、私は江戸時代に使われていた変体仮名をほぼ触読できるようになった。これを応用する形で、三年次には共立女子大学図書館所蔵「竹取物語絵巻」を取り上げた授業を履修し、共立女子大学図書館所蔵「竹取物語絵巻」の学習を始めた。

 絵巻の詞書は咲本先生が行っておられた方法で立体化し、触読できていた。しかし、絵をどうするかという問題があった。そこで、授業を担当していただいていた山本聡美先生の提案で、東京藝術大学大学院の五十嵐有紀先生を中心に協力を依頼し、絵巻の書き起こしを制作していただき、それを立体印刷する方法を用いることとなった。書き起こしの詳細については、五十嵐有紀先生の「共立女子大学大学図書館所蔵「竹取物語絵巻」トレース図制作に関する報告」(『総合文化研究所紀要 第22号』二〇一六年二月)を参照していただきたい。

 絵巻の絵の触察に際しては、線が多すぎると内容を把握できないということがわかった。絵巻の絵を模写して立体印刷機にかけても、線が多すぎて建物と人物の区別がつかなかったり、絵の全体像をつかむことができなかった。そこで、絵の内容を把握するのには不要だと思われる線を削除して、絵を単純なものにしていただいた。そうして触察しやすいように改良を重ね、絵巻の絵を把握していった。

 また、かなりのレアケースとして、実物を触らせていただいたことも、絵の内容を理解する上で、大きな助けとなった。実際に絵に触れ、絵の具の感触を感じる事で、翁や嫗の位置、かぐや姫の顔や着物の色、屋敷の様子まで、詳細に知る事ができた。また、二月の初旬に参加させていただいた日本画の色彩に関するワークショップで、絵の具の色と感触について学ぶ機会があり、緑青は緑色であることを知り、色に関しても触察することで把握できるようになった。

 ただし、私には立体化された教材や実物を触る前の段階として、絵巻の内容、例えば第一段の絵は、翁と媼に挟まれてかぐや姫が入った箱が置いてあるというように、絵の内容に関する知識があったことを書き添えておきたい。なおこの知識は授業中の先生の解説によってついたものである。内容を把握していることで、絵巻の絵を触察した際瞬時にその内容を把握できた。ただやみくもに絵巻を触察して内容を把握するより、あらかじめ内容を把握した上で触察した方が効率的だと考えられる。

    おわりに

 視覚障碍者が絵巻の内容を学習する場合、触読、触察が有効であった。絵巻の内容を立体化する際には、触読、あるいは触察のしやすさを重視する必要がある。それにより、変体仮名の場合は書き順など、把握できる情報が限られる問題点もあった。しかし、詞書を読む、あるいは絵を見る際には、今回の場合大きな問題となることはなかった。ただし、変体仮名や絵を立体化したものは、大変かさばり持ち運びに不便であった。実際私は、長期休み中に自宅で勉強したいと思った時、あまりの量の多さに持ち帰る事を躊躇したことがあった。この点に関しては、現在教材の軽量化を図るための方法を検討している。

 また、私は中途失明者ということで、ひらがなや漢字の素養があった。これが点字以外の文字を全く知らない人の場合、変体仮名の触読はより困難であろう。変体仮名の触読に関しては、文字を知っているかどうかが大きな焦点になることが推測される。

 絵巻の学習を通して、私は触読、触察の可能性について考えるようになった。目で見るはずの絵巻を、その内容を立体化するという方法を用い、全盲である私でも学習できるようになった。視覚障碍者が敬遠しがちな日本文学や日本美術史の分野に、文字や絵の立体化という方法が確立しつつあることで、視覚障碍者の可能性は大いに広がるであろう。

 さらに文字の立体化によって、視力の有無に関わらず同じ文字空間にいられることは、点字という固有の文字を使用している視覚障碍者にとって、大きな喜びに繋がるだろう。変体仮名のように点字では書き表せない文字を視覚障碍者が学習しようとする時、立体プリンターを用いた教材の立体化は有効である。今後他の分野にも応用していきたい。


[参考文献]
『平成26年度総合文化研究所助成「変体仮名教材作成の研究︱文学作品を中心に︱」に関する報告』(共立女子大学・共立女子短期大学 総合文化研究所紀要 第22号2016年)に所収の左記三論文
・咲本英恵「視覚障碍者向け変体仮名学習テキストの作成について」
・五十嵐有紀「共立女子大学大学図書館所蔵「竹取物語絵巻」トレース図制作に関する報告」
・山本聡美「共立女子大学図書館所蔵「竹取物語絵巻」を用いた変体仮名教材制作」
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2016年06月07日

立体コピーによる触読の問題点と平仮名文字の説明文

 北九州で実施した、『変体仮名触読字典』のための触読シート「あ」(立体コピー試作2版)による調査と意見交換については、一昨日の「触読調査の後は小倉の松本清張記念館へ」(2016年06月05日)の冒頭で簡単に報告した通りです。
 そして、以下の2点を今後の課題としておきました。


(1)シートの角に切り欠きをつけることで、文字の上下を判別
(2)紙面に配置されている文字の説明注記を点字で添える


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 この触読シートに関しては、科研の研究協力者である福島県立盲学校の渡邊さんと共立女子大学の尾崎さんから、お手元にお送りした立体コピーを触読しての感想を寄せていただきました。
 お2人のコメントを整理して、以下にまとめます。


・文字は大きい方が線がはっきりしていて触読しやすい
・文字が小さいと字母の漢字が把握できない
・文字が小さいと全体的に線がごちゃごちゃして触りにくい
・個々人の指の大きさが異なるので適切な文字の大きさは難しい
・導線となる枠と文字との距離が近すぎるのでかなり窮屈
・空白が少ないので一つの文字をイメージしにくい
・どういう向きで触読するのか迷う
・右上に何らかの指示があるとよい
・ただし点字の「あ」は点が1個なのでわかりにくい
・点字の数字なら前に数符がつくのでわかる
・点字のアルファベットも前に外字符がつくのでわかる
・変体仮名による連綿の例は最初の一文字が読めないと先へ進めない
・すっきりと読み下せないと気になる


 こうした感想や指摘を踏まえて、今は次のような対処と方針で取り組みたいと思っています。


・サイズの大きい方で検討を進める
・字母などを細い線で囲うのはやめる
・文字を囲う枠は文字と離す
・空白をもっと活かした文字の割り振りを心がける
・新しく認定される国際標準のためのユニコードの番号を付加情報として添える
・「愛」と「惡」の変体仮名を採択するかどうか再検討
 (これは、変体仮名としては使用例も少なく、『変体仮名触読字典』に取り上げる必要はないと思います。ただし、ユニコード化にあたって候補として入っているので、一応新ユニコードに対応した字典ということで取り上げています。近世の文書には出てくるので、外すことをためらっています。ただし、仮名を中心として書かれた文学作品を読むという用途に限定した字典を目指すのであるならば、使用頻度の低いこうした「愛」や「惡」という変体仮名は取り上げない、ということも検討すべきかも知れません。)
・付すインデックスとしてのは、点字とアルファベットに関して、さらに検討中
・上部にインデックスとして付す指示文字も検討中
 (点字で「あ」を、その横にアルファベットの「A」と「a」を添えることを考えています。ここで、「あ(字母は「安」)」という、明治33年に一つに統制された文字をインデックスにしなかったのは、4種類の平仮名「安・阿・愛・惡」はいずれも対等の関係であり、現在使われている「あ」だけが唯一のひらがなではなくなる次世代を意識したものです。)
・変体仮名の連綿例に、活字で「平仮名」と「字母」を併記した理由
 (目が見える方にも、そして介助者にもこの字典を使っていただけるようにとの配慮から、変体仮名の連綿例には、活字で「平仮名」と「字母」を併記しました。この列がそうした意図を持ったものであることを、何かの記号を使って明示して、触読のための情報ではないことを明示する必要があります。この振り仮名(読み仮名)の部分だけは立体コピーにしない、という対処もあります。しかし、そうすると立体コピーと混在して印刷が面倒なことになるので、まだ思案中です。)

※2段目の、国語研が公開しているフリーの変体仮名フォント以外は、すべて新典社版の『実用変体がな』から採字したものです。


 なお、一連の触読をサポートするものとして、音声による説明や解説を併用できる環境作りにも取り組んでいます。
 以下に、科研運用補助員の関口祐未さんが作成を進めている、立体平仮名文字「あ」の部の説明文を紹介します。


