2009年03月28日

『日本文学研究ジャーナル 第3号』完成

 伊井春樹国文学研究資料館館長が研究代表者となって進められている、科研費研究(基盤研究A)「日本文学の国際的共同研究基盤の構築に関する調査研究」の、平成20年度の研究報告書が完成しました。

 今回も、日本文学に関する研究報告書らしからぬ、非常にビジュアルな冊子となっています。


090326jarnal1表紙



 限定部数の印刷のため、手にしていただく機会は限られているかと思います。それでも、図書館などでご覧になるチャンスがあれば、どうか見て、読んでください。


 研究代表者である伊井館長の「はじめに」を引きます。


 科学研究費補助金基盤研究(A)による研究成果の報告書を年度末に刊行してきて、今年で三冊目をまとめることになった。海外との日本文学を含めた文化交流史、日本文学の翻訳、海外に所蔵される日本関係の資料の報告研究、その他関連する事項について共同研究を進めてきた。個々についての研究は長い歴史を持っているとはいえ、総合的に関連させながらまとめていくのはあまり例のないことであろう。ただ、それだけに範囲が広く、さらに大規模な共同研究の体制と資料の収集をはかる必要があるだろうが、ここでは大きな方向のもとに研究を進めているところである。その過程であらためて知ったのは、明治期に各国から日本を訪れた人々の写真や記録書の多さ、また日本人が海外へ向けて各言語によってまとめたチリメン本、これは物語だけではなく多様な種類があり、明治期の文化を支えた著名な人々の参加があること、また日本に写真機が本格的に導入された後での、日本の姿を知らせるための写真集の存在等である。とりわけ後者は、日本の風俗習慣、人物、建物、風景、ときには海外との違いをことさら強調する年中行事、日本人の作法なども存し、それが後世の海外における日本像への形成にもつながっていく。また、翻訳書についても、まずは古典文学に焦点を当てているとはいえ、重訳も多く、その実態をトータルとして知るのも困難な状況にある。
 本研究では残された時間は少ないこともあり、目的とした内容について当面はまとめることにする。ただ、この共同研究を通じて、海外における日本研究者との交流がさらに拡大し、情報も多く得るようになったのは大きな収穫といえよう。日本では知りえない翻訳書の存在、新たな日本に関する記録や写真、絵画を含めた資料の存在等、今後も可能な限り継続し、世界における日本研究、さらには人文学研究の活性化にもつなげていきたく願っている。





 目次は、こうなっています。
 写真が不鮮明ですが、判読いただければ幸いです。


090326jarnal2目次


 本科研の関係者のみなさまには、4月に入ってから発送いたしますので、いましばらくお待ちください。

 本科研の最終年度となる平成21年度は、『日本文学翻訳事典』として成果を問うことになっています。
 連携研究者研究者のみなさまには、各自の分担領域の翻訳本の解題のご執筆を、どうかよろしくお願いします。

 当初の予定では、1人年間10作品の項目を執筆することとなっていましたので、4年間で1人40作品の解題を提出していただくこととなります。
 いろいろとご多忙のところを恐縮ですが、最終年度のとりまとめに、どうかご理解とご協力のほどを、よろしくお願いします。
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2008年06月28日

200回目の研究会の熱気

 今から四半世紀前に、伊井春樹先生が「大阪大学 古代中世文学研究会」を立ち上げられました。
 その研究会が、今日でちょうど200回を迎えたことになり、一区切りとなる記念の例会が開催されました。

 伊井先生が退職された5年前からは、荒木浩先生がこの会を守り育てておられます。

 今日の研究会のメニューは、以下の通りです。

・「胡旋女」の寓意―光源氏と清盛と       大阪大学 荒木浩氏
・『続教訓抄』伝本考              神戸学院大学 中原香苗氏
・夢を見ることを忘れた頃にー安西法師の奇蹟ー  愛媛大学 福田安典氏
・大覚寺統における勅撰集下命をめぐって     大阪大学(院) 村山識氏 

 みなさん、日頃の成果を披露なさいました。質疑応答も、充実していました。

 本日の目玉は、福田氏の発表に合わせて、伊予寿永寺の小島泰雄住職による、御寺宝の掛幅絵を用いた「安西法師伝」の絵解きの実演でした。


Zpu_muik_s小島泰雄御住職



 緩急自在の口調での熱演で、お年を感じさせないお話と語りを拝聴しました。

 日頃は、研究発表において資料を見つめながら聴くことが多いのですが、こうした実演を交えた発表会は、非常に刺激的です。この試みは、今後ともさまざまな分野で取り組むべきだと思います。

