2009年06月25日

わが母の記(4)40年間未開封だった亡母からの手紙(上)

 大阪の高校を卒業したばかりの昭和45年3月に、18歳だった私は1人で東京に出ました。
 そして、新聞販売店で住み込んで配達や集金や販促の仕事をしながら、予備校へ通って勉強をすることにしました。
 上京してすぐの3月10日に、母から新しい生活の様子を尋ねる一通の手紙が来ました。今も、手元に大事に保管しています。
 その一週間後に、第2信が来ていたのです。しかし、あろうことか、そのことに、ずっと気づかないままだったのです。
 突然、手紙類の束の中から、昭和45年3月18日に大阪・八尾の消印が黒々と押された、封をきらないままの封筒が顔を見せたのです。何度も、表裏を確認しました。確かに、裏には母の名前があります。宛先の文字も、母の手です。

 母からは、東京で一人暮らしをしだした頼りない息子を案じた手紙が、毎月のように来ました。それらは、今もすべて保管しています。
 ありがたいことですが、当時は自分の生活でひたすら前を見て生きるのが精一杯だったこともあり、母の気持ちを汲んだ対応をしていませんでした。
 母からの手紙に返事を書いた覚えはありません。
 今にして思えば、本当に申し訳ないことをした、という思いでいっぱいです。

 今、自分の息子が、母(私の妻)からの手紙に返事を書いていないようだし、メールにもあまり返信をしていないようです。
 その気持ちは、自分がそうだったから、よくわかります。
 とにかく、母親に手紙など、照れくさくて書けないのです。書いている自分のことを想像するだけで、もうペンを持とうとも思わなくなります。母に語るために便せんに向かうなど、考えられないことです。変なことですが、そうでした。
 息子も、おそらく同じ気持ちだと思います。

 上京した当時、母からもらった手紙は、内心は楽しみにして読み、元気づけられていました。
 坪井栄の『あしたの風』を読んでいたら、涙が止まらなくなったことを、今でも思い出します。
 それなのに、第2信だけは、どうしたことか、40年も未開封のままで荷物の中に眠っていたのです。
 大学4年間で10回も引っ越しをしました。火事で新聞販売店を焼け出されてからは、まさに転々とアパートを移り変わりました。
 そのたびに、荷物を片付けていたのですが、この一通の手紙は、ずっと隠れん坊をしていたことになります。
 そして、今、40年も前の母が、私のことを気遣った言葉を語りかけてくれています。
 不思議な気持ちです。
 母は、4年前の10月に亡くなったのです。未開封だった手紙だけが、40年の時空を超えて手元にあるのです。

 折しも、娘がおばあちゃん(私の母)のことを英語で紹介するブログを書き始め、それが好評だそうです。
 私にも、おばあちゃんの資料を見せて、とか話してとか言ってきます。
 こんな手紙があったことを、娘に知らせるつもりで、3回に分けて書くことにします。
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2009年06月15日

ベータのビデオで『古都』を見た時のCM

 奇跡的に生き返ったソニーのビデオデッキで、山口百恵主演の『古都』を見ました。
 1980年の師走に公開された『古都』は、山口百恵の引退を記念しての映画でした。
 1984年に、テレビのゴールデン洋画劇場で放映されたものを、録画していたのです。
 その時の映画のパンフレットが、ベータのビデオテープと一緒に出てきました。写真をふんだんに使った、質の高い冊子となっています。
 
 
 
090614koto映画のパンフレット
 
 
 
 ベータのテープはうっすらとカビが乗っていました。しかし、27年間も動き続ける愛機のデッキは、それをものともせずに、きれいな画像をプロジェクターを通して、自宅のスクリーンに映し出してくれました。

 映画は、川端康成の原作以上によく出来ていました。
 山口百恵を再評価しました。

 この作品と舞台については、以下のブログで言及しています。


読書雑記(5)川端康成『古都』

京洛逍遥(19)北山杉の里



 それよりも感動したのは、間に挟まれていたCMです。

 NECのPC-6601SRの宣伝では、キーボードがワイヤレスになっていました。
 いまでこそ、私のパソコンはすべてワイヤレスのキーボードですが、こんなに前からあったのですね。
 これは、MrPCとか六本木パソコンというニックネームが付いていたはずです。
 1984年の冬の放映分の映画のCMのことなので、今から25年も前のことなのです。