【平仮名文字の説明文について】
・平仮名文字の説明文は、凸字を触りながら、平仮名の形がより明確にイメージできるように作成しました。
・平仮名文字の説明文は、平仮名を書くときの筆順に従って考えました。短く簡潔で、平易な表現を心がけました。
・曲線の形については、線の形がイメージしやすいように、次のような工夫をしました。
 例1 「弓形」といった場合→半円の曲線を表す。
 例2 「上へ向かって9時から3時までの曲線」といった場合→アナログ時計の文字盤をイメージし、時計回りに9時の位置から12時を回って3時の位置に至る半円の曲線を表す。
 例3 「下へ向かって9時から3時までの曲線」といった場合→アナログ時計の文字盤をイメージし、反時計回りに9時の位置から6時を回って3時の位置に至る半円の曲線を表す。
・説明文は、より分かりやすい文章に仕上げていくために、皆様のご意見を反映しながら更新していく予定です。

■「あ」の説明■

1画目。中央・上の位置。左から右へ横線。
2画目。1画目横線の真ん中を通って、縦に下がる長い線。
3画目。1画目横線の終わり・下の位置。左へななめに、2画目縦線の終わりを通って下がり、上へ向かって8時から5時までの曲線。
 このとき2画目縦線の真ん中と3画目線の始めを通る。
 説明文終わり。


 この他の平仮名については、科研のホームページである「古写本『源氏物語』の触読研究」に掲載している『立体〈ひらがな〉字典』の項目をご覧ください。

 また、この説明文が読み上げられるような仕掛けを、触読の対象となる文字に設定することによって、学習が効果的におこなわれるようにできないか、ということも検討中です。
 これには、タッチパネルの導入が考えられます。
 この「タッチパネルによる古写本触読システム」については、「宇治の街歩きと〈運読〉のワークショップ開催」(2015年12月05日)の後半で、2枚の写真を交えて紹介していますので、参照していただけると実際の触読のための道具をイメージしていただけるかと思います。

 まだまだ、試行錯誤を繰り返している段階です。
 ご教示をいただく中で、よりよい触読環境を作り上げて行きたいと思います。
 また、そのためにも『変体仮名触読字典』を早急に形にして、実際に使っていただく中で改訂をしていく予定です。

 思いつきで結構です。
 ご意見やご提案をお待ちしています。
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2016年06月02日

変体仮名の字母─「天」と「弖」は見分けられるか

 立川駅の構内に、「北天の炎 阿弖流為」という「ねぶた」(青森県立青森工業高等学校 制作)が飾られています。これは、昨年もこの時期にありました。昨年の写真と見比べたところ、まったく同じものでした。
 この「ねぶた」は立川駅に保管してあるのでしょうか、それとも、毎年東北から持ち込まれているのでしょうか。


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 「阿弖流為」については、「ウィキペディア」に次の説明がありました。


アテルイ(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された。


 京都清水寺の境内に「アテルイ・モレ顕彰碑」があります。平安遷都1200年を記念した平成6年に建立されたものだとか。「阿弖流為」という名前は、この碑で知っていました。

 さて、アテルイの「弖」という変体仮名についてです。この「弖」と、一般的に使われる「て(天)」の崩し字は、実に紛らわしい形なのです。
 『古典かなの知識と読みかた』(駒井鵞静、東京美術選書39、昭和59年10月)から〈「て」の字母は「弖」か「天」か〉という項目にある例示を引きます(120〜121頁)。
 これを通覧して、第一図の一と三は「て」だと言えます。しかし、それ以外は「弖」としたいところです。第三図の三と四は、「天」でもいいし「弖」でもいいという、このあたりが線引きの分かれ目のようです。また、この字体が非常によく出てくるのです。


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 このことを、今日の日比谷図書文化館での翻字講座で話題にしました。

 夏を迎える日比谷公園は、陽の落ちるのも遅くなり、鶴の噴水も緑に包まれてきれいです。とても18時を過ぎているとは思えない明るさです。


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 日比谷公会堂は、老朽化と耐久化のために、本年4月1日より改修工事となっています。しばらくは休館です。


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 そんな公園の中で、熱心に変体仮名の勉強をなさるみなさまと一緒に、『国立歴史民俗博物館蔵『源氏物語』「鈴虫」』(伊藤鉄也・阿部江美子・淺川槙子 編著、新典社、2015年10月)をテキストとして、仮名文字の字母を確認しながら読み進めています。

 今日話題にした「天」と「弖」に関しては、第4丁オモテの8行目と9行目の行末部分にみられる2つの「て」を切り出しておきます。


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 右下の仮名の字母は「弖」でもよさそうです。しかし、これを「弖」として認めると、これに類する膨大な文字の字母の修正が発生します。
 左上の「て」の字母は「天」でいいと思います。

 上記の『古典かなの知識と読みかた』で駒井氏は、次のような見解を示しておられます。


 ひらがな(女手)の「て」は、古くから使用してきた「弖」を母体とし、「天」の草書と合流させて、生み出したものではないでしょうか。
 「て」の字母は「弖」としても「天」としても、妨げないと思うのですが、本書では通説に従い、「天」といたしました。(121〜122頁)


 私も、歴博本「鈴虫」、ハーバード大学本「須磨」、同「蜻蛉」で、「弖」を字母とするものは一例も採りませんでした。「弖」にしてもいいかと思うものが多いのは確かです。しかし、「天」との線引きが難しいので、「天」にしておいたにすぎません。今後とも、鎌倉時代の古写本をさらに精査して、この見極めができるような指針を見つけられないかと思っています。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ■変体仮名

2016年05月09日

鎌倉期写本の改頁箇所では語句の泣き別れが少ないこと

 今年の連休は、古写本の「変体仮名混合版」を作ることに明け暮れていました。
 そんな日々の中で、書写されている丁(頁)が変わる箇所の文字について、これまで思い描いていた傾向が鮮明に再確認できました。

 3年前に「ハーバード大学本『源氏物語』の改行意識」(豊島秀範編『源氏物語本文のデータ化と新提言U』所収、平成25年(2013年)3月)という考察を、研究成果の一部として掲載していただきました。
 そこでは、ハーバード大学所蔵の『源氏物語』(須磨・蜻蛉)の2帖を中心として、鎌倉時代中期の書写にかかる貴重な古写本の改行意識を調査した結果を報告しました。
 確認したのは、ハーバード本2帖に加えて、歴博本「鈴虫」、国冬本「鈴虫」、源氏物語絵巻詞書」の「鈴虫」、室町時代の大島本「鈴虫」でした。

 その紙面に記されている物語本文の各行末の文字列を見ていくと、どのような状態で書写されているか非常に興味深い傾向が見て取れます。
  (1)文節で切れているか
  (2)単語で切れているか
  (3)語中で切れているか
 この3つの視点で各写本を見ると、鎌倉期の写本では、語彙レベルで改行される傾向にあることがわかります。語彙が泣き別れで書写されることは少ないのです。
 これは、書写ミスを避けるために、自己防衛的な心理が働いての結果ではないか、と思われます。

 具体的に言うと、書写者の文節意識は5割の例に見られ、単語意識は2割で、合わせて7割の箇所に、語彙レベルでの改行意識が確認できました。語中で改行や改頁がなされるのは3割以下である、ということがわかったのです。
 古写本における書写者の心理を反映するものとして、貴重な調査結果となっていると言えるでしょう。

 さて、今回ハーバード本「須磨」「蜻蛉」に加えて歴博本「鈴虫」(落丁あり)における改丁(頁)箇所に限定して詳しく追跡しました。この3本は、かつては一揃いのセットとして組まれていたと思われる、「ツレ」と言われる写本です。
 鎌倉時代中期に、同じ文化圏にいた書写者によって書き写されたものだと思われます。したがって、書写傾向も似たものがあると思っています。

 改頁(丁)箇所の切れ続きがわかりやすいように、その傾向をグラフ化しておきます。


160509_graf




 それぞれの写本の墨付き丁数は、次の通りです。

「須磨」(63丁・126頁)
「鈴虫」(18丁・36頁)
「蜻蛉」(67丁・134頁)

 数値をあげた表の左側で「35 13 43〜」とある行は、丁末が文節で切れる回数です。右側の表に「47 15 52〜」とある行は、単語で切れる回数です。
 最下段の「55.56 72.22 64.18〜」とある行は、その写本で改頁箇所が文節で切れる比率(%)であり、「74.6 83.33 77.61〜」とある行は単語で切れる比率(%)です。
 上のグラフは、この変化(%)を折れ線で示したものです。