 会場にはたくさんの人が詰めかけ、200回を記念するにふさわしい研究会となりました。

 私は、この研究会の機関誌である『詞林』の創刊号の印刷に関わって以来、何かと縁のある集まりです。100回目の時は、私が研究発表をしました。

 この研究会がこうして活動を続け、若い人たちを取り込んで育っていることは、本当にすばらしいことだと思います。
 伊井先生の後を引き継がれた荒木先生のご苦労が察せられますが、とにかく前進し続ける研究会に、声援を送ることを惜しみません。
 この会が次に300回を迎える時には、私は定年となっています。その時に、私がどのような立場で参加しているのか、それを考えるだけでも、今から楽しみです。





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2008年04月26日

辻村寿三郎さんの古典人形

 この記事は、本年3月9日に京都・高島屋グランドホールで観た、辻村寿三郎さんの「新作人形展 〜平成アールデコ〜」についてのものです。
 実は、以下の文章を書いた後に、突然パソコンの電源が入らなくなりました。そして、原因がロジックボードらしいということだったので、修理に出していました。このことは、以下の2つのブログで報告した通りです。

「またパソコンが休眠」
http://blog.kansai.com/genjiito/201

「仮死状態のノートパソコン」
http://blog.kansai.com/genjiito/202

 先日修理を終えた、というか、ロジックボードが交換されたパソコンがもどってきたので、無事だったハードディスクから取り出した文章の一つが、この記事です。
 時期を失した内容ですが、大事な記録でもあるので掲載します。

***************
 辻村さんの人形展を初めて観ました。なかなか機会がなかったからです。
 展示会場に入ったところで、たまたま辻村さんご本人によるギャラリートークが、入口の『雨月物語』をテーマとする作品から始まったところでした。こんな企画があったとは知りませんでした。
 これはまたとないチャンスなので、辻村さんの説明を聞きながら、人形にまつわる苦労話や、お得意(?)の人生訓に耳を傾けました。今の世相へのご不満が、作品の説明を忘れてなされていましたので、これはこれで楽しく拝聴しました。
 とにかく偶然とはいえ、真横で作者のお話を聞きながら作品を見て回るのは、人形に込められた気持ちが伝わってくるので、得難い体験となりました。
 辻村さんの、『平家物語』の時代や『八犬伝』『雨月物語』の江戸時代など、中世から近世への造詣の深さをかいま見ました。

 私が楽しみにしていた『源氏物語』については、ご本人が説明してくださる機会に恵まれたので楽しみにしたのですが、あまり熱が入っていなかったように思います。
 第1巻の「桐壷」から第5巻の「若紫」までのトピックシーンが、四角い大きな枠のスペースに組まれていました。若紫を北山から盗んでくる場面について、粗っぽい若者のやることは今も昔も変わらない、という短い説明だけで終わりました。時間がなくなったということもあります。
 終わってから、辻村さんのお話に付いてきていた30人ほどの女性たちの中から、3人くらいが質問をしていました。桐壷の更衣が狂っている状況や、着物の色、そして真ん中に置かれた大きな女性の人形についてです。

 辻村さんは、『源氏物語』にはあまり思い入れがないようです。『雨月物語』の説明の時のような、熱っぽい説明はありませんでした。ただし、桐壷の更衣のかわいそうな境遇には心惹かれたらしくて、放心状態で裸のまま庭をさまよう更衣と、そんな更衣に女房が赤子の光源氏を差し出す場面の説明を、ほんの少しだけしてくださいました。
 「人を孤独にしてはいけない」
 「人は温もりを求めている」
 辻村さんは、ドラマの内側に見え隠れする、人間の情念のほとばしりに反応される方のようにお見受けしました。
 人形が付けている着物については、京都などの各所で催される古物市などで入手された布などを活用されているとのこと。古着を使って、自分好みの人形にしているのだとか。スダレなどの小道具も、処分されるものの再活用だそうです。
 真ん中に展示されていた大きな人形は、紫式部だとのことでした。男っぽい人になっていますが、真実を見ることのできる人は、こんなイメージになると仰っていました。

