2011年04月22日

読書雑記(33)高田郁『小夜しぐれ みをつくし料理帖』

 本作は、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2011年3月に刊行された、『みをつくし料理帖』シリーズの書き下ろし第5作品です。
 
 
 

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 文庫の帯では、シリーズ累計100万部を突破したと宣伝しています。確かに、読者は広がっているようです。
 高田氏は春と秋の年2回、この書き下ろし文庫で読者を楽しませてくれます。
 さっそく、今年の秋の第6弾が待ち遠しく思っています。
 
 さて、ゆったりとした時の流れの中に、適度な緊張感を織り込んだ高田郁の世界が紡ぎ出されています。
 作風が安定してきたせいか、安心して読めます。ただし、第5作ともなると、シリーズ化にともなう作者の苦労が感じられます。登場人物が描ききられた感があり、新鮮さと刺激の維持が大変なようです。物語の展開で、読者を引きつけるか、料理で楽しませることになります。ただし、この巻は次巻への仕込みという位置づけのように思いました。
 
 
■「迷い蟹−浅蜊の御神酒蒸し」
 絵師の登場で、出版に興味のある私は、この物語世界の広がりにますます引き込まれました。版元と絵師の関係がおもしろいと思いました。
 温かい満月(16頁)から痩せた月(81頁)へ、そして敵討ちのドラマが終わります。背景である夜空にも、こうして神経が行き届いています。【3】
 
 
■「夢宵桜−菜の花尽くし」
 「こん」の付く料理のことが語られます。


 昔から、働き過ぎで精根尽きた時には、大根や昆布、蒟蒻や蓮根など「こん」の付くものを摂ると良い、と言われている。それに加えて滋養のある玉子と消化に良いお粥を合わせるのだ、と娘に澪は教えた。(93頁)
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 我が身に置き換えて、これからの食事の参考にしましょう。
 澪の想い人が登場すると、気持ちの弾み具合が伝わってきます。謎のやりとりも、変化があっていいのです。
 後半に出てくる次の歌は、なかなかおもしろい趣向で出てきます。


咲く花を 散らさじと思ふ御吉野の 心あるべき春の山風


 この和歌について、私は解釈に思いを巡らしながら読んでいました。その作者が問題だったとは、一本やられました。うまくすくい投げをされた気がして、感心しました。おみごとです。

 話をむつかしくしないのが、この作者のいいところです。【4】
 
 
■「小夜しぐれ−寿ぎ膳」
 身欠き鰊が江戸にはなかったのだそうです。私は、鰊の昆布巻以外は、あまり食べない魚です。前話の菜の花といい、東西の食文化の違いに、あらためて気づかされました。
 ふきがぴょんと跳ねる場面が、この物語の中で定着しました。展開が明るく前に進むしるしとなっているのです。
 弓張り月(181頁)が丸みを帯びた月(202頁)になり、やがて満月に近くなります(218頁)。その頃には、話はめでたしめでたしと収まる趣向のはずです。しかし、その後、半分の月となるのです。どうも、この話は、最後が流れているように思えます。祝言が、晴れやかではないのです。ここまでの2作も、盛り上げも感動も、いつものような調子ではありません。こぢんまりと終わっています。【2】
 
 
■「嘉祥−ひとくち宝珠」
 これまで、正体を伏せながら、小出しにしてきた小松原の素性が語られます。しかも、ここでは、真正面から実像を露わにします。あまりにもストレートなので、私はがっかりしました。これは、評価が分かれることでしょう。次への準備とも言えます。しかし、もっと引っ張ってもよかったように思います。
 もっとも、これまでとはまったく異なる味の構成なので、これもおもしろいと言えます。澪の登場がないのですから。澪を外から見た物語となりました。次作にどうつながるのか、ますます楽しみです。【2】
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2011年04月18日

読書雑記(32)【復元】物語の作者とは?

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2004年12月31日公開分
 
副題「『物語消滅論』を読んで」
 
 『物語消滅論』(大塚英志、角川書店、2004.10)を読みました。
 
 
 
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 サブタイトルが〈キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」〉とあるのを見て、少し理屈っぽい内容かと思いきや、なんとか読めました。現代の社会問題を切っていくので異論はありますが、新鮮な語り口に学ぶことの多い本でした。また、現代を取り上げていますが、「物語」を考える上で、参考になる視点をもらいました。ただし、難解な、そして私にとっては馴染みのない用語の頻出には、ついていけないもどかしさを感じました。

 本日の新聞には、我が町「平群」を巻き込んだ事件の記事が埋め尽くされていました。この犯人と思われる男も、自分の〈物語〉の中を生きていたのでしょう。今を生きる我々と〈物語〉の役割については、機会を改めて記します。

 さて、本書で私がチェックした所を、思いつくままに紹介します。


 アメリカが文化的に他国に進出(侵略とは敢えて記しませんが)する際、その地の民俗学者や文化人類学者を抱え込むことは前例があります。太平洋戦争の敗戦後、GHQは占領統治のために岡正雄や石田英一郎ら文化人類学者を雇用しています。(中略)GHQが集めた文化人類学者も、戦時下は植民地支配のための民族学研究を行なった人々です。しかし、そこのところを特にぼくの出身である民俗学は戦後ずっと隠蔽してきたのです。(40頁)


 私は大学の学部生時代には、文学と民俗学の分野の勉強をしていました。柳田国男や折口信夫の著作物を読みあさり、大学の卒業論文は唱導文芸に関するものでした。
 今思えば、大変恥ずかしいものです。当時は民俗学の論理で〈文学・物語〉を読み解くことを目指していました。その手法に疑問を持ち、その後は〈物語〉の生成過程をテーマにしました。

 さらに自分のテーマは〈物語〉の受容と本文に移り、今に至っています。
 研究というものに興味を持ち、民俗学に親しんでいたころに、その背景に大塚氏が指摘されるようなことは一度も耳にしませんでした。このことは、自分のこれまでを整理する中で、いつか再考したいと思います。


 誰でも物語れるコンピュータ上の支援ソフトは、近代文学を支えてきた「作者」を根源的に無化します。つまり、「作者」とは「Dramatica」の存在によって、アプリケーションに還元し得るものなのだということが、はっきりしてしまったのですから。(81頁)
プラム


 『源氏物語』の作者を紫式部一人と限定しない私見を提示している私には、これは大いに参考になる視点です。物語を生み出した作者とは何か、ということを考える上では、それが特に千年前の『源氏物語』と呼ばれる〈物語〉であることを考えると、近代以降の一人の人間による産物という視点に縋るのではなく、今発生している〈物語〉の作者とは誰を指すのか、という問題に返って考えるべきです。それをいかにして証明するのか、なかなか難しい問題です。しかし、本書はその問題にいろいろな考えるヒントを与えてくれます。