 書写にあたって、親本の影響が強いことは当然として、明らかに文節意識と単語に対する切れ続きの意識が見て取れます。

 さらに今回、表丁と裏丁での違いが確認できました。
 その前に、「列帖装」という写本のことを確認しておきます。
 『源氏物語 千年のかがやき』(104頁、国文学研究資料館編、思文閣出版、平成20年10月)に掲載されている「『源氏物語』列帖装未完成本」(陽明文庫蔵、江戸時代前期写)の写真は、「列帖装」という写本の形態を知るのに最適です。


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 参考までに、その解説文(伊藤執筆)も引きます。


 これは、本として完成しなかった『源氏物語』の写本である。冊子本がどのようにしてできているかを知る好例である。近衛家一九代尚嗣(一六二二〜一六五三)が書写したもの。(中略)

 列帖装(綴葉装と同義)の本を作る過程は、次のようになる。

 (1)数枚の料紙を束ねて真ん中から折り、括を作る。

 (2)二つ折りの括をいくつか重ねる。

 (3)表と裏に表紙を当てる。
 
 (4)各折り目に四つの綴じ穴をあける。

 (5)両端に針を付けた二本の糸を通して綴じる。

一括を開くと、見開きの綴じ目に綴糸が見える。

 例えば、池田本(天理大学付属天理図書館蔵)の桐壺巻は三折(三二丁)だが、若菜下巻は六折(一二三丁)である。巻によって、一括の枚数や折の数が異なる。


 表丁の丁末に文節や単語の切れ続きに関する意識が高いのは、頁をめくって書写していく行為の中で、単語が泣き別れした状態で書写を中断したくない、という気持ちが生まれるからだと思います。
 親本と書写本を共にめくるという動作が入る時には、筆を一先ず机に置くこともあるでしょう。書写の流れが乱されるので、書き間違いを防ぐ意味からも、必要最小限の動作で書き続けるためにも、語彙の切れのいいところで中断することになるかと思われます。
 このことは、すでに親本の段階で発生していた傾向でもあるはずです。

 列帖装の写本では、親本と同じ折数で書写します。
 あらかじめ数枚の紙を半分に折って、それを糸で仮綴じした数折に書写していくことが多いようです。すると、裏丁(見開き右側)の丁末での改頁については、次の表丁(見開き左側)の紙面が目の前に開かれているので、書き始める位置がすでに視野に入っています。書写するための用紙をめくる必要がないので、表丁よりも書写文字の切れ続きに乱されることは少ないと言えるでしょう。
 この裏丁から表丁への書写であるなら、改丁箇所で単語が語中で泣き別れしても、写し間違いは最小限に留められていると言えます。

 私は上のグラフを見ながら、そんなことを考えています。続きを読む
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2016年05月06日

古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その3)−改丁(改頁)に関する新方針

 「変体仮名翻字版」の新しい凡例については、昨年正月に公開した以下の3回の記事で報告したことで確認をしているところです。
 この記事の中で「変体仮名混合版」とあるのは、今は「変体仮名翻字版」と呼んでいるものです。わかりやすい名称に変更していますので、読み替えてください。
 また、「その3」の「E-Q」では漢字で書写された文字については「/〈漢字〉」という記号を付すとしています。しかし、これはその後の再検討の結果、【 】(隅付き括弧)で漢字を囲うことにしています。

「『源氏物語』の翻字本文に関する凡例の改訂(その1)」(2015年01月18日)

「『源氏物語』の翻字本文に関する凡例の改訂(その2)」(2015年01月19日)

「『源氏物語』の翻字本文に関する凡例の改訂(その3)」(2015年01月21日)

 もちろん、これだけでは凡例として不十分です。
 次の記事では、その欠を補うものとして、〈左傍記〉〈行末右〉〈行末左〉〈丁末右〉〈丁末左〉を、付加情報を記述する符号として増補したことを報告しています。

「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その1)」(2015年09月25日)

 その後も、さまざまな問題点に対処するために、付加情報の追加を検討してきました。しかし、まとまりきらないままに日時が経過していました。

「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その2)」(2016年03月19日)

 以下に報告する【改頁(改丁)】の新方針は、翻字以外で諸写本全体にかかわるものです。
 書写状態を記述するための符号である【改頁(改丁)】の方針は、従来とは大きく方針の転換となるものであり喫緊の課題でした。今の時点で確定として、前進していきたいと思います。

 NPO活動の一環として翻字のお手伝いをしてくださっているOさんから、改頁に関する質問と確認をいただきました。
 これをきっかけとして、次のように「変体仮名翻字版」の新しい作業用の凡例を整理しました。

 まだまだ、再検討すべき凡例はあります。特に、翻字作業用のマニュアルとしての凡例は、いまだに確定していないので、大急ぎでまとめているところです。多くの方々に翻字をお願いしながら、この付加情報に関しては後追いで、泥縄式に確定しているのが現状です。
 『源氏物語別本集成』と『源氏物語別本集成 続』という作業と成果を経て、翻字に関してはほぼ凡例は出来上がっていました。しかし、「変体仮名翻字版」となり、翻字作業もNPO法人を母体とする研究者ではない方々のお力添えをいただく、ということで展開しています。そのこともあり、一人で方針を決めていると、どうしても翻字方針が揺れてしまいます。
 実際に「変体仮名翻字版」の翻字をなさっている方々からの意見が、今は一番心強いアドバイスとなります。
 今後とも、みなさまからお寄せいただく疑問点を中心にして、よりわかりやすいデータベース作成用マニュアルに育てていきたいと思っています。


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【凡例(案)】(2016/05/05)


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■【改頁(改丁)】の新方針
※ 各丁ごとに、最終文節が書写されている箇所の丁数と表裏を、丸カッコ内に明記する。
   例1 みちひき可葉志/(2オ)   ・・・380117-000(歴博本「鈴虫」)
   (従来は、続く次頁冒頭の字句に付加情報を付していた。「たまふへき/〈改頁〉」)
  丁末で文字が泣き別れしている場合は、次頁冒頭の一文字に〈次頁〉と付して掲示する。
   例2 きはや可尓/(1ウ)や〈次頁〉   ・・・380082-000(歴博本「鈴虫」)
   (従来は、「きはやかに/や〈改頁〉」としていた。)
 なお、使用する文字・記号・数字は、原則として全角文字とし、2桁以上の数字の場合のみ半角数字とする。
 これらは、すべてテキスト・データベースで検索する際の便宜を考慮しての処置である。
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2016年04月17日

『源氏物語』を書写する際の現代風の料紙加工の一例

 昨日に引き続き、銀座4丁目の鳩居堂で開催されている宮川保子さんの書道展に、今日も脚を運びました。今日が最終日だったことと、いくつかお尋ねしたいことがあったからです。

 私のブログをお読みくださっている方から、宮川さんの料紙加工についていくつか質問がありました。そこで、厚かましくも説明と写真撮影をお願いしたところ、快諾をいただけました。展観者の対応でお忙しい中を、少し手の空いた時に撮影をさせていただけたのです。

 ここでは、版木を用いた型押しの例をあげます。

 まず、「手習」の場合。
 本文を書写する前の仮綴じされた用紙には、すでに絵柄が摺られています。


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 ここに『源氏物語』の本文が書写されると、次のようになります。
 新写本の右横に、ここで用いられた版木を並べました。


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 全体の様子もあげます。
 版木の左端の絵が、見開き右側に摺られているのです。


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 次に、「浮舟」の場合です。
 同じ版木の右半分を用いて絵柄が摺られています。


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 これも、全体をあげます。
 見開き左側に摺られています。


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 『源氏物語』を書写するにあたり、料紙の調達と加工に始まり、実に多岐にわたる制作手順があることがわかりました。宮川さんは、それをすべてお1人でなさっているのです。

 平安時代から鎌倉時代に古写本がどのようにして書写されてきたのか、どのような過程を経て制作されたのか等々、こうした例を拝見すると、おのずと想いは千年前に誘われます。

 今回は、書を拝見するとともに、その背景に興味を持ちました。
 まずは見る。そして聞く。さらには触ることもできました。

 宮川さんは、『源氏物語』の全帖の書写を目指しておられます。
 ただし、新潮古典集成という、活字の校訂本文を底本にして書写しておられることが、お目にかかって以来ずっと気になっていることです。
 昨日も今日も、押しつけがましくならないように、また呟いてしまいました。ハーバード大学美術館蔵『源氏物語』の「須磨」と「蜻蛉」、そして国立歴史民俗博物館蔵『源氏物語』「鈴虫」の模本を作成しませんか、と水を向けました。三兄弟の模本を、若者に見てもらい触ってもらいましょう、と囁きました。
 どのように受け取っていただけるのか、まだよくわかりません。
 それはともかく、ますますの活躍を楽しみにしています。

