2025年12月31日

大晦日に一年の感謝を

 今日は2025年の最終日となる大晦日。
 今年も一年を何とか生き通せました。
 体調が思わしくない日が何度もある中を、
 大過なくとにかくやり過ごせたのも、
 多くの方の手助けがあってのことです。
 ありがとうございました。

 ブログを今年も356日書き続けました。
 今年のアクセス数で最も多かった日は、
 12月3日の24,223アクセスです。
 2日前の歯医者の記事が原因のようです。

 2007年12月30日から毎日書き出し、

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 昨日の30日から19年目に入っています。
 本日の記事が6,868本目。
 私がこの世に生存していた証明を、
 日々の歩みを等身大の雑録として、
 このブログで毎日公開し続けています。
 まさに私個人のタイムカプセルです。

 来年で毎日記事を書くことは20年目。
 7,000本の記事で一区切りとしましょう。
 これまでに1,000本近い記事が消えています。
 サーバーのクラッシュや閉鎖されたためです。
 それらを探して再現したいと思っています。

 来年は父にとって縁の深い午年です。
 1983年に亡くなったので生きていたら111歳。
 父の『句集 ひとつぶのむぎ』の巻末にある、
 「柳号『馬蹄』のこと」を引きます。

 「私が柳号を馬蹄と称し半ば本名化しているのは、けだし馬に対する愛着心のお蔭と心得ている為である。
 私は軍隊生活十余年の内、そのほとんどが馬と共にの戦であった。蹄鉄工務から始まり、任官後は師団通信隊、師団衛生隊、歩兵聯隊附、終戦時は師団獣医部附と、愛馬行進曲が涙なしに歌えない程縁が深い動物であった。世の変遷と共に滅多に馬のひづめにもお目にかかれなくなったのを、心から悲しく思う。私の柳号を馬蹄とするゆえんである。」(288頁)

 本ブログを毎日楽しみにしてくださっている、
 英国のN先生をはじめとして国内外の方々など、
 多くのご支援を力にして日々を送っています。
 来年もおりおりにご愛読のほどを、
 よろしくお願いいたします。
 そして、よいお歳をお迎えください。




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2025年12月29日

2025年の10大出来事・2_日々の活動記録

●相愛大学所蔵の春曙本『源氏物語』(断簡)5巻の原本調査を開始

●シェア型書店HONBAKO京都宇治に本箱を持ち相愛本「橋姫」を読む

●『変体仮名でよむ 百人一首』(伊藤・吉村編、新典社)を刊行する

●NPO法人主催の第6回平安文学散策は宇治の『源氏物語』史蹟巡り

●初夏に通信業者を変更するもあまりの遅さで年末には別の業者に変更

●5年半ぶりにパソコン草創期の旧知の仲間3人と京都駅で楽しく会食

●平安文学リレー講座の第7回は大津氏の「谷崎潤一郎と『源氏物語』」

●『源氏物語』では44番目の翻訳本となるインドネシア語訳を入手する

●私の歯科医療に関する質問文は脅迫文だとして以降の診察を拒絶される

●平安文学リレー講座の第8回は薮下氏の「歌舞伎と『源氏物語』」




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2025年の10大出来事・1_金婚記念の記録

■Mac mini M4Pro48GB2TBをメインマシンにする

■携帯端末を iPhone16 ProMax 256GB に買い替え

■結婚50年の金婚記念の旅行として白浜温泉へ行く

■西国三十三所札所巡りは青岸渡寺で7巡目に入る

■金婚記念の旅行の第2弾は妻の実家がある秋田へ

■義兄と4月に温泉へ行き半年後には葬儀で秋田再訪

■金婚記念旅行で「砂の器」を追って島根の亀嵩へ

■近くの家族葬のホールへ行き我々のお葬式の相談

■金婚記念にと永平寺から芦原温泉へと慰霊の旅へ

■お茶のお稽古を大和西大寺駅前で妻と共に始める




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2025年11月25日

永平寺から芦原温泉へ慰霊の旅

 京都駅から特急サンダーバード号で敦賀駅へ。乗り換えて、新幹線で福井駅まで1駅。意外と近くて拍子抜けです。
 福井駅からは、永平寺ライナーというバスで30分ほど。ただし満席だったため、姉・妻・私は補助イスの最後の3席にラッキーにもかろうじて座れました。

 永平寺には何度も来ています。

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 境内では、苔と紅葉が森閑とした雰囲気を感じさせてくれました。
 寺内の廊下から見た紅葉は、絵になっています。

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 その廊下は、修業の厳しさを感じさせます。

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 今回は、今月初旬に亡くなった秋田の義兄と、その息子の13回忌が今週末にあるので、その供養に来たのです。我が家と妻の実家と義兄の実家は、共に曹洞宗で大本山は永平寺です。非常に珍しい偶然が重なっているのです。

 なお、1983年5月に68歳で亡くなった父と、2004年10月に84歳で亡くなった母は、共にこの永平寺に分骨しています。祠堂殿で、位牌を確認するために、当時住んでいた奈良県のエリアに行きました。ここには新しい位牌だけが並べられており、古いものは別のところに移されているようでした。

 宇治にある禅寺の興聖寺も道元ゆかりの寺なので、永平寺とよく似た伽藍配置です。しかし、やはりこの永平寺はスケールが違います。総本山にふさわしい風格もあります。

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 永平寺を下山する頃には、雨がきつくなっていました。
 お昼ご飯はバス停の横にある食堂で、地元の名物だというソースカツ丼のミニをいただきました。ゴマ豆腐も追加。
 永平寺のバス停から新幹線の芦原温泉駅までは1時間です。芦原温泉駅には、宿の送迎バスが来ていました。この頃にはすっかり雨も上がり、先ほどまでの大雨が何だったのか不思議な気持ちにさせられました。

 こうして慰霊の旅は、無事に目的を果たすことができました。
 明日は、何も予定を組んでいません。目覚めてから考えます。




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2025年09月29日

明日の出雲行きの準備中

 明日は早朝より、姪が運転する車で、姉と妻と私の4人で出雲の旅に出ます。
 スタートは芦屋駅。姪はすでに姉の家に来ていて、明朝合流します。

 今春、秋田へ行きました。「東京の青山から東北新幹線で一路秋田の由利本荘へ」(2025年03月30日、http://genjiito.sblo.jp/article/191301523.html)の最後に、次のように書きました。

秋田の妻の実家がある羽後地方は、私の生地の出雲地方と同じ文化圏にあります。松本清張の『砂の器』では、東京蒲田での殺人事件から捜査の手は秋田の「羽後亀田」に延びます。しかしその後、同じズーズー弁を喋る出雲の「亀嵩(かめだけ)」に話が移っていきます。

 妻の実家がある隣の駅が、『砂の器』で犯人の出身地をミスリードする役目を持たされた「羽後亀田」なのです。
 この秋田行きが、我々の金婚旅行の第一弾でした。

 そして今回の出雲行きは、「亀田」つながりの「亀嵩」を訪問する、いわば第二弾。

 第三弾は、我々の家が同じ曹洞宗の家系で本山が同じ永平寺なので、11月頃に両親を分骨している永平寺へ行くつもりです。

 まず明日は、『砂の器』のロケ地である亀嵩駅を中心に巡ります。ここは初めて行くところです。
 その後は、生まれ故郷の出雲市と、小泉八雲との縁が深い在りし日の「いなばや旅館」を偲びながら、出雲大社へ行く予定です。

 なお、前回出雲へ行ったのは、16年も前になります。
 その時のことは、「50年前の自分に会う」(2009年12月19日、http://genjiito.sblo.jp/article/178934283.html)に、詳しく書いています。

 さて、今回はどのような旅になりますか。




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2025年09月17日

我が仕事環境の写真(その3_京都の自宅)

 これまでに私が仕事をして来た環境や資料を整理している中で、勉強や研究をしていた部屋の様子がわかるものとして、以下の2件をアップしてきました。

(1)「我が仕事環境の写真(その1_宿舎とインド)」
   (2025年09月09日、http://genjiito.sblo.jp/article/191482592.html

(2)「我が仕事環境の写真(その2_研究室)」
   (2025年09月14日、http://genjiito.sblo.jp/article/191487293.html

 3回目は、京都の自宅における机周りの様子です。
 ただし、河内八尾・大和平群・京都北大路の頃の写真は、デジタルではなくてフイルムベースだったことと、思うように写真が見つからないことから未整理です。京都の右岸から左岸に引っ越しをした、下鴨貴船から今の宇治の仕事部屋の2箇所を取り上げます。

 下鴨貴船には、2012年から2022年までの10年間いました。
 大学を出て大阪府立高校の教員になった時、お世話になった先生から、自分のためにも周りのためにも同じところに10年以上いない方がいい、とのアドバイスをいただきました。
 以来、職場はもとより、住まいも10年以内で異動移転してきました。実際にそのようになったので、あらためて驚いています。
 国文学研究資料館には18年いました。しかし、都内品川に9年、そして組織の庁舎移転で立川に9年なので、不思議と帳尻が合っています。

 まずは、下鴨貴船の2018年のものから。
 この頃は、いろいろな病気で入退院を繰り返しながらも、スペイン・ベトナム・アメリカ・カナダ・イギリス・インド・ミャンマー・ペルー・ルーマニア・中国と、調査旅行に慌ただしかった時期です。本は別の部屋に置きながら、とにかく報告書をまとめることに追われて籠もっていた部屋です。細長い部屋だったので、右から左へと3枚の写真で見渡せるように組んでいます。

2018-06_下鴨書斎右1.jpg



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 2022年から宇治に移りました。おそらく、これが最後の引っ越しだと思います。
 先月の2025年8月から、新たに『源氏物語』の本文データベースを構築する作業に入りました。そのため、部屋の配置替えや参考資料の入れ替えなど、大幅に模様替えをしました。この宇治に来て3年ほど仕事に取り組んだ作業場所として、これまでの記念に写したものです。

250909_宇治書斎1.jpg

 次回は、フイルム写真の整理が終わってからアップします。
 「我が仕事環境の写真」はしばらくのお休みとなります。




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2025年09月14日

我が仕事環境の写真(その2_研究室)

 1999年の4月から、東京都品川区にあった文部省所管の国文学研究資料館に転職しました。それまでは、大阪の熊取にあった大阪明浄女子短期大学(現・大阪観光大学)の教員でした。その頃の写真はフイルムベースのプリント写真だったので、まだ整理ができていません。これは後日にしましょう。

 東京の職場には、大和平群から単身赴任で平日通っていました。
 研究室は元は倉庫だった部屋なので、次の写真の左端に写っている小さい小窓が唯一の明かり取りでした。

2006-8_NIJL研究室のみ01.jpg

 その後、2008年に国文学研究資料館は品川区から立川市に移転しました。それに伴い、職場も新庁舎に移り、研究室も新しくなりました。引っ越したばかりの、何とか仕事ができるように整理をした状態の写真です。

2008-2_立川研究室01.jpg

 スケールの大きな科学研究費補助金によるプロジェクトを同時に3つ運用していたので、研究室の向かいに広い作業室をもらっていました。3人の補佐員さんや10人近いアルバイトの方々に、研究のお手伝いをしていただいていました。私が定年で離職する直前の、作業室の写真が残っています。

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 定年退職した翌4月からは、古巣の大阪明浄女子短期大学が4年制の共学となり、新しくなった大阪観光大学に出戻りの教員として赴任しました。かつて使っていた研究室の下の階に、新たに研究室をもらいました。

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 そして着任早々、また大型科研が採択されたために、科研の業務用の部屋としてもう一室使えることとなりました。荷物を運び込んだばかりの部屋の写真が残っていました。ここで、補佐員さん1名とアルバイトの学生さん8人に、情報収集や資料整理をしてもらいました。

