今朝目覚めたのは、若き日に自転車で走り回っていた大森です。ビュッフェ形式の朝食をホテルでいただき、おいしいコーヒーをゆったりと飲んでから、かつての生活圏だった大森の散策に出かけました。
まずは、目と鼻の先にある、18歳で高校出たての私が、希望に燃えて住み込みで仕事をしていた新聞配達店の確認です。しかし、当時の住所には建物はなく、別の使われ方をしていました。周りの様子も、当時を思い出すものはまったくありません。お店の前で写した写真はあったはずなので、またいつか、ということにします。
私は、アルバイト扱いだと思って新聞配達をしていました。しかし、定年後の70歳になって年金をもらうようになってから、その頃働いていた日数が年金に加算されていることを知りました。正規雇用者として事務的な手続きをしていただいていた朝日新聞社に、あらためて感謝しています。
次に、私が腹膜炎を起こして手術をし九死に一生を得た、すぐ近くにある病院を訪れました。その場所は一所であっても、建物はすっかり変わっていました。思い出すよすがすらありません。
新聞配達を始めて10日後に、私は十二指腸に突然穴があき、突然意識を失いました。新聞配達店のご主人がすぐに近くにあったこの総合病院に運び込んでくださったおかげで、4時間以上の手術を経て命拾いをしました。麻酔が切れて目覚めた時には、胃の3分の2と十二指腸が切除されていたのです。病名は、十二指腸潰瘍穿孔性腹膜炎。あのプロレスラーの力道山さんは、同じような状況で意識を失わずに我慢をしたために亡くなっています。私は、身体が正直に反応して失神したために、一命を取り留めました。
入院中のことは、今でも懐かしい思い出として蘇ります。
私の世話をしてくださった家政婦のAおばさん。退院後も、折々に差し入れをしてくださいました。
付きっきりで回復のために尽力してくださった、若くて明るさ満開だった看護婦(今で言う看護師)のAさん。
両親に代わって手術の身元保証人となり、スリッパをはじめとして身の回り品に配慮をしてくださった、従兄弟のお嫁さんのUさん。
多くの方々に支えられた甲斐があって、半年後に社会復帰をしました。
ちょうど、1970年の大阪万博があった頃の話です。夏の暑い盛りに、体調のいい時に2、3回、万博を見に行きました。
千里の万博会場は、父が土建舗道会社にいた時に、人夫として汗水垂らして整地をした敷地です。父が亡くなった後に私家版として発行した追悼文集『舗道の雨』(拙編、1984年5月)には、父が肉体労働をして帰る道すがら、少しずつ書いていた文章を収録しています。満洲で捕虜となりシベリアの強制労働の日々から復員してきた父は、土木業を経て一転して山一證券に勤めます。しかし、その山一證券も、父の死後に倒産しました。いろいろとあった父は、それでも常に私を信じ支えてくれていました。
万博が終わった頃に、私は再度東京に出て新聞配達を続けました。
今日、かつて配達をしていた順路を辿ってみました。次の写真の道からが、私が担当していた山王二丁目になります。自転車の前と後ろに刷り上がったばかりの新聞を積み、450部を毎朝毎夕配ることが私の仕事でした。
何軒か配った家を思い出しました。当時は、政治家や財界人が多い区域でした。自転車に跨がったままで新聞受けに入れられる家が多かったので、割り当てられた450部は早く配り終えた記憶があります。もっとも、マンションやアパートは自転車から降りて、肩に掛けたタスキに新聞を抱え込んで階段を上り下りして小走りで配っていたので、これは結構疲れました。
配達が終わる頃になると、親しくなった牛乳配達の人と、手持ちの新聞と牛乳を交換したことを思い出しました。牛乳を一気に飲み、疲れを吹き飛ばしてからお店に帰り、すぐに学校へ行ったものです。
一浪の後に大学に入学して研究のおもしろさがわかりだした束の間、新年の成人式の数日前に新聞配達店からの出火で、命以外のすべてを失いました。
焼け出された日から数日は、近くの鷲神社の会館に避難しました。お世話になった神社に、55年振りにご挨拶に立ち寄りました。
成人式の日はこの会館の板の間で、太田区から支給された被災者用の毛布にくるまって、次の新聞を配る準備をしていました。配布された配達用のジャージしか着るものがないので、自由に外出などできなかったのです。
たまたま社務所に女性がおられたので、55年前にすぐそこで大火事があり、この神社でお世話になった話をしました。その方は、そこに新聞配達店があって火事があったことは聞いたような気がする、とのことでした。もう、大昔の話になっていることを知りました。
お礼を兼ねてのお参りに来た標しに、熊手をいただきました。
新聞社からの支援があったものの、身ぐるみを無くしての配達や集金や広告の集配業務に加えての勉学に無理があり、まもなく新聞配達の仕事を辞めることにしました。
その後、住まいを大学に近い渋谷の代官山に移し、大学で同級生だった女性の支援を受け、学生生活とアルバイトの両立を果たすことができるようになりました。その頃から衣食住の手助けをしてもらった女性とは、すぐに学生結婚をしました。私が大学院生だった時代は、当時で言う「ひも」の身分でした。その私たちが、今年は金婚式を迎えます。今に至るまで、なかなか楽しい月日を送っています。
いろいろとあった55年前が、大森を歩くことで鮮やかに蘇りました。妻が知らない、出会う前の話を、興味深く聴いてくれました。私が大森を離れて代官山に移って間もなく、年度末の単位レポートのことが縁で知り合いました。おかげで、私は単位を一つ取得できました。
今回、大きな収穫がありました。それは、あることは知っていても行ったことのなかった大森貝塚の史跡に行ったことです。線路際に大きな碑がありました。迂闊にも、教科書に載っているこんなに有名な史跡を、興味がなかったこともあり、一度も来ていなかったのです。
石碑の背面には、変体仮名混じりで顕彰文が刻まれていました。以下に[変体仮名翻字版]で翻字しておきます。
【明治十年】モールス【先生】の
【發見】尓【係】里【門下生理學
博士佐々木忠次郎故松
浦佐用彦両氏】登【共】尓【發
掘研究】せし【顕著】奈る【遺
跡也】
【昭和五年四月建之】
すでに10,000歩になろうとするところで、まだまだ大森を歩きたい気持ちを抑えて、京都へ帰る気持ちに切り替えました。思いがけず、収穫の多い、いい一日となりました。
なお、すっかり忘れていたことを、先ほど思い出しました。今からちょうど10年前に、この大森から山王地域を懐かしくて歩いていたことをです。
「江戸漫歩(92)大森の山王を散策し酉の市へ」
本日の記事で触れていないことも書いているので、おついでの折にでもご笑覧ください。