 帰りがけに、連絡をとろうと思っていた大東文化大学の城弘一(竹苞)先生が、ちょうど会場にお越しになりました。
 久しぶりにお目にかかり、少しソファーに座ってお話ができました。
 いろいろとお願いごとやご相談ができ、今日もいい出会いと収穫の多い一日となりました。
 みなさまに感謝いたします。
posted by genjiito at 22:18| Comment(0) | ■変体仮名

2016年04月16日

古写本をめぐって慌ただしい中でも充実した一日

 午前中に開催された、平成28年度NPO法人〈源氏物語電子資料館〉の総会は、予定していた議案がすべて了承され、無事に終了しました。
 和やかな中で、今後の活動や運営に関する多彩な申し合わせ事項も、うまくとりまとめることができました。

 今回の会場は、2014年03月23日に「NPO設立1周年記念公開講演会」のイベントをした、東京都中央区にある築地社会教育会館でした。


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 話し合った内容については、後日NPO法人〈源氏物語電子資料館〉のホームページでお知らせします。

 参加してくださった会員のみなさま、そして委任状をお寄せくださったみなさま、ご協力をありがとうございました。そして、これからも、活動の支援に関してよろしくお願いします。

 閉会後、みなさんと一緒に、ブラブラと銀座4丁目の鳩居堂3階にある画廊へ移動しました。


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 会員でもある宮川保子さんが、『源氏物語』の宇治十帖の作品展をなさっているからです。

「宮川保子さんの宇治十帖と継色紙の個展」(2016年03月16日)

 ご自身で料紙の装飾を摺る際に使われる版木や、継ぎ紙の手法について、実作をもとにして説明してくださいました。多くの展観者の方々がいらっしゃる中で、ありがたいことです。

 その後、私が行っているコナミスポーツクラブ銀座の上にあるレストランで食事をしました。
 京都からお出でいただいた石田さんも、ありがとうございました。

 みなさんとお別れしてから、私は淺川さんと一緒に、永井和子先生とお話ししたいことがあったので、先生のご自宅にうかがいました。駅前でと思っていたところ、先生の温かいお誘いのままに、お言葉に甘えてご自宅に寄せていただくことになったのです。
 過日、永井先生が送ってくださった、ご自宅に舞い降りた鷺がいた庭を、これがあの、と感激して拝見しました。

「京洛逍遥(392)京洛の三日月と東都の白鷺」(2016年03月12日)

 残念ながら、初夏に向かう今日は、あの白鷺はいませんでした。
 私の話を聞いてくださり、そして、たくさんのありがたいお話をうかがうことができました。いつも、ありがとうございます。

 その先生のお話の中に出てきた、古典和歌集である「伊勢集」の摹本を作成なさった藤原彰子さんの作品を拝見することができました。


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 ちょうど、銀座で宮川さんの作品を見てきたばかりだったので、同じことを指向し、挑戦なさっている方の存在に驚きました。最初は、宮川さんと藤原さんは同一人物ではないか、と思うほどに、その作品に対する姿勢が同じなのです。

 さらに私は、装飾料紙を駆使して『源氏物語』の書写に挑まれた右近正枝さんのことも思い出しました。


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 宮川さんは、新潮日本古典集成の活字校訂本をもとにした創作かな書道であり、右近さんは岩波旧大系本の活字校訂本文を自在な仮名書きにして書いておられます。

 私は、このお2人が書写なさっている底本の選定に対して、大いに不満の意を伝えています。2人ともに、活字で印刷された校訂本文を用い、現代向けに組み立てられた本文を自分が思う通りの変体仮名に変えながら書写なさっているのです。
 私は、活字校訂本文を使っての書写は止めてほしい、と伝えています。臨書をする中で、仮名の使い分けで芸術性を追究するのであれば、それは『源氏物語』の本文史の中に定位できると思います。しかし、活字校訂本文を変体仮名で書写して後世に残す意義は、弊害こそあれ、何もないと思っています。
 紛らわしい新写本を後世に残すべきではない、というのが私見です。

「何故かくも愚行を誇らしげに」(2010/9/26)

 このことは、今後も言い続けていきたいと思っています。

 右近さんは、数日前に宮川さんの書道展にお出でになったそうです。

 宮川さん、右近さん、そして藤原さんと、それぞれ一歳ずつ違う、同世代の方です。しかも、期せずして3人の女性が、大阪・奈良・三重という関西にご縁のある方なのです。
 人との出会いとつながりに、これまでも恵まれてきました。今回も、この3人の方との接点を求めて、少し動いてみようかと思っています。続きを読む
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2016年04月12日

変体仮名の学習法と視覚障害者が触読することに関する報告

 「平成26年度総合文化研究所助成『変体仮名教材作成の研究―文学作品を中心に―』に関する報告」(共立女子大学・共立女子短期大学 総合文化研究所紀要 第22号 2016年、代表者 岡田ひろみ)を読みました。

 この報告書は、初学者が変体仮名を習得する過程を、実践を通して追ったものです。これからの変体仮名の学習指導において、よき手引書となっています。
 併せて、視覚障害者向けの変体仮名学習教材の作成についても、実践報告があります。
 古写本の触読研究に取り組んでいる私にとって、非常にタイムリーなものでした。

 ここでは、変体仮名や絵を読み取る方法として「触読」によっています。その取り組みの苦労は承知の上で、あえて私見を加えるならば、ここに音声を活用することを導入すると、さらに学習効率が向上することでしょう。
 また、指筆による古写本の臨書や模写を取り入れると、変体仮名の習得がさらに確実で迅速になると思われます。
 次には、こうした取り組みもなされることを期待したいと思います。

 本書の冒頭、[研究の目的]で、研究代表者である岡田ひろみ氏は、次のように言っておられます。


 本研究の目的は主に二点、@学生だけでなく、変体仮名を学びたいと考える人々が自主的に学ぶための教材を作成すること、A変体仮名を指導する立場にいる人間が視覚障碍のある人々にも平等に教えることができるような教材を、また、視覚障碍のある人々が変体仮名を学びやすい教材を作成することである。これらの研究成果は、視覚障碍のある人だけでなく、変体仮名を読んでみたいと考えるすべての人々に対しても寄与するものだと考え研究をすすめてきた。(156頁)


 つまり、目が見える見えないを問わず、とにかく誰でもが平等に変体仮名が読めることを願って作成された、変体仮名の教材作成のための成果報告書なのです。

 目次は、次のようになっています。
 この執筆者は、岡田ひろみ 内田保廣 半沢幹一 山本聡美 咲本英恵 五十嵐有紀の各氏です。


平成26年度総合文化研究所助成「変体仮名教材作成の研究-文学作品を中心にー」に関する報告

物語を変体仮名で読むために
 目次
 1 概説−漢字と仮名
 2 概説−いろは歌と変体仮名
 3 概説−仮名文字と仮名文学
 4 概説−平安時代の物語史
 5 概説−平安時代の本
 6 変体仮名を読む−『竹取物語』上巻第一段詞書@
 7 変体仮名を読む−『竹取物語』上巻第一段詞書A
 8 物語の絵画化−テキストとイメージ
 9 変体仮名を読む−『伊勢物語』初段
 10 変体仮名を読む−『伊勢物語』三段
 11 変体仮名を読む−『伊勢物語』五段
 12 変体仮名を読む−『伊勢物語』六段
 13 練習問題
 14 付録
 15 補助教材の使い方

視覚障碍者向け変体仮名学習テキストの作成について

共立女子大学図書館所蔵『竹取物語絵巻』を用いた変体仮名教材作成

共立女子大学図書館所蔵『竹取物語絵巻』トレース図制作に関する報告


 以下、報告書の内容を簡単に紹介します。

 「概説」は、一般の学習者にも有益な、平易でわかりやすい説明がなされています。勉強会において使える、格好の手引書です。

 「変体仮名を読む」は、『竹取物語』と『伊勢物語』を例にした、変体仮名の入門編となっています。【翻字】【語注】【解説】や【現代語訳】が優しく語りかけてきます。

 「付録―校訂本文と比較してみよう」は、変体仮名で書写、印刷された資料と、一般的に読まれている古文との違いから、古典への興味を誘うものです。
 もっともこれは、さらに紙数を費やして説明する価値のある項目だと思いました。