 後半の「「よってたかって創る」ことの可能性」の項を、少し長くなりますが引いておきます。


 情報論的な世界においては「固有の作者」は成立しにくい。確かに辿っていけば誰がインターネットを作ったのかとか、LINUXのOSは誰が作ったのかといった「起源」があるにしても、進化の仕方そのものは一人の神によって管理されているわけではありません。ある不完全なソフトウェアがネット上におかれたときに、次々と色々な人間がバージョンアップをしていく。すべての記録が残っていく世界だから「ここまでは誰々の修正です」と署名はできるのかもしれませんが、逆に分担が明らかな分、ネットワーク全体の作者はいないわけです。
 こういう創作のあり方を川田順造はかつて「シンローグ」及び「ポリローグ」という概念で説明しました(川田順造「口頭伝承論」(一)『社会史研究』2/日本エディタースクール出版部)。作者が一人で語る「モノローグ」、受け手と対話しながら語る「ディアローグ」に対して「シンローグ」「ポリローグ」では固有の作者はもういません。「シンローグ」とは昔話が人々が集まる座の中で、そこにいる一人一人の即興の語りの相互作用の中で昔話が語られる、というものです。しかし、「シンローグ」は座に居あわせた互いに顔見知りの人間たちが彼らが共有している昔話を「再現」するのに対して、「ポリローグ」は、街中や広場において、それぞれが勝手に発話している喧騒状態を言うのです。しかし、その喧騒は無秩序ですが、そこに不定型であるゆるやかな一つの物語がやがて生成する可能性もあるのです。かつて川田のこの議論を読んでもぼくはピンときませんでしたが、LINUXのことを知ると、とてもよくわかります。LINUXは「シンローグ」及び「ポリローグ」の水準の「創作」なのです。
 (中略)それはともかく、勝手にジブリにやってきてシーンを追加したり、宮崎さんの原画に修正を入れて「この顔の方が可愛いじゃない」って描いて、また第三者が「うん。こっちのほうが可愛いよね」という評価軸のなかで変わっていく。そこで宮崎さんが「勝手なことをするな」と怒ってはいけない、というのが新しい創作の中での個々のポジションですね。LINUXの作者が「俺のソフトを勝手に改造しやがって」と怒ってはいけない。その違いがおそらく創作や世界を構成していくときに大きな違いになっていくのではないか。(150頁)


 この文章は、現代の〈物語〉だけでなくて、古代の〈物語〉の作者を考えるときにも、意味を持ちます。

 また、「検索ソフトは情報を「物語」に変えてしまう」という項目も興味深いものでした。


 ネットの検索結果の画面とは、同一の説話構造を持った異質の情報が重層的に表示される奇妙な情報空間だと気がついたのです。(194頁)


 検索することの意味を、改めて考えさせてくれました。情報を検索する行為は、物語を創造する行為と深く係わっているのでしょうか。物語の構造を考えることと、キーワードで情報を検索する行為の関係について、考えてみたくなりました。

 「あとがき」で作者は、自分が構造主義以前の「物語論」に準拠する意味を記しています。また、ハリウッド的な因果律である「善と悪の対立」という構造の物語が、イデオロギーの代替物とされていることへの問題提起にも興味を持ちました。大塚氏の語り口にひかれ、ただいま『定本 物語消費論』(角川文庫)を読んでいます。

 大塚氏の文章は難解ではなくて、はっきり言って日本語の表現がへたな方のようです。文意のわかりにくさは、悪文に起因するものです。しかし、内容がおもしろいので、しばらく大塚氏に付き合ってみます。"
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:27| Comment(0) | ■読書雑記

2011年02月04日

読書雑記(31)【復元】曾野綾子著『アレキサンドリア』雑感

 
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2005年11月9日公開分
 
副題「翻訳と異本の問題に関連して」
 
 
 曾野綾子の『アレキサンドリア』(文春文庫)を読みました。偶然、カイロから帰国した日に、書店で見かけたので読んだだけですが……

 ヘレニズム時代のアレキサンドリアの話と、現代日本の人間のものの見方や考え方が、非常に分かりやすく、面白く語られています。もっとも、私としては、紀元前2世紀に一人のユダヤ人の青年が、祖父が著した『ベン・シラの知恵』という聖典を、ヘブライ語からギリシャ語に翻訳する上での、さまざまな問題に興味を持ったのです。いわば、聖典の翻訳の問題です。こんなことが語られています。


祖父が「慈しみ」と言ったものも、私は何と訳すべきなのだろうか。(中略)私はそれを「エレオス」という言葉に置き換えたのだ。(中略)これは逸脱なのだろうか。それとも、部分訳でしかないのではないか、と非難されることなのだろうか。こういう場合私は、時々、翻訳の仕事をやめたくなる。(108頁)
 
もし私の生涯が、生きていてよかったというならば、それは祖父の著書を多くの人が読めるようにギリシャ語に訳したということだ。(175頁)

 
 なお、本書の文庫本解説は、石田友雄氏の次の言葉で締め括られています。


異文化を正しく伝える翻訳をするためには、常に二つの言語が持つ文化的、歴史的背景に十分配慮して言葉を選び、ときには説明を付け加えなければならないのである。
 小説『アレキサンドリア』で、曾野綾子さんは、歴史小説の各場面に現代の日本人の様々な生き方を当てはめるという方法で、ベン・シラが語る普遍的な知恵を「翻訳」したのである。現代の日本人とヘレニズム時代のアレキサンドリアのユダヤ人を結ぶ離れ業を、私は「究極の翻訳」と呼びたい。(307頁)


 本書は、24話で構成されています。そして、それぞれが、アレキサンドリアと日本の二話をセットにしたパターンで語られているので、一冊で48の話が楽しめます。曾野氏の語り口は非常に巧みで、上質の物語を堪能しました。
 しかし私には、アレキサンドリアと日本の話の二話の関連性が、今一つわかりませんでした。アレキサンドリアの話を受けて語られる現代日本の短編物語が、どうアレキサンドリアの話とつながるのか、1話もわからないままにページを閉じることとなりました。またの機会に、この関連に意を払って読みたいと思います。

 翻訳は言葉の移し替えだけの問題ではなく、文化の違いを言葉でどう表現するか、というものだと思います。その時代時代にふさわしい翻訳があるはずです。例えば、『冬のソナタ』がそのいい例です。

 昨日まで私がいた韓国の学会で、韓国の方の発言にオヤっと思いました。
 その方は、『冬のソナタ』の韓国語の素晴らしさが、日本人に理解されたことを誇りに思う、という趣旨の発言をされたからです。

 私も『冬のソナタ』に興味があり、日本での簡略版と完全版のビデオ以外に、韓国語版も新宿のコリアタウンで入手しました。そして、オリジナルの韓国語による会話と、日本での翻訳(吹き替えと字幕)との違いに興味を持っているのです。