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 その2年後に、経営者の意に沿わなかったのか、突然私は解雇されました。大型科研はまだ2年間2千万円の経費が残っており、研究も半ばでした。このままでは全額返納です。そんな宙ぶらりんになった私を、大阪大学にいる仲間が救いの手を差し伸べてくれたのです。大阪大学箕面キャンパス(旧・大阪外国語大学)に研究場所を確保してもらえました。
 だだっ広い部屋に大量の本や情報文具を運び込み、新しくアルバイトさんにも来てもらい、心機一転研究を再開しました。手前が、私が使うことになる机です。

2019-05_阪大研究室01.jpg

 順調に研究成果を上げていた時、またまた突然、大阪観光大学から学長としてお呼びがかかりました。民事再生下にある大学になっていたのです。解雇されて1年半で、学長や理事などの役職者として再建の手伝いをする者として呼び戻されたのです。
 その翌春、科研は終了し、大阪大学の箕面キャンパスも箕面船場にすべて移転することになったと同時に、私は大阪観光大学の学長理事職専任となりました。
 新たな研究室は、学長室があることもあり、大量の本を入れると入口からは仕事机が見えなくなる手狭な部屋でした。

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 順調に再建のお手伝いをしていた中の2021年12月末日に、私は大学の運営に関して抗議の辞任をしました。そのために、ここが私の最後の公的な研究室となりました。

 なお、私が我がまま勝手なことをする人間だと思われないためにも、いつも筋は通していることを示す意味で、辞任の経緯を記した文書を、以下の2本の記事として公開しています。あらぬ誤解を受けないように、念のために明示しておきます。

(1)「私が2021年12月末日で学長を辞めた理由」
   (2022年04月02日、http://genjiito.sblo.jp/article/189437966.html

(2)「梯子を外された具体的な例証ひとつ」
   (2022年04月03日、http://genjiito.sblo.jp/article/189439395.html

 以上が、いろいろとあった我が仕事環境を記録した写真です。

 次回は、京都の自宅の勉強部屋を整理してアップします。




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2025年09月11日

年に一度の来訪者あり

 京都市内の下鴨地域に住んでいた頃にお世話になっていた、不動産屋の青伸ホームの青山さんが、今年もフラリと宇治の拙宅にお越しになりました。

 今から18年前に、子育てを終えた大和平群の地から、京都市内の賀茂川右岸に転居しました。そこで5年間、京町家の借家に住みながら最終的な落ち着き先を探していました。

 そんな時、青伸ホームから売りに出されていた、賀茂川左岸に建つ築100年近い町家に住むことにしました。その時から、青山さんとのお付き合いが始まりました。私が還暦を過ぎていたので、ローンを組むのに青山さんが尽力してくださいました。

 賀茂川の反対側の下鴨に移って半年後に、私の胃に癌が見つかりました。無事に手術を終えて命拾いした後の翌春、妻は早期退職をして単身赴任だった私の東京の官舎に移り住み、私の面倒を見てくれました。定年までずっと続きました。ただし、京都の町家は手放さなかったので、毎週のように代わる代わる下鴨に帰っては、家の掃除や庭の花の世話をしていました。

 青山さんは、折々に自転車で我が家の前を通りかかり、家の様子を気にかけて見ていてくださいました。たまに報告も来ました。お向かいのご主人も、小まめに我が家の玄関先の花に水を撒いてくださっていました。

 今から3年前、10年間いた下鴨から宇治に移るにあたっても、青山さんはいろいろと面倒を見てくださいました。そして、近くにお客さんを案内してきたので、と言って毎年この宇治の住まいに立ち寄ってくださるのです。青山さんは、不動産屋さんといっても、幅広いお付き合いを通して京都中を廻っておられます。

 今日も、突然でした。これまでにも何度か来て見たけれど、とのこと。たまたま我々がいた時だったこともあり、上がって楽しい話をして行かれます。30分ほどでしょうか。今日は、ここは快適な住み心地であることをお話しました。青山さんからは、この地域の情報を教えてくださいます。京都を飛び回っておられるので、知らないことを教えていただけ、楽しく時間が経ちます。

 気心の知れた方が、年に一度とはいえ、ひょっこりとお出でになり、妻を交えて四方山話をするのは楽しいものです。気にかけてくださっていることは、見守られていることでもあり、ありがたいことです。
 立場は不動産屋さんです。しかし、堅苦しくない、垣根のないお付き合いが、ゆったりと生活ができる背景にあることに感謝しています。




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2025年09月09日

我が仕事環境の写真(その1_宿舎とインド)

 写真を整理していると、いろいろなものが見つかります。
 さまざまな場所で仕事をしていたので、部屋の様子がわかるものを取り出してみました。

 まず、単身赴任で東京に出た1999年から。
 横浜の金沢文庫にあった泥亀住宅(関東財務局所有)へ、奈良の自宅から毎週平日に通っていました。土日は大和平群に帰り、家の用事と子育てをしていました。慌ただしいことでした。
 次の3点の写真は、東京生活に少し慣れた夏、部屋も整理がついた頃のものです。それまでの、奈良にいた頃の写真はフイルムで写していたようで、デジタルの写真は東京の生活が始まってからのようです。ということで、奈良にいた頃の勉強部屋の写真は後日ということにします。
 3部屋それぞれで、仕事の内容に応じたセッティングをしていました。
 画質が悪いのは、いいデジカメを持っていなかったためです。資料を扱う仕事だったこともあり、モニタは必ず複数台つなげていました。

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 2007年に、泥亀から都内の江東区越中島(東京医科歯科大学所有)の官舎に移ります。ここに定年までの9年間いました。私の主だった仕事の大半は、ここと職場の研究室でやりました。大型の科学研究費補助金が連続して採択され、スケールの大きな仕事ができるようになったのです。成田から海外に出かけることが多くなりました。

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 溯って、2002年にインドへ客員教授として赴任しました。滞在したホテルでの作業スペースはこんな感じでした。

2002-1_インドのホテル.jpg

 しかし、このホテルは2週間で逃げ出し、日本のお寺に引っ越しをしました。その経緯は、クラッシュしたホームページの残骸から一部を読むことができます。次の拙文の最初に、ホテルからお寺に引っ越しをしたことを書いています。


 さて、移り住んだお寺の部屋には、机や本棚はありません。ただしベッドが3台もあったので、贅沢に荷物置きとして活用していました。

2002-1_お寺の部屋-ベッド3列.jpg


 デリー大学で用意してくださった研究室は、簡素な部屋でした。窓を開けておくと猿や孔雀が入ってくるというので、戸締まりには気を使いました。
 日本から、いろいろな本を持ち込んでいます。

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 続きは、職場の研究室などをアップする予定です。




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2025年03月24日

ブログを毎日書き続けていること

 今年度もあと1週間となりました。
 18年以上も毎日ブログを書いていると、お読みいただいている方や、お付き合いで接する方から、過労を気遣ってのありがたいご意見やお言葉をいただいています。少し休んでは、とか、毎日が忙しすぎないか、という心優しい気遣いです。ありがたいことです。

 気が張っている日々のせいか、いたって元気です。こまめに病院で検査を受けています。今のところは、血糖値が高いことと、脳梗塞の後遺症だけが問題となっています。今私が心がけていることは、睡眠時間の確保でしょうか。

 主治医は、体調を見ながら服薬を状況に応じて調合してくださっています。今は、10種類の錠剤を朝食後に飲み、6種類の錠剤を夕食後に飲んでいます。1種類の粉薬は、お腹の調子が良くない時にだけ飲みます。
 2020年の秋には、私の体重が47キロから上がらないので、栄養剤を追加してもらっていました。その体重も、昨春から念願の50キロ台になり一安心です。

 毎日8,000歩以上のウォーキングを心がけることで、血糖値は高止まりながらも安定しており、少しふらつく足腰もいい刺激を受けています。痩せ細った身体なので、筋肉を付けることで何とか対処したい、と日々努力しています。これが、なかなかの難題です。

 毎日計測している数値を見ると、体脂肪率・内臓脂肪レベル・基礎代謝量は問題ありません。体内年齢は58歳と、15歳も若い評価が数年間出続けています。しかし問題なのは、筋肉量、BMI、推定骨量、血圧です。これは、なかなか思うようにはいきません。

 幸い、気力と体力と注意力に加えて、知的好奇心はまだまだ旺盛なので、当面はこのまま突っ走って行けそうです。しかし、周りのみなさまに心配をかけ続けるのは本意ではありません。
 そこで、書き続けているブログについて、これまでに何度か軽いネタでお休みを入れるように心がけた時もあります。しかし、生きざまをタイムカプセルとしてそのまま残す、という当初からの目的の実現が優先課題としてあります。そのためにも、最近はお休みもなく書き続け、毎日情報発信をしています。

 私のブログ形式の小文は、1995年9月30日に起ち上げたホームページ〈源氏物語電子資料館〉の中に、「源氏物語余情」のコーナーを作り、そこをベースにして公開してきた記事に始まります。その後、折々に身辺雑記を発信し、ブログとして形を整えたものとなってからは、2007年の年末から本日までの18年3ヶ月にわたり、毎日書き続けています。
 仲間からの気遣いには感謝しています。そうであっても、一人の人間の等身大のタイムカプセルを書き残す意義を痛感しているので、今後とも書き続けることを自分に言い聞かせているところです。気長にお付き合いの程を、よろしくお願いします。




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2025年03月20日

【写真追補】お彼岸の墓参の後はおばさんの家へ

 今日は、春のお彼岸の中日です。

 介護施設を運営している親戚のとしちゃんと河内山本駅で待ち合わせをし、そこからは車に乗せてもらって一緒にお墓参りに行きました。両方の家のお墓が、同じ霊苑にあるのです。

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 小さい頃から知っているとしちゃんとは、先月、枚方市駅でお寿司を食べたばかりです。数十年ぶりに会ったのでした。10才下なので、もう還暦を過ぎています。しかし、何も変わりません。

 としちゃんが高校生の時には、妻が同じ学校で教えていました。卒業してからは、私が最先端のコンピュータの分野の学校を紹介しました。1983年に朝日新聞社が立ち上げたばかりのコンピュータスクールの1期生として学び、そこで学んだことを活かして、今では介護施設を手広く経営する社長です。学校や駄菓子屋さんも持っているとか。

 我が家の子供たちが大学とは関係のないコースを経て今があるように、彼も同じく自分の力で我が道を切り拓いたのです。人生に答えなどあるとは思わないで、自分がこれと思うことをしたらいい、という話を私がしたことを今でも覚えているそうです。今は、多くの職員や社員と一緒に、介護の分野で大活躍です。逞しい限りです。
 大学を人生の中にあえて組み込まない生き様の好例として、彼のことをこれからの若者に語り伝えたいものです。

 昨年末に、彼の兄が亡くなりました。我が家のお墓を少し下ったところにある墓地に、先月納骨したとのこと。今日は、我が家のお墓の後は、彼の家のお墓にもお参りしました。40年前におじさんが亡くなられて以来です。お花は、我が家のベランダで妻が育てているものを見繕って持ってきてお供えしました。
 我が家が出雲から大阪に出て来たのは、おじさんがお世話をしてくださったからです。おじさんと父は従兄弟でした。ずっと、家族ぐるみのお付き合いをしてきました。私が奈良に家を持った時、おじさんは赤と白の南天を庭に植えに来てくださいました。その南天はお墓にも移植して、今に至っています。

