2017年05月30日

【復元】移転11・アンナ・カレーニナは名作?

 これまでに何度も、ウエブに公開した記事が消えています。そのような中で、幸運にも探し出せた文章や写真は見つけ次第に、忘れない内に復元してきました。
 今回のものは、今から10年半も前の、ロシアに行く直前に書いた記事です。
 記録として、再現してみました。

(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年9月10日公開分
 
副題「文豪の最高傑作を映画で観て想うこと(8月21日)」
 
 
 ヴィヴィアン・リー主演の映画『アンナ・カレーニナ』(1948年イギリス映画)を見ました。
 突然ですが、これも来週からロシアへ行くための準備です。昨日は、教え子たちとの暑気払いで、大阪心斎橋でロシア料理を食べました。初めて行くロシアなので、このところ、いろいろと予習をしています。

 さて、この映画を観て、素直な感想は失望でした。こんな話だったのか、と。

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 私は、中学生から高校生の時代に、たくさんの本を読みました。学校の帰りに、大阪の布施にあるヒバリヤ書店で、新潮文庫の総てのページに目を通しました。毎日立ち寄っては、次から次へとページをめくりました。速読とでも言えば格好がいいのですが、とにかく流し読みです。よくわからないにも関わらず、飽きもせずに数百冊の本を手にしました。恥ずかしながら、作家を目指していたことも関係なしとは言えません。

 また、父がたくさんの本を買ってくれました。
 父は、山一証券に勤めており、社内誌『やまびこ』に川柳やクイズや提案を投稿しては、採用されると記念品として文庫本をもらってきてくれました。次は何がほしいと聞かれて、いつも文庫本の末尾にある作品リストに丸印を付けて渡したものです。それだけでも、百冊はあったかと思います。
 父がくれた新潮文庫には、その総てに「提案応募記念」というスタンプが捺されています。

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 トルストイの『アンナ・カレーニナ』も、そんな時期に読んだはずです。

 高校時代から、大阪上本町にあった天牛書店という古本屋にも出入りしており、そこでもたくさんの本を読み、買いました。
 天牛書店とは、織田作之助の『夫婦善哉』にも出てくる、天牛新一郎さんで知られる店です。常連は、織田作之助、藤沢桓夫、折口信夫(釈迢空)などがいたそうです。
 新一郎さんには、私も難波の店で何度もお目にかかりました。新一郎さんに会うために、何度も通ったものです。今で言うアメリカ村の奥に籠られた最晩年にも、その店へ通いました。「へい、おおきに」と言ってくださった優しい言葉遣いが忘れられません。何かお話を聞きたかったのですが、そんな勇気がないままに姿をお見かけしなくなってしまいました。
 今にして思えば、折口信夫のことだけでも聞いておけばよかったと思うことがあります。

 それはさておき、今回『アンナ・カレーニナ』を映画で観て、そのストーリーをまったく思い出せませんでした。若い時に読んだ名作とは、こんなものかも知れません。
 教員をしていた頃に、高校生に名作を読めという指導をしてきましたが、あれは何か意味があったのか、今となっては自信がありません。国語の教員として、意味もなくお題目として唱えていたとしか思えません。

 『アンナ・カレーニナ』は、7回も映画化されているそうです。このビビアン・リーの映画以外では、グレタ・ガルボのアメリカ映画と、タチアナ・サモイロヴァのソビエト映画、ソフィー・マルソーのフランス映画以外は、今はわかりません。

 いずれにしても、映画を観る限りでは、身勝手な女性が恋愛に悩んだ末に自殺する、という印象しか残りませんでした。あまりにも通俗的なので、世界的な文豪の名作という評判と一致しないのです。
 手元の世界文学全集を手にしました。あらためて見ると、その長編さに驚きました。これは、近日中には読めそうにもありません。ロシアから帰って後に、改めてチャレンジしましょう。

 文学は、あくまでも言葉の芸術なので、映画で作品を評してはいけないことは承知しています。
 この課題には時間がかかりそうですが、何とかしていつの日にか、自分なりの意見をまとめたいと思っています。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
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2017年03月26日

『陰翳礼讃』の日々を送って思うこと

 東京の宿舎の管理人さんに部屋に来ていただき、官舎を退去するにあたっての現状確認をしていただきました。入居時の状態に戻して部屋を退去することになっているので、保管してあった器物で復旧しました。
 各部屋に個人的に取り付けた照明器具は外して、最初に付けられていた裸電球に付け替えました。天井からぶら下がるコードに差し替え、その先に電球をねじ込み、口金のところにあるつまみを捻ると点く、あれです。

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 40ワットの裸電球は、旧懐の情を催します。しかし、薄暗い部屋になるので、物をじっと見つめるようになります。子供のころは、30ワットや40ワットの裸電球でした。今から思うと、よくもあんなに暗い明かりで生活をしていたものだと、あらためて文明の進歩を実感しました。特に今、照明をLEDに変えると、眩しいくらいに明るい部屋になります。明るさに慣れてしまうのでしょうか。
 人間の感度は、上がったのでしょうか、それとも下がったのでしょうか。
 それにしても、この40ワットの裸電球の生活も、数日が過ぎると目が慣れてくるから不思議なものです。薄暗い部屋の隅にあったゴミが、なんと見えたりするのです。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出しました。
 瞬間湯沸かし器も撤去し、トイレも蓋だけのシンプルなものにしました。さすがに、汲み取り式に戻すことはありません。
 生活の原点に返った新鮮な気持ちで、外界と遮断された日々を送って来ました。
 食べ物に関しては、昨日書いたように、近くにコンビニエンスストアが3軒もあることのありがたさを痛感しました。火が使えない、電子レンジが使えない等、煮炊きや温めができません。そんな環境の中に身を置くと、コンビニは実に重宝します。高齢者にとってありがたい存在であることも、今回あらためてわかりました。短期間とはいえ、こうした不便な生活をする中で、このコンビニの役割を考え直しました。コンビニには、災害時のみならず、日常生活を支援する可能性が、もっと考えられるように思いました。
 見方を変えると、物を持たない身軽な生活が透けて見え出したのです。私のように、ことさらに物を溜め込む生活パターンの者にとって、これは新たな生き方が拓けてきました。身近にコンビニがあれば、生活の簡素化と共に多様さが生まれます。
 すでにこうした論議は、ネットやテレビに流れていたように思います。しかし、自分自身がそのことを身をもって体感すると、こうしたシンプルな生活の実践に注意が向きます。
 4月からの私の新しい生活に、さらに新しいものの見方が加わりました。社会の仕組みと文化が発展する中で、自分の居場所をもう一度確認してみる必要がありそうです。そして、シンプル イズ ベストという生き方を、意識して日々を送ってみようと思うようになりました。
 
 
 

posted by genjiito at 23:36| Comment(0) | 回想追憶

2017年02月26日

東京マラソンで思い出した個人的なマラソン史

 今日は、第11回目となる「東京マラソン」の日でした。このマラソン大会は、東京都知事だった石原慎太郎氏の肝入りで2007年に実現したものです。豊洲の市場移転の問題はともかく、このマラソン大会はいいイベントとして育っていると思います。
 ちょうど宿舎周辺を走者が通りかかる頃、マイクで交通整理を呼びかける車が往き来していました。応援に出ようかと思いました。しかし、荷物を京都に送った後のがらんとした部屋で、運ばずに残しておいた資料で報告書などを作成する仕事に忙しく、気にしながらも外に出るだけの心の余裕がありませんでした。
 夕方床屋さんへ行った時、おやじさんが髪を切りながら、興奮気味にマラソンの話をしてくれました。折り返し地点となった深川の富岡八幡宮の賑わいや、床屋さんの真下が給水ポイントだったことなど、詳しく聞くことができました。

 東京でのマラソン大会というと、一度だけ出場のチャンスがありました。しかし、結局は出ずに終わった45年前を思い出します。何度か書いた通りですみません。私が二十歳になった成人式の時、記念マラソン大会にエントリーしました。しかし、その2日前に、住み込みの新聞配達店が火事となったのです。すべてをなくして焼け出されたために、人前にでるだけの着るものがありません。両親が作ってくれた初めてのスーツも焼け、残念ながら成人式に行けず、マラソンも棄権したことが貴重な成人の日の想い出です。

 生まれつき身体が弱かった私は、小学校3年生あたりから走ってもいいようになり、中学や高校では長距離走が好きでした。一番の得意種目は1,500メートル。

 マラソンや駅伝は、今ではもっぱら観るほうです。

 京都では、駅伝やマラソンのシーズンになると、賀茂川の散策路で隊列を作って走る選手をよく見かけます。駅伝やマラソンでは、家の近くがコースになることが多いので、応援に行くこともしばしばです。

 生まれ育った地では「出雲駅伝」があります。小さい頃の年末年始は、出雲大社の前にあった「いなばや旅館」の「〈か〉の間」(小泉八雲執筆の間)で冬休みを過ごしていたので、出雲大社をスタートする場面が大好きです。
 今月開催された「出雲くにびきマラソン大会」は、大雪のために中止となりました。
 4月には、「奥出雲ウルトラおろち100キロ遠足」があります。

 大阪で高校の教員をしていた頃、学校のマラソン大会では生徒たちと一緒に走りました。あまり恥ずかしい思いはしなかったので、それなりの順位でゴールしていたと思います。

 奈良では、子供たちと一緒に平群町主催の「くまがしマラソン」に出ました。家の前で家族に手を振りながら、楽しく走ったものです。参加者に配られた、「くまがしマラソン」と記されたスポーツタオルを、今も記念品として持っています。
 
 
 

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2016年12月27日

両親がいた満州とシベリアのことを調査中

 父は昭和58年に68歳で亡くなりました。生きていたら、今月で101歳になります。終戦と同時に満州からシベリアに抑留され、昭和23年6月に舞鶴(?)に引き揚げて来ています。
 母は平成16年に84歳で亡くなりました。生きていたら、来春97歳です。満州のハイラルから命からがら日本に辿り着いたそうです。

 この両親に息子として何もできなかったので、折々に思い出すことで感謝の気持ちにかえています。

 まず、両親が満州でどのような生活をし、終戦後はどのようにして引き揚げて来たのか、ほとんど聞いていません。
 最初の引き揚げ船「大久丸」は、昭和21年12月8日に舞鶴に入港しています。これに母は乗っていたのでしょうか。母は、父の復員を出迎えに行ったのでしょうか。島根県の出雲から舞鶴へ? いつ帰るとも知れぬ父を、家で着物を縫い続けていた母が迎えに行けたとも思えません。それすら、聞かないままに来ました。

 引き揚げ船の最後となった「興安丸」が舞鶴に入港したのは、昭和31年12月26日です。父の帰還は昭和23年なので、早い方だったようです。

 先日、西新宿で開催されていた、シベリア抑留生活に関する展示と講演に行きました。
 「江戸漫歩(148)平和祈念展示資料館で両親のことを想う」(2016年12月18日)
 父が極寒の地で生き抜いた様子が、少しだけイメージできるようになりました。

 母については、第1回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞した麗羅の『桜子は帰ってきたか』(1983年)からのイメージしかありません。実際に、母はどのようにして満州から日本に帰ってきたのでしょうか。
 いつもニコニコしていた母に、満州から引き揚げて来たという暗い日々の痕跡はまったく感じられませんでした。
 このことは、「西国三十三所(35)松尾寺」(2010年11月05日)に少し書きました。

 モンゴルで父のことを思い、ウランバートル市の日本人墓地跡へ立ち寄ったこともあります。
「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」(2010年01月17日)

 その後、「宙に浮いている郵便貯金1900万口座」(2010年08月20日)に書いたようなことがありました。
 これに関しては、証明するものがないとのことで、以来うやむやになったままです。

 今回、平成22年に「シベリア特別措置法」が制定されていることを知りました。

 いろいろなことがわかって来ました。しかし、まだ点でしかありません。
 この点を線へと、そして面にして立体的な像を組み立てるためにも、さらに調査を進めて行きます。
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2016年12月16日

48年前の両親の写真を復元

 いろいろと身辺の整理をしていたら、ハードディスクから両親の写真が出てきました。
 母が亡くなった後、残された写真の多くを、娘にスキャナでデジタル化してもらった内の1枚のようです。


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 記録から、48年前の昭和43年3月に、大阪府八尾市の高安の里に住んでいた頃の写真であることがわかりました。私が高校1年生の時です。

 4畳半と6畳の二間に4人で暮らしていました。
 奥の台所は2畳ほどだったでしょうか。
 父の後ろに、私が使っていた勉強机があります。
 その左端に姉のギターがあるので、この机は姉との共用だったかもしれません。
 今では信じられないことながら、中学まではミカン箱か卓袱台で勉強をしていました。
 『巨人の星』の卓袱台返しのあれです。
 まだ電話もない時代だったので、急ぎの連絡は電報でした。

 明後日、満州から引き揚げて来た方々の展示やお話を聴きに行く予定です。
 ちょうど良いタイミングで、写真が見つかりました。

 満州で終戦となった父はシベリヤへ抑留され、母は命からがら日本に引き揚げて来ました。
 言い知れぬ苦労をしたはずの両親です。しかし、その話はほとんどしてくれませんでした。
 私の方から、もっと聞くべきだったかも知れません。

 母が中国残留孤児の番組をじっと見ていた姿を思い出します。
 2人とも、満州で生活を共にした戦友会には、いつも楽しみにして一緒に参加していました。

 この写真の頃、父は山一証券に勤めていました。
 何とか安定した日々になっていたことが、その表情からうかがえます。
 父52歳、母48歳です。

 以前、両親のことを書きました。

「わが父の記(3)父の仕事(その1)」(2010/4/3)

「わが父の記(4)父の仕事(その2)」(2010/4/6)

 あと2年で、私は父が亡くなった時の年齢に達します。
 こうして思い出すことで、両親への感謝の気持ちに代えたいと思っています。続きを読む
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2016年12月04日

徳江元正先生(國學院大學名誉教授)のお通夜に行って

 徳江先生がお亡くなりになったとの報に接し、取るものも取り敢えずお通夜に行ってきました。
 JR総武線の本八幡駅からすぐの葬祭場です。

 徳江先生には直接の指導を受けたわけではないのに、いろいろと思い出すことがあります。

 先生には、大学の授業で教わっただけです。お能に関する講義でした。それ以外では、学内の学会でお目にかかっただけなのに、なぜか近しい気持ちを持っています。

 私が大阪の高校で教員をしていた頃のことです。
 國學院大學の国語国文学会で『源氏物語』の本文に関する研究発表をした後、会場近くの食堂で一人で食事をしていた時のことでした。同じ食堂で先に食事を済まされた徳江先生が、君のも一緒に払っておくからね、と言って出て行かれたのです。
 それまで、特にお話をしたことがあったわけではありません。一言だけ言い置いてお帰りになった、という感じでした。

 遠い所からご苦労さまだね、というお気持ちからだったのでしょうか。
 中世の能や芸能を中心とした研究をなさっていた先生とは、研究対象とする時代もテーマも異にしていて、特に親しく指導していただいたことはありません。それだけに、本当に恐縮しました。あの時の振り向きざまの優しい目が、今でも思い出されます。

 その後、私が高崎正秀博士記念賞を受賞した時(平成2年5月)、授賞式の会場だった百周年記念館の廊下ですれ違った折に、心温まる過分の労いのことばをいただきました。いい研究なので続けなさい、ということでした。
 直接の接点がない先生だっただけに、ありがたくお言葉をいただきました。
 個人的におことばをかけてくださったことが嬉しくて、今でも私の心に刻み込まれています。

 また、ある懇親会では、私を見つけて「ボクこっちへ」と呼ばれました。ごく普通に声をかけてくださったので、お声掛けのままにお側へ行くと、なんと歌人の馬場あき子先生に向かい合う席に座らされました。
 緊張しっぱなしの私に構うことなく、お二人の先生は私の横と前で楽しく歓談なさっていました。そして、徳江先生はカメラでパチパチと写真を撮っておられました。

 その後も、何度か上京した折に、「ボク、ボク」と気さくに声をかけてくださったのです。
 徳江先生に親近感を覚えているのは、学問的なことではなくて、こうした何気ない優しいお声がけをいただいたことが、その後もずっと忘れられないからでしょう。

 その当時、私の勤務校は新設高校で、380人の入学者のうち、100人以上が毎年退学していく学校でした。毎晩夜食が出るほどに、遅くまで職員会議で居残っていました。問題を起こした生徒の家庭訪問に明け暮れる日々のそんな中で、刺激を求めて上京すると、そっと声をかけてくださる徳江先生は、もっと勉強しようとの思いを強くした、ありがたい大先輩でした。

 自分の勉強時間の確保もままならない毎日でした。その学校には、9年間勤務しました。力まずに、自然体で勉強ができたのも、徳江先生のように黙って背中を押してくださる存在があったからだと、あらためて感謝しています。

 大学を出て20年ほど経ってから、遅ればせながら私が研究者としての道を歩み始めてからは、中古と中世の文学研究という守備範囲の違いからか、徳江先生とお目にかかる機会がなくなりました。よちよち歩きの私が、それなりの研究成果を出せるようになったのをご覧になったら、何とおっしゃったでしょうか。「ボク、もっといろいろなことをしなさい。」と優しいことばをかけてくださったのではないでしょうか。

 そんなことを思い、感謝の気持ちを込めて、遺影を見つめながらお焼香をしてきました。
 ご冥福をお祈りします。
posted by genjiito at 22:57| Comment(0) | 回想追憶

2016年09月24日

再録(27)突然黒煙をあげるディスプレイの話〈2001.10.30〉

 この一連の「再録」は、〈大和まほろば発 へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】というコーナーから発信していた情報群の一部です。
 このサイトのデータが見られない状態が続いているので、オリジナルのデータから抜き出して再現したものです。

 私はデジタル用品をはじめとして、さまざまな製品でトラブルに遭っています。
 以下で取り上げるディスプレイのトラブルは、今から15年前の大和平群での出来事です。
 今では、ブラウン管タイプのモニタを見つめている人は、よほどの事情か環境に縛られている方でしょう。みなさん、液晶モニタなので、もうこのような体験はないと思います。
 もちろん、液晶モニタでも何台かは画面に亀裂が入り、ひび割れた箇所から液体が滲んだことがありました。壊れにくくなったといっても、私はやはりトラブルの中を生き抜いています。

 海外のメーカーが作った商品は、今でも数年経つと困った存在になります。
 形あるものは、いずれ壊れるからです。
 その時に、どこで対処してもらうか、という問題に突然直面することになるのです。
 このことは、今でも状況は同じではないでしょうか。
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 

〔突然黒煙をあげるディスプレイの話〕


 〈2001.10.30〉
 
 先日、いつも使っているパソコンのディスプレイ(モニタ)の一つが、突然黒煙をあげだしました。
 真っ黒な煙が部屋中に充満し、危険を感じてすぐにモニタの電源を抜きました。

 私は、自宅でも職場でも、一台のパソコンに三台のモニタを接続し、広い画面いっぱいにファイルを並べて仕事をしています。その内の一台が、思いもかけないトラブルを起こしたのです。
 そのモニタの前兆としては、画面がユラユラと揺れることがありました。しかし、すぐに収まるので、とくに問題とは思っていなかったのです。あれが前触れだったのでしょうか。

 このモニタは、マグビュー社の製品「MXE17S」で、1995年の製造品です。
 トリニトロンのブラウン管が好きな私は、ソニーのモニタとともにマグの製品を愛用しています。このマグのモニタを、私は四台持っています。
 実は、以前にもこのマグ社のモニタで別のもの「MX17S」が火花を散らしてダウンし、修理してもらったことがあります。その時の修理依頼書には、次のような報告書を添付しました。


・突然焦げ臭いにおいが立ち上り、パチパチというスイッチが切り替わる音が頻繁におこりました。
・においは、ゴムが焦げた時や、ハンダのヤニが焦げた時のくささでした。
・数日前から、画面が左右に1センチ位フェイントのように横ズレしました。
・これが頻繁になり、時には画面の文字が読めない程に激しくブレだしました。
・最近は、ザラついた画面で使用していました。
・同時に横に並べて使用していた御社の「MXE17S」と較べて、最近は画面がボケだしていたように思えます。
(1996.2.5)


 この時は、火を噴いたモニタを東京都大田区東海にあるマグビュー株式会社サービスセンターに指示通りに宅急便で送り、素早い対応をしてもらいました。
 25キログラムもある大きなテレビですから、発送のための梱包に苦労しました。しかし、迅速に対応してもらったので、アフタケアに満足したことを覚えています。その時に受け取った修理報告書には、以下のように書かれていました。


電源部の可変抵抗部品を交換致しました。
交換後、連続稼働テストを実施し、障害の改善を確認致しました。
今回は無償で対応させていただきます。


 こんなことがあったので、今回も同サービスセンターに電話連絡をしました。すると、思っても見ない対応を受けることになりました。おおよそ、以下のような内容を電話口の女性はおっしゃるのです。


・その症状は修理不能である。
・モニタの寿命は3年から5年である。
・すでに製造を打ち切った製品であり、部品もない。
・おたくでそのモニタは処分してほしい。
・どうしてもということなら、こちらはあくまでもマグ社から委託されているサービスセンターなので、直接台湾の会社の担当者と話し合ってほしい。
・台湾の連絡先は、886-02-3233-2988で、アフターサービス担当のDennisi Chungに言ってほしい。
・ただし、彼は日本語を理解しない。
・この商品にリコールはなかった。


 何ともはや、冷たくあしらわれました。とりつくしまもないのです。

 外国で製造された製品を購入する場合は、日本にサービスセンターがあるからといって安心してはいけないようです。機械は、道具は、いつか必ず壊れます。それが、早いか遅いかの違いはあれ、とにかく使えなくなるときがくるのです。その時どのような目に遭うかを考えて、こうした商品は購入すべきであることを痛感しました。

 それにしても、火事に至らなくて幸いでした。そして、残った三台のマグ社のモニタをどうすべきか、今は思案中です。モニタは頻繁に電源を切り、順次ソニーのモニタに変えていこうと思っています。みなさんも、知らない内に火事という災難に巻き込まれないように、十分にご注意下さい。

 折しも今日の夕刊には、新宿歌舞伎町のビルで発生した火事の原因は、電気配線のショートではないかと報じられています。私も、すんでのところで住まいと家財一式を失うところでした。コンピュータ業界の一部には、あの悪徳会社Mに代表されるように、無責任極まりない対応がなされていることを身に染みて痛感しています。怖いことです。
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2016年08月30日

再録(26)郵便局のズサンな転送業務〈2002.4.27〉

 この一連の「再録」は、〈大和まほろば発 へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】というコーナーから発信していた情報群の一部です。
 このサイトのデータが見られない状態が続いているので、オリジナルのデータから抜き出して再現しています。

 これまでに、宅配便のいいかげんな配送について、何度か書きました。
 そこで、郵便に関するトラブルも、再録記事として取り上げます。

 以下の記事は、自分の学位授与式に出席できなかったという、苦い思い出の一つともなっています。ただし、主査を務めてくださった伊井春樹先生から、後にあらためて個人的に、学位記を直接手で渡してくださいました。恐縮しました。ありがたいことです。
 郵便や宅配で品物や書類を受け取るタイミングを逸したことは、多くの方が経験されていることでしょう。こんなこともありました、ということで、記録として残しておきます。
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 

〔郵便局のズサンな転送業務〕


 〈2002.4.27〉
 
 インドから帰国したのは3月20日。これは、週明けにあるはずの、私にとって30年間の研究活動の一区切りとなる式典に出席することを考えてのものであった。しかし、信頼できるはずの日本の郵便局の不手際から、それが叶わないままに終わってしまった。

 帰国後、実家に届いた郵便物をいくら調べても、関係する書類が見あたらない。
 どうなっているのか思案していると、式典の前日に伊井春樹先生から電話があり、書類が届いているかとのこと。数日前にも、一足先にインドからお帰りになった伊井先生から、案内状が届いているかと心配してくださったのである。まだであると答えると、それでは2ヶ月後にも授与式があるので、そちらの方に廻されたのだろうかとのことであった。

 そうこうする内に、心覚えにしていた25日も過ぎ、しかたがないので上京の準備をしている時に、横浜での留守をお願いしていた同僚の奥さんから、私の部屋に様子を見に入ってみたら、速達がドアのポストに投函されていたとのこと。差出人は大阪大学とあるそうである。


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 すぐに開封してもらうと、届いていたのは私が待っていた「学位授与について(通知)」と「博士学位記授与式のご案内」であった。発信の日付は、3月18日。私がインドを発った日に横浜に届いたものであることが分かった。

 私は、インドへ出張で出かけている間の横浜への郵便物は、すべてを奈良の実家へ転送してもらう手続きをしていた。帰国後、実家で多くの転送された郵便物を確認しているので、転送業務は正しく行われているのである。
 しかし、この書類だけは、どうしたわけか横浜の部屋のドアのポストに投げ入れられてしまっていたのだ。いくら奈良で待っていても、この案内状は手にできないはずである。そして、書類を確認したのは、すでに式典が終わった2日後だったことになる。

 早速、大阪大学に電話をし、学位記をもらう手続きを問い合わせた。すると、文学部の大学院事務室で預かっているので、いつでも渡せるとのことである。
 すぐに伊井先生にメールでことの次第を報告し、そのまま大阪大学へ出かけた。無事に事務の方から受け取り、その足で伊井先生の部屋に立ち寄ると、ちょうど待っていてくださった所であった。そして、先生は私が手にしていた学位記を確認し、その場で改めて手渡しでくださったのである。

 私は、30年間ひたすら後を追い続け、45歳を過ぎてから学生の身分を得て、改めて先生の教え子になって指導を受けてきたのである。一週間前に先生とはインドのデリーでお別れし、そしてこの日は、先生の研究室でご褒美とありがたい励ましをいただくことになった。
 人生50年目に、一区切りの忘れがたい日となった。

 帰りに妻と待ち合わせをし、食事をして記念品を買った。翌日は、妻への感謝の気持ちから、かねてより欲しがっていた食器棚をプレゼントした。妻からインドへ届いたメールにあったものでもある。インドから買って帰るには大きすぎるので、日本で買うことにしたのだ。