 韓国語とそれを翻訳した日本語は、相当違うようです。美しい日本語に訳されたからこそ、日本で受け入れられたと考えた方がいいと思っています。韓国語の表現が良かったから受け入れられた、というのとは違うのです。翻訳の質の問題です。

 この点で、韓国語や韓国の素晴らしさを日本人が理解した、と見るのは早計です。韓国のことばを日本のことばに移し替えるという行為が、ここには介在しています。ことばがストレートに伝わっているのではないのです。
 言葉を翻訳する、というプロセスを通したいくつかの段階を経ていることを、ここでは理解しないといけないと思います。
 韓国の方々がよくおっしゃる、日本文化は韓国が教えたものである、という思考法は、もっと慎重であるべきではないでしょうか。

 論点がズレるので、この問題は機会を改めることにしましょう。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
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2011年01月07日

読書雑記(30)水上勉『雁の寺』

 里子が障子に映った人影を見、それが誰なのかが後にわかる、として話が進みます。
 サスペンスの要素が盛り込まれている作品です。水上作品は、視覚的に美しい場面がちりばめられています。

 水上勉の作品において、月がどのように活用されているのか、私は大いに興味を持っています。雰囲気作りにおいて、有効に出てきているように思われるからです。
 本作でいえば、月光の中の慈念(新潮文庫、35頁)、月明かりの中を慈念が来る(43頁)、月の光が格子窓から差し込む部屋で寝ている慈念を里子が起こす(99頁)場面があります。
 慈念の背景に、随所で月が配されているのです。
 こんなことを心の片隅に置きながら、水上勉の作品を今後とも読み進むのが楽しみです。

 寺派の管長である老師は、行方不明になった孤蓬庵の住職慈海について、「慈海が寺を出たか。それもええではないか。あれはまだ雲衲じゃ。放っとけ、放っとけ」(103頁)と言います。
 我が家の宗派は曹洞宗なので禅宗です。私の父が亡くなったとき、お世話になった和尚さんが、これとまったく同じことをおっしゃっていました。「仏、ほっとけ」と。この悟りきった明快な爽やかさと大らかさが、残された者の気持ちを宥めてくれます。

 最終の第8章は秀逸だと思いました。緊張感が伝わってきます。慈念と里子の描かれ方が絶妙です。【3】

 この作品の舞台とされる相国寺の「瑞春院」は、「雁の寺」として知られています。
 通りかかった折に写した写真です。まだ中に入ったことはありません。
 
 
 

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 相国寺公式ホームページの中の「瑞春院」から、この小説に関係する箇所を引きます。
 

「水上 勉と雁の寺」
 直木賞作家 水上 勉氏は9歳の時、瑞春院で得度し13歳まで雛僧時代を禅の修行に過ごしたが、ある日突然寺を出奔。諸所を遍歴し文筆活動に精進。昭和36年(1961年)出版の小説『雁の寺』はベストセラーとなり名声を博した雁の寺の小説は瑞春院時代の襖絵を回顧し、モデルとしたことから瑞春院は別名を『雁の寺』ともいう。今も雁の襖絵八枚が本堂上官の間(雁の間)に当時の儘に残っている。

 
 もっとも、小説の内容から言えば、この寺にとっていいイメージとは言えません。
 『雁の寺』が昭和36年に第45回直木賞を受賞し、映画やテレビドラマとなっていることにあやかる方を優先したものといえるでしょう。
 
【映画】
監督︰川島雄三
製作︰大映
公開︰1963年1月
出演︰若尾文子(里子)
   高見国一(慈念)
   三島雅夫(慈海)
 
【テレビドラマ】
監督:奥村正彦
製作:テレビ東京、PDS
   「月曜・女のサスペンス」
出演︰かたせ梨乃(里子)
   馬渕英明(慈念)
   金田龍之介(慈海)
 
 水上勉と京都については、次のホームページが参考になります。
「水上勉の京都を歩く 相国寺界隈編」
 
 なお、「東京紅團」というホームページが、文学散歩の際の貴重な情報源となっていることを知りました。

 本を読んだ後に、ネットでブラブラという楽しみが味わえます。このサイトの、ますますの発展を楽しみにしたいと思います。
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2011年01月06日

【復元】読書雑記(29)『問題な日本語』を再読して

 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2005年1月7日公開分

副題「多様で揺れ動く日本語はどうなるか?」
 
 
 どうも気になることが多くて、過日紹介した『問題な日本語』(北原保雄編、大修館書店、2004.12)を再読しました。
 『明鏡国語辞典』の編者と編集委員5人が執筆者であることから、辞書の舞台裏が見えないか、との期待もあり精読しました。バラエティに富んだ興味深い項目が選定されており、おもしろい読み物となっていることは確かです。しかし、どうも説明の歯切れが悪いのです。

 日々変化することばを対象とするので、揺れ動くものを明快に説明するのは至難の技です。専門家として、研究者として、変動することばの正誤を判定するのは難しいことでしょう。その苦渋が、説明のそこかしこに認められました。

 気になったことを、いくつか列記したいと思います。

 「ふいんき/ふんいき」の項目に、おおよそ次のような説明があります(60頁)。
 

・「雰」を「ふ」と誤読し、「囲」を「因」と混同したために「ふいんき」と読んだ。
・もともと「雰囲気」は難しい日本語であった。
・「ふいんき」が漢字に還元されることなく使われている。

 
 この説明には、ことばを漢字の側からだけで考えていることと、関西をはじめとする東京以外の地域ではその土地特有の言葉が使われていることなどが、まったくと言っていいほど考慮されていないように思われます。

 私が子供の頃にも、大阪では多くの人が「ふいんき」と言っていました。関西は、ことばの響きを大切にする地域なのです。そして、ことばで楽しく遊ぶ環境があります。
 本書の説明には、そうした視線が欠落した説明になっていないでしょうか。

 「二個上の先輩」という項目も、関西では普通に使っていることばなのです。しかし、その点にはまったく触れずに、項目末尾のポイントで、「年齢を「個」で数えるのは正しい用法ではありません。」(104頁)とまとめているのです。「正しい用法」でないとされることばを実際に使っている者にとっては、そう言われても困惑するだけです。
 事実を客観的に見つめて、その実態を踏まえて今後のことばのあり方を提言するはずの学問が、現実を指導する力を発揮しないとも限りません。日本全国の人々に、関東の言葉遣いに合わせろ、という趣旨で本書が編まれているわけではないようです。しかしそれでも、一見慎重そうな姿勢の裏に、研究者特有の傲慢さが透けて見えます。

 本書の真ん中ほどに、『明鏡国語辞典』編集部のアンケート結果を表で示しておいて、ことばのルールの乱れや揺れを説明しています。しかし、これは日本のどの地域を対象にしたアンケートなのか、明記されていません。おそらく、関西は全く入っていないアンケート結果なのでしょう。
 説明に窮する実態の例示は、何かと面倒なことになるからでしょうか。