 後半の視覚障害者のための変体仮名学習資料の作成とその実践報告は、私が現在抱えている問題点において、大いに参考になる内容に満ちています。実践を通して生み出された教材とその活用の実体が、障害者に対する文字指導において多くのヒントを与えてくれます。

 「視覚障碍者向け変体仮名学習テキストの作成について」には、次のように記されています。


これはAさんが教えてくれたことだが、変体仮名を学んで嬉しかったのは、見えている人と同じ文字を読めるということだったそうだ。Aさんが日頃読んでいる点字は、盲学校を卒業してしまえば他に読める人を見つけることは難しく、また常に点字を読むAさんは、他の人と同じ文字を読むことはできない。その点、変体仮名を読む時だけは、みんなと同じ文字の世界にいることができる。それが嬉しくて、Aさんは変体仮名を読み続けたいのだという。立体印刷機さえあれば、変体仮名とは、現代においてそれ自体で実は〈平等な〉教材なのかもしれない。変体仮名学習の意味を、思わぬところから気づかされた思いがする。(88 頁)


 目の見えない方と一緒に古写本を読む、という試みは、まだほとんどなされていません。その意味からも、この報告書には貴重な取り組みの事例が提示されているのです。

 冒頭に私見を記したように、今後は「音」を導入し、「筆」でなぞりがきをする、という試みを導入するとどうなるか、というチャレンジに期待したいと思います。

 なお、私が取り組んでいる「挑戦的萌芽研究」の科研「視覚障害者と共に古写本の仮名文字を読み日本古典文化を共有するための挑戦的調査研究」で、科研運用補助員として研究協力をしてもらっている関口祐未さんから、本報告書を読んでのコメントをいただいています。
 以下に引用し、本書の意義の確認にしたいと思います。


 触読に関する報告では、『首書源氏物語 夕顔巻』本文と『竹取物語絵巻』詞書を触常者が変体仮名で学ぶことができるように、変体仮名を立体化するときの工夫と試行錯誤の過程が詳しく述べられていて大変参考になります。
 教材の立体化には残された課題や改善の余地があるということですが、触常者Aさんが変体仮名を読み続けたいと意欲を持ったことや、触常者のために行った工夫の多くが、他の学生の学習にも有益であった点など、触読の研究をする人が目指す到達点が示されています。
 『竹取物語絵巻』の絵を筆とペンでフィルムシートに敷き写す作業では、完成したトレース図は、データ化しモノクロ画像に変換するため、墨の濃淡で表現した線の強弱が消えてしまうとあります。それでも肥痩に差をつけて描いた線の表現が少しでも残り、立体化した教材から絵画表現の豊かさを読み取ってもらえればとの思いで筆を走らせたと書かれています。
 伝わらないかもしれないけれど、でき得るかぎりのことをするという意識は、触読の教材を作る上で大切なことだと教えていただきました。
 変体仮名も、立体コピーすると、墨の濃淡がつぶれ黒一色になってしまいます。文字の形を伝えることの他に、筆文字が持つ線の美しさや個性を伝えていく工夫も、あきらめず考え続けたいと思います。
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2016年03月19日

古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その2)

 昨年、2015年(平成27年)1月15日に、これまで構築してきた『源氏物語』の本文データベースを「変体仮名翻字版」として再作成することにしました。翻字方針の一大変更を決断したのです。
 それにともない、データベースの総称も、〈源氏物語翻字文庫〉(略称は「GHB」)と呼ぶことにしました。

「作成中の翻字データベースを〈源氏物語翻字文庫〉と総称する」(2015年01月25日)

 また、翻字するにあたっての凡例も、3回にわたって本ブログに改訂版を公開しました。上記記事の中で、それらを整理して確認できるようにしています。

 その後、2015年9月25日に、書写状態を再現する上で基本となる〈行末〉や〈丁末〉の様態を記述する追補案を提示しました。

「古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その1)」(2015年09月25日)

 これは、行末や丁末に傍記および補入されている文字の状態を正確に記述するためのものでした。

 これに関連して、従来から要望されていたことを、今回追補することにします。
 それは、丁変わりの情報が〈改頁〉とあるだけでは、第何丁目(頁)かがわからない、というご意見があったことに対処するために、丁番号を示す数字を追記するものです。

 「須磨」の巻頭を例にして、従来と新しい翻字の場合を例示します。

(1)1丁表から1丁裏にかけて(文節番号 120041)
  〜おほつ(1オ)」
  るへき越〜
 とある箇所で、1丁裏に「可那可るへき越」が書かれている場合は、次のようにデータベースとして記述します。


おほつ可那可るへき越/前可〈改頁2ウ〉


 これは、1文節の中程から改丁がおこなわれていて、表丁から裏丁に移った最初の文字の「可」が2丁裏の冒頭に書かれていることを示します。
 ただし、この文節内には「可」が2つあるので、その内の前の「可」であることを「前可」とします。この前の方の「可」は〈2ウ〉という付加情報だけでも十分です。しかし、検索の効率を高める意味から、〈改頁〉という付加情報としての文字もこれまで通りに残すことにしました。

 この補訂では、これまで〈改頁〉箇所の明示が紛らわしいと言われていたことの解消も果たしています。
 これまでの方式(「変体仮名翻字版」以前)は、次のようになっていました。


おほつかなかるへきを/前か〈改頁〉


 ここでは、前の方にある「か」が〈改頁〉された裏丁の冒頭にあることを示す方式でした。「〈改頁〉された」文字を明示していたことが、表丁か裏丁かの判断で混乱させていたのです。
 今回の凡例の追加補訂により、この問題点はなくなるはずです。

 現在、10人ほどの方々が、「変体仮名翻字版」に取り組んでくださっています。
 今回の新しい〈改頁〉箇所の記述について、可能でしたら今から対処していただけると助かります。
 もちろん、この記述をパスしていただいても大丈夫です。
 再確認する時点で一括して補訂すればいいので、可能であれば今から、というご理解で対処してください。

 凡例にしたがったデータベース化の統一表記については、最終段階でも十分に手を入れられます。
 現段階では、これまでの曖昧だった翻字を、「変体仮名翻字版」に書き換える点に特に力点を置いた翻字版を作成する、ということで、引き続きよろしくお願いいたします。
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2016年03月16日

宮川保子さんの宇治十帖と継色紙の個展

 書家の宮川保子さんが、2回目の個展を開催されます。
 1回目は『伊勢物語』でした。
 御自身で料紙加工・表具・装丁をなさっています。
 私も平安の雅を追体験するために、足を運ぼうと思っています。

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 宮川さんとお弟子さんたちが書いてくださった『百人一首』は、立体コピーとして目の見えない方々に触っていただいています。
 本ブログの「書道家にお願いした触読用の『百人一首』」(2015年12月01日)で、宮川さんとの出会いからこれまでを書いています。おついでの折にでも、ご参照いただければ幸いです。
posted by genjiito at 22:30| Comment(0) | ■変体仮名

2016年03月15日

『源氏物語』における「変体仮名翻字版」の進捗状況

 昨年1月に、古写本『源氏物語』を翻字する方針を変更しました。
 従来の、明治33年に制定されたひらがな1文字ずつを使って翻字することをやめ、変体仮名の字母を混在させた、より正確で原本に戻れる翻字方針に方向転換しました。

 実作業に入り、翻字データの確認と修正に手間取っています。
 しかし、着実に「変体仮名翻字版」による『源氏物語』の本文データベースは構築されています。

 ここに進捗状況を報告し、このプロジェクトに協力していただく方を、さらに募りたいと思います。

 私自身は、このプロジェクトに90年というメドで取り組み出しました。しかし、どうもこの調子では100年は超えそうです。
 幸い、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉の次世代のメンバーがいるので、たすきリレーで着実に翻字を進めていけば、目的を達成できるはずです。
 また、日比谷図書文化館の講座に参加してくださっているみなさまの応援を得て、さらに前に進んで行けるようになりました。

 少数の正会員の会費だけで運営しています。翻字をしていただいた方々には、本当に些少で申し訳ないと思いながらも、わずかばかりの謝金をお渡しすることを心がけています。
 気持ちだけは、ボランティアは無償では続かない、ということを肝に銘じて、今は気持ちとしてお渡ししているものです。
 雀の涙で恐縮しています。しかし、翻字してくださった方々のお名前だけは、長く継承していくものです。
 今後とも、幅広いご支援のほどを、よろしくお願いいたします。