 この年の1月に、アップルが元祖マッキントッシュを発売しています。
 私は、まだマイクロソフトのMS-DOS Ver2.11にしがみついていた頃です。

 この年の5月に出た富士通のFM−77は、当時勤務していた高校に30台を導入することに成功し、ワープロを活用した国語科の授業を展開しました。
 いろいろなメディアの取材を受けたことを覚えています。
 ちょうどそのすぐ後に、ソニーがSMC-777の新機種を発売し、松田聖子をイメージキャラクターにして奮闘していました。ただし、ポスターだけが引っ張りだこでした。OSはCP/Mで、これは私もいろいろと勉強した、懐かしいシステムです。

 この頃、日本IBMはPC/JXを発売し、そのイメージキャラクターは、なんと森進一でした。そのギャップが印象的でした。
 パソコンの新製品が各社乱立し、宣伝合戦に突入した時代でした。

 当時の私は、その前年に発売されたNECのPC-9801/F2をフル活用していたころです。
 私が最初に購入したフロッピーディスクは、1枚2000円もしました。この時代には、マウスは一個なんと29,800円でした。今では想像もできない時代です。
 また、あの頃は、NECのPC-8201というハンディタイプのパソコンも使いこなし、友達の会社の会計処理システムなどのプログラムを開発していました。
 これは、カセットテープにプログラムを収録するものです。ピーヒョロヒョロという音で操作をしていました。

 『古都』の合間のCMでは、NECの日本語専用ワープロ文豪NWP-5Nの宣伝も入っていました。その値段が39万数千円ということで、電子文具が民生品として普及する前夜の様子がわかるものでした。
 私は、その頃に文豪ミニというものを数台購入しました。そして、何人かの方々に文豪ミニをお貸ししたり差し上げて、『源氏物語』の本文を入力してもらったことを思い出しました。
 職場でパソコンなどは購入してもらえない時代でした。お小遣いが飛ぶようになくなっていた時代の話です。

 昔の映画を懐かしく見るはずが、それに加えて間にあったCMが、自分の記憶を呼び覚ましたことに驚きを感じています。

 映画は、純粋にDVDなどで見るのもいいと思います。しかし、こうした余録のあるテレビの録画というメディアも、なかなか楽しめるものだということに気づきました。
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2009年06月01日

ソニーのビデオが27年後も動く

 私は、パソコンはアップルのマッキントッシュを使っていますが、ソニーのパソコンであるバイオだけは、ウインドウズマシンとして認めています。
 バイオの第1号機ともいえる505の初期ロットの製品を、今でも大事に持っています。
 さすがにもう動きませんが、スタイリッシュな形と魅力的な色に心酔しました。
 今見ても、ほれぼれするノートパソコンです。(後掲リンク先参照)


 さて、ビデオデッキは、ビクターなどのVHSタイプではなくて、ソニーのベータタイプを愛用していました。
 昭和57年(1982)に「SL−F11」というビデオデッキを購入しました。




090531sonyb1SL−F11前面




 当時、定価は30万円近い製品でした。重さも10キログラムと、ズッシリとしています。
 HiFiビデオがまだの、ノーマル音声の時代です。音声多重、ステレオ録音という最高機種でした。
 厚さ8cmというデッキの筐体も衝撃的でした。

 そのビデオデッキを、今回動かしてみたところ、なんとまだ動くのです。
 多くのテープにカビが生えていたので、早送りや巻き戻しをして、吹き飛ばしました。
 荒っぽすぎるので、今度なんとかして掃除をしたいと思います。




090531sonyb2背面とベータテープ




 本体の背面の左側に、ビデオカメラと直結するための14ピンK型コネクターがあります。
 この端子に、ベータのカセットテープを入れる方式のビデオカメラを接続して、生まれたばかりの子供を撮りまくりました。3人目からは8ミリビデオテープを使っていますが、この肩に担いでの撮影は、なかなか楽しいものでした。