 もちろん、ことばの実体を考えるにあたって、東京中心にならないような配慮は窺えます。「現代共通語では」(121頁)などの表現があります。しかし、やはり標準語というものの存在を認める姿勢が後半になってくると顕著に見られるようになります。「古風で西日本的な言い方」(119頁)、「これは標準的ではない。」(128頁)という表現などが出てきます。
 東京方言が標準ではなくて、全国の共通語に近いものとして東京方言を位置づけるべきだ、と私は思っています。「標準」という物言いは、それ以外を「標準以下」とするからです。標準語という物言いには、差別的な意識が潜んでいると思います。

 本書の説明文に違和感を感じる箇所は、その他いくつもあります。もう一例だけを引きましょう。
 

「とんでもありません」とか「とんでもございません」のような言い方は、田辺聖子や池波正太郎、北杜夫、三浦綾子、夏樹静子など、そうそうたる面々も使われています。(112頁)

 
 ここで「使われています。」の使われ方には、作家に対する尊敬の意味を込めてのものと思われます。しかし、この用法に私は馴染めません。これは悪文というべきものに類すると思います。

 あまり貶しすぎるのもいけませんので、学校の先生らしいまとめの文章も紹介しておきます。
 

「言う」を「ゆう」と書くのは間違いだと決めつける前に、「言う」が「現代仮名遣い」で、どういう理由で「いう」と書くようになったかを、若い人たちにきちんと説明してやることもまた大切なことだと思われます。背景を正しく理解することによって、正しい運用のしかたもまたしっかりと身についてくるのではないでしょうか。(142頁)

 
 『問題な日本語』における「問題な点」を指摘したままでは気が引けます。
 皮肉なことですが、本書におけるマンガによる例示は、大変おもしろいものとなっています。問題点が分かりやすく、現代日本語の「問題な点」をストレートに絵で描いていると思います。

 もっとも、日本語のことを考える本で、日本語による説明文ではなくて、説明を補足する役割を持たされた絵の方がテーマを炙り出す上で秀逸だ、というのも、これからの日本語を考える上では示唆的です。
 本書は、現代日本語の問題点を考える入り口へと導く書として、大変意義のある本となっているのではないでしょうか。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
posted by genjiito at 23:52| Comment(0) | ■読書雑記

2011年01月05日

【復元】読書雑記(28)「よろしかったでしょうか」はどこが変?

 一時、この「よろしかったでしょうか」という言葉が問題になりました。
 その後は下火になったようです。しかし、今でもレストランや食堂などで、この言葉を耳にすることがあります。

 社員や店員の教育が行き届いているところでは、「よろしかったでしょうか」はほとんど使われなくなりました。今でもこれを使う人がいる店は、言葉遣いに無頓着な、店員の指導が徹底していない、自由を履き違えた放任のお店に多いようです。経営者の怠慢の為せる態、と言えなくもないのです。所詮、それだけの店なのだ、と思うことにしています。

 若者たちも、説明されれば理解して使わなくなるのです。説明しないで放ったらかしにしていると、よくわからないままに使っているようです。これは、個人の問題である以前に、周りの配慮が関係しているものです。

(※本記事は、平成19年3月にプロバイダのサーバーが突然クラッシュしたために消失したブログの復元です。)
 
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2005年1月1日公開分

副題「年頭にあたって、まずは日本語の使い方について」
 
 
 2005年になりました。
 平群の里は快晴の元旦です。
 屋根からは、昨日来の雪が溶けだして、ドサッと軒下に積もります。
 新年早々のメールはトルコのチャナッカレから、続いてイギリスのケンブリッジ、そして中国の北京からのものでした。
 今年はどんな1年になるのか、暦が改まったばかりなのに、今から楽しみです。

 さて、大晦日の夜、実際には10時間ほど前ですが、どうしても気になることがあり、仲間の言語学者O氏にメールを出しました。旧年師走の新刊である『問題な日本語』(北原保雄編、大修館書店、2004.12)を読んでいて、どうしても納得できないことがあったからです。
 
 
 
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 それは、「よろしかったでしょうか」という表現についての編者北原氏の解説です。

 以前、O氏からこの用法の問題点について、明解な説明を聞いたことがありました。その時、なるほど、と得心しました。しかし、今回北原氏の文章を読んで、何か説明が、ピントがズレているように思えたのです。

 3頁ほどの説明の後に、「ポイント」欄で以下のようにまとめてあります。
 

し終わった注文について「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と言うのは、〈過去のことについての現在における評価〉を表す表現として理解できます。(38頁)

 
 これは、この設問の説明としては不十分なように思われます。O氏が説明してくれた時には、もっと疑問に対してストレートに答える言い方だったように思ったのです。

 ということで、もう一度この用法について説明してもらえないかと、メールを、それも大晦日の夜中に、O氏に送ったのです。北原氏の説明では、これは痒いところに手が届いていないと思うのです。何か喉元に引っ掛かりを感じたままで新年を迎えるのが気になり、こんなことを問うことになったしだいです。

 O氏からは、すぐに折り返し返事がありました。この早さが快感です。返事がないときは、O氏が家族と海外に行っている時です。

 返信によると、その本をまだ読んでいないので「何とも言えませんが」と前置きした上で、上記引用の説明は変だと思う、ということでした。そのメールを少し引きます。
 
 

し終わった直後であれば、「確認の「た」」を使わず、「ご注文は以上でよろしいでしょうか」となると思います。
 ウェイトレスがいったん厨房なりなんなりに下がり、そこで、「あれ!? 注文はこれでよかったっけ?」と気になって客席に戻り、客に先ほどの注文を確認する際には、「よろしかったでしょうか」と「確認の「た」」を使うことになる、というのが、これまでの用法だと思います。それこそが〈過去のことについての現在における評価〉であり、最初の時点では、注文は過去のことになっていません。「以上でよろしいかよろしくないか、よろしくなければ続きの注文を」という含意があるわけですから、現在のことについての質問です。
 あまり考えにくいのですが、最初の時点で、注文が「以上でよろしくない」場合、「よろしかったでしょうか」と聞かれると、素直に答えれば「よろしくなかった」としか答えようがないわけで、どう考えても変ですね。

 
 
 この説明なら、どこに問題があるのかが明瞭です。

 日本語の使い方については、海外に行くことが多くなってから、これまで以上に、ますます自分自身の問題となっています。
 アレッ? と思った時に、即刻解決なり納得しておかないと、いつまでも放置したままになります。些細なことではあります。しかし、こんなことも、気付いたらこうしてメモを残していきたいと思っています。