 『源氏物語』のコーナーの前に大日如来や空海の人形があり、熱っぽく人間の生き方とか人生について語られました。しかし私は、その右手前にあった、桐壷をテーマにした人形が気になりました。直前の解説では、桐壷帝の膝やお腹にハマグリを使っているので、その丸みを観てほしいとのことでした。平家の公達などの人間を表現する時には、人間の形をした人形になるが、『源氏物語』などの場合は、自分を拒否する貝を使うので、こうした形になる、と言われました。その意味がまだよく私にはわかりませんが、聞いたままをここに書き留めておきましょう。

 なお、『源氏物語』の人形の中でも桐壷の更衣については、作品の添え書きに「桐壷」とありました。例えば先ほどの大日如来の右側にあった人形には、「若宮の誕生を帝に報告する桐壷」と。
 紛らわしいので、これは「桐壷更衣」とハッキリさせたほうがいいように思いました。

 辻村さんが『源氏物語』に着手されたのは、2001年4月の日本橋三越で発表された「源氏絵巻縁起」からのようです。68歳の時です。これが今回も展示会場の中央にあったもののようです。
 辻村さんは、早くから『源氏物語』に取り組んでおられたように思っていましたが、勘違いしていました。

 帰ってからすぐに、手元の資料を出して見ました。
 『アサヒグラフ』(通巻4001号、1998年11月、朝日新聞社)の表紙を見て、自分の思い違いの原因がわかりました。表紙には「ホリ・ヒロシ 源氏物語」とあるのです。
 ホリさんの人形は、宇治市源氏物語ミュージアムで上映されていた映画『浮舟』でよく知られています。このホリ版『源氏物語』と、この辻村さんの『源氏物語』の人形は、今回たまたま人形の顔をジックリと観、そして着物の作られ方を知ったために、ようやくその違いがわかりました。2人の人形師の味の違いが、少しわかってきました。

 今回、辻村さんにお目にかかれたのもご縁なのでしょうから、図録として販売されていた作品集を買い、それにサインをしてもらいました。


5x8hrgvi_sサイン入り図録



 作品集には、『源氏物語』は1頁だけで、桐壷更衣が狂っている部分が、ほんの小さく紹介されているだけでした。これが、辻村さんにとっての『源氏物語』の位置づけなのでしょう。
 今回は、源氏千年紀という流れの中での京都での展示でしたが、ご本人はそんなことには頓着することなく、マイペースで作品に向かっておられるのがわかりました。



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2008年02月25日

残念だった演劇「なりひらの恋」

 昨年の11月13日のブログで、演劇「なりひらの恋」を観に行くことを予告していました(http://blog.kansai.com/genjiito/98)。


 一昨日、それを見たので、その感想を記します。
 一言で表現すると、「熱意は感じられたが詰めの甘さが … 」というのが私の印象です。

 最近、目が少し弱くなったので、少し早めに行って、前から3列目の真ん中で観ました。
 表情がよくわかり、その熱演ぶりがよく伝わってきました。しかし、その意欲と出来がズレていたのが残念です。

 まず、会場となったプリズムホールのホームページより、今回の演劇の紹介を、少し長いものですが、引いておきます。


『ちはやぶる神代もきかず龍田川 唐紅に水くくるとは』
この百人一首の和歌や『伊勢物語』の「むかし、男ありけり」で知られる平安の歌人在原業平と高安ノ里に住む姫との恋の物語である。
天安2(858)年。藤原氏の勢力が増し新しい帝の御代になって、憂鬱な気分の業平は、都を離れ、大和に住んでいた。ある満月の夜。高安ノ里の池の畔でもの思いに耽っていた高安ノ姫は、大和の男と名乗る一人の男と出会う。
それから大和の男は、足繁く高安ノ姫の屋形に通うて来るようになったがある日・・・。都から人を捜して姫の屋形を訪れた初老の人がはからずも大和の男と出合ってしまう。その人こそが初老の人が、捜し求めていた尋ね人、歌人として知られた在原業平だったのである。初老の人は、業平の妻の父・紀ノ有常だった。
 娘のことを気遣う有常の心を無視してその後も高安に通い詰め、姫愛しの真情で迫る業平に、高安ノ姫はついに心を許し二人は結ばれる。
心穏やかではないはずの業平の妻はしかし、夫を高安に送り出した後、次のような和歌を詠む。
『風吹けば沖つ白波たつた山 夜半にや君がひとりこゆらむ』
――盗賊も出るという龍田山を真夜中にひとりで超えてゆくあなた。どうぞご無事で・・・
という稜威子の心情は真実なのか――?
ある日、高安ノ姫は思わぬ光景を業平に覗かれてしまう!
果たして高安ノ姫と業平の愛の結末は・・・?




