2013年06月20日

第二回 池田亀鑑賞 授賞式 プログラム

 明後日22日(土)の午後、鳥取県日野郡日南町で《第二回 池田亀鑑賞 授賞式》があります。
 そのプログラムが届きましたので、速報として流します。
 颱風の進路が気がかりです。
 多くのみなさまのご参加をお待ちしています。




《第二回 池田亀鑑賞 授賞式》 プログラム

     開会 午後1:30

第一部 第二回池田亀鑑賞授賞式
            司会 浅田幸栄(日南町図書館司書)

■ 開会挨拶 加藤和輝(池田亀鑑文学碑を守る会・会長)
■ 賞状と賞金の贈呈
■ 副賞(朝日新聞鳥取総局)の贈呈を鳥取総局長より
■ 池田亀鑑賞会長挨拶 伊井春樹先生(池田亀鑑賞の意義について)
■ 池田亀鑑賞選考委員長挨拶 伊藤鉄也先生(選考理由について)
■ 来賓挨拶 日南町長 増原聡 様
■ 来賓紹介 日南町議会議長 村上正広 様、日南町教育長 内田格 様

     午後2:00~2:40

第二回池田亀鑑賞受賞記念講演 岡嶌偉久子氏 
  「林逸抄─室町末期、俗語で書かれた源氏物語注釈書─」

     午後2:45~4:30

第二部 もっと知りたい池田亀鑑と源氏物語

(1)池田研二氏「『源氏物語大成』完結まで」

(2)伊藤鉄也氏「昭和7年に東大で開催された源氏物語展」

(3)妹尾好信氏「池田亀鑑の付箋書き入れ『古今著聞集』」

(4)原 豊二氏「伯耆地方の源氏物語」

(5)小川陽子氏「池田亀鑑の卒業論文と『宮廷女流日記文学』」

閉会 挨拶

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2013年06月11日

第2回池田亀鑑賞授賞式と記念講演会のご案内

 『第2回 池田亀鑑賞授賞式および記念講演会』が、来週6月22日(土)に開催されます。
 主催は「池田亀鑑文学碑を守る会」で、会場は日南町総合文化センター・多目的ホールです。

 日南町は、鳥取県の南端にあります。島根県、広島県、岡山県に接する、中国山地のど真ん中です。
 会場がある日南町役場までは、JR伯備線の生山駅を降りて車で3分です。
 興味のあるお方は、こうした機会を利用して一度日南町に足を運んでみてはいかがですか。
 文学関係者ゆかりの地としては、池田亀鑑だけではなく、井上靖と松本清張の文学散歩もできます。

 第1回の池田亀鑑賞の授賞式のことは、次のブログをご参照ください。

「盛会だった池田亀鑑賞の授賞式」(2012/3/10)

 その他、これまでに本ブログで日南町のことは何度か報告しています。
 ご笑覧いただければ幸いです。
 
 今年のポスターが出来上がっていますので、掲示します。
 
 
 
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2013年05月14日

第2回池田亀鑑賞は岡嶌偉久子氏の『林逸抄』に決定

 第2回の池田亀鑑賞は、岡嶌偉久子氏の『林逸抄』に決定しました。
 これは、おうふうから刊行中の「〈源氏物語古注集成〉の第23巻」にあたるものです。
 池田亀鑑賞のホームページに、「受賞作に関する情報」が掲載されています。

 第3回の池田亀鑑賞については、近日中にその募集の概要が発表されます。

 なお、この「池田亀鑑賞の後援」に、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉も加えていただきました。

 地道にコツコツとなされた調査や研究の成果が、こうして顕彰されることを、共に慶びたいと思います。
posted by genjiito at 00:03| Comment(0) | □池田亀鑑

2013年04月28日

逸翁美術館で池田亀鑑賞の選考委員会がありました

 今日は、第2回となる池田亀鑑賞を選考する委員会がありました。審査会場は、当委員会の会長である伊井春樹逸翁美術館館長が文庫長を兼務なさっている、美術館に隣接する池田文庫の会議室です。
 
 
 

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 私は、昨日のお昼までは東京日本橋で開催されたNPO法人〈源氏物語電子資料館〉の通常総会に出席し、午後はそのままみんなと一緒に、皇居前の出光美術館で公開されている「土佐光吉没後400年記念 源氏絵と伊勢絵―描かれた恋物語」(2013年4月6日〜5月19日)の展覧会に足を運びました。これは、多くの刺激を受けるすばらしい展覧会でした。

 その足で、すぐ目の前の東京駅から新幹線で入洛です。
 京都の自宅に着くとすぐに、委員のみなさまから送られて来ていた審査資料を整理し、まとめたものを委員の先生方にお送りしました。

 今日の会議では、各委員の先生方から事前に伺っていたコメントに加え、当選考会での話題に沿って、さまざま角度から発言がありました。ありとあらゆる視点から検討することによって、今回の受賞作が決定したのです。

 また、今回も日南町から、「池田亀鑑文学碑を守る会」の事務局長をなさっている久代安敏氏が、オブザーバーとして参加してくださいました。主催者側である日南町のご理解がいただけていることは、大変ありがたいことです。

 審議の結果、池田亀鑑賞にふさわしい著作一点が、第2回受賞作として選定されました。近日中に、池田亀鑑賞のホームページを通して発表されますので、今年度の詳細は今しばらくお待ちください。

 授賞式は、本年6月22日に日南町で行われます。
 このことに関しては、「池田亀鑑賞のホームページ」をご覧いただければ幸いです。

 第3回の募集については、今回の受賞作の発表と共にお知らせします。
posted by genjiito at 23:26| Comment(0) | □池田亀鑑

2013年03月25日

第2回池田亀鑑賞の募集は今月末が〆切りです

 昨年3月に、第1回池田亀鑑賞受賞作品として杉田昌彦氏の『宣長の源氏学』(新典社)が選ばれてから、早いもので1年が経ちます。

 第2回目となる今年は、今月末(3月31日(日))が応募の〆切りとなっています。
 昨年よりも募集も選定も遅くなり、授賞式は平成25年6月22日(土)です。

 詳細は、「池田亀鑑賞のホームページ」をごらんください。

 募集期間があと1週間となりましたので、あらためてお知らせいたします。
 昨年平成24年1月から今月までの1年3ヶ月の間に、刊行および発表された作品が対象となります。

 この「池田亀鑑賞」の趣旨は、ホームページに以下のように明記されています。


文学の研究基盤を形成する上で、顕著な功績のあった研究に対して贈るものです。
その地道な努力を顕彰し、さらなる成果の進展を期待する意味を込めています。
「池田亀鑑賞」は、伝統ある日本文学の継承・発展と文化の向上に資することを目的として、池田亀鑑生誕の地である
日南町と池田亀鑑文学碑を守る会が創設しました。


 この賞の募集内容と応募方法および応募先については、次のとおりとなっています。


募集
一般公募。あるいは、全国の作家、評論家、出版社、新聞社など推薦人から推薦を受けたもの(平成24年1月1日〜平成25年3月末日刊行奥付および発表分)の中から、同賞選考委員会により選ばれます。
 
応募
刊行物および掲載誌を1部送付してください。
また、タイトル・氏名・住所・電話番号・メールアドレス・所属を明記の上、要旨(800字〜2000字程度)も添えてください。
 
応募先
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-44-11
新典社内 池田亀鑑賞事務局
TEL:03-3233-8051  FAX:03-3233-8053


 応募書類等は、平成25年3月末日必着となっていますので、ちょうどあと1週間です。

 選定にあたっては、次の目安がホームページ上にも示されています。

前年に発表された『源氏物語』を中心とする平安文学に関する研究論文や資料整理及び資料紹介に対し、学界に寄与したと評価されるもの1作品を選定します。


 なお、受賞作には、賞金(20万円)と朝日新聞鳥取総局より副賞が贈呈されます。
 そして、平成25年6月に日南町で行われる「もっと知りたい 池田亀鑑と『源氏物語』」の講演会において、授賞式および講演を行なう予定です。

 選考は、以下の6人の委員があたります。

伊井春樹
伊藤鉄也
池田研二
妹尾好信
小川陽子
原 豊二

 原豊二氏は、今回の第2回からの委員です。
 それぞれのコメントは、池田亀鑑賞のホームページ内「選考委員紹介」をご覧ください。

 昨年は10点以上の応募がありました。
 今年もすばらしい作品の応募があることでしょう。
 コツコツと歩んで来られた成果が応募作として並ぶことを、大いに期待し、楽しみにしています。
posted by genjiito at 21:50| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年07月14日

池田芙蓉(亀鑑)著『馬賊の唄』を読んで

 池田芙蓉の空想冒険小説『馬賊の唄』(昭和50年、桃源社)を読みました。池田芙蓉とは池田亀鑑のペンネームです。
 この本のことは、すでに一年前に書いた通りです。

「本と出会う楽しみ−末松謙澄と池田芙蓉」(2011年6月17日)

 あの時は冒頭部分を読んだだけだったので、今回一気に読み通したのです。
 実際にはもっと話は続いたようです。しかし、ここに再編集された部分しか、今は読むことができません。

 読み終えてみて、荒唐無稽ながらも、非常におもしろい話でした。これは、大正14年に「日本少年」に連載されました。読者であった少年たちは、次の展開を心待ちにしながら、心躍らせて夢を膨らませながら読み耽ったことでしょう。
 主人公である山内日出男は、中国の奥地から満州までを駆け巡ります。文中にも「父を尋ねて幾百里」(132頁)とあるように、気宇壮大な物語です。

 巻頭部分を引いておきます。


第一回

    一 落日紅き万里の長城

  絶域花はまれながら
  平蕪の緑今深し
  春乾坤にめぐりては
  霞まぬ空もなかりけり
 いずこともなく朗々たる歌の声が聞える。小手をかざして眺めやれば、落日低く雲淡く辺土の山々は空しく暮色に包まれようとしている。
 夕陽の光は大陸の山河を紅にそめて、名も長城の破壁を淋しく彩った。霞こめた紫色の大空には、姿は見えぬタ雲雀の声も聞えていた。(三頁)


 この美文調は、読み進むにしたがって慣れました。
 この冒険活劇の舞台となる中国大陸は、朝日ではなくて夕陽と月影が似合うように語られています。

 参考までに、この小説の目次をあげておきます。


第一回
 一 落日紅き万里の長城
 二 痛恨涙をのむ亡命の志士
 三 秋は深し楊子江
 四 父を尋ねて幾百里

第二回
 一 闇夜の物音
 二 闇をてらす炬火の光
 三 よし、相手になろう!
 四 人質の美少女

第三回
 一 腕は鳴る!
 二 敵か味方か
 三 かがやく朝日

第四回
 一 何等の荘厳
 二 馬もろともに真倒さま
 三 男児の試練
 四 戦闘準備

第五回
 一 魔の淵へ
 二 霊峰の落日
 三 死の窓
 四 この顔を見よ!

第六回
 一 真紅の大怪物
 二 計られたり!
 三 死の谷底へ
 四 起て! 稲妻!

第七回
 一 黒き影
 二 正義の妖霊
 三 覆面の曲者
 四 樹上の怪物

第八回
 一 両雄相会す
 二 平和の眠り
 三 敵近し

第九回
 一 怪火揚る
 二 「西風」たのむぜ!
 三 怪傑何人ぞ

第十回
 一 何者?
 二 戦のあと
 三 五月の朝
 四 見よ! 猛火の天

第十一回
 一 来れ! 大陸の王者
 二 さらば小英雄
 三 何者ぞ

第十二回
 一 絶壁の上
 二 月明の夜に
 三 乱闘又乱闘
 四 敵か味方か

第十三回
 一 万事休す
 二 呪いの炎
 三 さらばエニセイ

解説 種村季弘


 中国大陸を舞台にし、遠くヨーロッパまで見霽かした雄大な語り口は、『源氏物語』をはじめとする古典文学の文献学者とはとても思えません。その雄大な物語の展開は、つぎにあげるような、ここに出てくる地名を見ていくだけでも想像できるかと思います。
 ただし、池田亀鑑が中国大陸や満州の地理に詳しかったどうかはわかりません。いや、実際には知らなかったために、こうした夢幻の空想冒険談が書けたといえるでしょう。
 ここに引いた地名が、実際に今もあるものなのか、まだ調べてはいません。


万里の長城/浙江/奉天/上海/北京/江南/内蒙古/山海関/長白山脈/ゴビ沙漠/崑崙山脈/張家口/陰山山脈/帰化城/黄河/蒙古高原/天山山脈/嘉峪関/祁蓮山脈/キルギス広原/ブルカール/ロシヤ/モスコー/キエフ/ポーランド/ハンガリ/寧夏/蜿蜒山/ウラル/アルタイ/ヒマラヤ/サヤン山脈/バイカル湖/イルクーツク/シベリヤ/満州/コブド盆地/外蒙古/セレンガ河/タンヌウレヤンハイ/エニセイ河/ヨーロッパ/エニセイスク/クラスノヤルスク/トムスク


 さて、この物語の最後は、次のように結ばれています。


 一年に亙る冒険旅行は終った。
 日東の健児山内日出男は、宿願の通り、父を辺境に救うことが出来た。これは、あらゆるものにまさる喜びであった。が、彼の心は淋しかった。
 サヤン山脈を東に、国境を去らんとする日、彼は幾度か後ろをふりかえった。
「西風! お前も淋しいか?」
 愛馬はもの恨ましげにいなないた。旅衣ふきひるがえす夕風よ!
 顧みれば、夕陽紅をながすエニセイの河は、大山脈をきってうねうねとつづいている。
「さらばエニセイよ! 稲妻の霊よ!」
 日出男はこう云って暗涙をのんだ。
 父も佐藤父子も、蛮勇頬骨の快僧も、緑林好はじめ数百の騎手も、等しく夕日の光に照らされ、秋風に吹かれて愁然とつっ立った。(一七三頁)


 これが、今から87年前に池田亀鑑が池田芙蓉というペンネームで書いた物語の概略です。
 登場人物の設定や、表現の問題など、興味深いことがあげられます。しかし、それらは機会を改めることにします。
posted by genjiito at 23:17| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年03月31日

小冊子『池田亀鑑』ができました

 鳥取県立図書館から「郷土出身文学者シリーズ(8)」として『池田亀鑑』(平成24年3月、55頁)が刊行されました。
 
 
 
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 内容は、以下の通りです。


はじめに
第一章
 一 池田亀鑑の資料収集 原 豊二
 二 池田亀鑑と教え子 小川陽子
 三 池田亀鑑の生涯─鳥取時代素描─ 伊藤鉄也
第二章
 一 亀鑑ゆかりの地案内
 二 池田亀鑑略年譜


 内容的には、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』と重複するところがあります。しかし、こちらは鳥取県民のみなさんを意識した、わかりやすい内容になっています。
 鳥取県立図書館郷土資料課の渡邉仁美さんが、1年がかりで1冊にまとめてくださったものです。

 手にとってご覧になりたい方は、図書館(電話:0857-26-8155)に問い合わせてみて下さい。奥付には、「この冊子は1,200部印刷し、1部当たり500円です。」とあるので、頒布しておられるかと思います。
posted by genjiito at 23:39| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年03月30日

池田亀鑑の書簡から本文研究の背景を推測する

 日本近代文学館の館報(第246号、2012年3月15日)に、池田亀鑑の書簡が翻字とともに紹介されています。これは、「館蔵資料から=未発表資料紹介 佐佐木信綱宛書簡(三)」として掲載された記事の中で、新井洸の手紙に続いて列記されています。
 この資料については、浅岡邦雄先生(中京大学)のご教示により知りました。いつも、貴重な情報を教えていただき、感謝しています。

 さて、当館報に紹介されている池田亀鑑の書簡は、以下の8通です。


(1)昭和6年6月22日(封書、ペン書、便箋一枚)
(2)昭和10年12月17日(封書、墨書、便箋三枚)
(3)昭和13年10月7日(封書、墨書、便箋二枚)
(4)昭和15年8月12日(封書、墨書、便箋二枚、速達)
(5)昭和15年(推定)8月21日(封書、墨書、便箋四枚、速達)
(6)昭和16年3月29日(封書、墨書、便箋二枚)
(7)昭和19年5月28日(封書、墨書、方眼紙一枚)
(8)(不明)年4月25日(封書、墨書、巻紙、使い便、冒頭部の影印掲載)


 この中でも、(4)の手紙文に次のように書かれていることが、私の興味を惹きました。


(前略)昨日は御芳書たまはりまして忝く存じます 御下命の件早速調査を致しまして御報告申上げます あの箇所の異文も悉くご報告申上げます 何卒一両日の御猶予御願申上げます(後略)


 これによると、この返信を書いた前日の昭和15年8月11日に、佐佐木信綱から『源氏物語』の異文箇所についての問い合わせの手紙が来たようです。それについて、すぐに調べて回答すると言っているのです。

 次の(5)の書簡には、昭和何年かが記されていないようです。しかし、手紙全文が次のように書かれていることから、これは(4)を受けて池田亀鑑が『源氏物語』の本文を調べている内に、佐々木信綱からさらに書簡が届き、それに恐縮して調査結果の報告を記したものであることがわかります。
 最初に佐々木信綱から問い合わせがあってからこの返信まで、10日ほどが経過しています。