 そうだ、今年の私の心構えは、「気付いたらメモ」ということにしよう。
 
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
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2010年12月07日

読書雑記(27)水上勉『湖の琴』

 学生時代に買った文庫本で、読まないままに眠っていた本が見つかりました。
 ちようど最近は、琵琶湖岸の観音さまを巡拝し散策するプランを練っているところなので、興味の赴くままに読みました。
 
 
 
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 水上勉の『湖の琴』は、昭和40年7月23日から翌41年6月8日まで、読売新聞(夕刊)に273回にわたり連載されたものです。
 昭和46年5月から、井上靖の『星と祭』の連載が朝日新聞で開始されています。おそらく『星と祭』を読んで、その関連からこの『湖の琴』に興味をもって購入したものと思われます。この角川文庫の奥付が、「昭和43年10月・初版/昭和46年7月・8版」となっているので、時期的にも符合します。

 さて、『湖の琴』では、湖北の渡岸寺の観音さまが素直な感想で活き活きと語られています。井上靖と比べたらおもしろいと思いました。
 女主人公であるさくの美しさと渡岸寺の観音さまが結び付きます。さくは理想的な女性として描かれていることから、観音さまの生まれ変わりとして語られていきます。

 お盆の行事などが詳しく語られ、日本の伝統的な文化が物語の背景で展開を支えています。
 また、舞台が京都に移ると、我が家の周辺が出てきて嬉しくなりました。大谷大学のそばの上総町は、いつも通るところです。四条通りも馴染みの場所です。
 水上勉は相国寺の塔頭である瑞春院に、小僧として修行をしていました。同志社大学の北側に、今でもあります。
 自分が日常的に通るところや、よく知っている場所が物語の舞台に出てくると、途端に話が立体的に展開するからおもしろいものです。登場人物が、頭の中を自由自在に歩き回るのです。そして、今と比べて楽しんだりもできます。このことは、作品を理解するというよりも、楽しむためにも大切な要素のように思いました。

 物語は後半に急展開します。ラストの余呉湖の月がみごとです。美しい世界が紡ぎ出されています。
 読者に感動を与える作者の筆力を感じました。
 さくと宇吉は、最後には結ばれて幸せを手にすると共に、読者は澄みきった純粋な愛情に浸ることができます。いい小説を読むことができました。
 余呉湖へ行きたくなりました。

 『湖の琴』は、琵琶湖を背景にした美しい物語です。井上靖の『星と祭』は、これを意識しているのではないか、と思われてきました。
 賤ヶ岳を含めて、この湖北地方の歴史と文化に、井上靖はかねてより興味を持ち、ここを舞台にした作品もいくつか書いています。
 琵琶湖の底に眠る少女と十一面観音、それにヒマラヤで満月を観るという話を結合させると、『星と祭』の大枠ができるように思えます。まだ、ほんの思いつきではありますが……【5】

 なお、『湖の琴』は映画化されていました。
 まだ観ていないので無責任に感想を記せば、山岡久乃が鳥居まつ枝役というのが意外です。原作を読んでの印象は、もっと個性的な設定だというイメージでしたので。また、男性陣はもっとひ弱そうなメンバーを連想していました。
 機会を得て、観なくてはいけません。

映画製作年︰1966年
配給︰東映
監督︰田坂具隆
 佐久間良子(栂尾さく)
 中村嘉葎雄(松宮宇吉)
 二代目中村鴈治郎(桐屋紋左衛門)
 山岡久乃(鳥居まつ枝)
 千秋実(百瀬喜太夫)
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2010年12月06日

読書雑記(26)高田郁『出世花』

 本書は、第2回小説NON短編時代小説賞の奨励賞を受賞した「出世花」を土台にして、それに続く3編を書き下ろしの連作として1冊にまとめたものです。
 特異な世界を生きる少女が、純粋に爽やかに成長する姿を描いています。江戸時代という社会の底から見た人間模様が、理と情を巧みに綯い交ぜにした物語として、読者の胸に迫るところが読みどころです。

 なお、主人公が遺体を洗い清める場面を理解する上で、表紙の絵はイメージを膨らませるのに参考になります。これは、京都瑞泉寺副住職の中川学氏が描かれたものだそうです。
 
 
 
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■「出世花」
 江戸時代、1800年頃、青梅街道沿いの落合が舞台となっています。
 人物設定とドラマの盛り上げ方が上手いと思いました。次から次へと、読者を飽きさせることなく話が展開します。特に、少女の心の揺れ動きを描写する筆が活きています。しかも、その少女が屍を洗う湯灌場の仕事をしているという、非日常的な世界が読者を捉えて離しません。これまで知らなかったこと、意外なことの連続の中に女主人公のみならず我々も身を置き、社会の仕組みや人の情の温かさに浸ることとなります。【4】


■「落合蛍」
 「おくりびと」ならぬ女納棺師の話でもあります。女主人公のお縁は、女検死官とでも言えばいいのでしょうか。多彩な役割をこなしていきます。
 この章は、とりたてて大きな展開もなく、抒情的に語られます。夏という季節の中で、自然が、人の心がみごとに描かれます。ジンワリと、お縁の眼を通して、人の世が、人の情が伝わってきます。
 ところが、一転して話が急展開します。それまでの話が伏線となり、驚愕の事態になるのです。そして、お縁は「やくそく」を果たすのです。蛍が印象的です。語りの巧みさに、思わず唸りました。【5】


■「偽り時雨」
 お寺で屍を洗って死者を冥土に送る仕事をするお縁が、時にはお上に協力して死体検死官になったりします。
 お縁が、何日も神田明神の、おみのの家にいるのが不自然に思えます。亡くなるのを待つ5日間になっているので。
 話の展開に少し無理があります。しかし、そこは筆の力で押し進んでいます。
 この作者にしては珍しく、最後の着地も決まっていません。【1】


■「見返り坂暮色」
 子が親を想う情が、後半にタップリと用意されています。人が生きていく背後にある事情というものが明かされます。
 屍を扱う者だからこそ見えるもの、感じるものが、三昧聖としてのお縁を通して伝わってきます。死者をきれいに洗って冥土へ送る立場の者だからこそ、人の情を掬い上げる視線から、深くものが見えてくることが描かれています。【5】
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2010年12月05日

読書雑記(25)高田郁『銀二貫』

 高田郁『銀二貫』(幻冬舎時代小説文庫、2010.8)は、2009年6月に幻冬舎から刊行されたものを文庫化したものです。別シリーズの『みをつくし料理帖』の大阪版と言えます。
 
 
 
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 さすが、高田郁の時代小説、と思わせます。

 この作品は、大阪を舞台として展開します。やわらかい大阪言葉が、話を温かく包みます。関西出身の作家だけあって、ごく自然な言葉遣いです。

 温かい蒸し羊羹ではじまります。
 そして、この羊羹が最後に、感動的に取り上げられます。
 開巻一番、仇討ちの描写が活き活きとしています。会話のテンポがいいのです。快調に読み進めました。

