2019年11月26日

清張全集復読(37)『火の路 下』の麻薬と贋作と学界批判

 上巻については、「清張全集復読(36)『火の路 上』」(2019年10月15日)に記しました。

 下巻は、ゾロアスター教の聖地であるイランを旅する高須通子の現地調査で始まります。

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見知らぬ土地を歩くのは、私も大好きです。楽しく読み進めました。もちろん、ゾロアスター教に関する知識も蓄えることができました。
 沈黙の塔で、高須は大和平野から望む二上山の景色を思い浮かべます。さらには、飛鳥の地をも。
 たくさんの言語が例としてあがります。ペルシア語、アベスター語、サンスクリット語、などなど。そして、その背景には、異教という宗教儀礼と秘儀としての陶酔薬物の麻薬が横たわります。
 同時進行で、京都の骨董収集家の贋作問題や、人間関係の複雑な事情などが、歴史と文化と研究が綯い交ぜになって読者を引っ張っていきます。壮大な規模の物語です。
 イランを旅する通子は、イスファハンまでをみすぼらしい身なりの運転手のタクシーで移動します。その運転手の横には、病気の子供が乗っていました。この親子の設定に、私は清張が我が父と自分の姿を思い浮かべているように思えました。『砂の器』に出てくる親子が、二重写しのようになって見えたのです。これは、あくまでも私の勝手な想像ですが。
 益田岩船の南北の中心軸が、耳成山=藤原京に向いていることの意味を推理する過程は、読者を考古学へと導きます。これだけ石造遺物をめぐって、飛鳥、イラン、考古学、盗掘、学界の詳細な話に付き合うと、にわか推理マニアになった気分にさせられます。
 樋口清之先生の『古物偽造考』を引いて、偽物の古墳出土品を作る手法などが紹介されています。樋口先生の授業を受け、研究室に行ったことがあります。博物館の学芸員の資格取得の講座を受講した時に、楽しい話をたくさん伺いました。松本清張のと付き合いについても。この作品の背景には、樋口先生からのアドバイスもあることでしょう。
 後半で、イランから帰った高須が『史脈』に掲載されたとする研究論文が掲載されます。なかなかおもしろい内容です。最終部分で語られる、飛鳥の益田岩船と播磨石の宝殿が、本来は一対の、ペルシアの拝火神殿となるはずのものだったのではないか、という推論はおもしろいと思います。その未完成品が、組み合わされないままに今あるのだというのです。これに対して、清張は高須の論文「飛鳥文化のイラン的要素−とくに斉明期を中心とする古代史考察と石造遺物について」に関する学界の反応について、批判もなく無視されるだろうと言います(下294頁)。これまでも語られたように、清張特有の在野の視点からの感情を交えた評価が記されます。しかし、この高須論文はあまりにも推論に推論を重ねたものなので、研究者が書いたにしては学問的な証明がなされておらず、論文とは言えないと思います。これは、学者を描ききれなかった、清張の限界だったのかもしれません。自分でも、作中で海津信六のことばを借りて、次のように言います。

このような論考には、その実証範囲におのずから限界があるのはやむを得ないことと思います。しかし、これは将来古学的遺物や文献などが発見されぬかぎりは望み得ぬことで、要はその推論に説得性があるかないかによることと思います。
 日本古代史は、百花繚乱のおもむきがありますが、一部の何ら論証なき恣意な臆説、ナンセ
ンスな強弁は別として、大方の学者は「実証」に拠らずば十分にモノ言えぬ状態のようです。
「怯懦な」古代史学者は、ひたすら学界論敵の攻撃をおそれて自己防衛を先としています。だが、
その「実証」たるや青い鳥の如く求めて永遠に求め得ざる類のものであります。小生の感想では、このような「実証」とは実に愚直な「実証」のたぐいと考えざるを得ません。
 証拠品(考古学的遺物や文書等)の羅列によって不動の実証を得たとするいわゆる帰納学者の愚鈍では、資料乏しき古代学は遅々として進みません。そこに鋭敏にして犀利な演繹的方法の導入が必要です。もし、その方法に大きな誤りがなければ、漫然たる列品的証拠品(資料)は磁気に吸い寄せられるが如くにその演繹的理論の秩序下に入るのであります。これは数は少ないが、天才的な先学によってすでに立証されています。……(下386頁)
(中略)
所詮、仮説を立て得ないものは発想の貧困をものがたるだけです。仮説のあとから実証を求めればよいのです。ヘロドトスの『歴史』もはじめは大ほら吹きとして嘲罵の対象になりました。(下394頁)


 物語としては、途切れ途切れに寸景を挟んで接続されているので、堅苦しい論文が普通に読めます。これは、清張の工夫といえるでしょう。
 最後は、清張らしい叙情的な表現で語られます。風景の中に物語が閉じ込められていきます。
 読後に、やはり推測が多すぎると思いました。論文が主体となった後編からは、物語が雑になりました。これ以上は長くできなかったために、こうして足早に手紙などを小道具にして、推測で話をまとめることにしたのでしょう。
 それでも、スケールの大きな物語を堪能しました。【5】

【追記】
 本日、11月26日(火)京都新聞(朝刊)の一面に、次の見出しが躍っています。
  松本清張に京の「先生」
  手紙100通やりとり
  在野の古代史家・薮田嘉一郎
  「火の路」執筆で教え請う

 清張は、朝日新聞に「火の路(回路)」を連載しながら、いわゆる「通信講座」を在野の薮田に頼んでいたようです。
 おもしろい資料が期せずして現れたものです。酒船石、益田岩船、ゾロアスター教、などなど、清張の推理の根幹部分と、この作品ができあがる経緯が、これによって明らかになっていくことでしょう。
 
 
 
 
posted by genjiito at 19:34| Comment(0) | □清張復読

2019年10月15日

清張全集復読(36)『火の路 上』

 『火の路 上』(松本清張、文春文庫、1978年7月)を読みました。

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 この作品を読むのは3度目です。新聞に連載されていた時、次に単行本で、そして今回は文庫本で読みました。

 開巻早々、飛鳥の酒船石の写真が出てきます。これは、読者にとっては現在残されている遺物のイメージを膨らませることになる、ありがたい配慮です。そして、酒船石の所で一人の女性が登場。謎解きの始まりです。さらに、奈良市内での殺傷事件へと話題が発展します。古美術家と歴史学者が展開する、古代史ミステリーです。
 中でも、学者批判、論文盗用、実証主義、民俗学に対する批判は、清張の内部にあった本音の一端だと思われます。少し長くなるのも厭わず、引いておきます。

 それは先生が弟子の論文を平気で盗用するという話であった。弟子は、学界での自分の将来を先生に托しているので、文句も言えずに泣寝入りになる、それが学界の「慣習」だと言っていた。
「海津信六の論文を、さすがにそのまま盗用する学者はいない。しかし、海津論文は示唆が多いから、下敷きにするにはもってこいだよ」
「しかし、そんなことをしてたら、タネが分かるんじゃないですか?」
「海津信六の古い論文を知っている者には、ははあ、この先生の学説はこれからタネを取っているのだな、と推定がつく。が、それが表立って非難されないのは、お互いが同じようなことをやっている点にもある」
「その場合、自説の基礎となった海津さんの論文を出典名として挙げないのですか?」
「とんでもないよ、君」
と、佐田はパイプを口から放した。
「……そんな公明な心がけの学者はほとんどいない。自信のない人たちばかりだからね。それに海津信六の論文名を挙げたら、それだけで自己のマイナスになる」
「どうして海津信六さんの論文を出典として挙げると、その学者のマイナスになるんですか。そんな天才的な学者の説だったら、かえってプラスじゃないのですか?」
 福原は素人ぽい疑問を質した。
「そういう正論が通らないのが学界だ。派閥がある。ご承知の通りにね。で、どんな権威ある学者の説でも、反対派の学者に引用されることは、まず、ないといっていいね。引用した学者が自派から総スカンを喰うからね。まして海津信六は若いときに脱落した学者だ。そういうのを出典として明記したら、ひどい目に遇う」
 佐田はパイプを弄んで口からはなしたり当てたりしていた。
「そういう脱落した学者の説を下敷きにして論文を書くというのは、どういうことですか?」
「大きな矛盾だ。その矛盾がまかり通るところが学界の特殊性だね。要するに、海津信六の考えをとらざるを得ないくらいに現在の学者、学部や研究所の教授、助教授、講師連の頭は貧弱なんだよ」(135〜136頁)

(中略)

「実証的というのは学問的には尊重されるのでしょう?」
「まさに、その通り。実証性のない学問は学問ではない。しかし、このごろは実証というのが資料の羅列に終わるということといっしょくたにされているね。これは才能のない学者がわざとその混同に持ちこんでいる傾向がある。たとえば、奈良で君に話したように、板垣助教授などは資料として他の学説を紹介するだけで、自説はあまり出さない。先生はそれが実証的で科学的だと思ってるんだね。ぼくに言わせたら、それはエセ実証主義で、本人の無能露呈以外の何ものでもない。……だいたい、板垣君の上にいる教授の久保能之君にしてからそうなんだ。あの男、堅実型といわれているが、この堅実も無能という語に置きかえてもいいね。無能だから、発想が他に伸びない。いきおい、安全な自己の守備範囲だけを固めることになる。これを世間では、久保の堅実主義だとか慎重主義だとか言っている。それを助教授の板垣君が見習ってるのさ。まあ、久保教授についてはそう言われても仕方がない。久保君は、もともと史学の出身ではなく、法学畑
から横すべりして来て、教授になったようなものだからね」(137頁)

(中略)

 佐田のロ調は、静かな昂奮が伴うにつれて、論文調を帯びた。
「久保君はそういう男さ。そういつやりかただ。だから古代の罪科でも祝詞にあるような天津罪・国津罪になると、もう、お手上げだ。民俗学の連中の言っていることをそのまま援用している。だいたい、民俗学を古代歴史学の補助学問とか隣接学問と思いこんでいるのが奴さんの無知でね。民俗学なんてものは学問にはほど遠いものさ。民俗学に歴史性の欠落が言われているのを、いまさらとぼくは言いたいね。久保君は、神がかり的な折口信夫あたりの直観説を引用すれば、信者の民俗学者どもがみんな恐れ入ってしまうから、自説の強化になると思っている憐れむべき男だ。彼の古代法制というのも、日本のことばかり見ているから、分からないのさ。皆目、無知なことのみ言うようになる。古代の朝鮮、北アジア、東アジアの民族習慣に眼をむけないから、トンチンカンなことばかり書いたり言ったりするようになる。まあ、そう彼に注文するほうが、どだい無理な話だがね。それで大学教授だから、大学教授も質が落ちたものさ」(138〜139頁)


 ここに出てくる海津信六は、学界から弾き出された男です。「海津信六は官学の大学出ではない。私立の大学にも行っていない。地方の高等師範学校出身さ」(141頁)と語られます。岡山県の津山出身だとも。旧制中学の歴史の教師でした。私には、このことから池田亀鑑の経歴を思い出させます。なお、松本清張は、國學院大學の樋口清之先生と親交がありました。博物館の学芸員の資格をとるために受講した樋口先生の講義で、松本清張の話がよく出ました。ここに書かれていることは、学生時代から目にし、耳にし、実体験もしたことばかりです。この発言の背景には、清張の恵まれなかった己の才能と生い立ちを支える、確たる信念があるのです。
 その海津は、T大学史学科の助手をしていました。しかし、天才とも言われていた海津は、女性とのことで転落し、学問を捨てたのです。高須通子が追いかける飛鳥の石造遺物の謎に、この海津の過去にまつわる謎がないまぜになり、物語はさらに興味深いものへと展開していきます。
 問題点が次第に姿を現し、大きなうねりとなって読者に迫ってくるのは、清張の小説の特徴です。
 やがて、海津が学者だった頃の実像が見え、高須の研究意欲が刺激されます。海津から得た示唆が、飛鳥の遺物とゾロアスター教に結びつくと、中央アジアの文化論が展開されます。このあたりは、在野の歴史家清張の面目躍如たるものが遺憾なく発揮されています。学問上の専門知識が、ふんだんに語られます。もはや、歴史小説と研究史と研究論文が渾然一体となった世界として読者に提示されます。清張ならではの、レベルの高い専門家の知識の領域に読者は誘われます。
 次第に中東のイランが注目され、実際に高須は出向くことになります。ここで、海津が示す調査研究の手法に関する私見は、今に通ずるものだと言えるでしょう。

 もちろんイランにはこれまで日本からも多数の学者が行っており、詳細に現地を調査したり観察してまわっていますから、いわゆる「残滓」は無いようにも思われます。けれども、学者はその目的とするところによって調査方法も違うし、主目的からはずれたものには眼が届かないと思います。見れども見えず、ということにもなりましょう。また、いくら視察してもその学者の思念にないものは無視されてしまいます。さらに敢えて言えば、学者に慧眼がなかったら、これまたモノが見えないのと同様です。また、たとえそのモノが眼に入ったとしても、間違った解釈をされると実態からはずれることになります。(352頁)


 通子がイランに行くことになってから、身辺の人間関係が立ち現れて来ます。一人で研究者として生きていても、現実には人とのつながりの中で生きているのです。その中でも、過去の辛かったことが蘇りました。悔いしか残らなかった恋愛話が、長野の実家で夜空を見上げながら思い起こされます。
 これまで、この作品を3度読んでいます。1回目は、この作品が連載された日々の新聞で。そして、2回目は、この作品が単行本として刊行されたすぐに。さらには、大阪の高校で、秋の遠足に飛鳥へ連れて行くことにした時、現地を下見しながらこの作品を拾い読みしたのです。そして、この作品に触れながら、遠足の案内の資料を作りました。授業でも取り上げました。
 今、3度目を読み進め、ちょうど半ばに至りました。そして、この上巻の後半のゾロアスター教の話の後にある、高須通子の個人的な恋愛話が語られていたことを、初めて知った思いでいます。古代史のことばかりが記憶に残り、こうした、一人の女性が生きていく上でのさまざまな人とのしがらみも、丹念に描かれていたことを読み飛ばしていたようです。長編の作品になると、こうしたこともあるのだと思わされています。清張は、人間の内面を描き出す力を持った作家であったことに、あらためて思い至りました。読みが浅かったことを、この前半を終わる時点で痛感させられました。
 
