ホテルグランティア太宰府の天然温泉みかさの湯に泊まりました。そして、その太宰府温泉で目覚めると、ちょうど朝日が顔を出すところでした。神々しい山間の地であることを実感します。
筑紫女学園大学のアジア文化学科長である小林先生の車に乗せていただき、仏教絵画の研究者でありながら郷土史家という願ってもない案内に導かれて、太宰府のポイントを散策しました。贅沢なことです。
大野城跡から市街を見下ろすと、九州国立博物館や筑紫女学園大学が望めます。この景色は、今朝の朝日を望んだ時の、さらに上から見たものです。
次は、水城跡です。版築工法で作られた土塁は、京都でいえば豊臣秀吉が市内に構築した土塁や宇治の太閤堤を思い出しました。
一面のコスモス畑を見ながら、水城館でビデオを見て、さまざまな資料をいただきました。
太宰府は万葉人の世界が体感できます。大伴旅人や山上憶良などの万葉歌碑めぐりもできます。資料を拝見していて、掲載された歌碑の写真と、その歌碑に刻まれた和歌の翻字に、表記上の漢字や仮名文字のズレが気になりました。刻されている文字を正確に翻字した方が、一般の方々には親切な配慮だと思うからです。
さらには、変体仮名が数文字しかありません。万葉の時代に近付くためには、万葉仮名まではいかなくても、もう少し変体仮名を交えた表記にしても良かったのではないでしょうか。これでは、あまりにも現代の視点からの万葉時代への誘いであり、多くの知識がないと万葉という時代を身近に感じられないことでしょう。
太宰府政庁跡では、都督府古趾などを見ました。
私は、今から50年前にこの太宰府に来ています。大学院の博士前期課程(修士)だった時に、中古文学会で研究発表をしたのが、太宰府天満宮の会場でした。会場校だった九州大学の今井源衛先生のお世話になり、国文学研究資料館の伊井春樹先生の質問を受けたりした、研究者の卵だった頃の思い出の地です。その時に、広場に建つ石柱を見上げた記憶があります。それが、この都督府古趾のようです。しかし、こんなに小さくはなく、しかも三つの石碑はなかったようなのです。何か思い違いをしているのか、記憶に自信がなくなりました。
そこから少し奥まったところに、坂本八幡宮があります。ここは、元号「令和」にゆかりのあるところです。
記念に、二つのお守りをいただきました。
観世音寺の前の古碑(安永五年九月十八日)には、「源氏物語玉葛巻にも」とあり、次の行には「紫式部」という文字も刻まれています。この文章のことは、後日確認してから話題にします。
観世音寺の宝蔵では、小林先生のご専門でもある仏教美術に関する豊富な知識を踏まえた、観音さまや如来さまの詳しい説明を伺いました。贅沢な時間でした。
観世音寺をぐるっと回り、西側に玄ムの墓がありました。玄ムについては、松本清張の「眩人」で知っていましたので、興味をもって見ました。目立たないので、もっと人目に付くように工夫したらいいと思いました。
最後は、戒壇院です。大和の東大寺の戒壇院は、奈良に20年も住んでいたので知っていました。日本には三戒壇があるとのことで、この筑紫の戒壇院以外には、下野の薬師寺の戒壇があるそうです。これで、二つの戒壇を訪れたことになります。
小林先生には二日市駅まで車で送っていただき、そこからは同行の村上明香先生が博多の新幹線乗り場まで見送ってくださいました。
駅前に、野口雨情の歌碑がありました。今回の太宰府散策では、ほとんど史蹟や街中に変体仮名を見かけませんでした。最後にやっとありました。
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「【桜】盤」「【一時】尓」「【泊】里」「【小唄】よ里」
博多までの車中で村上先生とは、『源氏物語』の翻訳本を活用した異文化交流の研究を深めるための方策などについて語り合いました。そのためにも、研究のための補助金をなんとかしなくては、というところに落ち着きます。気長に、末長く研究テーマとしていこう、と言うことで博多でのお別れとなりました。
2日間にわたり、筑紫女学園大学の先生方には、大変お世話になりました。また楽しい企画をプランニングなさる時には、お声掛けください。楽しいイベントを、今後とも仕掛けていきましょう。