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2016年02月09日

〈ひらがな〉と〈変体仮名〉をめぐる試行錯誤

 本ブログで「点字による変体仮名版の翻字は可能か」という連載をしています。

 それと平行して、、「古写本『源氏物語』の触読研究」という科研「挑戦的萌芽研究」のホームページでは、『立体〈ひらがな〉字典』という項目のもとに、具体的な文字の説明文を提示して試行錯誤を続けています。

 この「点字による変体仮名版の翻字」と『立体〈ひらがな〉字典』に関して、それを実際に確認してくださっている渡邊寛子さんからのご意見をもとに、今後の新たな展開を期待してここに取り上げてみました。

 この問題に関して、幅広くご意見をいただけると幸いです。
 
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160209_渡邊「点字による変体仮名版の翻字」について
 
 1月28日で取り上げていただいた私の点字の翻字の例ですが、できるだけ点字のマス数を抑えて本文がわかりにくくならないようにしています。
 点字は表音文字ですので以下、ひらがなで書き表します。


こ(古) こぶんのこ(7マス) ふるい(3マス)
しん(新) しんぶんのしん(9マス) あたらしい(5マス)
し(志) しがんするのし(10マス) こころざし(6マス)
す(寿) じゅみょうのじゅ(9マス) ことぶき(5マス)
す(春) しゅんぶんのしゅん(10マス) はる(2マス)
た(堂) どうどうたるのどう(13マス) どう(3マス)
た(多) たしょうのた(7マス) おおい(3マス)
ら(羅) もうらするのら(9マス) らしょうもん(6マス)
ら(良) りょうこうなのりょう(11マス) よい(2マス)


 それでは以下に「須磨」の冒頭を2パターンで示します。


〈本文〉
よの【中】・いと・わ徒らしく・は新堂な
き・ことの三・ま佐れ八・せ免て・志ら須可
本尓て・あ里へむも・これよ里・八志多那支・
 
@
よの【中】・いと・わつ(せいとのと)らしく・はし(しんぶんのしん)た(どうどうたるのどう)な
き・ことのみ(かんすうじのさん)・まさ(さとうのさ)れば(かんすうじのはち)・せめ(めんきょのめん)て・し(しがんするのし)らず(ひっすかもくのす)か(かのうせいのか)
ほ(ほんばこのほん)に(じごのじ なんじのぞくじ)て・あり(きょうりのり さと)へむも・これより(きょうりのり さと)・は(かんすうじのはちし(しがんするのし)た(たしょうのた)な(なはしのな)き(しじするのし ささえる)・
 
 
A
よの【中】・いと・わつ(せいと)らしく・はし(あたらしい)た(どう)な
き・ことのみ(数符3)・まさ(さとう)れば(数符8)・せめ(めんきょ)て・し(ここ
ろざし)らず(すま)か(かのう)
ほ(ほん)に(なんじ)て・あり(さと)へむも・これより(さと)・は(数符8)し(こころざし)た(おおい)な(なは)き(ささえる)・


 Aで短く触る方が本文のつながりを妨げませんが、私が変体仮名を知っている、漢字の字形を覚えていることに由来します。

 関口さんのご指摘ご提案のように、使用されている変体仮名の一覧をつけた方がよいのかもしれません。必要な情報を選べるように。



 
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160208_渡邊『立体〈ひらがな〉字典』について
 
立体に触りながらなら、わかりやすい表現の数々です。
特にカーブするところ、
「か」「ち」「と」「や」「ら」「を」など
触ればわかる丸みというか、角度ですが、「右へ曲がる」などは音声のみで理解するには形を知っていることが前提になりそうです。
 
 
160208_関口
 
ご教示いただいたカーブするところは、例えば「か」でしたら、
「1画目。左・上の位置から書き始めます。右へ横線、左へななめに下がる長い線。」
としました。
横線から、左へななめに下がる、だけでは、確かにどれぐらいの曲がり方をしているのか漠然としています。
ご指摘の「ち」「や」「ら」のカーブはどう言い表してよいか最後まで悩みました。
カーブは難しいです・・・。
やはり何かの形に例えた言い方のほうがよいのでは、と思っております。
このカーブをうまく表現できたらよいのですが。
角度やカーブの形といった、文字の形の特徴となる部分は、もう少し詳しく、具体的に伝わるように考えたいと思います。
 
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posted by genjiito at 21:49| Comment(0) | ■変体仮名

2016年02月08日

点字による変体仮名版の翻字は可能か(8/from 関口)

 1月21日から2月2日までの7回にわたるやりとりを拝読しました。
 点字に関しては初心者ながら、点字によって変体仮名を翻字することは可能なのでは、と感じました。

 変体仮名、つまり漢字を、点字によってどのように再現するかという問題は、1月28日の記事で、渡邊先生が、翻字データをご自身で点訳し、変体仮名のメモを作って実際に活用されている事例が参考になります。

 例えば、単純ですが、変体仮名の情報を、翻字本文のなかに丸括弧でくくるなどして直接組み入れる方法を考えてみました。写本の「なつ古ろ」でしたら、「なつこ(こぶんのこ)ろ」のようになります。あるいは、欄外に注のような形で、「なつころ」の「こ」は「こぶんのこ」である、という情報を添える方法も考えられます。

 現実的かどうかはわかりませんが、翻字本文は易しく読みやすいほうがよいと思いました。

 変体仮名に対応する点字を新たに作ることも一案かと思います。
 しかし、翻字本文が複雑になりますし、研究開発のコストが必要になることなどもこれまでのやりとりのなかで挙がっています。
 まずは、点字の古文を読むのと変わらずに、気軽に翻字本文を読むことができるように工夫をこらすほうがよいのではと思いました。

 しかし、「こ」は「こぶんのこ」という情報も、「古」という漢字を知らなければ「こぶんのこ」を想起することはできません。「古」という漢字をどのように伝えればよいかという問題があります。

 翻字本文とは別に、変体仮名を学ぶための点字資料を用意する必要があると思いました。

 1月31日の記事では、ハーバード本『源氏物語』「須磨」「蜻蛉」と歴博本「鈴虫」の翻字に必要な変体仮名は57種ということでしたので、57種を習得するための点字資料を作成します。加えて、変体仮名の形を詳しく説明する場合には、音声を使えば多くの情報を伝えることができます。翻字本文にあたる前に、点字版・音声版の両方で変体仮名の情報を得ることができれば、翻字本文がさらに読みやすくなるのではないでしょうか。

 音声読み上げによって『源氏物語』本文を読むときは、中野先生の2月1日のご意見で、音のみが読み上げられる場合と、変体仮名の情報が読み上げられる場合を、読み手が時と場合によって自在に選択できるようにするのが一番よいとあります。
 読み手の目的や興味に応じて、情報を選べる、得られる仕組みや環境を整えることも大切だと思いました。
 
(科研運用補助員の関口祐未さんからのメールを、本ブログ用に整形して掲載しました。)
posted by genjiito at 08:38| Comment(0) | ■変体仮名

2016年02月07日

『立体〈ひらがな〉字典』を公開しました

 平成27年4月に採択された科研「挑戦的萌芽研究」では、目の不自由な方々と一緒に古写本『源氏物語』が読めないか、というテーマに取り組んでいます。

 関係者のみなさまのお陰で予想以上の成果があがり、科研のホームページ:「古写本『源氏物語』の触読研究」で多くの情報と報告を発信しています。

 今回、その中に『立体〈ひらがな〉字典』という項目を追加しました。

 これは、ひらがなの字形がより明確にイメージできるように、ひらがなの形をことばで説明した『字典』です。

 初めて取り組むものであり、問題も多々散見するかと思われます。
 実際には、手作りの厚紙凸字を触りながら、ひらがなの字形を確認するための説明文です。


160206_rittaihiragana





 ただし、上の写真のような触読用の厚紙凸字を、ネットでは体感していただけません。そのため、当座は文字による説明文でどこまでイメージを構築していただけるか、ということに留まるものです。今後は、3Dプリンタの活用など、さまざまな可能性を模索していくつもりです。

 暫定版であっても『立体〈ひらがな〉字典』を広く公開することで、異種他分野や障害をお持ちの方々からのご教示をいただけることを期待しています。
 少しずつ改良の手を加えて、便利な『字典』になるように育てていきたいと思っています。