 平成14年8月に、ソニーはベータの生産を終了しました。そして、VHSの商品を開発したのです。劣勢に見切りをつけたのですが、性能は格段にベータの方が上でした。放送局は、長くこのベータを使っていました。今も、たくさんのベータのテープを保管しているはずです。

 ベータが打ちきりとなった7年前に、ベータのテープに録画した子どもたちの映像を、とりあえずはVHSのテープにコピーしました。直接パソコンのハードディスクに収録しなかったのは、その量が膨大だったので、コンピュータの性能がさらに向上してから一気にしようと思ったからです。

 その後、このデッキは放置していたのですが、今回荷物の整理をしていて出てきたので、試しに動かしてみました。
 ビデオテープを奥まで巻き込む、Uローディングという独特のシステムです。きれいな画像を追求する、ソニーならではのこだわりです。
 そして、まだ鮮やかに映像を再生してくれるのです。

 テープにカビが生えているものが多くなったので、そろそろデジタル画像に変換する潮時かも知れません。パソコンの性能も飛躍的に向上しました。特にマッキントッシュを使っていると、画像処理は簡単です。
 後は、その作業をする時間を確保することだけです。

 それにしても、このビデオデッキは、子供がクレヨンやハサミを入れて、グルグルと回したものです。
 故障すると、いつもソニーのおじさんが修理に来てくれました。(後掲リンク先参照)
 カセットを入れる所にぶら下がって、子どもたちは遊んだりしていたこともあります。

 そんな過酷な環境を生き抜き、いまだに鮮やかに映像を再生するのですから、まさに名機です。

 中は、こんな状態です。




090531sonyb3内部構造




 いつか、テープが出てこなくなったことがありました。
 この重たい本体を、大阪日本橋のソニーショップへ持って行ったところ、小さなギヤとゴムの交換となりました。
 私は手先が器用だったこともあり、部品を受け取り、ドライバーを貸してもらい、お店のカウンターで自分でこのデッキを分解して修理をしました。部品代の100円だけで、立派に再生したのです。
 このデッキには、愛着が詰まっています。
 今では、こんなことはさせてもらえないでしょうが、こんなことが出来る時代があったのです。

 なお、 もう10年も前の記事ですが、 「ソニー「VAIO 505」〈1997.12.19〉」 と題して書いたことがあります。
 すみません。リンクを飛ばしていないので、表示されたページの最後の項目です。
 ご笑覧いただければ幸いです。
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2009年05月19日

小林茂美先生のご逝去を悼んで

 学生時代からずっとお世話になっていた小林茂美先生がお亡くなりになりました。
 先週の、5月12日でした。昭和元年生まれなので、御年84歳でした。

 過日3月29日には、「王朝の会」でお目にかかり、楽しくお話をしたばかりでした。
 その時のブログには、ご一緒に写した写真を掲載しました。

銀座探訪(16)桜の咲き初め

 桜の話と一緒なので、思い出深い記事となりました。

 小林先生には、國學院大學の大学1年生の時から、ずっと教えを受けてきました。
 大学の帰りには、妻も一緒に、よく飲みに行きました。山形生まれの先生と、秋田生まれの妻は、共にお酒が強かったこともあり、いろいろな所に行きました。高田馬場や中央線沿線が多かったように思います。
 私は、いつも、怒られてばかりでした。

 小林先生に提出した卒業論文は、『源氏物語と唱導文芸の交渉』というものでした。
 妻は、『小野小町論』でした。

 ご一緒に、調査旅行にもよく行きました。
 結婚式には、お仲人をお願いしました。

 私の最初の著作物である『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(桜楓社、昭和61年)では、帯に推薦文をいただきました。伊井春樹先生の推薦文も、その隣に並んでいます。
 最初の研究書である『源氏物語受容論序説』(桜楓社、平成2年)では、巻頭に口上をいただき、それが高崎正秀賞を受賞したときには、本当に喜んでくださいました。ご一緒に高崎正秀先生のご自宅に連れて行かれ、高崎先生の祭壇に受賞の報告をしました。
 『源氏物語別本集成』(桜楓社・おうふう、平成元年)では、共編者に名前を連ねてもらいました。刊行の直前には、伊井春樹先生と共に奈良・平群の我が家へ来てもらい、最終の打ち合わせをしました。
 あれから、無事に正編の15巻が完結し、今は続編の第6巻が出るところです。
 第1巻が出来るときには、百万円という当時としては高額の活動資金をいただき、版下作成用のレーザープリンターやパソコンなどを購入しました。その時の機器を活用して、初期の『源氏物語別本集成』の版下が作成されています。