 
書誌:昭和48年(1973)6月16日〜翌49年10月13日まで、朝日新聞に「火の回路」として連載。
昭和50年11月に単行本として『火の路 上』(文藝春秋)が、翌月に『火の路 下』が刊行。
文庫本としては、昭和53年7月に文春文庫から上下2巻が、昭和54年7月に光文社カッパノベルスとして上下2巻が、さらに昭和58年3月に文藝春秋社から『松本清張全集 第50巻(全66巻)』に収録。
 
 
 
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2019年09月09日

清張全集復読(35)「空白の意匠」「上申書」

■「空白の意匠」
 地方新聞と広告代理店を扱った作品です。記事に商品名を出したことで、広告会社側の不快感を理解しようともしない編集部に、新聞の広告担当者は憤慨します。新聞を支える広告収入が途絶えることの意味が、記事を書く側にはわかっていない、という問題が展開します。そして、物語はトントン拍子に進んだかに見えて、最後にどんでん返しがあります。登場人物が、みごとに各々の役割を果たしています。一気に読ませます。【5】
 
 
初出誌:『新潮』(昭和34年4〜5月)
 
※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
中央の広告代理店に牛耳られる地方紙広告部長の悲哀を描いたサラリーマン残酷物語。朝日新聞西部本社広告部員だった作者の知見が随所に生かされている。(50頁)

 
 
 
■「上申書」
 妻を殺したということで拘留された男の悲痛な叫びが聞こえて来ます。留置所での拷問や、責め苦を味わいながら作り話を仕上げさせられる人間の心の内がよく描かれています。裁判になり、2回目の公判から「やっていない」と否認します。二転三転する様は、私にかつての体験を思い出させました。
 それは、私が20歳の成人式の数日前のことでした。住み込んでいた新聞配達店から早朝に火が出て、お店は全焼しました。その時、深夜まで一緒に大井町で飲んでいた仲間の1人が執拗な尋問を受け、自分が火を付けたと言おうか、と心の苦しみを訴えかけるようになりました。このことは、本ブログですでに書いたことなので、経緯の詳細は省略します。とにかく、人間は追い詰められると、一時的にせよ、いたたまれない苦しさから逃げようとするようです。私の仲間も、追い詰められ、やってもいないことを認めて、気持ちを楽にしようとしたのです。火が出る直前まで一緒にいた私は、やりもしないことを認めてはいけないことを言い、何とか思い留まってもらったということがありました。
 この清張の作品にも、そうした追い詰められて逃げ場の亡くなった人間の弱さが語られています。アリバイが崩れないことを、作品の最後にしっかりと書き留めています。結論が知りたい読者は、中途半端なままに読み終えたことでしょう。しかし、警察から手荒い拷問を交えての一方的な攻撃に、どれだけの人が最後まで信念を貫き通せるでしょうか。私は、自分を守るために、警察のいいなりになってでっち上げられた調書に署名する人が大多数だと思っています。
 この作品では、追い詰められた善良な市民の心の移り変わりを、自分を客観視して読み取るべきだと思います。【3】
 
 
初出誌:『文藝春秋』(昭和34年2月)
 
 
 
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2019年05月31日

清張全集複読(34)「剥製」「危険な斜面」「願望」

■「剥製」
 鳥を呼び寄せる名人といわれる男が取り上げられます。雑誌記者とカメラマンが取材に行きます。しかし、失望して帰ります。
 後半は、すでに勢いをなくした美術評論家のことへと移ります。文筆家や研究者を見る冷めた目の語り手は、まさに清張そのものです。ただし、作品としては2つの話がうまく連携できずじまいだったように思えます。【2】
 
初出誌:『中央公論 文芸特集号』(昭和34年1月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
年末の忙しいさなかで、後半を締切ぎりぎりに印刷所で書いた。前半をホテルで書いたのだが、ほかの仕事に追われて、ふらふらしながらあとをつづけたのをおぼえている。たしか、看護婦を呼んで注射を打ってもらったと思っている。その有様を見て嶋中鵬二氏がたいへんだな、と眩いた。(553頁下段)


※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
執筆量の限界を試してみようと積極的に仕事を引き受けた結果、この年後半から書痙になる。以後約9年間は福岡隆を専属速記者とし、口述筆記した原稿に加筆するという方法をとった。(中略)10月時点では前年からの継続分も含めて連載だけで11本という驚異的な執筆量を記録した。(281頁)

 
 
 
■「危険な斜面」
 秋葉文作は歌舞伎座のロビーで、その昔関係を持っていた野関利江と、10年ぶりの再会をしました。利江は、今は秋葉の会社の会長の愛人なのです。巧みな人物設定で、物語展開が楽しみになります。
 恋愛関係において、相手を器具と見るか恋人と思うかの違いから、破綻が生まれます。しかも、清張が得意な時刻表を活用したトリック。そして、最期の場面。うまい構成です。【4】
 
初出誌:『オール讀物』(昭和34年2月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
企業の機構の中にいる人間の出世欲が転落の斜面に足をかけているというのがテーマ。いまではこういう筋のものが多くて珍しくなくなったが、女の心理の変化まで読みとれなかった自信過剰男が書きたかった。(553頁下段)

 
 
 
■「願望」
 下積みから身を成した者が、一気に願望を満たす話が、江戸の本に書かれているそうです。その中から2つの話を引き、人間の心の内にある願望を語ります。物語というよりも、コラムに近い性格の掌編です。【1】
 
初出誌:『週刊朝日別冊 時代小説傑作特集』(昭和34年2月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「願望」は、作品じたいのなかに「解説」が書きこまれている。「塵塚物語」と「慶長見聞集」からとった。はじめから小品むけである。(553頁下段)

 
 
 
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2019年05月24日

清張全集複読(33)「装飾評伝」「巻頭句の女」「紙の牙」

■「装飾評伝」
 異端の画家と言われた名和薛治をめぐる話です。その名和から芦野信弘へと展開します。そこには、清張がかねてより抱いていた疑問がありました。芦野が伝記作者になった、と言うところから話は急展開です。さらには、名和はなぜ晩年になって崩れた生活に陥ったのかについて、鋭い観察眼が縦横に光ります。芦野の娘の登場が、この話の転回点だと言えるでしょう。
 天才画家と不幸な友人の人間関係を、清張はあらん限りの想像と連想を綯い交ぜにして語ります。人間観察が実を結んだ秀逸な物語が誕生したのです。【5】
 
初出誌:『文藝春秋』(昭和33年6月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
 発表当時、モデルは岸田劉生ではないかと言われたが、劉生がモデルでないにしても、それらしい性格は取り入れてある。もっとも、劉生らしきもののみならずいろいろな人を入れ混ぜてあるから、モデルうんぬんにはいささか当惑する。(552頁上段)

※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
岸田劉生をモデルにした一種の評伝小説で、このテーマはのちに『岸田劉生晩景』(『藝術新潮」65.2〜4)に結実する。(106頁左)

 
 
 
■「巻頭句の女」
 癌を胃潰瘍だと言って知らされなかった女が、話の中心に置かれます。病院や医者や愛人などが出入りする話の中で、殺人事件があったことがあぶり出されます。ただし、いかにも作り話だという内容です。清張も、ネタに困って無理やりこじつけて書いた作品だと思いました。【1】
 
初出誌:『小説新潮』(昭和33年7月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
自作が俳句雑誌の巻頭を占めるかどうかは、投稿者仲間の重大な関心事となっている。『ホトトギス』の虚子選で巻頭をもらうと、地方名士になったという話があるくらいだ。(553頁上段)

 
 
 
■「紙の牙」
 温泉地で、自分の存在を知られたくない男の心理が巧みに描かれて始まります。
 それを見かけた市政新聞の記者に脅されます。市役所に勤める男は、職をなくすことを怖れ、言いなりになるのでした。安泰を願う人間の弱みが語られます。
 終始、憎たらしいまでの悪党がリアルにる描かれています。作者は、こうした人々を見てきたからこそ書けるのでしょう。【4】
 
初出誌:『日本』(昭和33年10月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「紙の牙」は、じつはモデルがあって、地方のある自治体政界での出来事なのだが、このような事情は今でも中央、地方を問わず行なわれているに違いない。能吏がつまずくのはほとんどがスキャンダルである。(553頁上段)


 
 
 
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2019年04月12日

清張全集複読(32)「日光中宮祠事件」「真贋の森」

■「日光中宮祠事件」
 一警察署の捜査に不可解な点が多く見られました。それを追求する刑事が物語を紡ぎ出します。署長が初動時の失敗を覆い隠すために、意地になって一家心中を主張し続けたためとして進展します。面子が背景にあると見るのです。
 そんな中、一枚の小切手を徹底的に調べていくことで、活路が見い出されます。面子に拘る警察への批判意識が顕著です。さらには、犯人グループとでも言うべき朝鮮人の存在を意識した物語に仕立て上げています。この時期の世相と清張の興味と関心が、その背後にあるように思います。【4】


初出誌:『週刊朝日 別冊 新緑特別読物号』(昭和33年4月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による次の「あとがき」から、清張の調査手法の一端がうかがえます。
「日光中宮祠事件」は、戦後の混乱時の模様をまざまざとみせている実際の事件だ。一刑事が犯人を探し回って追及する姿がある警察雑誌に出ていたので、もっと詳しい関係書類を見たいと思い、当時の栃木県警察部長だった人を転任先の埼玉県警本部に訪ね、書類の一切を貸してもらった。これも、ほとんど記録通りに書いたが、話を聞いた場所の浦和の料亭の冬枯れた池の色がまだ眼に残っている。(551頁)

 
 
 
■「真贋の森」
 雑文書きの宅田伊作の元に、門倉孝造という博物館を解雇された骨董の鑑定屋がやって来ました。宅田は、日本美術界の大ボスであった東京帝大の本浦奨治教授に美術界から締め出された男でした。そのようなことがなければ、東大の同期仲間に伍する地位も名誉も手にしていたに違いないと悔やむのです。しかし、実証的な研究手法の津山誠一教授に近づいたがために、冷遇されることになったのです。
 津山先生は、本浦先生の業績の3分の2は贋作を扱ったものだと言います。しかし、《学者の礼儀》から問題視されなかったのです。また、《職人的》な鑑賞技術を持っていた研究者でもあったのです。
 宅田は、朝鮮で無為の13年間を過ごした後、内地の美術館の嘱託になります。しかし、2年後には本浦とその弟子の一言で、美術館の理事は宅田を馘にします。学者の世界の裏側が語られています。
 この作品には、日本美術史という学問に対する清張の不満や不合理だと思ったことが執拗に書き綴られています。日本美術に贋作が跳梁しているのは、特権者に作品が握られているからだと言います。所蔵家という地中に埋没しているのだと。そして、そうしたことを「盲点」という言葉の使い方で表現していることに興味を持ちました(294頁上段、314頁下段)。
 宅田は、九州から酒匂鳳岳という画家を連れて来て贋画家に育て上げます。それも、浦上玉堂だけを描かせるのです。そして、その贋作をアカデミズムの権威を試すために活用し、成功するのでした。さらには、贋画12〜13枚を売り立てに出すのです。正式に鑑定させ、封建的な日本美術史の盲点を突くのでした。
 しかし、少しでも自分を認めてほしいという人間の本性から、計画に狂いが生じます。人間を見つめる清張の面目躍如たるものがあります。この亀裂に、人間の本質が語られているのです。【4】


初出誌:『別冊文藝春秋』(昭和33年6月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。

「真贋の森」は、ヒントを取った実際の事件がないでもない。美術界に少し詳しい人なら、誰でもあの事件かと合点するだろう。しかし、この創作は全く私のものである。
 この作品は、在野の美術家に主人公を設定したが、いわゆる官製的な権威が飾りものであることを書きたかった。たとえば、文部省の技官だとか、文化財保護委員という名前だけで、古美術界や骨董屋の問にはハバが利くのである。国立博物館員の「肩書」で有難がられるのと同じである。(551頁)

 
※『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)に「津山孝造教授」(93頁)とあるのは、「津山誠一教授」の間違いであり、「角倉孝造」と混同したものです。
 
 
 
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2019年02月12日

清張全集復読(31)「黒地の絵」「氷雨」「額と歯」

■「黒地の絵」
 1950年の夏、小倉の祭で太鼓が鳴り響きます。しかし、朝鮮戦争に向かうために駐留していた黒人部隊は、戦地に赴く恐怖心から大胆な行動をします。300人もの脱走です。そのうちの6人が留吉の家に押し入り、妻芳子を襲ったのです。清張の憤りが気迫を持って語られます。
 また別の話では、朝鮮での戦死者を小倉に回収して死体処理をしていたというのです。その作業の内容がつぶさに描写されています。死体解剖の実情もリアルです。その詳細な情報を、清張はどうして集めたのかが気になりました。
 さて、留吉は黒人死体の刺青を調べていました。自分だけが知っているあパターンのものです。妻を襲った黒人をつきとめたい思いから、この仕事をしていたのです。そしてついに探し当て、ナイフで切り取ります。
 人間の常軌を逸した行動を、淡々と語ります。清張の歪んだ社会を見つめる目と、冷徹に人間を見つめる姿が浮き彫りになっています。【4】
 