 今回公開した『立体〈ひらがな〉字典』は、「挑戦的萌芽研究」において科研運用補助員として奮闘している関口祐未さんの試行版です。

 感想なども含めて、ご意見やアドバイスをいただけると幸いです。
posted by genjiito at 12:12| Comment(0) | ■変体仮名

2016年02月02日

点字による変体仮名版の翻字は可能か(7/to 中野)

 昨日掲載した、中野さんからの点字による翻字に関する意見に関して、私が今思うところを記しておきます。
 
(1)写本の情報をどの程度翻字で再現するのか

 「わざわざ翻字を作成する意味」については、私も真っ正面からは考えていませんでした。
 確かに、「最初から現物やその写真、凸字版を研究に使えばよい」わけですから。
 しかし、写本に書写された文字を読み取り、その意味するところを考えるのは、やはり時間と手間がかかります。しかも、翻字には原本固有の誤写や誤読が存在するので、文字列や字形からいろいろと想像を逞しくするのには、相当のエネルギーが求められます。
 さらには、虫損や落丁や錯簡などなど、写本が抱える状況も翻字に影響を与えます。

 そこで、現行の文字で印字されている翻字資料を横に置いた方が、書かれている内容の判読は格段に正確で早くなります。また、書写状態を考慮することなく、書かれている文字列に集中できます。
 分野を異にする方々も、統一された現行の文字で印字された翻字だと、利用の便が拡大するのも確かです。

 さらには検索に関連して、「検索の利便性のために原文の再現性を犠牲にして、語の表記の統一をめざす翻字の方針もありうるのではないか」という見方は、私が『源氏物語別本集成 全15巻』(伊井・伊藤・小林編、桜楓社・おうふう、1989(平成元)年〜2002(平成14)年)と『源氏物語別本集成 続 全15巻』(同編、おうふう、2005(平成17)年〜第7巻まで刊行)に取り組む中で実施していたことでもあります。デジタル化を意識した本文データベースの構築のためには、検索されることを意識して文字を統一した翻字をせざるをえなかったのです。
 つまり、「原文の再現性と検索の利便性の両立」は、相矛盾するものなので今後とも検討課題です。

 とはいえ、もっとも優先すべきことは、翻字対象とする原本の再現性だと思います。
 しかも、変体仮名がユニコードとして登録されると、電子情報としての文字がこれまでの手書きや印刷物とはまったく異なったものとなります。本文データベースの基礎となる文字データの中でも、特に仮名文字がもつ情報の質と量が一大変革をきたします。上記の矛盾点は、文字を操作するプログラムやコーパスによって、意識することなく自由に双方の文字を扱えるようになります。

 その意味からも、原本に立ち戻れる、変体仮名を交えた翻字の意義が重要になるはずです。
 原本に「阿」と書いてあるのに、現在の翻字方式では「あ」としています。これでは、未来永劫に原本の正しい書写状態や表記に戻れないのです。
 中野さんも書いておられる、「出来る限り原文の再現ができる方法」は、この問題に着手する最初に確認しておくべきことだと思います。

 また、目が不自由な方が写本を触読や聴読によって読むにあたり、変体仮名の字母レベルでの区別がつかなけれは、写本を読みだしてもすぐに中断することになります。
 現在の変体仮名は、明治33年以降は、ほとんど教育の現場では扱われなかったのですから、今後とも目が見える見えないに関わらず、学習する環境を整える必要があります。
 その際に、変体仮名を点字でどう表記・表現すべきかが問題となるはずです。
 今私は、この問題に一日も早く着手して、多くの方々の意見を集約する形で、変体仮名の理解と習得をめざすシステム作りが急務だと思っています。

 
(2)変体仮名を点字で表す場合どのようにするか

 中野さんのおっしゃる、「変体仮名に対応する点字そのものを作成する」ことに関して、「点字2字、もしくは3字を組み合わせて変体仮名であるという情報を付与する」ということが、今一番可能性の高い方策かもしれません。
 ただし、その場合にも、国立国語研究所が提示しておられる「学術情報交換用変体仮名セット」の中でいえば、「か」の変体仮名として以下の11文字が掲載されていることが、大きな問題をもたらします。

「佳・加・可・嘉・家・我・歟・賀・閑・香・駕」



160202_unicodoka




 鎌倉時代の書写になるハーバード大学本「須磨」「蜻蛉」と歴博本「鈴虫」の三冊だけであれば、「か」は「加」と「可」だけで翻字できます。具体的に言えば、各巻には次のような用例数が確認できています(各巻の数値の多寡は今はおきます)。


   須磨/ 鈴虫/ 蜻蛉= 合計
か= 82/ 10/409= 501
可=303/389/626=1318


 しかし、室町時代から江戸時代へと翻字対象となる写本や版本を広げていくと、上記のような11文字種も出現する「か」などは、その対処が大変になります。
 これは、時間をかけて方策を練る必要がありそうです。

 
(3)変体仮名の音声よみあげについて

 ご提案の「音声情報が付与された写本源氏物語コーパスの作成」については、触読研究の科研で研究協力者としてご協力願っている、国語研の高田智和先生のお力にすがることにしましょう。高田先生は「学術情報交換用変体仮名セット」を策定して提案するメンバーのチーフということでもあり、いろいろと示唆に富むアドバイスをいただけることでしょう。
 高田先生、勝手に頼りにしています。ご寛恕のほどを。
posted by genjiito at 22:08| Comment(0) | ■変体仮名

2016年02月01日

点字による変体仮名版の翻字は可能か(6/from 中野)

 私が中野さんに投げかけたこと「点字による変体仮名版の翻字は可能か(3/伊藤 to 中野)」(2016年01月26日)に関して、以下の返信をいただいています。
 一昨日(1月30日)にいただいたものです。

 私の文章に触発されて、また新たに気づいた問題点もあるようです。
 お互いが思いついたままにやりとりしている内容を公開するものです。
 問題点や対処及び解決策などについては、このコラボレーションを通して、折々に整理したいと思います。

 いましばらくのお付き合いを願います。
 また、ご意見やご感想などがありましたら、いつでもお寄せください。
 
----- 以下、中野さんからの返信(No.2─1月30日) -----
 
(1)写本の情報をどの程度翻字で再現するのか

しろうとの考えでお恥ずかしいのですが、この際なので聞いてしまいます。
私は写本がスラスラとは読めないので、翻字文の存在は非常にありがたく感じています。それを作成してくださっている方々には日頃から感謝の気持でいっぱいでした。
他方、写本をすらすらとよめる専門家の先生方にとって、翻字の作成とはご自身の研究上のどのような利点があるのだろう、という素朴な疑問が長年ありました。
翻字の際には、どうしても情報量や情報の質が変化するもので、すべての情報をそのまま再現したい、というのはとてもコストのかかる作業となります。それならば、写本を読める方にとっては、最初から現物やその写真、凸字版を研究に使えばよいのであって、わざわざ翻字を作成する意味とはなんなのだろう、というのは前々から不思議におもっておりました。

しろうと考えとして、翻字の意義としましては、
まず、写本をよめる研究の後継者の育成のためにはやはり、翻字されたなるべく原文に近い活字文が用意されることは必要なのかもしれないと思います。いままで活字ばかり読んできて、大学に入学していきなり写本の写真を渡されて読むように言われたときに、やはり翻字文にずいぶん助けられた覚えがあります。

もう一つは、検索の利便性です。
翻字の際には、索引が作成されることが多く、これが研究の際には非常に助けになりました。
また、近年では電子化された翻字文がインターネット上などで公開されることとなりますが、これによりさらに検索の利便性が向上しました。
ただし、このとき、原文の表記の差異を忠実に再現してしまうと、たとえば表記にゆれのある語を、一括で検索する、などということが難しくなります。翻字ならではの特性を利用しよう、という方針があるときには、検索の利便性のために原文の再現性を犠牲にして、語の表記の統一をめざす翻字の方針もありうるのではないか、と考えました。
そして、原文の再現性と検索の利便性の両立を考えるのであれば、翻字文の作成のみならず、言語情報(語彙・品詞・統語・音声・文字表記情報等)が付与された源氏物語コーパスの作成までを考慮に入れる必要もあるでしょう。

いろいろ書いてしまいましたが、まとめますと、原文にある情報を翻字の際にすべて再現するというのは難しく、どの情報を優先して再現するか、という取捨選択がかならず必要になるかと思います。
そのときに、優先すべき情報とはなにか、という議論が必要になるのではないでしょうか。ただし、その優先順位は、研究者の研究目的や専門によってさまざまであるかと思います。そのなかで、多くの研究者がおおむね合意ができそうな翻字文とはどのような形のものなのか、ということに私は興味があります。専門の研究者の方々のご意見をうかがいたいところです。

