2010年09月25日

西国三十三所(3)清水寺

 西国札所巡りも、5巡目は自分のために回ることとなりました。
 リハビリを兼ねて、のんびりと巡拝していきます。

 さて、3つ目に訪れたのは、京都・東山の清水寺です。清水の舞台で有名なので、今でも毎日たくさんの人が訪れます。
 この寺には、洛陽三十三所の集印場所が5カ所もあるので、非常にお得感のあるところです。

 お土産物屋さんで賑わう清水坂を上ると、朱の鮮やかな仁王門が迎えてくれます。
 
 
 
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 有名な清水の舞台から京都駅前の京都タワーを臨みました。
 
 
 
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 お軸の集印は、釈迦堂の近くでもらいます。
 
 
 
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 御詠歌は、次の通りです。

松風や 
音羽の滝の 
清水を 
むすぶ心は 
涼しかるらん





 本堂と舞台は、洛陽三十三所の泰産寺から眺めるのが一番です。
 
 
 
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 この清水寺に関して、私はモミジが黄葉する秋が大好きです。
 母と一緒に家族全員で行ったときの美事な黄葉は、今でも瞼に浮かびます。
 日の光が、葉を金色に染めて透過して来る光景は、仏様の天蓋を思わせました。

 昨日から秋らしくなり、しかも突然に肌寒くなるという気候です。
 今年の清水寺のモミジはどうでしょうか。今から楽しみにしています。
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2010年09月23日

お彼岸の墓参と信貴山温泉

 今年も、お彼岸は八尾市の高安山麓にあるお墓へお参りしました。

 いつもならレンタカーで家族が一緒に行きます。しかし、お盆の時にみんなで墓参したこともあり、何かと多忙な子どもたちはパス。そこで、妻と2人で電車を乗り継いで行くことにしました。
 私にとって、外出は格好のリハビリとなります。それも一人ではないので、食事や突然の体調不良の場合を考えても、何かと安心です。カバンの中には、お茶とチーズなど、ちょっと口にするものが入っています。
 消化器をなくした身でも、いろいろな場合のことを考えて積極的に身体を動かす行動をするように心掛けているので、この調子だと快復も早まることでしょう。

 地下鉄で四条駅に出て阪急に乗り換え、淡路駅経由で日本橋駅まで行き、次は地下鉄で鶴橋駅へ、そして近鉄で河内山本駅で乗り換えて、ようやく目的地である信貴山口駅に到着です。100分ほどかかりました。車で行くのと、ほぼ同じ時間がかかります。

 鶴橋駅のホームには、昨日と今日の2日間開催されているAPECのために、ゴミ箱が封印されていました。
 
 
 
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 このAPECで通訳や翻訳などの仕事をしている娘は、このところ連日奈良のホテルに缶詰状態で大変です。先日、本ブログで書いた通りです。成功を祈るばかりです。先ほどの電話では、とにかく無事に終わったとか。帰ってきたら、お寿司で労ってやりましょう。

 今日は、朝方は雨でした。しかし、お昼には雲の多い秋空となり、お墓から見る大阪北部は雨に洗われたせいもあってか、空気が澄み切った眺めでした。
 
 
 
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 この写真の手前のお墓一帯は、私が小学6年生から中学生にかけての遊び場だったところです。この景色を見ると、忍者部隊月光ごっこをした懐かしい想い出が蘇ります。

 高校時代に通学で毎日利用した単線の終着駅である信貴山口の駅からは、山上の高安山までケーブルカーが上っています。ここから、信貴山の温泉に入り、奈良側に降りて京都に帰ることにしました。

 今年は寅年ということもあり、寅と縁の深い信貴山はあの手この手の宣伝をしています。ケーブルカーも、こんな感じです。
 
 
 
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 阪神タイガースがもう少し踏ん張ってくれたらいいのですが、今年も息切れのようで残念です。

 ケーブルは、中間地点ですれ違います。このときの光景が、私は大好きです。
 
 
 

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 この信貴山のケーブルはとにかく急斜面を上ります。
 先日行った鞍馬山にも、ケーブルカーがありました。
 それは、参拝者用としてのもので、とてもかわいいものでした。
 
 
 

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 信貴山のケーブルの傾斜角度は、とにかく一度体験すると感激するほどのスリルを伴うものです。おいおい大丈夫かい、と後押ししたくなります。絶壁を上る、というイメージがピッタリです。

 頂上の高安山から信貴山までは、バスが運んでくれます。
 今日は近鉄創業100周年記念ということで、いつもなら240円のところを100円でした。ささやかながら、ラッキーな気分にしてくれます。
 
 
 
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 信貴山は、京都に越すまでにいた奈良県生駒郡平群町にあります。ご町内の温泉ということで、折々に行っていたところです。久しぶりに来ました。
 信貴山観光ホテルの温泉は、宿泊しなくても入れるのです。きれいな温泉です。
 
 
 
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 小雨がぱらつきだしました。
 露天風呂も、木々を眺めながら気持ちを和らげてくれます。
 
 
 

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 少しぬるめなので、のんびりと入っていられます。
 今日は、誰もいなかったので、こうして記念写真を撮りました。

 露天風呂からも見える朱塗りの橋からこの温泉を眺めると、こんな景色になります。
 写真のちょうど中央の木の間隠れに、この露天風呂が見えます。

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 昨日までの暑さとは打って変わって、今日は肌寒い一日でした。
 温泉で身体がホカホカと温まったので、大和の茶粥を少し食べました。

 奈良側に山を下りて帰る場合、かつてはケーブルカーがありました。しかし、今はバスが1時間おきに王寺方面に走っています。生憎ちょうど出た後で、さてどうしようかと思っていたら、たまたま通り掛かったおじさんが、家の車で下の駅まで送ってやろうか、とのことでした。バスを待つのも大変なので、ご好意に甘えて乗せてもらいました。雨が降り出したときでもあり、大助かりでした。

 またまた単線の近鉄電車で生駒駅へ出て、そこから西大寺駅を経由して自宅までの帰路となりました。
 かつて、毎週のように東京への通勤に使った経路です。過去が微妙に交錯する車窓を眺めながら、お腹への栄養補給を小刻みにしながら、電車に揺られてウトウトとしていました。
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2010年08月31日

西国三十三所(2)六波羅密寺

 手術は無事に終了しました。
6時間の闘いは、成功裡に終わりました。
予定よりも少し早かったので、すべてが順調に進んだことが、目覚めてすぐにわかりました。

まだ、身体には何本ものチューブが刺さっています。しかし、身体を動かすように言われているので、手足の運動をしています。

このブログも、手と指の運動になりそうです。

まだ当日なので、すでに行った六波羅密寺の巡拝記をアップします。

 以下の記事は、あらかじめセットして自動更新となるようにしたものです。
 決して、病院での手術を抜け出して西国札所巡りをしているものではありませんので、一言添えておきます。
 
 
 
 「西国三十三所(1)5周目は石山寺から」(2010年7月19日)を受けて、これから西国札所の観音巡拝道中記を書いていきます。


 2つ目に訪れたのは、京都・東山の清水寺の下にある六波羅密寺です。
 
 
 
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 「波羅蜜」という言葉は、彼岸である悟りの世界に到達することを意味します。「般若心経」のことを正しくは「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と言います。寺の名前からして、ありがたいお寺です。

 西国札所巡りも5巡目ともなると、勝手知ったるお寺巡りです。
 八坂神社の南、清水寺の麓にあり、六道珍皇寺のそばにあるせいか、何やら不思議な空間にあります。
 一度足を運び、周囲を歩くと実感することができます。

 ただし、今回はこれまでとは異なり、自分のための観音巡礼です。何となく照れ臭い思いを胸に、ユルユルとスタートです。

 六波羅密寺は、バス停「清水道」を少し下った、東大路通と大和大路通の間にあります。六原小学校の南隣です。京阪電車の五条駅からも近いところにあります。

 六波羅密寺のホームページによると、この寺の歴史が簡潔に記されています。

 六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。
 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
(中略)
 上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。