初出誌:『新潮』(昭和33年3〜4月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
 「黒地の絵」は、朝鮮戦争中に実際に九州小倉に起こった事件で、この騒動のとき、私もその暴動地域のなかに住んでいた。しかし、黒人のこの暴動は、関係のないところでは全然気がつかれずに、私も翌朝になって事実を聞いたような次第だった。新聞には小倉キャンプの司令官が遺憾の意を表する意味の抽象的で簡単な発表をのせただけで、事件の詳しい報道は一切許されなかった。また、この短かい公式発表も北九州地区の新聞に載っただけで、全国的には報らされなかった。これを書くため小倉に戻って、当時の人たちの話を聞いたが、被害の届け出が少なかったのと、占領下だったために、現在でもよく分っていない。(51頁)

 
※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
清張が生地小倉で実体験した事件をもとに新たに現地取材して書き上げた力作で、『日本の黒い霧』に代表される戦後史物の先駆となる重要な作品。(55頁)


 
 
■「氷雨」
 渋谷の割烹料理屋が舞台です。年輩と若い女中の意地の張り合いが語られていきます。一人の男を巡って、駆け引きがあります。しかし、話は盛り上がらないままで終わります。清張にしては珍しい、描こうとしたものがうまく形にならなかった、とでもいうべき仕上がりです。【2】
 
初出誌:『小説公園』(昭和33年4月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「氷雨」は、新宿辺の小料理屋小景として書いた。いささか古風だが、このような女の世界は銀座あたりでもみられる。これを書いたのは昭和三十三、四年ごろで、私は飲めない酒を新宿あたりの小料理屋にときどき飲みに行っていた。(551頁)

 
 
■「額と歯」
 昭和7年に団琢磨が射殺されたことから始まります。そして、話は玉の井おはぐろどぶの死体事件へと展開します。バラバラ死体の殺人事件が迷宮入りかと思われた時でした。一人の新聞記者が、警察のトイレで刑事が口にした犯人逮捕の囁きを耳にしたことから、新聞記事が物語の表面に躍り出ます。新聞記者の経験がある清張だからこその、記事を書く記者の側からの事件が語られていきます。後半は一気に読まされました。ただし、話としてはそんなに凝ったものではありません。作者の自己の体験から生まれた話です。【3】
 
初出誌:『週刊朝日』(昭和33年5月)
 
 
 
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2019年02月11日

清張全集復読(30)「点」「拐帯行」「ある小官僚の抹殺」

■「点」
 脚本家の伊村のもとに、突然持ち込まれたメモ。九州の小説家という笠岡から、子供を介して話のネタと思われる「素材」が届きます。それを、押し売りのように買いとらされます。本人にあった所から、人間観察が始まります。警察、スパイ、共産党、などなどの単語が笠岡の口から出ました。底辺で生きる男の姿が描かれます。どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、その判断は読み手に委ねたまま、話は終わります。興味深い内容と、男のありようがリアルに描写されているだけに、もっと丁寧にまとめてほしいと思いました。【3】

初出誌:『中央公論』(昭和33年1月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
 「点」は、『中央公論』に発表したもので、九州の或る地方にいた警察側の対日共密偵に材を取った。そのころ、ちょうど小倉に帰省してその話を聞いたのだが、当人には会わなかった。人づてに知ったことを私の想像でおぎない、事実から離れた虚構にして書いたのだが、用がすめば警察から冷淡にされていく人たちに興味を持った。
 ところが、この小説が発表されたあと半年経って、当の男がとつぜん手紙をよこし、自分のことを書かれたので迷惑した、あれが村の評判になり、自分は土地にいられなくなったと抗議してきた。九州の片田舎で人の話題になるほど『中央公論』が大部数を刷っているとは思われなかったが、その後、彼自身が上京し、私に面会を強要してきた。そのときは細君と子供三人をぞろぞろ連れて、あんたのために一家が村にいられなくなったと言い、なんとかしてくれとすわりこんだ。細君は所帯やつれしていたし、子供はみんなうす汚ない格好をしていた。その後、その男は東京
で詐欺か何かをしたらしいが、小説としてはこっちのほうが面白かったかもしれない。小説を書いていると、こういう小さなトラブルが一年に一度か二度は必ず起こる。
 現実のことをモチーフにして小説を書く場合、いつも思うのは、われわれの想像力には限界があるということだ。そのため、材料の面白さに惹かれて虚構の部分がうすくなりがちである。これは事実が想像以上に強いということであり、虚構の弱さでは支えきれないということだろう。(550〜551頁)


※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
零落した元スパイの暗い肖像を描いた純文学。(119頁)

 
 
 
■「拐帯行」
 集金したお金の内の35万円を懐にして、隆志は久美子と指宿へ死に場所を求めて最期の旅に出ます。「拐帯」とは、持ち逃げのことです。
 その道中で出会った、上品で穏やかな老夫婦が、この物語の意外な結末を引き取ります。心憎い構成です。【4】

初出誌:『日本』(昭和33年2月)
 
※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
結末の鮮やかさが光る短編推理の傑作。(28頁)


 
 
 
■「ある小官僚の抹殺」
 警視庁捜査2課に、砂糖をめぐる政界がらみの汚職があるとの電話密告がありました。ある省の唐津課長は、岡山へ出張した帰りに大阪に寄り、熱海で自殺します。
 汚職疑獄事件で課長補佐クラスが自殺することに、清張はこの頃から興味を持ったようです。警察と上役との板挟みの中で自殺する小役人について、清張は「精神的な他殺」だと言います。
 推測に想像を重ねた語りが続きます。その推測はともかく、弱い立場の人間に対する清張の眼差しに、推理作家特有の鋭い眼光を感じました。
 なお、第七節の冒頭で「唐津淳平は熱海に二十時十分についた。タクシーで来宮の「春蝶閣」にはいったのが八時半ごろである。」とあるのは、時間的におかしいと思いました。午前と午後が混乱しているのではないかと思います。いつか、このことを調べるつもりです。【3】

初出誌:『別冊文藝春秋』(昭和33年2月)
 
 
 
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2018年11月21日

清張全集復読(29)「乱気」「雀一羽」「二階」

■「乱気」
 加賀の前田利昌は、柳沢吉保に可愛がられていました。しかし、織田秀親が何かとライバルとして立ち現われてきます。
 将軍綱吉が亡くなってから、利昌の生き様が変わります。綱吉に正一位を贈位する儀式で、利昌はあろうことか秀親と協力しなければならない役が当たります。困りました。同じような役目で、浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷沙汰が思い合わされます。今回は、秀親からどんな意地悪をされるか、わかったものではありません。気が重いのでした。神経質過ぎる男である利昌を通して、人の心の中で思い込みが増殖拡大する様が丹念に描かれます。
 最後の意外な結末は、人間が考えることのあやふやさを、いや増しに煽るものとなっています。【4】
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(1957年12月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
この殺人事件は一見「不条理」にみえないこともない。そこがわたしの興味をひいた。(550頁)

 
 
 
■「雀一羽」
 元禄年間のこと。五代将軍綱吉は、生類憐愍の令を出しました。謹厳実直な旗本で順調に出世していた内藤縫殿の若党で、喜助という男が、酒の勢いもあって雀を殺します。そのことが原因で、縫殿は御書院番組頭の役職を罷免となったのです。柳沢吉保の処置でした。
 その後、生来余裕のない小心者だった縫殿は、15年間も無役のままで放置されます。いつかいつかの思いは、なかなか叶いません。ようやく綱吉は亡くなり、家宣が六代目を継ぎました。生類憐憫の令は廃止。雀一羽のことで15年間も腑抜けの生活を強いられた縫殿は、依然として音沙汰のないままに放置されています。しまいに縫殿は、隠居した柳沢吉保への恨みが嵩じて狂態を見せるようになります。小心者であったがゆえの豹変。その人格の変転がみごとに描かれていきます。これだけの感情の起伏が描けた作者清張には、身に覚えのある体験が裏打ちされた心情なのでしょう。いたたまれなくなるほどの表現が、読者を掴んで離しません。

縫殿の頭には、柳沢吉保への憤怒が烙きついて消えぬ。小心で正直なだけに、自分の一生を墜した彼への遺恨が凝り固って神経を狂わせた。美濃守に対する憎悪は、混濁した脳で復讐の場面ばかりの幻視がうろついている。呟きや無気味な独り喘いは、ただ、この敵に対っているだけであった。(77頁)

 妻のりえは、もう夫への対処ができません。親類筋は座敷牢に閉じ込めました。この後、ことの顛末はみごとに描き納められます。さすが清張。「この恨み晴らさでおかものか。」という言葉を読後に思いました。さらには、清張の温かいまなざしも感じられるほどの閉じ方です。『松本清張全集 37』でいうと、たったの14頁の短編です。その分量の少なさがわからなくなるほどに、充実した話としてまとまっています。【5】
 
初出誌:『小説新潮』(1958年1月)

※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「雀一羽」は「乱気」と同じく柳沢吉保の隠退前後を背景とした。が、これはつくりごとである。わたしの「無宿人別帳」のうち「島抜け」の動機の設定と似通うものがあるが、「雀一羽」のほうが少し不自然である。(550頁)

 
 
 
■「二階」
 心満たされない男が描かれています。2年も俳句を作りながら療養所で暮らす英二は、自分の分まで働く妻に感謝しています。いつしか妻は、夫の熱意にほだされて退院させます。それが後悔につながっていくのでした。
 雇った看護婦は、とにかく良い人でした。それが、印刷所の2階で夫の世話をするうちに、お決まりの展開となります。妻は、看護婦に女を意識するようになりました。妻といる時の夫のおどおどする様子が見られます。猜疑心と闘う妻。派出看護婦に夫を略奪された妻の心情が、克明に描かれています。そして、予想通りの展開で話が閉じられるだろうと思った私を、さらに裏切る顛末となります。人間関係をめぐっての意外な結末。取り残された人間の心情がみごとに描かれた作品です。【5】
 
初出誌:『婦人朝日』(1958年1月)
 
 
 
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2018年11月20日

清張全集復読(28)「発作」「怖妻の棺」「支払い過ぎた縁談」

■「発作」
 男は月給3万円の内、結核を病む妻に今では月に3千円しか送っていません。愛人との情事と競輪に消えるため、月々の前借りと金貸しからの借金が溜まっていました。会社でも、不満ばかりです。仕事での間違いから、クビになるかもしれない不安が過ぎります。そんな男の目を通して、身辺の他人を冷静に突き放した目で描写していきます。イライラした日々の男の気持ちが、丹念に描かれます。苛立ちの中で男がしたことが、実に生々しくて、読後は読んでいた手の力が抜ける気がしました。【4】
 
初出誌:『新潮』(1957年9月)

※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
衝動的な殺意が醸成されるまでの心理的な経過を描いた「不条理の文学」の秀作。(161頁)

 
 
 
■「怖妻の棺」
 弥右衛門は妻に萎縮しています。ある日、隠している女の所から帰らないことから、愛人の家で亡くなったことがわかります。しかし、家督相続の関係で、妻は遺骸を引き取ります。もっとも、死んではいなかったのですが。
 二重にも三重にも身動きが取れない男の困惑が、実にリアルに描かれていきます。そして、妻に頭の上がらない男が、ピエロのように描かれています。その死さえも、読者をごまかします。【3】
 
初出誌:『週刊朝日別冊 炉辺読本』(1957年10月)
 
 
 
■「支払い過ぎた縁談」
 しがない大学の講師が、結婚を申し込んで来ました。追いかけるように、社長の息子が求婚して来ます。山奥の田舎で、行きそびれていたこともあり、親娘は天秤にかけ、お金持ちの方を選びます。しかし、話は唖然とする結末を迎えました。作者の遊び心たっぷりの小話です。【4】
 
初出誌:『週刊新潮』(1957年12月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
そのころは、O・ヘンリーのような短編の味を狙ったものである。(550頁)

※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
ブラック・ユーモア・ミステリーの快作。(80頁)


 
 
 
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2018年11月15日

清張全集復読(27)「捜査圏外の条件」「カルネアデスの舟板」「白い闇」

■「捜査圏外の条件」
 妹光子の失踪。それは、兄の同僚である笠岡によって、病死にもかかわらず見殺しにされたものであることがわかりました。兄は、復讐を誓います。しかも、完全犯罪を。
 7年という時間を置いて、笠岡から遠ざかることで実現するのでした。退職し、山口県に移りながらも、情報は常に手にしていきます。用意は周到に行われます。
 自分の犯行が露見します。飲み屋の女中の証言です。光子がよく歌っていた「上海帰りのリル」を、犯行時に笠岡と一緒に歌ったことから足がついたのです。しかし私は、7年間にわたって笠岡の動向を知らせ続けた重村という部下の存在が忘れられていることに疑問を持ちました。清張は、なぜこの内部通報者の存在に言及しないままに話を終えたのでしょうか。偶然からアリバイが崩れることだけに注意が向いていたとしたら、清張のミスというべきなのかもしれません。【2】
 
初出誌:『別冊文藝春秋』(1957年8月)
 
 
 
■「カルネアデスの舟板」
 大学教授の歴史家玖村は、恩師の大鶴に会いたいということもあって、地方の講演を引き受けます。特に戦後の玖村の古代史研究は、文献学と土俗学を駆使した研究で、マスコミからもてはやされ、教科書の執筆までしています。師に背き、唯物史観的な歴史理論で人気を博したのです。しかし、玖村は大鶴を復職させて引き上げます。教科書と参考書を執筆することで、家と蔵書と預金を手にするために、玖村も大鶴もさまざまな策を弄します。
 清張の知識人に対する冷ややかな眼が光ります。そして、後半は「カルネアデスの板」の話が展開し、読む者を惹きつけます。清張の学者を見る眼が捻じ曲がっているところに、この物語のおもしろさがあります。知識人を斜に見る清張独特の切り口を堪能しました。【5】
 