拝啓 只今は重ねて御手紙をたまはりまして忝く存じ上げます 御下命の件大変延引いたし申訳ございません 色々と調査いたしました処 青表紙本と河内本とは本文の異同はございませんが別本と申してをりますものが別紙の如く二様になつてをります
そこで青表紙本といたしまして東山御文庫御蔵の御物本 河内本といたしましてやはり東山御文庫御蔵の

伝慶運筆梅ケ枝巻(七亳源氏中)別本といたしまして甲類を近衛家本越中局筆 乙類を麦生鑑綱自筆本と定め写真に取りかゝりました処 東山御文庫本が引延しに失敗いたしましたので再三やりかへし やうやく物になりさうな処まで達しました 本日夕方には出来上るとのことでございますから出来上りましたら早速御とゞけに参上いたします 延引の」

段何卒御許し下さいませ
なほ東山御文庫本は正式な許可を得ましてフイルムにをさめましたもの近衛本も同様でございますから御自由に御使用下さいまして一向に差支なきものと存じます いづれ拝眉を得まして
  八月二十一日        亀鑑
 佐佐木先生 侍史」

青表紙本、河内本
 さかの御かと古万葉をえらひかゝせ給へる四巻
別本
甲類
 さかの御かと万えうしうをえらひかゝせ給へる四巻
乙類
 さかの御かと万えうしうをゑらひかゝせ給へりける四巻


 佐佐木信綱からもたらされた『源氏物語』に関する問い合わせは、現在一般的に読まれている『新編日本古典文学全集』(小学館)で見ると、第32巻「梅枝」で次のような校訂本文となっている箇所です。


嵯峨帝の、古万葉集を選び書かせたまへる四巻、(第3巻、42頁)


 おそらく佐佐木信綱は、嵯峨天皇が書写させた「(古)万葉集」が「4巻」となっていることについて、池田亀鑑に問い合わせたと思われます。
 この箇所について、池田亀鑑は諸本の本文の違いを調べて、それぞれの本文を引用しています。

 ここで気になるのは、「青表紙本といたしまして東山御文庫御蔵の御物本」と言っていることです。池田亀鑑が最善本とした高らかに宣言した「大島本」ではないのです。また、〈河内本〉としては同じく東山御文庫御蔵の「伝慶運筆本」(通称「七亳源氏」)を例示しています。

 この書簡は昭和15年8月のものです。
 この前後の『源氏物語』の本文関係の情報を整理しておきましょう。

 昭和7年11月に、「校異源氏物語」の稿本が完成したので、蒐集した資料の一部が東京大学で展観されました。その時点での底本は〈河内本(禁裡御本転写・室町時代)〉でした。
 そして昭和12年2月に、東京大学で開催された第2回目の〈源氏物語展覧会〉では、『校異源氏物語』の底本は「大島本」に変更されていたと思われます。
 さらに、昭和17年に刊行された『校異源氏物語』では、〈河内本〉から〈いわゆる青表紙本〉を代表するものと認定した「大島本」に、底本が一大変更となりました。

 こうした背景を考えると、昭和15年8月に佐佐木信綱への回答文の中で、池田亀鑑が「大島本」をまず取り上げていないのはどうしてでしょうか。この時点では、まだ「大島本」の整理が終わっていなかったと考えた方が自然ではないでしょうか。
 昭和17年には「大島本」を絶賛して『源氏物語』の最善本とするのですから、その前の昭和15年は、〈河内本〉としての東山御文庫蔵「御物本」から〈いわゆる青表紙本〉としての「大島本」へと大きく方針が転回したと見ることができます。

 とすると、昭和12年に東京大学で開催された第2回目の〈源氏物語展覧会〉で展示された『校異源氏物語』は、まだ「大島本」を底本とするものには切り替わっていなかった、と考えられます。その過渡期のものだった、と今は考えておきたいと思います。
 具体的なことは、今はまだわかりません。状況からしてそう考えられるのであって、このことはさらに調べます。

 上記書簡で、池田亀鑑は〈別本〉の本文が2種類あると言っています。
 〈青表紙本〉と〈河内本〉が「古万葉」とするところを、〈別本〉では「万えうしう」とし、その中でも「麦生本」には「て」があり、「給へりける」となっている、と言うのです。

 池田亀鑑が佐佐木信綱に示した本文を、今に伝わる写本で確認すると、次のようになっています。


陽明文庫本(『源氏物語別本集成』321617)
「さかのみかと万えうしうをえらひかゝせ給へる四巻/巻=くわん」

麦生本
「さかのみかとまんえうしゆうをゑらひてかゝせ給へりける四巻」


 「陽明文庫本」も「麦生本」も「みかと」となっていて、池田亀鑑が示した「御かど」ではありません。
 また、「麦生本」では「しゆう」となっていて、池田亀鑑の言う「しう」ではありません。

 どうやら、池田亀鑑が佐佐木信綱に提示した本文は、『校異源氏物語』として校合作業が進んでいた資料をもとにしたものだったようです。『校異源氏物語』の編集方針により、本文が他の本との表記に統一的に調整されたものなのです。
 つまり、この昭和15年の時点で、すでに『校異源氏物語』の作業は表記を統一するという方針で整理が進んでいた、ということが言えそうです。早い段階から、〈いわゆる青表紙本〉以外は、写本を正確に翻字したものとなっておらず、漢字かなや活用語の送り仮名などはおおまかにまるめてあったようなのです。

 ただし、その本文異同がある箇所の写真を、池田亀鑑は佐佐木信綱の元に届けようとしています。すると、この表記が正確でないことが明らかになります。池田亀鑑にとっては、こうした細かなことは作業チームの担当者に任せていたために、まだ気付いていなかったか、こうした些細なことには目をつぶっていた、ということなのでしょうか。
 よくわからないことが出来しました。このことも、さらに調べてみます。

 なお、「大島本」では、この箇所は次のようになっています。

さかの御かと古万葉集をえらひかゝせ給へる四巻/=ヨマキ


 つまり、池田亀鑑は佐佐木信綱に、〈青表紙本〉と〈河内本〉は「古万葉」という同じ本文を伝えていると報告しました。しかし、「大島本」は「古万葉集」となっているのです。
 このことからも、この昭和15年の時点では、池田亀鑑は「大島本」について全幅の信頼の元に『源氏物語』を代表する本文という認識を確たるものにしていなかった、と言っていいようです。

 また、昭和17年に刊行された『校異源氏物語』では、この「梅枝」巻の当該箇所は次のようになっています。

古万葉集─万えうしう陽麦阿桃
えらひかゝせ給へる─ゑらひかゝせ給へりける麦阿

 これは、上記の私の推測があながち外れていないことの証左となりそうです。

 さらに、『校異源氏物語』の「梅枝」巻の巻頭にあげられた諸本名は、〈青表紙本〉の最初に「御物本(東山御文庫御蔵)」、〈河内本〉の最初に「七亳源氏(東山御文庫御蔵)」、〈別本〉の最初に「陽明家本(近衛侯爵家蔵)」が置かれています。
 この配列の淵源には、昭和15年に池田亀鑑が佐佐木信綱宛の書簡で例示した『源氏物語』の本文を代表するもの、という意識が読み取れるようにも思われます。

 以上、いろいろな推測を交えて取り急ぎ記しました。
 さらに調べて、『校異源氏物語』が完成する背景の正確なところを、あらためて報告します。
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年03月12日

米子にある稲賀敬二先生のお墓へ

 日南町からの帰りに、広島からお越しの妹尾好信先生が、米子にある恩師稲賀敬二先生のお墓参りをなさるということです。そこで、池田研二先生と私も、ご一緒させていただくことになりました。

 稲賀先生は、池田亀鑑の晩年の『源氏物語大成』のお仕事を手伝われました。そのころの写真も何枚か残っています。『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」』で、また紹介します。
 池田研二先生も、稲賀先生の広島のお宅にいらっしゃったことがあるそうです。

 稲賀先生の広島大学での教え子が伊井春樹先生であり、妹尾先生です。伊井先生の教え子の一人が私であり、妹尾先生の教え子が小川陽子さんです。こうしたメンバーで、池田亀鑑賞の選考委員は構成されています。

 私にとっての稲賀先生は、1999年秋の国文学研究資料館におけるシンポジウムで、先生がおられる広島大学と国文学研究資料館をインターネットで繫ぎ、国文学研究資料館で進行するシンポジウムに広島大学から中継によってスクリーンに大写しにして参加していただいたことが忘れられません。この時のことは、『源氏物語の異本を読む―「鈴虫」の場合―』(臨川書店、平成13年)に、写真入りで詳しく報告しています。

 その準備のために事前に広島へ行って、稲賀先生と打合せをしました。妹尾先生の細やかなご配慮の元、インターネット中継は大成功でした。

 また、私が書いた拙い論文を送ると、いつもすぐにアドバイスを含めての返信が来ました。ありがたい先生でした。

 米子から水木しげるで有名になった境港へ向かって北上し、井上靖記念館や米子空港の先の上道神社の中の墓地に、稲賀先生のお墓はありました。
 
 
 
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 立派な稲賀家のお墓でした。手前右が、分家である稲賀先生のお宅のお墓です。
 何度も来ておられるという妹尾先生は、お酒が大好きだった稲賀先生のために、小さな御神酒をそっと供えておられました。
 
 
 
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 この墓地を歩いていると、我が家と同じ家紋である丸に九枚笹がたくさん墓石に彫ってありました。この地域に多い家紋なのでしょうか。我が家の実家が島根県出雲市であることと、何か関係があるのでしょうか。あまりにも多いので、気になりました。

 近くの夢みなとタワーの下で、新鮮なお刺身で食事をしました。
 このタワーの格子状のフレームは、何と先ほどまでいた日南町の杉の集成材だったのです。温もりのある設計です。
 
 
 
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 今回の鳥取の旅は、イベントも大成功で、さらには稲賀先生の墓参もできました。
 充実した時の中に身を置くこととなり、ゆったりとした気持ちで帰路につくこととなりました。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年03月11日

池田亀鑑の生い立ちに関する新事実

 池田亀鑑の生い立ちに関して、新しいことがわかりました。
 池田亀鑑は、明治29年12月9日、鳥取県日野郡福成村大字神戸上(かどのかみ)下代(しもだい、現日南町)の寄留先であった後藤宅で生まれました。
 このことは確かです。ただし、私はこの背景に、池田とらと後藤とらの2人のとらさんが、同じ屋根の下で10月10日を共にしていたことに、何か吹っ切れない疑念を抱いています。ただし、今はそのことは措いておきましょう。

 明治41年6月に、池田家は累代の居住地である日野郡久古村(旧岸本町、現伯耆町)に、父宏文の転勤もあって転居します。それまでは、この現日南町の神戸上下代の後藤宅に間借りをしていた、と私はこれまで報告していました。しかし、このことを修正する必要が生じたのです。

 昨日、池田亀鑑賞授賞式の後、池田亀鑑文学碑を守る会のみなさんとの懇親会の席上でのことです。池田亀鑑のご子息である池田研二先生から、新しい情報があるようなので一緒に聞いてほしいとのことでした。
 守る会の会長である加藤和輝さんと、会員の金田浩さんからその詳細を伺いました。

 池田家に関することを思い出されたのは、今回の池田亀鑑賞の授賞式の話を金田さんがなさったことに端を発しているのだそうです。池田亀鑑賞がこのような記憶を呼び覚ます力を持っていたとは、本当にありがたいことです。

 さて、金田さんと話された福田さんの話によると、お母さんから聞いているのは、亀鑑が下代の後藤宅にいたのは、2歳までだったというのです。

 これまで私は、明治41年(亀鑑満12歳)の6月に、亀鑑生誕の地である神戸上下代の後藤宅から、久古の貝田原にあった校舎の中で池田一家の生活が始まった、と考えていました。しかし、昨日の情報によると、明治31年の亀鑑2歳の時に後藤宅を出て小学校に近い砂田に転居し、その10年後の明治41年6月に、そこから久古に移ったことになるのです。

 これまで私が信じていたように、亀鑑は生まれてから12年間ずっと後藤宅で育ち、いわば乳母子でもあるかのような後藤孝重さんと共に育った、というのは正確ではないようです。
 これでは、池田亀鑑賞の授賞式が終わったからといって、このまま帰るわけにはいきません。

 このことを確かめるために、今朝早く、その情報をお持ちの福田宅に連れて行っていただき、福田澤枝さんと金田さんにお目にかかり、この件に関してお話を伺いました。池田研二先生もご一緒でした。

 福田さんのお話によると、お母さんから聞いた話だがとして、池田家は亀鑑が2歳の時に、かつて砂田にあった旅館か料理屋をしていた2軒の長屋が空き家になったのを機会に、後藤宅から引っ越しをしたそうだ、とのことです。
 亀鑑の随筆集『花を折る』に、砂田のことは書いてあるのではとも。(これから確認してみます。)

 そして、亀鑑と後藤孝重さんは1日違いで同じ屋根の下で生まれたこともあり、孝重さんは成人すると上石見に出たが、その後も2人は連絡を取り合っていたようです。
 石見東小学校の校庭横にある亀鑑の石碑の文言は、亀鑑が書いたものを、米子の公民館長をしていた足立サンジさんが仲介人となって孝重さんに渡されたものだそうです。それを石に刻んだのが、今の顕彰碑ということになるのです。

 昨年3月に私もお目にかかってお話しした、孝重さんの跡を継いだ道之さんは、亀鑑の手紙などを保管しておられましたが、近年処分され、昨年お亡くなりになったのだそうです。

 孝重さんの家のすぐ下の佐々木さんの家は、福田さんのお母さんと佐々木さんのお母さんが姉妹ということもありよく知っているが、あそこに亀鑑さんが小さかった頃のみんなの集合写真があったように思う、とのことを、お母さんから聞いた話として語ってくださいました。
 折を見て確認していただけるようにお願いをしてきました。

 さらに興味深いことがわかりました。
 この福田さんのお宅は、池田亀鑑のみならず、井上靖、松本清張とも関係のある家だったのです。
 福田さんの従兄弟が京都の学校で勉強をしていた時、お世話になった先生の奥さんと井上靖の奥さん(京都大学教授足立文太郎の娘ふみ)が親戚だったのです。いつぞやは、井上靖の奥さんがお忍びで従兄弟の墓参に来られたのだそうです。また、井上靖に関する野分の会の会長をなさっている伊田さんの家の磯次さんは、この福田家に養子に来ておられます。そして、その伊田さんが、井上靖の疎開の紹介をしている同級生だとも。

 さらには福田さんのお母さんの話によると、松本清張の父親峯太郎の母親とよは、この福田家から出ているのだそうです。早速調べてみると、峯太郎の父親は日南町の田中雄三郎です。ただし、初めて私がこの日南町に来たときに、町内を案内してくださった足羽先生の調査を踏まえたお話と、清張の父親を巡るお墓に記されている内容などから、この松本清張の出生についてはまだまだ謎が多いように思っています。清張は、終生自分の出生について漠然とした不安を抱きながら、あの強靱な執筆生活に没頭していたようです。

 そうしたことが、この福田家をめぐる話をたどっていくと、なにがしかのヒントが得られそうです。
 こうしたことは、私の専門外です。しかし、興味深いことなので、少しずつでもわかったことを、今後とも報告していきたいと思っています。

 帰りがけに、玄関の右の建物が、かつて池田亀鑑が移り住んだ砂田にあった長屋を移築したものだとのことでした。大分小さくしているが、とも。
 ちょうど折悪しく、大雪になったところでした。吹きすさぶ雪の中で撮影したものですが、とにかく掲載しておきます。
 
 
 

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 また、池田家が移り住んだ家があった砂田の地へも、雪が降りしきる中を金田さんが案内して下さいました。ここ数日は雪がやみ、少し温かくなったのに、また雪が降り積もりだしたのです。
 
 
 
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 この、かつて池田亀鑑が2歳から12歳までの10年間住み、ここから200メートルほど下ったところにある小学校に通ったという池田家の跡地は、雪に埋もれているので今は想像するしかありません。

 それでも、こうしていくつかのことが、より正確にわかりだしたのです。

 いろいろな情報を思い出しながら教えて下さる日南町のみなさまに、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。
 教えていただいたことを元にして、ジクソーパズルの齣を1つずつ組み合わせるように形を整えていきたいと思っています。

 行く先々で、あなた10年前に来てくれていたら、いろいろな人の話が聞けたのに、とおっしゃってくださいます。
 そうなのです。しかし、10年前は勉強不足で問題意識に乏しかったので、お話をお聞きできても、私には消化不良だったと思われます。遅まきながら、いまから少しでもジグソーパズルの齣を並べ、もとの形の復元に微力を捧げたいと思います。
posted by genjiito at 23:49| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年03月10日

盛会だった池田亀鑑賞の授賞式

 第1回池田亀鑑賞授賞式および記念講演会は、鳥取県日野郡日南町の総合文化センター・多目的ホールで開催されました。
 2年前の3月、「もっと知りたい 池田亀鑑と『源氏物語』」という講演会を仕掛け、その時の懇親会の席で池田亀鑑賞の設立を提案しました。そして、昨年3月の講演会でこのことをさらに具体化させ、池田亀鑑文学碑を守る会の了承を得、5月に『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』の刊行とともにその実現を公表しました。
 そして今日、みなさまの理解と協力の下、晴れて第1回の授賞式となったのです。