 実は、私は始まってすぐに眠気を催しました。疲れていたこともありますが、その話の内容が、非常に間延びがして退屈だったからです。
 それは、在原業平と紀有常が、都の政治問題で身を大和に隠していることを、長々と説明するくだりでした。惟喬親王のことも出てきます。こうなると、平安時代の政争史の理解が必要となります。特に、惟喬親王を持ち出すと、『伊勢物語』は別の世界へ行くように思います。ここは、高安の女の物語に徹してほしい所でした。

 この説明の最後で、「高安ノ姫は思わぬ光景を業平に覗かれてしまう」とありますが、これが今回の演劇のキーポイントのはずです。
 ところが、肝心のその意図が、うまく表現されていなかったように思います。というか、観客に伝わらなかったと思います。


 そのことを確認するために、同じく「担当者からの見どころ聞きどころ」とある箇所を引用しておきます。


ここ八尾にある高安は高安の里として、伊勢物語の第23段「筒井筒(つついづつ)」に取り上げられ、在原業平と高安ノ姫の恋物語の舞台として描かれています。
ところが後の語り伝えの中で、「高安の女」ははしたない女性として誤解されてきましたが、今回この高安ノ姫の視点から演劇の舞台がつくられることになりました。




 つまり、高安の女は、自分でご飯を装ったということが雅ではなかったので、業平は通わなくなった、というのが本来なのに、後世は、手掴みでご飯を装ったとか食べた、とされていることに対して、その誤解を解くことが趣旨での演劇化だということです。
 実際、私はこの話の舞台である高安で育ちましたが、私も女が手掴みでご飯を装った、と聞いたように思います。

 当日手にしたパンフレットにも、〈高安の女〉が「手づかみで飯を食っていた」と変えられていることに対して、〈高安の女〉の”復権”を果たすことが、この舞台のスタートであったと記されています。
 そして脚本家は、「好きな男のためには禁忌をも厭わぬ女ごころ」を意識したと語っておられます。

 『河内どんこう No.83』(2007.10)を見ると、そこでも脚本家は、

なぜ「高安の女」は、そのような所業に及んだのか知りたい、という願いが強くあって今回の劇化・公演の計画となったのである。(2頁)


と言っておられます。

 演出家も同誌で、次のように語っておられます。


恋をしていたら、もし、本当にその人のことが好きだったら、女なら、人の手を煩わすことなく、自分でご飯をよそって食べてもらいたい、と思うのは、しごく当たり前のことではないか!?(3頁)



 それなのに、実際の舞台では、このような意図は観客に伝わらないままに、なぜ高安の女が自分の手で器にご飯を盛るのか理解できないままに、劇は終末へと向かいます。私は、そう思っています。
 ありのままの自分を業平に見てもらうためと語る女の言葉しか、私には聞き取れませんでした。

 そして、自分で茶わんに飯を盛る高安の女は、あろうことか、有間皇子の次の歌を大きな身振りで歌うのです。

  家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕
    旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る (万葉集)

 笑止千万のお笑い芸でした。
 何が「〈高安の女〉の”復権”」だと言いたい。

 有間皇子は謀反の罪により、和歌山県海南市の藤白坂で処刑されました。狂人を装ったりしたのですが … 。19歳の若さでした。
 椎の葉に飯をのせる意味を考えても、とてもこの高安の女がこの場面で歌うものではありません。

 本公演の脚本家は、前記雑誌で、幻想なるものを記しておられました。妄想を語るのは結構です。しかし、日本の古典文学をまったく知らないことを露呈したことに、お気の毒ながら気付いておられないようです。
 脚本家という自由業者とはいえ、『伊勢物語』という作品のでたらめな解釈にもほどがあります。歴史や文学の受容史をまったく無視した、無知から来る勝手な解釈は、日本のよき伝統文化を破壊する行為です。日本のすばらしい文化を、あくまでも個人的な無知で壊さないでほしいものです。
 これでは、高安の人たちは、大きな迷惑を被ったことになります。
 とんでもない脚本を作った、と言って抗議してもいいのではないでしょうか。
 南高安小学校と南高安中学校を卒業した私にとっては、このような失望を受ける演劇には、正直言って耐えられませんでした。