初出誌:『文學界』(1957年8月)
 (一度「詐者の舟板」に改題され、その後、元にもどっている)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「カルネアデスの舟板」ではわからないというので、単行本の題名に「詐者の舟板」としたことがある。しかし、やはり最初に発表した題のほうが好ましい。(548頁)

 
 
 
■「白い闇」
 夫の失踪から始まります。中盤までは、作り話の匂いがプンプンして、清張らしくないと思って読み進めました。後半は、夫のことを諦めて、それまでずっと付き添って来ていた男に傾く振りをする女がうまく描かれています。助走が長かったと言うべきでしょうか。ただし、その描写は、全編を通して冴えません。緊迫感に欠けます。【2】
 
初出誌:『小説新潮』(1957年8月)
 
 読後数十年。最近になり、本ブログで取り上げるために『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)で復読し、その巻末に収載されている著者自身による「あとがき」に次のように記されていることを知りました。自分の読後感が芳しくなかった原因に思い当たりました。
 仙台に降りて松島を見て帰京したが、取材旅行≠ナあるかぎり松島、十和田湖、東京と、なんとか場所をつなぎあわせて一編の物語に仕立てなければならない。まるで三題噺みたいだが、ようやく三つの団子を貫く一本の串が若い夫の失踪というヒントで、どうにか話の体裁になった。愉しい旅のあとは、こんな苦しい知恵をしぼらなければならない。(548頁)

 
 
 
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2018年11月09日

清張全集復読(26)「鬼畜」「一年半待て」「甲府在番」

■「鬼畜」
 清張自身の下積み時代を思わせる苦労が、物語の背景にあります。主人公は石版製版職人です。報われて、仕事も順調になります。そして、気の緩みから愛人が出来て数年。何事もないと思われた日々に、火事という予期しなかったことから歯車が狂い出します。平常心を失った人間の姿が、鮮やかに描き出されています。カサカサした人の心が、うまく語られます。妻と愛人の二人のやり取りは、押さえ込んだ感情がぶつかり合う展開となるだけに、これはこれで不気味です。引き込まれて、読み耽ります。清張の筆の力を実感しました。【5】
 
初出誌:『別冊文藝春秋』(1957年4月)
 
 
■「一年半待て」
 怠惰な夫が愛人を作ります。泥酔した夫は家で妻子に暴力を振るい、暴行を受けた妻は夫を棒で殴り殺しました。評論家が女の立場を庇護する発言をし、裁判では懲役3年、執行猶予2年の判決が出ました。その後、評論家の元に1人の男が訪れます。そして、意外な推論が展開する裁判小説です。
 この、したたかに人間の心の裏を見つめる清張に脱帽です。【5】
 
初出誌:『週刊朝日別冊』(1957年4月)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
 「一年半待て」は、「カルネアデスの舟板」(私注:次回掲載の〈清張全集復読(27)「捜査圏外の条件」「カルネアデスの舟板」「白い闇」〉参照のこと)と同様に刑法の条文からヒントを得た。裁判には一事不再理といって、判決の確定したものに対しては、あとで被告にそれ以上の不利な事実が出てきても裁判の仕直しはしないことになっている。これを逆手に取ったのが、この小説の主人公である。小説を書いたあと、同じテーマでデイトリッヒ主演の「情婦」が日本で上映された。あの映画の前にこれを書いたのは幸いだった。でなかったら、映画からヒントを取ったように非難されたにちがいない。「情婦」が、クリスティの「検事側の証人」を映画化したものであることは、あとで知った。(547頁)

 
 
■「甲府在番」
 兄である伊谷伊織が失踪したことを伏せて死亡とし、弟の旗本である求馬は家督を継いでから甲府在番を引き受けました。これは、左遷であり、流謫です。そうこうするうちに、囲碁仲間の上村周蔵が、甲斐の山奥には信玄の頃から金鉱があり、求馬の兄はそれに気づいて身を隠したと推理しました。その兄は、失踪の前に不可解な手紙を残していたことから、二人は探索に出掛けたのです。
 その後のことは、最後に天保の頃の『甲府勤番聞書』という資料を引きながら、作者が推測を語ります。最後の意外な展開と結末に、清張の語りのうまさに感服しました。ただし、最後に出てくる女に関する推測は、あまりにも平凡すぎるように思いました。【4】
 
初出誌:『オール讀物』(1957年5月)
 
※『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のように記されています。
『甲府金山聞書』という古文書に取材した作品で、このテーマはのちに長篇『異変街道』『江戸綺談甲州霊嶽党』に発展する。(61頁)。

 ここで『甲府金山聞書』とあるのは『甲府勤番書』の誤植だと思われます。
 
 
 
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2018年11月01日

清張全集復読(25)「佐渡流人行」「賞」「地方紙を買う女」

■「佐渡流人行」
 佐渡金山に役人として行くことになった黒塚喜助は、妻と気持ちを通じていると邪推する弥十郎を嫉妬しています。微罪で投獄した後は、出るとすぐに金山の佐渡送りで苦しめます。そうして、妻のくみをじわじわと虐めて愉しむのでした。
 佐渡では、人の世の底を這いずり回るようにしか生きられない男が描かれます。清張自身の苦労の体験が語らせるのでしょう。
 話の後半は、その意外性において秀逸です。【5】
 
初出誌:『オール讀物』(1957年1月)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。「作家は絶えず旅をするべきである」と言う、清張が小説の取材を重視している背景がわかる好例です。
 「佐渡流人行」は、「山師」を書いたときから考えていた構想で、上石神井の新居に越してからまもなく書いた。このときは流人の水替作業の実際がわからず、やはり現地に行って見なければと思って三十一年秋に佐渡の相川まで渡った。一つは、発表雑誌の『オール讀物』が相当なページを割いてくれると云ったからだ。秋の初めで、佐渡は観光シーズンが過ぎていたが、土地の郷土史家の好意で旧金山址を隈なく案内してもらった。その晩、土地の民謡保存会の"立浪会"の佐渡おけさや、相川音頭の踊りを見たが、会場の夜寒が未だに忘れられない。そのころは、土地の人ももちろん私の名前も知っていなくて、どういう小説をお書きですか、などときかれたものだ。
 佐渡から帰っても、今度はもっと関係文献を読みたいと思ったが、適当なものはなかった。たまたま麓三郎氏の『佐渡金銀山史話』が出版されたのを知って、さっそく読んで、大いに助かった。それで、世田谷の奥に著者麓氏をたずね、さらに氏の話を聞いたりした。麓氏は長いこと住友鉱業の技師をされた方である。私も閑だったから、調査には充分に時間をかけることができた。
 あとで、当時『週刊朝日』の編集長だった扇谷正造氏が麓氏から私のことを聞いたらしく、何かでその取材ぶりをほめてくれたが、右の本の出版が偶然私の知りたい知識を充たしてくれ、それが幸いしたのである。
 九州に四十年間も過ごした私にとっては、佐渡に行けるとは夢にも思っていなかった。夜汽車で新潟に着き、埠頭から"佐渡おけさ〃のレコードの伴奏に送られ、二時間にして両津の港に着いたとき、実際、はるばるとここまでやってきたものだという感慨に浸った。
 後年「小説日本芸譚」の中で世阿弥を書いたが、この佐渡行が別な意味で役にたとうとは思わなかった。「作家は絶えず旅をすべきである」というサマセット・モームの言葉を、しみじみと味わい噛んでいる。(545頁)

 
 
■「賞」
 昭和初期に、三十代で『古社寺願文の研究』で学士院賞を取った粕谷侃陸の変人ぶりが語られます。地方に押しかけて講演をしていたのです。鑑定料を無理強いすることも。身の丈に合わない賞をもらったために生まれた悲劇です。
 この哀れな学者を追い続けた語り手は、賞というものが受賞者の人間性を変えるものであることを伝えようとしています。【4】
 
初出誌:『新潮』(1957年1月)
 
※『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のように記されています。
若くして実力以上の賞を貰った男の老残落魄の生を描いて鬼気迫る秀作。(84頁)

 
 
■「地方紙を買う女」
 これから何が起こるのだろう、ということを感じさせる語り出しです。そして、バーの女給と小説家が、お互いの心の中を読み合うのです。読んでいて、緊張の連続です。その結末も。
 この作品は映画になりました。私は2度観ました。そしてこの作品は、まず活字で読み、清張の巧みな言葉で小説の醍醐味を味わってから、映像でそのさらなる五感に訴える快感に浸るのがいいと思いました。【3】
 
初出誌:『小説新潮』(1957年4月)
 
 
 
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2018年10月31日

清張全集復読(24)「共犯者」「武将不信」「陰謀将軍」

■「共犯者」
 かつての共犯者が没落し、成功している自分を狙って接近しているという妄想に駆られます。その共犯者から脅迫されることを怖れる人間心理を巧みに突いて、意外な展開へと導きます。
 雇われた通信員役の男の動きに、不自然さと無理があります。もう一捻りほしいところです。【3】
 
初出誌:『週刊読売』(1956年11月18日)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
 奈良の町に泊まった。ヤミ成金らしいのが向かい側の立派な旅館で遊んでいて三味線が賑やかに鳴っていた。虱のいそうな汚ない部屋からそれを眺めていた。同じ部屋に箸の外交員が泊まっていた。−経験といえばそれだけのことである。だが、このときほど黙阿弥の「鋳掛松」の心境に親近感を持ったことはなかった。いうまでもなくこの芝居は、鋳掛屋松五郎が両国橋の上から隅田川を下る屋形船のドンチャン騒ぎを見て、「あれも一生、これも一生。同じ一生なら太く短く」と心を変え、商売物のしらなみを川の中に投げこむという筋である。白浪物としては動機に説得力がある。(544頁)

 
 
 
■「武将不信」
 山形の最上義光は聡明だが小狡い次男を家康に差し出しました。家康は可愛がります。その次男が原因で、家督を継ぐはずの長男が殺されます。すべてが親と背後にいる家康の仕業です。
 父親が息子にかける思いの揺れ動きについて、丹念に描きます。家康に忠誠を尽くした義光。しかし、家康はその忠誠心をも踏み躙る冷徹さを見せます。清張の歴史と人間を見る鋭い目が伝わって来ます。【5】

初出誌︰『キング』(1956年12月)
 
 
 
■「陰謀将軍」
 ジッと耐える第15代将軍足利義昭と、それを支える細川藤孝を描きます。
 信長に絡め取られていく自分を、義昭は忸怩たる思いで見つめます。その心情が丹念に語られていくのです。人の心が読み解かれ、書き綴られているのです。
 自分に力がないことを思い知った義昭は、足利将軍の名を利用して、信長を袋叩きにすることを画策するのです。義昭の陰湿な工作はさらに進展します。
 しかし、自分を助けるはずの武田信玄が亡くなると、我が身に黒い気配を感じ出します。清澄独自の黒い雲です。
 義昭が、何か眼に見えぬ敵を感じたのは、このときからであった。信長などよりは、もっと怖ろしい、抵抗出来ぬ、絶望的な敵であった。どのように藻掻いても、所詮はうすら笑って、壁のように前面に立ち塞がる運命的な何かである。それは生涯のどの辺かに狡くひそんでいて、その気配で、いつも人間にふと前途の不安を予感させる黒い物であった。(319頁)

 義昭謀反を知った信長の反応は早いものでした。すでに、腹心だった藤孝は寝返っています。兵は持たなくとも陰謀がある義昭は、信長への反抗をし続けるのです。信長がしだいに苦しむのを楽しむようになります。義昭の妄執をみごとに描いています。【5】
 
 
初出誌:『別冊文藝春秋 55号』(1956年12月)
 
※メモ:「紫宸殿」に「ししいでん」とルビを振っています。故事に精通した清張らしい一面が確認できます。
 
 
 
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2018年10月17日

清張全集復読(23)「九十九里浜」「いびき」「声」

■「九十九里浜」
 突然舞い込んだ手紙から、家系の複雑さが姿を見せます。40年目にして初めて異母姉の存在がわかったのです。逢いに行きます。しかし、話は私が思ったようには展開しないままに終わります。
 背景として、清張自身の祖父母のイメージを持って語っているように思いました。ただし、うまくまとまらなかったようです。【2】
 
 
初出誌:『新潮』(1956年9月)
 
 
 
■「いびき」
 自分ではどうしようもない鼾。それをテーマにした、何となくおかしい中にも、人間の根源を突く問題が語られています。いい味が出た作品に仕上がりました。【4】
 
初出誌:『オール讀物』(1956年10月)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
この小説の発想は私自身の経験からの空想で、もし、兵隊で敗走したとき、敵は敵軍ではなく、私のいびきを恐れる戦友ではないかと考えたものだ。この体験を、市井の浮浪者に置き換えたもので、このとき参考資料として使った『日本行刑史稿』に拠って、あとで一連の「無宿人別帳」を書いた。これはのちに私自身の手で一幕ものにし『文學界』に発表した。前進座で上演され、別にテレビでは宇野重吉が演じた。(544頁)


※戯曲『いびき地獄』(『文學界』、1982年12月)は、この「いびき」を3幕物に仕立てたものです。『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のように記されています。
物語の構成、登場人物、舞台設定ともほとんど変わらない。ただし、科白回しに一段と工夫が凝らされ、劇作家としての清張の力量をうかがわせる。(17頁)

 
 