 選考委員長をお引き受けいだいた伊井春樹先生も、お忙しいところを無理を押して駆けつけて下さいました。
 明日の午後には大阪で講演会があるため、明朝早くにお発ちになます。そのような中でも足を運んで下さったことに感謝しています。
 久しぶりに、乞われるままに、ご一緒に記念撮影です。
 
 
 
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 池田亀鑑賞については、ここまで来るのに2年という時間がかかりました。しかし、意義深い賞の設立と実現に立ち会え、楽しく事を進めることができました。関係者のみなさまに感謝しています。

 さて、今日はあいにくの曇り空でした。しかし、式が始まる午後になると晴れ、会場も100人近い方々で埋め尽くされました。これまでに何度か訪れた地ということもあり、さまざまな方から労いの声をかけていただきました。ありがたいことです。

 授賞式は、以下の流れで進みました。

【第一部】第一回池田亀鑑賞授賞式

 ■主催者挨拶 加藤和輝・池田亀鑑文学碑を守る会会長
 ■杉田昌彦氏へ加藤和輝会長から賞状と賞金授与
 
 
 
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(賞状・文面)

 第一回池田亀鑑賞
    作品名 宣長の源氏学
    著者  杉田昌彦殿
右作品に第一回池田亀鑑賞を
贈呈し永くその栄誉を称えます
     平成二十四年三月十日
池田亀鑑文学碑を守る会
   会 長  加藤和輝
   選考委員 伊井春樹
        伊藤鉄也
        池田研二
        小川陽子 
        妹尾好信


 ■副賞を朝日新聞鳥取総局長・西出 光氏から贈呈
 
 
 
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 ■池田亀鑑賞選考理由を兼ねて選考委員長挨拶
      池田亀鑑賞選考委員長 伊井春樹氏
 
 
 
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 選定理由と挨拶の内容は以下の通りでした。
  ・国学者の源氏物語研究は池田亀鑑の研究と重なる
  ・宣長の文献学的な研究を資料を漁って調べたもの
  ・日本の文化・文学を豊かにしていくためにもこの賞は意義深い
  ・これを機会に豊かな町作りにも励んでいただきたい

 ■来賓挨拶 日南町長     増原 聡 様

 ■来賓紹介 日南町教育委員長 立脇兌昶 様
       日南町議会議長  村上正広 様

 続いて、第1回池田亀鑑賞受賞者である杉田昌彦氏の記念講演に移ります。
 演題は「本居宣長と『源氏物語』」です。
  ・何故に宣長は『源氏物語』に傾倒したのか
  ・宣長の「もののあはれを知る」説について
  ・宣長の本文研究は無念なものだった。それを池田亀鑑が晴らそうとした
 杉田氏の熱弁に、会場のみなさまは聴き入っておられました。

【第二部】もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」講演会
 ■講師 阪急文化財団逸翁美術館館長・伊井春樹氏
   演題 「池田亀鑑による日本古典文学研究の世界」
 ドナルド・キーンさんが日本への永住権を獲得したことにはじまり、いつもの優しい語り口で聴衆を惹き付けておられました。いつ聴いても、うまい話の展開です。
 池田亀鑑の業績と評価を交えて、『校異源氏物語』から『新構源氏物語』へと進みました。
 ここでは、『源氏物語評釈』25巻と『源氏物語研究』10巻の計画が実現しなかったことにまで及びます。
 そして、『源氏物語大成』の意義について語られました。

 続いて、池田亀鑑のご子息である池田研二氏です。
 ■講師 元東海大学教授・池田研二氏
   演題「父の思い出あれこれ」
 
 
 
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 医工学(医療技術)という学問を専門にしたのは父の仕事を避けたためであることに始まり、学問ではなくて家族のことを話されました。
 池田亀鑑がラジオで語った『枕草子』の話を録音したものを会場に流されました。池田亀鑑の声を聴いたのは、この会場に集まった方々すべてが初めてだったはずです。これも、みなさん聴き入っておられました。
 また、池田亀鑑の娯楽はラジオでお笑い番組を聞くことで、漫才はエンタツ・アチャコが好きだった、とか、歌謡曲は春日八郎の「お富さん」、美空ひばりの「りんご追分」がお気に入りだったとか。人間池田亀鑑を彷彿とさせるお話でした。

 ■閉会挨拶 田邊眞幸・協賛/石見まちづくり協議会会長
  池田亀鑑の人となりをあらためて痛感した1日だったということを語られました。
  また、今後の町作りの一環として、池田亀鑑賞の意義が深い点にも及びました。

 会場に集まったみなさまは、池田亀鑑という一人の人間について、さまざまな角度からのお話を聞かれ、郷土に対する親愛の情と共に、もっと知りたいと思われたことでしょう。

 来年も第2回が盛大に開催できるように、さらなる活動の気持ちを高めようと、運営に当たったみんなで確認しあいました。
posted by genjiito at 22:51| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年03月09日

池田亀鑑の生誕地日南町にまた来ました

 岡山県から北上して県境のトンネルを抜けると、すぐに鳥取県の最南端に位置する上石見駅があります。
 ここまで南に流れていた高梁川は、この分水嶺を境にして日野川となって北に流れます。

 上石見駅は、井上靖の『通夜の客』の舞台です。井上靖が好きな私にとって、ここは池田亀鑑と共に何度来ても飽きない所です。
 
 
 
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 岡山で乗り換えた特急やくもが、鳥取県に入って最初に止まる生山駅で、池田亀鑑のご子息である研二先生と落ち合いました。
 駅には、池田亀鑑文学碑を守る会の役員で日南町教育委員長の立脇兌昶氏が出迎えに来ておられました。そして、車で町内の案内もしてくださいました

 今年は、雪が少ないようです。昨年も、一昨年も、3月に来ました。共に雪の日南町でした。今回は、新鮮な目で雪の積もっていない町を見ることになりました。

 松本清張の記念碑のあるところは、工事中でした。訪れる人が多くなっているようです。
 
 
 
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 そこから大回りして行った井上靖記念館「野分の館」は、相変わらずひっそりとした佇まいです。
 野分の会のみなさんの心遣いで、いつもきれいに整理整頓されています。
 
 
 
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 中に、映画『わが母の記』のポスターが貼ってありました。これは、井上靖の自伝小説を映画化したもので、今年のゴールデンウィークに封切りとなります。脚本・監督は原田眞人、配役は役所広司、樹木希林、宮崎あおいという、豪華なキャストです。第35回モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞、第16回釜山国際映画祭クロージング作品という高い評価をすでに得ている映画です。
 
 
 
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 『通夜の客』に出て来る、上石見駅から小説の舞台である福栄村までの二こぶラクダの道に、新しく説明板が作られました。これは、昨年の3月に開催された講演会の後に建てられたものです。
 この坂道の先に上石見駅があり、当時は左の茂みの中を通って下っていったのです。
 
 
 
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 次は、今回の目的である池田亀鑑に関する所へ案内していただきました。
 私は何度も来ていますが、池田研二先生が相当前のことだとのことなので、あえて回ってもらいました。
 池田亀鑑が通い、父が校長をしていた小学校の入口の右側に、新しく案内の標識が建っていました。これも、昨春はなかったもので、昨年末に設置されたものでした。
 
 
 
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 そして、小学校があったところに登ると、伝え聞いていたように学校が取り壊され、ソーラーパネルを敷き詰める工事が始まっていました。
 
 
 
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 池田亀鑑の碑は、いつものように建っています。これまで、ずっと雪の中の碑を見ていたので、雪のない碑は新鮮です。その後ろに、二宮金次郎の石像があることに気付きました。これがいつ建てられたものなのか、亀鑑が通っていた頃にすでにあったものなのか、調べていただくことにしました。
 
 
 
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 この金次郎の周りの石が苔生している様は、時の流れを感じさせるものです。大いに気に入りました。ここも、是非とも庭園として残していただけるといいですね。池田亀鑑文学碑を守る会のみなさんも、そのようにお考えのようです。

 校庭の片隅に、亀のような彫り物が施された石が置いてありました。
 
 
 
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 これは、今年の年末に新しく池田亀鑑に関する碑と施設を作るときに活かされるものだそうです。石は、すでに池田亀鑑の随筆集『花を折る』の中から採った碑文を刻む作業が進んでいるのだとか。池田亀鑑の顕彰が、少しずつ進んでいることがわかりました。

 すぐ近くの、かつて小学校があった所には、池田亀鑑が住んでいた家への標識が、これまた新たに設置されていました。ただし、石柱が建っている家にお住まいの方の意向で、あまりはっきりとはさせないように配慮した、とのことです。
 
 
 

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 少しずつですが、池田亀鑑に関する案内も親切になっています。

 宿から見た日南町の山々は、神秘的な美しさを映し出しています。
 この右先が島根県の奥出雲です。さらにその北にある出雲市が、私の生まれ故郷になります。
 
 
 
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 明日は、第1回池田亀鑑賞の授賞式です。
 どのような式典になるのか、今から楽しみです。

 今、このブログは、宿泊先である「ふるさと日南邑ファームイン」の事務室からアップしています。
 昨年の部屋が改装され、ホテルのような個室になっていて驚きました。部屋にバストイレが付き、ツインベッドの部屋が整ったのです。これで、お客さんの受け入れは万全です。
 それよりも何よりも、昨年ここに泊まった夜は、ちょうど東日本大震災があった3月11日の夜でした。この事務室で東日本の惨状を宿直の方と一緒に見ながら、あの日のブログをアップしました。

「日南町の井上靖と池田亀鑑」(2011年3月11日 (金) 午後 10時45分)

 今日も、同じ宿直の方と昨年のことを話ながら、大震災の時に撮影された自衛隊のビデオを見ながら、こうしてこのブログをアップしています。
 あれからちょうど1年経ったことを、あらためて思い起こしています。
posted by genjiito at 22:59| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年03月07日

第1回 池田亀鑑賞の授賞式のご案内

 第1回池田亀鑑賞の授賞式が、今週土曜日に鳥取県の日南町で開催されます。
 近在の方、および参加をお考えの方は、現地会場にお越し下さい。特に定員や予約は設定していませんので、ご自由にどうぞ。

 このことは、すでに「池田亀鑑賞ホームページ」で告知されていますが、再度引用して紹介します。


■日時:平成24年3月10日(土) 午後1時30分〜4時00分
 
■場所:日南町総合文化センター 多目的ホール
   〒689-5212 鳥取県日野郡日南町霞785
   TEL:0859-77-1111
   http://culture.town.nichinan.tottori.jp/
 
■内容1:第一部(午後1時30分〜2時30分)

 池田亀鑑賞授賞式および受賞者記念講演
  「本居宣長と『源氏物語』」
    杉田 昌彦 氏
     ■東京大学大学院卒
     ■明治大学准教授、博士(文学)
     ●『宣長の源氏学』(平成23年11月 新典社刊)
 
■内容2:第二部 (午後2時40分〜4:00)
 
 もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」講演会
 
 (1)「池田亀鑑による日本古典文学研究の世界」
     伊井 春樹 氏
      ■池田亀鑑賞選考委員長
      ■阪急文化財団逸翁美術館館長
      ■大阪大学名誉教授
      ■前国文学研究資料館館長

 (2)「父の思い出あれこれ」
     池田 研二 氏
      ■池田亀鑑子息
      ■元東海大学教授
 
■参加費・資料代:300円


 なお、朝日新聞の鳥取版に、今回の池田亀鑑賞のことが記事になりました。これも、池田亀鑑賞ホームページから画像としてご覧いただけます。今回の授賞式では、朝日新聞鳥取総局長から副賞が授与されることになっています。
 また、いくつかの放送局が取材に来られるようです。山陰地方では、3月10日夜のニュースで取り上げられることでしょう。

 昨年『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第1集』を刊行したことを機に、池田亀鑑賞を設立されました。そして、無事に第1回の授賞式に至ったことを、関係者の一人として喜んでいます。
 今後とも、ますますこの池田亀鑑賞が広く知られ、コツコツと努力された成果や地道な研究を後押しする文学賞となるように、みんなで大切に育てていきたいものです。
posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年02月13日

池田亀鑑賞 第1回受賞者の公表

 池田亀鑑賞の第1回受賞者が、ホームページを通して公開されました。

 第1回の受賞作は、杉田昌彦著『宣長の源氏学』(新典社、2011)です。

「【受賞作決定のお知らせ】ページを公開しました!」(2012.2.13)

 選考過程と受賞理由等は、3月10日に日南町で執り行われる授賞式で、伊井春樹委員長より公表されます。

 授賞式には、たくさんの方々がお越しになることを楽しみにしています。
 日南町は、池田亀鑑が生まれた鳥取県の山間の町です。
 島根県、広島県、岡山県と県境を接しています。
 経路は、以下の通りです。

「日南町へのアクセス」

 今回の受賞を、共に慶びたいと思います。
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | □池田亀鑑

2012年01月28日

池田亀鑑賞の選考会

 今日は、池田亀鑑賞の選考委員会がありました。

 会場は、本賞の委員長である伊井春樹先生が館長をなさっている、逸翁美術館・池田文庫の会議室でした。
 委員5人で慎重に応募作について討議し、池田亀鑑賞の受賞者の決定に至りました。
 近々、「池田亀鑑賞」のホームページ(主催:池田亀鑑文学碑を守る会)を通して発表があります。お楽しみにお待ちください。

 なお、3月10日には、予定通り「日南町で授賞式」が執り行われます。
 翌11日には、池田亀鑑関係の地を、伊井委員長をはじめとして選考委員全員と希望者のみなさんで、日南町のバスをお借りして現地踏査をする計画があります。

 池田亀鑑の生誕の地である日南町は、大阪から岡山経由で3時間の所にあり、井上靖や松本清張ゆかりの地でもあります。授賞式と共に自由参加なので、この機会に小旅行の計画を検討なさいませんか。
 追って、ホームページで案内があると思います。

 選考会が終わってから、逸翁美術館で開催中の「2012早春展 呉春の俳画と写生画」を拝見しました。特別公開された重要文化財の「白梅図屏風」には圧倒されました。

 その呉春の絵のすばらしさの一端が見られたことのうれしさと共に、私はそれに加えて、展示室の奥のコーナーにあった逸翁(小林一三)と茶の湯の深いつながりがわかる「逸翁茶会記」も興味深く拝見しました。

 今日は、昭和31年3月11日に催された「北摂丼会」の時のお茶道具を見ることができました。
 逸翁所蔵のお茶会の道具は、今でも再現できるほどに、そっくりそのまま大切に保存されているそうです。
 展示されていた床のお軸が呉春筆であったことと共に、お茶道具で私が注視したものは以下の品々です。

床 :柳小禽図 呉春筆 江戸時代
釜 :筋万代屋 辻与次郎作
茶碗:高麗玉子手 篷雪銘「槿花」 朝鮮王朝時代
茶杓:共筒 銘「雪解」 古市自得作 江戸時代
棗 :こぼれ梅花蒔絵 原羊遊斎作 江戸時代
花入:古備前耳付 江戸時代

 こうしたお茶道具に目が行くようになったのも、自分がお茶に興味を持ち、お稽古を始めたためです。いろいろな道具を立ち止まってじっと見られるようになったことは、お稽古は遅々として進みませんが、少しずつお茶に親しんできた証ともいえます。

 折々に、こうした機会を持ちたいと思っています。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年11月05日

第1回「池田亀鑑賞」の応募は12月20日までです

 今春、池田亀鑑賞を設立しました。

 その「設立の趣旨」は、 「池田亀鑑賞」のホームページ の中の 「趣旨・経緯」 に記されています。

 また、「募集の概要」については、同じホームページの 「募集・選定概要」 をご覧ください。

 参考までに「募集・選定概要」の項目を、以下に引用しておきます。
 
 

【募集】
一般公募。あるいは、全国の作家、評論家、出版社、新聞社など推薦人から推薦を受けたもの(平成23年1月1日〜平成23年12月31日刊行奥付および発表分)の中から、同賞選考委員会により選ばれます。

【応募】
刊行物および掲載誌を1部送付してください。
また、タイトル・氏名・住所・電話番号・メールアドレス・所属を明記の上、要旨(800字〜2000字程度)も添えてください。

応募先:
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-44-11
新典社内 池田亀鑑賞事務局
TEL:03-3233-8051  FAX:03-3233-8053

【募集期間】
平成23年12月20日まで《必着》

【選定】
前年に発表された『源氏物語』を中心とする平安文学に関する研究論文や資料整理及び資料紹介に対し、学界に寄与したと評価されるもの1作品を選定します。

【賞】
受賞作は原則として1作品で、賞金(20万円)と朝日新聞鳥取総局より副賞が贈呈されます。
毎年3月に行われる「もっと知りたい 池田亀鑑と『源氏物語』」の講演会において、授賞式および講演を行なう予定です。

 
 
 応募の締切日である「平成23年12月20日」まで、あと1ヶ月半となりました。
 すでに「池田亀鑑賞事務局」への問い合せもあり、版元への推薦依頼や学会時の広報・宣伝などもなされていますが、ここにあらためて応募のお願いをすることで、幅広い方々に参加を呼びかけたいと思います。

 積極的な応募あるいは推薦を、心待ちにしています。
 
 
 