 それにしても、問題の書類はどうして実家に届かなかったのであろうか。横浜の金沢郵便局に電話をして問い合わせた。すると、責任者であるタシロさんから、速達は通常の配達人ではなくて、アルバイトのおばさんが届けているという説明があった。「いつもと違う者がやっているので、間違って配ってしまったようだ。」とのこと。そして、速達なのでドアのポストに入れてしまった、という言い訳が返ってきた。

 私が不在なので転送をお願いしているにもかかわらず、何ともいいかげんな配達業務である。この種のクレームは、郵政事業庁のお客様サービス係(045-320-xxxx)に電話をするのだそうである。

 さらに、月末の横浜市長選挙の連絡も届いていないことを尋ねると、投票に関する郵便物は転送しないことになっているそうである。投票の通知書がなくても投票できるということなので、投票時間に間に合うように上京した。

 横浜の部屋に入ると間もなく、偶然にも郵便局の第一集配営業課課長の田代さんがお出でになり、不始末のお詫びを言って帰られた。アルバイトの人がついうっかりと、ということである。転送は一年間有効なので、転送解除はせずにそのままにしておくことにした。今年の年末までは、郵便物はすべて奈良の実家に転送となる。

 インドでは、郵便局における郵便物からの抜き取りは日常茶飯事のことだと聞いた。郵便局の窓口が信用できないので、あえてポストに入れる人もいる。少しでも郵便局員の手を経ないようにするために、ポストから地域の中央局へ行った方が幾分かは安全だという考え方によるものである。一緒に暮らしていた中島岳志君も、4通の内の2通は届かずに行方不明となっていた。奨学金に関する大切な書類が届かなかったのである。

 日本は、郵便物は一応は届くことを前提に生活できるので、その点では安心である。しかし、このように転送業務がいいかげんであることは、今後とも注意しておくべきであろう。過信は禁物である。郵政の民営化が実現すれば、もう少し緊張感をもって配達に当たることになるはずである。競争することによる業務の見直しは、ひいては我々の生活における不安をいくらかでも解消することにつながるはずだ。そうした意味からも、一日も早い郵政の民営化を望むところである。

 そうこうする内に、またもや横浜の官舎のドアのポストに、アドビ社からのフォトショップのバージョンアップの案内通知郵便物が投げ入れられた。
 階下にある集合ポストに、郵便物は入れられることになっている。しかし、私は帰国後もこのポストをガムテープで封鎖してあるのだ。通常はこの集合ポストに郵便物は入れられることになっている。ただし、私がそのポストの入口を蓋しているので、そしてそこに「ドアポストにおねがいします。」と書いているので、しかたなく、それもご丁寧に私のドアまでわざわざ運んでくださったのである。

 転送依頼を解除していないし、奈良の実家に転送が続いている最中にである。どうも、郵便局の転送サービスは、苦情を言っても是正されず、相変わらず至極いいかげんなようである。もう苦情を伝えるのはやめにした。横浜の部屋に投げ込まれる郵便物を、これからは一つの楽しみにしよう。
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2016年05月27日

【復元】10年という区切り目

 今回復元した記事を書いたのが2006年です。
 東京品川の戸越にあった職場に通い出して7年目でした。
 この2年後の2008年、『源氏物語』の千年紀の年に、職場は品川から立川に移転しました。
 上京して9年目だったのです。
 そして今、立川に来て8年目となり、来年の9年目に定年退職となります。
 大学を卒業してから、2つの高校に、それぞれ9年と4年半。
 転職した短期大学に8年半いて上京しました。
 偶然とはいえ、嘘のように辻褄が合う勤務年数の積み重ねに、あらためて一人で感心しています。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年7月4日公開分
 
副題「同じ所に10年以上いてはいけない」
 
 過日記したフィットネスクラブの続きです。
 またまた、その男性インストラクターのプログラムに参加しました。相変わらず軽快なアクアビクスでした。

 最初のトークによると、インストラクターをして丁度10年目の記念日だ、とのことでした。要領よくエクササイズを組んであることや、その進め方がうまいのは、この年季のせいなのでしょう。チョッとアルバイトで、ということではなさそうです。その業界のことは知りませんが、やり続けて来られたことに最大の価値があると思われました。

 10年一区切り、という信条を持つ私は、この方の今後が楽しみです。

 私が初めて高校の教員になった時、「同じとこに10年以上おったらあかんで」、と尊敬するN先生から言われました。
 確かに同じ職場に10年もいると、後から来た同僚や、自分を取り巻く周辺の環境などに不平不満が出ます。日々変化する新しい状況に、柔軟に対応しにくくなることも要因でしょう。自分がしてきたことに自信があればあるほど、10年間に生じたギャップに違和感を持つのは当然です。それを埋めることは容易ではありません。適当に周りに合わせてきたのでないならば、それはなおさらです。もっとも、これは教育分野での特殊な事情からのことかもしれませんが。

 私は、9年で別の職場に移りました。これまでで、そこが一番長くいたところです。新設高校の初年度からだったこともあり、毎日、日暮れまでテニス部の指導をしました。大阪湾に沈む夕日を見ながら、自転車を押して、渡し舟に乗って、問題を起こした生徒の家庭訪問に明け暮れていました。1年間に100人以上もの生徒が退学する学校でした。

 以来、今は4つ目の職場にいます。この単身赴任も今年で7年目。現役で仕事ができる終盤です。定年まで、あと10年。そろそろ最後の転身をはかる時期にさしかかって来たようです。

********************** 以上、復元掲載 **********************
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2015年12月30日

2015年の十大ニュース

一年を振り返る時期となりました。
今年も充実した一年でした。
無事に歳が越せることに感謝しています。

今年最大の出来事は、『源氏物語』の翻字において、「変体仮名翻字版」というやり方に大転換したことです。これまで30年間に構築したデータベースを、新年正月早々、すべてを捨ててやり直す決断をしたのです。
これは、『国立歴史民俗博物館蔵『源氏物語』「鈴虫」』(伊藤鉄也・阿部江美子・淺川槙子 編著、新典社、2015年10月)に結実しました。

今年一番の慶事は、科研費研究で「古写本『源氏物語』の触読研究」が採択されたことです。
これにより、私の物の見方をはじめとして、生き方が大きく変わりました。
目の見えない方々との手探りの中での研究は、さらに展開する予感がしています。
 
いろいろなことがあった2015年。
平成27年もあとわずかとなりました。
私の東京での生活はあと1年3ヶ月です。
来年も変わらずよろしくお願いいたします。

1月 写本の翻字を変体仮名翻字版に変更する
2月 ケンブリッジ大学において3先生と面談
4月 科研で視覚障害者と古写本の触読が採択
6月 日本盲教育史研究会で初めての北海道へ
8月 祝・卒業となった京大病院でのガン治療
9月 下鴨茶寮で父の33回忌と母の13回忌
10月 『歴博蔵 鈴虫』変体仮名翻字版刊行
10月 井上靖の小説全357作品を卒読する
10月 放送大学東京文京Cで「鈴虫」を読む
12月 NPO法人GEMの定款変更申請受理
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2015年12月23日

再録(25)マッキントッシュG4導入〈2000.2.29〉

 今から約16年前の記事です。
 情報の一元化にともなう記事のアーカイブズ化の一環の意味で、ここに再録データとして残しておきます。
 初期不良などのさまざまな不具合と格闘する、私にとっては日常茶飯事となっているパソコンライフの記録です。

 ここで取り上げているG4の次の写真は、「http://www.512pixels.net/blog/2013/07/power-mac-g4」のサイトに掲載されているものをお借りしています。アップルが PR に使った写真のようです。これが、私が使っていたものに一番近いイメージなのです。


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 私は1999年4月に今の職場に移り、大和・平群の里から東京の品川へと、単身赴任者として8年間ほど通っていました。京都から東京へと通うようになったのは、2007年5月からです。

 現在のブログは、この京都へ転居してからスタートしたものです。
 つまり、ここで再録としてアーカイブズしているのは、それまでにパソコンのホームページ〈へぐり通信〉として大和から発信していた情報群になります。

 奈良の自宅と、新幹線の車内と、東京の職場と宿舎で、フルに仕事をしていた頃、平群の自宅で使っていたパソコン談義になります。
 

----------------- 以下、再録掲載 ---------------------

〔マッキントッシュG4導入〈2000.2.29〉〕

 突然ですが、週末にグラファイトカラーのマッキントッシュG4を購入しました。家族みんなに私のマシンを取り上げられ、娘のお古の6100を使っていたからです。

 購入時にメモリの増設をしたところ、購入店のソフマップ大阪8号店で一時間半以上も待たされました。動作確認時に、G4本体が不良品であったためだとのこと。

 以前、マッキントッシュ G3をOAシステムで購入したときも、メモリとハードディスクを付け替えてもらった際、店員さんがハードディスクのコネクタを逆に無理矢理差し込んでいたという経験があります。お店に任すのも、そばで見ていないと信用できません。

 今回は、自分でメモリを増設しようと思っていました。しかし、お店の人が手数料は無料になるからと言うのでお願いしたのです。もし自分が自宅でメモリの増設をやっていたら、このG4本体の初期不良にどう対処したのかを想像すると、思わずゾッとします。

 一難去ってまた一難。
 自宅にG4を設置してから、我が家のルーター(家庭内SOHO)がG4だけを通さないのです。インターネットも、他のパソコンともファイルのやりとりができないのです。その対策に四苦八苦しました。

 原因は、MacOS9のオープントランスポート(Open Transport)というプログラムが初期バージョンで、その不具合(バグ)のせいでした。雑誌記事で、そんなことがあるとは知っていましたが、まさか自分がその罠にはまるとは。

 理由がわかるまでの2日間は、イーサーネットのコネクタをつけたりはずしたりと、大変でした。
 家庭内LANにつなげて、インターネットに接続しようと努力していました。しかし、G4の背面にイーサーネットのコネクタを差し込んだ状態では、起動はしてもディスクトップ画面が表示されるとそこでストップします。はずして起動した場合は、後でイーサーネットに接続すると、数分でパソコンがフリーズします。

 ネットワークにつながっているカラープリンタも、一枚が印刷できたら幸運なのです。
 G4はモデム内蔵なので、その機能をはずしたり、いろいろなことをしました。おまけに、一緒に購入したSCSIカードもイマイチで、外付けの20GBのハードディスクも、つながったりダメだったり。不安定この上ないのです。
 こうなると一日がスッキリせず、仕事も捗りません。

 月曜日になるのを待って、早速アップルのマッキントッシュサポートセンターへ電話をしました。担当者につながってから不具合の説明をすると、すぐにOpen Transportが原因であるとの返答。バージョンを2.5.2から2.6に上げると解消すると言われました。

 そういえば、雑誌やアップルのホームページで、通信上の問題点を指摘していたことに、ようやく気づきました。別のパソコンを使ってインターネットでアップルのホームページへ行き、「Open Transport 2.6」を入手して、無事このトラブルに対処できました。あっけない幕切れです。

 それにしても、G4は驚異のパソコンです。ウインドウズのような電子計算機ではなくて、まさに情報文具です。

----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年12月21日

再録(24)Windowsマシンで大騒ぎ〈1998.12.24〉

 Macintoshユーザーである私は、今も Windows マシンには顔を背けています。
 実際に、あの画面を見ると露骨に不愉快な反応をするので、私をよく知る人は心して対応してもらえているようです。
 それだけ Windows マシンを極端に忌避する私も、かつてはいろいろな事情で Windows マシンを家に置いていたことがあります。それは、子供たちがゲームをしたい一心で話しかけてくるので、一時的にマイクロソフトを許したことがあったからです。

 そんな頃があったので、その17年前の師走のことを、これも再録データとして残しておきます。

 この元データは、〈大和まほろば発 へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】というコーナーから発信していた情報の内、1998年12月に公開した記事です。この一連の「再録」は、過去に発信した情報を本ブログに取り込み、アーカイブズの一環とするものです。
 
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 
〔再録(21)Windowsマシンで大騒ぎ〈1998.12.24〉〕
 
 
 一台のWindowsマシンが不調になったために、家族が膨大な時間を捨てるはめになりました。
 ことの起こりは、クリスマスプレゼントとして、子供にメモリとソフトを買ったことです。
 ソフトは良かったのですが、メモリがとんでもない物だったのです。

 大阪日本橋のソフマップ7号店で、64メガバイトのメモリを1万円弱で買いました。その際、店員の方には、取り付けるマシンが「日本ゲートウェイ2000」のWindowsマシンであることを告げました。
 このパソコンは、一般のショップで店頭販売されているものではないので、このことを言わないと何かとややこしくなるからです。店員の方はすぐに資料を見て、私が告げた機種が対応しているメモリであることを確認してから、メモリを渡してくださいました。

 ところが、これがトラブルの始まりでした。

 帰宅後、子どもたちと一緒にメモリを取り付けました。
 このパソコンは、二人の息子用に渡したものです。性能は低いながらも、ゲームやインターネットの利用には十分のペンティアム・マシンです。すでに32メガバイトのメモリが一枚入っており、その横に、新たに64メガバイトのメモリを差し込みました。息子の手首に静電気除去のための腕輪をはめさせての作業でした。96メガバイトのメモリを実装したパソコンになる(はず)です。

 しかし、何度起動しても、最初に表示されるメッセージでは、メモリ容量が増えていないのです。それより、メモリ容量が減少しているという英語が表示されます。おまけに、セーフモードでしか起動しないのです。そうこうする内に、起動画面がおかしくなり、ついには電源を入れても、何も表示されなくなりました。

 すぐに、購入したソフマップに電話をしました。いろいろと調べた挙げ句に、接客ミスで間違ったメモリを渡してしまった、との返答でした。店頭に持っていけば、返金するとのこと。おかしくなったパソコンをどうしたらいいのかと聞くと、クリニックセンターへ持って行けば、点検してもらえるように手配するとのことでした。

 しかし、この年末に、大きなタワー型のパソコンを運ぶためには、奈良から大阪まで車で運ぶことになります。何かと忙しくて、このホームページの更新も今月一日以来ひさしぶりという状態なので、とても出かけられません。

 かくなる上は、Windows95のシステムを入れ替えることで対処することにしました。Windows98にしないのは、私のソニーVAIOで懲りているからです。パソコンに添付されていたマニュアルや資料を見たのですが、ちんぷんかんぷんです。思い切って日本ゲートウェイに電話をしたところ、丁寧に手順を教えてもらえました。

 電話での指示をメモしたものをもとにして、中一の息子とシステムの再インストールを始めたのはいいのですが、Windows95のプロダクトIDを入力するところで行き詰まりました。何度入力しても、認証番号が間違っているというメッセージが表示されます。丁度夕方の5時前でした。それからというもの、家族6人が交代交代で、17桁の数字を打ちます。途中で日本ゲートウェイにまた電話をして、助けを求めましたが、何か数字が間違っているのでしょう、との返事しかもらえません。こんな電話は、よくあるそうです。またまた、えんえんと家族が、入れ替わり立ち替わり17桁の数字を入力します。

 2時間半も経過した頃でしょうか。日本ゲートウェイに、また電話をしました。いろいろとやりとりがあった末に、「フォーマット」という言葉が出てきて、ハードディスクの初期化をしたのか、ということでした。夕方の問い合わせでは聞かなかったことなので、それはしていないと答えると、WindowsからMS-DOSモードに降りて、プロンプトに「C:\format /q/n」と入力して初期化をすれば、プロダクトIDを受け付けるはずだ、とのことでした。
 十数年前の、DOSマシンの頃にタイムスリップすることになりました。

 言われたとおりにすると、無事に17桁の数字を受け入れてくれました。夜の8時40分を過ぎていました。約4時間もの長時間にわたって、不正使用防止のキーワードとも言うべき17桁の数字をめぐって、家族が格闘していたのです。

 ところが、まだまだ落とし穴は至る所に仕組まれていました。それは、ドライバというものの組み込みです。手元の冊子や資料通りにやっても、まったく先へ進まないのです。また電話でのサポートにすがるしかありません。夜の10時を過ぎていたでしょうか。息子がサポートの方とのやりとりにお手上げとなり、また父親にお呼びがかかりました。

 結局、冊子の印刷通りではなくて、CD-ROMを使わないといけないとのこと。以下の作業も、そのように読み替えて進めればいいとのことでした。ところが、これも罠だったのです。

 息子は夜を徹して初期化とインストールを繰り返し、結局夜が明けても完了しませんでした。私も、仕事をしながら、時々様子を見ましたが、明け方の4時半までは覚えていますが、それ以降は、息子にまかせてしまいました。

 二日目の朝の段階では、27頁ある「Windows95 インストールガイド」の内の16頁までは終えたようです。しかし、Windows95のアップデートとドライバの組み込みという難関が残っています。
 ところが、クリスマスのために買った「パワフル・プロ野球」というゲームをしたい一心でパソコンの修復を率先してやっていた息子二人も、とにかく遊びたいという誘惑に負けたようで、いつの間にかゲームソフトをインストールして遊んでいたのです。
 もっともシステムの設定が完了していないので、色は不自然で音もない野球ゲームを、楽しそうに二人でやっているのです。

 あまりにもかわいそうなイブイブなので、夕方から何度目かのフォーマットを手伝い、システムのインストールをやりなおしました。しかし、至る所で完了しなかったメッセージが出ます。さらに何回か日本ゲートウェイに電話をし、もうこちらも暗記するほどの操作をえんえんと繰り返しました。

 そして夜の8時をすぎた頃だったでしょうか、パソコンに添付してあるフロッピーを要求されました。昨日までは、CD-ROMでいいと言われていた操作のときでした。
 未開封のビニール袋を破り、取り出した一枚のフロッピーが、ようやく開かずの扉をあけてくれました。ただし、その後の手順は、メモしきれないほどのものであり、訳の分からないことをいろいろとさせられました。

 その後は、また息子にバトンタッチをし、またサポート係に電話をすることもあって、ついに夜中の10時15分に、「Windows95」の再インストールが完了しました。30時間の耐久レースを終えたときの息子の満足げな表情は、これはこれで貴重な収穫であったということにしておきましょう。

 私の「時間を返せ」という憤りより、息子の充足感に目を向けることにします。

 それにしても、ソフマップ7号店の上原さん。あなたが渡してくれたメモリが、こんな家庭内騒動になっていたのですよ。
 そして、日本ゲートウェイの電話サポート担当のたくさんの方々、粘り強い24時間体制の支援に感謝します。後半は、息子が電話で問い合わせたにも関わらず、丁寧に対応してくださり、ありがとうございました。息子が自分で何とかしようという気になったのも、サポートの姿勢に誠意を感じたからでしょう。訳の分からない苦情を言ったことにも、じっくりと聞いてくださり、この種のサポートは大変な仕事だなあと、家族一同、改めて感心しています。

 パソコンがまだまだ未成熟な上に、Windows という不出来なシステムを搭載せざるをえないコンピュータ業界は、このようなサポート体制と要員によって支えられていることを実感として味わえました。

 しなくてもいいこととはいえ、貴重な体験の一つだったように思います。
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年10月03日

再録(23)携帯電話の危険性〈2000.5.4〉

 携帯電話の電磁波について、近年はその性能が向上したことと相俟って、その発する電磁波も低減しているそうです。
 そこで、一昨日の1日より、電車内などでのルールが変更となりました。優先席の近くでは携帯電話の電源を切るように告知されていたポスターやステッカー、そして車内放送が、今後は混雑時のみに、となりました。


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 これは、総務省がペースメーカーへの影響は15cm以上離れていれば大丈夫、と発表したことを受けてのものです。
 第3世代といわれる3G携帯では、3cm 離れているとペースメーカーには影響がないことが実証されたそうです。
 もちろん、車内での通話は、これまで通り自粛を、となっています。

 関西では昨年の夏には、すでに取り組んでいたことです。
 遅ればせながら関東・東北地方でも実施されることになったのです。
 優先座席についても、私が東京に来た1999年には、関西では廃止している私鉄がいくつかありました。席を譲るのは当たり前のことなのですから。
 何事もルール化しないと気が済まないのは、関東の特徴のようです。

 今回のルール改定を勝手にその原因を推察するに、関西と関東での混雑の程度の違いと、関東が100%主義で社会が成り立っているからではないでしょうか。
 私は、関東にいる時には、遠慮がちにメールのチェックやメモを iPhone でしていました。これで、関西と関東が同じレベルになりました。これはいいことです。

 そんな状況の変化があったので、今回は今から16年前の個人的な杞憂とでもいう記事を再録しておきます。
 ここから、社会状況と科学技術の変化が読み取れます。
 

----------------- 以下、再録掲載 ---------------------

〔携帯電話の危険性〈2000.5.4〉〕
 
[副題]ようやく問題視されだした携帯電話の危険性
 
 平成12年5月2日の朝日新聞第一面に、携帯電話からの電磁波が人体に有害かどうかを調査することになった、との記事が掲載されました。

 日頃から脳細胞破壊兵器の一面をもつ携帯電話の危険性が問題とされていないことに異議を唱えていた者としては、これまで見て見ぬ振りをしていて、そしてようやくですか、という感想を持ちました。いまさらという感がしますが、それでも遅すぎることはありません。とにかく、害がないということの証明は難しいのでしょうが、疑わしきは罰せずではなくて、疑わしきは利用を控える姿勢も大事ではないでしょうか。

 携帯電話は、人間の身体への影響という点では、たばことよく似た因果関係を持つものだと思います。吸いすぎ、使いすぎに注意しないと、健康への被害が甚大だということです。
 そのようなものを吸うとか、身につけるかどうかは、もちろん利用者の自由です。しかし、たばこの場合のように、事前に利用者にその危険性を明示して販売されていたか、という点から言えば、携帯電話はその利便性と利用料金のみが強調され、人体への傷害については事前の説明なしに、野放しで頒布されているように思います。

 今、いちおう公共の情報発信機関とされている新聞がこのことを記事にするように関係各機関に働きかけたのは、一体なぜなのでしょうか。私は、携帯電話のメーカーが、電磁波の人体への悪影響に対する弁明の理由がどうにか見つかったので、ひとまず一般人への配慮をしているポーズを示すために、このような記事になるニュースを仕組んだのだろうと思っています。今後予想される訴訟対策とでもいえましょうか。

 郵政省も通産省もメーカーも、とっくにこの携帯電話が併せ持つ危険性については知っていたはずです。行政側は社会的な影響を考えて、景気の好調さを作り出すのに一役買っている携帯電話関連企業の活動を止めない方向で、ここ数年は動いていたはずです。これは、公害・薬害問題における為政者の常套手段です。現実に、街の携帯電話ショップの乱立と、そのカウンターにいる若いパートタイマーやアルバイトの人たちの多さは、曲がりなりにも若者たちの失業状態をカムフラージュでき、また、若い人を中心に携帯電話を持たせることによって、一種のガス抜きが行われているのです。
 今、携帯電話の活況にブレーキをかけると、若者を中心として暴動が起きるとは言わないまでも、大きな反発が起きるのは必死です。突然の不便は、大きな不満を発生させるからです。

 それに加えて、この六月に行われる予定の選挙前ということもあるのでしょう。
 アメリカのクリントンが大統領選挙において、投票日の直前に、電磁波が人体に無害であるとのコメントを発表したことがあったかと思います。当選後すぐに、消極的に、有害という証拠がない、との弁明に変わりました。投票日直前に、電力関係団体の票を取りまとめるための口実に使われたようです。

 今度の新聞記事によると、郵政省の電波環境課は、携帯電話の電磁波による人体への影響について、「現時点で有害という証拠はない」と言っているそうです。どこの国のお役人も同じなのですね。無害とは断言できないので、このようなコメントになるのでしょう。水俣・カドミウム・スモン・エイズなどなど、国が後手後手にまわった施策は枚挙にいとまがないほどです。

 この携帯電話に関する対応も、歴史的にはこの部類に属するものといえましょう。人類は、同じことを繰り返しながら、少しずつ前進していくのです。その前進の過程においては、犠牲は致し方ない、という論理かもしれません。今回は、電磁波の影響が直接生命に影響しないことが多いという点が、問題点を不明確にしています。

 携帯電話を含む電磁波の人体への問題は、疫学的な事例ではあっても、脳腫瘍・白血病・アルツハイマー病に関わるものとされています。この事は早くから指摘されており、私の周りでもそれを知ってか、この危険な要素をもつ携帯電話を持っている人は少ないのです。

 職場でも知人にも、その危険性を説明するのは疲れることなので、私は、という言葉を冠して、怖い道具だと思っていることを伝えています。もっとも、大多数の人は、そんなに恐ろしいものなら、国や会社が市中に出回らせているはずはないと思っておられるようで、「そんなことを言っていたら」とか「それは大変ですね」というクールな反応が多いのです。
 理屈では理解を示したいが、やはり、その便利さには勝てないということなのでしょう。

 実は、私の娘も携帯電話を持ち歩いています。たばこと類似する危険性をよく言い聞かせているのですが、家との連絡などに重宝することもあって、もう離せない存在の道具となってしまっています。
 とにかく、もう手放せない人は、いかにうまくこの脳細胞破壊兵器を平和利用するかだと思います。

 新聞記事によると、今年の9月ごろから聞き取り調査に入る見込みで、因果関係についての最終的な結論がでるのは、今から4年後の平成16年ごろだそうです。なんとも、のんびりした人体実験調査です。ナチスや七三一部隊のような性急な人体実験は問題ですが、多くの人の健康な生活を守るためにも、もう少し真剣に取り組んでもいいのではないでしょうか。

 政権政党が政治資金を貰っている関係か、NTTをはじめとする情報関連企業に遠慮しなければならないことはわかります。テレビなどで、スポンサーとなっている企業に対して反対の姿勢で番組が作れないことに通ずる問題が内在するのでしょう。NHKのスポンサーは政府与党ですし。お金を貰うスタイルの政治の弱点が露呈しているようですが、ここはけじめをつけて、ポーズではなくて、真摯な前向きの姿勢を示してほしいものです。

 私は、情報関連の新製品には、すぐに手を出して、その拙速にいつも反省しています。しかし、この携帯電話に関しては最初から疑問を持っていたので、これだけには手を出しませんでした。

 コンピュータやインターネットを仕事に活用し、情報文具で各種データを処理する日々の中で、この携帯電話は非常に魅力的な小道具です。しかし、やはり自分の体を犠牲にしてまでは、という理由から、導入は検討しながら、実際には使用していません。
 今回の悠長な人体実験調査での結論を見てから、自分の生活に携帯電話を取り入れるかどうかを考えたいと思います。今から4年後なら、人体に悪影響を及ぼさない商品が開発されていることでしょうし。そのメドがメーカー側についたからこそ、このような郵政省の調査が始まることになったと思われます。いわば、企業を守るために実施する、政府の時間稼ぎの調査なのでしょうから。