 「商人の矜持」は、気持ちが晴れやかになる、いい話です。誠意の大切さが伝わってきました。

 「約束」は、完成度の高いものです。話の盛り上げ方、人間の情、そして前向きな姿勢など、力強く語られています。
 
 「興起の時」の最後で、半兵衛がこう言います。


「なお、松吉。一里の道は一歩では行かれへん。けんど、一歩一歩、弛まんと歩き続けたら、必ず一里先に辿り着ける。お前はんは、もう歩き出したんや。転んだなら立ち上がったらええ。簡単に諦めたらあかんで。」(312頁)


 何か、私自身への励ましのことばのように聞こえてきました。こんな意味の人生応援歌がありました。一見、浪花節的です。しかし、ここまで読んできて最後のこのことばは、読者をも勇気づけるものとなっています。

 最終章の話の閉じ方もうまいですね。
 盛り上げて、情感タップリに、そして静かに幕を下ろします。
 いい話を聞いた、という読後感を残します。【5】
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2010年12月04日

読書雑記(24)高田郁『今朝の春 みをつくし料理帖』

 本作は、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2010年9月に刊行された、『みをつくし料理帖』シリーズの書き下ろし第4作品です。
 次作が待ち望まれます。
 
 
 
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■「花嫁御寮−ははきぎ飯」
 小松原の正体が判明します。回りくどかったように思えます。しかし、とにかくスッキリとしました。
 このことに話が集中したために、説明口調となり、膨らみがなくなってしまったように思えます。いつもの情味が少ないのが、物足りなさと寂しさを感じさせます。
 人の動きが変わるときの、中休みのような一章になっています。
 帚木というほうき草の実は緑色だとか。今のトンブリをめぐる話は、興味深く読みました。しかし、それまで。
 近づくと見えなくなる、という伝説の帚木のことを、もっと話に活用してほしいと思いました。『源氏物語』にも出てくる帚木なので、日本の伝統文化との絡みで、もっとおもしろくできたのではないでしょうか。【1】


■「友待つ雪−里の白雪」
 12年前の京阪で起こった大水のことを通して、澪と野江という2人の少女の生い立ちが、もの凄いスピードで描かれています。迫力があります。圧倒的な筆力で迫ってくることに、とにかく感心しました。
 澪を取り巻く人たちの、人情味溢れる行動も、読んでいて救われる想いを抱きました。【5】
 
■「寒紅−ひょっとこ温寿司」
 澪の周辺で起こる意外な出来事が語られます。突然の女の出現など、後半に緊張感が走ります。
 伊佐三のお百度参りが、話の展開の中にうまく溶け込んでいないように感じました。若い女も、話に馴染んでいません。話の構成が崩れてしまっているのが惜しまれます。親子の情に流されてしまったからでしょうか。【1】
 

■「今朝の春−寒鰆の昆布締め」
 登場人物の情け深い話で、作者は読者の目先を変えながら、ここまで繋ぎ止めて来ました。
 作者は、今度は料理で真っ向勝負の作品としています。
 料理が前面に出ると、この作者の話は輝きを増します。
 読み手の気持ちを明るくする、完成度の高い話に仕上がっています。【5】
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2010年12月02日

読書雑記(23)高田郁『想い雲 みをつくし料理帖』

 本作は、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2010年3月に刊行された、『みをつくし料理帖』シリーズの書き下ろし第3作品です。

 筆致はますます快調です。
 
 
 
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■「豊年星―『う』尽くし」
 人を信じるということが問われています。
 ドラマチックな展開を見せる後半を、瞬きもせずに読みました。
 どうやら、信じ続けることが、まだ意味を持っているような書きぶりです。人間の情をうまく捉まえた話になっています。【4】

 

■「想い雲―ふっくら鱧の葛叩き」
 小気味よく、リズミカルに話が展開します。食べ物を介して、楽しく読み進められます。ますます、文章に季節感が出てきました。眼を風物に転ずるタイミングも絶妙です。
 鱧の話は、大変参考になりました。鱧が大好きな私は、東京で見かけることがないので、今夏も京都でよく食べました。
 幼馴染みの野江と出会う場面は、まさに映像美というものをコトバで見せてくれます。読者に、希望を与える話で終わります。【4】
 

■「花一輪―ふわり菊花雪」
 噂と濡れ衣で語られるこの章は、読んでいてあまり楽しくありませんでした。手法としてはいいと思います。しかし、これまでの明るさを楽しんでいたので、出来ることなら避けてほしい話題でした。話に、意外性を求めるようになっているのは、シリーズ化のための変化として認めざるをえないと思いますが……
 月をうまく使っています。季節感が伝わってきます。その半面、作者お得意の人の情が伝わりにくくなったようにも感じました。【2】

 
■「初雁―こんがり焼き柿」
 弟の健坊を探し求めるふきが活写されています。そして、それを取り巻く澪たちも、情け深い動きをします。人の気持ちがよく表現されています。
 人が生きる厳しさも、健坊を通して語られます。情に流されてはいけないことを。この健坊をもとの家に戻したことは、この話の一番できているところでしょう。
 作者は、人間をよく見ています。確かな眼が、背景にあることを感じます。【4】
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2010年11月26日

読書雑記(22)高田郁『花散らしの雨 みをつくし料理帖』

 本作は、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2009年10月に刊行された、『みをつくし料理帖』シリーズの書き下ろし第2作品です。
 快調に語られていきます。
 
 
 
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■「俎板橋から―ほろにが蕗ご飯」 13歳の少女ふきが、お手伝いとして澪の店に来ます。このふきが、愛らしく描かれています。作者の込めた想いが伝わってきます。
 店は、新しく九段下に開きます。私にとっては、病院通いをしていた道です。上京後も、このあたりを歩くので、ますます親近感をもって読み進めました。
 この章は、春の食材を通して、日本らしい季節感が溢れています。
 ツクシの袴を外す場面は、奈良の平群に住んでいた頃、母が山道で摘んできたツクシを、指を真っ黒にして剥いていた姿を想い出しました。
 種市が「ううむ」(43頁)と呻ります。次の頁で、種市は料理の出来の良さに感心して唸ります。60頁でも、種市が唸ります。井上靖の小説では、こうして呻る人物は舞台回しを請け負っていることが多いのですが……。高田作品ではどうなのでしょうか。この表現がある場面を集めてみたくなりました。
 ドラマの結末は心憎いほどです。読者の心を捕まえるのがうまい、と思いました。【5】
 