 帰りには、88歳でまだまだお元気なおばさんの家にお邪魔をしました。先月来た時には会えませんでした。母が亡くなった時以来なので、20年ぶりのことになります。
 昨年末、米寿のお祝いをしてもらったとのこと。6人の孫と7人の曾孫に囲まれた写真は、楽しそうでした。そのすぐ後に、としちゃんのお兄さんが亡くなったのです。2人とも、小さい頃から何かと面倒をみたものです。おばさんは、元気に配達の仕事や縫い物をしているとのこと。最近縫ったという買い物袋を、妻にくださいました。昔のことなどを、2時間にもわたって話しました。

 わざわざ、我々のためにぼた餅を作って待っておられたのです。そして、抹茶も点ててもらいました。出雲の人間は、何かあるとお茶を点てる習慣があります。松江藩主だった茶人の松平不昧公の影響なのでしょう。出雲では、とにかく簡単に、お点前など関係なく、シャカシャカシャカと点てたお茶がでます。私の両親が差し上げたコーヒー茶碗を、今も現役で使っているとのことで、その茶碗でコーヒーもいただきました。心温まる時間でした。

 昔話ができる人がいることは、日々の生活に温もりが増します。また折を見て、墓参の帰りにお話をしに行きたいと思います。




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2025年01月22日

昨年末に亡くなった親族の家へ弔問に行く

 年明け早々に、小さかった頃からよく知っている親戚の者が、交通事故で亡くなったことを聞きました。
 65歳になったばかりだったそうです。
 彼が小学生だった時には、勉強を見ていたこともありました。
 私の自動車が阪奈道路で止まった時には、彼が車関係の仕事をしていたので山の下から助けに来て修理をしてくれました。
 今回の訃報を知らせてくれた彼の弟は、妻が赴任した高校の生徒だったという奇縁もあります。
 コンピュータがまだ知られていない頃に、その弟がコンピュータ学校の1期生として勉強をする手助けをしたりもしました。
 私の母が骨折で入院した時は、彼の奥さまが当時その病院の看護婦をしておられ、ここよりも某病院へ転院するようにと、迅速に手配をしてもらいました。
 おばさまは、私が小さい頃から何かと面倒を見ていただきました。
 私の両親の葬儀の時には、いろいろと細かな配慮で手伝ってくださいました。
 しかし、今日は自転車で外出中とのこと。
 行きますよ、と伝えてあったのに、お目にかかれなくて残念です。
 今年で88歳になられるので、来客のことが飛んでしまったのかも知れません。
 遺影は、お世話になったおじさんと瓜二つの顔でした。
 いろいろと縁の深かった、家族ぐるみで親戚付き合いをしていた仲でした。
 しばらく連絡を怠っていたところへ、急に入った訃報です。
 今日は、姉との連名でお供えを持って行きました。
 片道2時間なので、電車を乗り継いでの小旅行です。
 お墓は、我が家の墓地と同じところにあります。
 墓石に戒名が刻まれるのは来月になるとのことなので、3月のお彼岸の頃に墓参に行ったら、その帰りに立ち寄ることにします。
 まずは、取り急ぎ弔問に行ったことの報告です。




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2025年01月12日

逆流性食道炎と成人式への思い

 年明けから、自分の身体と格闘しています。
 今朝は、逆流性食道炎で目が覚めました。
 消化管がない私にとって、体内に弁がないので腸液がそのまま咽喉に向かって上がってくるのです。
 消化液である強酸によって食道が焼けただれるので、苦しいことこの上ない事態に巻き込まれます。
 すぐに、経口補水液のアクアソリタゼリーを飲んで、押し流すことにしています。
 濃厚牛乳やコーンスープや高カカオ濃度チョコレートで対処できるようにもしています。
 お医者さんに相談しても、身体の構造上どうしようもないことだと言われて終わりです。
 対策は、頭を高くして眠ることです。
 枕を2つ重ねてバスタオルで巻いて対処しています。
 しかし、それでも上がってくる時があるのです。
 リクライニング式のベッドを検討しました。
 確かに頭部を上げると楽です。しかし、それでも逆流することがあります。
 何度も入院経験があるので、その体験からは、やはり畳に敷いた布団の上が一番いいのです。
 まさか、頭部だけがリクライニングする畳などないでしょうから。

 今日と明日は、全国各地で成人式が開催されます。
 これまでにも何度か書いたように、私の成人式は、住み込んでいた東京都大田区大森の新聞配達店が数日前に火事になったことで、地域の鷲神社の会館の板の間で区から配給された毛布にくるまって過ごしていました。エントリーしていたマラソン大会にも出られませんでした。新聞を配っていただけあって、足は速かったのです。

「成人の日に自分史を重ね合わせて」

 そんな体験があるので、成人式には毛布にくるまって寒かった、という思い出があるだけで、特に感慨はありません。人生の通過儀礼の一つとして、参加できる方は大切な思い出の一つになさったらいいと思っています。それよりも、私は大阪に帰るつもりがなくて東京に出たので、持ち出していた19年間の物がまったく手元に残っていません。過去を思い出す縁があったら、と思うことがあります。何が一番? と問われると、小さい頃の写真です。両親が持っていた写真は少なかったし、目ぼしいものは持ち出していたからです。
 まだ、宇治へ越してきて写真などの整理は手付かずです。本は8割方は終わっています。もう3年目に入るので、今年は手持ちの紙焼き写真のデジタル化を、年頭の思いとします。




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2024年12月31日

〈2024年の穏やかな順風10選〉

・『変体仮名翻字版百人一首』を私家版として刊行
 (「中之島での『百人一首』と『源氏物語 蜻蛉』の講座-第12回」http://genjiito.sblo.jp/article/190855327.html

・99歳のTさんの白寿をお祝いする集会に同席して
 (「集会所でTさんの白寿を祝う」http://genjiito.sblo.jp/article/190901291.html

・キャンパスプラザ京都で尾州家河内本桐壺を開始
 (「キャンパスプラザ京都で尾州家河内本「桐壺」を読む(第20回)(補訂版)」http://genjiito.sblo.jp/article/190998309.html

・妻が丹精込めて育てた花の回想録を一挙20件公開
 (「京都下鴨で妻が育てた花の記録-7(2022年7月〜24年4月)〈付〉これまでの記録一覧」http://genjiito.sblo.jp/article/191027721.html

・NHKの翻訳本『源氏物語』に関する番組に出る
 (「明後日8月27日に各国語訳『源氏物語』のことが放映されます」http://genjiito.sblo.jp/article/191035645.html

・NPO法人の京都市移転認証及び法務局登記完了
 (「集会所でゲームをした後は法務局からキャンパスプラザ京都へ」http://genjiito.sblo.jp/article/191050673.html

・筑紫女学園大学で翻訳本と源氏絵巻に関する講演
 (「筑紫女学園大学の公開講座でお話したこと」http://genjiito.sblo.jp/article/191134126.html

・京大病院に入院し大腸ポリープを8個取るも良性
 (「一泊二日で京大病院へ小旅行」http://genjiito.sblo.jp/article/191158810.html

・〈第5回平安文学散策〉寺町通を定子邸まで歩く
 (「京洛逍遥(904)〈第5回 平安文学散策〉を満喫する」http://genjiito.sblo.jp/article/191178928.html

・銀座で失くしたカードケースが警察経由で戻る(^_^)
 (本ブログの記事にはない年末のこと)





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2024年12月30日

〈2024年の大いなる疑問と憤慨10選〉


・京都住まいセンターがミニシンポをドタキャン!!
 (「集会所でのグリーンカフェに続く話し合いの場で驚愕の背信行為を受ける」http://genjiito.sblo.jp/article/190782721.html

・ライフカードが勝手に私のカードを作り口座を操作
 (「ライフカード(株)さん、そのやり方は合法ですか」http://genjiito.sblo.jp/article/190809803.html

・不機嫌な顔で暴言を吐いて舌打ちされたタクシーで
 (「京都駅前から乗ったタクシーの運転手さんに強く抗議をする」http://genjiito.sblo.jp/article/191018811.html

・ユニクロの返品交換にはバーコードのタグが必須?
 (「ユニクロの返品交換の方針は一般的なのでしょうか?」http://genjiito.sblo.jp/article/191051790.html

・地下鉄と小田急線と南武線と田園都市線と横浜線と
 (「江戸漫歩(171)東京で人身事故に遭遇し近郊沿線をさまよう」http://genjiito.sblo.jp/article/191105057.html

・アップルウォッチ購入時の下取りの杜撰さに失望!
 (「アップルウォッチの下取りの査定がいかに杜撰であるか」http://genjiito.sblo.jp/article/191111844.html

・集中豪雨で山陽新幹線が運転見合わせの事態に直面
 (「大雨に振り回されてやっと辿り着いた九州福岡」http://genjiito.sblo.jp/article/191123930.html

・いまだに欠陥商品を手にすることが続く事例の報告
 (「スマートウオッチのベルトが3度も不良品だったこと」http://genjiito.sblo.jp/article/191162449.html

・健康保険証・マイナンバーカード・資格確認書!?
 (「健康保険証をなくして送られてきた「資格確認書」とマイナンバーカード拒否のこと」http://genjiito.sblo.jp/article/191176274.html

・無視される愚問でもこのブログには記し留めておく
 (「違和感のある『源氏物語』の作者は紫式部だとする風潮」http://genjiito.sblo.jp/article/191187627.html




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2024年09月19日

お彼岸のお墓参りはハードなリハビリ

 今日は秋の彼岸の入り。午前中に墓参に出かけるはずが何かと用事があり、午後からになりました。
 近鉄だけでお墓に行けます。しかし、出発が遅かったので、お墓のある河内八尾にある信貴山口駅に着いた時には、すでに霊苑行きのバスは終わっていました。しかたがないので、歩いて行くことにしました。
 途中で出くわしたこの道は、私が高校時代に駅までしょっちゅう走った坂道です。この地域に、小学校6年生から高校卒業までいました。

240919_通学路.jpg


 お墓は山の上にあるので、途中から急斜面になります。

240919_山道.jpg

 しだいに足が重くなり、熱を持ち、膝が笑い出すと、立ち止まって休憩です。京都駅の大階段とは比べ物にならないくらいに、ハードな山登りをすることになりました。

 仏花は妻が育てている花々を生け、一昨日のお月見の餅をお供えにしました。

240919_仏花.jpg

 帰りの坂道では、ふくらはぎが固くなっていたので、足腰を庇いながらゆっくりと下りました。

240919_坂道.jpg

 駅に歩いて帰る道すがら、高校時代まで住んでいた四連棟の長屋に立ち寄りました。今ではもう誰も住んでいません。

240919_長屋.jpg

 お風呂がなかったので、玄関の横のガス台で大きな羽釜にお湯を沸かし、裏の狭い所に何回かに分けて運んでは、金盥で行水をしていました。冬には、たまに父と近所の銭湯に夜遅くに行ったことが思い出されます。

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 帰りの電車の中から、西の空を夕焼けが真っ赤に染める幻想的な光景を見ることができました。

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2024年08月19日

京都下鴨で妻が育てた花の記録-7(2022年7月〜24年4月)〈付〉これまでの記録一覧

 下鴨での生活は、2022年4月まででした。転居の理由はいろいろとありました。その中の一つに、玄関先で妻が丹精込めて育てていた花を、早朝に犬の散歩で通りかかった方が、勝手に花などを引き抜いて行かれることが何度か続いたのです。花だけならまだしも、やっと花開いた植物の根っこから引き抜かれるのですからたまりません。その女性の姿を、何度か2階から確認しました。しかし、いつか修まるだろうだろうと思っていたにもかかわらず、1年以上も続いたのです。確信犯です。
 後でご近所の方に、その経緯をお話ししました。早く言ってくれたら、みんなで捕まえて辞めさせたのに、と言ってくださいました。
 桜の花に関しては、「花盗人に罪はなし、花盗人は風流のうち」とも言います。しかし、ここでは桜ではなくて、個人で色とりどりの花を育てて愛でている中での話です。人を責めることを好まないので、とにかくやり過ごしていました。これは、妻にとって転宅に同意する大きな理由の一つだったようです。