 なお、来週、11月12日(土)に、鳥取県の岸本公民館で「伯耆町立図書館郷土講演会」(午後1時30分から)が開催されます。
 講師は原豊二氏(米子高等専門学校・准教授)で、「池田亀鑑とその研究人生」と題しての講演があります(入場料・無料)。
 詳細は、岸本図書館(電話0859-68-3617)か、以下のPDFをご参照ください。
 
http://www.houki-town.jp/system/site/upload/live/11278/atc_1319019739.pdf
posted by genjiito at 22:05| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年10月25日

昭和8年の高松宮妃殿下のお写真

 先日、昭和7年に東京大学の大講堂で開催された『源氏物語展』に関連して、展示ケースの前で女性に説明をする池田亀鑑の写真を2枚紹介しました。いずれも、ご子息の池田研二氏よりお預かりしたアルバムにあった写真です。

「昭和7年の東大源氏物語展の報道記事見つかる」(2011年10月21日)

 その女性について、安野さんからその後の報告をいただきました。

 次の新聞記事は、昭和8年4月6日の朝日新聞(夕刊)で、そこに掲載されている写真が高松宮妃殿下だとのことです。
 
 
 

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 新聞の小見出しは、「高松宮妃殿下 九州へ御西下」となっています。
 そして、左端のキャプションには、「御写真は品川駅御出発の妃殿下」とあります。

 ということで、過日のブログで紹介した昭和7年11月20日の源氏物語展覧会での写真と、この昭和8年4月6日の朝日新聞の写真に写る女性は同じ方であることが判明したのです。

 ご当人をご存知の方にとっては何でもないことなのでしょうが、知らない者にとっては、とにかくこうして一つ一つを調べながら確認していくしか方法がありません。

 安野さんと共に、いろいろとアドバイスをくださる中京大学の浅岡邦雄先生には、あらためて感謝しています。

 さて、ブログで紹介した写真で、池田亀鑑の右後ろでパンフレットのようなものを胸に抱えて展示ケースを見る女性は、安野さんの推測では妃殿下の侍女ではないか、ということでした。


 高松宮妃殿下の学友で、生涯にわたる親友だった岩崎藤子の回想録、『九十六年なんて、あっという間でございます』(雄山閣・2008/4)によると、高松宮妃殿下(当時は徳川喜久子)は学習院女子校時代、国文学、特に和歌が好きで尾上柴舟の授業を受けていたそうです(ただし、書道は諸事情があり教わらなかったそうですが)。
 この本には少しだけですが、侍女の名前も出て来るので、ひょっとすると写真右側の女性はそのうちの一人かも知れません。
 ただし、特定するためにの写真が見つかりそうにありません。


 このことについて、少しずつ情報が集まるようになりました。これをお読みの方で、何かご存知のことがありましたら、ご教示いただけると幸いです。

 何分にも、皇室の当時の実態をまったく知りません。
 手前勝手な当て推量はこれまでにしておきましょう。
posted by genjiito at 23:42| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年10月21日

昭和7年の東大源氏物語展の報道記事見つかる

 昭和7年と12年の2度にわたって、東京大学で源氏物語展覧会が開催されました。これは、池田亀鑑が苦労して実施にこぎつけたものです。
 特に昭和7年には、河内本を底本とした『校本源氏物語』の原稿が展示されています。これはその後の昭和17年に、底本を大島本に変更し『校異源氏物語』として刊行されました。
 つまり、これらは『源氏物語大成』ができるまでの経緯を知る上で重要な、『源氏物語』の研究史上の一大イベントなのです。

 この2度の展覧会の展示実態と内容について知りたくて、いろいろと調査を進めています。

 このことについては、本ブログの以下の記事に詳しく書いていますので、おついでの折にでもご覧ください。

(1)「昭和7年に東大で開催された源氏展冊子は検閲されていた」(2011年6月 3日)

(2)「昭和7年の源氏展冊子の奥付が書き換えられたこと」(2011年6月 8日)

(3)「幻の『校本源氏物語』には改訂版があった?」(2009年7月 4日)

 そんな折、研究仲間の安野一之氏(国際日本文化研究センター・共同研究員、上記記事ではY氏として紹介)から、先月朗報が飛び込んで来ました。
 そして今日、調査に行った千代田図書館で、安野氏から発掘した資料について説明を聞くことができました。

 その詳細な報告は、来春刊行予定の『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第2集』に掲載されますのでお楽しみに。

 以下、今回安野氏が発掘した資料をとりあえず紹介し、これに関する関係者からの情報提供を待つことにしたいと思います。

 今回わかったのは、昭和7年11月19日と20日に東京大学で開催された「源氏物語に関する展観」の新聞報道記事です。ここに転載するのは、昭和7年11月21日発行の「帝国大学新聞」の7面上部です。
 
 
 

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 参考のために、掲載写真だけを拡大しておきます。
 マイクロフイルムからの転写なので、これでもまだ不鮮明ですが、あくまでも今は参考までに。
 
 
 

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 本来は、事前に用意されていた『源氏物語に関する展観書目録』(東京帝国大学文学部国文学研究室編、昭和7年、岩波書店)が配布されたはずです。しかし、上記ブログで報告したように、検閲ということにより、この展覧会の2日間には間に合わなかったようです。そのことは、安野氏の論考に譲りましょう。お楽しみは後で、ということにします。

 実は、池田亀鑑のご子息である研二氏より、アルバムをお預かりしています。その中の写真で結婚式までのものは、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第1集』に掲載しました。

 その後のもので、次の2枚について、これが何なのか、いろいろと思案していました。
 上記ブログ(1)で、私は次のように書きました。


この昭和7年の『源氏物語』の資料展覧会は、不明なことが多いことで知られています。ただし、この時のものと思われる写真が、池田亀鑑のご子息である研二氏によって、2枚が見つかっています。これも、後日公開する予定です。しばらくお待ち下さい。


 その2枚の写真については、昭和7年か12年の源氏物語展覧会のものであることは間違いないとしても、そのいずれかを決しかねていました。しかし、今回安野氏が見つけてくださった新聞記事に掲載されている写真に酷似することから、この研二氏ご所蔵のアルバムにあった2枚の写真は昭和7年の源氏物語展のものであることが判明したのです。
 そのことが確認できたので、ここにあらためて紹介するしだいです。
 
 
 
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 新聞写真が不鮮明ですが、池田亀鑑の服装や展示ケースなどにより、昭和7年の写真であることが確認できます。つまり、昭和12年2月7日に東京大学の山上会議所で開催された「源氏物語展観」の写真ではないのです。そして、この昭和7年の展示会場が、以下の翻字からわかるように、東京大学の大講堂であることが確認できました。
 これで、昭和7年の源氏展のことが具体的にわかるようになりました。
 引き続き、これに関連した情報を収集したいと思います。

 一つ気になるのは、1枚目の写真で池田亀鑑の右後ろの女性が手にしておられる印刷物が何なのか、ということです。
 上記『源氏物語に関する展観書目録』ではないか、と思われます。ただし、この冊子の検閲の経過を考慮すると、当日は間に合わなかったようです。とにかく、実際はどうだったのでしょうか。

 なお、池田亀鑑の左横の女性については、まだ確認がとれていません。
 これについても、ご教示をお願いするところです。

 この記事にある展覧会の内容について、そして掲載されている写真について、何かご存知のことがございましたら、お教えいただけませんでしょうか。また、この時に配布されたと思われるパンフレットについても、どこかに残っていませんでしょうか。さらには、この「帝国大学新聞」の実物を、どなたかお持ちではないでしょうか。そして、この展覧会の時の写真も。

 安野氏が、上記新聞記事に書かれていることを文字に起こしてくださいました。
 ありがたく拝受し、以下に掲載します。
 なお、「帝国大学新聞」の昭和7年11月28日のこの展覧会に関連する記事に「解説付きの目録が刊行されなかった」ということが書かれています。ただし、この詳細は安野氏の論考に譲り、ここでは紹介を控えます。


昭和7年11月21日「帝国大学新聞」

禁中の秘本を始め
 河内本も出陳さる
   源氏物語展覧会賑ふ

本学文学部国文科主催紫式部学会後援の源氏物語展覧会は、十九廿の両日、本学大講堂で開催されたが、その出陳の大部分は国文学研究室の池田亀鑑氏が多年にわたり苦心収集した資料で、源氏に関するコレクションとしてはこの右に出るものがないといはれ従来はほとんど見ることを得なかつた河内本が三十余種も並べられ、加持井宮や有栖川王府の御蔵本、長慶院の御作「仙源抄」、更に東山御文庫の勅封を特に許されて解けるもの、高松宮の御蔵本等はいづれも他日拝観の機会を得ることは困難なものである。その他源氏に関する美文集、名歌集から香、生花、茶、かるた、すご六、投げ扇に至るまでの参考品が陳列された。十九日には東伏見宮大妃殿下、二十日には高松宮妃殿下を始め学会各方面の多数の名士が来場し一般入場者も非常に多く特に女性の多かつたことは注目された。光栄の池田亀鑑氏は語る。
 宮様の台覧あらせられたことは大変有難いことと感激して居ります。殿下は終始御熱心に御質問あらせられ、紫式部に対して同性としての御なつかしみを特にもたれてゐるやうに拜察いたしました。慶福院王榮の著作にも特に御興味を感ぜられた如くで御座いました。こういふ光栄の機会に際し更に一層努力致したいと考へてをります。

---《囲み記事》-----------------------------------------
高松宮妃殿下
東伏見大妃殿下

御成り

東伏見大妃殿下には十九日午後関屋宮内次官、同夫人を従えられ源氏物語展に御成り、小野塚議長、姉崎図書館長、宇野文学部長、藤村紫式部学会長御附添ひにて国文研究室の池田亀鑑氏の説明を御熱心に聞こし召され御機嫌うるはしく御帰還あらせらる。また廿日午後、高松宮妃殿下には源氏物語展覧会へ御成りあそばされ藤村教授、久松助教授の御案内にて池田亀鑑氏御説明申上たが、御熱心に御覧の後図書館に御成り、姉崎館長御案内申あげ御一巡の後御機嫌うるはしく御帰還あらせられた。
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紫式部学会長の藤村作教授は語る
 誠に光栄のことで御座います。殿下には兼々シェークスピア学会にも比すべきかかる会のないのを御遺憾のやうで御座いましたが、微力ながら我々が漸く紫式部学会を作りましたので大変御喜びの御様子で御座います。今後我々は一層この会を発展させて行きたいと思つてをります。
【写真――御巡覧の東伏見宮大妃殿下】

*仮名遣いは原文のまま、句読点は引用者が適宜補った。
posted by genjiito at 23:56| Comment(1) | □池田亀鑑

2011年08月26日

日南町のガイドブックに紹介された池田亀鑑

 これまでに本ブログにおいて、井上靖・松本清張・池田亀鑑に関連して紹介してきた鳥取県の日南町で、「まるごと日南町完熟ガイドブック」が発刊されました。

 その中で、「町と文豪のゆかり」というページに池田亀鑑が取り上げられています。

 その紙面については、「池田亀鑑賞公式サイト」(2011年8月24日)から読むことができます。

 少しずつではありますが、池田亀鑑とその賞について知ってもらえる機会が増えています。

 地道にコツコツと広報や研究活動が続き、多くの方々に支えていただける中で、今後とも着実に育ってほしいものです。
posted by genjiito at 12:24| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年06月17日

本と出会う楽しみ−末松謙澄と池田芙蓉

 いつも色々と教えていただくK先生から、嬉しいメールが来ました。
 末松謙澄の英訳源氏の本が、ネットに出ているとのことなのです。
 早速予約を入れました。

 これまで、この本との出会いがなかったのは、ネットに掲載されている書店のブックリストに、末松謙澄の「謙」が「兼」で入力されていたからです。検索にかからなかったはずです。


[英]源氏物語
末松兼澄、丸屋、明14、1冊
クロス装 木版口絵入 丸屋
◯◯書店 ●●●円


 この本については、異版をずっと探していました。仲間のラリー・ウォーカー先生がお持ちの本を拝見して以来です。
 4年前に刊行されるはずだった『源氏物語【翻訳】事典』が、不手際からいまだに完成していません。解題やコラムを書いていただいた多くの先生方には、平身低頭平謝りの数年です。何とか今秋には刊行できるように、最後の確認作業をしているところです。この本については、もうしばらくお待ちください。
 その『源氏物語【翻訳】事典』で、ラリー先生にはこの末松謙澄訳の『源氏物語』について、解題とコラムを担当していただきました。『源氏物語【翻訳】事典』がまだ刊行されていないので、その内容をここで少し紹介しておきます。ラリー先生、編集が遅くなっていることを、お許し下さい。
 ラリー先生がお持ちの本は、明治27年の第2版です。表扉に「Z.P.Maruya & Co.,Limited」とあり、裏側には日本語で「丸善書店」とあるものです。
 沼沢龍雄の『日本文学史表覧』(昭和9年、明治書院)の別冊年表によると、その「Genji Monogatari」のグループの最初に、末松謙澄の源氏訳が明治14年に丸善社から刊行されたとなっています。明治14年というと、末松謙澄はまだイギリスにいた頃です。続いて、明治15年にロンドンで刊行されています。
 この明治14年版の謙澄訳『源氏物語』が確認できていないので、その初版については不明な点が多いのです。

 今日、K先生から教えていただいた本は、本屋さんの情報によると、明治14年に丸屋から刊行されたもの、とあります。しかし、出版元である丸屋商社は、明治13年に丸善商社に改組され、明治26年に株式会社となり、今の丸善へと続いています。

 明治14年に丸屋から刊行されたとあることが、どうも気になっていた本なので、これは初版なのではないか、と早速注文しました。この当時の本はよくわからないことが多いので、とにかく実物を入手してから考えるしかありません。初版ではなくて、第2版であっても、何か違うかも知れませんので。

 今日は、千代田図書館へ古書販売目録の調査に行く日でした。末松の源氏訳の本を注文した書店が神保町にあることに気付き、図書館へ行く前に立ち寄ることにしました。

 注文した本は店頭にはなく、倉庫にあるとのことで、持ち帰ることはできませんでした。しかし、その奥付の詳細を倉庫に電話をしてもらい、確認することができました。しかし、それでもよくわかりません。現物を見れば、また何か新しいことがわかるかもしれません。この本が届くのが楽しみです。

 神保町に足を向けたのは、もう一つ目的がありました。それは、池田芙蓉の空想冒険小説『馬賊の唄』(昭和50年、桃源社)を店頭に置いている書店があるからです。再編集本ですが、小説家池田亀鑑を考える上では、大切な資料ともなります。
 このことは、ネットで見かけたので知っていました。まずは、実物を見て、本の状態を確認してから買おうと思っていました。ちょうどいい機会です。

 実際に『馬賊の唄』を手にすると、予想外に綺麗で帯も付いていたので、迷わず購入しました。
 
 
 

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 この冒険少年小説の作者である池田芙蓉とは、実は池田亀鑑のペンネームなのです。
 小説家池田亀鑑は、多くの筆名で少年少女小説を書いていました。池田芙蓉、青山桜洲、村岡筑水、北小路春房、闇野冥火、富士三郎などのペンネームがわかっています。これは、古典籍を購入する資金の調達に奔走していたからです。
 それよりも何よりも、亀鑑自身が空想の世界に遊ぶことが好きだったこともあります。
中学生のころから、荒唐無稽な話を書いていたことが、『文範』という習作帖を見るとわかります。この『文範』については、またいつか詳しく紹介します。

 今、京都に向かう新幹線の中です。
 シートに蹲りながら、小説『馬賊の唄』のページを繰っています。
 
 
 
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 今から見ると、照れくさくなるような美文調です。このリズムは、私が小さい時に読んだ活劇物を思い出させます。
 得難いものとの出会いを、今こうして楽しんでいます。
 本は、読み始めや読み終わりだけでなく、その本を手にするまでのプロセスも楽しいものです。
 その後の千代田図書館での調査も含めて、収穫の多い一日となりました。
posted by genjiito at 23:38| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年06月16日

昭和6年に大正大学で展示された古写本『源氏物語』

 昭和6年に、大正大学で1つの展覧会がありました。
 そこには、池田亀鑑が所蔵していた古典籍が多数展示されたのです。
 これまでに指摘がなかったことなので、取り急ぎここに取り上げて報告します。

 まず、昭和6年から昭和12年までの『源氏物語』の研究史を、『源氏物語事典』(東京堂)
の「源氏物語年表」を引いて確認しておきます。
 ここでのポイントは、『源氏物語』の展覧会が昭和7年に東大で開催され、昭和9年に松屋であり、そして昭和12年に再度東大で行われていることです。
 昭和9年の松屋での展覧会については、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』(伊藤鉄也編、新典社)所収の田坂憲二氏による「『校異源氏物語』成立前後のこと」に詳しく述べられています。これは、ぜひ参照していただきたい論考です。


昭和六年(一九三一)九月、石村貞吉の「紫式部」刊行
 九月、雑誌「月刊日本文学」は源氏物語号を出した
 七年にかけて、「新講源氏物語」十二冊刊行、石田元季以下六人が十二帖を二帖ずつ訳注した

昭和七年(一九三二)三月、藤田徳太郎の「源氏物語研究書目要覧」刊行
 六月、「日本文学大辞典」第一巻刊行、池田亀鑑執筆の源氏物語の項、その他関係の項は、従来の研究を概観した
 十月、宮田和一郎の「増訂対訳源氏物語」巻一花宴まで刊行、同八年四月巻二絵合まで刊行
 十一月、芳賀博士記念会の事業、池田亀鑑の「校異源氏物語」の稿本が完成したので、蒐集した資料の一部を東京大学で展観した、本文資料は青表紙系統六十二種、河内本系統三十四種、別本系統二十四種を算した