 西国札所をご案内する計画も進めていたのですが、脚の調子が悪くなったとのことで中止となり、それきりとなったことが残念です。

 学生時代には、王朝文学研究会で『源氏物語』の勉強をしました。
 その会誌である『しのぶ草』の創刊号は、妻と共に寝ずに作ったものです。
 研究会では、『源氏物語』の輪読にあたり、『源氏物語大成』を使って異本・異文と、古注釈の確認を丁寧にしていました。そのことが、その後、私が『源氏物語』の本文研究へと導かれた基礎となりました。
 小林先生のもとで、『源氏物語』の本文について鍛えられました。今の仕事の原点です。

 私が二十歳の成人式の時、住み込みの新聞配達店が火事となり、持ち物すべてを失いました。その時、先生は研究会のメンバーに同じ釜の飯を食っている男を助けなさい、とのことばで、たくさんの日用品がもらえました。先生からは、ご本もいただきました。

 いつか、高田馬場の美男子製造所という理髪店へ、妻と共にご一緒しました。先生が助手時代に、よく通われた所でした。
 そして、当時お住まいだったアパートにも連れて行ってくださいました。奥様との新婚生活時代でもあります。
 そのアパートは見つかったのですが、大家さんはすでに亡くなっておられました。ご仏前で号泣なさっていた先生のお姿が、今も忘れられません。お辛い時代だったからこその、感動的なお姿を拝見しました。

 毎日のように教えを受けた30数年前の7年間が、今、どっと押し寄せて来ます。
 先ほど、妻が我が家の仏壇に、お線香を上げていました。

 大手町の産経学園で『源氏物語』の講義をなさっていたころ、毎回妻と一緒に聴講に行き、そのすべてをテープレコーダーに録音しました。
 今も、そのテープの山が、我が家の倉庫にあります。

 先生のご自宅に、奈良から娘を連れて行ったとき、大変喜んでくださり、奥様からは大きな縫いぐるみをいただきました。

 小野小町の資料を私がたくさん収集していたので、それを元にして本を刊行する話になっていました。それが、未だに果たせないままです。お預けしたまの京大カード版の小野小町の資料は、何とか形にして、ご霊前にお供えしたいと思います。

 思い出すと、後から後から出てきて、きりがありません。

 いつもおっしゃっていた先生のご期待に、果たして私はお応えできているでしょうか。
 さらなる精進をして行きますので、これまでと変わらずに見守っていてください。

 小林先生、ありがとうございました。
 ご冥福をお祈りいたします。
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2009年01月08日

わが母の記(3)扁桃腺を切る

 私は、小さい時から身体が弱く、栄養失調の一歩手前だったようです。
 体力がなかったので、小学校の2年生までは、体育は見学でした。虚弱児童だったのです。
 運動会でも、あまり走らないように、ということで、徒競走には出してもらえませんでした。
 しかし、運動神経はよかったので、3年生以降は対抗リレーなどの選手に選ばれました。
 野球はピッチャーで4番というポジションをもらったりしました。
 水泳は、学校のそばの神戸川というところで泳ぐのですが、この時も、私はいつも見学でした。
 そのせいもあってか、泳いでもいいということになってからも、水に入るのが苦手でした。
 40歳になってから、恩師の助言を得てスポーツクラブで水泳をするようになったのですが、こうしたことは、今の私を知る人は信用しないことでしょう。

 病気も、よくしました。しょっちゅう風邪を引いていました。
 学校を休むと、給食のコッペパンを友達が届けてくれました。
 身体が丈夫になるようにと、家では私のためにヤギの乳を配達してもらっていました。
 少し鼻につく独特の匂いが、今でも忘れられません。