 このような脚本をありがたく戴いて、それを演劇化したことの恥というものを、この公演後の総括の一つとしてもいいのではないでしょうか。
 無事ではないのですが、無事に終わって良しとするのではなくて、真摯に内容の吟味をするべきです。この公演には、バックに市民の大きな協力があったようです。勉強会もあったようです。それならば、なおさらのことです。この脚本を、公演の前に、丁寧に読みましたか。脚本家に任せきりではなかったのですか。『伊勢物語』の原作を、みんなで丁寧に読みましたか。長い歴史の中で、いろいろな解釈がなされたことを、勉強しましたか。
 もし、それがなかったのであれば、これを機会に、再度勉強会をするだけの意義はあります。
 少なくとも、高安で育った私としては、こんないい加減で出鱈目な演劇はしてほしくないと思います。
 高安で育った者への、無知から来る明らかな誹謗です。『伊勢物語』という古典作品を、もっと心を込めて読みませんか。

 可能ならば脚本家の反論を聞いてみたいのですが、こちらからの問い掛けは、大人げないのでやめておきましょう。会場へ、観劇後の感想でも送ろうかと思います。私は、自分が育った高安が大好きですから。そして、私の父母が眠る土地ですから。

 さらに残念なことに、最後の場面で大きなミスがありました。
 業平が通って来なくなった高安で、侍女が高安の女を慰め元気づける場面で、侍女が自分が言うべきセリフをすっかり忘れてしまったのです。それまでの侍女役の方の演技がうまかっただけに、これは残念でした。しばらく、白けた雰囲気となりました。

 舞台の2人は、顔を見合わせながら、仕方ないという表情で、高安の女役の女性は少し苦笑いをしながら、やがて出てくる村人たちの河内音頭の輪の中に佇みます。これも、何となく不自然な位置取りで、しかも中心の2人が、先ほどの閉じ目の決めぜりふが不発に終わったことが心残りで、どうしよう、と思案顔だったことが印象的でした。
 すると、この2人が突然、村人の踊りの輪の中から飛び出して、舞台の左側手前に立ち、先ほどできなかった場面の再演をされたのです。
 この異変に、会場の方々は気付かれたでしょうか。
 生の舞台では、こんなこともあるのですね。
 侍従役の方は、その後は、終始暗い顔をなさっていました。

 みなさん、熱演だったと思います。しかし、当初の意図は、みごとに外れた、というように、私は観ました。

 そこで提案です。
 昨年のブログで、私は原作である『伊勢物語』(第23段「筒井筒」) と『大和物語』(第149段「沖つ白波」)の話を例に引きました。
 その中で、『伊勢物語』の「手づから飯匙とりて、笥子のうつはものにもりける」と、『大和物語』の「手づから飯もりをりける」ということばがありました。この二つの文章の違いを丁寧に読み解くことで、この高安の女の話を進める台本を作ってもいいのではないでしょうか。
 その際には、『大和物語』にある次の文章は、しっかりと演技することです。


この女、うち泣きてふして、かなまりに水を入れて、胸になむすゑたりける。あやし、いかにするにかあらむとて、なほ見る。されば、この水、熱湯にたぎりぬれば、湯ふてつ。



 さらには、次の『伊勢物語』の文章も、高安の女の心情を深く掘り下げて演劇化したらどうでしょうか。


 さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
  君があたり見つつを居らむ生駒山
    雲なかくしそ雨はふるとも
と言ひて見いだすに、からうじて大和人、
「来む」
と言へり。
 よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、
  君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば
    頼まぬものの恋ひつつぞ経る
と言ひけれど、男すまずなりにけり。