 それにしても、郵政省や通産省の内部には、本当のことをストレートに語ってくれる人はいないのでしょうか。国家公務員減らしが進む中、あえてそのような愚挙に出るお役人はいないですよね。

 電磁波の人体への悪影響を取り上げ、電磁波がいかに怖いものかを語る警鐘本が書店にあふれた時期がありました。今は、幾分収束したようですが。あたらしもの好きの私は、こうした本を、立ち読みも含めてたくさん読破してきたつもりです。

 電磁波擁護論の本も、少ないながらもあります。そうした電磁波に関する解説本の中から、私は『電磁波白書』(大朏博善、アスキー、平成9年、\2,300、CD―ROM付き)をお勧めします。
 この本は、電磁波擁護論の立場で書かれています。巻末で著者は、「いたずらに恐怖をあおる《電磁波は怖い》論にまどわされることなく、冷静な英知を集結させたいものである。」(245頁)と言っています。

 この本では、事実や資料を客観的に見ようとする姿勢が随所に見られ、好感を持ちました。しかし、私はこれを読んで、逆にその危険性を再認識してしまいました。なかなかよくできた、逆説的な本だと思います。

 海外の研究者へのインタビューを収録したCD―ROMが付録に付いているというのも、おもしろい企画です。
 また、このCD―ROMは、マッキントッシュでもウインドウズでも見られます。分割の憂き目を目前にしたマイクロソフト帝国の僕とならず、きっちりと少数民族のマッキントッシュユーザーにも均等に情報を提供する姿勢も、大きく評価したいと思います。これまで、あまりにもマイクロソフト帝国に媚びを売る企画や企業が多かったし、無意識とはいえ、寄らば大樹の陰よろしく、マイクロソフト仕様に準拠すればことたれりとした無意識の差別者ばかりではなかったことを教えてくれました。
 今後とも、こうしたハイブリッド仕様の情報提供を望むところです。

----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年10月02日

再録(22)プライバシーに関する三話〈1999.11.23〉

 今から16年前の記事ですが、再録データとして残しておきます。

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 第一話の〈神奈川県警の「案内カード」〉については、その後さまざまな問題を引き起こしたものでもあります。

 例えば、今年のことで言えば、「女児誘拐未遂:巡査を容疑で逮捕 交番勤務で目付ける」という記事が「毎日新聞」(2015年02月19日)に掲載されました。
 その記事の一部を引きます。


◇巡回カード悪用か
 A容疑者が女児や父親の名前を事前に知っていたことについて、群馬県警は、職務上知り得た情報を利用した疑いがあるとしている。地域をパトロールする巡査は通常「巡回連絡カード」を使って個人情報を収集しているとみられ、今回もこれを悪用した可能性が考えられる。

 巡回連絡カードは、警察庁が「住民の安全で平穏な生活の確保に役立てる」として地域警察官に住民の情報を収集させている制度。事件・事故が発生したり、迷子を保護したりした緊急時に家族への連絡に役立てると説明し、家族全員の氏名、生年月日、勤務先、学校名などの記入を求めている。

 女児や両親とA容疑者に元々面識はなく、女児と友達(7)は昨年12月、パトロール中のA容疑者を5、6回見かけたと話しているという。この時のA容疑者の挙動について県警は「地域の見守り活動をしているような様子だった」と説明しているが、「かわいい女の子をつけ回していたのでは」と疑う声も住民の間から出ている。隣町の主婦(29)は「そもそも何のために書かされるカードなのかと思っていた。今回もし警察官に悪用されたなら、巡回連絡カード自体、廃止してもらいたい」と憤る。

 渋川署によると、A容疑者が勤務していた吉岡町交番は原則2人体制。監視・管理体制が弱く、個人情報を比較的容易に入手できた可能性もある。過去には長野県警や愛知県警で、交番の連絡票のコピーを悪用したり、駐在所の情報照会用端末を不正操作したりした手口もあった。【尾崎修二】


 この事件の続報(毎日新聞 2015年03月06日)は、次のようになっています。


群馬県警巡査の女児誘拐未遂:巡回カード悪用、24歳巡査追送検

 小学4年の女児(10)を誘拐しようとしたとして未成年者誘拐未遂容疑で逮捕された群馬県警渋川署巡査のA容疑者(24)について、県警は5日、交番勤務で使う巡回連絡カードの個人情報を悪用したとして、県個人情報保護条例違反の疑いで前橋地検に追送検した。

 A容疑者は交番勤務だった今年1月15日、女児の自宅前で待ち伏せ、車に連れ込もうとした疑いで逮捕された。県警によると、昨年12月14日、家族構成や連絡先などを記載する巡回連絡カード「世帯別案内簿」を新規作成するために女児宅を訪問し、女児の名前や顔、父親の名前などを知ったという。【尾崎修二】


 さらにこの事件に関しては、担当記者が丁寧に解説をしておられます(毎日新聞 2015年03月24日)。報道に携わった方としても、誠意ある対応であり、事件のアフターケアになっていると思います。


質問なるほドリ:巡回カード、何のため?=回答・尾崎修二

 ◇警察が迷子保護などに利用 群馬で不祥事、再発防止が必須

 なるほドリ お巡りさんが自宅に来て「巡回(じゅんかい)連絡カードを書いてください」と頼んできたよ。

 記者 交番や駐在所に勤務する警察官は、受け持ち地区の家庭やお店、会社などを訪問して困りごとを聞いたりして、地域の状況を把握します。その際、住民に書いてもらうのが「巡回連絡カード」。家族全員の名前、生年月日、電話番号、勤務先や学校、非常時の連絡先などを記入します。「案内簿」や「連絡表」と呼ぶ都道府県もあります。

 Q 情報を集めてどうするの。

 A 迷子や独り暮らしの病人を保護したり、災害や事故の時に家族や親戚(しんせき)に連絡したりするためと警察は説明しています。実際、東日本大震災で捜索に生かされました。かつては、交番などで道を尋ねる人を、カードの情報をもとに案内していました。

 Q 断りなく他人に情報を教えてほしくないなあ。流出や悪用が心配だ。

 A カードは交番や駐在所で施錠(せじょう)できる場所に保管され、情報を外部に漏(も)らしてはいけないことになっています。しかし群馬県では2月に、男性巡査(24)がカード情報を悪用して小学4年の女の子を誘拐しようとした疑いで逮捕される事件がありました。他県では過去に、警察官がカードのコピーを知人に渡したり、消費者金融業者が警察官から情報を不正入手したりした例がありました。

 Q 記入を断ろうかな。

 A 任意なので、断っても罰則はありません。ただし、警察は「拒否した」という記録を残します。「何かやましいことがあるんじゃないか」と思われる可能性はあります。ちなみに、群馬県警によると、地域の警察官が住民サービスのために実施しているので、データベース化しているところは全国的にないとみられます。

 Q プライバシー保護と警察による安全の維持を両立できないのかな。

 A 最近は、オートロック付きマンションが増えたり核家族化(かくかぞくか)が進んだりして、情報収集が難しくなっているそうです。積極的に地域を回る警察官を表彰して巡回連絡カードの整備を進めている警察もありますが、取り組み方は地方によってまちまちです。群馬の事件により、真面目に働いている多くのお巡りさんが迷惑を受けました。警察組織を挙げて再発防止に取り組み、私たちの信頼を二度と裏切らないでほしいですね。(前橋支局)

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 第2話の「2)年収について」については、今はもうこんなことはアンケートの内容から削除されていることでしょう。しかし、今から16年前にはあったのです。

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 第3話の「クレジットカードの金額変更と署名代行」に関しては、似た事が今でもあります。
 コンビニなどでクレジットカードを使って支払うと、サインも暗証番号も不要なことがあります。
 「いいのかな?」と思いながらも、手間が省けて便利なのでそのままにしています。しかし、よく考えてみれば、これも変なことではあります。
 私が最初にサインなしで買い物をしているシーンを見かけたのは、2000年2月に英国ケンブリッジの街中で、学生たちがクレジットでお買い物をしていた時でした。信頼関係が築かれているので可能なのだろう、と思って見ていました。プリペイドカードではなかったと思います。
 クレジットカードに関しては、利用者がチェックを怠ることが多いので、悲惨な状況が日常茶飯事のことでしょう。それを、ユーザー側が被害と認識するかどうか、というレベルの問題だと、私は思っています。
 変な話ですが……

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 以下の記事の元データは、〈大和まほろば発 へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】というコーナーから発信していた情報の内、1999年11月23日に公開した文章です。

 この一連の「再録」は、過去に発信した情報を本ブログに取り込み、アーカイブズの一環とするものです。




----------------- 以下、再録掲載 ---------------------

〔プライバシーに関する三話〈1999.11.23〉〕

1)神奈川県警の「案内カード」

 今、手元に「案内カード(一般世帯)」という文字が中央上部にタイトルとして書かれた、B5版大のカードがあります。

 卵色で葉書よりも厚い丈夫な紙のカードです。そして、その表題の上の余白に、鉛筆書きで

「巡回にきましたが不在でした このカードに記入のうえ交番までお持ち下さい」

とあります。
 「交番までお持ち下さい」とあるので、お上に対して住民が申告するための用紙のようです。

 記入欄の項目名を、以下に列挙しておきます。


 ・世帯主氏名 ふりがな 性別
 ・店名 業務内容 地区名(町内会、自治会) ※作成年月日 ※整理番号
 ・現住所 電話 ファックス 居住年月日
 ・非常の場合の連絡先 あなたの本籍、親戚、知人など 本籍 親戚・知人 氏名 住所 電話番号
 ・家族または同居人 氏名 ふりがな 続柄 生年月日 職業、勤務先(学生は学校名) 摘要(同居人等の方については、非常の場合の連絡先)
 ・(裏面)要望・連絡事項
 ・(裏面)※連絡実施年月日
 ・(裏面)○※印の欄は、記入の必要はありません。


 そして、表面下部余白には、以下の備考が印刷されています。


 ・◎このカードは、盗難や交通事故などの被害を受けたときとか、訪問する人に家を教えたり、もしお子さんが迷子になったときなど、皆さんに奉仕する資料として交番・駐在所に備え付けておくものです。

 ・◎非常の場合の連絡先は、火災や盗難などが発生した場合に親戚や知人に連絡するためのものです。


 警察というものが信頼されていた時代のカードのようです。今では、ここに記入した内容が警察に悪用されることを懸念して、恐らく記入提出を躊躇するしろものとなっているのではないでしょうか。各項目には、公権力によるプライバシーの侵害が見え隠れしています。

 このカードの右耳部には、次の文章が印刷されています。


 [案内カード作成のお願い]

 私は、この地域を担当している警察官です。
 警察では、受持警察官が皆さんの御家庭を訪問し、御意見等をお伺いするとともに、この案内カードを作成していただいております。
 この案内カードは、万一盗難や災害の被害に遭われたときなどに役立てるものです。御協力をお願いいたします。
 なお、緊急の用件は110番で(耳や口の不自由な方は、ファックスによる専用110番=……番へ)
 それ以外の相談、要望等は、私又は<金沢文庫駅前>(ゴム印)交番・駐在所の勤務員に御相談ください。
 TEL <……>(ゴム印) 内線<412>(ゴム印) ファックス 氏名 <N>(ゴム印)


 私など、70年安保を経験している世代の者には、これが公安関係で利用されたものの残滓であることに想いが至ります。
 裏面の「県警の相談・案内コーナー」という所に、

「○極左110番 045-671-0110」

とあります。共産党員宅の盗聴で有罪となっても、知らぬ存ぜぬで突っぱね続ける神奈川県警には、極左はあっても、極右はないのですよね。

 ここにあげたカードは、交番のどこに、どのようにして保管されているのでしょうか。また、駐在所員がこの情報をどこに持ち出しているかなども、おそらくピストルほどには厳重に管理されていないでしょう。
 今の情報化社会では、この手の情報は、高く売れるでしょうね。とにかく、まがりなりにも本当の警察が管理している情報なのですから。特に神奈川県警の警察官は、最近は不祥事がらみで免職退職者が続出しているので、警官失職失業後は、この資料を活用して、住民情報売買人として生計が保てます。また、脅迫・恐喝にも利用できます。

 こうして集められた各戸の情報管理がどうなっているのか、どなたかリサーチしませんか。

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2)年収について

 手元に、一枚のアンケート葉書があります。

 これは、家庭用の浄水器に添付されているものです。
 差出有効期間は「平成12年7月31日まで」となっています。
 宛先は、「〒108-8506 東京都港区港南 1-6-41 (品川クリスタルスクエア)三菱レイヨン株式会社 アクアライフ事業部 クリンスイ係 行」です。

 表面中段に、こう書かれています。


 「この度は三菱レイヨン商品をお買上げいただき誠にありがとうございます。恐れ入りますがこのご愛用者カードにご記入の上、お送り下さい。今後の製品開発・サービス向上などの貴重な資料とさせていただきます。お送り頂いた方の中から毎月まとめて抽選で粗品を差し上げます。なお発表は発送をもってかえさせていただきます。」


 以下に、表面中段以下にある記入欄の項目を列記します。


 ・ご住所 Tel Fax Email:
 ・お名前(ふりがな) 生年月日 男・女
 ・ご職業
 ・お買上日
 ・ご購入店名 ご購入の場所
 ・家族構成 未婚・既婚 ご一緒に住んでいる家族の人数(  )人
  趣味 ある・なし ある方は内容を(          )
  住居 一戸建持家/一戸建借家/分譲マンション/賃貸マンション/アパート/公団・公社・社宅・その他
  年収 300万以下/300〜500万未満/500〜700万未満/700〜900万未満 900万以上


 家族構成や住居は、製品の性質上どうしても必要だったかもしれません。しかし、年収はどんな意図があるのでしょうか。

 裏面の「ご愛用者カード」の各選択項目には、「いままで浄水器をお使いでしたか。」など、特に差別的な質問はありません。表面の質問の真意を謀りかねます。

 1999年11月21日付けの朝日新聞の「青鉛筆」欄に、個人情報に関する調査結果の紹介があります。
 そこには、「知られたくない情報」のトップとして、男性が「年収」、女性が「日記の中身」だとあります。

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3)クレジットカードの金額変更と署名代行

 パソコン専門店の「ソフマップ 大阪ザウルス館」で、ISDN用のルーターを買いました。今年の10月中旬のことです。これは、それまで我が家で使っていたルーターが壊れたためです。2年ほど使った後のことです。その顛末は、また後日報告します。

 さて、支払いには、JCBカードを使用しました。ところが、帰宅して数時間してから、そのソフマップから電話がありました。明細の請求額を1万円少なく記入してしまったとのことです。
 購入時に、レジで明細を見てサインをしましたが、後から思えば念を入れて確認したのではなく、桁数くらいを見ただけのように思います。手元の控えを見ても、確かに向こうの手違いがあったようなので、そちらで修正の処理をしてほしいと依頼しました。ただし、再度確認のサインが必要だろうから、それはこちらが出向きやすい店でお願いしたいと言っておきました。

 ところが、10月31日にソフマップのSという方から電話がありました。
 それによると、カード会社のJCBの方の内部処理で修正すればいいとのことでした。私がサインをして確認もしないのに金額が訂正されるのはおかしいのでは、と言ったのですが、カードの切り直しではないので、再度、訂正金額にサインをする手続きは必要ないそうです。
 これには不審を感じましたが、担当者も相当困った様子で必死に弁解しておられたので、辛い想いをこれ以上させてはと思い、すべてを任せました。その方の勤務評定が下がり、職を失われてはと思ったからです。向こうも、今度の請求時に金額をよく確認してほしいと言っておられました。

 後になってよく考えてみるに、これはどうしてもおかしいと思います。そんなに簡単にクレジットカードの請求金額が、カード会社の一社員によって変更できるのでしょうか。
 それができるのなら、カード会社は、自由に利用者に水増しした金額を請求できることになります。利用者の方は、いちいち請求金額の当否を確認することは少ないので、これは非常に危険なシステムだと思います。

 皆さん、クレジットカードの請求金額は正確ですか。一部の数字が改変されていませんか。

----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年08月28日

再録(21)お粗末なコナミ・集英社のイベント〈1999.08.29〉

 今から16年前の、ちょうど今の時期の記事を、再録データとして残しておきます。
 「遊戯王」というカードにはまっていた、現在20歳代後半の方々は、非常になつかしい話かと思います。

 この元データは、〈大和まほろば発 へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】というコーナーから発信していた情報の内、1999年8月29日に公開した記事です。
 この一連の「再録」は、過去に発信した情報を本ブログに取り込み、アーカイブズの一環とするものです。
 昨日の記事は、書籍や資料という、物の都移りについての話題でした。
 本日の内容は、ウェブに公開したコンテンツのお引っ越しです。
 
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 
〔再録(21)お粗末なコナミ・集英社のイベント〈1999.08.29〉〕
 
 東京ドームでの「遊戯王」公開イベントの顛末
 
 1999.8.26に東京ドームで開催された「遊戯王デュエルモンスターズ決闘者伝説 in TOKYO DOME」では、マスコミで報道された以上に大変な出来事がありました。

 何ヶ月も前から楽しみにしていた小学五年生の息子は、限定版のプレミアムカードを求めて、遠路奈良から、わざわざ一人で上京して来ました。そして、四万人以上もの親子の大混乱に巻き込まれ、いろいろな被害に遭遇しました。
 私は、早朝に東京ドームへ息子を連れていき、夕方迎えに行く役目を負っていました。
 以下に、息子の夏休みの作文の一部をまとめながら、ことの顛末を記しておきます。

***************************************************************************

・入場するのに、炎天下、三時間半もかかった。

・ジュースを二本も飲んだ。トイレにも行けなかった。

・『少年ジャンプ』を持っていないと、入場が後回しになるというので、たくさんの子と親が本屋さんへ走っていった。会場に連れていってくれた父は、すぐに本を買いに猛スピードで走ってくれた。入場するために『少年ジャンプ』がいるとは知らなかった。こんなことなら、持ってきたらよかった、と思った。

・水道橋周辺の本屋はすべて売り切れとかで、父はなんと神保町まで買いに行ってくれた。

・会場に入って最初に、「遊戯王」に関するお店などの配置を書いた東京ドームの案内の紙を渡された。

・午後一時に販売予定だったカードが、二時からになるとの放送があった。

・二時になると、一斉にたくさんの親子が詰めかけて、販売が始まると押し合いで並んだ。後ろからドンドン詰めてきて、みんなに押されて息苦しくなった。パイレーツのダッチューノの状態が三十分以上も続いた。

・僕の足は、ずっと宙に浮いていた。

・メガネは外れ、前にいたどこかの知らないお兄ちゃんがメガネを持っていてくれた。自分の手では、メガネをどうしようもない状態だった。

・財布が落ちそうになり、必死でポケットを守った。

・怪我をした子がたくさんいた。コナミの人が、倒れた子のそばにいた子は手をあげてくれ、と言っていた。でも、息苦しくて、とても手を上げられる状態ではなかった。

・救急車が何台か来た。けが人を運びにやってきたようだった。

・僕が抱えていた『少年ジャンプ』は、押されて将棋倒しになる時に、どこかへ飛んでいった。もらった案内の紙や、持っていた紙袋も、どこかへ飛んでいってしまっていた。

・将棋倒しになって横に倒れた後は、メガネをしていた人たちのメガネが散乱していた。たくさんの『少年ジャンプ』も踏みつぶされていた。床に血も見かけた。

・将棋倒しの中を這うようにして進んで行ったら、財布も落ちていた。必死に逃げようとしていたので、何をどうしようもなかった。

・大人の人が僕を助け起こしてくれた。

・人の隙間を見つけて、その場から逃げ出した。

・身体がふるえていた。恐怖の体験だった。

・カードの販売は、三時ごろに一旦中止になった。

・しばらくして、また販売された。

・しばらくして、また中止になった。

・カードを買えた子がカードを見せびらかして目の前を通り過ぎた。みんな、むかついていた。

・知らない子のお母さんの一人が、目の前でコナミの人を殴っていた。左足をテーブルにかけて乗り越え、右手を前に出してジャンプをして、コナミの人を捕まえて顔を殴っていた。

・すぐに警備の人が来て、押さえつけ、警察が来て肩を掴んでどこかへ連れて行った。(テレビのニュースで放映されたのは、男性がコナミの社員を殴っているシーンだったそうです。社会的な影響を配慮して、女性ではなくて男性の暴行場面にしたのでしょうか。息子いわく、興奮して汚い言葉を発し、見たくもない態度を示していたのは大人たちだったとのこと。その後、子どもたちが大人の鬱憤晴らしを見て、つられるようにして暴れ出したようです。)

・まわりの子は、あのお母さんは手錠をかけられていた、とかしゃべっていた。

・僕は左足首を捻挫し、そして胸が苦しかったので、翌日は東京見物を中止して、休養した。

・翌日の新聞に、コナミからのお詫びの記事が載っていた。入場者プレゼントと限定カードについてのお知らせがあるとのことなので、載っていた番号に電話をすると、「ただ今でかけております。またお電話ください。」というテープが何度も流れているだけだった。

・次の日に電話が繋がり、出てきた男の人に事情を話すと、入場の時に渡された紙を持っていると、カードがもらえることがわかった。しかし、将棋倒しで転倒したときにそれはなくなったと言うと、「それでは、しょうがないですね。」と言われたので、あきらめることにした(コナミの状況認識は、今もって甘いのではないでしょうか)。

・来週号の『少年ジャンプ』に詳しいことが載っています、とその人は言っていた。

***************************************************************************

 以上が、息子のいた会場内の様子です。
 子どもの視線での物言いなので、実際とのズレもあることでしょう。

 朝日新聞の1999.8.27朝刊によると、「気分が悪くなって倒れたりする人まで出た。」とあります。しかし、この記事を書いた記者は、徹底した現場での情報収集を怠っていたのではないでしょうか。

 自分が想定する情報を取材し終えてこと足れりとし、あらかじめ予定していたシナリオの記事に仕上げた、という印象の新聞記事です。記者の姿勢は、この出来事を「レア物」を求める社会現象の一つとしてとらえ、いかにもデスク上でまとめたという作文です。息子は、実際はもっと酷かったと訴えています。朝日新聞の記事は、与えられた課題をどうにかこなしたという高校生のレポートレベルの、なんとも無責任な作文記事になっています。報道姿勢の低俗化を痛感します。

 こうした出来事については、もっと主催者側の無責任さとプランニングの杜撰さを、そしてその事後処理のお粗末さを、マスコミはもっと鋭く指摘すべきではないでしょうか。新聞記者が、一般大衆を批判的に見てしまってはいけないと思います。社会現象としての文化は、大人たちによって創られるものなのですから。

 また、コナミが前面に出ていますが、『少年ジャンプ』の発売元である集英社も、その責任の一端を負っていると思います。『少年ジャンプ』を持参していないと、優先的に入場させてもらえないのですから。そしてその集英社は、混乱と被害の当事者となった読者である親子には、一言もお詫びの姿勢を示していません。責任をコナミに擦り付けて知らぬ存ぜぬで通そうとする、出版社の特権意識と奢りを感じます。
 ほとぼりの冷めた来週号で、誠意を身にまとった通り一遍のお詫びの記事が掲載されるのでしょう。

 それにしても、将棋倒しに巻き込まれなかった子どもたちはコナミの救済処置の恩恵に浴し、被害にあった子どもにはカード入手の権利がないという処置については、どうしても理不尽さが残ります。結果的には、子どもに、不運を不幸中の幸いと思わせ、妥協と諦めということを教えることになりました。

 これも、息子にとっては一つの夏休み貴重な勉強だったとしましょう。本人は、意外と冷静に出来事を観察していました。そして、貴重なカードを入手した子と友達になり、すごいカードを何枚か安く売ってもらったそうです。カッカする大人たちをよそに、自分たちはカード交換にいそしむという姿を想像すると、なんとなく楽しくなってきます。

 大人が辻褄を合わせながら作り上げている社会とは別に、逞しく育っていく子どもたちの一端をかいま見ることができました。こうした子どもたちが作る二十一世紀は、きっと頼もしい社会となるに違いありません。楽しみが増えた思いがしています \(^_^ )( ^_^)/
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年06月18日

ブログにアップしていなかった数年前の記事2本

 2010年7月の祇園祭の朝、胃癌の告知を受けました。

 「心身雑記(59)ガンの告知を受けた時の気持ち」(2010/7/17)

 その2日後に、妻と一緒に西国三十三所札所巡りを始めました。

 「西国三十三所(1)5周目は石山寺から」(2010/7/19)

 8月末日に、消化管の全摘出手術を受けました。

 「心身雑記(73)6時間にわたる自分との闘いへ」(2010/8/31)

 そして退院。

 「心身雑記(86)ワイン片手に2週間ぶりの我が家で」(2010/9/13)

 その後、西国巡りを再開しました。

「西国三十三所(3)清水寺」(2010/9/25)

 そんな中で書いたメモが、偶然に見つかりました。
 本ブログにアップしようと思いながら書いた記事だと思われます。
 しかし、どうしたことか掲載しなかったのです。
 何かと多忙な日々の中で、思いつくままに書いた事を、いつしかすっかり忘れていたのかも知れません。

 記録を見ると、このメモを記した2010年10月12日は、次の記事をアップしていました。

 「西国三十三所(11)総持寺」(2010/10/12)

 総持寺へ行ったその道々に、このメモを記していたのでしょう。

 このまま放置するのももったいないので、また忘れてしまわないうちに、今アップしておきます。

 また、もう1本の記事は、昨秋のもののようです。
 心の重しが取れた安堵感から、気ままに記したものだと思われます。


「スローライフの西国札所巡り」(2010.10.12)

西国札所巡りは、これまでの4巡はすべて自分が車を運転して回りました。

かねてより、自家用車は自然破壊と無意識に人を殺す道具であることへの疑念があったので、京都へ居を移したことを潮に、車を自分では運転しない生活に入りました。

西国札所も、この5巡目は公共交通機関を使っています。
ただし、巡拝の時間は車の二、三倍はかかっています。

スローライフもいいものです。
急ぐことで失うものがあります。
それに気づかせてくれた今回の突然の癌。

まだまだ、スローは私の身には付いていません。
しかし、スローを意識して、それを受け入れながら生活しようとしている自分に、フッと気付くことがあります。
少しずつでも、新しい生活に入っていることを実感しては、よしよしと自分を誉めています。