 4月中旬の引っ越しを控えた頃に、チューリップがみごとに咲きました。

240812_下鴨チューリップ202204.jpg

 植物も大移動です。裏庭も、庭石以外は引っ越しと処分で大忙しです。

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 2022年4月の中旬から、宇治で新たに植物を育てることになりました。
 2年経ったこの2024年春は、こんなに賑やかになっています。

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240812_宇治ベランダ202404.jpg

 これで、東京の越中島→大和の平群→京都の北大路→下鴨、で妻が育てた花の回想録は、ひとまず終わりです。
 これまでに公開した20件の「妻が育てた花の記録」を、古い記事から順に一覧にしておきます。

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■(1)東京の越中島で妻が育てた花々の記録1(2011年7〜9月)
(2024年07月07日)


■(2)東京の越中島で妻が育てた花々の記録-2(2013年4月)
(2024年07月08日)


■(3)東京の越中島で妻が育てた花々の記録-3(2015年7〜12月)
(2024年07月10日)


■(4)東京の越中島と京都の下鴨で妻が育てた花の記録-4(2016年4〜6月)
(2024年07月11日)


■(5)東京の越中島で妻が育てた花の記録-5(2016年11月)
(2024年07月12日)


■(6)東京の越中島で妻が育てた花の記録-6(2017年3月の退居まで)
(2024年07月14日)

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■(7)大和平群で妻が育てた花の記録-1(2001年4月〜2002年3月)
(2024年07月17日)


■(8)大和平群で妻が育てた花の記録-2(2002〜2004年春)
(2024年07月18日)


■(9)大和平群で妻が育てた花の記録-3(2006年4-5月)
(2024年07月19日)


■(10)大和平群で妻が育てた花の記録-4(2007年4月-京都への転居まで)
(2024年07月20日)

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■(11)京都北大路で妻が育てた花の記録-1(2008年2月-京町家で)
(2024年07月21日)


■(12)京都北大路で妻が育てた花の記録-2(2009年10月〜2010年2月)
(2024年07月23日)


■(13)京都北大路で妻が育てた花の記録-3(2010年3月)
(2024年07月25日)


■(14)京都北大路で妻が育てた花の記録-4-下鴨移転前(2010年5〜12月)
(2024年07月30日)

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■(15)京都下鴨で妻が育てた花の記録-1(2011年9〜12年6月)
(2024年07月31日)


■(16)京都下鴨で妻が育てた花の記録-2(2012年7〜8月)
(2024年08月06日)


■(17)京都下鴨で妻が育てた花の記録-3(2013年1〜7月)
(2024年08月07日)


■(18)京都下鴨で妻が育てた花の記録-4(2014年1〜10月)
(2024年08月08日)


■(19)京都下鴨で妻が育てた花の記録-5(2016年4月)
(2024年08月11日)


■(20)京都下鴨で妻が育てた花の記録-6(2017年9月〜21年3月)
(2024年08月18日)

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■(21)京都下鴨で妻が育てた花の記録-7(2022年7月〜24年4月)〈付〉これまでの記録一覧
(2024年08月19日)
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2024年08月18日

京都下鴨で妻が育てた花の記録-6(2017年9月〜21年3月)

 2017年9月の写真には、蝶が写っていました。玄関先の草花には、トンボや蝶など多くの来客がありました。

240812_下鴨の蝶1709.jpg

 2018年4月のチューリップはみごとでした。

240812_下鴨チューリップ1804.jpg

 裏庭から我が家の安寧を祈っていたお地蔵さまも、二葉葵に囲まれています。

240812_下鴨の地蔵1.jpg

 温暖化の影響があるのか、次第に京洛の春先も暑さが厳しくなりました。2020年の4月には、妻が小さな帽子を編んで、お地蔵さまに被っていただくようになりました。

240812_下鴨-帽子.jpg

 翌2021年2月には、コロナ禍でもあり、お地蔵さまにもマスクを着けていただくことにしました。

240812_下鴨マスク地蔵.jpg

 3月になると、玄関先の鉢が春色になってきました。

240812_下鴨玄関先202103.jpg






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2024年08月11日

京都下鴨で妻が育てた花の記録-5(2016年4月)

 家の前に、近所の子供がチョークで絵を描いて遊んで行きました。
 おもしろい取り合わせとなっています。

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 内庭も緑の葉が茂っています。
 お茶を点ててのんびりしている時は、障子越しに見えるこの新緑が新鮮でした。

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 裏庭のお地蔵さんが、二葉葵に包まれるようになりました。
 やがて、この二葉葵が一面に広がりました。

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2024年08月08日

京都下鴨で妻が育てた花の記録-4(2014年1〜10月)

 新年早々、塀の内側にいたたぬきが雪に包まれました。

240807_下鴨1401たぬき.jpg


 2月になると、新しいパンジーの苗などを植えて春の準備が始まります。

240807_下鴨1402苗.jpg

 4月になると、玄関の横が色とりどりの花々で華やかになりました。パンジーやノースポールなどなど。

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 6月には、また新しい夏の花である百日草やニチニチソウとかサンビタリアが用意されています。

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 7月の玄関先の花が、一と月の成長を見せてくれます。アガパンサスがみごとに咲きました。

240807_下鴨1407外.jpg

 お茶室からは、こんな飾りものも見えます。

240807_下鴨1407飾り.jpg

 秋になると、裏庭では、白いオオバギボウシが咲きだしました。

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 10月になり、玄関先では、秋らしいニチニチソウなどが咲いています。


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2024年08月07日

京都下鴨で妻が育てた花の記録-3(2013年1〜7月)

 春先の、緑が増していく姿も写真で残しておきます。

 2013年1月に雪が降った日の裏庭の様子です。

240806_下鴨1301裏庭.jpg


 4月になり、チューリップやデージーやパンジーなどが咲きだしました。次第に色数が増えていきます。

240806_下鴨1304外.jpg

240806_下鴨1304玄関先.jpg


 坪庭でも、いろいろな植物が育っています。

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 7月の裏庭は、雪を被った1月よりも緑が増えてきました。

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2024年08月06日

京都下鴨で妻が育てた花の記録-2(2012年7〜8月)

 玄関先の花壇は、前回の写真にあったように、北大路駅前から持って来た花で当座を凌いでいました。夏を迎え、新しく下鴨の地において植え替えが始まりました。どのように飾るつもりなのか、その全体の構想は私には皆目わかりません。

240806_下鴨120702.jpg

240806_下鴨1207外.jpg

 内庭も狭いながらもお茶室から見えるので、これも何か考えがあってのことでしょうか。いろいろと工夫をしていたようです。

240806_下鴨1207-内庭.jpg

 8月になると、いろいろと咲き揃いだしました。

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2024年08月04日

江戸漫歩(169)思い出の地を記憶の中に包み込む旅

 今朝の神宮外苑の絵画館前は、いつものようにイチョウがすっくと空に向かって伸びています。先日の都知事選挙でも、この木立を切ることの可否が争点の一つとなるはずでした。しかし、あいまいなままに圧倒的な差で決着しました。そうしたこともあり、定点観測として、毎月こうして報告します。

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 青山通りを挟んだ斜向かいに、奇妙なオブジェを見つけました。

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 ポーラ青山ビルは、先月オープンしたのだそうです。その壁に貼り付く物に関して、ホームページには次のように紹介されています。この施設のさらなる発展が楽しみです。

◇パブリックアート
国内外で活躍する多彩なアーティストの作品を敷地内に公開します。青山通りに面した上空30mに浮かぶシンボリックなパブリックアートは、現代美術作家SHIMURAbrosによる作品で、時空を超えて豊かに広がる大樹をイメージしています。またその足元には同作家による光学ガラスと石の作品を配し、人々の繋がりの場を創出します。その他にも数々のアートワークが設置されるほか、アートにまつわるイベントなども実施予定です。

 青山一丁目から地下鉄で荻窪に移動します。学生時代の一時期、荻窪のアパートに数年住んでいました。青梅街道と環八通りが交わる所を四面道といます。そこから北に歩いてすぐの住宅地に、50年も前に住んでいたのです。その木造平屋のアパートは、もちろん今その姿は欠片も感じられません。3畳一間の住まいでした。火事で焼け出された後ということもあり、持ち物はほとんどない生活でした。

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 そのアパートで初めて素麺をゆで、干しシイタケを手で砕いてかけて食べていたところ、たまたま研究会の用事があって来た女性が、干しシイタケは水で戻してから食べないと口の中がモソモソするだけだ、と教えてくれました。この女性が、今の妻です。
 荻窪駅に引き返す時、当時歩いた道を彷彿とさせる小路がありました。

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 ここにいた頃は、近くにおられた書道の先生のところへ、お稽古に通っていました。一緒に、お琴も習っていました。山田流だったので、弾きながら歌います。もう、すっかり忘れています。
 この書道の先生は出身が秋田だったこともあり、妻も友だちと一緒に何度か教わったことがあったそうです。

 また、この近くには大先輩だった室伏信助先生のご自宅がありました。以下のブログには、記憶の欠片を拾い集めて記事を書いています。参考までに引きます。

「室伏信助先生の訃報に接して思い出すこと」

 暑さも厭わず、次に荻窪から高円寺に移動しました。義理の甥が作るラーメンを食べに行ったのです。

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 数十年ぶりに会いました。まったく変わっていません。いつもの愛嬌のある笑顔で、お店に活気を与えています。人気のお店でした。帰ろうとすると、わざわざ外まで見送りに出てきてくれました。我が家の次男と仲が良く、連絡は折々に取っているそうです。若者が大活躍している姿を見ると、こちらも元気をもらえます。

 高円寺の駅へ行く途中で、「蝶」という文字に「ひらり」と読み仮名が振られている看板を見つけました。

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 このセンスには好感が持てます。

 かつて、私は学生時代に、この高円寺にも住んでしました。駅前には、古本屋がたくさんあります。勝手知ったる高円寺を、しばらく散策しました。以下のブログもご笑覧いただける、高円寺との縁が伝わるかと思います。

「江戸漫歩(24)高円寺を彷徨う」

 この高円寺での生活を最後に結婚をして、都内を離れました。埼玉県の浦和での妻との生活となります。




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2024年07月31日

京都下鴨で妻が育てた花の記録-1(2011年9〜12年6月)

 2012年1月より、北大路駅前の家から下鴨貴船への屋移りの準備を開始しました。賀茂川の右岸から左岸への引っ越しです。
 そのため、次の2011年9月の玄関先の写真と、2012年2月の花壇の土の搬出が、北大路での花作りの最後の姿となります。この家は今は跡形もないので、こんな家に住んでいたという記念の写真としてアップしておきます。

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 移転先の下鴨の家は、最初は玄関先にコンクリートのブロック塀がありました。築80年以上の町家だったので、耐震工事と共に通りに面した塀を取り払い、花を育てるための小さな植え込みを新しい塀の外側に、お茶室から見える内側には額ほどの広さの坪庭を造ってもらいました。

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 2012年2月から3月は、引っ越しに追われる日々でした。そして、6月になるとようやく玄関先の植え込みに花が咲きだしました。妻が花を育てる趣味が、本格的に再稼働し出したのです。
 2011年4月から妻は、東京の官舎の庭でも花作り始めていました。東京と京都を往復しながら、花の世話をする日々となっていたのです。

240731_下鴨花壇1.jpg

 塀の内側の、お茶室の前の坪庭も、少しずつ整いだしました。

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2024年07月30日

京都北大路で妻が育てた花の記録-4-下鴨移転前(2010年5〜12月)