 こうしたネタで脚本を作ると、また別のおもしろい高安の女の物語ができます。
 そうすると、これも地元の人たちが大切に伝えて行く文化の一つとなるはずです。

 勝手なことを記しました。
 昨夏より準備をすすめてこられた皆様方に対して、失礼な物言いとなっていましたら、ご寛恕のほどをねがいます。





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2007年11月13日

演劇「なりひらの恋」

 『伊勢物語』の第23段は「筒井筒」として有名です。
 高校の古文の授業で教わった方も多いと思います。
 この舞台は、河内の高安の里です。現在の大阪府八尾市の東部山側にあたります。

 私は、この高安の里の小学校と中学校で育ちました。正確に言うと、小学校の6年生から高校3年までです。そのためもあって、『伊勢物語』の第23段には思い入れがあるのです。我が家のお墓は、この高安山の麓にあります。

 さて、この高安を舞台とする演劇が、年明けに上演されるそうです。


Yb2jjusn_sパンフレット表




 どのような脚本なのか、今から楽しみです。
 配役は、以下の通りです。



0cjbjnbf_sパンフレット裏




 参考のために、私がこの話に関連して書いた文章を、以下に引いておきます。
 「雨―歌物語における男と女」と題して、『〈水〉の平安文学史』(国文学研究資料館編、平成17年2月)に掲載したものです。

 少し固苦しくて長い文ですが、この冊子を手にすることが難しいので、関係する部分を引用します。



 次は、有名な「筒井筒」の段である。

【第二三段】「筒井筒」(全文は〈資料1〉参照)
 (前略)
 まれまれかの高安に来て見れば、はじめこそ心にくもつくりけれ、いまはうちとけて、手づから飯匙とりて、笥子のうつはものにもりけるを見て、心憂がりて、行かずなりにけり。
 さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
  君があたり見つつを居らむ生駒山
    雲なかくしそ雨はふるとも
と言ひて見いだすに、からうじて大和人、
「来む」
と言へり。
 よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、
  君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば
    頼まぬものの恋ひつつぞ経る
と言ひけれど、男すまずなりにけり。


 「君があたり……」と女が男を想って詠む歌は、後に掲げる第六七段を考慮すると、およそ二、三月頃の季節を想定できよう。
 この歌は『万葉集』(巻一二)では

  君があたり見つつも居らむ生駒山
    雲なたなびき雨はふるとも

となっているものである。

 『伊勢物語全釈』(森本茂、昭和五六年七月、大学堂書店)では、
「雨が降れば生駒山は見えないはずなのに、雨は降ってもよいがというのは、理にはずれていて、そこが女のあわれさをさそう所でもある。」

とある。
 また、
「その裏には何か雨乞いの民俗信仰にもとづくものが含まれているのかもしれない。民謡的な匂いのする歌である。」(一七五頁)

ともいう。
 民俗信仰は今は不明である。この雲と雨の矛盾する点については、次のように解釈すると理解が届くのではなかろうか。
 女は、雨は降ってもよいと思っている。つまり、男は来なくてもよいのだ。雨によって男の誠意を忖度する意味を認めていないのである。しかし、男の住む、男がやって来る方角を遮るように屹立する生駒山は、いつも眺めていたい。

 『伊勢物語全評釈』(竹岡正夫、昭和六二年四月、右文書院)がいう、
「生駒山は、君の象徴なのだ。大和と河内との境にある生駒山は、万葉では正に恋の通い路であった。」(五〇八頁)

ということが参考になる。

 とにかく、女は長雨を機会に、男への諦めと同時に自分の恋愛世界を楽しむことを選択したのではないか。
 みやびの世界を体現する男が私のところへ通っていたことを、いつまでも確認したいのである。
 その後、男から来訪の知らせがある。
 しかし、喜びはするものの肩すかしの連続に、もうあてにしなくなる。
 そして、また生駒山を眺め、男の姿を追うことを楽しみとする。
 雨によって、男の本意はわかった。雨の中を来る男ではないのである。
 「頼まぬものの恋ひつつぞ経る」という想念の世界で遊ぶことのできる女である。

 折口信夫氏には、「みつゝをゝらむ」を「見つつ送らん」だろう、という意見がある(前掲書、一五三頁)。女が男を見送るという想定もおもしろい。
 しかし、『万葉集』には「見つつも居らむ」とあることから考えて、無理があるように思われる。
 平田喜信氏は、「風吹けば沖つ白波」(『月刊国語教育』一九八九年四月)で、
「教科書類に(三)の箇所が省かれる最大の理由は、ここに粗野で無教養な高安の女が登場するからではなく、実はその後の「君があたり」と「君来むと」という彼女の、男を想う二首の取り扱いがはなはだ困難であったからではあるまいか。」(一三六頁)