スローライフに切り替えて気づいたことの一番は、電車に乗り遅れることがよくあることです。
これまでは、改札口から急ぎ足で電車に乗っていたようです。
ホームに降り立つ直前に、電車が無情にも出て行くのですから、おもしろいはずがありません。
しかし、これも慣れると、あまり気にならなくなります。
まだ悔しさを感ずる時がままあるので、観音様を思い描いては、我が身に修行を自覚させています。


☆体内埋め込みタイマーのリセット
これで新たなタイマーが作動することになります。
時限爆弾は爆発直前に除去されたのです。
手術後45年目の63歳という私の終着駅が、さらに先に伸びたと考えたいと思います。
その先はどれくらいなのかは、今は不明です。
しかし、伸びただけでも、幸いなことだと言えます。
どこまで伸びたのかわからないという不気味さはあります。
しかし、私の気持ちは楽になりました。
ただし、重しは取れた代わりに、前が見えないと言う、新たな不安を抱えるわけです。
もっともこれは、人間誰もが抱える宿命です。
人並の煩悩とでも言いましょうか。
これも、ありがたいことです。

posted by genjiito at 23:55| Comment(0) | 回想追憶

2015年04月17日

豊島秀範先輩の奥様の告別式で取手市へ行く

 私にとって未踏の地の一つだった茨城県に行ってきました。
 取手駅前の枝垂れ桜が儚げで印象的でした。


150417_toridezakura




 関東地方というと、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を言うそうです。ここに山梨県が入るとか、入らないとか。
 別の区分けでは、静岡県と長野県も入ることがあるようです。

 関西に長く住んでいる私にとって、埼玉県から秋田県の間の置関係があやふやです。
 それは、妻の出身地が秋田県であり、我々の新婚時代は埼玉県に数年を過ごしていたことと関係します。
 その途中が、地図上ではあいまいなのです。
 妻に聞くと、私の出身地である島根県が、今でも鳥取県と山口県の並びの中で迷うそうです。
 自分の頭の中の白地図は、人それぞれに異なっているようです。

 単身赴任で私が上京した時に神奈川県の宿舎に入ったので、ここは大丈夫です。
 群馬県には、温泉地や山スキーに行った記憶があります。しかし、その位置関係を地図上に示すことはできません。

 そんなこんなの中で、茨城県と栃木県は、私にとっては未踏の地となっていました。

 栃木県は、日光があるので、東京を離れる前に行ってみようと思っています。「日光を見ずして・・・」と言われるのですから。
 また、新しい科研のお手伝いをしていただく方の住まいがある所なので、この栃木県には併せて行く機会がありそうです。

 残る茨城県は、井上靖の小説に出てくる大洗海岸に行きたかったので、ここも来年までには行こうと思っていました。
 その茨城県の南に位置する取手市に、突然の訃報を受けて今日行くことになりました。

 私が学生時代からお世話になっている、國學院大學の豊島秀範先生の奥様が、今週13日にお亡くなりになりました。御夫妻共に、大学の先輩です。
 以前からご様子はうかがっていました。しかし、それがこんなに早いとは思いもしませんでした。

 いろいろと奥様のご様子をお尋ねしたこともあり、豊島先生はつらい思いをしながら話の相手をしてくださったこともあったか思われます。申し訳ないことでした。

 今から40年前になります。京成線沿線にお住まいだった御自宅に、妻と一緒に伺ったことがありました。玄関を入ってすぐに、たくさんの本が積み上げられていたことを記憶しています。国史大系や『群書類従』などだったように思います。その時に、はじめて奥様にお目にかかりました。

 数年前に、豊島先生の科研の研究会が國學院大學で開催された時に、奥様もお出でになりました。それが、お目にかかった2度目でした。以前お宅におじゃましたことと、科研のお手伝いをしていることについて、親しくお話をしました。気さくに声をかけていただき、今後ともよろしくお願いします、とおっしゃってくださいました。
 今、あの時のお姿を思い出しています。

 昨日のお通夜は、日比谷図書文化館で『源氏物語』の写本を読む会があったので、どうしても行けませんでした。今日の告別式には、妻と一緒に駆けつけました。
 葬祭場は、JR常磐線の取手駅からすぐの、水戸街道の利根川沿いにありました。

 細やかな気遣いをなさる豊島先生は、大変だったはずなのに、そうした気配はお見せにならずに振る舞っておられました。喪主としてのご挨拶では声がくぐもっていました。しかし、淡々と奥様の病状を語られるのを拝聴し、私も少しもらい泣きしてしまいました。

 帰りの電車では、雨が車窓を打ち出しました。
 帰ってからニュースを見ると、取手市は豪雨になった、とのことでした。
 この雨により、先生をはじめとしてみなさまのお気持ちは一新されたことでしょう。

 宿舎の入り口では、八重桜がきれいに咲いていました。


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 奥様の御冥福をお祈りいたします。
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2015年03月24日

再録(20)NTT電話の怪(1998.7.28)

 不思議なことがあるものです。
 よくわからないままに、特に実害がない限りは問題にもならないことがよくあります。
 この話も、そんな部類に属することです。
 また、ここに出てくる「ISDN」とか「テレホーダイ」という言葉も、今では懐かしいものとなりました。
 通信環境は、この20年で一変しました。
 そんな変転の中での珍事といえる話です。
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 
〔NTT電話の怪〕
 
 私が利用しているプロバイダー・奈良インターネット〈まほろば〉の接続電話番号の一つが変更になりました。そして、意外な出来事が今日ありました。

 我が家では、ISDNのアナログとデジタルの二回線をテレホーダイで利用しています。その内の、いつも利用する方のデジタル回線の番号が変更となるのです。今日、28日からとのこと。テレホーダイで登録している電話番号の一つを、NTTに変更してもらうことにしました。以下は、その顛末の報告です。

 まずは早速、我が家の担当支店であるNTT大和高田へ、フリーダイヤルで電話をしました。すると、116番に電話をして手続きをしてほしいとのこと。そこで116番に電話をすると、NTT奈良支店につながりました。
 テレホーダイの変更手続きをしたいという事情を説明すると、お宅の管轄のNTT大和高田支店が窓口になるので、この電話をそちらに転送します、とのこと。大和高田の方に変更の依頼をすると、私の身元確認をしてから、今は会社からですか、と聞かれたのです。いえ、自宅からですよ、と答えると、先方は怪訝そうに、奈良支店から転送されたので、と不審そうな声でした。

 我が家から116番に電話をしたら、奈良につながりました、と答えると、お宅の住所から116番をダイヤルすると、この大和高田支店につながるはずです、と仰るのです。
 そこで、最初から説明しました。

 まず、フリーダイヤルで我が家の集金や電話工事の担当である大和高田支店に電話をしたら、116番で手続きを、と言われたこと。
 そして、116番をダイヤルしたら、奈良支店につながったこと。
 そこから、大和高田支店に転送されたことを。

 すると、また電話口の方は、そんなはずはないと仰るのです。お宅から116番をダイヤルすると、管轄局であるウチの大和高田支店にかかるようになっている、とのことです。いや、事実を言っているのですというと、しばらく調べておれたが、理由がわからないので専門の人に相談するということになりました。それでも、そんなことは考えられないことなのだそうで、もう一度テストをしてみますと私から申し出て、一旦電話を切りました。

 そして、我が家の電話から116番をダイヤルすると、確かに奈良支店につながるのです。対応に出られた方に、先ほど電話をしたものだが、回線がおかしいようなのでテストをさせてもらった旨を伝え、再度大和高田に転送してもらい、このあるはずのない電話の迂回事象を、大和高田支店の方に納得してもらいました。

 聞くところによると、奈良県のNTTは、奈良支店と大和高田支店の二つでエリアを分けているそうです。そして、本年十二月にこの二つを奈良に統合する予定になっているようです。でも、まだ七月なので、と対応された方も不思議がっておられました。
 半時間後に調査の報告があり、最近、信貴山縁起絵巻で知られる我が町の電話交換機を、法隆寺のある隣の斑鳩町に入るようにしたことがあり、その時にデータが間違ったのかもしれない、とか、その時に何か不手際があったかもしれない、と、一応の返答をいただきました。

 そして、夕方また連絡があり、斑鳩町に回線を入れたときに、我が家のデータを入れ間違えたことが判明したのだそうです。そして、それは116番にかけるときだけのデータミスであり、他へ電話をしたときも遠回りをしてつながっていたのではない、との釈明がありました。

 今回の私からの指摘で、他のお客様にも迷惑がかかるところでした、私どもも助かりました、と仰っていました。感謝されても、そうでしたか、と答えるしかありません。

 それより、本当にこれまでの我が家からの電話が、116番だけが奈良局を通してかかり、いつも使う外線電話は奈良ではなくて大和高田につながっていたのでしょうか。我が家の山の下にある駅前には、無人の電話交換局があります。そこの電話交換機の仕組みのことは知りませんが、何となく不審な気持ちになりましたが、そう仰るのでそうなのでしょう。

 過去の電話代を調べるのは、面倒なのでしません。大体毎月一万五千円ほどでしょうか。これは、NTTのINSテレホーダイと遠距離電話用のDDIの利用料金を含めてのものです。
 私は携帯電話はタバコと同じで、人体に悪影響があると思っています。したがって、家族には自分たちの心身の健康と周りの人への迷惑をかけないために、利用を禁止しています。そのためもあって、月々の電話料金は、私や子どもたちがインターネットを使う家庭とすれば、こんなものでしょうか。というより、電話代の大半は、高校生の娘の分と思われるので、将来請求しようと思っているくらいなのですが。

 ということで、何やら不可解な出来事に遭遇しました。こんなことって、あるんですね。
 普段は、何も知らずにいるのでしょうが、たまたま116番に電話をしたことからわかった珍事です。
 機械というものは、本当に信用できませんね。
 というより、機械を操作する人間のミスも、常に考慮すべきなのでしょうね。

 それはともかく、対応してくださったFさんとKさん、お疲れさまでした。
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
posted by genjiito at 23:51| Comment(0) | 回想追憶

2015年03月23日

再録(19-2)またMV社のこと(1998.10.01)

 この記事は、昨日の「再録(19-1)不可解なMVという会社(1997.3.28)」(2015年03月22日)のつづきです。

 17年前にこんなことがありました、という過去の記事を記録として保存していく連載ものなので、今は適当に読み流しておいてください。

 この一連の「再録」は、〈大和まほろば発 へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】というコーナーから発信していた情報群の一部です。

 ここでは、再録(19-1〜4)として、MV社に関連する記事を集めてみました。

 なお、この記事を公開した時のインターネット活用のためのハード&ソフトは、過日の記事「再録(17)17年前の「私のコンピュータ経験と通信環境」」(2015年02月15日)から2ヶ月後ということもあり、次のようにさらなる進化を遂げています。
 当時は、とにかく秒針分歩の勢いでコンピュータが進化し、目まぐるしくハード&ソフトと通信環境が変転する時代でした。

●CPU:APPLE-PPC-7600 → APPLE-PowerPC G3(300Mz)
●OS:MacOS-8.0 → MacOS-8.5.1
●メモリ:160M → 320M
●HD:6G(内蔵)+4G(外付)→ 6G(内蔵)+12.7G(内蔵)

 それから17年経過した現在、私は次のようなスペックのノートパソコンを日常的に使っています。
 単位が「メガ」から「ギガ」へ、さらには「テラ」へと進化しています。このことには、目を疑うほどの環境の変化の中に身を置いている、といえます。

●CPU:MacBook Pro-Intel Core i7 (2.6 GHz)
●OS:MacOS X 10.10.2 (Yosemite)
●メモリ:16GB
●HD:SSD-1TB

 そろそろ、発想を転換した情報文具が現れてもいい頃です。
 来月発売されるウェラブルコンピュティングの一翼を担うはずの「アップルウォッチ」は、その先蹤となりそうです。

 クラウドがさらに進化し、テレビがこれまでの役割を終えて変身し、家電や自動車が自動化から手動化し、日常生活では喫茶店を始めとする飲食店や、文化施設としての映画館や図書館が、さらには学校がその役割を多様化させて行くことでしょう。

 高齢化社会では、スピードを競うシステムは適合しないと思います。
 自動化は、人にもの足らなさを感じさせます。
 我が家では、洗濯機を二層式に変えました。
 手動による感触は、生きていく上で大事な感覚を目覚めさせます。
 目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう等々。
 その意味では、今のままでは、ネットショッピングや電子書籍には、未来がないと私は見ています。手触りが、目を瞑った時の感触が大事だと思うからです。

 物事の速度をゆっくりと落として、さまざまなことを手動化していかないと、人々は息苦しく感じると共に、満足した日々を送れないと思います。

 妄言多謝
 
 
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 
〔またMV社のこと〈1998.10.01〉〕
 
 昨春、本【ハイテク問はず語り】の「2年目」の記事として、「不可解なMV社という会社(1997.3.28)」を掲載しました。そのMV社に関して、また不愉快な思いをしています。
 今度は、ソフトウェアではなくて、ハードウェアでの話です。

 現在わたしは、Macintoshの7600/200というパソコンを主に活用しています。ただし、8100/80AVという初代のパワーマッキントッシュも、現役で併用しています。その初代パワーマック8100を最新のG3マシンにするボードが開発されました。この夏にも店頭に並ぶはずが、どの店も入荷未定のためということで、予約の受付もしてくれませんでした。そのボードを、たまたま足を向けた大阪日本橋の「OAシステムプラザ」という店で見かけました。

 店頭にあったのは、CPUクロックが215MHzのものでした。8100をG3化するボードは、もう一種類、他社から発表されていますが、私はこのアメリカのニューワーテクノロジー社のボードをねらっていました。ただし、このボードの日本での発売元が、あのMV社であったために、過去の無責任で不愉快な対応にいやな思いをさせられていたので、積極的に購入するための手は打っていませんでした。
 実は、他の会社が扱ってくれたらと、密かに期待しながら待っていたのです。しかし、目の前にボードがあると、それも、他のどの店にも入荷していないボードを手にして、すぐに購入を決意しました。新たにG3マシンを買う気はなく、初代パワーマック8100を生き返らせたかったからです。
 私の8100は、その「OAシステムプラザ」で購入したものだったことも、一つの縁だと思われました。私のMacintoshの師である中村氏と一緒に購入したものだけに、愛着も思い入れも満杯のパソコンなのです。ただし、1994年4月に購入したものは「Quadra840AV」というものであり、その後、1995年1月にロジックボードをアップグレードして「8100/80AV」に格上げしました。最初からアップグレードを前提にして購入したものでした。

 とにかく、ここで買わない手はないと意を決しました。ただし、本当に欲しかったのは、もう一つグレードの高いCPUクロックが250MHzのものだったので、店員さんにそのことを尋ねると、念のために倉庫を探してくれて、ちょうど一つあったとのこと。
 出来過ぎた話のようですが、ラッキーなときはこんなものなので、「MAXpower G3 PDS 7100/8100 240/1M/160」というボードをすぐに貰いました。税込みで125,790円でした。ついでに、娘が使っている初代6100/66用のG3ボードを調べて貰ったのですが、これは入荷が未定とのことでした。

 さて、このボードを8100に取り付けるにあたって、とんでもないことがありました。
 説明書通りに作業を進めると、どうしてもボードに取り付けられている金具を半田で溶かして外すか、無理矢理力ずくで折り取って外すことになります。迷ったのですが、説明書通りに進めるために、それも熱を加えないためにも、ペンチで金具を切り取りました。そして、取り付けが終わってパソコンに電源を入れると、起動途中でストップします。

 後でわかったのですが、これはマニュアルの不備と説明不足のためであり、金具を外す必要はなかったとのことです。これは、MV社にいろいろな不具合を問い合わせている中でわかったことです。それがわかっているなら、なんとかその旨を商品に添付するか、ケースに注意書きを貼っておいてほしいものです。あの会社に誠意を感じないのは、こんなことがあるからです。

 電話での話では、金具を取り外したところを、絶縁テープを使って接触を防ぐとよいとのこと。その処置を施すとパソコンが起動するようになりました。すぐに対処方法を教えて貰えたということは、そのような事例が多くあるということなのでしょう。
 それはうまくいきました。ところが次に、起動したパソコンが不安定なのです。少し操作をすると、すぐに画面がフリーズするのです。後はウンともスンとも言わないので、背面のボタンを押して電源を切るしかなくなります。

 起きた症状は、以下のようなものです。


1-エクセル98は、起動途中でキャンセルされる。
 再度実行すると、日本語機能が働かなくなり、表示がすべて文字化けする

2-イーサーネットで他の機種とデータ転送をしている途中で、突然接続が切断される。

3-ウィンドウを開いてスクロールバーを操作中、数回スクロールさせると画面がフリーズする。
 リセットもできなくなり、やむをえず本体背面のボタンで電源を落とすことになる。

4-ソフトのインストール中にフリーズし、インストールできた分としてのファイルの断片がハードディスクに残る。

5-ダイアログウインドウ内で、ファイルやフォルダを選択中に、突然フリーズする。

6-アップルメニューを開いている内にフリーズする。

7-ファインダー上でファイルをコピーなどしているときに、ファイルをドラッグしてウインドウから引き出した瞬間にフリーズする。

8-コンフリクトを障害の原因と思い詰めていたために、コンフリクトキャッチャーで調べたりもしました。
 しかし、これもフリーズを繰り返すために、うまく検査できませんでした。


 MV社に電話をして、またまた、上記の症状を説明しようとすると、すぐに「8100/80AV」で使っているなら、すぐにそのボードを送り返してくれたら、不具合が起こらないようにして送り返してくれるとのこと。
 これまた素早い回答だったので、このような苦情がたくさんあったのでしょう。明日、早速送ることにします。着払いで送っていいかと確認すると、不明朗ながら「OK」とのことでした。
 また、21インチと17インチのモニタを二台接続して使用しているため、Radiusの「Precision Color」も使えるようにして貰いたいという希望も添えました。

 さて、後日戻ってくるボードは、うまく動くものになっているのでしょうか。結果が楽しみです。

 パソコン関連機器に関して、これまでに私がメーカーに商品を返送などしてまともなものに取り替えてもらったものを、思いつくままに列記しておきましょう。


 ○NECのPC-386マシン用内蔵3.5インチドライブ。親切でした。

 ○八戸ファームウェアのエプソンPC-386マシン用のFM音源ボックス。誠意を感じました。

 ○エレコムのハードディスク。この対応は失礼千万でした。

 ○シャープのビデオ機器。不誠実な対応はもう論外です。

 ○コンテックのパソコン用ビデオコンバータ。誠実に交換してもらいました。

 ○8100用アップル内蔵CD-ROM。交換してもらいました。好意的でした。

 ○8100用アクセラレータカード。ソフマップに引き取りの後、返金してもらいました。

 ○カシオのフリップトップ腕時計。無責任で不誠実でした。

 ○マグの17インチモニタ。宅急便で送るのが大変でしたが、誠意を感じました。

 ○ソニーの21インチモニタ。この対応には、大満足です。

 ○NECのターミナルアダプタ。二度とも好感の持てる対応でした。

 ○キャノンのレーザープリンタのトナー。取次のソフマップは、誠意のかけらもないものでした。


 たくさんの欠陥商品が店頭に並んでいます。私は当たりが悪いせいか、よく不良品・欠陥品を手にします。おかしいと思ったら、メーカーに返送することに限ります。とにかく、コンピュータ関連の商品は未成熟なのですから。

 昨春の「不可解なMV社という会社(1997.3.28)」という拙文の末尾で、次のように記しました。

 「日本のソフト産業を育てていくために一利用者がこのようにして協力をしていくのも、大変な忍耐と努力と資金と時間が必要であることが、お分かりいただけたでしょうか。日本のパソコンに関しては、ハードもソフトも製品の仕上がり以前の人間の問題が未成熟だと思われます。
 こんな業界を、われわれは、今しばらく、みんなで健全なものになるように根気強く育成していきましょう。」

 最近は、こうしたボランティア精神でパソコンに接することに、少し疲れました。
 以上のような不具合を解消するために、膨大な時間を費やすことは日常といえます。
 コンピュータがまだまだ未完成な道具であることを痛感しています。
 このような無駄としか言えない時間を、貴重な人生の中に設けなくてもいいように、パソコン業界はもう少し誠意のある商品の渡し方をしてほしいものです。
 というより、アメリカで開発されたものを横流しして日本の市場に投入するやり方は、どうも感心しません。
 日本で販売するにあたって、いろいろと工夫をしておられるのでしょうが、結果としては無責任で不誠実極まりない販売となっているのが多いのは事実です。

(つづく)
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年03月22日

再録(19-1)不可解なMVという会社(1997.3.28)

 コンピュータとの付き合いが、すでに35年もの長きにわたっています。
 本ブログで何度か記したように、私の初めてのコンピュータ体験は、1980年のマイコンキット【〈TK-80〉(Training Kit μCOM80)】(日本電気 (NEC) 半導体事業部−現在のルネサス エレクトロニクス))でした。

 初期の頃、今から30年前は、まだ市場が未成熟だったこともあり、ハードやソフトの供給会社のユーザーサポートやサービスは、まさに手探り状態でした。

 そうした時期のあれやこれやを、4回に分けて再録しておきます。
 この一連の「再録」は、〈大和まほろば発 へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】というコーナーから発信していた情報を本ブログに取り込み、アーカイブズの一環とするものです。
 
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 
〔不可解なMVという会社(1997.3.28)〕
 
 1994年6月に、「Photoshop2.5J」(フォトショップ)を購入しました。前後して、「Premiere2.0」(プレミア)も買いました。
 1994年10月に、「Photoshop3.0J」へのアップグレードが公表されました。しかし、いつまで待ってもその連絡が来ないのです。

 1995年2月22日、MV社の「MCユーザー管理センター」という所へ電話で確認すると、私のユーザー登録手続きが未了とのことでした。登録カードはちゃんと郵送していたのにですよ。すぐに登録作業をするので、それが完了したらバージョンアップの案内を送ってくれるそうです。のんびりしたのどかな話です。

 1995年5月上旬、バージョンアップ手続き書類がまだ届かないので、それを催促する電話をしました。

 1995年5月18日 「Photoshop3.0J」へのアップグレードの案内書が届きました。ただし、届けられた書類は前年秋に発送したと思われるものをコピーしただけの一枚の紙でした。それによると、アップグレード製品の送付は、94年11月発売以降とあります。半年以上も経っているのに「以降」という文面を送りつけるのは、間違いではないにしても、正常な神経ではないと思います。ましてや、お詫びの手紙があってしかるべきではなかったでしょうか。送られて来た封筒の差出人は、「MV社」となっていました。

 なお、封筒の中には、「Photoshop」の用紙だけで、同時に登録したはずの「Premiere」のバージョンアップ書類は入っていないのです。先の電話で、この二点の手続きをしたい旨の電話をしたのに、まったく話が通じていないようです。担当者はMと名乗られる方でした。社内で登録手続きをどのように管理しておられるのかは、一ユーザーには関係のないことです。早急にというより、すでに市場に新製品が出て半年以上経っているので、一日も早く送ってほしいのです。「Premiere」のバージョンアップ手続きの書類は、後日送ってもらえることになりました。

 「Photoshop」の振込などの手配を5月24日にし、製品の到着を待っていました。ところが一ヶ月半後の7月に送られてきた「Photoshop3.0J」の宅配便の中には、「Premiere」の書類がみあたらないのです。また、奈良の自宅から東京のMV社まで電話をすることにしました。昼間なので、電話代もばかになりません。すぐに送りますと言われましたが、それでもなかなか来ません。

 8月9日に、また電話をして催促をしました。その時に、サポートの窓口をMV社からシステムソフトに変更したい意向を伝えました。「Photoshop」は、いくつかの会社がユーザーサポートを請け負っていました。自分が購入した製品によって、サポートをどこが担当するか異なるのです。私の窓口変更の申し出に、何か言い訳をおっしゃっていましたが、手続き方法は結局私には理解できませんでした。その手続き書類も、ついに来ませんでした。

 さて、「Premiere」のバージョンアップ書類をやっとのことで手にしたのは、何とそれから1ヶ月後のことでした。それも、1年以上も前の「1994年6月吉日」と明記された「アップグレードのご案内」という紙キレです。もうバージョンアップをする気もなくなりました。当のソフトもしだいに使わなくなっていたので、この「Premiere」は更新せずにそのままゴミと化していきました。戸外の物置に転がっていた「Premiere2.0」を今回取り出し、挟んであったこれまでのやりとりのメモなどを見ながら、この文章を認めています。

 1997年3月28日、つまり、今日です。そんなこんなのアドビの製品について、また困ったことに巻き込まれました。昨秋、「Photoshop」は4.0にバージョンアップしていました。3.0を活用している私は、バージョンアップの案内が届くのを心待ちにしていました。しかし、年が改まっても通知は何も来ないのです。痺れを切らせて、ついに電話をしました。すると、ユーザー管理がアドビに一元化されたとのことでした。そして数週間がたってから、中々繋がらない電話を、辛抱強くかけることになりました。繋がるまでに丸三日かかりました。これは、パソコンユーザーにとっては常識です。著名なメーカーほど、売れ筋ソフトほど、質問はファックスに限るのです。しかし、私は直接相手と話さないと、信用できなくなってしまいました。ファックスだって、事務所の机にポイの可能性も大なのですから。直接言葉を交わして話をしても、メーカーは無視やど忘れをするのですから、そこは自分を納得させるためにも、電話の問い合わせとならざるをえないのです。

 ようやく繋がった電話口で、正規ユーザーであるしるしの登録番号を言うと、相手が確認のために言う住所の番地がちがっているのです。まったく違う数字で登録されていました。書類が私の手元に届かないはずです。かつては、MV社からは正確な番地で封書が届き、「Photoshop」も宅配便で届いたのにです。MV社からアドビに名簿が移管されたことに伴い、私の住所の番地が文字バケしてしまったのだろう、ということにしておきましょうか。

 電話口での確認でさらに驚きました。私の名前で登録されているユーザー番号の登録データによると、今私が持っている「Photoshop」のバージョンは、なんと旧版の「2.5」だそうです。MV社から送られてきたあの「Photoshop3.0J」は、今使用しているものは、一体なんなのでしょうか。