 このお寺の十一面観音立像は平安時代の作で、国宝に指定されています。しかし、重要文化財に指定されている、口から阿弥陀仏を吐き出す空也上人立像の方が有名でしょう。

 お軸に書いてもらった御詠歌は、

重くとも 五つの罪は よもあらじ 
六波羅堂へ 参る身なれば



というものでした。
 
 
 
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2010年07月19日

西国三十三所(1)5周目は石山寺から

 梅雨も明け、快晴の休日となりました。
 いつものことながら思いつきで、西国三十三カ所札所巡りを始めることにしました。
 父が亡くなった26年前に、はじめて一周しました。
 そして、毎年お盆には、表装したお軸を飾っています。
 
 
 
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 妻の実家の母が秋田から来られたときに、2周目を回って持ち帰ってもらいました。
 娘のために3周目。
 
 
 
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 そして、母が亡くなったときに4周目を回りました。
 
 
 
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 いずれも、自家用車を使っての、家族みんなで行楽を兼ねた札所巡りでした。

 これ以外にも、家族のために新西国三十三カ所札所巡りも満願を果たしています。
 中央の「南無釈迦牟尼佛」の文字は、私が見よう見まねで書いたものです。
 
 
 
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 まだ周り終えていないものに、四国八十八カ所、近畿三十六不動の赤不動と青不動、そして、昨年から始めた洛陽三十三所があります。
 とにかく、私はスタンプラリーが大好きなのです。
 行楽がてら、遠出も厭わず、近畿を走り回っています。

 これまでは、亡くなった父や母のために回っていました。しかし、今度は自分のために回ることにしました。それも、自動車のない生活をしているので、今度は公共交通機関と自転車と徒歩です。これまた、楽しいことが始まりました。

 最初はどこにしようかと、しばし思案しました。
 自転車で行けて一番近い寺町通りの革堂、それとも五条坂の清水寺と、いろいろと考えた挙げ句、電車で行きやすい瀬田川沿いの石山寺にしました。『源氏物語』にゆかりの深い寺だということもあります。

 いつも車だったせいもあり、石山駅に降り立つのは初めてです。
 
 
 
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 山門を潜り石段を登ると、境内にそそり立つ奇岩の前では、蓮がちょうど咲くところでした。
 
 
 
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 本堂の入り口にある「源氏の間」では、源氏千年紀の折に作られたロボットが、『源氏物語』の巻頭を読みながら解説をしていました。
 
 
 
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 実物は置いてあるだけで、その動きとお話はモニタに映し出されていました。
 千年前と現代が、微妙にクロスします。実物が動いたら、もっと良かったのですが……。

 本堂の裏手に回ると、源氏苑に紫式部の像があります。
 
 
 
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 この像は、かつて『源氏物語の鑑賞と基礎知識 蜻蛉』(拙編、至文堂、2003)という本を編集したとき、巻頭に書いた「源氏ゆかりの地を訪ねて 石山寺散策」で、取材をした折の写真をたくさん掲載しました。その記事の扉にあげた紫式部の像の写真には、中央下にブルーのポリタンクがかすかに写っています。すみません。うっかりしていました。今、白状しておきます。

 本堂では、朱印軸に御詠歌を書いてもらいました。
 
 
 
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後のよを
 ねがふこゝろは
  かろくとも
佛の誓ひ
 おもき
  いし山


 まずはスタートを切ったばかりのお軸を、床の間にかけてみました。
 
 
 
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 中央に西陣織で刺繍されているのが、石山寺のご本尊である勅封二臂 如意輪観音菩薩像です。
 この観音さまの周りを、三十三カ所のお寺の御詠歌で埋めていきたいと思います。
 さて、何年かかるでしょうか。
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2010年07月02日

JR石山駅の紫式部スタンプ

 JRの各駅にスタンプが置いてあります。
 それを集めるスタンプラリーの本も刊行されています。
 
 
 
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 紫式部が父の赴任に伴って行った越前の武生駅のページは、こんな感じです。
 この下に、スタンプを捺すのです。
 
 
 
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 JR宇治駅のページはこうなっています。
 
 
 
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 JR石山駅はこんなデザインです。
 
 
 
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 JR西日本のキャラクターである、かものはしのイコちゃんが、『源氏物語』とタイアップしています。

 JR石山駅へ行くと、こんな台紙にスタンプを捺してもらえます。
 
 
 
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 なかなか楽しい企画だと思います。
 各駅停車の旅が楽しくなります。
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2010年05月06日

琵琶湖の赤い月

 琵琶湖の西側にある雄琴温泉に行ってきました。
 かつての歓楽街の雰囲気はありません。それだけに、少し祭りの後の雰囲気が残っていました。
 これから、さらにイメージチェンジを図ろうとしているようにみうけられます。

 湖岸からは、比叡山や比良連邦が望めます。
 
 
 
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 その夜、空を見上げると、月が赤く染まっていました。
 
 
 
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 しばらくすると、白く輝いています。
 
 
 
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 翌朝、湖東の方を見やると、何事もなかったかのような景色です。
 
 
 
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 なかなか興味深い月に出会えたように思います。

 今から10年以上前のことです。大学の新入生を連れて、琵琶湖の南側のホテルでフレッシュマンキャンプという宿泊研修を何度もしました。頻繁に行っていた琵琶湖ですが、本当に久しぶりです。

 穏やかな湖面を見ていると、柔らかな風が心地よく感じられます。湖ならではの漣が目に優しく、滑らかな風の肌触りです。
 大津から雄琴のあたりは、瓢箪を逆さまにした琵琶湖の南側、窄んだ括れから先にあたります。大きくゆったりとした琵琶湖は、これより北に拡がっています。

 西国三十三箇所の札所めぐりで、湖東の方へは何度も行きました。
 今度は、湖西から逆回りで琵琶湖を経巡ってみたいと思います。そして、琵琶湖に点在する十一面観音も、『星と祭』よろしく、見て回りたいと思います。
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2010年03月20日

お彼岸は河内高安の里へ

 墓参のために、かつて住んでいた大阪府八尾市の高安に行きました。
 高安は、『伊勢物語』の「筒井筒」の段でよく知られています。
 我が家のお墓がある高安の地については、これまでにも何度か書きました。
 詳しいことは以下の記事に譲りましょう。おついでの折にでもご笑覧を。

「【復元】古都散策(24)龍田大社へ初詣」2007年1月1日

「演劇「なりひらの恋」」2007年11月13日

「残念だった演劇「なりひらの恋」」2008年2月25日

 京都の地に引っ越ししてからは、高安への墓参に2時間ほどかかります。
 家族みんなで行くときにはレンタカーを使います。
 しかし、今日は子どもたちが来ないので、電車で行きました。
 京都市営烏丸線、阪急京都本線、JR大阪環状線、近鉄大阪線、近鉄信貴線と乗り継ぎます。
 奈良の西大寺駅を通って行くことも可能です。しかし、京都市営烏丸線、近鉄京都線、近鉄奈良線、近鉄大阪線、近鉄信貴線という経路では、かえって時間がかかるのです。ましてや、京阪電車も使えますが、これまた乗り換えが多くなります。

 JR大阪環状線の鶴橋駅で、近鉄大阪線に乗り換えたときです。向かいの難波方面に行くホームに、昨春から神戸・三宮に乗り入れている近鉄電車が来ました。
 
 
 
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 この鶴橋駅は、私が高校時代に毎日通った駅です。近鉄大阪線は難波まででした。それが、今では三宮まで行けるのです。便利になりました。奈良・大阪・神戸が1本でつながったのです。

 今日の私は、この鶴橋駅から準急で八尾の河内山本駅まで行きます。河内山本駅で信貴山口行きに乗り換えるときに、次の駅である高安行きの各駅停車が来ました。これまた、懐かしい電車です。
 
 
 
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 山本駅から単線で二つ目の駅が、信貴山口駅です。
 
 
 