■「花散らしの雨―こぼれ梅」 清右衛門が呻きます(98頁)。澪を手助けする又次は唸ります(105頁)。どうやら、呻く男と唸る男がおもしろそうです。
 作者は毎回、読者がジーンと来るような場面を用意しています。
 幼馴染みとの熱い情の世界が、淡々と紡ぎ出されていきます。そして、ラストに指で狐の形を作って振るシーン。
 情感溢れる話を、上方の料理語りとともに、また聞くことが出来ました。【5】
 
■「一粒符―なめらか葛饅頭」 はしかという病気を中に立てて、親子の情愛を描きます。
 源斉が唸ります(107頁)。人と人との仲を取り持つ、食べ物の役割が伝わってきます。
 病気という深刻な内容のせいか、これまでに増して暗さが勝った話になりました。【3】
 
■「銀菊―忍び瓜」 話を大いに楽しんだ後、気持ちを静めるかのように、穏やかに話が展開します。
 中で、あまりの美味しさに、客が「うっ」と唸ります(231頁)。澪の想い人である小松原も、あまりの美味しさに「ううむ」と唸ります(284頁)。
 やがて大川の花火で、話は華やかに終わります。そして、それが澪の恋の始まりとなるのでした。【2】
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2010年11月25日

読書雑記(21)高田郁『八朔の雪 みをつくし料理帖』

 これは、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2009年5月に刊行された、高田郁の書き下ろし作品です。『みをつくし料理帖』は、これを第1巻として、シリーズとして刊行されます。
 
 
 
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■「狐のご祝儀 −ぴりから鰹田麩」
 料理に打ち込む蕎麦屋の奉公人の澪は、冷静に料理を見つめ、その出来に情熱を傾ける。
 しかし、その生きざまの背景には、ついホロリとする物語が見え隠れするので。その加減がうまく語られています。
 文章がとても読みやすく、大阪弁が適度に雰囲気を作っています。東西の味の文化を教えてくれるところが楽しめます。
 さがり眉の澪と小松原という謎の男の取り合わせが、今後の展開を楽しみにさせています。
 久しぶりに、歯切れのいい文章と情の深みが、程よい読後感を残しました。
 巻末の料理帖が、また心にくいものになっています。読んだ後に2度おいしい想いをさせてもらえます。【5】
 
■「八朔の雪−ひんやり心太」
 澪の生い立ちが明らかにされます。
 大坂から江戸に来るまでの様子が、こと細かに、わかりやすく、そして情感たっぷりに語られます。
 登場人物に、悪人がいません。善人たちの情が通う話になっています。泣けるシーンが多いのは、かえって人情物語らしいサービスでしょう。
 最後の、心太に砂糖をかけるシーンは、絵になる場面が多い本作の中でも、月を背景にするだけに出色の出来映えです。【4】
 
■「初星 とろとろ茶碗蒸し」
 シリーズの難しさをどうするのかと注目しました。すると、第三作にして大転換。蕎麦屋を廃業にして、澪の店にするのです。大胆です。
 登場人物も、ますます個性が見えてきました。好調です。これで、物語は順調に続いていきます。
 この章でも、感動的な場面がいくつかあります。ご寮さんが澪のために、自分を犠牲にするくだりは圧巻です。人間の情を、タップリと見せてくれます。
 最後は、たっぷりと幸せな気分にさせてくれるなど、何とも心憎い話になっています。【5】
 
■「夜半の梅 ほっこり酒粕汁」
 これまで、いい脇役だったご寮さんが、情の中心に座ります。人の情が描かれます。盛り上げ方もうまいと思いました。
 突然の火事のシーンが、読者を緊張させます。そして、お店をなくした無念さが、しみじみと伝わってきます。
 澪は、幼馴染みのことを知ります。過去が美しく語られます。そして、挫ける心を奮い立たせて、ひたすら前へ向かって進んでいくのです。
 最後の友への言葉も、気が利いています。
 それにしても、小松原とは誰なのか。次が読みたくなります。【5】
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2010年11月24日

読書雑記(20)藤本孝一『本を千年つたえる』

 『本を千年つたえる−冷泉家蔵書の文化史−』(藤本孝一、朝日選書、2010.10)は、内容が類推しやすい明快な書名です。
 
 
 
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 本書からは、一人でも多くの人に写本のことをわかってほしい、という願いがひしひしと伝わって来ます。写本がどのようにして伝えられて来たのか、どのようにして書写されて来たのか、ということを、本というモノを通して丁寧に、そして興味深く語っておられます。
 それらが、冷泉家に対する満ち溢れる愛情へとつながっていきます。冷泉家が日本の古典文化に果たした役割が、具体的な事例の中から浮き彫りにされています。

 多分に謎解きめいています。読者が推理に参加できるように、提示される資料と情報は多岐にわたります。ここで提示されている藤本先生の解答以外にも、また別の解があるかもしれません。そのためには、たくさんの原本を見るという、実感実証を強いられます。しかし、それも楽しいことでしょう。

 第二章では、写本に書かれている奥書から類推する楽しさを、教えてもらえます。
 少し気になったのは、人物系図をもっと前に出してほしかったことです。たくさんの人名が出てくるので、えーっとこの人は、と思いながら読んでいると、95頁に人物系図が出て来ます。もっと簡単なものでいいので、為家を中心にして全体を見渡す略系図が第一章の最初にでもあったら、と思いました。

 藤本先生からは、いつもたくさんのことを教えていただいています。
 その際、口癖のようにおっしゃるのは、わからないことは聞いてほしい、ということです。自分にとっては当たり前のことは、聞かれないと説明しないので、後でどうして言ってくれなかったのだ、と言われても困るのだ、ということです。

 先生は、たくさんのことをご存じです。それだけ、豊富な調査体験があるのです。しかし、そのすべてを語るのには、あまりにも多岐にわたり、またこれはみんな知っているだろうとの判断から省略なさることが多いのです。
 そんなことがあるので、先生のお話を伺うときは、いつも時間を忘れて話し込んでしまいます。

 本書を読みながら、そこはもっと語ってください、と言いたくなるところがたくさんありました。
 全体的に、国文学関係者にわかってほしい、という気持ちが随所に見受けられます。ご自身にははっきりと見えているものを、どうしてわかってもらおうか、という苦しみが行間から立ち上ります。
 阿仏尼の行などは、特にそうです。
 お書きになった論文を読めばいいのですが、先生のご専門が歴史学なので、なかなか接する機会がないのです。本書の場合、第2章から第3章にかけて、つながりがわかりにくいと思いました。
 ただし、二条家から冷泉家に古典籍が移っていくさまは、説得力のあるところです。

 藤本先生は、かねてより「写本学」を提唱しておられます。


書写した時代と親本の姿・書写方法、流布の契機や修理時期と回数、これらを総合して、書写されてから現代にいたる伝来過程の歴史を考察する(24頁)