昭和八年(一九三三)一月、池田亀鑑の「源氏物語系統論序説」刊行
 十月、山口剛の「江戸文学研究」刊行、(中略)
 十一月、鼓常良の「日本芸術様式の研究」刊行、(中略)

昭和九年(一九三四)二月、岡崎義恵の「光源氏の道心」出ず、(中略)
 番匠谷英一脚色の源氏物語が紫式部学会の主催で上演されようとして、当局から差止められ、用意された装束その他は松屋で展観され、その台本は翌年「戯曲源氏物語」として刊行された
 六月、「尾州家河内本源氏物語」を金属版で複製刊行した、(中略)
 七月、山田孝雄の「源氏物語之音楽」刊行、(中略)
 七月、武笠正雄の「源氏物語書史」刊行
 十一月、今小路覚瑞の「紫式部日記の研究」刊行

昭和十年(一九三五)四月、原田芳起の「日本小説評論史序説」刊行、(中略)
 九月、島津久基の「物語日本文学源氏物語」上刊行、同十一年一月下刊行、梗概書
 十二月、山岸徳平の「尾州家河内本源氏物語開題」刊行、同十一年二月「河内本源氏物語研究序説」と改題刊行

昭和十一年(一九三六)三月、磯部貞子の「源氏物語女三宮事件の構成」出ず
 五月、島津久基の「源氏物語新考」刊行
 十月、木枝増一の「構想より観たる源氏物語の文学性」出ず
 十二月、渡辺栄の「源氏物語従一位麗子本の研究」刊行

昭和十二年(一九三七)二月、東京大学国文学科で、芳賀博士十周年の忌辰に、源氏物語古写本、古注釈書三十余部を展観した
 五月、重松信弘の「源氏物語研究史」刊行、専書の最初である
 六月、吉沢義則の「対校源氏物語新釈」第一冊刊行、(中略)
 十月、雑誌「文学」は源氏物語特集号を出した、(中略)
 十一月、山脇毅の「源氏物語匂宮紅梅竹河について」出ず
 二月から十五年にかけて「源氏物語総釈」六巻刊行、島津久基以下多数の人が分担執筆した
 五月、岡崎義恵の「日本文芸学」十五年に「日本文芸の様式」刊行、(中略)


 さて先日、池田亀鑑のご子息である研二先生より、『国文学資料展観目録』という冊子を探し当てた、ということで、42頁の冊子を送ってくださいました。
 同封されていたその他たくさんの貴重な資料の数々は、調査と確認ができ次第に順次ここで紹介していきますので、しばらくお待ちください。

 新出と言える『国文学資料展観目録』には、その表紙に次のような文字が印刷されています。
 
 
 
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昭和六年五月八日、九日午前九時ヨリ午後五時マデ
  国文学資料展観目録
    主催 大正大学郊北文学会


 巻頭の「はしがき」によると、これは大正大学国文学科が郊北文学会を起ち上げ、8日に釈尊の降誕会を大学で行うのを機会に、午前中に高野辰之先生の講演会を、午後から翌9日にかけて国文学の写本類と近世歌人及び国学者の筆跡類を陳列することになったのです。
 この冊子の29頁以降は、「郊北文学会の誕生」と題する高野辰之先生の講演録となっています。
 
 
 
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 そして、その「はしがき」には、「事は早急に企てられましたので、諸方より借用せず、差向高野辰之池田亀鑑亀鑑両人の蔵品中から四百点ばかりを選んで列ねます。」とあります。
 また、中程には次のように語られています。


事は急々の間に計画されましたので、一切うち/\だけでといふことにして、講演を松浦一先生と池田亀鑑君に御願ひ致しました。展観も広く世の蒐集家から借用して陳列する時間がありませんでした。実はそれを致す費用も持合せてゐないのでございます。とりあへず在合せのものといふことに致しまして、池田君と私の物だけで間に合せることにしました。池田君は、平安朝文学の蒐集にかけては東京で屈指どころか第一人者であらうと思ひます。源氏物語と伊勢物語とが特によく集めてあるやうですが、共に何百部づつかありませう。そのうちから優秀なものだけを出して貰ひました。(六〜七頁)


 池田亀鑑は、昭和4年12月より大正大学の教授になっています。その関係で、高野教授に協力したものと思われます。

 目録に掲載された337点の中から「池田亀鑑氏蔵」とあるものを数え上げると、129点にも及びます。「西下経一氏蔵」1点、「松田武夫氏蔵」3点の他は「高野辰之氏蔵」とあります。

 展示品の内容は、

第一 物語(137点)
第二 歌書 付 朗詠、日記(40点)
第三 連歌(64点)
第四 随筆 及 歴史(13点)
第五 戦記物(25点)
第六 近世歌人国学者墨蹟(58点)

となっています。

 物語137点の内、93点が池田亀鑑所蔵の写本なのです。そして、さらに池田亀鑑蔵の『伊勢物語』が36点、『源氏物語』が33点です。
 『源氏物語』の箇所を写真で掲載します。
 
 
 
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 ここで、「四九 源氏物語 三条西家証本五十四帖」とあるのはどういうことでしょうか。
 三条西本は、宮内庁と日本大学にあるものが有名です。その他には、早稲田大学本、吉川家本、蓬左文庫本があります。
 「三条西家証本」と言うと、一般には日大本のことを思います。『源氏物語大成』でも、三条西家本として校異に採択されたのは日大本の方でした。しかし、それは三条西家に伝わった本なので、この昭和6年の時期に池田亀鑑の所蔵になったとは思えません。
 とするとここは、現在宮内庁書陵部にある本なのでしょうか。しかし、書陵部本は山岸徳平先生が『日本古典文学大系 源氏物語』(岩波書店)の底本にされたものです。池田亀鑑と山岸徳平は仲が悪かったことが知られています。その仇敵ともいうべき書陵部本を、この時期に池田亀鑑が所蔵していたとも思えません。このことは、とにかくよくわかりません。

 また、「五三 源氏物語 文明頃古写 五十四帖」とあるのは何でしょうか。現在広く読まれている大島本は、その奥書によると室町時代の飛鳥井雅康が文明13年に作成したとされています。この大島本に該当しそうですが、大島本は昭和8年頃に佐渡から見つかったものとされ、また現在大島本は「浮舟」巻を欠く全53帖です。もし、この大正大学で展示された「文明頃古写 五十四帖」が大島本だとすると、昭和6年当時は「浮舟」巻を含む全巻が揃っていたということなのでしょうか。

 さらに、「五四 源氏物語 天正古写 四十八帖」とあるのは、巻末に「天正十五年書之 主麦生鑑綱筆」とある天理図書館蔵「麦生本」(44冊)が該当しそうです。この「麦生本」は池田亀鑑の桃園文庫にあったものです。ただし、これも冊数が少し異なります。

 この大正大学で展示された『源氏物語』の写本は、非常に興味深いものです。池田亀鑑が『校異源氏物語』の前身である『校本源氏物語』を作成していた時期の所蔵本のリストということで、今後ともさらに調査を続けていきたいと思います。

 こうした点について、ご教示をいただければ幸いです。
posted by genjiito at 22:40| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年06月15日

池田亀鑑の旧蔵書を活用した研究発表

 国文学研究資料館で本日開催された「第3回 国文研フォーラム」は、本年度着任された神作研一さんの「江戸の源氏学」と題する研究発表でした。
 この発表で紹介された資料は、現在は東海大学の桃園文庫が所蔵しているものです。ただし、これはかつては池田亀鑑が所蔵していた江戸時代の写本です。桃園文庫の中の1冊として、東海大学に寄贈された本です。

 これまで、この本については、伊井春樹先生が編集された『源氏物語註釈書・享受史事典』(東京堂、2001年)に、書誌と解題が紹介されているだけでした。

 池田亀鑑も、この本については何も発言していませんし、昭和7年、昭和9年、昭和12年の『源氏物語』の諸本を展覧したときのリストにもあがっていません。明日以降に紹介する予定の、昭和6年に開催された立正大学での展示にも、この池田亀鑑旧蔵の『源氏物語』の注釈書は展示されていません。どうやら池田亀鑑は、この本を昭和20年前後に入手したようです。
 ここまでは、私のメモです。

 さて、本日の神作さんの発表要旨は、すでに国文学研究資料館のホームページで告知されているので、あらためてここに引いておきます。


近年の研究の進展によって、香川宣阿・平間長雅ら元禄前後に上方で活躍した地下の二条派歌人たちが、和歌史的にも文学史的にも存外に大きな役割を果たしていたことがわかってきた。本発表では新たに、江戸時代における源氏研究を例として、彼ら〈上方地下〉の古典学追究の実態と性格の一端を明らかにする。具体的には、『源氏物語伝来書』(東海大学付属図書館桃園文庫蔵・写一冊)なる一書を窓口として、二条派系の注釈書による〈知〉の基盤整備の重要性に目を向けてみたい。


 これまで誰も注目しなかった資料を活用して、江戸時代の『源氏物語』の受容を確認し、和学の伝統を考えようというものです。堂上と地下に留まらず、江戸と上方という東西にも視点を配っての、非常に新鮮な研究発表でした。

 『源氏物語伝来書』は、『湖月抄』を逆照射する性格を持っている本のようなので、このようなアプローチは私にとっても大変興味のあるテーマです。
 新しい視点で新しい道を照らす研究として、これからの進展を楽しみにしたいと思います。
 あまり内輪で誉めてもいけないのでしょうが、とにかくおもしろい発表でした。

 誰も詳しくは言及していなかった資料の価値を見極め、こうして発表にまで持って行くのには、目に見えないところでの膨大な時間があったはずです。若いからではなくて、しっかりとした気持ちがあったからこそ、こうした発表に展開したと言えるでしょう。
 思いつきに留まらない、今後の研究につながるものとして、さらなる成果が期待されます。
 頼もしい仲間の参入に、しかも『源氏物語』も視野にはいっている研究者を迎え、こちらも元気が出てきます。

 今日は、教えられることばかりでした。
 私も、このテーマに質問や疑問をぶつけられるように、しっかりと勉強しなければなりません。

 なお、本日開催された「国文研フォーラム」というのは、次のような趣旨で開催されているものです(国文研のホームページより)。


国文学研究資料館では、本年度より、当館の研究活動の成果発信へ向けた取り組みの一環として、国文研フォーラムを開催することといたしました。このフォーラムを通して、当館の研究スタッフが行っている研究を、大学院生を含む館外の幅広い研究者との交流の場へと開いていくことを目指します。研究資料へのアプローチから、最新のデータベース活用術まで、現在進行形の多彩な問題を取り上げてまいります。どうかふるってご参加ください。

問い合わせ先:
TEL.050-5533-2900(代表) FAX.042-526-8604 
E-mail. study-ml☆nijl.ac.jp
※ウイルスメール等対策のため、E-mailアドレスには、「@」の代わりに「星(☆)」を入れております。メール送信の際は、「☆」を「@」に換えて送信してください。


 次回の「国文研フォーラム」は10月です。
 ホームページをご覧になり、興味のあるテーマの時には、自由に参加なさってはいかがでしょうか。
posted by genjiito at 23:44| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年06月08日

昭和7年の源氏展冊子の奥付が書き換えられたこと

 先週このブログに書いた、「昭和7年に東大で開催された源氏展冊子は検閲されていた」(2011年6月 3日)について、調査のお世話になったY氏より、いろいろとご教示をいただいています。
 その記事のコメント欄に公開していますが、本ブログのコメント欄は非常に読みにくいので、改めて取り出して整理しておきます。

 まず、私は『源氏物語に関する展観書目録』が無事に検閲を通過した本だったことを述べ、その奥付について、次の疑問を記しました。


 ここまで書いてきて、ふと手元の『源氏物語に関する展観書目録』を確認しました。
 今ここにあるのは、国文学研究資料館が所蔵する『源氏物語に関する展観書目録』の奥付の写真です。それによると、「昭和7年11月15日印刷、11月18日発行」となっています。これは、千代田図書館にあった検閲済みの原本に印刷されていた発行日(11月23日)の5日前になります。奥付が異なることになります。
 これは、一体どうしたことでしょう?
 『源氏物語』の展覧会は、19日と20日の2日間にわたって開催されたようです。すると、18日付けの冊子は会場で配られたもので、23日付けの冊子は刊行されたもの、ということになるのでしょうか。そして、検閲に回されたのは、展覧会が終わってから刊行されたもの、ということになるのでしょうか。
 今、判断できません。一応、私の勝手な推測だけを記しておきます。

 
 
 
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 これに対して、Y氏より以下のコメントをいただきました。


二つの本の奥付が異なっているとのこと、興味深いですね。
現物を見比べていないので、推測混じりになってしまいますが、

「18日付けの冊子は会場で配られたもので、23日付けの冊子は刊行されたもの、ということになるのでしょうか。そして、検閲に回されたのは、展覧会が終わってから刊行されたもの、ということになるのでしょうか。」

当時の検閲制度では、販売に限らず頒布するものも納本→検閲の対象になりますので、これはちょっと考えにくいです。仮にこれを行うと、即座に検挙されてしまいます。実際、高校の先生が、内務省に納本することなく、自作のパンフレットを教え子たちに送ったことで検挙されたケースもあります。

可能性として考えられるのは、最初に納本した本に何らかの間違いがあり、検閲官が「次版改訂」という判断をした場合です(例えば、天皇の名前を一部間違えた場合など)。
本にもよりますが、こうした場合、速やかに「改訂版」を出すケースがしばしば見受けられます。初版から改訂版までが数日という場合は、「次版改訂」によるものだと思います。
「改訂」と言ってもほんの一文字、二文字程度の違いなので違いを探すのは大変ですが、丁寧に見比べると違いが分かるかも知れません。(2011年6月 6日)


 そして、この奥付に関するさらに詳しい背景と思われることも教えてもらえました。この検閲に回された冊子の奥付の「23日」とある箇所は、実際には削った後にナゾって書き換えられたものだったからです。


印刷はしたものの、諸般の事情で納本が遅れた場合、発行日を訂正することになります。
その場合は日付を訂正し、発行者の印を捺し、「何文字訂正」と書き入れるのが正式な手続きだったようです。
実際には日付だけを訂正している本も多数あるので、それほど厳密ではなかったようですが。

そもそも奥付は検閲および著作権のために出版法で義務づけられたものです。
戦後、出版法は廃止されましたので、現在の本の奥付は必ずしも正確なことを書く必要はありませんが、戦前は日付一つとっても大変だったことが良く分かります。(2011年6月 7日)


 この2冊の『源氏物語に関する展観書目録』については、印刷された内容も比較する必要が出てきました。

 池田亀鑑のご子息である研二氏にこのことをお話ししたところ、ご自宅にこの冊子が残っているそうなので、池田亀鑑が所有していたものの奥付がどうなっているのか、現在確認していただいています。
 何か新しいことがわかれば、またここに報告します。
posted by genjiito at 22:21| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年06月05日

池田亀鑑賞が新聞に紹介されました

 先週、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』(2011年5月26日)の出版に先立って、本ブログ「池田亀鑑賞のホームページ完成」(2011年5月24日)で池田亀鑑賞について報告しました。

 この池田亀鑑賞について、本日朝日新聞の鳥取版に、大きな記事として取り上げていただきました。

 参考までに、ウエブ版の紙面の画像を添えます。
 
 
 
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 地方版は、なかなか目にすることが少ないので、ここに報告する次第です。

 また、一昨日、6月2日の山陰中央新報にも、「国文学者・池田亀鑑(日南出身) 没後55年迎え賞創設 町と地元有志 研究の功績顕彰へ」という記事が掲載されています。

 1人でも多くの方にこの池田亀鑑賞が知られることとなり、創設に関わった者として喜んでいます。
 早速連絡をくださった米子の原豊二氏に感謝します。

 このような情報をご存知の方がいらっしゃいましたら、連絡いただければ幸いです。
posted by genjiito at 20:33| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年06月04日

池田亀鑑が反町茂雄を通して購入依頼した写本群のメモ

 千代田区立千代田図書館には、明治から昭和にかけて発行された古書販売目録が数多く収蔵されています。「古書販売目録コレクション」と呼ばれているもので、9,350点もあります。それは、反町茂雄(弘文荘)と東京古書籍商業組合、そして中野三敏(九州大学名誉教授)各氏から寄贈されたものです。

 その中に、書店である一誠堂の内部資料があります。それは、昭和4年の「九条家の蔵書入札会」の目録である「九条家本目録」と、その時に反町茂雄が顧客からの注文を記した「九条家旧蔵書入札会注文受控エ」というノートです。
 
 
 

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 「九条家旧蔵書入札会注文受控エ」は17頁分の記入があり、そこには、徳富蘇峰、大津有一、松井寛治、諸橋轍次、金子元臣、入江相政、池田亀鑑など、21名のお得意様からの注文が記されています。中でも、池田亀鑑の注文は注目すべきです。4頁分に49点の書名が列記されています。
 これまで、このノートについては、次の写真の一枚目だけは『日本古書通信 第974号』(2010年9月号)に掲載された「千代田図書館・古書販売目録コレクション 九条家入札会の主催者内部資料」に紹介されていました。残り3枚は、千代田図書館のご理解をいただいたので、併せてここに公開します。
 