 
■「声」
 新聞社で電話交換手をしている朝子は、声で誰かがわかる耳を持っていました。社員300人もの声を聞き分けるというのです。そして、殺人事件の現場に間違い電話をかけ、犯人らしき男の声を聞いたのです。その朝子が殺されます。
 警察は、客観的、合理性のある筋道のどこに間違いがあるのかを考えます。読者も付き合わされます。あまり複雑なトリックではありません。しかし、きれいに収まるので納得します。ささやかな謎解きで読者を惹きつける、うまい展開です。【4】
 
 
初出誌:『小説公園』(1956年10・11月)
 
 
 
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2018年09月11日

清張全集復読(22)「五十四万石の嘘」「顔」「途上」

■「五十四万石の嘘」
 加藤清正と徳川家康の微妙なバランスから生まれた話です。清正の孫の光正は、茶坊主玄斎を脅してからかったことから、加藤家を潰す原因を作ります。その過程が語られるものの、私には盛り上がりに欠ける話でした。一挿話という作品です。【2】
 
初出誌:『講談倶楽部』(1956年8月)
 
 
■「顔」
 映画俳優として有名になる幸運と、過去の露見で身の破滅となることのせめぎ合いの中で、男の心は揺れ動き、行動に移そうとします。そもそも、人は初見の顔を覚えているのか。それを思い出す時の描写がみごとです。【5】
 
 
初出誌:『小説新潮』(1956年8月)
 
※短編集『顔』が第10回(昭和32年度)「日本探偵作家クラブ賞」受賞。
 
 
■「途上」
 市営の厚生施設「愛生寮」に入れられた男の、生と死の間をもがくようにいき続けようとするさまを語ります。特に何かインパクトがある作品ではありません。弱い立場の人間を観察する清張の目が生きています。【2】
 
初出誌:『小説公園』(1956年9月)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「途上」は、「芥川賞受賞第一作」として書いた小説が不掲載になったのを、その材料で書き直した作品である。小倉の養老院を見て架空の舞台にした。なお、「第一作」は「菊枕」を書いてこれに替えた。(543頁)

 
 
 
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2018年09月10日

清張全集復読(21)「増上寺刃傷」「背広服の変死者」「疑惑」

■「増上寺刃傷」
 信濃守尚長は、意地悪であくどい男でした。その裏には、祖父と兄の失態からくる敗北感に裏打ちされた卑屈さがあったのです。
 和泉守忠勝は、この尚長に虐められます。堪忍袋の尾が切れた時に、切りかかっていたのです。まさに、殿中松の廊下の翻案です。
 清張は、この劣等感と憤懣やる方ない気持ちが、己に内在するものでもあることから、作品によく取り上げています。お得意の男の捻じ曲がった心情を描くのは得意なのです。読者を納得させる筆の力を感じる作品です。【5】
 
初出誌:『別冊小説新潮』(1956年7月)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
どこの職場や住む世界にもイヤな奴はいるもので、この材料を読んだとき、自分の体験からそう思って書いた。(542頁)

 
 
■「背広服の変死者」
 地方紙の広告部校正係で38歳の男が、金銭的な問題から自分で変死体になることを望みます。その背後には、新聞社という職場での高卒と大卒の違いによる「劣弱感」や「劣敗感」があったのです。清張自身の姿が投影されています。嫉妬と遣る瀬なさを抱え込んで生きる男の描写は巧みです。
 惨めな生き様を見せる男が、次々と、これでもかと描き出されます。清張の心の片隅に眠っていた、過去の亡霊たちのように思えます。溜まりに溜まったものを吐き出すかのように、暗く陰鬱な男たちが立ち現れるのです。みごとな再現という他はありません。【5】
 
初出誌:『文學界』(1956年7月)
 
 
■「疑惑」
 自制心の強い縫之助は、妻の留美が同役の源兵衛との仲に疑念を抱きます。
 最後の最後に、意外なことが語られます。私には、この結末は承服できません。余りにも妻をよく描こうとしていると思えるからです。そうであっても、この物語は読ませます。【5】
 
初出誌:『サンデー毎日 涼風臨時増刊号』(1956年7月)
 
※なお、同題名で内容はまったく異なる長編推理小説『疑惑』(『オール讀物』、1982年2月)があります。
 
 
 
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2018年09月09日

清張全集復読(20)「調略」「箱根心中」「ひとりの武将」

■「調略」
 毛利元就の巧みな諜報戦が語られます。元就の物の見方や考え方が活写されているのです。
 陶晴賢を厳島におびき寄せて葬り、次に尼子晴久を。
 元就を通して、人間の心の中を冷静に解析しています。【2】
 
初出誌:『別冊 小説新潮』(1956年4月)
原題:『戦国謀略』
 
 
■「箱根心中」
 従兄弟同士という関係が、男女の気持ちを微妙に近づけています。そして、お互いの結婚相手への満たされないものが、自然と気持ちを共有されるようになったのです。そして箱根へ。しかし、タクシーの事故で予定通りに日帰りできなくなり、2人の想いと行動が狂い出します。
 抑制された筆致で、自らを追い込んで行く男女が、会話を通してその心の内が描かれています。抑え込んだ、淡々とした口調と展開がうまいと思いました。【3】
 
初出誌:『婦人朝日』(1956年5月)

※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」では、「情死はいっさいの世間的な抵抗が面倒臭くなる結果ではなかろうか。その面倒臭さが虚無に通うようである。」(542頁)とあります。
 
 
■「ひとりの武将」
 信長に仕える2人の若者。歳が同じということからくる対抗意識が、巧みに物語の展開に関わっていきます。秀吉に付くか家康に付くかで、この2人の運命がわかれます。その過程が、戦乱の中を生き抜く2人を通して炙り出されるのです。
 日本アルプスを横断する判断と決行が圧巻でした。この話は、人間の末路を思わせます。秀吉の姿が遠くに見えるだけ、という設定はうまいものです。【4】
 
 
初出誌:『オール讀物』(1956年6月)
 
※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
「ひとりの武将」は佐々成政のことである。これも「腹中の敵」(第35巻所収)に登場した柴田勝家や丹羽長秀と同じように秀吉の被害者の一人だ。秀吉と佐々成政との関係は、同じ年に書いた「陰謀将軍」における足利義昭と信長の関係にも似通っている。新しい勢力者に絶えず抵抗しながら滅びて行く旧い人間の形をここに見るのである。成政は居城富山から雪のアルプスを越えて松本に抜け、浜松に行って家康の味方を誘うのだが、家康動かず、彼はむなしく同じ路を引きかえし、ふたたび雪の北ア越えをして帰る。最後は熊本の大名になるが、土豪一揆の鎮圧に失敗し、秀吉から死を命じられるのである。これくらい一生空回りをした武将も珍しく、この男から人間の努力の虚しさを教えられたような気がする。成政の通った黒部越えの下にはいま黒四ダムが完成している。前から誘われているので一度そこに行き、かたがた成政の"壮挙"の跡を見たいと思っている。(542頁)

 
 
 
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2018年07月24日

清張全集復読(19)「秀頼走路」「明治金沢事件」「喪失」

■「秀頼走路」
 大坂城の落城とともに、秀頼は脱出したという説がありました。話は、その秀頼が逃亡すると思われる様子を活写します。いかにもありそうな、貴種流離譚となっています。【2】
 
初出誌:『別冊 小説新潮』(昭和56年1月)

※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には、出典として俗書の「塵塚物語」をあげています(542頁)。また、「この筋は大仏次郎氏も二度長編に書いておられる。」とあります。
 
 
■「明治金沢事件」
 文章に気迫を感じます。気持ちの籠もった、力強い響きが伝わって来ました。
 主君の仇討ちは、赤穂浪士の忠臣蔵に通じます。最後の言葉が清張の視点を示しています。
 「人間は演技の模本がなければ、思い切ったことが出来ぬものである。」(『松本清張全集 36』32頁)【3】
 
初出誌:『サンデー毎日臨時増刊』(昭和56年1月)
原 題:「明治忠臣蔵譚」

※『松本清張全集 36』(文藝春秋社、1973.2.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には、この改題について「原題のほうがよかったかもしれぬ。『新聞集成明治編年史』からとったように思う。」(542頁)ともあります。
 
  
■「喪失」
 妻子持ちの二郎に尽くすあさ子。そのあさ子の生活を支援する須田の出現。須田に嫉妬する二郎。お決まりの入り組んだ人間関係。やがて二郎はあさ子を折檻します。クライマックスでは、人間の微妙な心のバランスがつぶさに描かれ、女の心情が見事に捉えられています。【5】
 
初出誌:『新潮』(昭和56年3月)
 
 
 
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2018年07月03日

清張全集復読(18)「廃物」「青のある断層」「奉公人組」

 昨日(7月2日)は、松本清張の原作にかかるドラマが2本もテレビで放映されました。季節の変わり目になると、番組編成の隙間を縫うようにして清張物が流れます。清張は、今も日本の文化の一翼を担っているようです。
 一昨日は、鳥取県の日南町に建つ松本清張記念碑の前に立っていました。そして、清張にとって忘れられない矢戸の村落を見つめて来ました。
 『白い系譜』を再読して、時間を見つけて清張の出自について再考しようと思うようになりました。

「清張全集復読(1)松本清張の家系の謎『白い系譜』(1)」(2014年08月08日)

「清張全集復読(2)松本清張の家系の謎『白い系譜』(2)」(2014年08月09日)

「清張全集復読(3)松本清張の家系の謎『白い系譜』(3)」(2014年08月10日)

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■「廃物」
 80歳の大久保彦左衛門忠教が、今まさに息を引き取ろうとしている枕元での人々の会話が、忠教の耳に届いていたという設定で語られます。機知に富んだ、というよりも、世の中を斜に見た愚痴っぽい語り方に、清張自身の姿が投影している、おもしろい話に仕上がっています。【4】


初出誌:『小説新潮』(昭和55年10月)
   原題「三河物語」
 
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」によると、「大久保彦左衛門の例の『三河物語』から取った(「の例の」はママ、527頁)。」と言っています。
 
 
■「青のある断層」
 画商奥野は、銀座に画廊を構えています。そこへやって来た畠中良夫が話題を引っ張ります。さらにここに姉川という画家がからみ、心理の読み合いが展開するのです。話は、意外な展開を予想したにもかかわらず、期待は裏切られました。この後に、おもしろくなることを匂わせて、フェードアウトして終わります。余韻が残されたのは、作者が意図したところだったのでしょう。しかし、私には清張らしくない構成だと思いました。【1】


初出誌:『オール讀物』(昭和55年11月)
 
  
■「奉公人組」
 時は慶長の時代。人間の扱いを受けない、冷酷な境遇に生きる奉公人の姿が活写されます。そして、その弱い立場の者の味方をした一兵衛は、拷問を受けます。おもしろい話ながら、清張らしさのない捻りのない作品です。【1】


初出誌:『別冊 文藝春秋 49号』(昭和55年12月)
 
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には、何も言及がありません(257頁)。
 
 
 
 
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2018年06月05日

清張全集復読(17)「張込み」

■「張込」
 「過去が牙をならして立ち現れて女を追い詰めるのだ。」(509頁)という表現が気に入りました。
 九州の一角で平穏な日々を送る家庭を、向かいの旅館から張り込む一人の刑事。後妻の動きを丹念に追います。逃亡した犯人からの連絡があるはずだと。しかし、別れて3年。人妻になった女に男は未練があるのか、と刑事は逡巡するのでした。
 のどかな日常生活の情景から、突然鄙びた山の中の温泉地に移り、緊迫感が増して行きます。
 うまい筆の運びです。そして、心憎い結末です。まさに、清張の等身大の作品です。【5】

 なお、監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍のコンビで映画化(1958年1月公開)されたものは、私も何度も見ました。横川さだ子役は高峰秀子でした。ドラマは、これまでに12回も製作されています。それぞれのさだ子役を添えておきます。
1959年版(山岡久乃)/1960年版(山岡久乃)/1962年版(福田公子)/1963年版(高倉みゆき)/1966年版(中村玉緒)/1970年版(八千草薫)/1976年版(林美智子)/1978年版(吉永小百合)/1991年版(大竹しのぶ)/1996年版(国生さゆり)/2002年版(鶴田真由)/2011年版(若村麻由美)

 
初出誌:『小説新潮』(昭和55年12月)
 
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」によると、次のようにその背景を詳しく語っています。今一般的にイメージされている松本清張の始発点となる作品だと言えるでしょう。
 二十九年夏、ようやく練馬区関町一丁目に借家を見つけ、九州から一家を呼んで初めて家を持った。このときに書いたのが「張込み」である。私は推理小説は以前から好きだったが、いわゆるトリック本位の絵空ごとの多い小説に慊らないものがあり、ここに倒叙的な手法でそれらしいものを書いた。もっとも、これを書いたときはこれが推理小説だとは考えていなかったが、今ではこの作品が私の推理小説への出発点だとされているようである。張込みの刑事の眼から見た一人の女の境涯というものが、私の意図だった。題材は銀座の雑貨商殺しの新聞記事だが、純然たる小説である。後に橋本忍氏が脚本を書いてくれて映画で評判になった。(529頁)。

 
 
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2018年05月28日

清張全集復読(16)「石の骨」「柳生一族」

■「石の骨」
 学問に携わる者にありがちな、他人を見下した目線で僻みっぽい思考を露骨に見せた表現で語っていきます。学会の無能さや、学歴偏重の社会への痛烈な批判が底流にあります。清張が得意とするネタです。清張の奥底に溜まっている感情の表出だとみています。
 日本旧石器時代説をめぐる、学者の嫉妬と苦闘が語られていきます。苦学する市井の学者を描くことにかけては、清張の右に出るものはいないでしょう。【4】


初出誌:『別冊文藝春秋』48号10(昭和30年10月)
 