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 この駅からケーブルカーに乗り換えると、高安山や信貴山へ行けます。
 駅前は、40年前とほとんど変わっていません。
 これが、私が高校のころに通学で使った駅です。当時の切符売り場は、改札口の右側にありました。いずれにしても、こんなにきれいではありませんでしたが。
 
 
 
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 お墓には、この駅前から出ている霊園行きのマイクロバスに乗ります。バスは、私が小学校と中学校に行くときに使った、山沿いの道を走ります。同級生の家が、今でも何軒かあります。

 墓地から大阪平野を見下ろすと、靄がかかっていました。天気がいいと、六甲連山や淡路島が見えます。
 
 
 
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 手前左の薄茶色のグランドが見える所が、私の通った南高安中学校です。その手前に、南高安小学校があります。この小学校には、5年生の時に転校してきました。
 今は、この2つは幼稚園と小学校になり、中学校は写真右手前の、薄茶色のグランドが少し見えるところに移転しているそうです。

 お墓には、京都の我が家の玄関先に咲いていた花をお供えしました。
 母が好きだった花です。
 
 
 
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 お参りを終えて帰ろうとすると、山際に「自然廟」と「樹木葬」という表示が目に入りました。
 
 
 
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 今は、お墓に葬るのではなくて、そのまま野山に葬るのが好まれるようになってきているようです。
 死後については、さまざまな取り組みがなされているようです。許可された場所での「風葬」という報道を見たことがあります。火葬や土葬に留まらない、新たな流れが今後ともなされるようです。

 私も、ここのお墓に葬ってもらうのもいいですが、こうして小さい頃に遊んだ山に埋めてもらうのもいいな、と思うようになりました。
 愛着のある地で、土の温もりに抱かれて、ゆっくりと休むのもいいかもしれません。
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2010年03月12日

池田亀鑑の若き日を歩く

 大山町立図書館長のFさんの車で、昨年師走と同じように池田亀鑑の実家があった岸本へ行きました。
 かつての岸本町は、今は伯耆町と言います。そこの公民館で、森安館長からいろいろとお話を伺いました。
 
 
 
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 森安館長は、池田亀鑑のことは何もわかりませんから、とおっしゃっていました。しかし、池田亀鑑が住んでいたところや学校のあった地域、そして父の実家のことなどになると、その家は今は……、その場所は今は……、それはうちの裏を通る道で……、と、とにかく地元の話ということもあり詳しく話してくださいました。
 池田亀鑑がこの岸本にいた時の関係地を地図に示してくださったので、その場所を尋ねることにしました。

 岸本の公民館を後にして、父宏文の実家があった福原へ。
 今この近くには、植田正治写真美術館があります。
 
 
 
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 明治41年6月に、父の日野郡日吉村日吉尋常小学校校長着任(〜大正4年3月まで)にともない、日南町の石見東小学校から日吉尋常小学校(久古村、池田家累代の居住地である岸本町の一地区)に転校します。
 日吉尋常小学校の跡地へ行きました。少し高台になっていて、貝田原の神社の前に、日吉尋常小学校はあったようです。今は何も面影はありません。
 
 
 
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 この久古の貝田原にあった校舎の中で、池田亀鑑一家の岸本での生活が始まったのです。

 明治42年に日吉尋常小学校を卒業すると、この貝田原から東の大原にあった吉寿尋常高等小学校の高等科に入学(2年通学)します。ここも、その痕跡はみあたりませんでした。
 
 
 
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 なお、今はなき日吉尋常小学校と吉寿尋常高等小学校の卒業証書台帳は、この2校を統合した八郷小学校に保存されているそうです。
 
 
 
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 その写真が『初念貫徹 池田亀鑑博士検証費建立記念誌』(2頁、岸本町発行、昭和61年12月)に掲載されているので、いつか確認に行きたいと思っています。冒頭に、池田亀鑑の名前が書かれているのがわかります。
 
 
 
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 この久古の地は、池田亀鑑が随想で何度も触れる霊峰大山が見霽かせる、「ふるさと」と言い続けたところです。
 
 
 
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 池田亀鑑は大正5年に鳥取県師範学校を終え、鳥取県日野郡溝口尋常高等小学校の訓導として帰って来ます。亀鑑20歳の時です。写真は、岸本公民館に保存されている、溝口校での若き亀鑑です。
 
 
 
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 訓導として実家に帰ってから、溝口の学校までの通勤経路について、久古の家から「うぐい坂」を通っていました。その「うぐい坂」は、森安館長のご自宅のすぐ裏で、今は舗道の整備によって地図からはなくなっていました。
 
 
 
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 池田亀鑑は、久古の自宅からこの「うぐい坂」を通って吉定に出、そこから学校があった溝口まで歩いて南下したようです。ただし、今の伯備線沿いの道は新しいもので、当時はもっと山側の三軒茶屋や上細見の道を通っていたと考えられます。だいたい、片道1時間ほどの道のりだそうです。その道を、若き日の訓導・池田亀鑑は、毎日歩いていたのです。
 
 
 
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 池田亀鑑の生誕の地である日南町に行くために、岸本駅から生山駅までは電車を使いました。
 2時間に1本しか電車がないので、駅の中にある商工会議所に荷物を預け、1時間ほど駅周辺を散策しました。学校があった地域を駅から臨むと、大山が顔を出しました。
 
 
 
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 電車に乗ろうとしたところ、2両連結の列車の一番前しかドアが開きません。後ろの方にいた私は、あわてて先頭に走り、どうにか乗り込みました。

 生山では、久代さんが迎えてくださいました。
 早速、池田亀鑑が生まれた神戸上下代の「池田亀鑑誕生地」の碑がある所に連れて行ってもらいました。
 ここは、昨年師走に訪問した折には来なかったところです。
 
 
 
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 ここから石見東小学校までは、歩いて10分でしょうか。
 この家の前を少し下って左に折れると、広い道に出ます。その道を右にとって突き当たりに、小学校があります。
 
 
 
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両親ともにこの小学校に勤務していたので、近くて便利な所に居を構えたことになります。

 石見東小学校の敷地の入口には、雪を被った記念碑が2つ立っています。雪を被っているので、昨年「池田亀鑑ゆかりの日南町」と題して紹介した時よりも雰囲気が違います。
 
 
 
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 これで、鳥取の池田亀鑑に関連する所は踏破しました。
 あとは、落ち穂拾いのような資料収集と、関係者からの聞き取りを続けて行きたいと思います。
 これまでにも、たくさんの方に貴重なお話を伺いました。今後とも、人と人とのつながりの中で、より正確な情報をいただきながら、池田亀鑑の人となりを追いかけて行きたいと思います。
 これまでに変わらぬご理解とご協力を、改めてお願いいたします。
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2010年03月07日

調査で中国地方に

今日は、調査の移動日です。
冷え込む中を、広島までやって来ました。
広島大学におられた稲賀敬二先生に、お話を伺いに来て以来です。
さらにその前は、高校一年生の時、ヒッチハイクで山陽旅行をした時だと思います。

広島駅から北上し、中国山地の中にいます。
今日一日だけでも、たくさんの話を聞き、たくさんしゃべりました。
明日は、貴重な資料を見せてもらいます。
縁あって、こうした機会が与えられたのです。この出会いに感謝します。
今回の話は、明日以降に、少しずつ報告します。
posted by genjiito at 23:40| Comment(0) | ・ブラリと

2009年12月17日

池田亀鑑ゆかりの石碑と資料

 池田亀鑑は、明治29年(1896)12月9日に、鳥取県日野郡福成村神戸上(かどのかみ、現在の日南町神戸上)に生まれました。私が現地を訪問したのは、偶然ですが誕生日の翌日だったことになります。本籍地は日吉村久古(くご、現在の岸本町久古313の1)です。池田家は代々亀右衛門を襲名していて、祖父が亀の一字を取って亀鑑(かめのり)と名付けたそうです。私は、亀鑑を「きかん」と発音していました。
 鳥取師範学校を卒業した大正5年(1916)から2年間、池田亀鑑は日野郡溝口尋常高等小学校の教師でした。黒い詰め襟の服に下駄履きという、我々が知る学者像からは想像もできない青年教師だったようです。高等科2年生と6年生の担任をしています。
 次の写真は、後に紹介する岸本町の公民館にあったものの一部です。
 