 
 
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 『源氏物語』に始まり、さまざまな古典籍の落札の依頼を受けています。
 今、『源氏物語』に関する書目だけを取り出しておきます。

桐壺欠源氏物語 三〇、〇〇 二一冊(?一二〇、〇〇)
光源氏物語          二冊
光源氏年次  一、五〇    一冊
花ちる里     五〇    一冊

紫式部巻   二、〇〇  〇 一冊
源氏之目録次第 五、〇〇   一冊

源氏 写本          一冊
弄花抄 〇  二〇、〇〇   六冊
◎き里津本 〇  一五、〇〇 一冊
源氏部類 兼良  一五、〇  一冊

賢木 及 初子        二冊
波模様 題荃付 きりつぼ   一冊
すも里       三、〇〇 一冊
源氏物語 自表紙       四冊
光源氏大鑑          三冊
源氏物語 古写本 〇 二百円以上
蘆庵書入 源氏  〇 五〇、〇〇
源氏抄        一五、〇〇

 この時の本がどのような内容で、そしてどこに収まったのかを追跡すると、おもしろいことがわかることでしょう。
 また、記された値段も、当時の古書の評価を反映しているものです。
 この後、反町氏は独立して弘文荘を興します。古典籍の売買でやって行く確信を、こうした機会に得たようです。

 さらには、池田亀鑑が東京大学で源氏物語に関する展覧会を盛大に催したのが、昭和7年11月です。この時の展示資料目録については、昨日の本ブログで書いた通りです。この昭和4年の入札会は、池田亀鑑にとっては重要な時期だったことがわかります。この入札に出された本のどれが、東京大学の展示に出品されたのか、また、この昭和7年の展覧会のものと思われる写真には、九条武子さんを案内する池田亀鑑が写っています。
 『源氏物語』という写本をめぐる舞台裏は、昭和に入ってからますますおもしろい展開を見せてくれます。

 手書きの生の資料を見ると、その行間にさまざまな人間の姿や、その背後に社会が見えて来ます。
 ここに紹介した資料がきっかけで、若い方がこうしたことに興味をもってもらえることを期待しています。ぜひこのような一次資料を直接見る機会を多く持つことで、古典籍が人を介して伝わった状況を体験的に感じ取ってほしいと思っています。

 千代田図書館は交通の便利なところにあり、館内もきれいで、職員の方の対応も親切丁寧です。ぜひ一度閲覧の手続きをして、こうした資料を自分で手にし、自分の目で確認されることをお勧めします。
 一次資料には、現物原本にしかない、とてつもない迫力があります。見ている人にだけ、語りかけてくるものがあります。その声が聞こえたら、もう快感です。
posted by genjiito at 23:12| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年06月03日

昭和7年に東大で開催された源氏展冊子は検閲されていた

 「検閲」という言葉には、マイナスイメージがあります。自分とは関係の薄い、無縁のモノでした。
 ところが、縁あって検閲を受けた『源氏物語』に関する1冊の本と出会いました。しかも、池田亀鑑が編集した本なのです。
 場所は、千代田区立千代田図書館10階の書庫。

 研究仲間であるY氏の「池田亀鑑の貴重な資料がありますよ」という甘いささやきに乗せられるままに、昨日と今日、千代田図書館に通うことになりました。

 昨日は、九段坂病院へ行った帰りに、九段下の交差点からすぐ近くの千代田区役所の中にある図書館に直行し、どのような資料なのかを実見するために行きました。そこは、期待を裏切らない、宝の山でした。
 この千代田図書館の詳細は追々書くことにして、まずは池田亀鑑と検閲本についてです。

 昭和28年から刊行された『源氏物語大成』(底本「大島本」、中央公論社)の前身は、昭和17年10月に刊行された『校異源氏物語』(底本「大島本」、中央公論社)でした。その『校異源氏物語』の前には、昭和7年11月に稿本が完成したとされながらも未刊の『校異源氏物語』(底本「河内本」、以下『校本源氏物語』と言う)がありました。
 この『校本源氏物語』については、その稿本が完成したということで、東京大学で資料の展覧会がありました。そのすべての責任者であった池田亀鑑のこの前後のことは、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』(伊藤鉄也編、新典社、平成23年)で詳細にとりあげていますので、ご参照ください。
 その時の展示品リストとでもいうべき冊子が、『源氏物語に関する展観書目録』(東京帝国大学文学部国文学研究室編、昭和7年、岩波書店)です。
 もっとも、この時に展示された『校本源氏物語』の原稿について、その実態は何もわかっていません。幻の校本となっています。

 そして、このことについては、本ブログ「幻の『校本源氏物語』には改訂版があった?」(2009年7月4日)で報告しました。それを整理して書き直したものが、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』に書いた「連載 池田亀鑑を追う 第1回 幻の『校本源氏物語』の底本は何だったか」です。

 さて、この『源氏物語に関する展観書目録』について、実際に検閲を受けた原本が残っていたのです。その原本を、千代田図書館のKさんのとY氏のステレオ解説を聞きながら拝見しました。
 
 
 

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 千代田図書館には、昭和12年以降に内務省で検閲業務に用いられた原本(正本)の一部である2300冊が保管されています。これは、終戦後に内務省が廃止されるまで委託が続いたようです。

 この検閲原本は、千代田図書館の前身である駿河台図書館と、私の宿舎の近くにある深川図書館(先日、本ブログ「江戸漫歩(33)深川図書館と清澄庭園」(2011年4月24日)で紹介)、さらには私がいつも通っている銀座のスポーツクラブに近い京橋図書館に委託されたのです。何と、私の身近なところに、こんなに興味深い貴重な資料があったのです。

 これらの本は、発売禁止となった本ではなくて、検閲を通過した本の原本です。したがって、これらの本には、内務省の検閲官が引いた傍線や寸評などが書き込まれています。

 ここに紹介する池田亀鑑がまとめた『源氏物語に関する展観書目録』は、その奥付によると、昭和7年11月23日発行となっています。
 そしてこの検閲原本を見ると、その表紙に内務省の四角い印が捺されています。
 「内務省 7.11.24 正本」と読めます。
 
 
 

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 明治26年に公布された「出版法」の第三条には、以下のように書かれています。


第三条 文書図画ヲ出版スルトキハ発行ノ日ヨリ到達スヘキ日数ヲ除キ三日前ニ製本二部ヲ添ヘ内務省ニ届出ヘシ


 つまり、『源氏物語に関する展観書目録』は11月20日頃には内務省に納本され、検閲官の目が通ったことになります。

 そして、この表紙の裏には、永久保存する旨の印があります。問題があれば、ここには検閲官のコメントが記されます。今、何も記されていないことがわかります。また、検閲官印も、本文中に傍線などもありません。
 この本は、問題なく検閲を通ったことになります。
 
 
 

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 この検閲業務を行っていた図書課には、昭和6年には53名、昭和7年には57名、昭和8年には70名、昭和9年には83名、昭和10年には107名と、次第に人員配置が増えていきます。実際にこの内の半数くらいが検閲の実務にあたったようですが、いずれにしても社会情勢が反映されているのが興味深いところです。

 この納本義務は、昭和20年9月にGHQによってその法律の効力が停止されました。

 検閲によって発禁となった本は2パーセントくらいで、98パーセントは通過したそうです。
 この『源氏物語に関する展観書目録』は、無事に通過した本だったのです。

 ここまで書いてきて、ふと手元の『源氏物語に関する展観書目録』を確認しました。
 今ここにあるのは、国文学研究資料館が所蔵する『源氏物語に関する展観書目録』の奥付の写真です。それによると、昭和7年11月15日印刷、11月18日発行となっています。これは、千代田図書館にあった検閲済みの原本に印刷されていた発行日の5日前になります。奥付が異なることになります。
 これは、一体どうしたことでしょう?
 『源氏物語』の展覧会は、19日と20日の2日間にわたって開催されたようです。すると、18日付けの冊子は会場で配られたもので、23日付けの冊子は刊行されたもの、ということになるのでしょうか。そして、検閲に回されたのは、展覧会が終わってから刊行されたもの、ということになるのでしょうか。
 今、判断できません。一応、私の勝手な推測だけを記しておきます。

 巻末部分には、「内務省委託本」という印と、「市立駿河台図書館受託」とある印があります。
 
 
 

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 ここから、『源氏物語に関する展観書目録』が駿河台図書館(現・千代田図書館)に入ったのは、昭和12年7月20日であることがわかります。

 この昭和7年の『源氏物語』の資料展覧会は、不明なことが多いことで知られています。ただし、この時のものと思われる写真が、池田亀鑑のご子息である研二氏によって、2枚が見つかっています。これも、後日公開する予定です。しばらくお待ち下さい。

 先の『源氏物語に関する展観書目録』という冊子の奥付については、私自身が混乱してきたので、このことはさらに調べて、後日報告します。

 戦前の本は、その背景におもしろいことがたくさんありそうです。

 なお、これまでこうしたことにまったく関心のなかった私は、『千代田図書館蔵「内務省委託本」関係資料集』(千代田区立千代田図書館編、平成23年3月、千円)は非常に興味深く通覧できました。この冊子は、検閲に興味と関心を持ったときに、貴重な視点と資料を示してくれる資料集です。図書館のカウンターで入手できます。
posted by genjiito at 23:51| Comment(3) | □池田亀鑑

2011年05月27日

池田亀鑑賞プロモーション映像の公開

 一昨昨日、「池田亀鑑賞 設立記念 プロモーション映像」が5月27日(金)に公開される旨のことを、本ブログに書きました。
 本日、お約束通り、池田亀鑑賞のホームページに、プロモーション映像が公開されました。
 
 
 

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 池田亀鑑賞のトップページの下にある、「池田亀鑑賞 設立記念 プロモーション映像 公開中」というバナーをクリックしていただくと、「You Tube」に飛びます。あとはゆっくりとご覧ください。
 
 
 

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 2分半ほどの短編ムービーです。しかし、いい雰囲気の映像と音楽が流れて来ます。
 BGM音楽は、「池田亀鑑賞」のために制作されたものです。
 
 
 

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 私は、電車の中で最初に観ました。
 異次元の光景が目の前に展開するさまは、自分が今いる場所をすっかり忘れさせてくれました。
 いいものができました。1人でも多くの方がご覧になることを願っています。
 
 このプロモーション映像をパソコンやスマートフォンで流しながら、本日刊行された『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』を読み進めていただけたら幸いです。
 
 
 
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posted by genjiito at 23:47| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年05月26日

新刊『もっとも知りたい……』のご案内

 池田亀鑑は、多くの『源氏物語』の写本を整理し、『源氏物語大成』にまとめた研究者として知られています。
 しかし、その人物像や『源氏物語大成』がどのようにして作られたのか、ということは、意外と知られていません。
 また、わからないことも多いのです。

 鳥取県の日南町で、池田亀鑑に関する集会を2度ほど開催したことは、本ブログで詳細に報告したところです。

「小さな町を揺るがした池田亀鑑の1日」(2010年3月13日)

「日南町の池田亀鑑(1)明治40年の小学卒業名簿」(2011年3月16日)

 それが契機となり、さまざまな情報が集まりました。
 それらを、こんな形で一冊の本にまとめたのです。
 表紙は、こんなデザインになりました。
 
 
 
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 この本を刊行した趣旨や内容がわかるように、「はじめに」「目次」「おわりに」「奥付」を、PDF 文書で確認してもらえるようにしました。次のリンクをクリックして、ダウンロードしてご自由にご覧ください。
 
 
 
『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』
(「はじめに」「目次」「おわりに」「奥付」の PDF )をダウンロード

 
 
 
 今回の本では、池田亀鑑の人生の前半に特に注目しています。
 ご子息からお借りした、初公開となる写真も満載です。
 今後はシリーズとして続きますので、楽しみにしてください。
 とにかく、まずは『第1集』ができたことの報告とご案内です。

 明後日の5月28日に刊行されます。ただし、実際には明日のようです。
 出版元である新典社のホームページから、簡単に注文できるようになっています。

『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第1集』

 手になさった方からの感想を、心待ちにしています。
posted by genjiito at 22:49| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年04月10日

池田亀鑑と父が同日に逝去したこと

 明治29年生まれの池田亀鑑は、昭和31年12月19日に心筋変性症・萎縮腎のため、満60歳で亡くなりました。東京大学を定年退官する直前です。
 ちょうど同じ日に、息子のために『源氏物語』の写本を書写することに明け暮れた父宏文も、90歳で亡くなっています。

 この父の死については、「その悲報に衝撃を受けて」とされることが多いようです。同じ日に、息子を追うようにして亡くなっているからです。
 しかし、長野甞一氏は「この父子が時を同じうして危篤の状態にあったことは、一部の親族が知っているだけで、本人どうしは相互に知らされていなかった。」(「源氏物語とともに(一)−池田亀鑑の生涯−」立教大学日本文学七号、昭和三十六年)と記しています。

 今回、ご家族から、確かに父と祖父の2人には、お互いの病状について知らせていなかった、というお話を伺いました。

 亀鑑の父宏文は、昭和26年まで今の東京都内の家にいました。しかし、『源氏物語大成』(全8巻、中央公論社、昭和28〜31年)の刊行にともなう仕事が大変になり、家族としては祖父の面倒を見られなくなったということで、宏文の4男晧の家にあずけることになったのです。病気の宏文は、完全に隔離されたのです。
 とにかく、亀鑑も宏文も、『源氏物語』の仕事に疲れ切っていました。

 亀鑑は、19日の午前10時35分に、順天堂病院で亡くなりました。ご家族が病院に駆けつけられたときには、すでに意識がなかったそうです。
 宏文は、それから5時間半後の、午後4時に亡くなりました。晧も病院に駆けつけています。おばが1人だけ残って、宏文の看病をしていたそうです。

 お互いの病状については知らされていなかったので、相手のことはよくわからなかったはずです。しかし、いつもとちがう慌ただしい気配から、父宏文は息子のただならぬ事態を感じ取ってはいたかも知れません。ご家族の方も、そのように語っておられました。また、亀鑑の妻房も、病気で別の病院にいたそうです。宏文のそばには、人がいなかったのです。そうした時間の流れの中で、亀鑑を追うようにして、父は亡くなったのです。

 池田亀鑑の病院における最後の姿が、写真として残されていました。
 
 
 

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 このような状況が昭和31年12月19日に池田家ではあったことが今回確認できました。
 ここに、あらめて記しておくしだいです。
posted by genjiito at 23:31| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年04月08日

池田亀鑑の名前と学生時代の写真

 池田亀鑑について、一昨日池田家で伺ったことのメモから、二つほど記しておきます。

 これまで私が日南町でいろいろな方に尋ねてもわからなかったことに、「亀鑑」という名前の読み方がありました。
 「きかん」なのか「かめのり」なのか。
 『花を折る』の最初に、「キカン名前で……」ということが書かれています。しかし、実際にどうだったのかは確認がとれていませんでした。
 鳥取県での学校の資料等を探していました。しかし、ひらがなで書かれたものは皆無でした。
 日南町のみなさまからも、確証は得られませんでした。

 このことについて、ご子息は「きかん」であると明言なさいました。これで、この名前の読み方は解決しました。
 直接ご家族の方に伺うまでの自分の中での迷走が、今では楽しく思えてきます。

 お父上の写真をたくさんお持ちでした。缶の入れ物にぎっしりと詰められたフイルムは酸化が進んでいて、相当酸っぱい臭いを発していました。
 私の職場でも、全国から収集した古典籍のマイクロフイルムが時間の経過によって劣化し、フイルムベースがワカメ状に変質し、さらには異臭を発しだしました。そのため、特別予算を計上してもらい、そのほとんどをデジタル化することで収集された画像を救出したばかりです。
 目の前の写真のフイルムも、危険信号を発していました。大至急デジタル化を進める、とおっしゃっていました。理科系がご専門の方なので、こうしたことは手慣れたもののようです。

 すでにデジタル化なさった何枚かの写真を、USBメモリに入れてくださいました。
 その中から、ここに1枚の写真を紹介します。確認が不十分ですが、おそらく初めて世に出る写真だと思われます。
 
 
 
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 なかなか凛々しい学生服姿です。
 以前、上京する直前の、鳥取県で訓導をしていた頃の写真を紹介しました。

「池田亀鑑ゆかりの石碑と資料」(2009年12月17日)


 その大正6年の訓導時代(20歳)の写真と比べると、この写真は若く写っています。しかし、その襟章の「L」と金ボタンの図柄から、これは東京大学の学生服を着て写したものだと思われます。

 金ボタンについては、「学校制服・体操服の株式会社トンボ」のホームページに掲載されていた、「帝大制服・制帽(写真提供:東京大学大学史資料室)」の写真を見比べました。解像度が低いので明確ではありません。しかし、その輪郭は一致します。
 
 
 


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 池田亀鑑は、鳥取県師範学校から鳥取県日野郡溝口尋常高等小学校の訓導となり、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在は筑波大学)を経て大正12年に東京帝国大学に入学しています。
 この写真が入学後まもない頃のものとすれば、27歳の時になります。
 大正14年に結婚しますが、その時のものではないと、私は思っています。
 このあたりは、あくまでも現時点での推測です。
 この点について、ご教示いただけると幸いです。
posted by genjiito at 21:53| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年04月07日