 風邪を引きやすいのは、ノドの奥にあるアデノイドが大きいためだ、ということからだったのか、小学校に入ってすぐの頃に、切除手術をしました。
 出雲市今市というところにあった、今で言う耳鼻咽喉科で、ノドの奥にある肉の塊を、細長いギロチンのようなものの先端にある穴の中に嵌め込み、チョキンと切られた時のことを、鮮明に覚えています。一瞬のできごとでした。
 その時、母親がずっとそばにいてくれたので、縋り付くようにして怖さに耐えていました。
 確か、目の前に、コロンと肉の塊が転がり出たように思います。
 母はいつもニコニコしていたので、一緒にいると不安な思いになりませんでした。
 切られた時も、母はたこ焼きを半分に切ったような肉片を見て、笑っていました。
 口から、たくさんの血が出たように思いますが、母の笑顔に紛れて、他人事のようにその血を見ていた自分が、今も不思議です。

 親の笑顔は、子供にとっては宝物だと、今でも思っています。
 もっとも、自分がそうだったかと思い返すと、子供たちの前ではあまりニコニコはしていなかったように思います。
 その分、妻はいつもニコニコしているので、何とかうまくバランスがとれているのかも知れません。

 笑顔はいいですね。
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2008年12月10日

背景が欠落する青春の記憶

 母校の大学で会議があり、休憩時に1人で外を散歩しました。

 校舎のすぐ前にある、よく行った神社へ足を向けました。この境内に来るのは三十数年ぶりです。
 学生時代の当時は、お昼ご飯を妻が毎日のように作ってくれていたので、この境内でよく2人でその弁当を食べたものです。
 石段に腰掛けて食べた記憶があります。

 帰ってから妻に見せて懐かしがらせようと思って、写真に撮ろうとしました。しかし、あたりを見渡しても、記憶にない光景なのです。
 デジカメの液晶画面に映る画像は、まったく記憶とは無関係のものとしか思われないのです。
 2人で座ったはずの場所らしきところも、どうしても見当たりません。
 神域が作りかえられたとも思えません。雰囲気は、こんな感じだったはずなのですから。

 とにかく、2人で何度も歩いたはずの参道に向かって、シャッターを切りました。

081210hikawa2氷川神社の参道


 側道も写しました。


081210hikawa1黄葉の氷川神社



 このアングルにも、思い当たるものがありません。

 二十歳そこそこの頃のことです。
 若い頃なので、鮮明に覚えているはずです。
 作ってくれたお弁当のおかずや、フレンチフライのサンドイッチの色や形は目に浮かぶのです。
 それなのに、その背景になるこの神社を取り巻く映像が欠落しているのです。

 これは、いったい何なのでしょうか。
 どうしたことなのでしょうか。

 校舎は、もう妻と一緒に通った頃のものはありません。すべて、建て替えられているからです。
 学生時代を思い出させるものは、ほんの少ししかありません。
 それでも、かつてあった校舎などは記憶の中にあり、それは鮮やかに、今でも思い出せます。
 研究室、教室、図書館、学生食堂、立ち食いソバ、事務室、床屋などなど。
 それなのに、あの神社の景色が消えているのです。

 妻に申し訳ない気持ちを感じながら、母校の新しい校舎に戻りました。
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2008年05月26日

わが母の記(2)階段から落ちる

 私が3歳くらいのことでした。
 本家の離れの屋根裏部屋にいたのですが、我が家の生活空間はそこの2階だったので、階段というよりはハシゴで上り降りをしていました。

 あるとき、急にトイレに行きたくなりました。
 母がいないので、上からハシゴの下に向かって呼ぶと、母が下から顔をのぞかせて、ここだよ、と応えてくれました。洗濯か水仕事をしていたのでしょう。
 私は、大急ぎでズボンとパンツを下ろして、降りようとした時です。自分が下ろしたズボンとパンツに、足が入ったままであることに気づかないまま、足を踏み出していたのです。
 アッと言う間もなく、まっさかさまに落ちました。慌てふためいた母のさまを覚えています。着物に白い割烹着をしていたように思います。

 結局、前歯を1本折るだけですみました。母とバスに乗って、出雲市駅の近くにある歯医者に行きました。
 その数年後に、真ん中からいびつな歯が生えてきました。さらに数年後、小学生の低学年の時にその歯を抜き、できた空間を矯正によって中央に寄せる装置を嵌めていました。