 それはさておき、とにかく至急バージョンアップの書類を送ってくれるそうです。期待せずに待つことにします。同じことが繰り返されるのは世の常。次は、本年5月に催促の電話をすることになるのかもしれません。このインターネットのホームページで表示している画像は、すべて私が正規の登録をしている(したはずの)「Photoshop」で作成したものであることを、重ねて申し添えておきます

 日本のソフト産業を育てていくために一利用者がこのようにして協力をしていくのも、大変な忍耐と努力と資金と時間が必要であることが、お分かりいただけたでしょうか。日本のパソコンに関しては、ハードもソフトも製品の仕上がり以前の人間の問題が未成熟だと思われます。

 こんな業界を、われわれは、今しばらく、みんなで健全なものになるように根気強く育成していきましょう。

(つづく)
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年02月17日

パンチカードの鋏が見つかる

 かつて、パンチカードというもので情報を整理している時代がありました。
 実際に私は、昭和55年(1980)から数年間、パンチカードで勤務校の情報の整理や、身の回りの整理をしていました。

 このことは、「懐かしいパンチカードシステム」(2012/10/22)に詳しく書きましたので、その実際は記事に譲ります。

 さて、このパンチカードは、実際には鋏でカードの端に並ぶ小さな穴を切り取るのです。
 その鋏が、ひょんなことから見つかりました。まさに遺品です。

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 コンピュータの草創期から情報処理に関係しておられた方には、懐かしい道具ではないかと思います。まさか、いまでもこの鋏を使っている、という方はいらっしゃらないとは思いますが……

 そういえば、駅員さんが改札口で、切符をリズミカルな手さばきでパンチしておられたことを思い出します。自動改札になった今では、あれも懐かしい風景です。

 持ち物を整理していると、こうしていろいろなものが顔を出します。
 これも、家族に言わせるとガラクタ以外の何ものでもない、ということになりますが……
posted by genjiito at 22:49| Comment(0) | 回想追憶

2015年02月16日

再録(18)パンチカードから思い出すままに

 〈へぐり通信〉の【ハイテク問はず語り】(3年目/1997.10.1〜1998.9.30)に、今から40年ほど前にパンチカードを使っていたことから、その後のパソコン利用の一端を記事にしています。
 パーソナルなコンピュータ遍歴史の一部として、以下に再録しておきます。

 なお、パンチカードの実態については、この次に記します。
 
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 
  〔年賀状で19年前を思い出す〈1998.1.4〉〕
 
 
 今年いただいた年賀状の中に、すっかり忘れていたことを思い出させてくれるものがありました。次のような文章です。


 机で、カードのはしにパンチで穴をあけて、あみ棒のような物をさしこんでいたのを思い出しました。
 棒をふってバラバラとおちてくるカードを見ながら「手動式コンピュータ」とか言っていたと思います。
 あとをかたずけるのが、とてもたいへんそうでした。


 今から19年前に、私はこんなことをしていたのです。「パンチカードシステム」というものでした。恥ずかしくなるような話ですが、これは1979(昭和54)年のことです。拙著『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(34頁、昭和61年、桜楓社刊)に、この辺の事情を書いています。私が初めてコンピュータなるものに触れる、丁度一年前のことです。

 世界初の情報処理用のチップとしてのCPUは、インテルという会社が1971年に作りました。もっとも、これは日本が発注した電卓用であって、コンピュータとはまだ結びついていません。
 1976年に、NECがTK-80というトレーニングボードを発売します。1980年に、私が初めて触ったコンピュータがこれです。
 その後、Apple II・TRS-80・PET-2001・BASIC MASTER LEVEL1・MZ-80Kというものを、大阪日本橋の電気屋で触りました。お店に並ぶコンピュータに触れたのは、発売から相当時間がたってからでした。
 1979年になって、やっと日本初のパソコンと呼べるPC-8001が発売されたのです。このコンピュータが、私が最初にマスターしたパソコンと言えるものです。もっとも、最初はパーコンと呼ばれていましたが。

 その後、パソコンと呼ばれたマイコンは、とにかく日常生活に投げ込まれ、そして溶け込むように仕組まれてきました。しかし、コンピュータ業界の身勝手な思惑に反して、依然として未熟な情報処理機器であることを、今でも各所で露呈しているのが実体です。さらに進化を遂げて、快適な生活のために、より一層貢献してほしいものです。そのためにも、我々はコンピュータ業界に資金援助をしているのですから。

 それにしても、今のパソコンは、思ったほど進化しなかったように思います。まだまだ日常的にトラブルが多発し、使用を中断して技術屋さんに修理や調整をしてもらうことがよくあります。各メーカーやソフトハウスのユーザーサポートの電話は、今でもなかなか繋がりません。それだけ、使えなくて困っている人が溢れているということです。身近にアドバイスをもらえる知人がいないと、パソコンは十分に活用できないというのが実状でしょう。
 自動車のようにパソコンが進歩しなかったのは、メーカーが先端技術を追いすぎたために、利用環境をかえりみなかった怠慢が原因だったと、私は思っています。

 まだまだ、コンピュータ業界はやるべきことがあるはずです。豊かな生活の環境づくりを手助けするためにも、今しばらくコンピュータ業界を育成するためにも、我々一般ユーザーは、莫大な資金と膨大な時間を投資しつづけることになると思われます。それが、我々ユーザーのささやかな支援だとも言えます。コンピュータ業界の方は、こうした浄財と献身を有効に生かして、より快適な社会を支える情報機器を開発・提供してほしいものです。
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
posted by genjiito at 23:42| Comment(0) | 回想追憶

2015年02月15日

再録(17)17年前の「私のコンピュータ経験と通信環境」

 これまでのコンピュータとの関わりについて、いろいろな資料を整理しています。
 この一連の「再録」は、〈大和まほろば発 へぐり通信〉から発信していた情報のすべてを本ブログの中に取り込み、総整理を進めているものです。
 〈へぐり通信〉は、平成18年以降は更新をしていません。こちらへの移行を終えしだいに、そのすべてを閉じようと思っています。

 さて、〈へぐり通信〉には「新・奮戦記」というコーナーがあります。
 その中の【ハイテク問はず語り】から、今は順次「再録」として記事を移動させているところです。
 今回は、[3年目/1997.10.1〜1998.9.30]の中から、毎年その末尾に付していた「私のコンピュータ経験と通信環境」を再現します。

 この項目は、現在のところ「1998年8月2日」の状況しか記録が残っていません。
 私がインターネットにホームページを開設し、情報を公開し出したのは1995年9月です。ただし、その当初のコンピュータの環境は、まだ正確には確認できていません。めまぐるしくコンピュータの環境が変転したので、記録の掘り起こしが追いついていないのです。
 いずれまた、ということにしておきます。

 なお、下記の記事の中に『源氏物語別本集成』が「全17巻」となっているのは、当初は索引2巻を予定していたためです。

 それにしても、当時のハードディスクやメモリの容量の少なさには驚きます。私が現在日常的に使っているノートパソコンは、1テラのフラッシュストレージに16ギガのメモリを搭載しています。隔世の感があります。
 当時、家庭内にソーホーの環境を構築していたこと、またモニタを2台並べ、カラーレーザープリンタを使いながら、それでいて通信にはダイアルアップという、何ともアンバランスな状況だったこともわかります。

 「音響カプラ」も、どんな形で何に使うのかも、今ではご存知ない方が多くなりました。

150215_kapura




 電話口にカポッと取り付ける「音響カプラ」は、海外から通信をする時などには必須のアイテムでした。今から31年前の、通信用の道具の一部です。
 こうしたものまで保管しているので、家中がガラクタだらけで困ると、いつも苦情を言われています。
 
 この〈へぐり通信〉における情報の更新状況については、【 履 歴 一 覧 】をご覧ください。
 
----------------- 以下、再録掲載 ---------------------
 
  〔私のコンピュータ経験と通信環境〕
 
 私の初めてのコンピュータ体験は、1980年のマイコンキットNEC〈TK-80〉でした。
 1981年にPC-8001で半角カタカナによる『源氏物語』の本文データベースに着手。
 現在刊行中の『源氏物語別本集成』(おうふう、全17巻、既刊9巻)の原点です。
 1984年に、PC-9801F2と音響カプラによるコンピュータ通信を開始するが続かず。
 オリベッティ・NEC・富士通・EPSON・日本ゲートウェイを経て、現在はAppleとSONYのコンピュータを使用中。

  ◇インターネット活用のためのハード&ソフト◇

●CPU:APPLE-PPC-7600
●OS:MacOS-8.0
●メモリ:160M
●H D:6G(内蔵)+4G(外付)
●ルーター:NTT-TE東京-MN128-SOHO
●モニタ:SONY-CPD-20sf3 + MAG-MXE17S
●プリンタ:Apple ColorLaserWriter 12/600PS-J
●プロバイダ:まほろば(ダイアルUP接続)
●インターネット関係で利用する機会の多いソフト
(フリーソフトを除く):
 Netscape・Photoshop・Excel・ColorMagician7・
 ファイルメーカーPro・ホームページPro・クラリスメール
 
----------------- 以上、再録掲載 ---------------------
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2015年02月07日

再録(16)続・カシオの欠陥腕時計(1996.12.22)

 2ヶ月後に発売される「Apple Watch」を、どの段階で手にしようかと思案中です。
 しかし、いつも私はワケアリ商品を渡されるので、そのタイミングが難しいのです。

 それはさておき、昨日の「再録(15)カシオの欠陥腕時計とのお付き合い(1996.12.7)」の続きです。
 新商品につきものの、最新技術が製品化に追いついていない実情が見えてきます。
 
********************** 以下、再録掲載 **********************
 
 裏蓋が突然浮き上がったために修理に出したカシオの腕時計が、ようやく返ってきました。
 修理報告書は、下記のようになっています。

    処理内容
       ケース部部品不良裏蓋交換
       デジタル部その他モジュール調整
    請求明細
       バツク2(727) ×1
       デンチ    ×1
    請求明細
       部品代   2,300
       技術調整料 2,300
       消費税    138
     合計      \4,738

 要するに、はずれかかった時計の裏蓋を交換し、電池を替え、時計機能の調整と点検をした、ということなのでしょう
 裏蓋の刻印が〔517871〕から〔537948〕に変わりました。アナログ部とデジタル部の時刻は同じ時間を示しています。本来は当たり前のことなのですが、この時計の場合は重要な点です。調整してくださったようです。しばらく使ってみましょう。といっても、外出以外は腕に付けないので、一年の半分以上は机の上に置かれた状態ですが。
 なお、以前の二回と同様に、今回も修理技術者の方は福西氏でした。形状の珍しい時計なので、修理をしながら同一人物のものであることは、お気づきのことでしょう。よりによってこんなに調子の悪い製品を手にした私を、気の毒がってくださったのではないかと、勝手に想像しています。
 本当に、私は機械運が悪いのです。大量生産品の中でも、特に出来の悪い方のものが手元に届きます。いずれ、手にした不良品をオンパレードでご紹介します。
 さて、今回の問題点を整理しておきます。

 1.何故に裏蓋が浮き上がり、使用不可能になったのか。
 ちゃちな構造であったのはわかりますが、製品化にあたっての詰めが甘かったとしか言いようがないように思います。
 もしこの製品を頻繁に腕に付けていたら、もっと早くこのような事態にみまわれたことでしょう。
 あまり腕にするなということだと、少し意地悪に解釈しておきます。

 2.電池を交換されたが、これは前回の修理でも交換されていたのです。
 つまり、この時計は、一年半で電池も寿命に近づくということでしょうか。
 説明書にあるような頻度ではデジタル部の表示やブザーを使っていないので、規格として明記された2年以上は電池の寿命があると思うのですが。
 この電池交換費用も、被害者の私が負担することには、少し疑問を感じます。

 3.電池の寿命には誤差があるとしても、電池の交換をするたびにデータが消えてしまいます。
 ということは、1年半ごとに電話番号などを入れ直す仕様になっているということなのです。
 時計に片仮名を入力するのは、意外と面倒です。これまでに、三回も入れ直しました。
 もうデータを記憶させるのはやめますが、これが3万円もするカシオの時計です。
 最近は、データを消さずに電池を入れ替えるものがあるようです。
 1年半前のカシオの技術では、この価格帯では不可能なことだったようです。
 早く先端技術の水準に達してほしいと思います。
 
 結局は、このような製品を購入した私が一番甘かったことになります。他の製品の場合とは違い、生命に別状がないのでたいした問題ではありません。私の見る目と運が悪かったのです。この時計は、部屋の片隅であと1年半ほど、ひっそりと余生を送ってもらうことになります。可能な限り外出の際に連れて出ることにしますが、愛着がなくなっているので出番はますます少なくなりそうです。
 カシオには、製品企画段階での詰めと、出荷前の点検をしっかりとやってほしいと思います。
 
********************** 以上、再録掲載 **********************
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2015年02月06日

再録(15)カシオの欠陥腕時計とのお付き合い(1996.12.7)

 私は時計が大好きです。壁掛け時計も置き時計も腕時計も、私の身辺には至る所にあります。常に視野の中に時計がないと、どうも落ち着かないのです。
 しかも、数字が表示されるデジタルよりも、針がクルクルと回る方が好きです。

 アップルは昨秋、「iWatch」を発売するはずでした。しかし、それが今春に延期され、その時計型のウェラブルデバイスが「Apple Watch」という名前になって、2015年4月に出荷される予定だという発表がありました。
 この出現によって、これまでの時計の概念が大きく変わることでしょう。
 今から大いに楽しみにしています。

 そんな待ち遠しい状況なので、これまでに書いたままで私のホームページに放置されていた時計の記事を、本ブログに再録します。20年も前に購入した時計に関する記事です。
 当時私が腕につけていたその時計は、アナログとデジタルとが融合したコンピュータウォッチでした。偶然、ネットで画像を見つけました。その姿は、こんな感じです。


150206_databank




 上の写真の左が、普通に腕にはめている状態です。そして、その文字盤を手前から向こうに起こすと、中は右のように、データを表示する液晶パネルとキー入力用のタッチパネルになっていました。ただし、以下の記事に記すように、不具合がいろいろとある時計でもありました。
 
********************** 以下、再録掲載 **********************
 
 カシオの腕時計の一部には問題があると思います。その顛末を記しておきます。

 《1》1995.2.20 「CASIO DATABANK FLIPTOP」を購入。
    〔時計本体裏蓋刻印番号 727一IA−1000 517871〕
 フリップトップというスタイルで、ウルトラ警備隊が腕にしているような、蓋の開く形です。外見は普通のアナログ時計なのですが、蓋を起こして開くと、内部は計算や電話帖やメモが入力できる機能を持ったデジタル時計になっているのです。少し厚くて重たいのですが、多機能なので気に入りました。あまり時計をしないほうなので、便利ならいいのです。
 購入後すぐに、内側の時計表示部分である液晶パネルに貼られていた保護用のビニールを剥がした時、透明板に波型のにじみ模様がキワとして明瞭に見えるのに気付きました。ビニールを貼るための粘着糊の一部と思い、自然に取れるのを待つことにしました。しかし、数日しても取れず、ぬるま湯でパネルを拭いても取れません。パネルが見にくいので、購入店に持ち込んで診てもらうと、メーカーヘ送り返して修理をするとのことです。2週間もかかるそうです。春先のしぱらくは時計が放せない生活が続くこともあり、すぐに修理には出さず、仕方なく使用していました。

 《2》1995.4.24 不具合発生のため修理を依頼する。
 1.アナログの針が、分針と秒針が少しずつずれていくのです。4月1日に時報で正確に針を合わせました。ところが、2週間で20秒ほど秒針が進み、分針が少しずつ遅れるようにしてずれてくるのです。
 2.さらに、4月1日に正確に合わせたアナログとデジタル部分で、2週間で29秒ほどずれるのに気付きました。デジタル表示部分が29秒進んでいるのです。製品仕様によると、平均月差±20秒以内とあります。使用されているCMOS-LSIチップが不良品ではないのか、点検してもらうことにしました。
 3.時計をして走っている時に、二度ほど上蓋が開いて、少し危険な思いをしました。この接合開閉部分の調整もお願いしました。
 4.電話番号を記憶させているので、修理の際はデータのバックアップをしながらをお願いしました。電話などの文字入力には結構時間がかかるものです。時計を預けて不便な生活になるは、データの入れ直しをさせられるはでは、あまりにやり切れないので、あえて依頼したのです。
 5.この時計を1ケ月半ほど使用しての感想は、次のようなものでした。まず、製品としての仕上りが大分お粗末なようです。特に、時計機能の信頼性の欠如については、計算機メーカーだけに人ごとながらその技術力に危惧を感じました。価格も相当な額(3万円)を設定してあるのですから。10年以上前にカシオ社のパソコンやワープロを使っていたのですが、その頃の製品コンセプトとマシンの仕上がりが良かった記憶があったので、この種の未完成の製品を手にすると、市場に出す前の機能点検の甘さを感じます。よくある「これは仕様である」ということなら、新しいもの頂けないかとも依頼しました。私は本製品のテスターでもモニターでもなく、数万円という対価を支払った一購入者ですから、精度の低いLSIと長く付き合うことは希望しない旨を伝えました。
 ◎1995.5.19 修理完了
 ◎1995.5.24 受け取る。
 「修理報告書」によると、処理内容は〈アナログ部その他ムーブメント洗浄〉〈デジタル部その他モジュール交換〉とあります。請求金額は〈無償〉でした。しかし、お願いしたはずなのに、入力していたデータは、完全に消えていました。事前に確認はありませんでした。再度、電話番号などを入力しました。また、修理完了の時計を受け取った時、すでに外と中の時計に2秒の誤差がありましたが、これくらいならと使用を再開することにしました。

 《3》1996.2.19 やはり時計不調。保証期間満了前日に修理に出す。
 1.1995.10.1より1996.2.19までの5ヶ月ほどの間に、アナログ・デジタル共に2分も進むのです。ただし、内外の時計の差はありません。
 2.電話番号などを登録しているので、消えないように作業を進めてもらえないかと依頼しました。修理担当者と話をしました。この機種は分解修理にかかった段階でデータはどうしても消えてしまうとのことです。データをバックアップする端子がないそうです。3万円もするデジタル時計にしては、お粗末な設計仕様だと思いました。
 ◎1996.3.4 修理完了
 ◎1996.3.7 受け取る。
 「修理報告書」によると、修理内容は、〈デジタル部その他トリマーコン調整〉とのこと。当然のことながら、請求金額は〈無償〉でした。今回もまた、電話番号などを入力しなおしました。10年以上も前に、パソコンでデータを入出力できるEPSONのタッチパネル形式の腕時計を使っていたことを思い出しました。あれからコンピュータは驚くほど進歩したのに、腕時計にデータを入力する作業はかえって不便になったように思います。

 《4》1996.11.28 時計が使用不能になる。
 時計の裏蓋が浮き上がり、爪が入るほどの隙間ができていました。指で押すとはめ込むことができます。しかし、すぐにポコッと浮き上がるのです。しばらくしてから、時計が止まっているのに気付きました。内部のデジタル表示部分も消えています。裏蓋を押さえつけても、まったく動かないのです。購入店に持ち込んで修理依頼をすると、有償とのこと。それでも、とにかく修理に出しました。本日受けた連絡によると、見積額は4500円でした。お願いすることにしました。修理が完了しても、また電話番号を入力する仕事が待っています。暇つぶしに困ったときにやろうと思っています。

 その後の経過は、またここに追記します。
 なお、カシオの時計に関しては、6年前に時刻表が記憶させられる〈DATABANK〉というデジタル時計を購入しました。ところが、使用して2年ほどで液晶パネルの表示がおかしくなり、修理代金が購入価格より高かったので、同じ機種を買い換えたことがあります。
 というと、いかにも私が時計を酷使しているかのように思われるかもしれませんが、ごく普通に時計を利用しているつもりです。外出するときだけ時計をしますので、時計を身につける時間はすくない部類ではないでしょうか。
 
********************** 以上、再録掲載 **********************
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2015年01月14日

わが父の記(6)弁当箱で父の歯が折れたこと

 先週から、歯痛に悩まされています。
 頬が垂れ下がるほどに腫れていたので、マスクが手放せませんでした。
 今も、人前では顔を、というよりも頬っぺたをマスクで覆っています。
 風邪のシーズンということもあり、対面していてもあまり違和感はないようです。

 右目がだるくなり、常に頭が重たいので、無理をせずに身体を休めることにしています。

 その歯については、あまりいいことを思い出しません。
 もっとも、歯で楽しいことを思い出すことなど、逆にあるのでしょうか。
 テレビのCMに出てくる、キラキラ輝く歯の方との出会いも、残念ながらありませんでした。

 歯の本来の役割を考えると、生活と密着したものなので、楽しさとは結びつかないのでしょう。

 歯といえば、父の歯のことを思い出します。
 私の不注意が原因で、父は入れ歯になったのです。
 その父が亡くなって、今年の5月で32年になります。

 小学校に入る前のことでした。
 父は大阪の土木現場へ出稼ぎに行き、母が、姉と私を生まれ育った出雲で育ててくれていた頃のことです。
 父は年に2、3度、たくさんのお土産を抱えて、大阪から帰って来ました。

 両親は艱難辛苦の末、命からがら満州から引き揚げてきました。
 『桜子は帰ってきたか』(麗羅)という第1回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞した小説は、私にとっては両親が満州を彷徨った話を思い出す本となっています。
 ただし、父は小説のように満州で殺されたのではなく、シベリアで強制労働をさせられて復員したのですが。

 父のシベリア抑留生活に思いを馳せる話は、ちょうど5年前の「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」(2010年1月17日)に記した通りです。

 さて、私が小学校に入る前の、出雲での話でした。
 父が、出雲の小さな市営住宅に帰ってきていた時のことです。
 夕食の時、母からお弁当を出しなさい、と言われました。
 すぐに布のカバンから何気なしに母に渡したはずのアルミ製の弁当箱が、どうしたことか小さな丸い食卓を挟んで私の向かいに座っていた父の歯を直撃したのです。

 今思い返しても、なぜそんなことになったのかわかりません。
 久しぶりに父がいて、嬉しさのあまりに興奮し、私が調子に乗ってふざけながら渡したのかもしれません。

 とにかく、父の前歯が確か2本折れたか割れてしまったのです。

 怒られる、とビクビクしていたのに、父も母もいつものようにニコニコしていたことだけを覚えています。


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 あの出来事は何だったのでしょうか。
 いまでも、両親が優しく私を咎める目つきで見たことしか、思い出せないのです。
 怖くも何ともない、それでいて「だめだよ」という、たしなめる目でした。

 以来、父の前歯が入れ歯になりました。
 貧しかった我が家で、入れ歯を作るなど法外な出費となったことに違いありません。
 両親は、その費用の工面に走り回ったことでしょう。
 父の口元を目にするたびに、心の中で「ごめんなさい」とつぶやいていました。

 優しい目で叱る、ということはできるようです。
 すでに両親が共にいない今、あの時の気持ちを聞きたいのですが、……
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2015年01月13日

平成26年(2014)を記録した写真集【その4/4】

 昨年、平成26年のブログから、私の記憶に新しい写真を選んでみた【その4】です。
 この第4で終わりです。
 
 これまでのものは、以下のタイトルでアップしています。

【その1】「平成26年(2014)を記録した写真集【その1】」(2014年12月31日)
 
【その2】「平成26年(2014)を記録した写真集【その2】」(2015年01月09日)
 
【その3】「平成26年(2014)を記録した写真集【その3】」(2015年01月10日)
 
 写真の説明は、当該のブログをご覧ください。
 
 
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(26)「江戸漫歩(88)皆既月食から鋭気をもらう」

(2014年10月08日)
 
 深川に着いた頃には、まん丸だった月は欠け始めていました。

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(27)「日本盲教育史研究会に参加して(その2/3)」

(2014年10月12日)
 
 日本盲教育史研究会で広瀬浩二郎さんの講演に飛び入り参加。

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(28)「京洛逍遥(339)賀茂川での呈茶と長生堂の和菓子」

(2014年10月18日)
 
 北大路橋のたもとで、何度か紹介している方がお茶を点てておられました。

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(29)「源氏を読む会の中止と区切り目の年へ突入したこと」

(2014年11月08日)
 
 娘たちから贈られた記念の「63」という数字。

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(30)「第38回 国際日本文学研究集会の第1日目」

(2014年11月29日)
 
 
 深川図書館の建物の風格を見せるイチョウの黄葉。

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(31)「第38回 国際日本文学研究集会の第2日目」

(2014年11月30日)
 
 
 国立国語研究所の周りのみごとな紅葉。

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(32)「江戸漫歩(93)六本木・東京タワー・芝公園へ紅葉狩り」

(2014年12月07日)
 
 
 芝公園から東京タワーを見上げると季節感を纏った姿が。

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(33)「日比谷図書文化館でハーバード本を読む(5 最終回)」

(2014年12月11日)
 
 
 日比谷図書文化館はいつも明るくておしゃれです。

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(34)「視覚障害者と共に古写本を読むためのポスター発表をする」

(2014年12月20日)
 
 視覚障害者と共に古写本を読むための立体コピー。

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(35)「お茶のお稽古の後に視覚障害者のことを想う」

(2014年12月23日)
 
 
 帰りの京都駅前では、ちようどアクアファンタジーが始まっていました。

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2015年01月10日

平成26年(2014)を記録した写真集【その3】

 昨年、平成26年のブログから、私の記憶に新しい写真を選んでみた【その3】です。
 
 これまでのものは、以下のタイトルでアップしています。

【その1】「平成26年(2014)を記録した写真集【その1】」(2014年12月31日)
 
【その2】「平成26年(2014)を記録した写真集【その2】」(2015年01月09日)
 
 写真の説明は、当該のブログをご覧ください。
 
 
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(16)「京洛逍遥(327)ストレス解消の課題を抱えて見る西山の夕焼け」

(2014年07月07日)
 
 茜色の夕日が西加茂に落ちる賀茂川の川面。

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(17)「京洛逍遥(328)冷房攻めから逃げるように祇園祭へ」

(2014年07月18日)
 
 今年から祇園祭に登場した四条町の大船鉾の組み立て風景。

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(18)「京都で『源氏物語「蜻蛉」』の写本を読む(第12回)」