 
 
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 教え子たちが、池田亀鑑が愛した「学びて然かる後足らざるを知る」という座右の銘を刻み「池田亀鑑先生学恩碑」を建てました。碑文は自筆です。
 
 
 
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この地は、元の東京大学教授、文学博士、池田亀鑑先生の、大正五・六年、溝口尋常高等小学校訓導として、教育に熱情をささげられたところ、しかも、国文学界空前の偉業たる、先生の源氏物語研究の源は、じつにここに発したのである。いま、当時の教え子ら、先生を追慕し、その文字を刻み、学恩の碑を建てる。


 この碑は、伯備線の伯耆溝口駅に近い、町役場溝口分庁舎の前に建っています。
 たまたま、この時に車を運転してくださっていた大山町図書館長の船原さんが、役場の中へ入って何か資料がないかを聞いておられた時です。対応に出られた方が、偶然、図書館の司書の方で、船原館長の知り合いの方だったのです。お互いが、あなたは、ということで話が弾み、次に町立岸本中学校へ行くなら、その手前にある町立岸本公民館に池田亀鑑の資料があるはずだ、ということを教えてくださいました。そして、ご丁寧に、公民館に電話連絡をしてくださり、資料を用意しておいてもらえることになったのです。

 大急ぎで車を走らせて、町立岸本公民館へと急ぎました。
 職員の方は、卒業記念写真をはじめとして、池田亀鑑が編纂した尋常科五・六学年用の郷土読本や手紙などを、快く見せてくださいました。あいにく教育長が会議中のために席を外せないとのことで、自由にしばらく調査させていただきました。

 少し暗くなりはじめたので、これまた大急ぎで町立岸本中学校へと急ぎました。ここには、池田亀鑑の記念碑があるのです。
 しかし、校内のどこにも見あたりません。入口で先生に聞くと、校門の外にあるとのことで、日の暮れないうちに写真をとるために、またまた大急ぎで外へ出ました。
 ここには「生涯稽古」という文字が刻まれていました。
 
 
 
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 石碑の裏面には、次のように彫られています。

国文学者池田亀鑑博士の業績を顕彰し後進の鑑に之を建立す 碑文は博士が郷里に贈られた著書から直筆を転写す


 この碑まで案内してくださった先生は、校舎の中に池田亀鑑の書があるとのことで、またまた走って校舎に戻りました。
 それは、岸本町教育長の書に「桃園」という雅号印が捺されたものでした。「桃園」が池田亀鑑の雅号ということで、池田亀鑑に関係するものとされているようです。

 池田亀鑑の教え子や町民が、先生を誇りに思い慕っていることが、こうした碑文などが大切に守り伝えられていることから伝わって来ます。今後は、池田亀鑑のなした仕事を、学問的に評価する必要があると思います。
 私も、池田亀鑑が手がけた『源氏物語』の本文研究を追い、その成果を批判的に検証しているつもりです。そして、昭和13年以降の写本の整理が未完のままである現状をなんとかしようとして、『源氏物語別本集成』全15巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、平成元〜14年、おうふう)と、『源氏物語別本集成 続』全15巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、平成17〜刊行中、おうふう)を刊行しつづけています。池田亀鑑ができなかったことに着手しているわけです。
 しかし、まだまだ道半ば、というところです。

 なお、池田亀鑑は、大正5・6年の2年間だけ溝口尋常高等小学校訓導をした後、この鳥取の地を離れて東京高等師範学校へと移り、さらに東京大学へと進んで研究者として歩んで行きます。
 日南町の図書館で入手した『日南町史』(全3冊)には、池田亀鑑については簡略な説明のままです。この次に補訂版を作成される時には、さらに詳細な解説がなされることでしょう。

 それにしても、今回の日南町を経巡る旅は、「人」に恵まれ「縁」というものを実感させてくれるものでした。
 懇切丁寧に案内してくださった足羽さん、最初に情報をくださった久代さん、運転手に徹してくださった船原さんに、心より感謝いたします。ありがとうございました。

 1日で、こんなにたくさんの人や物に出会えたことは、まさに奇跡としか言いようがありません。
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2009年12月16日

池田亀鑑ゆかりの日南町

 久代安敏さんの母校は旧石見東小学校だそうです。
 
 
 
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 この石見東小学校の校門を上った正面に、池田亀鑑の「学才にあらず 閥派にあらず たゞ至誠にあり」という言葉を刻んだ碑が建っています。昭和43年(1968)の建立だそうです。
 そして先月の11月3日に、新しく池田亀鑑の略歴を刻んだ石碑がこの横に建てられ、除幕式が執り行われました。この碑には、池田亀鑑の写真も添えてあります。
 
 
 
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 建碑にあたっては、「池田亀鑑文学碑を守る会」が町内外の230名から協賛を得られたのだそうです。
 この碑が建てられているのは、かつて池田亀鑑の両親が教鞭をとったこの小学校の敷地の入口近くです。
 
 
 
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 しかし、その小学校は最近閉校となり、2階のガラス窓には、

あり□□□ さよ□□□ □□東小学□


という、模造紙に手書きされた文字が残っています。しかも、その内の何枚かは、すでに剥がれ落ちていました。

 寂しさを胸に押し留めて見上げずにはいられない、時の流れを痛感する光景です。

 なお、池田亀鑑が生まれたこの神戸上のことは、随筆集『花を折る』に語られています。
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2009年12月15日

日南町議の久代氏と思わず握手

 日南町の役場は、立派な木で組み上げられていました。庁舎というに相応しい建物です。
 その広いロビーで、私は町会議員の久代安敏さんを待っていました。

 しばらくしてから、背後で「長らくお待たせしてすみません」という優しい声が耳に届きました。私が振り向くと同時に、思わずお互いに手をしっかりと握りあっていました。
 よく来て下さいました、来ましたよ、いつか来られるだろうと思っていました、早かったでしょ、と。

 初対面です。しかし、相手のことはブログを通してよく知っています。お互いに。日常の思いを、包み隠さず何でもブログに書いているので、何もかもわかった気でいます。
 旧知の仲のように、手を握りながら話し出しました。止まりません。しばらく、立ち話が続きました。

 日南町総合文化センターで足羽さんの案内で松本清張と井上靖の展示を見る前に、町議をしておられる久代さんにお目にかかれないかを聞いてもらいました。しかし、その日から日南町議会12月定例会が始まったとのことで、会議場に入っておられたのです。今日は、一般質問の質問者だとも。
 文化センターを出て足羽さんの車で移動する時に、再度様子を見に行きました。しかし、まだ会議中でした。ロビーには、大きなモニタに会議場が映されていました。質疑が続いていました。
 松本清張の文学碑を見た後、井上靖の文学碑を見に行く途中にも立ち寄りました。しかし、その時も、まだ会議は続いていました。

 池田亀鑑の記念碑を見た後、日南町を後にする際、一応念のために役場へ行ってみました。すると、今、会議が終わったばかりだということでした。
 事務の方に連絡をとってもらうと、部屋におられないとのことです。しばらくしてから、その方が上へ探しに行ってくださいました。
 私は、久代さんが来訪に気づかずにお帰りにならないかと気を揉みながら、出口付近を見張っていました。そんな中で、やっとご本人と出会えたのです。

 久代さんとのことの起こりは、私のブログにコメントを付けてくださったことからです。

 先月の11月4日に、私は「予期せぬ夜の祝祭」という題でブログを書きました。その中で、松本清張の『ゼロの焦点』について触れました。その記事が、本当に偶然ですが、久代さんの目に止まったのです。

 久代さんが下さったコメントは以下のものです。

 たまたま11月3日に池田亀鑑の略歴の碑の除幕式をしたことで、あなたのブログにであいました。わたしの町には井上靖と松本清張と池田亀鑑の文学碑があります。清張さんは生誕100年で町がいろいろ取り組んでいます。