 苦労して真ん中に寄せた歯も,いつしか虫歯となり,今では前歯の3本は差し歯になっています。

 以来,高所恐怖症です。特に,隙間のある階段は苦手です。
 あろうことか、立川の新しい職場の階段は,板切れを並べた状態の、下が丸見えのものなのです。また、ガラス張りの空間に階段があるので、否が応でも下が見えるのです。


Gdmero3v_s館内の階段



 私は3階にいるのですが、できるだけ中央の少し薄暗い非常階段を我慢して使うか,エレベータを利用しています。
 階段の踏み板の隙間から下が見えると,自ずと足が竦むのです。
 下に人の姿が見えると,母が下から顔を出した時の記憶が蘇るのか,足が退けることがあります。

 そのせいもあって、ガラス張りのエレベータもダメです。
 新館のエレベータが、そこまで斬新な設計ではなかったことに、救われる想いがしています。




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2008年05月20日

わが父の記(2)川で流された時

 私が3歳の時でした。
 本家の裏にあった、2階の屋根裏部屋で生活をしていた時のことです。
 我が家は、おじいちゃんが保証人になったために家を潰し、それ以来放浪の生活を強いられていました。
 父は職業軍人でしたが、満州で終戦を迎え、シベリアへ抑留されました。
 昭和23年6月に復員、引き上げて来て、それから12年ほどはさまざまな仕事をしていました。
 私が記憶する当時,父はポン菓子を作って村の周辺を回っていました。
 ポン菓子作りの道具は、今では見かけなくなりました。しかし数年前に、たまたま中国の長春で見かけたので、その時の写真を掲載します。


Zeyepavk_s中国で



 これは、私の父が使っていたものとまったく同じものです。運搬車と呼んでいた自転車につないだリヤカーも、バーナーの部分も,そしてバーンと言わせて弾けさせた後に米が飛び散っている様子も、そっくりそのままタイムスリップした光景です。

 父は、相当山の中へも、ポン菓子を作るために出かけていました。お米のはじけたものの残りは、母が夜中に水飴で固めて「おこし」にしていました。父は、またそれを持ち歩いて、道々売っていました。
 私は、父のポン菓子作りに付いて行きました。というよりも、子守りがてら、父は私を連れて行っていたのでしょう。私はわけもわからずに、お米を爆発させる道具のハンドルを回していました。勢いよく燃えるバーナーの炎で、顔や手が熱くなったことを覚えています。ハンドルの真ん中に付いている圧力計が振り切れる頃に、父はレバーを叩いて爆発させます。耳をつんざく、大きな音がしました。
 日が暮れて仕事が終わると、運搬車の荷台に乗せられて帰路につきます。そして必ず、父は次の歌を唄っていました。



庭のサンシューぅのぉ木ーぃに
  鳴ぁるぅ鈴 つけてぇー……




 今でも、そのメロディーを口ずさめます。

 その頃のことだと思います。
 かすかな記憶ではありますが、私は家の側の小川で魚を追いかけていた時に,何かの拍子に川に落ちたのです。
 3歳頃のことですが、今から思えば小さな川に流され,水の中で助けを求めて叫んでいた覚えがあります。水中からみた水面を覚えています。
 怪しい記憶ですが,イメージが浮かぶのです。潜在意識に刻み込まれているのでしょうか。その時、父が必死になつて私を川から救い上げてくれました。なぜか鮮明に、その時の様子も覚えています。

 次の写真は、ちょうどその頃のものです。
 運搬車と呼んでいた自転車は、父の仕事の道具でもありました。
 自転車の左下の小川が、私が流された川です。

Fhgb5wdm_s父と


 父には,いろいろな局面で助けてもらいました。
 何も恩返しをしないうちに、父は他界しました。
 せめてもの息子からの感謝の気持ちは、父の川柳句集を『ひとつぶのむぎ』として1冊の本にまとめあげたことでしょうか。
 この本については、「わが父の記(1)感謝の念を伝える」(http://blog.kansai.com/genjiito/223)で詳しく書いた通りです。
 父も,この本については,本当に喜んでいました。