(2014年07月19日)
 
 ワックジャパンの京町家「わくわく館」で古写本『源氏物語』を読む。

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(19)「京都府立盲学校の資料室(その1)」

(2014年08月04日)
 
 明治11年に日本最初の京都盲唖院として開校した時の院長は古河太四郎です。

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(20)「お盆で庵主さんと語らい河内高安へ墓参に」

(2014年08月15日)
 
 今年も養林庵の庵主さんが我が家に来てくださいました。

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(21)「京洛逍遥(335)大雨の後の如意ヶ岳を焦がす大文字」

(2014年08月16日)
 
 大雨の後の如意ヶ岳を焦がす大文字は印象的でした。

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(22)「京洛逍遥(337)下鴨神社の盆踊りと地域の地蔵盆」

(2014年08月23日)
 
 下鴨地域の地蔵盆で子供たちが演芸会をしていました。

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(23)「江戸漫歩(84)秋を迎えに新宿の思い出横丁へ」

(2014年09月04日)
 
 45年も足を運んでいる新宿の思い出横丁へ。

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(24)「日南町でハーバード大学本「須磨」を読む」

(2014年09月13日)
 
 「須磨」は、読みやすい字で書写されています。

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(25)「京洛逍遥(338)性差別・放送禁止用語を使う青蓮院の時代錯誤」

(2014年10月05日)
 
 飛び立つ鴨を間近で初めて撮影しました。

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2015年01月09日

平成26年(2014)を記録した写真集【その2】

 昨年、平成26年のブログから、私の記憶に新しい写真を選んでみました。
 何回かに分けてとりあげます。
 これは、【その2】です。

 【その1】は、以下の記事として昨年末(大晦日)にアップしています。
  「平成26年(2014)を記録した写真集【その1】」
 
 写真の説明は、当該のブログをご覧ください。
 
 
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(6)「京洛逍遥(308)通院途中に見かけた鷺たち」
(2014年03月14日)
 

 賀茂川縁では、いろいろな鷺たちが春を待ちわびているようです。

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(7)「NPO設立1周年記念公開講演会を終えて」

(2014年03月23日)
 

 副代表理事である畠山大二郎氏の着装実演のモデルとなりました。

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(8)「京洛逍遥(310)京洛の桜はちらほらです」

(2014年03月30日)
 

 ちょうど、かわいい小鳥が一羽やってきて、花と枝の間をチョンチョンと飛び交っていました。

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(9)「『日本古典文学翻訳事典 1〈英語改訂編〉』を発行しました」

(2014年04月01日)
 

 デザインに拘った装幀をご覧ください。

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(10)「京洛逍遥(314)半木の道の早咲きの桜を確認」

(2014年04月05日)
 

 飛び石のトントンを渡り、近くに寄って確認しました。

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(11)「読書雑記(95)伊藤新之介著『ネットが味方になる Webマーケティングの授業』」

(2014年04月10日)
 

 私の処女出版から28年経って、息子の本を手にすることになりました。

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(12)「早朝の地震の後、渋谷の温故学会へ」

(2014年05月05日)
 

 この日を契機として、視覚障害者のみなさんと古写本を一緒に読むことに挑戦するようになりました。

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(13)「京洛逍遥(319)「いずれがあやめかきつばた」」

(2014年05月18日)
 

 「キショウブ」と思われる「菖蒲」のことです。

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(14)「第3回池田亀鑑賞授賞式」

(2014年06月29日)
 

 池田亀鑑賞の第3回受賞者は、立命館大学の須藤圭氏でした。

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(15)「京洛逍遥(326)三条河原町からバスで帰宅」

(2014年07月06日)
 
 「UP24」というウェアラブルコンピュータを装着しての日々。

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2014年12月31日

平成26年(2014)を記録した写真集【その1】

 平成26年も1年間、毎日このブログを書き続けることができました。
 好き勝手に思いつきを日々書いてきました。
 折々にご教示やコメントをお寄せくださった方々に、あらためてお礼を申し上げます。
 その中から、私の記憶に新しい写真を選んでみました。
 何回かに分けてとりあげます。
 写真の説明は、当該のブログをご覧ください。
 
(1)「京都で『源氏物語「蜻蛉」』の写本を読む(第7回)」
(2014年01月18日)
 
 京都で『源氏物語』を読む会を開催している、ワックジャパンの中庭から町家の母屋を見た、風情のある建物です。
 

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(2)「京洛逍遥(306)角田文衞先生と出雲路橋の夕陽」
(2014年02月05日)
 
 賀茂川で見た夕陽です。
 

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(3)「江戸漫歩(73)大雪前夜の隅田川を行き交う屋形船」
(2014年02月07日)
 
 隅田川のマンション群の間を進む屋形船です。
 

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(4)「伊藤科研の第2回研究会を京都で開催」
(2014年02月26日)
 
 「伊藤科研のホームページ」のデザインが完成しました。

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(5)「京都で『源氏物語「蜻蛉」』の写本を読む(第8回)」

(2014年03月01日)
 

 賀茂川の鴨たちも、散策路の所まで上がって来て遊んでいます。
 

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2014年12月24日

2014年の十大出来事

 2014年も、残すところあと1週間となりました。
 今年も不安定な体調ながらも元気に仕事をしました。
 11月8日の人生の一区切りも無事に通過しました。
 折々にお気遣いをいただいた方々に感謝しています。
 今年の私の10大出来事を勝手にまとめてみました。
 来年もこれまで同様のお付き合いを願いいたします。


(1)ベトナムのハノイ市とホーチミン市での調査
(2)アメリカ・ワシントンの議会図書館での調査
(3)『日本古典文学翻訳事典1英語改訂編』刊行
(4)渋谷版ウエブサイトをNPO法人で引き継ぐ
(5)ハーバード大学本『源氏物語・蜻蛉』を刊行
(6)カナダ・バンクーバーで国際研究集会を開催
(7)日比谷カレッジでハーバード本・蜻蛉を読む
(8)東京の放送大学でハーバード本・須磨を読む
(9)視覚障害者と古写本を読むテーマに取り組む
(10)科研の成果としての電子ジャーナルを創刊
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2014年02月28日

冨田大同先生の訃報を知って

 冨田大同先生がお亡くなりになったことを、奥様からいただいたお葉書で知りました。
 本年1月12日に、88歳での急逝だったそうです。
 1度だけ、兵庫県小野市のご自宅に伺いました。
 あの風雅なお宅の佇まい、そしてお部屋、お庭は、今も鮮明に覚えています。
 お茶を点て、書をなさるのにふさわしいお宅でした。

 冨田先生には、大阪明浄女子短期大学文芸科(現・大阪観光大学)で大変お世話になりました。

 私が大阪府立高校で国語科の教員をしていた平成3年(1991)3月のことです。
 伊井春樹先生の仲立ちを経て、文芸科長だった冨田先生とお目にかかりました。
 私が40歳になる年のことです。

 阪急梅田の地下街にある、小さな喫茶店の一角でした。
 愛知教育大学に転任される井爪康之先生と3人で、今後のお話を伺いました。
 研究者としての道を用意してくださったことに感謝しています。
 また、新しいことへのチャレンジに、意欲を搔き立ててくださいました。

 初見から、豪快な先生であることがわかりました。
 気持ちがいいほどに、大きく包み込んでくださる先生でした。
 幾度となく叱られました。
 しかし、褒めてもくださいました。
 お名前の「大同」を「もとあつ」とお読みすることは、ずっと後に知りました。

 私が科研費の採択を受けて公費による研究をスタートさせることになった時は、大学で初めてだったこともあり、本当に喜んでくださいました。
 私も、着任後すぐに申請した課題だったこともあり、冨田先生に励まされながら『源氏物語』の古写本のデータベース化に取り組みました。

 次の2つの科研費研究は、研究者としてはヨチヨチ歩きだった私にとって、冨田先生に研究環境を整えていただきながら取り組んだ、思い入れのある研究です。

※「源氏物語古写本の画像データベース化と別本諸写本の位相に関する研究」(一般研究(C)、1992〜3年)

※「源氏物語古写本における異本間の位相に関する研究」(特定領域研究(A)、1997〜8年)

 また、大学へのコンピュータの導入にあたっても、深い理解を示してくださいました。
 私が、今も『源氏物語』の本文の整理をコンピュータでやっているのは、この冨田先生の理解が得られたからこそ可能になったことだ、と思っています。

 私は、大阪明浄女子短期大学に8年半在職しました。
 後半は、大阪大学大学院の博士後期課程にも社会人として在籍し、平成11年(1999)に東京の国文学研究資料館に身を移しました。

 先生には、語彙や助詞の研究があります。
 「泉州語彙稿」
 「続々・係助詞の、いわゆる終助詞的用法について。 : 源氏物語のコソ・ナムを中心に」
 「続・係助詞の、いわゆる終助詞的用法について」
 「係助詞の、いわゆる終助詞的用法について : 源氏物語のナムを中心に」等々

 私が上京してから、冨田先生はいつかいつかと思っていたとおっしゃり、当時は品川にあった国文学研究資料館にお出でになりました。
 必要な論文の複写をお手伝いし、夕刻から大井町の居酒屋で遅くまで飲みました。

 それ以降は、お目にかからないままに刻が過ぎて行きました。
 あの居酒屋での、「あんた、がんばりや」という大きな声が、今も甦ります。
 あの慈愛に満ちた眼が、今も忘れられません。

 ご冥福を心よりお祈りします。
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2013年12月26日

2013年のブログ掲載写真10選《後半》

 昨日に続き、今年度《後半》の10枚を選びました。

 今年1年を振り返り、私にとって印象的な画像を10枚ほど選びました。
 折々に思い出すことになりそうな写真や、貴重な画像を並べてみます。
 
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(1)河内高安散策
 
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「お盆の法要の後に河内高安へ墓参」(2013/8/13) 
 
 
 

(2)亡き仲間を偲んで蓮の葉蓋でお茶会
 
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「亡き仲間を偲んで我が家でお茶会」(2013/8/15)
 
 
 

(3)隅田川の仲秋の名月
 

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「江戸漫歩(67)隅田川から観る仲秋の名月」(2013/9/19)
 
 
 

(4)台風一過の賀茂川の植物園側
 

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「京洛逍遥(291)台風一過の賀茂川散歩」(2013/9/23)
 
 
 

(5)英文を表示しながら日本語で語り終えて
 

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「英文を表示しながら日本語で語り終えて」(2013/10/29)
 
 
 

(6)マドリッドの回転寿司「ぎんざ」
 
http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2013/11/post-6492.html

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「待ちに待ったマドリッドの回転寿司」(2013/10/31)
 
 
 

(7)イベリコ豚の生ハム
 

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「学生さんとマドリッドを散策」(2013/11/2)
 
 
 

(8)マドリッドで洗礼を受ける支倉常長
 

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「松島町の「みちのく伊達政宗歴史館」へ行って」(2013/11/14)
 
 
 

(9)京大病院がある神宮丸太町あたりの銀杏並木
 

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「京洛逍遥(297)賀茂川の鷺たちと色付く木々」(2013/11/23)
 
 
 

(10)架蔵『源氏物語』の翻訳本のミニ展示
 

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「自分の成長が実感できる国際日本文学研究集会」(2013/11/30)
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2013年12月25日

2013年のブログ掲載写真10選《前半》

 今年1年を振り返り、私にとって印象的な画像を10枚ほど選びました。
 折々に思い出すことになりそうな写真や、貴重な画像を並べてみます。

 まずは、今年度《前半》のものから。

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(1)2013年元旦にお茶のお稽古
 
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「京洛逍遥(246)お茶の後に上賀茂神社へ」(2013/1/1)
 
 
 

(2)NPO法人〈源氏物語電子資料館〉が京都で勉強会をしているワックジャパン
 
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「京洛逍遥(249)ワックジャパンで京町家と文化体験」(2013/1/12)
 
 
 

(3)女子駅伝での奈良チーム
 
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「京洛逍遥(250)都大路を走る女子駅伝」(2013/1/14)
 
 
 

(4)NPO法人〈源氏物語電子資料館〉の法人印
 
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【9.1-NPO】「NPOの法人印を精魂込めて彫っていただく」(2013/2/4)
 
 
 

(5)下鴨中通りに舞う雪
 
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「京洛逍遥(259)鷺が飛ぶ夕焼けの後に雪が」(2013/2/27)
 
 
 

(6)京大病院がある神宮丸太町あたりの桜並木
 
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「京洛逍遥(268)川端通りから冷泉通りの桜と十石舟」(2013/3/31)
 
 
 

(7)比叡山越しの日の出
 
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【4.1-京洛逍遥】「京洛逍遥(271)良好だった検診2日目と京洛の桜」(2013/4/5)
 
 
 

(8)娘夫婦が得た賀茂御祖神社流鏑馬神事当的
 
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「京洛逍遥(273)上賀茂の競馬競馳の準備風景」(2013年5月 3日)
 
 
 

(9)第2回池田亀鑑賞授賞式
 
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【3.6-池田亀鑑】「第2回池田亀鑑賞授賞式と記念講演会」(2013/6/22)
 
 
 

(10)インドのみなさんと新宿歌舞伎町
 
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「インドのみなさんと『十帖源氏』を読む「紅葉賀」(その4)」(2013/6/26)
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2013年12月23日

2013年の十大出来事

 早いもので2013年も残すところ1週間となりました。
 今年も元気に多くの仕事をし、国内外を飛び回りました。
 折々に気遣いをしていただいた方々に、感謝しています。
 東京と京都で、年越しと来年の仕事の準備を始めました。
 片付けついでに、今年1年の出来事を整理してみました。

 まずは、恒例となった今年の十大出来事から。


(1)NPO法人〈源氏物語電子資料館〉を設立
(2)京都ワックで『十帖源氏』を読む会が始動
(3)京都でハーバード本『源氏物語』を読む会
(4)『もっと知りたい池田亀鑑〜第2集』刊行
(5)27年来の仲間を追善供養するお茶会開催
(6)スペインで翻訳本『源氏物語』について話す
(7)ハーバード大学本『源氏物語・須磨』刊行
(8)新規採択された翻訳本に関する科研費(A)
(9)『源氏物語』の写本と翻訳本のミニ展示会
(10)中部大学で翻訳本源氏や海外情報の話
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2013年12月07日

甥の突然の訃報を受け秋田に来ました

 37歳でした。

 建築士として飛び回り、結婚し、2ヶ月前に新しく自分たちの家を建てたばかりでした。
 我が家の子どもたちの面倒を、よく見てくれました。

 東京から秋田新幹線こまちで秋田駅に行き、そこから乗り換えて羽後岩谷駅まで。
 7時間かかりました。

 羽後岩谷は、松本清張の『砂の器』の舞台となった羽後亀田の隣の駅です。
 私が島根県出雲の出身なので、この地は縁が深いところです。
 小説に出て来る国立国語研究所は、私の職場と地続きの隣にあります。
 私の父と妻の父は、共にヅーヅー弁で会話ができました。
 この秋田の地は、柳田国男の蝸牛考の世界なのです。
 息子が蒲田駅の近くに会社を設立しました。
 『砂の器』は私の周りに活きています。

 盛岡駅を出て田沢湖あたりで、雪が降っているのに気づきました。
 角館あたりでは横殴りの雪です。

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 東京駅からは2人の息子と共に、秋田駅では飛行機で来た娘と落ち合い、4人で鳥海山を目指して下りました。
 妻は、先に実家に飛んでいました。
 私が妻の実家に来るのは、4、5年ぶりです。
 村は、ほとんど変わっていません。

 私が37歳のときは何をしていたのか。
 思い出そうとしても、なかなか手繰り寄せられません。

 そう、大阪の高校で教員をしていました。
 2つ目の高校に勤務し出した時です。
 テニス部の顧問として、また授業にパソコンを導入することにも熱中していました。

 次男が生まれたのが、私が37歳のときです。
 公私にわたり、さまざまなことをしていました。

 甥も仕事柄、三陸の復興支援を手掛けていたようです。
 働き盛りの37歳だったのです。

 若さの中を走り回っていて、そして突然その時間を止められたのです。
 25トンのトラックが、センターラインをオーバーして来たとか。
 片側一車線では逃げようもなかったことでしょう。

 やりたいことがたくさんある最中に、思いがけない幕切れは悔しいでしょう。
 思い残すことが、山のようにあることでしょう。
 その無念の思いがわかるだけに、自分ではどうしようもなかった現実が事実としてあるだけに、遺影にかけることばが見つかりません。
 遺影は、結婚式の晴れ姿です。

 ただただ、冥福を祈るしかありません。
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2013年09月08日

オリンピック東京招致決定で思うこと

 今朝方、2020年のオリンピックが東京で開催されることが決定しました。
 前回の東京大会は昭和39年(1964)だったという報道を聞き、その時に自分が何をしていたのか、思いを廻らせました。

 これが、なかなか思い出せないのです。
 マラソンのアベベの優勝と、女子バレーボールの優勝と、三波春夫の「東京五輪音頭」が最初に思い浮かびました。市川崑監督の「東京オリンピック」という映画を、学校の体育館で観ました。「ウルトラC」ということばも、その時に覚えました。今はそれくらいです。さらに情報を得れば、たくさんのことを思い出すことでしょう。

 自分の昭和39年を、今しがた紙にメモを取りながら、何年生だったかを確認しました。
 ちょうど大阪府八尾市立南高安中学校に入学した年です。中学1年生だったのです。

 私は、小学校の6年生の夏休みに南高安小学校へ転校して行ったので、まだ八尾の地には1年にも満たない頃です。
 小学校4年生まで島根県出雲市立古志小学校に通い、5年生から大阪市立菅原小学校に移り、間もなく奈良県境の八尾市に転居したのです。

 子供とはいえ、新しい生活に慌ただしかったこともあるのか、たくさんのできごとや出会いがあったのか、前回のオリンピック東京大会は私にはあまり思い出がありません。

 我が家にテレビがついたのは、小学校5年生の頃からです。オリンピックの2年前。家で観たテレビといえば「ひょっこりひょうたん島」がまず最初に思い出せます。
 ちなみに、家に電話がついたのは、高校を卒業してすぐ、私が東京に出た年なので、昭和45年です。

 さて、今回の東京大会の会場をあらためて確認すると、なんと私が平日いる宿舎の近くに選手村ができるようです。バレーボール、テニス、水泳、体操の会場へは、自転車で行けます。
 ラッキー、と思いきや、自分の定年のことを忘れていました。

 私は昭和26年(1951)生まれなので、定年は平成29年(2017)3月です。ということは、次の東京オリンピックの2020年に、私は東京にはいないのです。京都の自宅で、賀茂川を毎朝毎夕、気ままに散歩している頃です。
 おそらく、オリンピックを観るために上京することはないと思われます。観るとしたら、テニスぐらいでしょうか。

 そう考えると、少し残念です。
 それはともかく、このオリンピックの招致は、若者たちには最高の贈り物だと思います。そして、海外の方々に、日本の文化に対する理解を深めていただく、絶好の機会だと思います。

 NPO法人〈源氏物語電子資料館〉の東京のメンバーが、海外から来る方たちに『源氏物語』と文化について伝える活動をしてくれたら、と願っています。
 当然、京都のメンバーも何か仕掛けると思います。
 楽しみが増えました。
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2013年09月06日

不思議な縁のとりもちで学習院大学に集った4人

 今日は学習院大学で、たくさんのお話を伺いました。中味の濃い、楽しい時間でした。
 
 
 
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 このメンバーが学習院大学に集まって話をするなど、今から2ヶ月前には想像すらできなかったことです。人と人との出会いは、本当におもしろいものです。奇縁とは、まさにこのことを言うのでしょう。

 面談の場所となった学習院大学史料館は、そうした思い出語りにふさわしいたたずまいです。
 
 
 
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 昭和7年に池田亀鑑が中心となって開催した《源氏物語展》の写真に関して、これまでに何度かこのブログに書きました。

【2-源氏物語】「昭和7年の東大源氏物語展の報道記事見つかる」(2011/10/21)

 そこで紹介した、池田亀鑑が高松宮喜久子さまに説明している写真で、亀鑑の右後ろにいる女性について、喜久子さま付きの老女・小山トミさんであることがわかったのは奇跡的でした。まさに、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』の刊行直前であり、最終校正でこのことを書き加えることができたのですから。

 その小山さんのお孫さんである武井絢子さんに、今日はいろいろなお話を聞くことができました。
 武井さんを探し出された、学習院大学史料館の吉廣さやかさんも同席。さらに嬉しいことに、そのような導きをしていただいた永井和子先生も、わざわざお出でくださいました。ありがたいことです。

 とにかく、私にとってはまったく知りようもなかったことが、目の前で語られて行きます。

 武井さんは昭和7年生まれなので、戦前から戦後にかけての話が中心です。私は、にわか仕込みの歴史の知識で、話についていくために頭の中はフル回転です。

 あらかじめ、武井さんから2冊の回想録と資料をいただいていました。
 
 
 
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 これがまた興味深い本でした。
 『昭和を生きて』は、学習院女子部の同窓会で常磐会第63回(思苑会)のみなさんによる、昭和を書き残すための文集です。平成19年1月に刊行されました。

 最初は、「まえがき」をはじめとする武井さんが書かれた3編の文とイラストだけを拝見するつもりでした。ところが、その内容がおもしろいのです。そこでついつい、70名もの方々の文章も読まされてしまいました。戦時中の疎開の話など、貴重な生活史が綴られています。
 さらに、喜寿記念文集として出された続編の『だんわしつ』(平成22年12月)も、興味のおもむくままに読んでいました。

 そんなことがあっての、今日のお話です。いろいろと繋がることが多くて、次々に出てくる話に惹き付けられました。

 私の中でじっくりと温めながら、折々に整理して語り継ぎたいと思います。

 史料館を出ると、あたりは木立の中に点在する街灯に照らされていました。
 時の流れが今にリセットされ、秋を感じさせる風が肌に感じられるようになりました。
 不思議な体験と興味深い会話の中に身を置けたことにあらためて感謝しながら、武井さんと永井先生ともども、3人で目白駅に向かいました。
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2013年09月01日

品川区戸越にあった国文学研究資料館の跡地

 古典文学に関するポータルサイトである「やたがらすナビ」をご存知ですか?
 「やたがらすナビって何?」をご覧になると、このサイトの性格とその意義がよくわかります。
 または、「やた管ブログ」の方を紹介した方がいいかもしれません。

 このサイトを運営なさっている中川さんは、精力的に情報を収集し整理してくださっています。ありがたいことです。
 折々に提供される情報を参考にさせていただいています。

 そのブログの記事として、一昨日は「続・戸越の国文学研究資料館はこうなった」(2013年08月30日)が掲載されました。

 国文学研究資料館は2008年2月に立川市に移転しました。
 それまで館があった品川区戸越の跡地の様子が、9枚の写真とともにブログで紹介されています。
 その変貌ぶりには言葉もありません。

 私は、この戸越にあった国文学研究資料館に、1999年から9年間通いました。2008年に立川へ移転してからは、1度も訪れていません。行こう行こうと思いながら、忙しさにかまけてご無沙汰だったのです。

 その戸越における最後の様子は、「仕事場との別れ」(2008/2/19)として自分のブログに書いています。
 その数日後、新しい立川での様子を、「立川での新生活がスタート」(2008/2/27)として報告していますので、併せてご笑覧いただければと思います。

 さて、私が戸越の国文学研究資料館に初めて行ったのは、今から38年前です。大学院生だった私が、当時は助教授としておいでだった伊井春樹先生を訪ねて行った時でした。
 伊井先生は創設当初からのスタッフでした。研究室へお邪魔し、館内を案内していただき、すぐに利用登録をしてくださいました。

 私が大学院の修士課程を修了して大阪の府立高校で教員をすることになった時、東京を離れるにあたってご挨拶をするために戸越へ行った日のことも、鮮明に覚えています。

 その伊井先生とは、国文学研究資料館から大阪大学に移られてすぐの1984年に、大阪で再会しました。
 1997年に、私は大阪大学大学院博士後期課程に入学し、遅ればせながら伊井先生の指導を受けるようになりました。しかし、満期退学直前の1999年に私が国文学研究資料館に身を移したため、2000年の課程博士ではなく、2002年に大阪大学から論文博士の学位をいただきました。
 その先生が、2005年に国文学研究資料館の館長として着任なった時には驚きました。
 ちょうどその頃、私が日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)の支部の委員長をしていた関係で、過半数代表者として伊井先生と労働協約に関して交渉や調印をするなど、忘れられない時代となっています。
 そして先生は、戸越から立川への移転や組織の法人化などの難題に取り組まれ、2010年の退任後は逸翁美術館の館長をなさっているのです。

 そんなこんなで、戸越から立川へと移り変わる時期は、私にとっても思い出すことの多い激動の時代だといえます。

 その戸越の地の今を、中川さんの記事とともに写真で見ながら、かつてを思い出そうとしました。しかし、気持ちのいいほど、旧懐の情は湧きません。懐かしさが甦るのではないのです。小旅行のために現地をあらかじめ確認する時の心境で、ネット越しに「文庫の森」を見ています。あまりにも違う光景が展開しているからでしょうか。

 とはいえ、実際に現地へ行けば、不思議な気持ちになることでしょう。
 いろいろなことを思い出すことでしょう。
 そんな機会を、近いうちに持ちたいと思っています。

 中川さん、貴重な情報と写真を、ありがとうございました。
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2013年08月30日

千家のおじさんの訃報を聞いて

 先ほど、出雲におられた千家のおじさんが亡くなられたと、おばさんからの電話で知りました。
 先週の24日に他界され、27日に葬儀を終えたとのことでした。
 小さい頃から可愛がっていただいていたので、私にも連絡があったのです。

 千家のおじさん、と呼んでいるのは、島根県の斐伊川に懸かる神立橋の近くにある千家村(出雲大社領)に住んでおられたからです。
 小さい頃から、姉とよく千家へ泊まりに行きました。私が住んでいた出雲市古志町から簸川郡斐川町(現在の出雲市斐川町)へは、バスで神立橋を渡って行きました。築地松に囲まれた、大きな家でした。
 その後も、折々に声をかけていただき、何度か奈良にいた我が家にも来てくださいました。

 私が体調を崩していると風の便りで聞くと、肉太の筆文字で長文の手紙をくださいました。気が滅入っていた時などは、勇気づけられたものです。そんな手紙をいただいたことが何度かありました。その細やかな気遣いに、遠くから見守っていただいているという思いで、出雲を見やっては感謝していました。