 井上靖は、妻と子どもさんを鳥取県・日南町に疎開させていたことが縁で、松本清張は、父峯太郎の生まれた町ということで、池田亀鑑は、鳥取県日南町神戸上というところで生まれたことで、3氏の碑があります。またよろしかったらお出かけください。



 これに対して、私は以下の返事を認めました。

 コメントをありがとうございます。
 ブログを楽しく拝見しました。

 私が好きな井上靖、松本清張、そして仕事に直結する池田亀鑑と、魅力的な町ですね。

 お訪ねする機会を探してみます。

 池田亀鑑先生の除幕式というのは、どのようなものだったのでしょうか。

 よろしかったら、もっと詳しく教えていただけると幸いです。



 久代さんは、さらに詳しく教えてくださいました。

 わたしの町ではたいへんな過疎と少子化で、1年に25人くらいしか子どもが生まれないのです。で、今春町内6つの小学校が1校に統合したのです。

 池田亀鑑文学碑は、先生が生誕され、ご両親が勤めていられた石見東小学校の校庭の角に、昭和43年に「学才にあらず 閥派にあらず たゞ至誠にあり」の碑が建立されていたのですが、先生の略歴がちょっと粗末なものでした。小学校が統合してもこの文学碑はしっかり保存して継承しようということで、略歴を石に刻んだのです。その除幕式でした。

 これから先生のことを、先生の著されたものを勉強しようという計画もしています。まぁこんなところです。


池田亀鑑先生略歴

池田亀鑑先生は、明治二十九年十二月九日厳父宏文慈母とらの子として神戸上に生まれる。幾多の困苦と欠乏に耐え、よく努力し鳥取師範を経て東京高等師範に学び東京帝国大学文学部国文科を卒業する。女子学習院、第一高等学校、二松学舎、慶応義塾、早稲田、帝国女子専門学校、東洋等各大学の講師又は助教授。大正大学、東京大学の教授等を歴任し、昭和二十二年には文学博士号を授与される。中世古典文学、特に源氏物語の研究においては斯界の第一人者と称せられ、爾後の指針とされた。著書は源氏物語大成全八巻他多数。毎日学術奨励賞、朝日文化賞等を受賞する。昭和三十一年十二月十九日病を得て東京に没す。行年六十才。その悲報に衝撃を受けた厳父宏文氏も同日逝去される。先生のふるさと神戸上への想いは随筆集「花を折る」等で熱く述べられている。尚文学碑は、昭和四十三年十二月九日建立除幕された。

          池田亀鑑文学碑を守る会



このような略歴を刻みました。



 以下、私のお礼の返信です。

 詳細なご報告、ありがとうございました。

 池田亀鑑先生の顕彰は、すばらしいことだと思います。

 地元のみなさまが、松本清張氏・井上靖氏とともに、池田亀鑑先生のなさったお仕事を理解されることは、大切なことですね。日本の古典文学研究においては、重要な役割をなさった先生ですから。

 特に、『源氏物語』の本文を整理された功績は、偉大なものです。「中世古典文学」とあるのは、正確には「中古古典文学」でしょうか。

 池田亀鑑先生の足跡を確認する作業などは、どなたかなさっているのでしょうか。

 『源氏物語大成』という偉業の背景も、まだ確認されていません。

 今後は、池田亀鑑先生の業績の意義を再確認する研究が、若い人によってなされると思います。

 ますますのご活躍を、楽しみにしています。



 このようなやりとりを経て、この日、感動的ともいえる顔合わせとなったのです。
 日南町へ行く2日前にメールを差し上げていたのですが、一般質問の準備でお忙しい所だったようです。

 この日は、私もまだ池田亀鑑の記念碑などを尋ね歩く予定があったので、早々に駐車場でお別れしました。またの再開を約して。

 その日は米子のホテルで泊まりました。翌朝早々に、久代さんからこんなメールが届きました。

 いつか近いうちに来られるだろうな、と思っていましたが、まさか昨日お会いできるとは思いませんでした。

 とてもうれしかったです。

 米子の井上靖記念館にも行かれたのですね。

 国文学研究資料館のホームページも拝見しました。

 池田亀鑑の碑と私の家は指呼の間です。今後の交流を楽しみにしています。

 ご活躍を祈念しています。とりあえずはお礼まで。



 以下、私の返信です。

 ご丁寧に、ありがとうございます。

 お目にかかることができ、私も安堵しました。

 日南町はいい町ですね。野分の館からの景色が印象的でした。

 あれから、溝口と岸本町にある池田亀鑑の碑を2箇所見ながら米子へ帰りました。

 岸本町の公民館では、池田亀鑑の写真などを拝見しました。

 詳しい話は伺えませんでしたが、たくさんのことを知ることが出来ました。

 感謝感謝の一日となりました。

 今日は、大山町の図書館で町民の方に『源氏物語』のお話をし、私が生まれた出雲市へ向かいます。

 久代さんのおかげで、日南町は思い出深い地となりました。

 再訪の機会を、今から楽しみにしています。

 ますますのご活躍を。



 人と人との出会いの素晴らしさを、温かい思いで噛みしめています。
 自分がやりたいことをする中で、自分の中には何もなくても、ありのままの自分をさらけ出すことで、こうした邂逅があるのです。
 縁というものを、大切に守り育てていきたいという思いを、いまさらながら強くしています。
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2009年12月12日

出雲の神はネットと無縁

出雲大社に来ました。
縁結びの神様は、インターネットとは無縁でした。
宿に荷物をおかせてもらい、すぐに屏風や手鑑の調査に没頭し、夜分に帰って来ました。そして、MacBook Air という愛用のノートパソコンを開いて、ネットにつなげようとしました。

無線LANのパスワードを聞いて来るので、宿の名前などを入れました。しかし、ことごとくはじかれます。

フロントへマックを持って行って聞くと、今度は電波を感知しません。この宿は、インターネットの設備がないので、使えないとのことです。
部屋で電波を感知していたのは、ノラ電波のようです。

あいだに入った方には、ネットのある所を頼んだのですが、もうどうしようもありません。

仕方がないので、今日はiPhoneで、これだけ書いて閉じます。

明日以降に、今日の報告や、井上靖と池田亀鑑のことを書きましょう。
posted by genjiito at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ・ブラリと

2009年12月11日

松本清張ゆかりの日南町

 今年は、松本清張生誕100年記念の年です。

 清張ゆかりの日南町でも、さまざまな取り組みがなされています。

 日南町は、鳥取県の最南端で、岡山、広島、島根の県境に位置する、山峡の町です。米子からは、岡山に向かって一路南へ1時間半のところにあります。


 「松本清張生誕100年記念事業実行委員会」の会長である足羽隆さんに、早朝より昼過ぎまで、お昼ご飯抜きで町内を案内してもらいました。ご高齢の足羽さんご自身が車を運転しての案内だったので、お心遣いが身にしみました。ありがとうございます。


 松本清張、井上靖、池田亀鑑の3人の、ゆかりの地巡りです。

 たんさんの収穫がありました。あまりにも多いので、少しずつ報告します。


 日南町総合文化センターでは、松本清張の展示がありました。好評のため、会期を1ヶ月半も延長しての開催です。

 
 
 
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 清張の生い立ちについて、足羽さんからいろいろと興味深いことを伺いました。

 祖父や祖母について、まだ確認されていないことが多々あるようです。清張文学の現状について疎い私ですが、今後の研究が期待されるように思いました。


 この施設には、図書館があり、松本清張と井上靖の本を集めたコーナーがありました。

 
 
 
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 共に多作の作家なので、立派なコーナーになっています。

 地元新聞の切り抜きなど、貴重な資料も多く、たくさんコピーさせていただきました。

 そして、『日南町史』(全3冊)も購入しました。松本清張については、今後の補訂版でその出生にまつわる項目が詳細に記されることを望みます。これは、足羽さんのご健筆に待ちたいと思います。