池田亀鑑の好物


 鳥取県の日南町で「池田亀鑑文学碑を守る会」の事務局長をなさっている久代安敏さんから、いつか質問を受けたことがありました。それは、日南町ゆかりの作家である井上靖と松本清張は、ともに羊羹が大好きだったけれど、池田亀鑑はどうだったのか、ということでした。

 昨日、池田亀鑑の息子さんと奥様にお目にかかり、親しくお話をお聞きした中で、このことも伺いました。
 結論は、池田亀鑑も羊羹が大好きだったそうです。甘党だったのです。

 それ以上に、甘酒にはうるさかったようです。それも、並みの好きさ加減ではありません。こだわりは、『源氏物語』の本文研究以上です。

 まず、池田亀鑑はお酒は飲みませんでした。飲めないのではなくて、飲まなかったのです。その理由は、仕事に差し障りがあるから、ということでした。
 私のまわりにも、同じ理由で飲まない人が何人かいますので、その気持ちはわかります。

 さて、甘酒です。これは、東京の神田明神の門前の「天野屋」のものを、という指定があったのだそうです。そのこともあり、今でも池田家では、お正月にはこの「天野屋」の甘酒を買ってきてお供えしているとのことでした。

 与謝野晶子も池田亀鑑の家に出入りしていたので、晶子の生家である堺市鳳にある駿河屋の羊羹も指定されていたのかと思いきや、それは特に指示はなかったようです。
 与謝野晶子は、羊羹好きの池田亀鑑のもとを訪問する時に、実家の羊羹を手土産に持ってきたのでしょうか。これは聞きそびれてしまいました。この次に伺ってみたいと思います。
posted by genjiito at 21:48| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年04月06日

『源氏物語大成』の背景と資料(1)

 かつて池田亀鑑が『源氏物語』の研究をし、『校異源氏物語』から『源氏物語大成』までを作っていた東京のお宅で、ご子息との面談が叶い、長時間にわたってお話をうかがうことができました。

 たくさんの貴重な情報や資料が確認できました。
 その中から、まずはこんな小道具から報告しましょう。

 池田亀鑑は、さまざまな手法で『源氏物語』の写本を読み取っていました。乾板写真、映写機、青焼き写真、敷き写しなどです。そうして集めた資料から『源氏物語』の本文を読み取ることで、『校異源氏物語』ができたのです。昭和10年代のことです。
 こんな写真が残っていました。初めて一般に公開される写真となります。
 映写機によって撮影した『源氏物語』の写本のフイルムを確認している、昭和28年頃の池田亀鑑の姿です。
 
 
 

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 このフイルムを見る道具については、池田晧氏が「この道一筋に―亡兄池田亀鑑を想う―」(『水茎』第10号、平成3年3月)で、こう書いておられます。


フイルムは、今日のようにゼロックスがあるわけではなく、一枚一枚を引き伸ばしては更に大変な費用がかかる。そこで特殊な箱を考案し、曇りガラス板の下に電球を入れ、その上でフィルムを動かし,拡大レンズで片目で文章を読む。これはまことに神経のつかれる仕事であったので、たびたび交代した。(50頁)


 なお、松尾聡氏にこんな発言があります(『リポート笠間 第35号』平成6年10月)。


昔からある普通の映画のフィルムです。その小さいのをルーペで見ながらやるのでかなりつかれました。(12頁)


 この発言によれば、ここでは電球入りの箱を使う前の話のようです。

 その問題の箱というのは、こんな箱だったのです。
 
 
 
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 これは、池田亀鑑が大工さんに作ってもらったもののようで、木でしっかりとできています。
 下の空間に20ワット位の電球を入れます。そして、上の小さな四角い磨り硝子のところにネガフイルムを置き、下からの照明を当てます。そして、その下からの光を通して、フィルムの画像を虫眼鏡で読むのです。
 このような道具を活用して、『源氏物語』の写本を読んでいたのだそうです。これを使ったたくさんのお手伝いの方々が、何人も目を痛めたそうです。

 内部の構造は、電球を入れるだけなので非常にシンプルです。
 
 
 
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 池田亀鑑は、今でいえば機械マニアとでもいえるところがありました。便利な道具を追求していたのです。
 ご子息は、ご専門が医用生体工学という分野のエンジニアです。お父さんの血を引いておられるようです。

 実際にご自宅にあったフイルムを出してくださったので、この道具の上に置いてみました。
 このフイルムは、高松宮本『源氏物語』を映写機で撮影したものです。
 
 
 
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 こうして置いてみると、この道具にはその上を覆うものがあったと思われます。上部端に小さな釘穴が確認できるので、上に開く形の、押さえの役目をする板が付いていたと思われます。このことは、今後とも写真の整理が進むと判明すると思われます。

 とにかく、いろいろなものが残されています。
 可能な限り、ここに紹介していきたいと思います。
 まずは第一報として、フイルムを読み取る小道具を、簡単に記しました。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年03月23日

日南町の池田亀鑑(6)教科書と後藤氏に関する補足情報

 日南町教育委員会の松本さんが、お願いしていた情報を届けてくださいました。
 以下に、追補記事として報告します。

(1)「日南町の池田亀鑑(2)教科書監修に関連して」(2011年3月17日)で、

昭和32年の教科書に、日南町の生徒が書いた「とんぼのはか」という文章が掲載されている

という、当日のフォーラム会場でいただいたご教示を紹介しました。

 その出典は、すでに報告した通りです。

 これに関して、ご教示いただいたのが日南中学校長のA先生だったことと、その作品が日南町宮内在住だったKさんが小学1年生の時に書いた作文であることがわかりました。

 昭和33年度用の小学2年生の教科書『標準 しょうがく こくご 2の下』(池田亀鑑・坪田譲治 監修、教育出版、昭和32年4月30日文部省検定済)に掲載された「とんぼのはか」が、これで日南町の生徒の作文だったことが確認できました。

(2)「日南町の池田亀鑑(4)生誕の家と2人の「とら」さん」(2011年3月19日)で書いた、池田亀鑑と1日違いの生まれだった後藤孝重氏がお亡くなりになったのは、昭和56年9月25日でした。

 以上、2点について、補足します。
 今後とも、新たなことがわかりましたら、この場を借りて報告していきます。
posted by genjiito at 00:06| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年03月20日

日南町の池田亀鑑(5)亀鑑の両親に関する新資料

 先週12日(土)に開催された日南町でのフォーラムが終わった直後のことでした。
 話し終えた私に、鳥取県立図書館郷土資料課で学芸員をなさっている渡邉仁美さんが、親しく声をかけてくださいました。そして、「郷土出身文学者シリーズ」として現在刊行中である『尾崎放哉』ほか5冊を頂戴しました。
 
 
 
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 今後、池田亀鑑について、小説家としてこのシリーズでとりあげたい、とのことでした。
 ちょうど私が池田亀鑑に関する本をシリーズ化して刊行する計画をすすめていることをご存じで、その『もっと知りたい 池田亀鑑と源氏物語』(全3冊、予定)と内容的に重複することを心配なさっていました。

 その会場では、今後とも情報交換をしていきましょう、ということで別れました。
 そして昨日、渡邉さんから池田亀鑑に関する大変貴重な情報が届きました。池田亀鑑の両親に関する、鳥取県立図書館所蔵の教育雑誌を調査なさった結果を、早速教えてくださったのです。
 これはまさに、地の利を生かしたタイムリーな調査といえます。関西と関東を往復するだけの私には、とてもこのような資料は見つけることも入手することもできません。

 感謝しつつ、了解を得て、以下に公開します。
 これで、池田亀鑑の両親について、不明だった部分が相当明らかになりました。
 渡邉さんから教えていただいた資料を引用しながら、私なりの現時点でのコメントを加えておきます。
 
 
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・『山陰之教育』12号(明治29年5月) 「叙任辞令」欄
   同 上(八等上級俸給与)  同(日野)神戸上訓導 山崎宏文

 

 『鳥取県大百科事典』(新日本海新聞社、1984年)では、池田亀鑑について「山崎弘文の長男。小学校4年生のとき、西伯郡岸本町久古の母の生家の養子となり、池田姓となる。」と書かれています。
 「山崎弘文」という姓と、「母の生家の養子となり、池田姓となる。」について、これまでその典拠を探し求めていました。
 それが、この資料によって、亀鑑の父が山崎姓であったことが証明されました。ただし、亀鑑の父宏文は、鳥取県日野郡八郷村福岡の伊沢貞三郎の次男です。伊沢姓から山崎姓へどのような経緯があってのものなのか、今はまだよくわかりません。
 また、亀鑑は明治二十九年十二月九日に、神戸上の寄留先であった後藤家で生まれています。このことは、昨日の本ブログ「日南町の池田亀鑑(4)生誕の家と2人の「とら」さん」で詳しく書きました。
 亀鑑の父が明治二十九年五月の時点で山崎姓であったことは、一体どういうことなのでしょうか。つまり、山崎宏文が結婚(入夫)によって池田に改姓した時期がわかりません。当時は姓についてこだわらなかったのでしょうか。
 亀鑑の誕生日から逆算すると、少なくとも山崎宏文と池田とらは、明治二十九年二月には実質的な結婚をしていたと思われます。それが、三ヶ月後の五月になっても宏文が山崎姓であることを、今は説明できません。
 同じ時期に妊娠していて、亀鑑よりも1日早く後藤孝重を生んだ後藤とらの家に寄留したことと、何か関係があるのかもしれません。

 
 
・『山陰之教育』72号(明治34年5月) 「叙任辞令」欄
   日野神戸上尋常小学校訓導兼校長 池田宏文
  任鳥取県日野郡神戸上尋常高等小学校訓導
   但尋常本科正教員勤務
  九級下俸給与日野郡神戸上尋常高等小学校訓導 池田宏文


 亀鑑が5歳のときです。ここで父宏文は尋常小学校の訓導から校長となり、高等小学校の訓導になります。そして、山崎姓から池田姓になっています。
 これにより、亀鑑は生まれてから5歳までの間に、ほんの一時期としてでも、池田姓だけでなく山崎姓だった可能性が出てきます。母の池田姓を名乗ったと思われますが、父が山崎姓であった時期を考えると、これは再考すべきことかもしれません。
 また、『鳥取県大百科事典』では、亀鑑について「小学校4年生のとき、西伯郡岸本町久古の母の生家の養子となり、池田姓となる。」と書かれていました。小学校4年生は13歳です。しかし、この亀鑑が5歳の時点で、父宏文は池田姓となっています。
 後藤家での実情がよくわからないので、今後の課題です。

 
 
・『山陰之教育』75号(明治34年8月) 「叙任辞令」欄
   任鳥取県日野郡神戸上尋常高等小学校訓導 池田トラ
    但専科正教員勤務
         同郡神戸上尋常高等小学校訓導 池田トラ
   八級下俸給与
    但当分月俸六圓支給


 宏文が神戸上尋常小学校訓導兼校長となり神戸上尋常高等小学校訓導になってすぐに、妻の池田トラが神戸上尋常高等小学校訓導になりました。
 それまでトラは、農業補習学校教諭や、裁縫・手芸の私塾を開くなどして、とにかく家計を助けていたと思われます。トラの父が潰したお家再興のために、身を粉にして働いた時期なのですから。
 なお、この資料によって、亀鑑の母は「とら」ではなくて「トラ」だったことがわりかました。昨日のブログでの記事も含めて、改めて訂正したいと思います。そして、後藤家では、「とら」さんと「トラ」さんが1日違いで男の子を出産した、ということになります。

 
 
・『山陰之教育』76号(明治34年9月) 「叙任辞令」欄
   同郡(日野郡)神戸上尋常高等小学校訓導池田トラ兼任鳥取県日野郡花口尋常小学校訓導但専科正教員勤務
        (中略)
   同郡(日野郡)神戸上尋常高等小学校訓導兼日野郡花口尋常小学校訓導池田トラ八級下俸給与但当分月俸七圓支給
        (中略)
   日野郡神戸尋常高等小学校訓導池田宏文八級下俸給与


 亀鑑の母であるトラは、花口尋常小学校訓導を兼務します。父宏文の給料も上がりました。

 
 
・『鳥取県教育雑誌』(明治39年8月) 「鳥取県学事関係職員録」欄
     神戸上尋常高等小学校
    訓導兼校長  七ノ下  長尾栄重
    訓導      八ノ下  池田宏文
    同 専科   当分五圓 池田トラ


 宏文は神戸上尋常小学校の校長のままです。

 
・『鳥取県教育雑誌』(明治40年8月) 「鳥取県学事関係職員録」欄
     神戸上尋常高等小学校
    訓導兼校長  本正 七ノ上 宇田清隆
    訓導      尋正 八ノ下 池田宏文
    訓導専科       六圓  池田トラ


 亀鑑は四年生で卒業し、高等科に入っています。
 トラの給料が上がりました。
 「本正」「尋正」の意味がわかりません。「正」は正教員のことでしょうか。

 
 
・『因伯教育』(明治41年8月) 「鳥取県学事関係職員録」欄
     日吉尋常小学校
    訓導兼校長   尋正 七ノ下 池田宏文
    訓導専科         八ノ下
                 当分七圓 池田トラ
    代用教員        三ノ下  宮崎二郎


 明治四十一年六月に、父が日野郡日吉村日吉尋常小学校訓導兼校長として着任したこと(〜大正四年三月まで)に伴い、亀鑑は神戸上尋常高等小学校から日吉尋常小学校(久古村、池田家累代の居住地である岸本町の一地区)に転校し、尋常科六年に編入となります(これは明治四十一年の法規改正により、尋常修業年限が六年、高等科二年となったことに伴う処置)。神戸上尋常高等小学校には、一年少々の在籍でした。
 本籍地は日吉村久古(現在の岸本町久古三一三の一)。
 母トラも、日吉尋常小学校の訓導専科となっています。
 久古の貝田原にあった校舎の中で池田一家の生活が始まります。


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2011年03月19日

日南町の池田亀鑑(4)生誕の家と2人の「とら」さん

 池田亀鑑は、明治40年3月に神戸上(かどのかみ)尋常小学校を4年生で卒業します。
 その時点での同級生の名簿(『桜が丘 石見東小学校 創立六十五周年記念誌』石見東小学校同窓会、平成4年3月1日発行)は、先日書いたブログ「日南町の池田亀鑑(1)明治40年の小学卒業名簿」(2011年3月16日)で紹介した通りです。

 この卒業生の中に、後藤孝重がいます。この池田亀鑑の同級生である後藤孝重が、実に深い縁のある人物なのです。
 日南町で教育委員長をなさっている立脇立兌昶さんは、「池田亀鑑先生に学ぶ」(『桜が丘 石見東小学校 閉校記念誌』日南町立石見東小学校同窓会編、平成21年3月1日発行)の中で、小学校時代の池田亀鑑の様子はまったくわからない、と書いておられます(14頁)。

 今回の日南町訪問で、少しずつですがその手がかりが得られました。

 池田亀鑑が通った小学校は、一昨年に閉校となった石見東小学校です。かつて神戸上尋常小学校としてあった場所に、今も校舎は建っています。
 
 
 
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 この学校の校門を上がった校庭の横に、これまでにも何度も紹介した池田亀鑑の碑文が建っています。
 
 
 

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 この小学校から歩いて20分ほどの所に、池田亀鑑が生まれた所があります。この家が、神戸上尋常小学校長として赴任した父宏文の寄留先だった後藤家です。ただし、現在の家屋は当時のものではありません。
 
 
 
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 この家の庭に、「後藤孝重建之」と背面に刻まれた「池田亀鑑誕生地」を示す石柱がしっかりと建っています。
 
 
 
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 石碑が建つ後藤克美さんのお宅で、奥さんの八重さんから池田亀鑑に関する話をたくさん伺うことができました。
 お話によると、克美さんの父である広良さんの父が勇蔵です。
 後藤家は、この地域の資産家でした。今でも勇蔵の蔵書が残っており、なかなかの勉強家です。
 この後藤家では、代々の当主がさまざまな本を写したり版本を読んだりしています。その一端を示す本も拝見しました。
 御成敗式目の写本などは、写した意図がよくわかりません。往来物の版本が何冊かありました。特に、写真にも名前のある数代前の庄太郎さんは、さまざまな本を写したり購入していたようです。
 
 
 
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 その勇蔵の弟である孝重は、明治二十九年十二月八日に生まれています。
 
 
 
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 すでにお気づきの方もいらっしゃることでしょう。実は、池田亀鑑はその翌日の出生なのです。
 つまり、後藤孝重と池田亀鑑とは、相前後してこの後藤家で産声を上げたのです。このことは、日南町でもよく知られていることでした。

 幸いにも、昭和4年6月26日付けの戸籍謄本が、後藤さんのお宅に残されていることがわかりました。それによると、孝重さんの欄は次のようになっています。克美さんと八重さんの了解をいただきましたので、その部分を掲載します。
 
 
 
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父 後藤勇蔵
母   とら

二男  孝重
出生 明治二十九年十二月八日


 孝重は6番目の子供でした。

 母が「とら」という名前であることに、私は驚きました。
 ちょうど翌日生まれた亀鑑の母の名前も「とら」なのです。
 つまり、この後藤家では、2人の「とら」さんが同じ屋根の下で十月十日の臨月を迎えることになっていたのです。偶然なのでしょうが、果たしてそれを事実としていいのか、今もってよくわかりません。