といわれる。
 また、
「(三)の後半は、必ずしも教材向きではないかもしれないが、男と女の愛情の表裏を描いた大人のための読み物として、十分に鑑賞に堪える内容であるということができよう。」(一三七頁)

とも。

 ここでいう二首について、平田氏の理解は、男の決断と女の不如意を文末の余白で伝えようとしていることに留まっている。
 ここは、私案のように解釈して読めば、これもまた物語としておもしろく読めるものとなるはずである。
 また、『大和物語』はこの高安の女の歌のことは一切言わない。女の男を想う心情が欠落しているのである(資料2〉参照)。

 『大和物語』の本文に異同があるので、少し詳しくふれておく。
 女の歌の直前のことば「見やりて」が、書陵部蔵阿波国文庫旧蔵本、書陵部蔵谷森善臣旧蔵本、神宮文庫本の三本が「ながめやりと」となっている。高安の地域では雨が降っており、女も男のことを想っての物想いの歌なので、ここは「ながむ」のほうがよいと思われる。
 しかし、この段の三話を一つにする際、第二話の「風吹けば……」の歌の直前が「うちながめて」であったこととの重複を避ける意味で、本文編集上の理由でここは「見やりて」と改変されたものと考えたい。

 同語の反復については、石田穣二氏も
「ややさしさわるきらいもあろう。」(『伊勢物語注釈稿』三二一頁、二〇〇四年五月、竹林舎)

といわれた。
 私はそれを、さらに積極的に手が入った箇所としたいのである。

 なお、由良琢郎氏は『伊勢物語講説 上巻』で、
「地理的にいって、高安は生駒山脈の中にあり、そこから生駒山を、この歌のようにはるかに見ることは不可能である。」(一八二頁、昭和六〇年六月、明治書院))

といわれる。
 しかし、この高安の地に育った私は、生駒山を見ながら遊んでいたこともあり、異を唱えたい。高安の地から、生駒山・高安山・信貴山の山々は臨めるのである。

 また、『万葉集』(巻二〇)には次の歌がある。

  難波門を漕ぎ出でて見れば神さぶる
    生駒高嶺に雲ぞたなびく

 生駒山に雲がたなびくのは、古代にあっては常の景色であったようである。上代においては、生駒山の麓から難波の上町台地にかけては湖であった。生駒山に雲がかかるのは、こうした地勢と関係するのかもしれない。
 『伊勢物語』の六七段にも、和泉の国の方角からではあるが、生駒山に雲のかかるさまが描かれている。



 この「筒井筒」の話が原文ではどうなっているのか、『新編日本古典文学全集』から参考までに以下に引いておきます。
 これは、いつでも確認できる記録として、何かの時に便利なものになると思うからです。
 古文なので、苦手な方は以下は読み飛ばしてください。
 最初は、〈資料1〉として、『伊勢物語』の第23段の「筒井筒」を。
 続いて〈資料2〉として、『大和物語』【第149段】の「沖つ白波」の二つです。



〈資料1〉『伊勢物語』【第二三段】「筒井筒」

 昔、ゐなかわたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりにければ、男も女もはぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける。さて、このとなりの男のもとより、かくなむ、
  筒井つの井筒にかけしまろがたけ
    過ぎにけらしな妹見ざるまに
女、返し、
  くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ
    君ならずしてたれかあぐべき
など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。
 さて年ごろふるほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の国、高安の郡に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、あしと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて、前栽のなかにかくれゐて、河内へいぬるかほにて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、
  風吹けば沖つしら浪たつた山
    夜半にや君がひとりこゆらむ
とよみけるを聞きて、かぎりなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。
 まれまれかの高安に来て見れば、はじめこそ心にくもつくりけれ、いまはうちとけて、手づから飯匙とりて、笥子のうつはものにもりけるを見て、心憂がりて、行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
  君があたり見つつを居らむ生駒山
    雲なかくしそ雨はふるとも
と言ひて見いだすに、からうじて大和人、「来む」と言へり。よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、
  君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば
    頼まぬものの恋ひつつぞ経る
と言ひけれど、男すまずなりにけり。