 おじさんの家の近くには、万九千神社という、延喜式・出雲国風土記等にも出て来る古いお社があります。私は子供の頃、この境内でよく遊んでいました。

 出雲地方では、全国の八百万の神が毎年旧暦10月11日から1週間、出雲大社へ集合して神在祭が執り行われます。
 引きつづいて佐太神社で神在祭があり、最後に万九千神社で宴を開いて、ここから諸国の神社へ神様たちは帰って行かれるのです。
 この万九千神社は、八百万の神々が自分の国へ帰られる時が来たことを告げる「神等去出祭(からさでさい)」が行われた場所です。ここの地名を「神立(かんだち)」というのも、これに由来するそうです。

 古典の授業で「10月」のことは、全国的に「神無月」と教えています。しかし、私は小さい頃から「神在月」と教わってきました。今、出雲以外の地方では、学校の試験などで「神在月」と答えると、それは間違いとされるのでしょうか。

 今から25年前、おじさんが奈良の我が家に来られました。当時から私は、西国三十三所の観音巡礼をしていたのです。すると、おじさんは自分も一緒に連れて行ってくれとのことだったので、数日間ではありましたが10ヵ寺ほどを案内して回りました。

 押し入れから、その時の記念写真を探し出し、この記事を書きながら冥福をお祈りしているところです。
 亡母と娘と息子を連れての、西国三十三所の札所めぐりでした。特に、大阪から兵庫県を巡拝しました。

 千家のおじさんのことを思い出す縁とするために、札所巡りの写真を1枚だけ掲載しておきます。
 これは、兵庫県加西市にある一乗寺での記念写真です。ここは交通の便がよくないので、大変な思いをして行ったお寺です。
 
 
 
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 この一乗寺には、最近では今から3年前に、自分の病気平癒を祈って行っています。参考までに、その時の巡礼記を引いて、おじさんと一緒に行った日の記憶を手繰り寄せたいと思います。
「西国三十三所(8)一乗寺」(2010/10/8)
 この前は時間の都合で3分の1しか回れませんでした。また次に、と約束したままで満願が果たせなかったことが残念です。

 おじさんは私を見ると、「てっちゃん、てっちゃん」と優しく呼びかけてくださいました。
 電話で話をしていても、いつも私の身体のことを心配してくださっていたことを思い出しています。
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2013年08月15日

亡き仲間を偲んで我が家でお茶会

 朝の賀茂川散歩では、いろいろな鷺と出会います。
 楽しそうに集う5羽の鷺を見ていると、日本文学データベース研究会(略称はNDK)で27年間苦楽を共にした5人の仲間との日々が思い起こされます。
 
 
 
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 その内の1人が、先月29日に他界。何をそんなに急いで、と思わざるを得ません。まだまだ一緒にしたい仕事がたくさんありました。
 
 
 
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 春先から病気のことは聞いていました。これまでの経緯は、「27年来の仲間を思い出しながらの追善供養」(2013/8/4)に記した通りです。

 思い出してあげるのが一番の供養である、ということで、今日は2人の仲間が集まってくれました。

 まずは、懐石ではなく、妻手作りの野菜料理で会食です。

 その後、部屋を移ってお茶を点てました。
 お茶室らしく手入れをした部屋には、庭に咲いていた花を妻が素人なりに生けてくれました。
 花が大好きな者が持つ感性が、亡き人への追悼の気持ちと共に、ここには盛り込まれていると思います。
 
 
 
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 また、前回同様に、部屋には「空蝉」のお香を置きました。『源氏物語』の第3巻「空蝉」は、谷口さんに最初にお願いした仕事のためにお渡したデータです。この「空蝉」巻のデータで、『源氏物語別本集成』の版下作成プログラムを開発していただいたのです。世の中の誰一人として、『源氏物語』とコンピュータが結びつくことなど、具体的にイメージすらできなかった時代のことです。
 伊井春樹先生を中心とした我々5人が、日本文学の研究とコンピュータの接点を提案し、新しい研究手法を領導してきたと自負しているのは、こうした先見性を自他共に認め、認めていただいているからです。

 外は今日も40度近い気温なので、亭主役の私は少しでも涼しそうな雰囲気作りをと考え、ガラスの水差しに葉蓋を用いることにしました。葉蓋は、思いつきから実現させたものです。

 事の起こりは昨日のことです。寺町通りの一保堂にお茶を買いにいったところ、近くのアンティークショップでガラスの水差しを見つけました。イランの吹きガラスで、口の直径が15センチほどでしょうか。涼しそうなものです。ただし、蓋がなかったので思案しました。

 別の道具屋さんで蓋の相談をすると、葉蓋にしたら、とのアドバイスをいただきました。
 葉蓋を用いたお手前は、11代家元玄々斎がお考えになったものだとか。表千家ではしない、裏千家だけのお点前であることもわかりました。私はこの時、葉蓋ということばを初めて知りました。

 よし、それではそれにチャレンジしてみよう、と決め、「練習していた洗い茶巾のお点前」(2013年8月12日)は見送ることにしました。多少、自信が揺らいでいたこともあります。何度もお稽古をしている運びの薄茶のほうが安心です。

 お茶の先生に相談したところ、葉蓋を用いたお手前のアドバイスと励ましをいただき、俄然その気になりました。

 我が家の庭に、斑入りですがツワブキがたくさん生えています。これは使えるかな、ということで用意を始めました。
 ところが実際に試してみると、葉の大きさが微妙に小さくて私にはとても扱えそうもありません。もうすぐ仲間も来ます。先生に相談をする時間もありません。

 たまたま、お隣の玄関先に大きな蓮が咲いていたので、急遽お願いして1枚いただき、葉蓋をツワブキから蓮に変更することにしました。仲間の追悼のお茶を点てるので、蓮もまたふさわしい葉蓋になると思ったのです。

 突然の思いつきとアレンジなので、これでどうなのか、実のところよくはわかりません。とにかく、涼しそうな雰囲気を仲間に見てもらいながらお茶を点てることを大事にしました。

 写真を撮るために、蓮の葉を拡げてみました。
 水滴がきれいに大きな水玉になった時、思わずオーッという声と拍手が聞こえました。
 
 
 
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 本来どうあるべきものなのかは、まだ初心者の私にはわかりません。しかし、偶然が重なってのこととはいえ、これだけ楽しいことが目の前に繰り広げられると、みんな大満足です。

 水差しの蓋を取る時、葉を5センチ角に畳んでから軸を突き刺し、葉が開かないようにしてから建水の中に捨てました。

 まずは、亡き谷口さんにお茶をさしあげました。この前の4月7日に我が家でお茶会をした時、お正客の席に座っておられたので、今日もここを本日の追悼の席としました。
 お盆に載せたお菓子の最中には、「翁」という文字が刻まれています。そんなイメージを持ってお付き合いをして来たので、あえてこのお菓子を選びました。
 
 
 
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 そして、続いてお客さんに点てました。お客さんにと用意したお菓子は、大徳寺納豆を仕組んだゼリーと道明寺粉を使ったゼリーで、どちらかを選んでいただきました。

 暑かったので、少し温めのお湯で点てました。しかし、熱い方がいいとのリクエストもあり、3服目には適温になりました。

 お茶を点てながら、この前のお茶会で話した内容や様子を思い出し、この席にいないことが信じられないと言いながら、明るく語り合うことができました。もし元気にこの席におられたら、腰の調子が悪いと言って寝そべり、「てつっ!」と言いながら「楽しいのう。」と喜んでくださったはずです。返す返すも、あの優しい語り口の言葉が聞けないのが残念なことです。

 お茶と話でお腹が一杯になったこともあり、また隣の部屋に移って、思い出話や日本文学データベース研究会の今後について語り合いました。

 楽しい時間というものは刻を忘れさせるようです。気が付いたらもう6時半を回っていました。
 すぐ近くのバス停まで見送りました。
 何十年という時が凝縮された半日となりました。そして、今後の活動の確認もできました。
 気の置けない仲間というのは、ありがたいものです。
 NPO法人〈源氏物語電子資料館〉を舞台にして、また新たな提案をし続けようと思います。
 今後の我々の活動を、どうか楽しみにしていてください。

 明日は、京都五山の送り火です。
 京都が大好きだった谷口さん。
 京都大学で、そして光華女子大学で、本当にいろろいとお世話になりました。
 これまで同様に、我々をずっと見守っていてください。
 ご冥福をお祈りしています。
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2013年08月04日

27年来の仲間を思い出しながらの追善供養

 日本文学データベース研究会(略称はNDK)を立ち上げたのは、今から27年前の昭和62年のことです。
 当時は大阪大学にいらっしゃった伊井春樹先生のもとで、精力的に研究会を開催し、積極的に成果を公開してきました。

 その時以来ずっと一緒に、日本文学にコンピュータを導入した研究を啓蒙推進してきた、心強い仲間の一人であった谷口敏夫(浅茅原竹毘古)さんの訃報を、今日知りました。
 お亡くなりになったのは、7月29日とのことです。
 『源氏物語』の写本を翻字したテキストデータを、自由自在に処理するプログラムを開発していただきました。私たちのわがまま勝手な注文にも、とにかく夢を叶えるべく開発に取り組んでくださいました。

 末期癌と聞いてすぐ、今年の4月には、お正客として下鴨の我が家にお出でいただきました。
「27年も続くパソコン仲間との交流」(2013年4月 7日)
 心を込めて、薄茶をさしあげました。お点前の作法よりも何よりも、リラックスして美味しく召し上がっていただくことを心がけて、お茶を点てました。

 初夏より覚悟はしていました。それ以降、特に連絡もなかったので、そろそろまた我が家でご一緒にお茶でも、と思って準備を進めようとしていた矢先の訃報でした。

 今年4月の上記ブログにも引いたように、2010年8月に、私が癌で入院手術をする直前にも、この仲間が我が家に集まっています。あの時は、賀茂川の西にある北大路の家に住んでいた時でした。手術前の私をリラックスさせてくださいました。

 折々に、節目節目に逢い、食事をしながら楽しい夢を語ってきました。
 奈良に住んでいた時にも、何度か我が家に来ていただきました。

 今、これまでのことが、さまざまに駆け巡っています。
 今、すぐに思い出すのは、次のような表現で私を語っておられたことです。


 昭和62年2月、三人の男が奈良の近鉄西大寺駅ホームに集合した。ホーム番線は不明だがおそらく、京都方面から奈良に向かっての電車が到着する最後部のベンチ辺りであったろう。
 日も暮れた6時すぎだった。
 三人のうち、二人は既に顔見知りで、残りの一人は全く面識がなかった。たがいに接近遭遇する符丁として、二人組は[ THE BASIC ]、一人は[ ASCII ]をそれぞれ、これ見よがしに持っていた、と記録にはある。
 どれほどたがいに気恥ずかしい思いをしていただろうか。二人組の一人は30半ば、京都からの一人は年齢不詳だが互いにいい歳した中年、関西風ではオッサンがガキの読む[ THE BASIC]や[ASCII]を人混みの中でひらひらさせて相手を捜すのだから。免れていたのは、現場に居合わせた20代半ばの長身痩躯紅顔の青年一人であったろう、と記録にはある。
 三人はそのまま申し合わせたように路地奥の赤提灯に歩みを進めた。
 これがNDK(日本文学データベース研究会)の始まりの最も原始引金であった。この時三人がシティーホテルの高級レストランや、高級料亭でなく、西大寺路地裏の「だしまき」(関西では卵をダシでといて卵焼きを作るが、これをダシ巻という)一皿150円の店に集合したのが、その後の道筋を象徴的に現わしている。地方志向、建前よりも質実、軽快。
(中略)
 それにしても西大寺の夜、実際に伊藤さんの関わるプロジェクトや(源氏物語別本大成)、それにまつわるよもやま話は最初奇談じみて聞こえた。伊藤さんの御師匠筋にあたる伊井春樹先生や大学時代の諸先生のこと、パソコン奮戦記(これは伊藤さんの著書名でもある)、どれをとっても雲をつかむような事ばかりであった。
 圧巻は源氏のことだった。新聞記事で伊藤さんの仕事の内容は知ってはいたが、今に伝わる源氏物語に異本が何十種類もあって、それを本当にパソコンPC-9801にデータ登録しているという、事実をじかに知って、ま、目がくらくらした。「この人誇大妄想ちがうやろか」それが私の伊藤さんへの第一印象だった。(「プロムナードのこと」『人文科学データベース研究 創刊号』昭和六十三年、同朋舎出版)


 この時からご一緒に、道なき道を雑草を掻き分けながら猛進してきました。無事に『源氏物語別本集成』を刊行し、『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』も作り、さらなる展開を期していたばかりでした。

 今思い返しても残念なのは、『源氏物語別本集成 続』の第8巻以降を見てもらえなかったことと、『データベース〈平安日記・物語〉』が作成途中であったこと、そしてNPO法人〈源氏物語電子資料館〉にさらに深く関わっていただけなかったことです。

 「てつ!」とか「てっつぁん」と、親しく呼びかけてくださった優しい声が、今も耳に残っていて、いつでもその姿を思い浮かべることができます。
 私は、もう少し仕事をさせていただきます。
 これまでと変わらない「てつ!」という声を励みにして、もう少しやり残した仕事をします。

 私が初めて書いた『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(昭和61年)が毎日新聞に取り上げられ、それに対して連絡をいただいたのが最初のご縁でした。お陰で今も、日本文学研究とコンピュータの接点で仕事ができています。

 来週には、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』が刊行されます。辛口の批評が聞けなくなったことが残念です。
 とにかく、27年前と同じように、私は前に向かって進んでいきます。
 2人で語り合った夢が1つでも2つでも叶うように、見守っていてください。
 
 ご冥福をお祈りします。
 
 実は、谷口さんをお呼びしてお茶会を、という準備を進めていたところでした。
 思い出してあげるのが最高の供養だと言われています。
 近い内に、追善供養のお茶会を、また我が家で開くことを考えています。
 
 以下、谷口さんにご尽力いただいて刊行できた本を列記し、思い出すよすがとします。
 

(1)『資料検索表示ソフトウェア〈プロムナード〉』同朋舎出版、昭和63年

(2)『人文科学データベース研究 創刊号』同朋舎出版、昭和63年6月
    ↓
   『人文科学データベース研究 第6号』同朋舎出版、平成2年11月

(3)『データベース・平安朝 日記文学資料集 第一巻 和泉式部日記』同朋舎出版、昭和63年11月

(4)『源氏物語別本集成 第一巻 桐壷〜夕顔』桜楓社、、平成元年3月
    ↓
   『源氏物語別本集成 第十五巻 蜻蛉〜夢浮橋』おうふう、平成14年10月

(5)『四本対照 和泉式部日記 校異と語彙索引』和泉書院、平成3年5月

(6)『データベース・平安朝 日記文学資料集 第二巻 蜻蛉日記』同朋舎出版、平成3年6月

(7)『CD−ROM 古典大観 源氏物語』角川書店、平成11年11月

(8)『日本文学どっとコム』おうふう、平成14年5月

(9)『源氏物語別本集成 続 第一巻(桐壷〜夕顔)』おうふう、平成17年5月
    ↓
   『源氏物語別本集成 続 第七巻(野分〜梅枝)』おうふう、平成22年7月

(10)『本文研究第一集 - 考証・情報・資料』和泉書院、平成8年1月
    ↓
   『本文研究第六集 - 考証・情報・資料』和泉書院、平成16年5月
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2013年01月05日

王朝文学研究会創立50周年記念祝賀会

 京都ほどではないにしても、東京も寒い一日でした。
 そんな中、午後は標記の祝賀会に出席しました。

 國學院大學での恩師小林茂美先生がお作りになった王朝文学研究会が、今年で50周年という記念の年を迎えました。先生は3年半前にお亡くなりになりました。しかし、その意志を継ぐ研究会のOBや現役会員たちが、記念の祝賀会を催すことになったのです。
 この会は、私の10年後輩にあたる秋澤亙君(國學院大學教授)が受け継ぎ、今は第二期王朝文学研究会として、たくさんの学生に支えられて活発に活動を続けています。

 祝賀会の場所は、國學院大學の若木タワー18階にある有栖川宮記念ホールです。
 大きなガラス窓から外に目をやると、この研究会で勉強していた40年前と同じように、東京タワーを望むことができます。遅くまで小林先生の研究室で資料作りや議論をしていて、ふと窓を見ると東京タワーがライトアップされていて、そのシルエットが印象的だったことを、昨日のことのように思い出されます。違うのは、こんなにたくさんの高層ビルが建ち並んではいなかったことでしょうか。
 
 
 
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 今回の祝賀会にも、若手がたくさん参加していました。参加者は100人近くいました。名簿を見ても、私は前の方の世代となってしまいました。それが証拠に、乾杯の音頭をとらされたのですから。

 日本の古典文学の勉強をしようとする若者が激減している昨今、こんなに人が集まるとは凄いことです。しかも、『源氏物語』を中心とした「王朝文学」に興味を持つ関係者なのです。一人でも多くの人が、日本の文化としての古典文学を、折々に語り伝えていってほしいものです。

 この会では、設立10年目にして『しのぶ草』という会誌を創刊しました。私が幹事をしていた時代で、編集に悪戦苦闘しました。今回の祝賀会の後には、『しのぶ草 創立五十周年記念号』が刊行される予定となっています。

 『しのぶ草 第十号』(國學院大學王朝文学研究会編、昭和60年2月)に、創刊号を発行した当時のことを振り返った拙文を寄せていました。その原稿が再現できましたので、記録として以下に引用しておきます。実は、この創刊号は妻との二人三脚のたまものでもあるのです。


 
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創刊十周年を記念して
  志能風草十年の歩み
 
「創刊号『志能風草』の装釘」   伊藤鉄也
 
 
 王朝文学研究会の会誌『志能風草』を創刊するにあたっては、その内容・構成はもとより、それ以上に頭を悩ませたのは、その装釘であった。
 創刊号の発行日が、昭和四十八年七月四日になっているので、その数週間前であったろうか。渋谷の東急東横店の文具売場で様々な紙を選った挙句に、漸く決めた表紙に使う紙は、紫色の「ミューズコットン」であった。中身のメドがほぼついていた段階であっただけに、それを包む体裁には神経を使った。
 袋綴(和装・和綴)にしようということは、早くから決っていた。しかし、その表紙・題箋・綴じ方の形態はというと、色々な形が想定された。立派なものも考えた。しかし、印刷・紙折・ページ合わせ・仮綴という、初めての慣れない作業に忙殺されていた時である。装釘に凝って多くの時間と要らぬ混乱を招くのは避け、とにかくあまり手数がかからず、それでいてハイセンスなものを求めることにした。
 そこで思いついたのは、室町時代に盛んに作られた「くるみ表紙」の変形のそのまた変形とでも書うぺ巻ものである。つまり、下綴じした冊子の背を一枚の紙で包み、それを二枚の表紙ではさむようにして貼り付けた、室町期の『新古今和歌集』の体裁を借りることにした。但し、和紙ではなくてあくまでも西洋紙を用いての製本であるために、それでは背がすぐに割れてしうように思えた。そこで、創刊号では先に表紙を貼り付け、その上から背を包み込むように覆うという形をとった。今、手許にあるものを取りだして見ても、見栄えはしないが、その背は丈夫なもので、未だに裂け目は入っていない。
 とにかく、手早く丈夫な表紙を付けることができた。次は、書名としての外題である。最初は、表紙に直接書き付ける〈打ちつけ書き〉で済まそうと思っていた。しかし、当時の最上級生であった深井(菅谷)邦子さんが、和紙に一枚一枚、題箋としての〈書き外趣〉を書いて下さった。この〈貼り外題〉が、創刊号の装釘に花を添えることになった。
 題菱を表紙中央に貼り、その右上には打ちつけ書きで「創刊号」、左下には「王朝文学研究会」と筆で記した。二条家の流儀でいえば、題箋を中央に貼った場合には、偶数ページから本文を書き出すのが習わしのようだが、冷泉家などはそういうことには拘っていない。あまり細かい事はともかく、気品の高さを表紙に持たせ得たと思っている。
 この装釘が、「四つ目綴」(明朝綴・四針眼訂法)になったのは、第二号からである。当時、外部から研究室に出入りしていた坂口伸憲君が、その製本法を教えてくれた。現在に至るまで、この第二号のやりかたが踏襲されていることになるのである。尤も、時々表紙に使われている「ミューズコットン」が裏表逆になったものを戴く。紙の裏裏の判別は難しいものである。
 王朝文学研究会が発足してから、丁度十年目に会誌が創刊された。それが今、会誌「志能風草」の第十号を迎えたとのこと。よくぞ十号、やっと十号、とにかく十号。感慨深いものを感じる。どうか、これからもこの会誌の刊行を継続し、この会誌を発行することを通じて、色々な事を学んでいってもらいたいと思う。そして、若い人々の物の見方を、これからも学ばせていただきたいと思う。(昭和六十年二月十五日 記)


 昔の仲間と40年を振り返りながら、楽しいひとときを過ごしました。
 そんな中で、現在の文学部1年生数人と話をする機会がありました。彼らは19歳で、125期生だそうです。私は83期生なので、42年もの時の隔たりがあります。とにかく、コツコツと勉強を続けてくれることを願うばかりです。しかも、1年生が13人もいました。頼もしい限りです。

 4年生も13人いて、その内3人が今春より大学院へ入学するとのことです。ここでは、平安時代の文学研究は当分は安泰(?)と言っていいかもしれません。その3人と話をしました。みんな、『源氏物語』を取り上げて研究をしているのです。すばらしい成果を見せてくれることでしょう。ますます楽しみが増えました。

 前を向き夢を語る若者と話をすると、こちらも新鮮な力をもらったような気持ちになります。
 新年早々、英気を養ういい機会となりました。
posted by genjiito at 23:13| Comment(0) | 回想追憶

2012年12月26日

2012年の十大出来事

 2012年もいろいろな出来事の中で、とにかく無事に生き抜くことができました。
 折々に支えて下さった方々には、感謝の念でいっぱいです。
 本来ならすでに終えていなければならない仕事が、まだまだ山積しています。
 生き続けている限り、溜まりに溜まった仕事は少しずつでも手を付けていればいつかは終えられる、ということを肝に銘じて、山を移す気持ちで時間を割きながら取り組んでいます。
 お待たせしている多くの方々には、気長にお付き合いのほどを、どうかよろしくお願いいたします。
 
 さて、今年の十大出来事です。


(1)賀茂川の右岸から左岸へ引っ越す
(2)第7回〈インド日本文学会〉開催
(3)第1回池田亀鑑賞の決定と授賞式
(4)娘達が下鴨神社で結婚式を挙げる
(5)國學院大學大学院での非常勤講師
(6)京都大学病院に1ヶ月の検査入院
(7)NPO<源氏物語電子資料館>申請
(8)フィレンツェで国際研究集会開催
(9)京都から発信のブログ2000件
(10)iPhone5をSoftBankからauに乗換

 
 
 なお、これまでに記した各年度の10大出来事を、以下に列挙しておきます。
 
「2011年の十大出来事」(2011/12/27)
 
「2010年の10大出来事」(2010/12/28)
 
「2009年の10大出来事」(2009/12/31)
 
「2008年の10大出来事」(2008/12/31)
 
「2007年10大ニュース」(2007/12/26)
 
■2006年度の記録は、サーバーがクラッシュしてデータのすべてが消失したため、ブログで発信した記録が復元できていません。その年に書いた年賀状から、2006年度の5大出来事を再建します。
(1)アメリカのハーバード大学で『源氏物語』の古写本を調査する
(2)インドのネルー大学へ小松和彦先生と一緒に調査に行く
(3)福田秀一先生から病床で依頼された口述筆記は果たせないままに
(4)海外の日本文学研究者との懇談会が隔月に開催される
(5)ロシアのモスクワ大学とサンクトペテルブルク大学へ調査に行く
 
【5.1-回想追憶】「【復元】2004年と05年の10大出来事」(2010/12/29)
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2012年12月24日

父が遺していた焼けた帛紗の由緒書

 今年の1月に引っ越しをして以来、まだまだ荷物が整理しきれていません。とにかく、なんでもかんでも、段ボール箱に押し込んで、賀茂川の右岸から左岸に移ってきたのです。

 今日、父と母に関するものが入っているパッケージを開けたところ、私が父から受け取るはずだったものが出てきました。

 高校卒業後、東京で新聞配達をしていた時、住み込みの店が火事になりました。大学1年生の冬休みが明けた早々です。成人式の数日前のことでした。晴れ着として作ってもらったスーツは、着ないままに灰になりました。大阪に帰る気持ちがなかったので、私のすべての持ち物を持って来ていたのです。そのすべてが無くなりました。

 しかし、お茶のための帛紗だけは、焼け残っていたのです。このことは、記憶に残っていました。しかし、父は以下のような「由緒書」を付けて、保存していてくれたのです。このことは、知りませんでした。父は、29年前に亡くなっています。
 
 
 

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   由来書
昭和四十七年一月十一日 午前三時二十分頃、東京都大田区○●丁目○ノ● 朝日新聞○○専売所一階ヨリ出火、折柄異常乾燥下、火ハ忽チ燃ヘ拡ガリ約三十分ニシテ同家ヲ全焼セリ 鉄也事、同家二階ニ居住シアリ 出火後 暫ラクニシテ大声ニ目ヲ醒マシタル処、既ニ室内ハ煙入リ込ミ 息苦シク覚ヘタリ。
「火事」咄嗟ニ枕元ノ「ズボン」ヲ身ニ附ケ 「ハーフコート」ニテ 煙ヲ吸入セザル如ク 口ヲ覆イ 襖ヲ開ケタル処、濛々タル煙 流入スルヲ以テ裏ノガラス戸ヲ開ケ 屋根ヨリ飛ビ降リ 一命ヲ拾イタリ。
(コノ間数十秒ニ過ギズ)
深夜且ハ異常乾燥下ノコトトテ、店主Y氏ハ素ヨリ二階ノM夫妻他五名、何一ツ持出ス能ハズ 文字通リ命カラ/\ 奇跡的ニ無事ナリシヲ得タリ。
夜明ト共ニ 無残ニ焼ケ落チ 一切ヲ灰トシタル中ニ 只一ツ コノ帛紗ノミ概ネ原形ヲ留メアリタリ。
余ソノ不思議サト嬉シサニ 記念トシテ永ク後世ニ遺スベク 保存スルコトゝセリ。
因ミニ此ノ帛紗ハ 森下紫鶴氏ヨリ贈ラレタルモノナリ。
           伊藤忠右衛門記
  昭和四十七年一月記