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」によると、次のように記されています(526頁)。
「石の骨」は、日本にも旧石器時代があると以前から主張してやまなかった考古学者直良信夫氏がモデルである。直良氏は、いわゆる明石原人を発見した人だが、不幸にも発見した人骨は戦災で焼いてしまい、今日ではその石膏型が東大に残っているだけである。直良氏くらい、迫害と悪口と冷笑のなかに過してきた考古学者も珍しい。ここにも考古学界におけるアカデミズムと在野の問の相剋があるが、森本氏とは別な意味で私は直良氏に惹かれていた。直良氏は恵まれない学界の環境に置かれて悪戦苦闘されたが、今日の考古学はすでに日本にも無土器文化時代があったのを承認して、直良氏の業績を認めざるを得なくなっている。氏のために喜びにたえない。

 
 
■「柳生一族」
 一族の素描に終始しています。淡々と語るその筆致のそこここに、清張の史観が垣間見えます。ただし、それは書き記そうとしてのものではないので、読む側からはかき消されていきます。これは小説というよりも、ナレーションのような原稿です。【1】


初出誌:『小説新潮』(昭和55年10月)
 
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」によると、「自分としては出来のいいものと思っていない(257頁)。」と言っています。
 
 
 
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2018年02月16日

清張全集復読(15)「父系の指」

 不遇だった父を想う、清張の情愛に溢れる言葉で綴られた回想記となっています。やはり、清張にとっての父は特別だったのです。それは、他の作品を読んでいると、父への思い入れが異常なほどであることからも言えます。
 本作品で言えば、特に前半は、事実に近い自伝だと思われます。
 かつて、『白い系譜』という作品について、本ブログで連載しました。この「父系の指」は、これと対峙する作品だと言えます。

「清張全集復読(1)松本清張の家系の謎『白い系譜』(1)」(2014年08月08日)

「清張全集復読(2)松本清張の家系の謎『白い系譜』(2)」(2014年08月09日)

「清張全集復読(3)松本清張の家系の謎『白い系譜』(3)」(2014年08月10日)

 後半は多分に創作も交えた話となっているのではないでしょうか。迫力が途端になくなっているからです。

 鳥取県の南部、現在の日野郡日南町の矢戸が父の生まれた場所であり、今は清張の文学碑がこの矢戸を見つめています。
 池田亀鑑賞の授賞式に出席するため、この10年で何度もこの町に通いました。そして、清張のことを調べておられる足羽先生に町内を案内していただいたり、久代議員のお世話で清張のことを幾度も聴きました。住民の方にもお目にかかり、知られていないこともうかがっています。自分にとっても身近な日南町のことなので、清張の話を聞き入るようにして読みました。
 清張が父を語る時には、万感の想いが込められています。
 父の相場師仲間に盲人がいたことが出て来ます。このことは、何かの小説に出てくるのでしょうか。今、思い出すものはありません。
 清張が、大阪の出張帰りに途中下車をして矢戸に立ち寄ります。その時、こんなことを書いています。後の『砂の器』を連想しました。

この奥の出雲の者らしく、東北弁のような訛である。(411頁下段)


 伯備線の生山駅を降り、親戚の家に行きます。医者をしている家です。写真を見せられて時間潰しをするものの、ご主人がなかなか帰らないので、そのまま帰るのでした。その後、東京で父の兄の豪邸に行きます。そして、血のつながりを思わす父系の指に出くわします。
 父を通して、肉親というものへの複雑な感情を綴っています。清張の小説の底流をなす物の見方が、余すところなく語られています。【5】


初出誌:『新潮』(昭和55年9月)
 
※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)に「「骨壺の風景」と並ぶ清張の数少ない私小説の一つで、家族に関する事実関係は自伝『半生の記』とほぼ合致する。(154頁)。」とある。
 
 
 
 
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2018年01月21日

清張全集復読(14)「腹中の敵」「尊厳」

■「腹中の敵」
 天正2年の元旦。織田信長が岐阜城で催した祝宴から始まります。そして、丹羽長秀にスポットが当たります。長秀の視野には、常に羽柴秀吉がありました。秀吉が、次第に認めたくない者となって行くのです。その心の中が巧みに描かれます。それでいて、長秀は先輩として後輩の秀吉を助ける役を演じます。悔やみながらも、時の流れに抗えなかったのです。不甲斐なさを身に染みて感じます。後輩である秀吉から先輩に当たる自分に所領が与えられることにも、心は満たされません。その点では、長秀と並んで描かれていた滝川一益の生きざまと、その末路が対照的です。死ぬ間際の長秀の行動が、いかにも清張らしい筆遣いで語られています。心に籠っていた怨みを一気に晴らすのでした。【5】
 
 
初出誌:『小説新潮』(昭和30年8月)
 
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
時代ものに材は籍りたが、私は現代的な現象を頭に置いて書いた。(526頁)


 
 
■「尊厳」
 大正天皇の病気平癒祈願のために、宮が九州を回られることになりました。その先導車の運転を任された警部の多田の心労が語り出されます。緊張のあまりに錯乱して、多田は道を間違えます。その心の動きを描く筆が、巧みです。署長が自殺し、追うようにして多田も死にます。戦後、残された息子の貞一は、朝鮮戦争で死んだ米兵の死体を洗う仕事に就き、大金を手にします。そして、父が死ぬ原因となった宮に近づきます。没落した宮を立て直させ、復讐を図るのです。しかし、この物語の最後は、着地が決まっていないように思いました。拍子抜けしました。清張には珍しいミスです。【2】
 
 
初出誌:『小説公園』(昭和30年9月)
 
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」によると、この話の実話は、昭和初期に群馬県桐生市での行幸にまつわるものだとあります(526頁)。
 
 
 
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2018年01月07日

清張全集復読(13)「笛壺」「山師」

■「笛壺」
 死に場所として、武蔵野の寂しい所を男は選びました。
 父親のことを、「俺が幼い頃、親父は女を作って家出し、零落して木賃宿住いをしていた。」(335頁)と言います。自分の父親のことを思い浮かべての文なのでしょう。
 男は今年69歳で、かつては延喜式の研究で恩賜賞を受けた畑岡謙造。彼は、妻子と1万5千冊の蔵書と学問を捨て、貞代という女に走りました。後悔はありません。
 25、6歳の頃、福岡県の中学で歴史を教えていた畑岡は、東大史料編纂所の淵島所長を調査地に案内し、高い評価を得て東京に出ることになります。しかし、恵まれないままようやく成果を出した後は、2人の女に恵まれない、孤独な学者の末路を歩むのでした。
 最後が、短編のせいもあってか、語りつくせないものを残して終わります。【3】
 
初出誌:『文藝春秋』(昭和30年6月)
 
 

■「山師」
 猿楽役者の大蔵藤十郎は、家康に知恵を授けます。それは、山師の技量を活かした金脈の掘削です。やがて天下を我が物にした家康は、佐渡金山と石見の銀山を唐十郎に任せました。職能集団の姿が描かれます。これは、清張自身の職工としての体験に裏打ちされた物語なのです。
 最後は、打算家としての家康の姿が描かれます。思い上がる職人を冷ややかに見つめる清張の奥深い眼を感じました。【3】
 
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(昭和30年6月)
原題は「家康と山師」
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
私の歴史小説としては最初の気に入ったものである。(526頁)

 
 
 
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2017年09月18日

清張全集復読(12)「面貌」「赤いくじ」

■「面貌」
 人間の心が内攻して生まれる憎しみを、清張は巧みに描く特性があります。人間観察眼が優れていたからでしょう。
 家康が我が子の醜さから遠ざけたという、茶阿の局の子忠輝の心の内面が、手に取るように描き出されています。家康に疎んじられ、家康の死後も反骨心を示した忠輝は、伊勢へ飛騨へと回されます。醜い容貌から誰もが不快がり、愛情を持って接してくれる者はいません。まさに、清張自身の体験や思いが、この忠輝に重ね写しになっているかのようです。【2】
 
初出誌:『小説公園』(昭和30年5月)
※「二すじの道」(『キング 秋の増刊号』昭和29年10月)と同じテーマを扱うものの、本作の方が少し詳しい。
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
松平忠輝をその醜い容貌からくるコンプレックスでとらえたのは私なりの解釈である。これは私自身の反映といえるかもしれない。(525頁上段)

 
 
■「赤いくじ」
 昭和19年の秋、戦時下のソウルでの話です。参謀長と高級軍医が、一人の美しい人妻に好意を寄せます。精神的なところに留まっていました。翌年の敗戦後、アメリカ兵の進駐に伴い、慰安婦の提供で身を守ろうとする中で、20人をどのようにして選ぶかが問題になりました。そして、あろうことか、くじ引きによることが決まったのです。まさに、女性を人身御供にするのです。
 この後、アメリカ兵とは何事もなく帰国となります。ことろが、この引き上げの時に、くじ引きで接待役に当たった女性たちが、まったく逆転した目で見られるようになったのです。何も罪を犯していないのに、あかかも犯罪者であるかのように。この一瞬にして評価が反転するさまは、清張のうまさです。
 敗戦に伴う混乱に乗じた、一人の婦人を巡る2人の男の恋愛感情を交えた事件が、緊迫感の中で物語られます。戦争を扱った短編として、高い完成度を見せるものだと思います。【5】
 
初出誌:『オール讀物』(昭和30年6月)
※「赤い籤」を改題。
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。
私が朝鮮群山の近くに一兵卒として駐留し敗戦を迎えたときの挿話から思いついた。当時、私は師団司令部付だったので、高級将校の動きはよくわかっていた。(525頁上〜下段)

※『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)での評価。
「慰安婦問題にいち早く焦点を当てた戦記小説の力作。」(9頁)
 
 
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2017年09月01日

清張全集復読(11)「恋情」「特技」

■「恋情」
 明治新政府になった時の話です。田舎の小さな旧藩主の長男に生まれた己(山名時正)は、本家の娘で4つ下の律子に愛情を抱きます。
 明治19年に、己はロンドンにわたり、オックスフォード大学に留学します。正月のある日、己は新聞で、律子が宮様と結婚することを知りました。自分が海外に追い出されたことを知るのでした。
 帰国後、折々に律子の姿を追います。しかし、会うことすらできないままです。その後、宮が亡くなり、続いて律子も亡くなりました。辞世の句を読んでも、自分のことを思い続けていてくれたと思う己です。
 最後まで、男の側からの愛情が失せないことを語り、女の方の気持ちは語られずに読者に委ねたままで終わります。
 清張にしては歯切れの悪い、思わせぶりな作品となっています。【2】
 
初出誌:『小説公園』(昭和30年1月)
※原題は「孤情」
 
 
■「特技」
 秀吉が朝鮮に出兵した時の話で始まります。稲富直家という射撃の名手がいました。細川幽斎の子忠興は、家臣だったその直家を率いて渡海しました。
 忠興は、直家が主に「諂諛(てんゆ、へつらう意)」していると思い、不愉快でした。また、「技術を尊ぶのに敵味方はない」ということばも、この話の中で生きています。忠興の神経質な嫉妬と執拗さが、この話の背景を支えています。
 家康との逸話も、尊敬と軽蔑が綯い交ぜになって語られます。人間が持つ二面性です。技術を持つ者がその内面に抱く、知られざる劣等感が、簡潔な表現で描き出されています。人の心の奥底をあぶり出すことに長けた、清張の眼力が生み出した短編です。可能であれば、直家の心の変化をもっと語ってほしいと思いました。【3】
 
初出誌:『新潮』(昭和30年5月)
 
 
 
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2017年01月26日

清張全集復読(10)「情死傍観」「断碑」

■「情死傍観」
 阿蘇山で投身自殺をする人を救う老人の話を『傍観』という小説に書いた後日談で始まります。読者と名乗る当事者から手紙が来た、という想定です。
 作中で紹介された小説といい、それを読んだ女からの手紙の引用といい、ふたつの入れ物をおいての物語です。大きな衝撃のないままに終わったので、拍子抜けでした。【2】
 
 
初出誌:『小説公園』(昭和29年9月)
 
 
■「断碑」
 考古学において、人文科学的な論理や文化史的な考究を文学的な表現で発表した木村卓治は、学会から無視されていました。清張が得意な、在野の研究者の物語です。
 恵まれない立場の者が、嫉妬から憎悪へと心情が変わる様を、清張は巧みに描きます。
 小学校の代用教員だった木村は、恩師高崎の計らいで博物館に就職できるということで上京します。しかし、その話はダメになります。
 

 高崎を恨む心は憎しみに変った。
 それほど卓治は博物館に入りたかったといえる。当時の官学は東京大学は振わず、専ら博物館派と京都大学派が主流であった。博物館入りを望んでいる卓治の心は、いわずとも官学への憧憬につながっていた。
 大部分の在野の学者が官学に白い眼を向けて嫉妬する。嫉妬は憧憬するからである。
 その憧憬に絶望した時が、憎悪となるのだ。爾後の卓治は官学に向って牙を鳴らすのである。(238頁下段)


 中卒でしかない自分を莫迦にしている人間を見返したい、という思いがますます強くなります。
 その存在を疎ましく思う者たちの反応も、さもありなんと思わせるものです。
 その後の卓治は、壮絶な研究生活を送ります。妻との二人三脚も胸を打ちます。妻が亡くなる前後は、人間が支え合う情感が感動的に伝わってきました。
 妻が亡くなった2ヶ月後の、昭和11年1月に、卓治は34歳で亡くなりました。
 その性癖故とはいえ、学会や主流派から見捨てられた一考古学者の姿が、生々しい筆で語られています。人間が反発する気持ちと、寄り添う夫婦の描写が活写された作品です。考古学会で鬼才といわれた森本六爾の生涯をモデルとする作品のようです。【5】
 