 2010年の初夏の玄関先の花壇は、こんな花に囲まれていました。

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 中庭に花は植えていません。
 二葉葵が大きくなりました。

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 2010年の年末は、大雪に見舞われました。

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 2010年の夏に、私は胃ガンの手術をし、消化管の全摘出をしました。
 しばらくは、この北大路の家で療養生活をしたため、秋の写真はほとんどありません。
 東京との毎週の往復を減らしたこともあり、東京で過ごす日々が多くなりました。
 そして、翌2011年4月からは妻が早期退職をして、東京で一緒に棲むようになりました。
 妻が育てた花々は、今月上旬にアップした「東京の越中島で妻が育てた花々の記録1(2011年7〜9月)」(2024年07月07日、http://genjiito.sblo.jp/article/190970016.html)に続きます。





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2024年07月25日

京都北大路で妻が育てた花の記録-3(2010年3月)

 2010年3月の、家の前の花々です。
 年を重ねる毎に、花の種類も数量もが多くなっています。

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 豪華な感じが、その色合いから伝わってきます。
 車を停めていた空間に、所狭しと鉢が並ぶようになり、ようやく歩ける道が出来ています。

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 お正月には床の間に鎮座していた梅も、まだその香りを玄関先に漂わせていました。

240723_小山100318梅.jpg

 立体的な花壇の出来上がりです。

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 丹精込めて咲かせた花を、河内高安にあるお墓に持って行き、両親をはじめご先祖さまに見てもらいました。

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 母は、ことのほか待ち望んでいたことでしょう。




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2024年07月23日

京都北大路で妻が育てた花の記録-2(2009年10月〜2010年2月)

 北大路駅前の京町家の玄関前で、逞しく冬を越し、春を迎えた花たちの様子です。

■2009年10月

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■2010年1月
 南北に連なる建家の真ん中にあった坪庭で咲いた椿です。

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■2010年2月
 春先の玄関の前には、いろいろな花が咲き出しました。

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 この年も、賑やかに春の花が目を楽しませてくれました。



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2024年07月21日

京都北大路で妻が育てた花の記録-1(2008年2月-京町家で)

 源氏千年紀の前年である2007年に、大和平群から京都市内の北大路駅すぐそばの町家に転居しました。子供の手が離れたことと、いずれは京都へという想いを抱いていたからです。
 雨でも駅から小走りで帰られることと、葵祭の行列が玄関から見られることに加えて、家造りは町家であることを条件にして探した物件です。
 玄関先に鉢植えを並べて花を育てることから始まりました。
 1年目の春先の様子から写真をアップします。

■2008年2月 北大路の玄関先

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 前と後の建家の間にある坪庭に雪が降りました。
 そこには、自然の草木が生い育っています。

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■2009年9月

240721_小山玄関先2.jpg

 街中にいると、車に乗ることがありません。そこで、早々と車を手放しました。
 車を停めていたスペースの真ん中には、大きな花壇を造りました。
 長方形の花壇は、私が手作りしたものです。
 ここが、妻の花作りを実現する場となりました。




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2024年07月20日

大和平群で妻が育てた花の記録-4(2007年4月-京都への転居まで)

 大和平群での花作りの記録も、今回で終わりとなります。
 ここには3人の子育て期間ということもあり、25年も棲んでいました。母や子供が愛でてくれるように、多くの花が色とりどりに咲いていました。しかし、私の仕事の都合で、写真は春に集中しています。秋の花の写真がないのが残念です。1995年以前の、プリント写真の中には、四季折々の花が見られることでしょう。家族の写真の背景に、夏や秋や冬の庭の様子が写っているかも知れません。見つけたら、チェックしておきます。

■2007年4月
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 子供が大きくなったので、車が大型車のクラウンから中型車のイストに変わっています。
 我が家の自動車は、娘が生まれる時のために買った軽自動車セルボに始まり、普通車のファミリア・ベンチシートのセドリック・ベンチシートのクラウン・普通車のイストと乗り継ぎました。運転免許証は2019年12月06日に返納しています。

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 庭には、歩けるようにレンガで小道が出来ていました。ささやかな、回遊式(?)です。

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 そして、大和から洛中へ転居する時に、膨大な書籍を処分しました。業者の方が持って行かれる様子を、庭越しに見送りました。

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2024年07月19日

大和平群で妻が育てた花の記録-3(2006年4-5月)

 2005年から2006年にかけても、私はイギリス・イタリア・オーストリア・エジプト・インド・韓国・アメリカ・ロシアと、めまぐるしく各国を歴訪していた時期です。ただし、年度初めの春先は日本にいることが多かったので、毎週末に東京から奈良の自宅に帰って来ると、庭の写真は撮っていました。その中から数枚を取り出しました。

■2006年4月
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■2006年5月
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 4月と5月は花のシーズンということもあり、多くの花々が庭を彩っていました。




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2024年07月18日

大和平群で妻が育てた花の記録-2(2002〜2004年春)

 2002年4月から2004年4月まで2年間の、大和平群の庭の写真を整理しました。
 この期間は、私がイギリス・インド・韓国・ポーランド・アメリカ・台湾・中国・旧満洲・トルコと、慌ただしく海外を転々としていた時期だったために、家の花を写真に収める暇がない時期でした。その中で、4月の庭の様子がわかる写真を何枚か選んでみました。

■2002年4月
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 上の写真は、母の部屋の前で咲く花です。母はここから庭に降りて、気に入った花を摘んでは自室の仏壇に供えていました。いつも花に囲まれていたことを、喜び楽しんでいました。母は、2004年8月にこの家で意識を失い、10月に84歳で亡くなりました。この8月に私の身に起きた不思議な体験は、「【復元】母子の絆の不可思議さ」(2010年04月29日、http://genjiito.sblo.jp/article/178934547.html)に書きました。虫の知らせ、というものはあるのです。

 南に面していた庭は、一面がお花畑でした。

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■2003年4月
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■2004年4月
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 今回は、4月に咲いていた花だけを集めました。大多数は割愛したので、またいつか取り上げることにします。




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2024年07月17日

大和平群で妻が育てた花の記録-1(2001年4月〜2002年3月)

 奈良県生駒郡平群町に住んでいたのは、1982年12月から2007年5月までの25年間でした。ここは、妻ともども大阪の府立高校に勤めながら、3人の子育てをした所です。1999年4月から私は、単身赴任で東京に行きました。ただし、子育てがあったので、毎週末には平群の自宅に帰って来ていました。
 ヤマトタケルノミコトが「たたみこも平群の山の〜」と詠み、国宝の『信貴山縁起絵巻』があり、竜田川が流れ、在原業平が山越に河内通いをした、大和の歴史と文化が堆積した町でした。

 ここに来るまでは、『伊勢物語』の「筒井筒」の段で有名な大阪府八尾市高安にいました。長女が生まれるのを機に、そこから東に聳える高安山と信貴山を山越して、つまり業平の河内通いの反対側の生駒に移りました。その25年間いた大和の平群から、源氏千年紀の前年の2007年に京都市内の町家に転居したのです。

 私の手元にあるデジタルカメラで写した写真は、文科系としては最初となるホームページ〈へぐり通信〉をインターネットに開設した関連もあり、1995年からのものです。今はまだ、それまでのプリントによる写真の整理までは手が延びていません。とにかく当座は、奈良の自宅の花をデジタルカメラによる写真で振り返ります。

 生駒でも、家の周りは妻が育てる花で囲まれていました。
 以下、2001年4月からの庭の様子を、写真で再現します。画像が粗いのは、カメラの性能のためですので、お許しください。

 まずは、玄関まわりの花たちです。

■2001年4月
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 上の写真の左隅に写っているタヌキの置き物は、今も宇治で花を見守ってくれています。

■2002年3月
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 車庫に止まっている白い車は、3人の子供と母と妻を乗せて、東京から帰ってきた週末には、西国三十三所巡りなどで走り回った、思い出のクラウンです。コラムシフトでベンチシートという、タクシー仕様のガソリン車でした。運転席の左横には、チャイルドシートを2台並べて置いていました。信号で停まった時などは、珍しさも手伝ってか、いろいろな方に覗き込まれました。

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 玄関先の花々以上に、庭に回るとさらに多彩な花で埋め尽くされていたので、折々に紹介します。雑誌社が何社か来て、写真を取らせてほしいとのことでした。何かと多忙なことと、訪問者があっても困るので、すべてお断わりしました。




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2024年07月14日

東京の越中島で妻が育てた花の記録-6(2017年3月の退居まで)

 越中島の宿舎を退居したのは、2017年3月30日でした。その3月の花壇の様子をここに留めておきます。
 月初めに、いろいろな花の苗の整理をして、親しくしていた東京芸術大学の先生に託しました。
 花が大好きな方だったからです。

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 部屋を出る時の次の写真が、引き継いでいただいた、丹精込めて育ててきた花たちの最後の姿です。

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 定年退職したその3日後の4月2日。
 京都では、自宅近くの賀茂川の散策路の桜の蕾が、今にも咲こうかという勢いを見せていました。
 新しい、気持ちのいいスタートの春は、再就職先の大学の入学式から始まりました。

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 6回にわたって写真でたどってきた、東京での花の世話をした話もここまでです。
 こうして、写真であっても、あの日々の一端を再現できました。
 写真が持つ記憶を喚起する力を、あらためて認識しています。




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2024年07月12日

東京の越中島で妻が育てた花の記録-5(2016年11月)

 秋になると、妻の実家の秋田から柿が送られて来ました。早速つるし柿を作ります。

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 冬の花壇は色数が少なくて淋しくなります。

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 隅田川を隔てて、月島や佃島のマンション群が迫っている所でした。
 その奥には、聖路加国際病院があります。

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 左方向には、東京海洋大学の向こうに、豊洲の高層マンション群が立ち並んでいます。
 そんな中で、せっせと花を育てていたのです。




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2024年07月11日

東京の越中島と京都の下鴨で妻が育てた花の記録-4(2016年4〜6月)

 京都の家を空けて東京で花を育てだして5年目の春です。

■2016年4月
 葉桜になろうとする4月の様子です。棲んでいた建物の写真左下に微かに見える緑地帯が、花壇があった場所になります。

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 花壇の側に寄ると、こんな感じでした。

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 花壇の手入れは、休日の妻の仕事です。

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 同じ頃、京都の自宅の玄関先には、色鮮やかに花が咲き誇っていました。

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 下鴨の裏庭では、双葉葵がお地蔵様を覆い隠すまでに育っていました。

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2024年07月10日

東京の越中島で妻が育てた花々の記録-3(2015年7〜12月)

 妻が越中島に来て4年。
 多くの植物が身の回りに溢れる生活となりました。
 食べるものもベランダで育てていました。

■2015年7月
 夏を迎える頃になると、プチトマトが実りました。

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 花壇に植えた苗も、しだいに数を増していきます。

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■2015年11月
 秋になると、花壇には色とりどりの花が咲きました。

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 ベランダには、次に植える苗や野菜が育っています。

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■2015年12月
 年末には、来年の準備に余念がありません。
 畑仕事も大変です。

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 毎年、いつごろどんな花を咲かせるかを楽しみにしながら、5面の花壇の世話をしていました。




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2024年07月08日

東京の越中島で妻が育てた花々の記録-2(2013年4月)

 昨日の「東京の越中島で妻が育てた花々の記録1(2011年7〜9月)」に続いて、2回目は2013年の4月の花壇とベランダの様子を写真で再現します。
 妻が手を付けて2年が経ったこともあり、いろいろな花が咲き出しています。5面もの花壇を、四季折々に、自由気ままに花で埋め尽くしていました。