 松本清張の資料展は、通路を利用してのパネル展示が主体です。

 入口の幟で白い方は、北九州市でのイベントに使われたものを譲り受けられたそうです。それに加えて、日南町で作成されたのが橙色です。

 
 
 
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 パネル展示も、北九州市の図録から転載のものがいくつかありました。このあたりが、この日南町と松本清張の接点が緩いところです。しかし、清張自身も若いときにこの地をそっと訪れているのです。自分の家系についての興味を掻き立てる問題があったようなので、そのあたりから日南町と松本清張の接点を強調されたらいいのではないでしょうか。清張作品を形成する背景にあるもとして、この町の存在は大きいと思います。


 清張の文学碑は、整備されたところにあります。

 
 
 
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 今回新たに建立されたものは、文学碑の左下にあります。

 
 
 
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 碑の裏側に記された説明がわかりにくいので、新たに説明板を設置されたのです。


 清張の祖父たちがいた地域は、清張がこっそりと来てスケッチを残した時のままに、今も時間が停まったようにそのままです。

 
 
 
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 伝記研究などには、いろいろな問題が関係してきます。むつかしいことも多いでしょうが、作品理解には重要なことが多いので、今後の進展に待ちたいと思います。


 今回伺った話によるかぎりでは、この墓石に刻まれた字句の解釈から再スタートすると、興味深いと思われます。

 
 
 
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 この分野に疎いのですが、すでに研究があるのであれば私も立ち寄ってみたい気になりました。

 
 
 
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 地図の中央左寄りにある松本清張の文学碑から、今度はその右下にある井上靖文学碑へと移動します。

 
 なお、昭和35年の作家所得番付によると、第1位が松本清張(3842万円)です。まだ、作家歴5年目にして、これだけの売れっ子作家になったのです。そして、第7位に井上靖(2397万円)がランクしています。

 この2大作家と縁の深い日南町は、この文化遺産を大切にしていかれることでしょう。これからが楽しみです。
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2009年12月09日

米子への空路でツラツラと

 米子へ行くために、早朝、羽田に向かいました。
 成田から飛行機に乗ることが多いので、久しぶりのモノレールです。韓国に行った時以来です。それにしても、すごいスピードに驚きました。地下鉄なみの猛スピードです。
 コンクリートの柱に跨がって走る移動物体が、こんなに高速でいいのでしょうか。技術的には問題ないのでしょう。しかし、これは変です。モノレールはモノレールらしく、カタコトカタコト走るべきです。

 羽田の出発階で、颯爽とキャリングケースを引いてゲートへ向かう女性がいました。
 ところが、なにやら、カッコいいコートから、ハラリと落ちたものがありました。すれ違った男性が、何だろうと拾い上げ、すぐにサッサと行く女性を追いかけて行きます。女性のスラリとした脚が早いので、なかなか追いつきません。ドラマのワンシーンです。プライドだけで間抜けな女と、ただただ実直な男の出会いの場面です。落とし物は搭乗券のようでした。その後、どうなったのでしょうか。
 懸命に追いかけて行って、落とし物の搭乗券を差し出す男。そうっ、と言って受け取り、お礼もそこそこにゲートへ向かう女。その女を、何となく見送る男。女は振り向きもしない。
 私は、そんなシナリオを描きました。勝手な想像です。お二人には、申し訳ないのですが……。

 搭乗までの間に、搭乗機と座席のシート番号を印字した紙片を、なんと3回も受け取りました。手元には、予約時のプリントもあります。都合、4枚もあります。ご丁寧に、こんなにたくさんは要りません。確認のためなのでしょう。しかし、紙の無駄だし、度々の印字機器の導入からメンテナンスに至るまで、これは大変でしょう。事業見直して仕分けが叫ばれている今、一考の余地がありそうです。

 機内で、シートベルトのサインが消えてから、このメモをiPhoneに入力し出した時でした。サッとアテンダントの方が寄って来られ、「お客さま」と声をかけてiPhoneの画面をご覧になりました。そして、iPhoneの画面左上の飛行機マークを確認すると、「失礼しました」と……。素早い対応で、好感が持てました。

 つい、胸の名札を見ると、忘れられない名前でした。
 かつて、阪神タイガースに源五郎丸というピッチャーがいました。それに似た名前でした。名前とその爽やかで可愛い女性のイメージがあまりにも落差があるので、苗字を変えた方が、と要らぬ気遣いをしてしまいました。テキパキとした、気持ちのいいアテンダントの方でした。

 倒産寸前のJALのアテンダントの方は、少し年齢が高いように思います。そして、愛想がいいようですが、作られたイメージがあります。笑顔が営業用に感じられます。ただし、安心感はあります。
 今回もそうでしたが、ANAのアテンダントの方は、若いなりに気配りは懸命にしているという感じの中で、清涼感があるように思います。企業の姿勢ではないでしょうか。
 あくまでも、個人的な偏見ですが……。
posted by genjiito at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ・ブラリと

2009年12月04日

資料に会うために遠出

 電車に揺られて、大阪南部にある羽曳野丘陵へ脚を向けました。
 近鉄藤井寺駅からバスで20分のところにある、四天王寺大学です。
 
 
 
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 かつて、奈良に住んでいた頃には、西国33箇所の第5番札所である葛井寺や、古市古墳群などに何度も行きました。
 久しぶりに来たことになります。車窓の景色が、このあたりを車で走っていた頃を思い出させます。

 四天王寺大学は、以前は四天王寺国際仏教大学と言っていました。
 今回は、恩頼堂文庫の中にある資料を調査し、写真撮影をさせていただきました。

 図書館の方の話では、最近この近くのお寺でサンスクリット語の珍しい文献が見つかったとのことでした。
 日本には、まだ、いろいろなところに、いろいろな本があるようです。その本の価値が認められないままに、たくさん眠っているようです。
 価値や意義のわかる人の目に触れることで、少しずつ姿を現すのです。
 
 本は、人に見られることを待っています。
 大いに、活用したいものです。
posted by genjiito at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ・ブラリと

2009年10月30日

音楽の異版・ブルックナーを聴く

久しぶりに、クラッシックを聴きに行きました。
それも、ブルックナーです。
 
 
 
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指揮者が井上道義氏なので、これは期待できます。
会場となった京都コンサートホールは、自宅から徒歩15分です。
とにかく、60分の大熱演でした。

前から3番目の正面の席だったので、演奏者の表情がよく見えます。弦楽器の弦が切れないかと心配なほどでした。
井上氏の表情も豊かで、壮大ないい曲でした。
京都市交響楽団は、聴く機会が多くなりました。すばらしい楽団です。

私は、ブルックナーのレコードは、ほぼすべてを持っています。CDは一枚も持っていません。最近、どのような演奏がなされ、録音がでているのかは知りません。
なかなか機会がなく、ブルックナーの演奏を直に聴くのは初めてです。

ブルックナーの交響曲は、いくつかの異稿があって、複雑な問題があります。ブルックナー自身の度重なる改訂や補筆に加え、友人たちが善意から変更を加えているからです。
今日聴いた第9番は、ブルックナーの死によって未完に終わったものです。この初演は1903年で、ブルックナーの死後にレーヴェが書き換えたものです。
そのほかに、オーレル版、ハース版、ノヴァーク版などがあります。
今日は、ノヴァーク版でした。
そもそもが、このブルックナーに興味を持ったのは、その楽譜の異版に興味を持ったからです。『源氏物語』の異本と同じ感覚で接しています。
作品は、作者をはじめとして、さまざまな形で手が入り、そして、さまざまな異版が伝えられていくのです。
音楽も、そして文学も。

ブルックナーの曲は長いので、しだいに聴かなくなっていました。
余韻覚めやらぬ中、これからも機会があればブルックナーを聴きたくなりました。
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2009年10月15日

逸翁美術館の茶入

 国文学研究資料館から逸翁美術館へと、華麗なる転身をなさった伊井春樹先生の所へ行ってきました。
 逸翁美術館は、今月から新装開館となり、非常にスッキリとしたデザインとなっていました。
 
 
 