 後藤孝重の母とらの欄は、次のようになっています。
 
 
 
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父 岸 惣助
母 空欄〈朱〉
出生 元治元年二月十日


 元治元年は実際には2月20日に改元されているので、後藤とらは、正確には文久4年2月10日生まれ、ということになります。後藤とらが6番目の子である孝重を生んだのは32歳の時です。たまたま、写真も見つけ出してくださいました。
 
 
 
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 この後藤とらは、岡山県哲多郡片瀬村の岸惣助の五女でした。
 明治13年11月30日に結婚して、この神戸上の後藤家に入籍しています。岡山といっても、この日南町が岡山との分水嶺に近いところにあるために、そんなに遠いところではないそうです。

 後藤とらが孝重を生んだその翌日、池田とらは第1子である亀鑑を24歳で出産しました。2人の「とら」は、8歳違いだったのです。

 八重さんの話では、孝重は奥の納戸で、亀鑑は表の間で生まれたそうです。この後藤家には、8畳の間が8つもあったとのことです。それだけ大きな旧家だったのです。

 この時すでに、この後藤家は11人以上もの人が同居していたことになります。

 今私によくわかっていないことは、なぜ池田家は後藤家に寄宿したのか、ということがあります。
 この両家は、特に血縁はないようです。

 亀鑑の父である宏文が校長として近くの小学校に赴任してきたことと、後藤家が旧家としてたくさんの本を所有するほどの豊かで教養のある家だったことことから、この家が選ばれたのではないか、と想像しています。
 あるいは、小学校から至近の距離であること、家の大きさ、そして何よりも出産が近い妊婦がいる家(?)であること等が、その選定に影響していたことでしょう。

 とにかく、一緒に同じ屋根の下で、1日違いで生まれた孝重と亀鑑です。
 小さいときから後藤とらは、乳母のようにして、教員として忙しく立ち働く池田宏文校長ととら先生の代わりに、亀鑑を育てたことでしょう。この時期は、池田とらの父又次郎が池田家を潰したために、お家再興の想いでとらは奔走していたのです。亀鑑は後藤とらのお乳をもらって育ったのではないか、と、まさに平安時代の乳母のありように思いを致しながら、この亀鑑の幼少期を想像しています。
 まさに、平安時代の乳母の姿が瞼に浮かぶ状況だったのではないでしょうか。さしずめ小学四年生までは、孝重は乳母子として、亀鑑を支えるようにして成長したはずです。光源氏のそばに仕えた惟光や良清などのように。

 孝重が、自分たちが生まれた敷地に「池田亀鑑誕生地」という石柱を建てたのは、2人の生い立ちがそうさせたものだ、と言えるでしょう。2人にとって、ここは想い出の場所なのですから。

 この池田亀鑑が生まれた時の家屋が、実は今も残っていました。それは、この後藤家から歩いて10分もかからない、槙原熊男さんのお宅がそうでした。
 
 
 
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 すでに改修の手が入っていますが、床下や壁面に池田亀鑑が住んでいた当時のままの木材や土壁の姿が残されていました。
 家の大きさは、当時と同じだそうです。
 
 
 
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 槙原家からの帰りに、後藤孝重さんが住んでおられた家の前を通った時です。
 すぐ近くにお住まいの立脇兌昶さんがたまたま玄関の外に出ておられ、せっかくだから後藤孝重さんの息子さんを紹介してあげよう、ということになりました。お言葉に甘えて、後藤さんのご自宅にお邪魔しました。

 お話によると、孝重さんがお亡くなりになったときに、親しかった池田亀鑑からの手紙などすべてを処分した、とのことでした。亀鑑が上京してからも、折々に物のやりとりもあった、とのことでした。しかし、えてして手紙などは一部が人の手にあるなど、散佚して残っていることが多いものです。
 今後ともあきらめずに探し求めていきたいと思います。

 最後になりましたが、日南町教育委員会の松本道博さんと西田 耕一さんには、2日間にわたり私をいろいろなところに案内してくださいました。また、資料も用意してくださいました。本当にお世話になりました。おかげさまで、こんなにたくさんの成果を入手することができました。
 今回は、短時間のうちに、幸運にもたくさんの新しい情報が得られました。
 今後は、こうした情報の断片をジグソーパズルのようにして組み合わせ、池田亀鑑の日南町時代を再構成していきたいと思っています。
 これに懲りず、またの機会にも一緒に謎解きのお手伝いを、どうかよろしくお願いいたします。
posted by genjiito at 01:48| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年03月18日

日南町の池田亀鑑(3)教科書情報の追補

 小学校の国語科教科書に関して、以下の記事のいくつかを補訂することにします。新たにわかったことなどを追補することで、より正確な情報とするためです。

 今回は、学校図書と教育出版のものです。

「教科書に見る平安朝・小学校−国語(3)学校図書」(2010年11月 9日)

■学校図書の昭和28年度用(監修者、志賀直哉・久松潜一・池田亀鑑)に関して

「1年上・下」については、「中」が存在することがわかりました。
ただし、現在京都府立図書館のライブラリーでは欠本になっています。
 
前回の報告では、「2年下」は28年度用としました。
ただし、その奥付は「昭和29年5月10日印刷、5月15日発行」となっています。
 
私が調査をしている京都府立図書館の教科書ライブラリは、京都の教科書センターに集められたものが中心となっています。そのためもあってか、実際に使用されたものではなくて、教科書検定の過程段階にあるものが多いようです。誤植や指導によると思われる修正や変更などを示す正誤表が挟まっていることがあります。この点は、教科書の実態を知る資料として、注意が必要だと思われます。
 
昭和28年度用の「上・下」2冊は、先日まで京都府立図書館から外部の図書館に貸し出されていました。ちょうど戻ったところで、私は再度の調査をしました。
私のブログをご覧になり、また池田亀鑑に興味を持たれたために、この教科書をどこかの図書館を通して貸し出しの申請がなされたと思われます。
一人でも多くの方が、こうした教科書という資料を実際にご覧になることは、情報を公開している私としても歓迎するところです。
よろしければ、このような教科書に関する情報をお寄せいただければ幸いです。

 
 
■学校図書の昭和32年度用と34年度用の教科書の情報を追補

前回公開した私の調査は、平成22年10月から11月までに実施したものでした。その際に欠本だったもので、今回その存在が確認できたものが3冊あります。これにより、学校図書の小学校教科書は、131冊を確認したことになります。
以下に、その教科書の内容に関する私的なメモを記します。

(1)昭和32年度用「小学国語 五年上」(志賀直哉・久松潜一・斎藤清衛・池田亀鑑監修)
 「話すこと書くこと」の単元に、豊臣秀吉が書いた手紙の写真が図版として掲載されています。変体仮名混じりの自筆書簡のため、読むことはむつかしい資料です。翻字は付されていません。
 下巻は欠本のままです。
 
(2)昭和34年度用「わたしたちの国語 五年上」(志賀直哉・久松潜一・吉田精一監修)
 「ぎぼしにきざまれた文字」として、女性の手になる変体仮名交じりの文が図版として掲載されています。これについては、その文の内容が要約して本文で紹介されています。
 前回の教科書で掲載された秀吉の手紙は、この年度になるとシーボルトの自筆手紙(漢字カタカナ交じり文)に差し替えられます。これについてはカタカナ文字の翻字が掲載されています。秀吉の手紙にはなかったものです。
 また、文字の歴史について、「ひらかなのできかた」という項目で、「いろはにほへと」の変体仮名の数段階にわたる文字の変形の例示があります。
 
(3)昭和34年度用「わたしたちの国語 五年下」(志賀・久松・吉田監修)
 神話的な教材として「天津速駒」という日本アルプスの伝説があります。挿絵は大和時代の装束です。
 また、各地の伝説の例に、青森県・秋田県・福岡県・熊本県・鹿児島県とともに、鳥取県が入っています。
 伝説については、昭和28年の「5年上」(藤村作編)に、秋田県・群馬県・長野県・青森県・徳島県の話が掲載されていました。また、その次の改訂であった昭和32年の「5年上」(池田亀鑑・坪田譲治監修)では、秋田県と愛媛県の伝説と昔話が紹介されていました。昭和34年度版に鳥取県が出てくるのは、昭和31年末に亡くなった池田亀鑑への配慮があったのでは、と思われます。
 なお、この単元の最後の参考では、最後に菅原道真の飛び梅の伝説が詳しく紹介されています。ただし、挿絵はありません。平安的な匂いが強いという程度です。
 
(4)昭和34年度用「わたしたちの国語 六年下」(志賀・久松・吉田監修)
 『佐竹本 三十六歌仙絵』から、山辺赤人の絵と「わかのうらに」の和歌が掲載されています。これには、和歌の変体仮名を通行のひらがなで翻字し、「しほ−しお、たづ−たず」と歴史的仮名遣いへの配慮も見せています。

  
 
 
 
「教科書に見る平安朝・小学校−国語(5)教育出版(その2)」(2010年11月19日)

■教育出版の昭和33年度用(池田亀鑑・坪田譲治監修)に関して

 「標準小学国語 5の下」に収録されている「辞書作りの苦心」には、池田亀鑑の日頃の『源氏物語』の本文研究に対する苦心がことばを代えて吐露されているようです。大槻文彦が40年にわたって辞書作りに関わるのは、池田亀鑑が『源氏物語大成』を作る過程に近いものがあるように思えてなりません。

「容易ではない。」「こういう仕事が、十七年の間続けられ」「自分で作った辞書だから、自分で作り直そう」「朝の七時に起きて、夜の九時にねるまで、十四時間。その中で、食事そのほかに一時間を使うとして、残りの十三時間は、この仕事にかかりきった。何よりも時間がおしいのだ。」「もう少しで「大言海」が発行されようというときに、文彦は、かぜがもとで一生を終わることになった。」「全く辞書にささげた一生であった。」

 まさに、池田亀鑑の人生そのままを語るものとなっています。

 
 
■教育出版の昭和36年度用(坪田譲治監修)に関して

 上記の「辞書作りの苦心」は、その次の改訂版である昭和36年度版の「標準国語 5年上」(坪田譲治監修)にも、ほぼ同じ内容で収録されています。さらにここには、上田万年や松井簡治の『大日本国語辞典』の例をあげ、その序文で芳賀矢一が辞書作りの大変さを述べていることを紹介しています。まさに、池田亀鑑がお世話になった先生方の話です。池田亀鑑の影響による教材といえるでしょう。
 また、この文章には、「学者の仕事はじみである。世の人をおどろかせるようなことはない。上田・松井両氏も、静かな一室で、静かに行なわれたのである。一度その室にはいって、山のような書類を見上げた人は、だれしも、辞書作りがどんなにたいへんな仕事であるかを知ることだろう。しかも、この仕事は、決して学者のひま仕事ではなくて、実は、国家的な大事業であることを知らなくてはならないのだ。」と、まさに『源氏物語大成』そのままの感慨を述べたものとなっています。この文章を、私は池田亀鑑の手になるものを、没後に坪田がそのまま採択したと思っています。
 
 この教科書には、紫式部への言及もあります。「夏休みの読書について」という項目で、「わたしも、紫式部のことを書いた本を読みたいと思います。」という生徒の発言が記されています。この年度の下巻には、『源氏物語』の写本の写真が掲載されています。しかし、前回の改訂版の教科書、池田亀鑑と坪田譲治の二人で監修した教科書では、『源氏物語』という作品への言及がありました。池田亀鑑没後のこの教科書では、その説明は省略されています。坪田譲治の池田亀鑑への配慮がわずかながらも残されている、と言えるでしょう。
 なお、著作者の中に、鳥取市遷喬小学校長の稲村謙一の名前があることも、関係するのかもしれません。
posted by genjiito at 02:01| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年03月17日

日南町の池田亀鑑(2)教科書監修に関連して

 昨日の、私が先週日南町で池田亀鑑に関してお話しした記事の中で、「昭和32年の教科書に、日南町の生徒が書いた「とんぼのはか」という文章が掲載されている」という会場からのご教示があったことを記しました。

 本日、その教材を確認しました。

 教育出版から昭和33年度用の小学2年生の教科書として刊行された『標準 しょうがく こくご 2の下』(池田亀鑑・坪田譲治 監修、昭和32年4月30日文部省検定済)に、「とんぼのはか」が確かに掲載されていました。
 
 
 

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 「とんぼのはか」の冒頭のページは、見開きでカラーです。
 文章の1行目行末の「=」の記号は、分かち書きの中でことばが続くことを意味しているようです。このような記号を使っていたことを、私は知りませんでした。
 
 
 

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 この作文は、日南町(あるいは鳥取県?)の生徒が書いたものだと、先日日南町でご教示を得ました。しかし、この教科書の中には、作者についてどこにも記載がありません。教師用指導書があれば、そこに出典として明示されているはずです。
 どなたか、この作文の作者について、教えていただけませんでしょうか。
 池田亀鑑が監修者となっている教科書なので、鳥取県の生徒の作品を採択したことは容易に想像できます。しかし、その確認をしておく必要があります。

 この教科書の編著者に、稲村謙一氏(鳥取市遷喬小学校長)が選任されています。稲村氏は、この後も教育出版の編著者としてずっと名を連ねます。もし「とんぼのはか」が鳥取県の生徒の作品だとしたら、この稲村氏の関係から採用された、とも考えられます。
 
 
 

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 なお、教育出版の小学校用教科書を通覧していて、とんぼに関する教材が特に昭和30年前後に目につきます。池田亀鑑の恩師である藤村作の教科書から、池田亀鑑が監修者だった頃とその後の時期に一致します。
 偶然なのでしょうが、昭和32年の2年生の教科書の背景に、何かあるのかもしれません。池田亀鑑は、昭和31年12月に亡くなっています。編集途中だったはずなので、昭和35年までは、池田亀鑑の意向が強く反映していると思われます。


4年上(昭和28年、藤村作編)「動物の話を読みましょう」の中に「やんまとんぼ」
4年下(昭和32年、池田・坪田監修)「動物詩集」の中に「とんぼ」
5年下(昭和32年、池田・坪田監修)「学級文集」の中に「やごがとんぼになるまで(田村研一)」
3年上(昭和35年、坪田監修)「秋の歌」の中に「とんぼ」
6年上(昭和35年、坪田監修)「方言と共通語について」の中に次の文章がある。
   「いつか、先生が、秋田では『とんぼ』のことを『あけず』というが、これは古い歴史のあることばだとおっしゃいました。」


 池田亀鑑が監修した教科書については、明日以降に続きます。

 また、池田亀鑑が関わった小学校の教科書については、以下のブログで詳細に報告しています。この記事から、リンクをたどって順次ご参照ください。

「教科書に見る平安朝・小学校−国語(6)教育出版(その3)」(2010年11月22日)
posted by genjiito at 01:43| Comment(0) | □池田亀鑑

2011年03月16日

日南町の池田亀鑑(1)明治40年の小学卒業名簿

 先週の12日(土)に、鳥取県と岡山県の県境にある日野郡日南町で、「日南町生涯学習まちづくりフォーラム」が開催されました。
 その第3分科会で、私は「源氏物語で結ばれた池田亀鑑の家族愛」と題して、持ち時間の90分を少しオーバーしましたが、町民のみなさまにお話をしました。地元出身の学者の話、ということで、熱心に聞いて下さいました。

 池田亀鑑の家族が一致団結して、まさに命がけで『源氏物語』の写本を整理する姿をテーマとした内容です。特に、父と母は、息子のために心血を注いで『源氏物語』の写本の翻字に取り組んだのです。その様子を、資料をもとにしてお話ししました。
 この時の内容は、後日文字にする予定です。

 なお、池田亀鑑が監修および関わった小学生用の国語教科書に、鳥取の話が採択されていることを紹介したところ、会場から貴重な情報を教えていただきました。それは、昭和32年の教科書に、日南町の生徒が書いた「とんぼのはか」という文章が掲載されている、とのことでした。
 私は、まだその文章を確認していませんが、忘れないうちにと思い、ここに記しておきます。

 また、神戸上尋常小学校を4年生で卒業した明治40年3月時点での同級生の名簿(『桜が丘 石見東小学校 創立六十五周年記念誌』石見東小学校同窓会、平成4年3月1日発行)を、町民のみなさんにお配りしました。

 
 
 
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 その名簿では明治40年の卒業生として14名の名前が列記されており、そのうち10名が死亡となっています。
 

池田亀鑑(死亡)、小谷覚重(死亡)、福田りきよ(死亡)、山岡尊省(死亡)、槙原儀三郎(死亡)、槙原をすゑ、山根金作(死亡)、瀧田英太郎(死亡)、後藤孝重(死亡)、三浦元一、廣瀬つるよ、田邊つる、小谷儀一(死亡)、福田たま(死亡)

 
 この明治40年前後数年の名簿もお配りして、当時の池田亀鑑に関する情報収集の手がかりにしてもらえないか、とお願いしました。
 こうした資料をお配りすることで、時間をかけて池田亀鑑に関することを調べていきたいと思っています。

 なお、この中の後藤孝重さんについては、池田亀鑑と深い関わりのある方なので、この次に改めて取り上げます。
posted by genjiito at 00:12| Comment(0) | □池田亀鑑