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 ベランダでは、いちごが実りだしました。甘くておいしいいちごが、しばらく楽しめました。

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 同じ頃、京都の下鴨の家の玄関先でも、花が咲いていました。

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 妻と交互に京都へ帰り、花の世話や家の片づけをしていました。
 お向かいの方が、時々水をやってくださっていたので助かりました。
 ご近所の方は、主がいなくても多くの花が年中咲き揃っていたので、楽しんでくださっていたようです。
 いつも目を楽しませてもらい、ありがとう、とお礼を言われたことが何度もありました。
 表座敷の前の小庭と裏庭の花々は、いつか下鴨特集の時に紹介しましょう。




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2024年07月07日

東京の越中島で妻が育てた花々の記録1(2011年7〜9月)

 東京の江東区越中島にあった東京医科歯科大学の官舎には、2007年7月から2017年2月までの9年7ヶ月間いました。
 それまで、1999年4月から2007年までの8年4ヶ月は、横浜の金沢文庫にあった関東財務局の泥亀住宅にいました。東京都品川区の戸越にあった職場である国文学研究資料館が、2007年に立川市に移転したことにより、通勤が困難になったために、横浜から都内に転居したのです。
 1999年4月からは単身赴任で、奈良県生駒郡から毎週東京に通い、毎週末には自宅に帰る日々を繰り返していました。2007年2月には、奈良県生駒郡から京都市北区に自宅も転居。慌ただしく住まいの移転をしていた頃です。
 2011年4月からは、妻が京都の自宅はそのままにして、東京の越中島に来ています。それは、2007年8月に私が京大病院で胃ガンの手術をして療養生活に入ったため、妻はそれまでの仕事を早期退職して切り上げ、東京の私がいた越中島で一緒に生活をすることになったからです。京都の家は、息子が留守番代わりにしばらく棲んでいました。
 生来の花好きの妻は、奈良や京都と同じように、東京でも花に囲まれた日々を楽しんでいました。今、越中島の官舎が解体されていることもあり、棲んでいた当時、育てていた花々の写真を整理してみました。現状は、先月16日の本ブログの記事の中ほどの写真に見られるように、当時の部屋の下の花壇は風前のともしびの状態です。
「江戸漫歩(168)門前仲町を散策し隅田川で一休み」

 妻が東京に来て4ヶ月後の7月と9月のベランダの様子は、こんな感じでした。毎日、ワクワクして育てていました。

■2011年7月
 4月から始まった花の手入れは、種からの育成なので少しずつ芽が出て育って行きました。
 道を隔てた向かいには東京海洋大学があり、さかなクンがここの先生になったことで、大学の知名度がさらに上がりました。

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■2011年9月
 部屋の真下の花壇は、一部屋に1区画の貸与でした。しかし、花壇の世話はできないという方も多く、話をしては一つずつ世話をする花壇を増やし、ついには5軒分の花壇に植物を植えて楽しむようになりました。

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2024年07月03日

新札発行の日に、インドで紙幣が突然紙クズになったことを思い出す

 キャンパスプラザ京都(京都市大学のまち交流センター)へ、『源氏物語』の勉強会で使う部屋を予約するために行ってきました。3ヶ月先まで予約できるので、月が変わったこの7月は10月分の手続きとなります。10月は大学の後期授業が始まった時なので、ほとんどの部屋が予約済みです。いつもの演習室ではなくて、講習室がどうにか1室だけ確保できました。

2024年10月26日(土)第8講習室 第4講時 14時半〜16時

 使用料金を精算機で支払おうとした時です。今日から旧札となった福沢諭吉の1万円札を入れたところ、すぐに戻ってきます。3回やり直しても戻されるので、受け付けの方に新札の渋沢栄一しか受け付けないのですか、と聞くと、そんなことはありませんと言いながら出てきてくださいました。
 今日から新札が発行されたので、その対応はすでに終わっていると言いながら、私が手にする1万円札を入れ直してくださいました。しかし、2度も失敗し、3度目にやっと受け付けてくれました。新札対応で、旧札の扱いに機械が変調をきたしているのでしょう。

 そういえば、8年ほど前に、インドでお札がすべて紙クズになるという体験をしたことを思い出しました。日本の場合は、旧札もこれまで通り使えます。しかし、インドでは一番よく使う2種類のお札が、一夜にして単なる紙キレと化したのです。

 インディラガンディ空港に着き、宿泊するお寺に入った夜8時に、テレビで首相が「500ルピー(日本円で約1,000円)と1000ルピー(日本円で約2,000円)の紙幣は今夜零時で無効になる」と宣言しているのです。しばらくは、その意味が理解できませんでした。
 空港に迎えに来てくれていた教え子のクマール君が、当座のお金は用意してきたので、日本円をルピーに両替することは明日の明るい時間帯にしましょう、と言ってくれたので、私の実質的な被害はありませんでした。しかし、彼の被害は甚大でした。
 これは、嘘のような、本当の話です。
 その時のインドでお札が紙クズになった顛末は、2016年11月8日以降の私のブログに、折々の話の中で書いているのでご笑覧を。以下、要点だけを引いて置きます。

 紙幣が無効になった日のことは、「インドで紙幣が突然無効となり大混乱」(2016年11月10日、http://genjiito.sblo.jp/article/179012997.html)に詳しく書きました。
 翌日の記事「国際交流基金で打ち合わせをした後の散策」(http://genjiito.sblo.jp/article/179012998.html)の末尾や、次の日の記事「宿でうどんを食べた後、銀行の様子を見る」(http://genjiito.sblo.jp/article/179012999.html)をはじめとして、手元に現金がないことの窮状を連日記しています。現地では、教え子のクマール君が、大量のコインを掻き集めて、困り切った私を助けてくれました。
 そして、クマール君から後日、この件に関するエッセーが届きました。インドにおける紙幣無効の背景が、詳細に語られています。それを報じた私のブログ「クマール君から届いた紙幣無効に関するエッセイ」(2016年11月17日、http://genjiito.sblo.jp/article/179013004.html)から、その一部を引きます。


 2016年11月8日の午後6時半に、日本からお出での先生をお迎えに、インディラガンディ空港に行きました。先生は、源氏物語のシンポジウムのご用でデリーに来印されました。空港でタクシーを拾い、デリーの高級住宅街にあるWorld Buddist Centerに午後8時ごろに着きました。
(中略)
 日本と同じく、足のひくい食卓にしゃがんで食事をし始めると、後ろにあったテレビからインド首相の声が聞こえました。
(中略)
 ニュースを聴いて、びっくりしました。
 500ルピーと1000ルピーの紙幣は今夜零時で無効になり、ただの紙屑に変わるという二ユースでした。
(中略)
 先生がインドにいらっしゃるので、1万ルピーをATMから出したばかりでした。ATMだと500ルピーや1000ルピーが多いです。1万ルピーをドブに捨てた気がしました。
(中略)
 ご飯が終わって、早速ATMに行こうと先生が決めました。それで、近くにあったSapna映画館の商店街みたいな場所に行きました。行ってみると、ATMの場所で長い行列を見かけました。零時まで間にあわないほど長い行列でした。
 零時までは使えると思って、お店で500ルピーを出してみました。しかし、「紙屑だよ」という目線だけで、誰も受け入れてくれません。


 何とも貴重な体験をしました。
 今回の日本の新札発行は、旧札はこれまで通りに使い続けられるので、インドのようにパニックになることはありません。安心していいのです。
 インドでは、犯罪がらみのブラックマネーとして現金が市中に出回らないことの解決策として、荒っぽい手法がとられました。日本でも、犯罪とは無関係とはいえ、タンス預金の洗い出しの効果はあるとのことでした。
 マイナンバーカードの取得という強制手続きという蛮行を進める政府の元々の背景には、国民すべての金融口座を国で管理することにありました。何度か本ブログでも取り上げた、マイナンバー法成立までの経緯を、再掲します。

《参考》マイナンバー法成立までの経緯
(1)国民総背番号制度(1968年、頓挫)
(2)納税者番号制度(1985年、廃案)
(3)住民基本台帳ネットワークシステム(2014年、普及せず消滅)
(4)マイナンバー制度(2013年、公布/2023年、混乱→片仮名の銀行口座名の本人照合で不整合発生→凍結見直し・京都新聞2023.6.9→不備と矛盾を抱え込んだままで強引に推進中)
(「保険証の切り換えとマイナンバーカード拒否のこと」2024年01月05日、http://genjiito.sblo.jp/article/190723585.html

 日本でも、一歩ずつインドのようなことが潜行しているように思えてなりません。私は、医療費10割負担になっても、実態を隠していいことずくめで強行しているマイナンバーカードは作らずに、自分を守り通すつもりです。
 新札発行を機会に、偽札偽造を防止するための対策の意義と共に、その背景にあるいろいろなことに思いを致しました。




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2024年05月15日

父の命日は宇治の興聖寺へ

 今日は賀茂祭の日です。2年前までは、自宅のすぐそばの北大路通りを、路頭の儀の行列が練り歩いていました。そのため、葵祭は日常の延長としての身近な例祭でした。いつものように賀茂街道沿いで見ようと思いつつも、今日は父の祥月命日でもあります。今年は、41年前に68歳で亡くなった父の供養を優先し、ご縁のあるお寺にお参りすることにしました。10日前には、横浜の鶴見にある総持寺にお参りしました。本来なら、大本山である永平寺に行くべきです。しかし、それは6巡目となっている西国三十三所の満願を果たした時にします。

 お昼は、持参したお弁当を宇治川べりのベンチでいただきました。勢いよく流れる川向こうには、木々に覆われた平等院があります。

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 今日お参りした仏徳山興聖寺は、道元禅師を開祖とする曹洞宗の禅寺です。この前ここに来たのは、昨年の11月22日でした。半年ぶりです。
 妻の実家も我が家と同じ禅宗で、大本山が永平寺です。不思議なご縁があります。
 島根県出雲市出身の私の両親と、秋田県羽後本荘市出身の妻の両親が、共にその奇遇に驚き喜んでいました。おまけに、妻の実家の近くに羽後亀田があり、私の実家の近くには出雲亀嵩があり、共に松本清張の『砂の器』の舞台です。作中で、秋田弁と出雲弁が類似することを問題提起したのは、私がかつて勤務していた国文学研究資料館と同じ敷地に隣接していた国立国語研究所でした。しかも、遠く離れた地域の言葉が類似することを立証した方言周圏論(蝸牛考)は、私と妻が共に学んだ大学の民俗学者柳田國男でした。幾重にも偶然が重なる話が横たわっています。このことは、くどくなるのでまたいつか。

 興聖寺にいたる琴坂は、春も秋も名所となっています。今日も、新緑の中を山門に至りました。

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 禅寺の庭は石組みが特徴的で、見る者の気持ちを穏やかにしてくれます。

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 興聖寺の中のお堂には、『源氏物語』の宇治十帖にまつわる「手習の杜」に祀られていた「手習観音」が安置されています。寺伝によると、小野篁の作だとも。これまた、小野小町の勉強をしていた妻にとって同じ小野氏の縁者であり、『源氏物語』は私が勉強してきた作品です。「手習」巻の前の「蜻蛉」巻については、『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語の鑑賞と基礎知識 No.28 蜻蛉』という本を、私は至文堂から2003年に出版しています。またまた話が交錯するので、こうしたことはこの辺で。

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 参道のそこかしこに、黄色いカキツバタ、濃い桃色のサツキ、白いミズバショウが咲いています。

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 帰りに、平等院の表参道で、仏壇へのお供えをいただいて来ました。