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 入口には、お祝いのお花がたくさんありました。
 先生は、これまで以上にお忙しいご様子でした。
 何組かのお客さんの対応を終えられた頃を見計らって伺いました。しかし、お疲れのところを、丁寧に展示室を案内してくださいました。

 展示室に入ると、あの「絵巻切断」で知られる「佐竹本三十六歌仙切 藤原高光」(重文)が目に飛び込んで来ます。高光は、若々しい顔立ちです。
 切断の時に使われた竹の抽籤筒で作られた花入と籤も、その前に展示されていました。これがあの、と思うと、感激しました。
 私も、パリで見つけた『探幽筆 三十六歌仙』(粉本)を架蔵しているので、歌仙絵には特段の親しみがあります。

 「石山切 伊勢集」や「伊勢物語下絵梵字経」、そして芭蕉の書や蕪村や光琳や乾山の絵など、ぜいたくなものを伊井先生のお話と共に見せてもらいました。

 こうした名品の数々は、「逸翁 雅俗の精華 小林一三コレクション」と題するDVDでも鑑賞できます。
 宝塚の檀れいさんが案内人として、優雅に所蔵品を見せてくれます。
 
 
 
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 伊井先生と小声でお話をしながら展示物を見ていた中で、私は「文琳茶入 逸翁歌銘「ねざめ」明時代」というものに目が留まりました。
 これは、その形からリンゴの異名である文琳と言われる唐物茶入です。「茄子」とともに、形のいいものです。「ねざめ」という銘は、和泉式部の和歌から来ているそうです。

 私がこれに興味を持ったのは、ちょうど今、『名物茶入の物語』(矢野環、淡交社、平成20年12月)という本を読んでいるからです。その本では、「博多文琳」や「吹上文琳」がカラー写真入りで紹介されています。
 
 
 
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 また、高橋箒庵の『大正名器鑑』が逸翁美術館に展示されており、伊井先生のお話では初版ではない、とのことでした。その本のことが、この『名物茶入の物語』に書いてあったので、それを思い出しながら先生のお話を伺いました。

 松平不昧公や片桐石州の名前も、展示物の説明にありました。
 私の生まれは島根県の出雲です。母の実家はお茶の家系で、私も小さいときから母の家の茶室を日常的に見ながら育ちました。父も、よく松江のお茶会に連れて行ってくれました。その時に出るお菓子は、決まって不昧公に縁のある「わかくさ」でした。
 また、片桐石州については、京都に来るまでに住んでいた奈良・生駒の近くにある、大和小泉の慈光院を創立したのが石州であることで知っていました。また、よく慈光院の庭を散策し、お茶席で抹茶をいただいたものです。

 そんなことを思い出しながら、伊井先生と展示室で楽しい時間を持つことができました。

 最近は、お茶とは無縁の日々です。時々、お茶を習っている娘が、京都の自宅で点ててくれます。
 恥ずかしい茶器しかありませんが、ゆったりとした時間が流れます。

 忘れかけていたお茶を喫する時間の流れを、また身近なものとするいい機会かも知れません。
 毎日あくせくと走り回っています。しかし、時間を止めてくれるお茶も、いいものかもしれません。

 自宅の近くの寺之内には、裏千家の今日庵と表千家の不審菴があります。
 柄にもないことですが、意識してお茶に接することもいいように思います。
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2009年09月05日

堺市博物館

 昨日は、英国行きのメンバーとともに、立川で打ち合わせ会を持ちました。
 午前中の手術で麻酔をされていたため、会合後の懇親会ではお酒が飲めず、私だけはウーロン茶でした。
 そのせいもあり、アルコールのない就寝は、実に久しぶりでした。よく眠れました。

 今日は、早朝から新幹線で大阪に向かいました。
 天王寺から阪和線で百舌鳥駅まで行き、仁徳天皇陵の前にある堺市博物館が行き先です。
 途中で、2度も電車の遅れに巻き込まれました。最初は、線路内に人が立ち入ったということで、安全点検のために20分遅れました。次は、待ち合わせの快速が遅れているとのことで、またまた5分ほどの遅れです。
 先月、白浜へスクーバ・ダイビングに行ったときにも、この阪和線は止まりました。
 かつての通勤電車ですが、どうやら相性がよくないようです。

 車内で、東京では見かけないシートカバーを目にしました。
 
 
 
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 これだけ派手なデザインになっていると、座るのに勇気がいります。
 お年寄りをはじめとして、ハンディキャップのある方にしても、見られていることが否が応でも意識させられて、座り心地が悪いことでしょう。
 車内はガラ空きだったので、美術館のオブジェのように見えました。

 ふと顔を上げた時、こんなにガラガラなのに、選りに選って元気そうな親子連れが座っていました。
 思わず、シャッターを切ってしまいました。
 
 
 
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 かわいい柄のシートなので、子どもたちも楽しそうです。
 JRさん。このアイデアは失敗でしたね。

 堺市博物館は、公園の中にある落ち着いたところです。
 
 
 
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 右端の銅像は、堺の豪商で茶人の武野紹鷗です。紹鷗は、三条西実隆に和歌を学んでいます。
 この紹鷗に向かい合うようにして、千利休が座しています。
 
 
 
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 みごとな茶室があり、大仙公園の中で落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
 博物館での仕事は順調に進みました。
 中ではちょうど、中世の堺をテーマにした企画展が開催されていました。
 「よみがえる中世都市 堺 発掘調査の成果と出土品」
 ギャラリートークが始まるということで、参加させていただきました。
 今回の展示を直接担当された方の説明だったので、非常によくわかる解説でした。

 堺は、大坂夏の陣の前哨戦で火の町となりました。その発掘調査の成果が、こうして展示されていたのです。
 昨日の打合会で、タイやベトナムの日本文学研究の現状の報告がありました。そのタイやベトナムから来た陶器などが、堺から掘り出されているのです。貿易港としての堺の繁栄を示すものです。昨日、東南アジアとの文化交流について話し合ったばかりなので、こうしたモノに不思議な興味が沸きました。

 私が一番興味を持ったのは、塼(せん)にヘラで描かれた武者の線画です。
 鎧を着けて刀を持つ武者が、首を刎ねる場面や、首級を翳す姿などが刻まれています。
 これは、1566(永禄9)年の5月30日に起こった、松永久秀と三好三人衆の市街戦を描いたものだとのことです。
 最近、井上靖の戦国時代を背景にした小説を読んでいます。「平蜘蛛の釜」という作品を読んだばかりなので、松永久秀の世界がこんなにリアルに描かれていることに驚きました。
 偶然とはいえ、おもしろい展示に出会えました。
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2009年03月21日

浅田次郎の講演会

 岡崎公園の中にある京都市勧業館「みやこめっせ」で、浅田次郎氏の講演会がありました。
 少し気になる作家だったので、行って聞きました。

 演題は「わたしの好きな京都」という、一人語りができそうなテーマです。


090321asada淺田次郎



 実は、私は浅田氏の本をまだ1冊も読んだことがありません。
 原作となっている映画も、まったく見ていません。
 京都を舞台にした作品が多いので、気になっていたのです。

 お話は、とりとめもなく始まり、脱線しながら、なんとなく終わりました。
 作家らしい、軽妙な話しぶりでした。

 話を聞いている内に、私と同年であることがわかりました。
 話の内容も、私と同じ体験が随所に出てくるので、親近感を覚えました。

 三島由紀夫の割腹自殺の時は、真相究明のために自衛隊に入ったのだそうです。
 私も、あの時はすぐに原稿を書いて、朝日新聞の声の欄に投書したものです。小さく掲載されたことを記憶しています。

 『輪違屋糸里』では、新撰組の羽織は、菱屋のものにしたが、本当は大丸だ、などと小説の舞台裏などにも話がおよびました。

 学問をするには、京都はイメージしやすい環境にあるので、適しているのだそうです。
 また、パソコンで書く小説が長くなるのは、積み重ねて書くからだそうです。つまらない、長いものになるとも。

