クリスマスが近い頃から始まります。2年前に離婚して今は30歳の小説家月岡修一郎は、タバコ屋の娘の道田正子と知り合います。
作者が顔を出し、代弁者として語る場面があります。
月岡が強調したのは、その場面を述べる『ファニイ・ヒル』の著者の筆が性行為を描写することに熱心ではなく、男女間の機微を述べる方に重点がかかっていた、ということである。しかし、クラブ「樅の木」での月岡の話は、原典が手もとにあってのものではないので、今ここでは私(作者)が月岡修一郎の代弁人となって、やや詳しく彼の意見を述べてみよう。(38頁)
また、次のように作者が話の流れを整理することもあります。
そのことに、須磨子が濃い疑惑をおぼえ、やがて一つの秘密が明らかにされるときがくるのだが、その時期はこの物語のかなり先の部分においてである。
しかし、私(作者)はこの物語を推理小説として書いているのではない。また、今までの部分において、幾人かの人物にそれぞれ同じくらいの重味を与えて、物語の中で動かしてきた。したがって、物語の焦点が摑みにくい傾きがある。そこにさらに、謎のようなものが加わると、ますます話が混乱するおそれがある。
そこで私は、圭子が店を休んだその夜に焦点を合わせ、旅館の女将智恵についての謎を、ここで解き明かしておきたいとおもう。
その日の午後七時三十分。その日は、土曜日である。
まず、三人の姉妹の動静から語ろう。(126頁)
これらは、吉行がよく使う手法の1つです。常に読者を意識した、エンターティンメントの吉行らしい語り口です。
本作でも、作者は人の心の中を炙り出し、冷静な眼で人間を描き出しています。須磨子、正子、旅館の女将などなど。しかも、軽妙に語るのが吉行流なのです。
女同士の駆け引き、もおもしろく語られています。腹の探り合いです。
幾代、須磨子、せき子の三姉妹の個性的な生き様が活写されています。それぞれの人物が自立しているので、生涯の愛人であった宮城まり子を思い出させるところは吉行らしいと思いました。
コールガールの元締めをめぐる謎解きもおもしろい趣向が凝らされています。読者を飽きさせない吉行のサービス精神は旺盛です。
物語の最後に、須磨子を中心とした三姉妹と、複雑に絡まる3人の男との顛末は、一緒に推理を楽しみながら読み進められました。エンターテイメント作家として著名な吉行淳之介の本領発揮というところです。
欲を言えば、本作の冒頭に出てきた、作者の分身とでも言える小説家月岡修一郎と、前半で姿を見せる道田正子も物語にもっと参加させると、さらに読者を悩ませ、楽しませる作品になったことでしょう。ただし、そうすると人間関係に厚みが増し、さらなる長編になることは避けたい、という作者の思いもあるのかもしれません。
文庫本の解説で、野呂邦暢氏は次のように言います。この作品の奥の深さを読み抜いたものだといえるでしょう。
せき子を主人公にした続篇が書かれてもいいと私は思う。三人姉妹の中でもっとも可憐なように見えるけれども、せき子のような女こそ須磨子をしのぐ野放図な大胆さの持ち主という気がする。都会の酒場にいる女たちはだれも少しずつ幾代であり須磨子でありせき子なのだ。
なおちなみに、「幾代・須磨子・せき子」という三人姉妹の名は、「百人一首」の源兼昌作、
淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜寝ざめぬ須磨の関守
という歌からつけられたものである。(405頁)
また、本作は大幅な加筆訂正がなされたことが指摘されています。
本書は昭和四十年「週刊読売」に三十九回にわたって連載され、単行本となったものを、五十二年三月『吉行淳之介エンタテインメント全集・第四巻』(角川書店刊)に収録されるに当って作者が大幅に加筆訂正したものである。といえば読者は奇妙な事実に気づくだろう。昭和四十年は東京オリンピックが開催された翌年であり、ミニスカートが流行する以前である。本書にはそうした風俗がいっさい描かれていない。須磨子がどのような着物を着ていたかなど、並の読物作家なら念入りに描写する事柄を作者は省いているために、読者は十四年前の物語を現在のそれと信じてしまう。しかし風俗さえ描写しなければいつまでも古びないかといえばそうは問屋がおろさない。人間がいきいきと書かれているからいつまでも新しいのである。(406頁)
後半の時代の匂いを感じさせないような工夫は、本作に多くの手が入って完成していることも背景として考えられます。
例えば、1970(昭和45)年10月20日に刊行された集英社コンパクトブックスが、私の手元にあります。
この文章に、今回読んだ角川文庫版の文章を校合すると、次のような語句の削除補訂が確認できます(集英社版12頁)。
「一本五円です→ナシ」「十円→ナシ」「十円玉→硬貨」「五十円→ナシ」「五円玉を釣銭に→釣銭を」
さらには、次のように膨大な量の削除も確認できます(集英社版33頁)。朱で囲って×印を付けた箇所が、角川文庫版では削除されているのです。
参考までに、手元にある本の中から、1975(昭和50)年9月10日刊行の青樹社版は、角川文庫版と同じ文章です。
他の版も、見つけしだいに確認するつもりです。
吉行淳之介は、雑誌などに発表した後、膨大な手を入れて単行本にしたり、全集に収録します。どの段階の作品をどのように評価したらいいのか、興味深い小説家です。
私のできる範囲で、少しはこうした補訂を確認しています。しかし、近代文学が専門ではないこともあり、不十分な調査のままです。若い方がこうした視点で作品が流転していく諸相を研究してもらえると、新たな文学の読み方が浮かび上がることでしょう。若手のチャレンジに期待したいと思います。【4】