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 父の戒名である文徳忠衛居士が箱書きされているのは、姉が届けてくれたお菓子です。
 その上に、宇治茶の伊藤久右衛門でいただいたお菓子。甘いものが大好きだった父のためのお供えです。経机の上には、何種類ものキンツバがあり、さらには貰い物ながら秋田銘菓の諸越もあります。
 なお、父の本姓は石川で名前は忠右衛門。小さい頃は(石川)五右衛門という渾名だったとか。陶器屋で育った父は、養子として呉服屋で伊藤姓の母と結婚して伊藤忠右衛門に。戦中は共に満洲へ渡り、父はシベリアに抑留されて復員。母も、麗羅の小説『桜子は帰ってきたか』の世界そのままにさまよいながら、命からがら舞鶴に引き揚げて来ました。
 宇治に行くと、伊藤久右衛門でお茶菓子をいただきます。今日も、いろいろな甘いものをお供えしています。




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2024年05月05日

鶴見の総持寺で初夏の爽やかさを体感

 昨日は、日比谷図書文化館で『源氏物語』と『百人一首』の変体仮名の講座を終えると、最寄りの新橋駅から横浜駅の手前にある鶴見駅に移動して、その駅前で泊まりました。
 今朝は、駅前から緩い坂道を上って総持寺に参拝。

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 41年前の葵祭の日に、父が68歳で亡くなりました。祥月命日が近付いています。我が家は永平寺が大本山なので、その兄弟である大本山総持寺にお参りに行ったのです。

 曹洞宗には、大本山が2つあります。福井県の永平寺と神奈川県の総持寺です。
 鎌倉時代のこと、道元禅師が我が家に近い伏見深草に興聖寺を開き、それは後に、これまた我が家に近い宇治の平等院の川向かいに再興されました。しかし、比叡山からの弾圧を受けたことから、福井に永平寺を建て、今に至っています。道元禅師は「高祖」と言われています。
 なお、現在6巡目の西国三十三所札所巡りが満願となった暁には、大本山である永平寺にお参りすることがこれまでの慣習となっています。
 また、石川県の輪島にあった瑩山の総持寺が消失し、明治44年に神奈川県の鶴見へ移転しました。曹洞宗の発展の礎を築いたのが瑩山禅師であることから、瑩山は「太祖」と言われています。
 こうして、道元禅師と瑩山禅師を両祖とすることから、一宗派に2つの本山があることになったのです。

 父からは、私が中学生になってから、「只管打坐(しかんたざ)」という言葉を折々に聞きました。この言葉は、曹洞宗の真髄です。ひたすら無心に坐禅をする修行のことことです。まさに父は、ひたすら人のお世話をし、何事にもじっと耐える日々を送っていたいたように思います。それが、私に伝わっているのかどうかはわかりません。しかし、NPO活動をはじめとしてボランティア活動の中に身を置き、いろいろなことに耐えながらの日々を送る私の生活も、少なからず父の教えの一部が伝わっているように思っています。父は「なまぬるい」と言うでしょうが。

 これだけ致命的な病に襲われながら、その時々を奇跡的と形容される経過を経て私が今もこうして生き残っているのは、シベリアから帰還して終戦後の50年を生き抜いた父の運の一部を、幾ばくか受け継いでいるからだと思っています。
 私が最初に死地を彷徨ったのは、高校卒業直後の18歳の3月。新聞配達店で配達を終わってすぐに、十二指腸が突然破れて意識を失った時でした。その1年半後には、その店から明け方に火が出て、燃え盛る火の手の中を窓から飛び降りて命拾いをしました。その時、18年間のすべての物を失って焼け出されたことに、これはつながります。その後、いろいろな所を10回以上も転々としたのです。
 高卒で志願兵となった父は、私とは比べものにならないほどの急場を生き延びてきました。その父が、私が死に目に逢った時にはいつも、ことばではなく陰ながら背中を押してくれていたことを思い出します。

 いろいろな思いを胸に、鶴見大学と隣り合う総持寺を、リハビリの散策気分で歩きました。
 これまでに、鶴見大学には文献調査で2度は行っています。しかし、総持寺には行きませんでした。いつでも立ち寄れる、と思っていたからでもあります。

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 境内は、初夏の爽やかさを感じさせてくれます。ただし、坂道のことを考えていなかったので、大きなキャリーバックを引っ張るのが大変でした。わかっていたら鶴見駅に預けてくるのでした。
 気持ちのいい風を感じながら、のんびりと境内を歩きました。峻厳な永平寺とは対照的に、総持寺は穏やかさの中に厳しさがあるお寺です。

 境内の一画に、禅カフェを見つけました。

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 キャリーバックを引き摺りながらの散策に疲れたこともあり、ここで一休みです。中は、ゆったりとした時間が流れていました。
 偶然座った席が、まさに外の絶景が見える場所でした。

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 私はチーズピザと大黒尊天コーヒーを、妻はソフトクリームとあんみつをいただきました。
 心落ち着く場所に、時間が許す限りいました。




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2024年02月22日

小学1年生前後に読んだ漫画(旧懐談1)

 本ブログのプロフィールで、「私がこの世に生存していたことの証明も兼ねて、日々の歩みを等身大の雑録として毎日公開しています。」と記しました。今のことと共に、自分の過去のことも、折々に整理して書いておきます。

 昭和26年生まれの私が、小学1年生前後に読んだ漫画の情報を見つけました。『わが世代●昭和二十六年生まれ』(河出書房新社編集部編、1981年2月)に、「月刊漫画誌に連載された名作」として掲載されていたものがそれです。

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 昭和33年に島根県出雲市立古志小学校に7歳で入学しました。ちょうどその頃のことなので、自分が育った環境を思い出すのに、格好の情報です。
 漫画は、近所の貸し本屋で、それも立ち読みで読んでいました。お小遣いとして10円をもらった記憶があるので、時たまお金を持って貸し本屋に行き、家に持ち帰って読んだこともあったように思います。
 文章で綴られた読み物は、小学4年生の時に活字で印刷された『怪人20面相』を読んだのが初めての出来事だったので、まだずっと後のことです。おばの家にあった本を、一気に読んだように思います。

 さて、私が5歳の時からの月刊漫画誌に関する情報は、以下の通りです。

【昭31年】
山根赤鬼「よたろうくん」(少年クラブ)、寺田ヒロオ「背番号0」(野球少年)、手塚治虫「火の鳥」(少女クラブ)、横山光輝「鉄人28号」(少年)、鈴木光明「妖術王子」(同)、杉浦茂「少年児雷也」(同)。

【昭32年】
上田とし子「フィチンさん」(少女クラブ)、桑田次郎「まぼろし探偵」(少年画報)、堀江卓「矢車剣之助」(少年)、山田えいじ「ペスよおをふれ」(なかよし)。

【昭33年】
貝塚ひろし「くりくり投手」(おもしろブック)、大友朗「日の丸くん」(日の丸)、桑田次郎「月光仮面」(少年クラブ)、ムロタニツネ象「わんぱくター坊」(漫画王)、つのだじろう「ルミちゃん教室」(りぼん)。

【昭34年】
わちさんぺい「ナガシマくん」(少年)、水野、石森、赤塚合作「くらやみ天使」(少女クラブ)。
●週刊少年マガジン(講談社)創刊=高野よしてる「13号発進せよ」、伊藤章夫「もん吉くん」連載。
●週刊少年サンデー(小学館)創刊=寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、藤子不二雄「海の王子」連載。

 ほとんど、その漫画の絵が思い浮かびます。わからないのは、「妖術王子」「ペスよおをふれ」「わんぱくター坊」「ルミちゃん教室」です。
 週刊漫画誌は、父が出稼ぎ先の大阪から帰ってきた時のお土産でした。創刊号から知っています。
 月刊誌のお土産は『冒険王』でした。「イガグリくん」を読んだ記憶があります。いつのころからか、この『冒険王』を買うお金を、父は送ってくるようになりました。お金を握って、近所の貸し本屋に走って行ったように思います。定価よりも安い本をいただいた、という記憶があります。
(この話題は、少しずつ書き継ぎます。)




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2023年11月12日

本日はお休みです(11月- 2 / 8 )-訂正版のこと

 11月1日に書いた「神在月と神等去出さんのこと」(http://genjiito.sblo.jp/article/190634515.html)は、思い違いから公開したものでした。
 以下のようにお詫びの言葉を冒頭に補記して、訂正版として入れ替えました。
 ご指摘いただいたTさん、ありがとうございました。

【お詫び】
 この記事は、当初は私の勘違いから11月1日に書いたものです。
 10月と11月の異称を、間違って書いたのです。
 ここで訂正し、文章に少し手を入れました。
 大変失礼しました。(令和5年11月12日)




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2023年11月01日

(訂正版)神在月と神等去出さんのこと

【お詫び】この記事は、当初は私の勘違いから11月1日に書いたものです。
     10月と11月の異称を、間違って書いたのです。
     ここで訂正し、文章に少し手を入れました。
     大変失礼しました。(令和5年11月12日)

 早いもので、神無月(かんなづき)が過ぎ去りました。
 生まれ故郷の出雲では、10月を神在月(かみありづき)と言っていました。
 全国各地の八百万の神々が、出雲の国にお集りになる月なのです。
 小さい頃、おじさんの家があった斐川町の万九千(まんくせん)神社の境内で遊びました。
 そして、神等去出(からさで)さんのいわれを何度も聞きました。
 神さまたちが出雲の国を去られ、それぞれの国へお帰りになることです。
 学校の試験で、10月を神在月と答えると、先生はどう対応されるのでしょうか。
 答えは一つではないということを、幼い内に教えたいものです。



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2023年10月12日

意外な出会いと清張流の推理を楽しんだ三鷹

 神出鬼没のリハビリ患者です。
 東京の三鷹市にある禅林寺には、森鷗外と太宰治のお墓があります。
 いつかは、と思いながらもなかなか行く機会がなかったので、今日、妻と行って来ました。

 森鷗外のお墓には先客がおられ、新しいお花とお水をあげておられます。その方から、私に話しかけて来られました。鷗外に詳しい方だと思ったら、もうすぐご著書が出るとのことです。『観潮楼の月 森鷗外夫妻の愛14話』(町田育代、文芸社、今年末刊行予定)に、このお墓の写真を掲載するために今日も来られたのだそうです。奇縁を喜び合い、いろいろなお話をしました。
 そんな時、海外から来られた方が、話しかけて来られました。片言の日本語ながら、森鷗外と向かい側にある太宰治のお墓にも興味を示しておられます。森鷗外の専門家である町田さんとのお話が始まりました。

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 あまり詳しい質問には対応できない私は、太宰治のお墓の方に移動しました。

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 この下連雀から上連雀の地域は、学生時代に妻がアパート暮らしをしていたところです。懐かしさからそこに行こうとしたものの、50年近くも前のことなので、どこにアパートがあったのかわかりません。
 近くにあった図書館に通っていたということなので、図書館を起点にしたら思い出すだろう、ということになりました。しかし、それらしき場所には三鷹市芸術文化センターがあるだけです。

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 地図を見ると、さらに南の市役所がある方に図書館があります。

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 その、毎日のように通ったという三鷹市立図書館に行っても、どうも妻は当時を思い出すことができないようです。ここは違うようだと。

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 その図書館の定礎をみたことろ、1984年となっていました。妻がこの地域から引っ越しをしたのは、1980年頃です。そこで私は、松本清張よろしく推理をします。この図書館は妻がこの地を離れてから建設されています。とすると、どうも記憶と場所が合わないということは、可能性としてこの図書館は1984年以前にはここではなくて、別の所にあったのではないか、と。その、こことは違う図書館に妻は通っていたのではないかと。
 そこで、図書館の方にお尋ねすると、1980年頃は今ある三鷹市芸術文化センターの地にあった、とのことでした。先ほど行って図書館ではなかったので違うと思った三鷹市芸術文化センターが、実はかつて妻が通った三鷹市立図書館だったのです。ということで、また三鷹市芸術文化センターに戻り、そこからかつて住んでいたというアパート探しを始めました。