ただし、今回の点字翻字の場合は、研究目的は置いておいて、「出来る限り原文の再現ができる方法」を検討しておくことも、必要かと思います。まず、点字で翻字はどこまで可能か、というところも未知数ではありますので。
 
(2)変体仮名を点字で表す場合どのようにするか

変体仮名の点字についてですが、ブログの記事で渡邊寛子氏がお示しのとおり、文字そのもので翻字するというより、注釈のような形で補う、というものが一つ、おおきな方法としてあり得るかとおもいます。
また、変体仮名に対応する点字そのものを作成する、ということも考えられるかもしれません。漢字対応点字を利用することも考えられますが、原文の漢字表記も翻字の際に再現するのであれば、それらとの混在が問題になってきます。
まったく新しく作るのであれば、点字2字、もしくは3字を組み合わせて変体仮名であるという情報を付与する、などが考えられるかもしれません。
たとえば点字で「が」をかきあらわす場合、「濁音符+か」で2字で「が」という1音を表しています。同様に、たとえば「変体仮名符+音生情報+字母情報」のような組み合わせで、あらたに点字で変体仮名を作成することも可能かと思います。ただし、まったく新しいこころみとなりますので、研究開発にコストが必要となるかと思います。
 
(3)変体仮名の音声よみあげについて

自動音声よみあげの問題についてですが、作品の読解の際などには、いちいち変体仮名の情報がよみあげられるよりは、音のみがよみあげられたほうが良い場合もあるでしょう。表記の研究をするばあいには変体仮名の情報がよみあげられる方がのぞましいでしょう。どちらか、ではなく両方を、よみてが時と場合によって自在に選択できるようにするのが、一番よいのではないかとおもいます。
(1)ともかかわりがあるのですが、電子化するさいには、翻字文の作成、というよりは、音声情報が付与された写本源氏物語コーパスの作成を目指すことも、音声よみあげのためには有用かもしれないと考えております。
 
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〈この意見交換は、明日の「点字による変体仮名版の翻字は可能か(7/伊藤 to 中野)」へ続く〉
posted by genjiito at 23:53| Comment(0) | ■変体仮名

2015年09月25日

古写本『源氏物語』の翻字に関する凡例の追加(その1)

 ハーバード大学本「須磨」と「蜻蛉」、そして歴博本「鈴虫」の「変体仮名翻字版」を作成しています。その中で導入した、これまでの翻字の方針をさらに改善した事例を紹介します。

 これまでに、「変体仮名翻字版」を作成するための凡例は、暫定版ではあるものの、次の記事で一応の形を提示しました。

「『源氏物語』の翻字本文に関する凡例の改訂(その1)」(2015年01月18日)

「『源氏物語』の翻字本文に関する凡例の改訂(その2)」(2015年01月19日)

「『源氏物語』の翻字本文に関する凡例の改訂(その3)」(2015年01月21日)

 今は、新しい凡例を公開する用意を進めています。
 その前に、これまでと異なる場合の対処を提示して、ご教示をいただきたいと思います。

 「変体仮名翻字版」は、より原本の文字表記を忠実に再現できるように翻字し、精緻な古写本の書誌と本文の研究に資する情報を提供するところに特色があります。

 これまで個人的に思案していた中に、写本の書写状態をどのようにデータベースに記述するか、という問題があります。

 文字で記述するテキストデータベースでは、画像がなくても原本が再現できるものを目指します。そのために、これまでに、次のような付加情報を仕分けして明示する記号を用いてきました


〈/(備考)〉〈ナシ(欠脱)〉〈=(傍書)〉〈+(補入)〉〈±(補入記号なしの補入)〉〈$(ミセケチ)〉〈&(ナゾリ)〉〈△(不明)〉〈「 」(和歌)〉〈合点〉〈濁点〉〈改頁〉〈改行〉〈判読〉〈ママ〉〈朱〉〈墨〉〈墨ヨゴレ〉〈削除〉〈抹消〉〈落丁〉〈破損〉〈付箋〉〈上空白部〉〈割注〉


 今回、「変体仮名翻字版」に全面移行するにあたり、書写状態を再現する上で基本となる〈行末〉や〈丁末〉の様態を、次の識別記号を用いて記述することにしました。
 従来これは、傍記情報として「/=○○」としたり、補入記号である「○」のない補入としていたものを、さらに詳細に識別できるようにしたものです。
 以下にあげる例の末尾の6桁の数字は、『源氏物語別本集成』の文節番号です。
 
* 本行の本文の左側に、本行本文とすべき傍書がある場合は、〈左傍記〉として明示する。
   例 きこしめしける尓こそ八/尓=こ〈左傍記〉(522940)


150925_nikoso




 これは、「こそ」が一続きの文字で書写されているため、「こ」は傍記ながらも本行本文として扱ったものです。ただし、「尓」と「そ」の間が空いているのは、どのような理由なのかはわかりません。親本がどのような状態だったのか、他の例を集めて参照しながら、機会をあらためて考えます。
 
* 一行に書ききれなくて行末の左右にはみ出しているものは、〈行末右〉〈行末左〉〈丁末右〉〈丁末左〉という付加情報を付した。ただし、これは一行に納めようとする気持ちが強いため、本行本文として扱う。補入記号なしの補入とはしない。
   例 【申】させ多る二/る=二〈行末右〉(520233)


150926_taruni




 ここで、「る」の右横に書き添えられた「二」は、補入記号のない補入とせず、一行に書ききれなかった行末の文字「二」を右横に書いてから次の行に移ったものとしました。
 
* 丁末に、書ききれなかった文字を左端に書き添えた例。
   例 【侍】ら八/ら=八〈丁末左〉(520281)


150925_haberaha




 この丁末の「八」は、この丁に親本通りには最終行内に書ききれなかったものです。ただし、次の丁に「八」だけを持ち越すことを避けるために、あえて丁末の左横に書き添えたものです。
 
 非常に複雑な例もあげておきます。
   例 ふく尓て/く$く、傍く&く、そ&尓、尓=て〈行末左〉(521486)


150925_fukunite




 これは、まず、「ふく」の「く」をミセケチにした後、「く」をその右に傍記しています。ただし、その傍記の「く」も念を入れてなぞっているのです。どうやら「く」が「て」に見える文字だったために、その上からご丁寧に「く」をなぞったようです。
 次に、「そ」の上から「尓」となぞり、その行に書ききれなかった「て」を「尓」の左横に書き添えたのです。
 
 こうして、〈行末右〉〈行末左〉〈丁末右〉〈丁末左〉を用いて、書写状態を再現できるように明示することにしました。これにより、書写者が行末で次の行へ移行するために注意力が緩む場合や、丁末で次の用紙に移る動作が伴うことから誘発される書写ミスの原因や傾向が、さまざまに推測できるようになりました。ここは、異文が発生しやすい箇所でもあります。

 付加情報を記述するための記号をあまり増やすと、今後の翻字の進捗とデータ作成の手間が妨げられます。それでなくても、『源氏物語』の古写本の翻字が遅れに遅れているのです。データ作成に手間がかかりすぎると、いつまでたってもデータベースの構築が捗りません。
 このあたりは、妥協しながらデータ構築に専念すべきところでしょうか。

 この『源氏物語』の「変体仮名翻字版」によるデータベースは、現在確認できている古写本を翻字して入力するだけでも90年はかかると、私は見ています。
 私がこのデータベースに関われるのは後十年あればいい方なので、さらなる再現性の高い『源氏物語』の本文データベースは、バトンタッチする次の世代にお願いするしかありません。
 現在、この『源氏物語』の本文データベースとしての〈源氏物語翻字文庫〉は、私の手元で管理して追加や更新を重ねています。

 幸いなことに、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉に関わる方々によって、こうしたデータの編集方針の継承が期待できるので、私はそのインフラ整備にさらなる精力を注ぎ込もうと思います。
 今回の凡例の追加も、その一環です。
 そして、少しずつであっても成長しつづける『源氏物語』の本文データベースに育てていく基盤を構築し、次世代に渡すことに専念したいと思っています。

 まずは、翻字という基礎的な部分を手伝ってくださる方の参加を求めています。
 「NPO法人〈源氏物語電子資料館〉」のこうした活動へのご理解とご協力を、どうかよろしくお願いいたします。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ■変体仮名