〈資料2〉『大和物語』【第一四九段】「沖つ白波」

 昔、大和の国、葛城の郡にすむ男女ありけり。この女、顔かたちいと清らなり。年ごろ思ひかはしてすむに、この女、いとわろくなりにければ、思ひわづらひて、かぎりなく思ひながら妻をまうけてけり。この今の妻は、富みたる女になむありける。ことに思はねど、いけばいみじういたはり、身の装束もいと清らにせさせけり。かくにぎははしき所にならひて、来たれば、この女、いとわろげにてゐて、かくほかにありけど、さらにねたげにも見えずなどあれば、いとあはれと思ひけり。心地にはかぎりなくねたく心憂く思ふを、しのぶるになむありける。とどまりなむと思ふ夜も、なほ「いね」といひければ、わがかく歩きするをねたまで、ことわざするにやあらむ。さるわざせずは、恨むることもありなむなど、心のうちに思ひけり。
 さて、いでていくと見えて、前栽の中に隠れて、男や来ると見れば、はしにいでゐて、月のいといみじうおもしろきに、かしらかいけづりなどしてをり。夜ふくるまで寝ず、いといたううち嘆きてながめければ、「人待つなめり」と見るに、使ふ人の前なりけるにいひける。
  風吹けば沖つしらなみたつた山
    夜半にや君がひとりこゆらむ
とよみければ、わがうへを思ふなりけりと思ふに、いと悲しうなりぬ。
 この今の妻の家は、龍田山こえていく道になむありける。かくてなほ見をりければ、この女、うち泣きてふして、かなまりに水を入れて、胸になむすゑたりける。あやし、いかにするにかあらむとて、なほ見る。されば、この水、熱湯にたぎりぬれば、湯ふてつ。また水を入る。見るにいと悲しくて、走りいでて、「いかなる心地し給へば、かくはし給ふぞ」といひて、かき抱きてなむ寝にける。かくてほかへもさらにいかで、つとゐにけり。
 かくて月日おほく経て思ひやるやう、つれなき顔なれど、女の思ふこと、いといみじきことなりけるを、かくいかぬをいかに思ふらむと思ひいでて、ありし女のがりいきたりけり。久しくいかざりければ、つつましくて立てりける。さてかいまめば、われにはよくて見えしかど、いとあやしきさまなる衣を着て、大櫛を面櫛にさしかけてをり、手づから飯もりをりける。いといみじと思ひて、来にけるままに、いかずなりにけり。この男はおほきみなりけり。
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2007年07月30日

京都の別称はこんなにある

 京都は古い都だけに、その呼び方も多彩です。
 私も、自分のホームページに「京洛」ということばを冠しています。
 そこで、京都のことを表現するのにどんな名前があるのかを、江戸時代の文学に詳しい入口敦志氏に教えてもらいました。

 以下のリストを見て、いくつご存知のものがあるでしょうか。
 これは、江戸時代に出版された本の奥付などから、京都の別称に当たるものを集めて一覧にしたものです。だいたい18世紀に確認できる資料から抜き出したものだと思ってください。

 それでは、ごゆっくりとご覧ください。

京(きょう)
京兆(けいちょう)
京城(けいじょう)
京師(けいし)
京洛(きょうらく)
京畿(けいき)
京華(けいか)
中原(ちゅうげん)
中土(ちゅうど)
中州(ちゅうしゅう)
九重城(ここのえのしろ?)
帝王州(ていおうしゅう)
帝畿(ていき)
帝都(ていと)
平安(へいあん)
洛(らく)
洛〓[〓=水+ム+矢](らくし)
洛〓[〓=水+内](らくぜい)
洛下(らっか)
洛中(らくちゅう)
洛之〓[〓=水+ム+矢](らくしし)
洛城(らくじょう)
洛水(らくすい)
洛畿(らくき)
洛邑(らくゆう)
洛陽(らくよう)
洛陽城(らくようじょう)
清洛(せいらく)
玉京(ぎょくきょう)
王城(おうじょう)
皇京(こうきょう)
皇城(こうじょう)
皇州(こうしゅう)
皇畿(こうき)
皇都(こうと)
神州(しんしゅう)
西京(さいきょう)
西都(さいと)
輦轂之下(れんこくのした)
都畿(とき)
長安(ちょうあん)
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