 かつて三鷹駅まで歩いた道の景色と同じだという場所がありました。

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 しかし、アパートがあった所は見つかりませんでした。後日、住んでいた住所の番地を調べてから出直すことにします。

 そんなこんなで、意外な出会いと謎解きの一日となりました。
 今日歩いたのは 21,768歩。もう、脳梗塞に伴うリハビリの域を越えています。
 今夜の宿は日暮里です。明日は千代田区立日比谷図書文化館で『源氏物語』の講座が二つあります。脚を酷使した一日だったので、ゆっくりと身体を休めることにします。




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2023年10月05日

今日は母の祥月命日

 今日は母の祥月命日です。
 19年前の2004年(平成16)10月5日に、84歳で亡くなりました。母とは3回も一緒に巡った西国三十三所の札所へ、去年の10月5日には一乗寺(26番札所)と書写山円教寺(27番札所)へ、今年は一昨日、播州清水寺(25番札所)と番外の花山院菩提寺へ行ってきました。
 こうして、折々に思い出すことが一番の供養だそうです。そして昨日は、母と何度も行った有馬温泉のお湯につかってきました。

 これまでに紹介していない写真が見つかっているので、参考までにここに掲載します。

(1)孫娘の浴衣は、ついに縫い上がることはありませんでした。
 これは、意識を失って倒れる20日前、自分の部屋で縫いものの最中の写真です。
 戒名が「縫徳禎香大姉」とあるように、和裁に明け暮れた日々でした。

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(2)両親が満州から引き揚げる時にいたと思われる長春の旧日本人居住区。
 幻の『源氏物語』の古写本「従一位麗子本」を探して長春(戦時中の新京)を歩きました。終戦と共に母が旧満洲から日本に引き揚げるために、一時的に身を隠していた地域です。この状況は、麗羅の『桜子は帰ってきたか』(1983年)が語っていることから、当時の様子を推測しています。

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(3)旧日本人居住区を私が訪問した当日、突然、日本で母が意識を失いました。
 母が亡くなるひと月前のことは、「【復元】母子の絆の不可思議さ(2010年04月29日)」(http://genjiito.sblo.jp/article/178934547.html)に詳しく書いています。こんなことがあるのです。

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(4)たくさんの花に囲まれたお通夜は、簡素な中にも心を籠めました。
 床の間には、西国三十三所の満願を果たしたお軸と、新西国三十三所のお軸を飾っています。共に、父の冥福を祈って母と一緒に回った朱印軸です。襖は、母を見送るために、急遽喜びそうな柄に張り替えたものです。中央手前にある木魚は、両親が満洲から持ち帰ったもので、今も我が家では現役で乾いた音を響かせています。

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2023年10月02日

機織りに関する拙稿がネット上に公開されていました

 過日、「美術館「えき」KTOTOで芭蕉布の展示を見る(2023年09月27日)」(http://genjiito.sblo.jp/article/190580359.html)の記事の中で、かつて機織りに関する調査報告書を発表したことがある、と書きました。その時には掲載紙が見つからなかったので、いつか出てきたら紹介しますと保留にしていました。
 その報告書が、福生市立図書館のHPから自由に読めるようになっていることを、研究協力者の淺川さんから教えてもらいました。タイムリーなフォローに感謝します。

 報告書の本体は、『福生市の民俗−生業・諸職− (福生市文化財総合調査報告書 第12集)』として、ネット上に公開されていました。
 その中の「第三章 機業 −福生の民具を通して−」(143〜152頁)が、若かりし頃(45年前28歳)の私の文章です。

 小見出しは次の五項目です。

 一 機についての知識
 二 機の歴史的概観
 三 準備機−製糸の工程−
 四 機−製織の工程―
 五 ライフヒストリー

 「あとがき」によると、私の肩書きは「常民研究会会員」となっています。これは、大学院で同級生だった故・木村龍生君が作った会でした。木村君は、私が東京を離れて大阪の高校の教員になってすぐに、突然亡くなりました。大急ぎで福生の自宅に行きました。この報告書の章は、小山統治さんとの共同執筆となっています。どのようにして組み上げた原稿なのか、よく覚えていません。暑い中を調査したことだけを覚えています。

 こんなことがあったために、過日の芭蕉布の展覧会に反応したのでしょう。




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2023年09月10日

想い出の「ラ・クンパルシータ」

 今回泊まったホテルの部屋の真下に、ユニバーサルスタジオジャパンがあります。朝、早くから若者の集団が列をなしています。宿泊客の9割方は若者たちでした。ちなみに、私はUSJには入ったことがありません。もちろん、千葉にあるディズニーランドも、近くの豊洲や越中島地域に住んでいたにもかかわらず、1度も入ったことがありません。それなのに、パリ郊外にあるユーロディズニーには入りました。おもしろいものです。

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 ゆっくりと朝食をいただいた後、電車で近鉄八尾駅に向かいました。ギターのコンサートに行くためです。
 近鉄八尾駅は、久しぶりです。八尾市高安に住んでいた頃には、ここにあった西武百貨店へよく行っていました。その駅前で、姉の高校時代にギター部で1年下だった後輩のコンサートがあるのです。題して「小野剛藏サロンコンサート Vol.43」。

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 会場には60人はいたでしょうか。盛況でした。
 前半はクラッシックを、休憩を挟んだ後半は、日本の抒情曲が演奏されました。
 最初は、ギターの音色に慣れていないせいか、音が飛んだり途切れたりするのが気になりました。しかし、それはギター特有の奏法によるものだったのでしょう。次第に耳も慣れ、日本の知っている曲になると聞き入るようになりました。
 曲の間のトークも巧みで、ユーモアたっぷりの語り口も楽しめました。
 アンコールを兼ねた締めの曲は、ラ・クンパルシータです。この曲は、私がギターで弾ける唯一のクラッシックでした。
 姉が高校時代にマンドリンクラブで頑張っていた影響もあり、私はクラッシックギターを見よう見まねで楽しんでいました。高校での芸術の選択科目は音楽。授業で、自分の得意な一芸をみんなの前で披露することになり、私はギターでラ・クンパルシータを演奏しました。誰の教えを受けたわけでもなく、買ってきた楽譜を自力で解釈して自己流ながら何とかそれらしく弾いたのです。今日、55年前のことを思い出しながら、指の動きや弾き出される音のダイナミックさに魅せられました。
 なお、私がギターを引いている雄姿(?)は、「地域の集会所で懐かしい歌をみんなと歌う」(http://genjiito.sblo.jp/article/190428803.html)に演奏している時の写真を掲載しています。ご笑覧を。

 終わって会場を出ると、焼き鳥屋「かしわや」さんの提灯が興味深い文字で描かれていたので、仮名文字の資料として写しました。

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 その後は、いつもの墓参のときのように布施駅で降り、回転寿司の日本第一号店である元禄寿司に立ち寄り、小腹を満たしました。

 慌ただしい2日間でした。病後の身体は、こうして日々の中でリハビリという名の訓練をすることで、徐々に回復しています。




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2023年02月19日

母の誕生日に寄せて

 今日は、大正9年生まれの母の誕生日です。
 84歳で亡くなったので、今も元気であれば、今日で103歳。

 姉は今日、ソ連が突然日本との約束を破って満洲に侵攻した映画、『ラーゲリより愛を込めて』を観に行ったようです。先ほど姉から届いた次の報告を見て、あわててタンスを見直しています。

「最後の場面で主人公の奥さんが着ていた着物にびっくりしました。
母がよく着ていた茶色の着物にソックリで模様までよく似ていて本当に驚きました。
そしてその着物は、貴方達ふたりの袖なしにリメイクしたはず。
かなり前の事だからもう手元にはないかもしれませんが。
誕生日に母の着物に会えた様で嬉しかったです。」

 戦時中、両親は満洲にいました。
 戦後すぐに、父はシベリアへ連れていかれました。極寒の地のラーゲリでは、ソ連側が敢行した捕虜に対しては絶対に許されない苛酷な労働を強いられる中、なんとか命をつないで数年後に復員してきたのです。
 母は、正視にしのびないソ連兵や中国人の光景を目の当たりにし、生死の境をさまよいながらも命からがら舞鶴に引き揚げてきました。

 そのことを、両親はほとんど語ってくれませんでした。
 というよりも、あまりにも惨たらしい状況に身を置いたために、語れなかった、いや語らなかったのでしょう。

 私は、妻が家で育てた花を仏壇に飾り、感謝の気持ちを伝えました。

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2023年01月15日

近代文学研究者の青田寿美さんの訃報に接して思い出すこと

 国文学研究資料館でご一緒に仕事をした青田寿美准教授が、10日前の5日(木)に56歳でお亡くなりになりました。突然の訃報と共に、その若さに驚かされました。
 大阪大学の大学院以来のお付き合いです。品川区戸越公園にあった国文学研究資料館に、私のすぐ後に近代文学を専門とする若手を代表する新進気鋭の研究者としてお越しになりました。時には大阪弁で丁々発止のやりとりをし、お互いに励ましながら研究や業務をこなしました。
 横浜市金沢文庫にあった財務省の官舎では、斜向かいの建物に入居となりました。その時の引っ越しの手伝いをしたり、夜には同じ官舎の同僚たちと一緒に、私の部屋でよく宴会をしました。お酒は一切飲まない青田さんは、陽気な話し相手として楽しい話題を盛り上げてくださいました。
 国文学研究資料館が立川市に移転してから、私は江東区越中島にある東京医科歯科大学の官舎に移りました。その時にも、花を持って話し相手として遊びに来られたことを思い出します。
 妻とも仲良しでした。出張でイタリアのフィレンツェに行った時は、私が妻へのお土産を探していた時、街中での買い物に付き合ってもらった上に、紺色のショルダーバッグを選んでもらったことがあります。
 2005年11月には、インドへお連れしました。インドのニューデリーで私が主催者の一人として開催した「第2回インド国際日本文学研究集会」で、研究発表をしてもらったのです。この日のことを書いたブログは、サーバーがクラッシュしたために今は読めません。いつか、メモをもとに再建したいと思っています。
 仕事の上では、私が平安時代で青田さんが明治時代と専門領域が異なるため、学問的な行き来はありません。しかし、私が国文学論文目録データベース室の室長をしていた時には、幅広い視野で事業の円滑な運営のためのアドバイスをしてもらいました。
 また、青田さんのところでアルバイトをしていた何人かは、私が大きな科研を持っていたので、お手伝いに来てもらったことがあります。今、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉や科研のホームページの運営や管理をし、日々情報の収集と整備をしてもらっているAさんは、青田さんのところで最初はアルバイトをしていた方です。青田さんにお願いして、私のプロジェクトに入ってもらった経緯があります。そして、いまだに心強い研究協力者として私を支えてもらっています。折々に、青田さんには感謝の気持ちを伝えてきました。
 定年退職で東京を引き上げる際には、3Dプリンターを引き取ってもらいました。
 今その青田さんが56歳だったと聞くにつけ、あまりの若さに、そして早さに呆然とします。日々腹筋を鍛えていた青田さんからは、見るからにひ弱な私の健康を気遣う言葉をかけてもらっていました。私より2回りも下の青田さんが先に逝くとは、まだ信じられません。
 共に大阪から東京へ行き、充実した日々を過ごし、分野は異なれどそれぞれがスケールの大きな仕事と格闘をした仲間として、心よりご冥福をお祈りしています。
 
 
 
posted by genjiito at 20:29| Comment(0) | *回想追憶