 私が父に話したことを、こうして記録してくれていたのです。「余ソノ不思議サト嬉シサニ 記念トシテ永ク後世ニ遺スベク 保存スルコトゝセリ。」とあるのは、いささかオーバーです。しかし、ありがたいことです。

 写真でも認められるように、帛紗ばさみが入っていた紙箱は、片端がひどく焼損しています。その痕は、帛紗ばさみにも燃え痕が認められます。右上の帛紗と真ん中下の古帛紗には、何かが溶けて付着していました。懐紙は、熱い火を潜り抜けた後、相当水を被ったようです。楊枝は、今でもこのまま使えます。何故か、扇子がありません。

 最後に「森下紫鶴氏」とあるのは、父の同僚で姉のお茶とお花の先生です。私も、姉にくっついて何度かお稽古に行ったことがあります。今から考えると、夏休みだったので風炉のお稽古だったのです。何も知らずに、遊び半分で行き、帰りに未生流のお花の生け方を教わったりしていました。

 我が家の本家のおじいさんが茶人で、自分で小さな庵を持っていたことを覚えています。父も、何度か出雲と松江であったお茶会に連れて行ってくれました。まだ私が小学校入学前のことです。
 生まれが出雲なので、小さい頃からお茶には親しんでいたのでしょう。作法など関係なしに、毎日のようにお茶をいただいていたように思います。近所や親戚の家に行ったときに、よく抹茶がでてきました。

 突然その姿を見せた帛紗と、父の由緒書に驚いています。
 30年越しの、父親からの贈り物に、よろこんでいます。
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2012年12月05日

従兄弟の喪中を知って思うこと

 歳と共に、喪中につき新年の挨拶を失礼する旨のハガキをいただくことが、めっきり多くなりました。
 今年はすでに30通をこえています。ご両親がお亡くなりになった方が多いようです。
 私が出す年賀状は300枚プラス α なので、1割ということになります。

 その中でも、従兄弟の勲さんが亡くなられたことを知り、はたと時間が止まってしまいました。

 私は大阪の高校を卒業するとすぐに、朝日新聞の奨学生として上京しました。大田区の新聞販売店に配属されました。有楽町の駅前の朝日新聞社で手続きをし、すぐに販売店の所長さんと一緒にお店に行き、その日から住み込みで仕事をすることになりました。身元保証人には、吉祥寺にいらっしゃった勲さんが快く引き受けてくださいました。

 勲さんの吉祥寺の家へ挨拶に行った時の朝食で、生まれて初めて、あのネバネバする納豆というものを食べました。大徳寺納豆は知っていました。しかし、話には聞いていた臭い糸を引くものを、我慢して一口食べて遠慮しました。無理をしなくていいよ、と言ってもらいました。

 新聞配達の仕事を始めて10日ほどで、朝食後に突然腹痛がして、這うようにして2階の自分の2畳の部屋に帰ると、しだいに意識が朦朧としました。すぐに部屋を転がり出て所長さんの部屋の戸を叩いたところまでは覚えています。意識を失ったようです。気が付いたときには、すぐ近くにあった総合病院のベッドの上でした。

 看護婦さんの説明では、十二指腸が破れて体内に食べ物が回っているので、大至急手術をするとのことです。家族ですぐに来られる人に連絡を、ということでした。しかし、両親も姉も大阪の八尾市にいます。
 父か母が連絡を取ってくれたのでしょう。勲さんが保証人になるとのことで、妻の典子さんが吉祥寺から大森まで飛んで来てくださいました。保証人としての確認がとれたとのことで、すぐに手術が始まりました。

 それまでに、私は体毛を剃られたり、鼻から管がいれられたりで、見るも無惨な姿をベッドに横たえていました。
 麻酔がよく効いたようで、あのテレビドラマの「ベンケーシー」の冒頭シーンであった、手術用の寝台車から見る天井が目まぐるしく移動する場面は覚えていません。

 4時間の手術でした。胃液が神経の酷使で濃縮され、その出口にある十二指腸が徐々に濃縮された胃酸で溶けて穴が開いたのだそうです。そのために、胃液の分泌量を少なくするために、胃の3分の2と、穴の開いた十二指腸と、小腸を少々ですが切除されたのです。
 私の胃は18歳ということもあり、あまりにきれいなピンク色をしていることと、みごとにまん丸い穴が空いているとのことで、地下の標本室に飾られることになりました。もっとも、私はいまだに自分の胃と面会はしていませんが。

 無事に手術が終わり、病室に帰って意識を取り戻した時、典子さんが私の脚をずっとさすってマッサージをしてくださっていることに気づきました。心地よい刺激がずっと続いていたことを覚えています。

 このマッサージの意味が、一昨年の胃ガンの手術後にわかりました。エコノミークラス症候群のようにならないために、京大病院では空気を送り込む道具で手術後の脚を一晩中マッサージをしてくれていたのです。あの、43年前に典子さんが私の脚をずっとさすってくださったのは、こんな意味があったのです。そして、あらためて感謝の気持ちで一杯になりました。

 43年前に手術をしたとき、私がそろそろ歩いてもいいというタイミングで、典子さんはスリッパをお見舞いとしてくださいました。
 一昨年の胃の全摘出の手術のときは、切った翌日から歩行訓練でした。しかし、当時はそんな対処ではなかったのです。1日も早くベッドから降りて歩きたかったのです。
 そのタイミングを見計らってスリッパを差し入れてくださった典子さんの心遣いに、さりげない優しさを教えていただきました。勲さんは私の手術の成功を見守ると、慌ただしく出張に行かれたと思います。

 勲さんは、石川島播磨にお勤めでした。今、私がいる東京の宿舎は、その基地があった佃島のすぐそばです。散歩でいつもこの辺りを歩いています。

 私が十二指腸潰瘍で胃の3分の2を切除したのは、大阪で万博が開かれた1970年でした。半年後に、体調も復したので、再度上京しました。
 そして、勲さんに2つの相談をしました。1つは、ブラジルに行って新しい仕事をしたいこと、2つ目は、お茶の水のアテネフランセでフランス語を勉強して、バカロレア制度でフランスへ行って勉強をしたいことを。
 勲さんは、今から思えば突拍子もない私の話を、じっくりと聴いてくださいました。反対はされませんでした。しかし、もっとよく考えたらまたおいで、と言ってくださいました。ブラジルの資料を取り寄せたり、アテネフランセへ行ったりして、私なりに調べました。そして、やはり東京の大学に行こうと決心し、その準備に入りました。

 若い時には、こんな風に、脈絡もなく今の自分の環境を変えて、新しい人生を歩もうと思うようです。これも、成長の一過程なのでしょう。そんなことがあったから、今の自分があると思います。いろいろと生き方に迷ったことは、無駄なことではなかったと思います。いろいろな道を模索し、その結果として今があるのですから。

 勲さんは、ブラジルや中国に何年も行っておられました。私も海外に行くようになってから、海外の様子をお話ししに行こうと何度も思いました。しかし、忙しさにかまけて、ついつい行かずじまいでした。

 今にして思えば、若き日のスタートを見守ってもらいながら、本当に失礼なことをしたものです。
 私のことは、風の便りに聞いておられたようです。頑張っているな、と喜んでおられたそうです。なぜ直接話をしに行かなかったのか、今はしきりに悔やんでいます。

 亡くなられた通知をいただき、早速お供えをお送りしました。
 それでは気がすまないので、知多半島に脚を運ぼうと思っています。あらためて地図で確認すると、なんと京都からは1時間ほどで行けるのです。あー、何と不精をしていたことかと、今はおわびの気持ちと、ご冥福を祈るのみです。

 40年以上も挨拶していません。
 年賀状を差し上げるだけでした。
 ご自宅に線香をあげに行きます。
 その時これまでの報告をします。
 本当にありがとうございました。
 世界を飛び回って大変でしたね。
 どうか安らかにお休みください。
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | 回想追憶

2012年10月22日

懐かしいパンチカードシステム

 身辺整理をしていると、さまざまなものが顔を覗かせるので楽しくて止められません。特に、思い入れのあったものの姿がチラリとでも見えると、ついついそこに手が伸び、しばし数十年前にタイムスリップしてしまいます。

 パンチカードもその一つです。
 今の若い方々には、これが何をするもので、どのようにして使ったのか、まったく想像もできないことでしょう。

 私がコンピュータに最初に触れたのは、忘れもしない昭和55年(1980)の暮れでした。マイコンキットNEC〈TK−80〉というものです。翌年には、NECのパーコン(今のパソコン)PC−8001で半角カタカナによる『源氏物語』の本文データベースに着手しています。まだ、ひらがなも漢字も自由に使えない時代の話です。
 生まれたばかりの娘は、このPC−8001のキーボードに刻印されていたカタカナをポチポチと押して、カナ文字から覚えました。そんな時代の話です。

 パンチカードを使っていた頃の話は、拙著『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(34頁、昭和61年、桜楓社)に譲ります。その小項目には、妻のこんなイラストが挿絵として添えられています。
 
 
 
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 パンチカードを簡単に確認すると、B6カードの周囲に小さな穴がたくさんあり、その穴の1つ1つに任意の意味づけがなされています。そして、昔の駅員さんが改札口で使っていた切符切りのようなパンチでこの穴を切り落とすと、一枚のカードに一つの情報が付与されたことになるのです。穴が〈ある〉か〈ない〉か、〈0〉か〈1〉か、という簡単な2進数の情報です。
 そして、ソーサーという金属の棒を束になったカードのこの穴に通すことにより、穴が欠けているカードがふるい落とされるのです。簡単な仕掛けの情報検索システムです。

 次の写真は、私が当時勤務していた高校の進路指導部で独自に作成して使っていたものです。高校の成績や事務処理にコンピュータが導入される以前は、こうしたパンチカードを入試の判定処理などに使っていたのです。それからヒントを得て、自力で設計と開発(?)したカードシステムです。当時は、非常に重宝しました。

 表面は、大学受験用の基本カードで、調査書作成依頼書を兼ねています。
 
 
 
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 裏面は、表面と連動する進学用の推薦願書となっています。この面は、パンチカードシステムを補う情報が記されており、書類としての性格を強く持つものです。
 
 
 
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 ただし、この方式では大量のデータ処理に向いていないため、コンピュータの普及と共にパソコンによるデータベースシステムに置き換わって消えていきました。もっとも、成績処理や入試の合否判定にコンピュータが導入されるまでには紆余曲折がありました。しばらくは、教育現場においてコンピュータ導入については、反対意見がまだまだ根強い時代でもありました。いつの時代にも、新しい考え方の導入には慎重な方がいらっしゃいます。

 今となっては苦笑せざるを得ません。しかし、当時は現場へのコンピュータの導入について、本当に真剣に議論をしていたのです。そして、私はいつも推進派でした。最初に赴任した新設高校でも、次に転勤した高校でも、そして短期大学でも、パソコン機器の導入と教室の設計施工およびソフトウェア導入に関わりました。いずれも、部屋の配線から機器の配置やレイアウトまでを担当しました。何でも屋さんを自認していた頃のことです。

 それはともかく、上掲の写真は、私にとっては思い出深いパンチカードのデザインであり、作品でもあります。

 もう一つ、パンチカードシステムの思い出の品を紹介します。
 梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』(昭和44年、岩波書店)の影響を受けたこともあり、昭和55年2月に電動式ひらがなタイプライターを購入しました。そして、それと連動させようとして、次のデザインの試作品を作りました。コンピュータと出会う直前のことです。
 
 
 

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 このパンチカードは、私の調査研究のために開発しました。右端の「領域」や「受容態度」に、当時の自分の問題意識がうかがえます。また、中央上にある「昭26以降」とあるのは、私が生まれる前後を弁別するためのものです。
 下段には、当時私が図書や文献資料を、記号と番号で仕分けし、それを台帳で管理していたことと関連しています。
 ただし、これはデザインの設計段階で校正までのものであり、完成までには至りませんでした。それは、パソコンの急激な普及が原因です。

 その後、当時流行していた京大式カードを自分なりに使いこなすために、独自の紙質と色と罫線の幅のB6カードを大量に作成しました。
 
 
 
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 この「いとうカード」と名付けたものは、昭和59年に1万5千枚ほど印刷しました。まだ、このカードは手元にたくさん残っています。それは、この昭和59年の夏に、PC−9801F2という16ビットパソコンを購入し、ひらがなや漢字を自在に扱えるようになったためです。手書きのカードではなくて、パソコンによるデータベースに移行したために、手書きのカードを活用するシーンが減ったからなのです。

 こうした紙のカードは、自分の歴史の一端を思い出させてくれます。
 旧き良き時代というと語弊があります。しかし、いろいろと創意工夫をしながら、効率的な勉強を心掛けていた頃の遺産なのです。生きた証として、少しだけは残しておくことにします。
posted by genjiito at 22:30| Comment(0) | 回想追憶

2012年07月15日

本ブログ30万アクセスに感謝

 たまたま本ブログのアクセスカウンターを見たところ、私のブログの閲覧回数が30万件を超えていました。

 このカウントのスタートは2008年7月12日です。ちょうど4年間のアクセス件数ということになります。
 毎日200人以上の方が読んでくださっていることになります。ありがたいことです。

 1日で1番アクセスが多かったのは、2008年11月1日の1504件でした。
 この日は、国立京都国際会館で「源氏物語千年紀記念式典」が開催されました。
 前日には、国文学研究資料館で開催していた源氏物語展示『源氏物語 千年のかがやき』が閉幕となっています。
 その前日には、今でもアクセスが絶えない「源氏千年(67)源氏写本発見というエセ新聞報道に異議あり」をアップしています。
 源氏物語に関する情報一色の頃のことです。

 このカウントの対象となっている4年間に書いたブログは1532本です。
 1日に数本アップしたりしているので、とにかく毎日書いていることになります。

 私が毎日ブログを書く決意をしたのは、3年半前の2009年2月27日です。この日から今日まで、1日も休まずに書き続けています。我ながらよく続いていると思っています。
 続けることには、それなりの苦労があるものです。特に、海外への出張が度重なる時には、時差の関係で何かと大変な思いをしています。

 私がインターネット上に〈源氏物語電子資料館〉と名付けたホームページを立ち上げたのが1995年9月でした。日本文学関係のホームページとしては、この〈源氏物語電子資料館〉が最初のものとなっています。私が、草分けとか化石と言われる由縁です。
 個人的なホームページとしては、〈大和まほろば発「へぐり通信」〉も起ち上げました。

 この時から、さまざまな情報をアップしてきました。
 当時はブログという概念もツールもなかったので、ホームページの中に日記のように日々記すコーナーを設けていました。

 その後、話題になり始めたブログをスタートさせたのは、2004年12月13日からです。〈たたみこも平群の里から〉と題したものでした。ホームページを公開してから10年後になります。このブログによって、私の情報発信の姿勢が変わりました。ホームページからブログにシフトしたのです。そのせいもあって、ホームページは今でも手つかずの状態で放置しています。そろそろ、整理をするなり、有効に再活用する方策を探っています。

 なお、私はトラブルに巻き込まれることが多くて、ブログを発信していたインターネットのサーバーが突然クラッシュしたために、それまでの記事のほとんどを消失したのです。忘れもしません、2007年3月中旬でした。インドから帰って、すぐに中国に行き、それらの旅の記をたくさん書いた直後でした。ショックでした。
 いくつかは再建しました。しかし、それらの記事のほとんどは、今につながってはいません。残念なことです。

 サーバーがクラッシュしたすぐ後に、奈良県生駒郡から京都市北区に転居することになりました。そして、すぐに〈賀茂街道から〉と題して、ブログを再スタートさせました。2007年6月24日からです。
 ただし、それもプロバイダが閉鎖されたりでデータを引っ越しさせ、〈賀茂街道から2〉と名付けたサイトに移行して続けました。さらに今年の1月末にまたまた京都市左京区に転居したため、〈鷺水亭より〉として気分一新して今に至っています。

 現時点ですべてを確認できるのは、2007年6月24日からスタートした〈賀茂街道から〉以降のものです。
 このブログの記事は、今日までに公開したものは全部で1891件となっています。これらは、今もそのすべてをこのサイトでご覧いただけます。

 今後とも、〈生存証明と日々の報告書〉としての日録〈鷺水亭より〉を書き続けるつもりです。
 どこまでこのまま走り続けられるのか。自分が一番楽しみにしているところです。
posted by genjiito at 23:56| Comment(0) | 回想追憶

2012年05月10日

高校教員時代の書類を廃棄

 自宅の荷物の整理がまだまだ続いています。

 大阪府立の高校で教員をしていた11年間、膨大な資料やプリントや試験問題を作っていたことを、あらためて実感しました。指導困難校と言われる学校ほど、プリントが多いと言われていました。確かに、学校に教科書を持ってこない生徒が多いので、勢い教科書を使わなくても授業が成立するように、それを補うための補助教材を配布することが増えます。板書したことをノートに書き取る習慣もないので、何でもプリントにして予習や復習の足しにしました。その結果、プリントが増えるのです。

 廃棄対象となったプリント類は、ダンボール箱に4個分以上ありました。
 自分の過去の一部分をバッサリと捨てることにしました。
 よくやったなー、と、かつての自分の奮闘ぶりを振り返り、若さゆえにできたことと思うことしきりです。

 そんな中に、パソコンと悪戦苦闘していた頃の資料がありました。
 ここに記録として残しておいて、思い切ってこれらも処分しようと思います。

 私がコンピュータに興味を持ちだした昭和55年(1980)は、まだひらがなや漢字がモニタにもプリンタにも表示・印字できませんでした。せいぜい半角カタカナまでで、例外として「年」「月」「日」くらいでした。
 そのような環境の中で、やがて独学でお手製のプログラムを作成し、JIS漢字コードのリストを読み込んで印字できるようにしました。ただし、そのためには、漢字などに対応した文字コードを調べる必要があります。

 当時は、何とかして学級や学年の運営にコンピュータを導入することにより、担任業務を軽減する方途を模索していました。学習指導の何十倍ものエネルギーを生活指導に充てる毎日です。連日の家庭訪問が続いていました。年間に入学生の3分の1の100人以上が退学するので、担任はとにかく学校と家庭とを走り回っていたのです。そのためにも、少しでも担任業務などの軽減が必要だったのです。

 そこで、まずは生徒たちの名前をどの資料にでも、何度でも引用できるようにすることに挑戦しました。それだけで、手書きの手間が助かり、生徒の生活指導の時間に振り分けられます。また、パソコンでできる作業ならば、担任でなくても副担任にお願いしてもいいのです。

 入学式の後は、新入生の名前を一々JIS漢字コードを調べて一覧表にして、必要とする担任の先生方に渡しました。まだ他の先生方はパソコンに親しんでおられなかったので、率先垂範よろしく、私が徹夜をしながら各クラスの名簿をJIS漢字コードに置き換えました。
 
 
 

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 これは、私が担当したクラスの名列表です。例えば、2番の「伊藤」君はJIS漢字コードで表記すると「304B」+「4623」と表現することになります。
 この英数字コードを読み取って漢字表記ができるプリントができるプログラムを作成したのです。

 今なら、日本語ワードプロセッサがあるので、何でもないことです。しかし、当初はこのように漢字1文字を表記・印字するのに、こんな手間がかかっていたのです。

 こうしたJIS漢字コードの文字列がわかると、成績通知表などにも、生徒の名前に漢字が使えます。
 カタカナ表記という不細工なものではなくて、漢字で名前が書いてあると、生徒も成績通知表を貰ったそばからポイとゴミ箱に捨てたりしにくくなります。印刷されたものに対する一定の距離感が、軽率な行動にブレーキをかける働きがありました。

 次のメモは、成績通知表を印字するのに必要な漢字のJIS漢字コードを調べた時のものです。昭和57年(1982)とあるので、私が初めてマイコンキットNEC〈TK-80〉を体験した昭和55年(1980)から1年後には、こうしてコンピュータで漢字を扱うことに熱中していたことがわかります。

 手作業で調べて作成した対応漢字コード表を元にして、さまざまな漢字混じりの処理をするプログラムを作っていたのです。
 次のものは、成績通知表のためのJIS漢字コードの抽出作業メモです。
 
 
 
120510_tuutihyo
 
 
 

 いろいろな先生方の要望を聞き入れながら、折々にJIS漢字コードを調べてメモを貯めていたようです。こんなものも出てきました。
 
 
 
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 この辺りになると、もう学年や学級運営のための資料に、たくさんの漢字が印字できるプログラムを開発していたことがわかります。先生方には、重宝がられたことを覚えています。

 その後のコンピュータの進歩は目を瞠るものがあることは、すでにご承知のとおりです。
 何かと苦労したことの披露ではなくて、学校の現場では、コンピュータで漢字が使えるようになる背後にはこんなこともあったという一例として、ここに記しておきます。
posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | 回想追憶

2012年03月06日

レガシーデバイスとなった録音録画テープの処分

 京都でも東京でも、庵の生活を実践するために身の回りを整理しています。
 このところ、ビデオテープとカセットテープの処分を続けています。
 録画したビデオテープは1500本くらいはあるでしょうか。そのうち7割はソニーのベータテープです。

 処分の方針として、まず映画のほとんどを捨てることにしました。大半が日本映画です。
 VHSの映画などはコピープロテクトがかかっているものが多くてコピーできなかったのですが、それをベータにはコピーできるものが多かったのです。
 画質は、VHSよりもベータの方が格段に上でした。そのため、老後の映画鑑賞に備えるという名目で、たくさんの映画をベータ方式のテープにコピーしていました。今でも、スクリーンが準備万端用意してあり、いつでも家の中で映画鑑賞ができます。もっとも、液晶テレビが大きくなり、我が家のスクリーンと大きさが違わないのが悩ましいところです。

 録画した映画に関しては、今ではそのほとんどがDVDになっているので、捨てても惜しくはありません。ただし、昔のテレビドラマなどは、まだDVDになっていないものもあります。そうしたものは、しばらく残しておくことにしました。

 今回の整理で一番の収穫は、ずっとネットなどで探していた井上靖の『通夜の客』を絵画化した『わが愛』を、なんと録画していたのです。そのことを忘れて、長い間さがしていたのです。とにかく、気になったものは何でもかんでも録画していたようです。

 家族を撮ったビデオも残します。長女が赤ちゃんの時のものは、すべてベータのテープに収録されています。長男の途中から、Hi8のテープになっています。次男はデジタルテープです。ビデオカメラが歴代のソニー製品だったためです。
 子どもたちそれぞれに、成長の記録もテープが異なるところがおもしろいところです。さすがに、シングル8用のフイルムはありません。

 子どもたちの為に、お子様向け子供番組を録画したテープもたくさん出てきました。ゴジラ、ガメラ、大魔神、ウルトラマン、仮面ライダーなどなど。これは、VHSがほとんどです。ベータほど高画質である必要性がなかったからでしょうか。この処分には、迷いがありません。

 次は、音楽を録音したテープです。
 私は、オーディオのノイズリダクションシステムに関しては、東芝の adres(アドレス)方式がいいと思ってそれで録音をしていました。主流だったドルビーBではない方です。
 その後、ドルビーC方式が出ると、この adres も姿を消しました。今となっては、雑音の処理は問題ではありません。残すか残さないかです。
 ブルックナーの曲は、ざまざまな版を持っているので、すべて残すことにしました。
 ラジオ等でタイマー録音した文芸関係のものも、聴くことがありそうなのでとりあえず残します。
 FMラジオを録音した膨大な音楽テープ群は、すべて処分です。
 そういえば、1980年前後は、複数台のデッキとタイマーを駆使して、FM放送を片っ端から録音していたことを思い出しました。「昼の歌謡曲」などまでも。
 私の部屋は、飛行機のコックピットと見紛うばかりに、機器や計器や切り替えスイッチが書棚の一角をビッシリと埋めていました。

 私がオーディオやパソコンのケーブルを買い漁っていたのは、こうした用途のためだったのです。
 奈良から京都に引っ越しするときに、これらのケーブルの大半を処分し、今回の転居でもビニール袋3袋分を捨てました。それでもまだ残っているので、奈良の家でのこの電線の重さだけでも相当なものだったことになります。
 とにかく、線さえつながれば、音も映像も文字も何とか移動させられます。メディアの違いもクリアできるので、こうしたケーブルは必需品だったのです。しかし、ネットが日常生活に入ってきたので、わざわざケーブルを使ってデータをやりとりする必要がなくなっているのです。

 今回、千本ほどのビデオやカセットやケーブルを処分できたのは、ネットの存在が大きいといえます。また、個人が常時手元に持っている必要がない社会になったことも、大きな要因です。

 今、思案しているのはレコード盤です。LP、EP、SP、ソノシートなどが、まだ手元に残っています。レコードプレイヤーは1台だけ残しているので、これで聴こうと思えば聴けます。しかし、果たしてレコード針を調達して聴くかどうかです。よほど珍しいものは別です。しかし、見たところ、手元にはそのようなものは少ないようです。1970年代のものが大半です。

 オープンリールの録音テープは、1台だけ残している東芝の「カレッジエース」で聴けるものが数本あるだけです。これは、今では貴重な機器なので、残しておきましょう。
 この「カレッジエース」は、高校時代だった1960年台後半にエレキのバンドを組んでいたので、その時に作詞作曲したものを録音してあるのです。秘密の匂いのするテープなのです。自分の過去を消すような気がして、どうしても処分しきれないままに来ています。

 こうしたレガシー・デバイスとでも言うべきものの始末は、思い入れがある内は捨てきれないのです。しかし、庵の生活を意識すると、これらは当然処分対象です。
 すでに大半を処分してきたので、これらは時間の問題としておきましょう

 そんなこんなの日々の中で、こうした過去とつながるものを捨てることは、非常に気持ちが疲れます。悩みを吹っ切るのは、潔さや爽快さと共に疲労も蓄積します。

 こんな、見ようによってはどうでもいいことに頭を悩ませるという、幸せな日々の中にいます。忙しい時に限って、こうしたことが気になってしかたがないのです。
posted by genjiito at 23:51| Comment(0) | 回想追憶