 そして、浅田氏は、短い言葉で表現するのが日本文学だとの考えから、万年筆で原稿用紙に書いておられます。
 短くて、端的に表現できるようになるからだとか。

 最後は、京都は四季がはっきりしているので美しい、という話で終わりました。ちょうど1時間のお話でした。

 その後、しばらく質疑応答の時間がありました。

 戦争についての言及に関して質問が出たときには、これには考えながら、本気で答えておられました。

 なかなかおもしろい講演会でした。


 会場を出ると、別の部屋で「源氏物語五十四帖の抹茶碗」という展覧会をしていました。



090321gchawan源氏抹茶碗



 写真撮影の許可が得られなかったので、丁寧に見てまわりました。
 しかし、作家の方々の経歴の華々しさに比べて、その作品に描かれた源氏絵や意匠には、あまりいい印象を持ちませんでした。
 雑な感じがしました。
 みなさん、著名な方々なのでしょう。しかし、『源氏物語』を読んだことのない方が、こうした作品を多少無理をして作り上げた、というものが多いのではないでしょうか。
 これは、京焼・清水焼の匠21名の技を展示するものだ、とありました。
 焼き方からの制約でもあるのでしょうか。それでも、私がいいと思うものは、1つもありませんでした。
 勝手な印象批評で申し訳ないのですが。

 展示の仕方といい、訪れる人の少なさといい、『源氏物語千年紀』のブームが去ったことを教えてくれる、かすかな余香に甘んじた展覧会でした。
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2009年01月13日

富士山の雄姿

 今日も、京都を始発で上京しました。
 そして、道中の車窓から、雲一つない富士山を見ました。
 こんなにスッキリと見える富士は、本当に久しぶりです。

090113fuji快晴の富士


 『伊勢物語』の第9段は、「東下り」として有名です。
 在原業平らしき昔男は、京都を出てから三河の八橋を経て、駿河の宇津の山をさらに東へ行き、富士の山を目にします。
 そして、次のように語っています。

富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。

  時知らぬ山は富士の嶺いつとてか

    鹿子まだらに雪の降るらむ

その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。
  



 一昨日、比叡山の麓まで行ったばかりです。今日の晴れ渡った中に聳える富士山を見て、すぐに『伊勢物語』の第9段の文章が思い浮かびました。
 確かに、富士山は比叡山を20ほど重ねた山という感覚はわかります。

 そういえば、父が私の結婚式の時に作ってくれた川柳に、

錦秋の車窓いっぱい富士の山


というのがありました。東京で式をあげたので、大阪から上京する時に、季節は違いますが今日と同じように見えた富士山を詠んだものです。

 妻の母がこの句を大変気に入ってくださり、何度も思い出しては口ずさんでおられました。

 富士山は、どこか心を掴む形をしています。

 今日の富士山は、これまでで最高の姿を見せていました。
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2008年12月13日

御堂筋の銀杏並木

 週の始めに大阪で研究会があったのに続いて、週末も大阪で学術フォーラムがあり、予定を調節して参加しました。
 相変わらず、東西を行き来しています。

 宿泊先のホテルでインターネットが使えなかったのには苦労しました。

 会場となった淀屋橋から見た御堂筋の銀杏並木は、相変わらず金色の絨緞です。


081213ityonamiki御堂筋の銀杏


 十数年前、大阪で高校の教員をしていたこの時期には、仕事帰りに御堂筋をよく散策したものです。
 久しぶりに、落ち葉を踏みしだきながら歩きました。
 散り落ちた枯れ葉を掃除するのは、これまた大変な仕事です。
 ごくろうさまです。


081213otiba落ち葉


 ギンナンを拾う姿は見かけませんでした。
 茶碗蒸しにギンナンはいい取り合わせです。
 まだ早いのでしょうか。
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2008年12月08日

万博公園の太陽の塔

 会議に出席するために、大阪の民族学博物館へ行きました。
 万博公園に行くのは、久しぶりです。
 子供をエキスポランドに連れてきて以来なので、20年以上も前のことのように思います。

 モノレールで万博公園駅に降り立つと、あの1970年の万博の時が思い出されました。太陽の塔は、今も健在です。
 その下の高速から見上げたことは何度もありましたが、直接そばに行くのは、本当に数十年ぶりです。


081208banpaku0_5万博公園


 真下から見上げると、30年以上前に、とにかくひたすら並んで見たパビリオンが林立する万博を思い出させます。
 懐かしい姿です。

081208banpaku1昼の太陽の塔


 4時間以上の会議が終わり、帰る時に通りかかった太陽の塔は、こんな感じでした。


081208banpaku2夜の太陽の塔


 それにしても、存在感のある塔です。
 岡本太郎のすごさが、こうして見上げると実感できます。

 かつての万博会場は、1970年とはまったく異なる空間となっています。
 エキスポランドも、ジェットコースターの事故以来、閉園となっています。
 この寂しさの漂う一帯は、あの喧騒に包まれた博覧会の時とは、隔世の感があります。

 千里ニュータウンを控えたこの丘陵地帯は、父が土木作業員として土を運んだ所です。私が小学生時代に、父はこの千里で舗装道路を造っていたのです。出雲にいた私が母に連れられて夏休みなどに大阪へ来た時、父は雨漏りがする飯場に日雇いで働いていました。薄暗い部屋で、1人で囲碁や詰め将棋をしていました。優しく、大阪を連れ回ってくれました。
 そんな父が作った地域だと思うと、なおさら千里には愛着が湧きます。

 この万博の跡地は、何とか次の世代に伝えてもらいたいものです。
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2008年05月17日

夕陽ヶ丘駅の家隆の塚

 大阪の地下鉄谷町線・四天王寺前夕陽ヶ丘駅の近くに藤原家隆の塚があります。


Zokpyhkq_s塚を遠望



Gsa7u0dz_s塚の入り口



 家隆は鎌倉時代の歌人で、『百人一首』では次の歌が選ばれています。

  風そよぐならの小川の夕暮れは
    みそぎぞ夏のしるしなりける

 上賀茂神社の「ならの小川」を歌ったものです。本ブログでも、何度か紹介した歌です。

 家隆は藤原俊成に歌を学んだ、定家と同時代の歌人です。
 上町台地の南端にあるこのあたりに「夕陽庵」をむすび、浪速の江に沈む夕陽を見て、落日を拝むと西方浄土を見ることができるという「日想観」を感得したのだそうです。そうしたことがわかる歌が、次のものです。

  契りあれば難波の里にやどりきて
    浪の入日を拝みつるかな


 今は、まわりに家やビルが立て込んでいますが、ここは大阪湾に夕陽が落ちるのがよくわかる場所です。この一帯を「夕陽ケ丘」と言うのは、その美しさから命名されたものだそうです。

 私が通っていた高校は「夕陽ケ丘高校」と言います。この家隆塚のすぐ近くなので、家隆に関係するものがあることは知っていましたが、一度も行ったことがありませんでした。
 「夕陽ケ丘」については、以前、以下のブログで少し触れましたので、参考までに記しておきます。

【復元】井上靖卒読(8)『紅荘の悪魔たち』
http://blog.kansai.com/genjiito/112


It17r_r6_s説明板



 今日初めて家隆の塚に来て、なかなかいい環境の中にあることを知りました。
 こんもりとした木立の中にあるので、まわりの喧騒から切り離された空間となっています。
 自分だけの一時を持ちたい方は、一度足を運んでみてはどうでしょうか。


By36s4dt_s家隆塚



 塚の前には、漢文で家隆を讃える文章が刻まれています。
 漢字を読むのが苦手な私は、文字を追うことを早々と断念しました。


8erq0rah_s墓碑銘



 私は高校時代にテニス部に入っていて、クラブ活動で基礎練習として、この周りの愛染坂や清水坂を上り下りしたり、境内で腹筋や腕立て伏せなどをさせられました。あまりいい思い出のある一角ではなかったのですが、この家隆の塚の周辺を40年ぶりに訪れ、思いの外、心安らぐ思いをしました。
 次は、夕陽が沈む時にフラリと来ることにしましょう。



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