 
初出誌:『別冊 文藝春秋 43号』(昭和29年12月)
※原題は「風雪断碑」
 
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
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2017年01月20日

清張全集復読(9)「湖畔の人」「転変」

■「湖畔の人」
 人から愛されないと自認する矢上は、転任先の諏訪で徳川家康の六男松平忠輝の生涯に理解を示します。流れ流れて不遇のままに生きる姿に、作者が寄せる心情が伝わってきました。この背後には、清張自身があるのでしょう。
 人生を斜に見た男の存在や、新聞社、諏訪湖、徳川家、海辺の情景などなど、井上靖の作品の雰囲気を漂わせていることに気づきました。これはいったい何なのでしょうか。『球形の荒野』のときに似た読後の印象です。
 諏訪湖畔に生きる、穏やかな人々が描かれています。筆致は清張らしくなく、控えめな表現でまとまっています。【2】
 
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(昭和29年2月)
 
 
■「転変」
 慶長四年の関ヶ原の戦い後、家康と福島正則の駆け引きから始まります。
 正則は、家康に感謝されて上機嫌です。しかしその後すぐに、正則は窮地に立ちます。そして、家康の巧みな計らいに、正則はまんまと嵌まることになるのです。
 正則は、秀頼と家康の間で、苦境に追い込まれます。正直なだけでは、家康のようにしたたかな者には子供のように捻られます。
 家康の知略に長けた非情さを通して、人間の生き様を問いかけています。【4】
 
 
初出誌:『小説公園』(昭和29年5月)
 
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
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2016年11月21日

清張全集復読(8)「火の記憶」「贋札つくり」

■「火の記憶」
 清張が得意な、戸籍に関する話です。しかも、清張自身が抱える、実の父の存在が背景にあると思われるものです。

 頼子が結婚する相手である泰雄の戸籍から、兄貞一はその父が失踪宣告されていて除籍となっていることに疑問を持ちます。

 泰雄の父が失踪したのは4歳の時でした。母は、泰雄が11歳の時に亡くなりました。後日、事実と対比するために、このくだりを抜き出しておきます。


 僕の父は三十三歳で行方不明となり、母は三十七歳で亡くなった。父の失踪は僕が四つの時で、母の死は十一のときだった。母の死後二十年ほど経つ。
 僕は父母の素姓をはっきり知らないが、父は四国の山村が故郷で、母の方は中国地方の田舎が実家だ。が、両親とも他国に出てからは一度も生れ在所に帰ったことはないということだ。今日まで、僕も両親の郷里に行ったこともなければ、郷里の人たちの訪問をうけたこともない。要するに、典型的な流れ者なのだ。
 従って父母の身の上については他人の口から聞くよしもなかった。三十七歳まで生きた母も、僕にはあまりそんなことを話さなかった。
 父と母が一緒になったのは大阪だということだけは聞いた。しかし四国の山奥の青年と中国地方の片田舎の娘とがどのような縁で大阪で結ばれたかは分らない。しかしこの結婚は、どちらも故郷を出ていわゆる旅の空で出来合ったのであろうことは想像がつく。事実、母は死ぬまで戸籍面では内縁関係であった。当時、父は何をしていたであろうか。父のことになると母は不思議に話を回避した。
 僕は本州の西の涯B市で生れた。大阪からB市に両親が移った事情もはっきりしない。
 父は僕が四つのとき失踪したから、僕の父に対する記憶は殆どない。印象も残っていない。写真すらみたことがない。あるとき、僕がそれを母に云ったことがあるが、
「お前のお父さんという人は写真にうつることが嫌いでのう、とうとう撮らず終いだったよ」
 と母はいった。
 その頃の父の職業は何だったか。母にきくと、
「石炭の仲買での、始終、商売で方々をとび廻って忙しがっていなさったよ」
 ということだった。それが欧州大戦後に襲った不況で山のような借財が重なり、遂に朝鮮に渡ったきり、行方不明になったという訳だ。「大正×年−日、届出ニヨリ失踪ヲ宣告」と戸籍面で父の存在が抹消されたのは、それから十年もたって後である。
 実際、父の足跡はそれきりかき消えてしまった。生きているのか死んでいるのか、もとよりさだかでない。生きていれば、今年六十歳の筈だ。
「ちょっと神戸まで行ってくる」
 といって、トランク一つ提げて家を出て行ったそうだ。商用で旅は常だったから、母は怪しみもせずに出した。それが父の最後の姿だった。最初からその計画で家出したのか、途中でその気になったのか分らない。遺書一つない。朝鮮行きの連絡船で見たという人もあった。(158頁下〜159頁下)


 その母の横には、ある男がいたことが思い出されます。それが、河田忠一です。警察官を辞めて、行商をしていました。九州の筑豊炭田でのことです。
 本作品を読んで、最後の第六節の推理はピンボケだと思います。女の心理が読み解けていないとしか言いようがありません。物語を閉じるために、無理なこじつけとなっています。推理作家清張の片鱗だけが感じられました。

 後年、清張は火に拘った作品を書きます。本作では、ボタ山の火です。これは、幼い日に山陰の山中で清張の父が見たと思われる、たたらの火の記憶が蘇っているのではないでしょうか。本作品を読んで、そう確信しました。また、飛鳥の石像遺物とゾロアスター教に興味を持つのも、この延長上のことかもしれません。

 そのよくわからない、不遇の中に生きた父に対する清張の思いは、終生頭から離れなかったと、私は思っています。これは、私のまったくの思いつきです。何も文献は調べていません。研究の足跡も確認していません。
 この一連のメモは、勝手気ままに書いている、読書雑記であることをご了解ください。【4】
 
 
原題:「記憶」
初出誌:『三田文学』(昭和27年3月)
   改題改稿したものを『小説公園』(昭和28年10月)に掲載。
 
 
■「贋札つくり」
 明治2年、福岡藩での話です。
 財政困窮の中、窮余の一策が贋札作りでした。絵師・印刷屋・大工などの職人20人が城内の家老屋敷に集められました。しかし、職人の中で病気になった者が家に帰されたことから、その秘密を妻に語ったために露見します。
 人間の思考回路がよくわかります。そして、その結果にどう対処するかも、興味が尽きないところです。【3】
 
 
初出誌:『別冊文藝春秋』(昭和28年12月)
 
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
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2016年11月03日

清張全集復読(7)「戦国権謀」「菊枕」

■「戦国権謀」
 慶長12年、70歳近い家康の身辺が語られます。特に、本多正信との親密な関係が際だっていました。
 その子正純は、あらぬ疑いで宇都宮から追い出され、元和8年秋に出羽国由利郡本庄に幽閉されます。さらに、横手に遷されるのでした。
 加えて、ありし日の権勢を語ったことが秀忠の不興を買います。身辺の警備が厳重になったのです。片時も油断のならない身に置かれていることを痛感します。
 幽居11年で正純は72歳で亡くなり、静かに幕が引かれます。栄光と挫折が描かれています。
 人間の感情を押し殺した表現で語られるので、今からみれば清張らしくないと思う作品です。【3】
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(昭和28年4月)
 
 
■「菊枕」
 明治から大正にかけてのこと。中学校の美術の教師と、御茶ノ水を出た文学好きの美貌の妻との話です。
 妻ぬいは、夫との喧嘩ばかりの日々に懲り、俳句を始めます。大正から昭和にかけて、ぬいは知る人ぞ知る俳人として活躍します。しかし、他の女流俳人にはことごとく敵対します。自分の才能に誇りがあるからです。心満たされないままに、しだいに孤立し、狂態のさまを見せます。
 感動的な物語として終わります。抑制した語り口にも関わらず、胸を打つのは筆の力なのです。清張の面目躍如という作品に仕上がっています。
 この作品のモデルは、高浜虚子を偶像化していた小倉在住の俳人杉田久女で、清張は奈良まで取材に行って弟子たちに会っています。遺族から抗議をうけても、清張は相手にしなかったそうです。【5】
 
原題:「菊枕−ぬい女略歴」
初出誌:『文藝春秋』(昭和28年8月)
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
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2016年10月19日

清張全集復読(6)「梟示抄」「啾々吟」

■「梟示抄」
 話は、明治7年のことです。江藤新平と西郷隆盛、そして大久保利通が物語を動かしていきます。
 佐賀の乱で破れた江藤は、西郷を頼って鹿児島へ行きます。しかし、西郷は動きません。そこで仲間と一緒に宇和島から土佐へと、雪山の中を苦難の道を歩みます。清張には珍しい表現が見られる反面、清張らしくないレポーターのような口調に違和感を覚えました。
 江藤新平に関しては、もっと心の中を描き出してほしいところです。
【2】
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(昭和28年2月)
 
 
■「啾々吟」
 弘化3年(1844)8月14日に、肥前佐賀で同日に三人の男の子が生まれました。松枝慶一郎は鍋島藩の家老の子、後2人は大名の子と軽輩の子です。
 家格は低くても秀才だった軽輩の子石内嘉門が、それからどのような出来事に身を置くのか、開巻早々、物語の展開が楽しみになります。
 そして一読し終えて、宿命という言葉が記憶に残りました。
 明治の政争を描く中で、一人の人間の生き様が鮮やかに浮かび上がってきます。【4】
 
初出誌:『オール讀物』(昭和28年3月)
※第一回『オール讀物』新人杯佳作第一席に入選
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
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2016年10月09日

清張全集復読(5)「或る「小倉日記」伝」

 昭和15年のこと。詩人K・Mの元に小倉在住の田上耕作から手紙が来ました。小倉時代の森鴎外の事蹟を調べている、というのでした。
 第二節の後半に、「耕作には、六つぐらいの頃、こういう一つの思い出がある。」(全集35頁上段)とあります。この後の話は、清張自身に関わる記憶の一部ではないか、と思っています。特に、鈴の音は記憶に刻まれていた音ではないでしょうか。耕作の身体に障害があることは、これも清張が身辺で見聞きした経験に基づくものではないでしょうか。
 身体が不自由な耕作を、母ふじが献身的に助けます。後年、父親の存在に拘る清張が、母をこのように描いていることに、私は注目しています。
 この作品は、調べるということに何の意味があるのか、ということへの問いかけを背景に持っています。耕作は、調べれば調べるほど、そのことが我が身に返ってきます。
 書かれたものを読み、人を探し当てて話を聞くのです。柳田国男や民俗学のことに触れているのは、この問題意識があるからです。そして、これが後の推理物へと展開していきます。
 昭和25年末に耕作は亡くなります。そして、その2ヶ月後の26年初めに森鷗外の『小倉日記』が見つかります。
 一人の男とその母の、苦楽を共にした旅の意味が、この鷗外自筆の日記の出現によって、読者にあらためて問われているのです。
 昭和28年1月に、本作品が第28回芥川賞を受賞します。最初は直木賞候補だったものが、芥川賞の選考対象となり受賞した、という経緯があります。【5】
 
初出誌:『三田文学9』(昭和27年9月)
改稿再掲載:『文藝春秋』(昭和28年3月)

参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
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2016年10月03日

清張全集復読(4)「西郷札」「くるま宿」

■「西郷札」
 展覧会の準備中に西郷札とその覚書を入手した作者は、覚書を現代語にして広く公開することにしました。明治10年頃の宮崎県がその話の舞台です。
 作者は、この覚書をわかりやすく解き語りします。
 東京で車夫になった主人公の樋村雄吾は、ある日、義理の妹季乃に会います。偶然の出来事が波乱万丈の展開を見せるのです。
 原文の一部を引いて綴るこの物語は実に巧みで、読み耽ることになりました。
 物語の末尾に引かれる覚書では、最後の部分が破られていたとしています。そして、雄吾の決断を読者に考えさせます。なかなか憎い終わり方です。
 これは、松本清張が昭和26年に書いた処女作です。昭和25年の『週刊朝日』の「百万人小説コンクール」で三等に入選し、昭和26年の直木賞候補作ともなりました。【4】
 
初出誌:『週刊朝日 春季増刊号』(昭和26年3月)
 
 
■「くるま宿」
 明治9年の柳橋での話です。
 病気の娘を抱え、生きていくために吉兵衛は人力車夫になりました。
 寡黙で努力家の吉兵衛は43歳。酒も博打もしません。仲間も親方夫婦も、その姿を同情的に見ています。
 ある日、隣の料亭に強盗が入り、それを吉兵衛は見事に蹴散らすのでした。
 それを機に、転職の誘いがあっても断ります。ところが、ある出来事から吉兵衛が実は元直参大目付の山脇伯耆守だったとわかります。しかし、それは娘とともに立ち去った後でした。
 身を隠して市井に生きる男を、静かに見つめる作者の思いは、小倉にいる自分もいつかこのようなことが、との願望が形になったように思われます。依頼原稿の第一号です。【3】
 
初出誌︰『富士』昭和26年12月
 
 
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※この〔清張全集復読〕は、特に断わらない限りは『松本清張全集』(全66巻+別巻、1971年4月〜2009年5月、文藝春秋)を読んでの、気ままにメモを記した読書雑記です。
 メモを公開するにあたり、『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)を参考資料として見、登場人物名や年代などを正確にしました。
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2016年06月05日

触読調査の後は小倉の松本清張記念館へ

 昨日から福岡では小雨が降り続いています。
 九州は梅雨に入ったようです。

 今朝は、触読研究に関して5人の研究協力者の参加を得て、『変体仮名触読字典』のための触読シート「あ」(立体コピー試作2版)へのチャレンジをしていただきました。


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(1)【文字の上下がわからないとのこと】
  これは、シートの角に切り欠きをつけることで解決します。