 覚えていないはずの、川に流された記憶を,時々思い出すのです。これは何なのでしょうか。鮮明な記憶となっているだけに、体が覚えた記憶として深く定着しているのでしょう。



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2008年04月04日

わが母の記(1)風呂敷が結べない

 父親に対しては、割と客観的に語れます。ある程度距離を置いて接して来たからでしょうか。
 それに対して母親は、郷愁と感傷が入り混ざった回想になってしまうのは、どうしてでしょうか。自分の成長と密接に関わった存在だからでしょうか。

 母に関してまず思い出すのは、小学校の入学前の面談の時のことです。
 島根県出雲市立古志小学校の教室であったことです。
 母につれられて、初めて行った小学校で、入学前の話と面談が先生とあったのです。確か、先生は二人おられたように思います。
 どのような流れからか、突然、机の上に風呂敷が出されました。そして、何か四角い物を包むことになったのです。何を意図したものか、幼い私は知る由もありません。
 包むのはよかったのですが、その風呂敷の端を結ぶのに、蝶々結びがどうしても出来ないのです。仕方がないので、固結びをして終えました。帰り道、悔しい思いをしていたことを覚えています。

 ところが、教室でも、そして帰りにも、母は何も言わずに、終始ニコニコしていました。
 風呂敷が結べないことくらい、そんなことはどうでもいいよ、という母の思いが何となく伝わって来たので、安心したように思います。
 そんなことを覚えているくらいですから、私は今でも実は気にしています。そして、今でも、蝶々結びは苦手です。紐の端のどっちをどう回すのか、いまだに迷います。そして、決まって縦結びになるのです。

 昔から、手先は器用でした。しかし、紐を結ぶのは苦手なのです。
 小さいときから、そのことを母は知りながら、ついに教えてくれることもなく他界しました。母にとって、息子が紐を結べないことぐらいは、どうでもよかったのでしょう。
 勉強しろとも、何をどうしたらいいかとも、まったく私に言いもせず、教えてもくれませんでした。高校を卒業するときに、東京へ行くと言っても、賛成も反対もせず、好きなようにしたらいいと言ってくれました。何をしても、ニコニコと見てくれていました。

 母は、何も考えていなかったのではないか、と今では思っています。今から思うと、これが私にとってはよかったと思います。
 その反面、父が非常に口うるさかったので、うまく釣り合った子育てだったのかも知れません。

 子どもたちは、今でもおばあちゃんを慕っています。何をしても怒られなかったし、いつもニコニコしていたからでしょう。
 黙って見ている、というのも、大きな意味をもっているように思えて来ました。


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2008年03月26日

わが父の記(1)感謝の念を伝える

 井上靖に『わが母の記』という作品があります。
 そのまねをして、折々に〈わが父の記〉を綴ってみたいと思います。

 息子にとって父親とは、元気な時には、あまりいい関係は保てないように思います。
 それは、私がそうだったというだけかもしれませんが……。一般的にはどうなんでしょうか。
 私の父が言うことは、いつも教訓じみていたので、自然と距離を置くようになっていました。
 とにかく、うるさいと思ったことが多いのです。ほっておいてほしかったのです。

 息子のことを気にかけて、心配してくれていたことは、痛いほどわかりました。感謝しながらも、しかし、態度としては冷ややかに接していたように思います。

 父が亡くなって25年が過ぎようとしています。今にして思うと、申し訳なかったと後悔しています。何とかして、「ありがとう」という気持ちを直接ことばで伝えればよかったのですが、それも叶わないままに見送ってしまいました。

 息子としてせめてもの感謝の念は、癌で余命いくばくもない時に、父が作り貯めていた川柳を『ひとつぶのむぎ』という1冊の句集にまとめて出版できたことに込めたと思っています。

V5ngrq6t_s句集作成中




7auqztag_s完成した句集




 燃え尽きる最後の最後まで、父は自分の生涯で唯一の本にサインをして、関係者に発送していました。こうしたことが最後にできるようにしたことが、せめてもの父への感謝だったと思うことにしています。

 そんな父との関わりを通して得たことを、今は息子に接するときに気を配っています。

 父との思い出は、思いの外たくさんあります。
 折りを見て少しずつ思い出しながら、父へ語りかけていくつもりです。



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