(2)【何がどのような順番で紙面に配置されているか】
  上から、次の4種類の仮名が掲出されています。
   A.字母の活字体
   B.ユニコード登録予定の字体
   C.古写本に出現する代表的な2つの字体
  左枠外には、各字母を使用した語句2例を掲出
  その右側には、介助者用の読み仮名として、現行の活字体の平仮名と字母を併記
 こうした説明注記を、点字で添えるといいようです。


 まだまだ改良の余地があります。
 この試行錯誤を今後とも繰り返すことで、実用に耐え得る『変体仮名触読字典』を目指したいと思います。明日も、触読シートによる調査と意見交換を予定しています。
 
 昨日の懇親会で、この黒崎からは小倉が近いので「松本清張記念館」へ行くことを勧められましたし、すでに行って来たということでした。かねてより、私は清張に強い問題意識を持っていました。それに加えて、鳥取の日南町に文学碑があることや、松本清張の家系の謎を綴った『白い系譜』のこともあり、私も行ってみることにしました。

 清張の父と母については、次のブログの記事に詳細に書いています。

「松本清張の家系の謎『白い系譜』(1)」(2014年08月08日)

「松本清張の家系の謎『白い系譜』(2)」(2014年08月09日)

「松本清張の家系の謎『白い系譜』(3)」(2014年08月10日)

 黒崎駅から15分で西小倉駅です。そこから松本清張記念館へは歩いて5分。


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 清張の生涯が、実物と映像を駆使して展示されています。
 別室で『日本の黒い霧─遙かな照射』というドキュメンタリー映画を見ました。
 その中で、『黒地の絵』に関連する話として、小倉聾学校に脱走した黒人米兵が侵入したことが取り上げられていたのです。昨日来、さまざまな障害に関する研究発表などを聞いた後ということもあり、このことに強く反応しました。

 さらに、特別企画展「世界文学と清張文学」が開催されていました。
 清張の作品が世界中で読まれていることがわかりました。
 海外における『源氏物語』について問題意識を持っているので、清張の海外での情報には大いに興味があります。
 展示図録(2016.1.16)は、貴重な情報が満載です。清張は意外と英語がうまかったようです。


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 黒崎駅に戻り、また黒崎神社のおみくじロボットで占いを、と思ったところ、今日は「調整中」とのことでお休みでした。


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2014年08月10日

清張全集復読(3)松本清張の家系の謎『白い系譜』(3)

 白根正寿著『白い系譜』(備北新聞社、昭和51年3月)に関して、作品を読んでの個人的なメモを残しておきます。

 こんな会話で「序の章」が始まります。
 私が育った出雲地方でも使っていた方言であるズウズウ弁です。


「やっぱぇなあ……」
「あげだぜぇ。……なんぼ、畠山さんでもねゃ……なんの屈託もないのに、……嫁と姑ということなって見るとねゃ」
「そげだわねゃ、このことばかりは……」
「ほんに優しい、いい若御寮さんだったに」


 鳥取県の日野川源流に近い矢戸の村での話です。
 明治3年の早春。地主階級で豪農の畠山家当主である誠一郎(31歳)のもとへ、福成村の庄屋である前原家の美津(16歳)が嫁入りします。婚礼の日、畠山家の門で一悶着あったことが、その後の展開を暗示します。

 姑のてるは、〈尼将軍〉とか〈鬼よりこわい〉と言われる女傑なのです。
 優しい誠一郎と鬼の姑に挟まれ、誠心誠意尽くす中で苦悩する美津が、鋭い筆鋒でみごとに描き出されていきます。作者の筆力には、並々ならぬ切れ味を感じさせます。
 美津の夫である誠一郎の性状については、儒学の影響が色濃く認められます。親への優しすぎることなどで、作者はそれを強調しています。

 お茶の話が出てきました。美津は母から裏千家の手ほどきを受けたのに対して、姑のてるは松江を中心とした松平公の不昧流(53頁下)。当時の福成には、茶道の先生はいなかったようです。
 また、ホオズキで堕胎することは、どこから仕入れた知識なのでしょうか。村に言い伝えでもあるのでしょうか。二条流とは違うようです。(68頁上)

 美津の婚家出奔のくだりには、息をも吐かせぬ緊迫感と臨場感があります。
 美津を追い出すことに成功した姑のてると小姑のお百は、自分たちが仕組んだその後の結婚話に誠一郎が乗ってこないので、おもしろからず振る舞います。
 誠一郎は、明治5年の学制発布のために上京し、教部省(文部省)に入ることになったのです。この思惑が外れて行き違うところが、軽妙に語られます。
 それに比して、誠一郎と美津との相思相愛ぶりは、ドラマ仕立てで展開します。

 立身出世と純愛話に加えて、その背後に陰謀が空回りしながら物語は進展するのです。美津の懐妊についても、姑は我知らずと滑稽に描かれています。

 やがて生まれた勝太郎は、炭焚きの米十に里子に出されます。しかも、産みの親が知らないうちに。このあたりから、清張の父の匂いが行間に滲み出します。

 畠山家を出奔した美津は、姑と小姑が亡くなった後、再度畠山家に入ります。ただし、里子に出された第一子とは会えぬままに……。
 これは、一種の純愛物語です。嫁とは、母とは、という問いかけを、きわめて具体的に読者に突きつけてきます。

 後半では、奥出雲の風物であるタタラの文化についても、しっかりと書かれています。
 さらに、明治5年の学制発布という、教育制度が地方に展開する舞台裏などが詳しく描かれているのも、本作の特徴です。作者が積極的に教育に携わっていたからこそ、こうしたことをしっかりと調査して取り込んでいるのです。

 勝太郎は、矢戸一番の人物として故郷に錦を飾ることを夢見ていました。そのことを息子に語りながらも、果たせないままで亡くなります。知られている清張の父そのままです。
 美津は、昭和7年に81歳で亡くなりました。

 本作は、清張の祖母として登場する美津を中心として、日南町矢戸を舞台にして語られる物語です。
 フィクションとは思えない、極めて具体的な設定がなされています。事実とどう折り合いがつけられているのか、語られる1つ1つの根拠が知りたくなります。
 松本清張の父が里子に出された前後については、この話がどこまで事実を踏まえているのか。それが克明な描写に支えられているからこそ、作者はどのようにしてこうしたネタを自在に操れたのか、知りたくなりました。

 本作に描かれている虚実の揺れを、これから調べて読み解きたいと思っています。
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2014年08月09日

清張全集復読(2)松本清張の家系の謎『白い系譜』(2)

 白根正寿著『白い系譜』(備北新聞社、昭和51年3月)で語られている話を整理しておきます。

 まず、登場人物です。

 清張の生年月日は1909年(明治42年)12月21日とされています。しかし、それは九州小倉市で出生届を提出した公式書類上の日であり、実際には1909年2月12日に広島市で生まれた、ということが正しいかと思われます。

 本書『白い系譜』の最後では、実際の松本清張を匂わせる形で、名前を「成春」として生年月日は明治42年12月21日としています。公式な記録の日時に合わせたのでしょうか。
 名前についても、ペンネームの「せいちょう」ではなく、本名の「きよはる」と合成した「なりはる」になっています。

 参考までに、本書の巻末部の当該部分を引用しておきます。


 やがて勝太郎夫妻は一男児を挙げた。明治四十二年十二月二十一日であった。
 成春と名づけられた。成春は、かつて古舘源八が予言したとおり、誠一郎、美津からは一代おいてだったが、この系統から現われた偉材で、後年文壇の巨匠となって縦横の活躍をするのだが、それはここには語るまい。(250頁上段)


 さて、本書に登場する人物について整理しておきます。
 まず、流布する情報として、ネットに公開されている系図を引きます。
 
 
              松本米吉(鳥取県米子市)
                 ↑(養子)    
      田中雄三郎 ┏━━峯太郎(→広島県広島市)    
 (鳥取県日南町)┃  ┃   ┃
         ┣━━┫   ┣━━━━━━━清張
         ┃  ┃  タニ
        とよ  ┃
            ┗━━嘉三郎(→東京都杉並区荻窪) 
                ┃
               りう
   (ウィキペディア「松本清張」の「家系」の項目より)
 
 
 これに倣って本書の人物関係を系図にすると、次のようになります。
 ただし、これは初読によるメモであり、さらに正確にする必要があります。今は、不正確なままであることを承知の上で参考のために掲載します。
 
 
てる(大御寮33歳で    松下米十(炭焼、M8に伯耆淀江で魚屋
  ┃ 未亡人) 園枝(2人目の嫁  ↑ その後9歳で備後東城)
  ┣━━お百  ┃  大御寮の姪) ↑
  ┣━誠一郎(M3美津と結婚31歳)  ↑(里子)
矢戸の豪農    ┃         ↑
 畠山助左衛門  ┃  ┏━━勝太郎(M4.8.15生、後に松下姓)    
         ┃  ┃  ┃(流浪:西城→庄原→三次→広島)
福成村の庄屋   ┣━━┫  ┃
 前原太郎右衛門 ┃  ┃  ┣━成春(M4.8.15生)
  ┣━━━━━━美津 ┃  ┃
  ┃  (M3結婚16歳 ┃  妻(広島)
  ┃ 4人目の若御寮) ┃             
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2014年08月08日

松本清張全集復読(1)松本清張の家系の謎『白い系譜』(1)

 白根正寿著『白い系譜』(2段組252頁、備北新聞社、昭和51年3月)を読みました。
 この本を読まれた方が他にいらっしゃいましたら、ぜひとも連絡をいただきたいと願っています。

 非売品である本書の発掘は、鳥取県日野郡日南町の浅川三郎氏の精力的な探索があっての賜物です。


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 国立情報学研究所(NII)の「Webcat Plus」で調べると、本書について以下のことがわかりました。


人物名ヨミ シラネ マサヒサ
人物別名 白根正寿
生年 1907年
没年 1999年

本の一覧
タイトル 著作者等 出版元 刊行年月
白い系譜 白根正寿 著 立花書院 2000.4
山村の農業経営 白根正寿 著 富民社 1954
 
 
タイトル 白い系譜
著者 白根正寿 著
著者標目 白根, 正寿, 1907-1999
出版地 米子
出版社 立花書院
出版年 2000
大きさ、容量等 319p ; 19cm
価格 非売品


 白根氏には、『山村の農業経営』という著書もあるようです。

 今回、浅川氏が手配してくださった『白い系譜』を、幸運にも実際に手にして読むことができました。

 この本の奥付けは、次のようになっています。


昭和51年3月1日発行
著者 白根正寿
発行所 岡山県新見市 備北新聞社
発売元 新見市 市民会館内
    備北文学会


 発行日は「昭和51年(1976年)3月」です。
 上記「Webcat Plus」の書誌では、「平成12年(2000年)4月」でした。
 この24年の間隔は、何に起因するものなのでしょうか。
 また、発行所も発売元も「立花書院」と「備北新聞社(備北文学会)」と異なります。

 こうしたことは、今後の調査として保留にしておきます。
 なお、9月にさらなる調査のために現地を訪問する計画を立案中です。
 わかりしだいに、順次報告します。

 また、「東寺百合文書WEB」の中に、次の論文がありました。


白根正寿 “たまがき”について 『新見庄 生きている中世』備北民報社 1983 荘園史 新見荘(備中国)


 白根氏は学校の教員をなさっていたと仄聞しています。これは、その成果の一端なのでしょうか。

 「レファレンス協同データベース 9月1日」(情報の発信母体は不明)の中に、この白根氏の論文について更なる情報がみつかりました。
 これは、次のような説明の元に紹介されているものです。


たまかきの生涯について知りたい(岡山県立図書館)

 新見市は今年度から「新見庄愛の書状大賞」と銘打った手紙文コンテストを実施した。これは同市が地域活性化を企図して平成二年度から行っている「ロマンの里づくり事業」の一環で、新見庄の「たまかき」の書状にちなんで行われたイベントである。
 ここで、たまかきについて簡単に紹介しておこう。彼女は、京都の教王護国寺(東寺)領の新見庄の荘官で、惣追捕使の福本刑部丞盛吉の妹といわれるが、生没年に関しては不明である。東寺から派遣された直務代官として僧祐清が新見に着任したのが寛正三(1462)年のことである。たまかきは祐清の身辺の世話をする事になり、その時 心を通じ合ったと思われる。しかし、年貢の取り立てを厳しく行っていた祐清は、翌年七月に年貢未納の名主の一人を追放したことを機に、庄民によって斬殺される。葬儀の後、たまかきが東寺に向けて祐清の遺品を求めた手紙が「たまかき書状」で、中世農村女性の自筆書状として全国にも希有なものとされている。
 たまかきに関する直接的な史料は「東寺百合文書」(京都府立総合資料館蔵)の中のこの書状と、「祐清注進状」程度の限られたものである。ここでたまかき及び祐清殺害 に触れる郷土の文献を幾つか紹介すると、
(中略)
(4)『新見庄 生きている中世』(昭58・備北民報社)、(中略)(4)の中に収められている白根正寿氏の「”たまがき”について」という論文では、一枚の書状という限られた史料の中から、たまかきの亡き祐清に対する慕情等を推察も加えつつ執筆されている。(http://www.ai-21.net/news/pm/new_data719.html


 白根氏は、収集した情報を想像力を逞しくして、可能な限り再構成するのが得意だったようです。これは、『白い系譜』の創作についても言えそうです。

 前置きが長くなりました。とにかく、松本清張が終生こだわった自分の不可思議な家系について、その実態と思われる秘話が、『白い系譜』では小説という形を借りて実話風に語られています。
 この『白い系譜』という作品は、さらに詳しく検討する価値の高いものだと思われます。ただし、そうした資料的なことは今は措き、次回はこの小説の内容を確認したいと思います。(つづく)
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