というものです。

 藤本先生が目指される写本学については、若い方々を意識しながら、さらにたくさんのことを語ってもらいたいと思います。

 最後に、誤解を招きそうな文言があるので、非礼を顧みずに記しておきます。
 「おわりに」で、次のように述べておられます。


定家は、たとえば『源氏物語』を例にとると、作者の紫式部からは約二百年のちの人物である。二百年の間に、意味のわからない文章も出てきて、一般の読者には難解になっていた。定家は学者の立場で『源氏物語』の文章について鎌倉時代の現代語訳をおこなった。その成果が「青表紙本」といわれる定家写本である。『源氏物語』各巻の巻末に語彙を注釈した「奥入」を付けるなど、定家の解釈があったからこそ、古代文学の意味を理解することができ、訳されることにより流布し、現代にまで伝えられた。近代においても、与謝野晶子の現代語訳によって『源氏物語』が一般に流布したのと事情が似ている。しかし一方で、巨大な存在である定家の解釈が壁になり、現代の私たちをして『源氏物語』の原本に近づけない一因になっていると、筆者は考えている。(206頁)


 ここで、定家が現代語訳をした、ということと、与謝野晶子の現代語訳の事情とが取り上げられています。ここでの「現代語訳」について、一般の方々は「あれっ」と思われることでしょう。藤本先生の理解による「現代語訳」ということは、さらに説明が必要なところです。直接このことに関して伺ったことがありますが、本文の整定ということを意識しての「現代語訳」というご理解であったかと思います。
 このことは、本書のテーマとは異なるので、話をもどします。

 本書の末尾で、冷泉家時雨亭叢書は現代人に対する古今伝授だとおっしゃいます。まさに、我々に貴重な古典籍が解放され伝授されたことを、本書を通して実感できました。さて、こうした資料をどう活用するかが、次の世代に残されたわけです。それこそ、これからの若手研究者に期待したい、文献による実証的な研究のすすめです。

 活字印刷による校訂本文や資料だけを読んで古典を考えるのではなく、写真版でもいいので原典を伝えようとしている古典籍資料を確認する中で、新しいモノの見方が多く提示されることが待ち望まれます。そのためにも、この冷泉家の古典籍をめぐる本書は、格好の「写本学」の入門書となっています。
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2010年06月17日

読書雑記(19)『おいしいコーヒーの経済論』

 「フェア・トレード」ラベルというものを、京都大学の北向かいの通りにあった雑貨のお店で知りました。
 
 
 
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 そして、店内に置いてあった『おいしいコーヒーの経済論 「キリマンジャロ」の苦い現実』(辻村英之、太田出版、2009年6月15日)を手にして、読んでみたくなりました。畑違いながら、コーヒーとフェア・トレードに関する本です。
 まったく専門外の本にもかかわらず、興味深く読めました。

 「貧困者の生産物を途上国から輸入して、生産者の貧困緩和に貢献するフェア・トレード(公正貿易)」の中でも、コーヒーは代表的なフェア・トレード商品となっているそうです。

 以下、私の注意を惹いた箇所を抜き出しておきます。


日本で「キリマンジャロ」と表示できるのは、タンザニア産水洗式(マイルド)アラビカ種のみである(72頁)

一杯四五〇円の「キリマンジャロ」を飲んでも、二・〇円が生産者の取り分となっているに過ぎない。(105頁)

できる限り具体的に、不利な状況にある生産者たちの生計・福祉改善の内容を表示しないと、共生の価値観を持つ消費者にとっても、魅力が半減すると考える。キリスト教に基づく慈善活動の一環としてフェア・トレード商品の購入が進む西欧とは異なり、特に日本ではそれが重要だろう。(134頁)

資金に余裕がある者には、困難に直面している者を支援する責務がある。(203頁)

「生産者支援のための購入」について、消費者からの一方的な善意の押し付けという批判があるが、著者は「産消共生」、つまり消費者の毎日の食卓にとって欠かせないおいしいコーヒーを供給(支援)してくれている生産者に対して、相互支援を行うことだと理解している。(154頁、注6)

最高品質のコーヒーを低価格で享受できる、私たち消費者にとってこの上なく恵まれた状況の裏側には、子供を中退・休学させざるを得ない、生産者にとって最悪の状況があった。(198頁)

本書は、特に制度派経済学の考え方の下で、コーヒーのおいしさを増減させる情報を提供した。「おいしいコーヒーの経済論」というタイトルを付したゆえんである。(206頁)




 確かに、日本には慈善とか喜捨という文化が共有されていないので、本書のテーマはスムーズには理解されないと思われます。しかし、発想の転換次第では可能なことです。今後の展開が楽しみです。そして、私も実践に身を入れようと思うようになりました。

 まずは、「フェアトレード・ラベル・ジャパン」のホームページを見ながら、理解と協力を深めようと思います。
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2010年04月23日

読書雑記(18)天野節子『目線』

 忙がしい時に限って、無性に直面する仕事と関係のない本が読みたくなります。
 根っからの天の邪鬼です。

 銀座四丁目の、三越の向かいというより、アップルストアの西隣りの教文館という本屋さんで、この本を入手しました。この本屋さんの店員の方は、本の知識が豊富なのです。
 お店に行ったときに、突然の思いつきでしたが、女性のミステリーで、しかもあまり著名でない、できたら若手の作品はないですか、と聞いてみました。すると、一人の方が書棚に行き、いろいろと探してくださいました。棚の本を取り出しては、これはちがうな、と、しばらくその繰り返しでした。そして、5分以上してからでしょうか、『目線』(天野節子、幻冬舎、2009年6月30日発行)という本を手にして、作者は若くないですが、と言いながら見せてくださいました。
 著者の紹介を見ると、確かに62歳の大型新人としてデビューなさった方です。
 お店の方は、女性が書いたミステリーは、どうしたわけか少ないのです、とのことでした。
 女流ミステリー作家として、数人の名前は私もあげられます。しかし、いずれも私が興味を持って読んだものは、大したことのないものばかりでした。
 恋愛小説もそうですが、どうも私は女性の作家の作品は苦手です。本当に嘘くさいのです。実生活では嘘が得意な女性も、文字で綴る作品というスタイルでは、うまく嘘がつけないのでしょうか。
 私は、男と女は、人種が違うというのが持論です。その意味では、口先ではなくて文字での嘘のつき方も、人種の違いから来る上手い下手というレベルで考えていいのかもしれません。

 それはともかく、本書は殺人をめぐる推理を楽しめる、非常によくできた作品でした。一気に読みました。

 これは歯切れがよく、テンポも心地よいことばで語られます。
 細かく言えば、「平田小枝子は堂島家の三女、あかりの友人である。」(18頁)という表現は、まぎらわしい言い方です。正確に書けば、「平田小枝子は、堂島家の三女あかりの友人である。」となるはずです。読点の打ち方の問題です。
 また、「父兄」という語が2度出てきます(64頁、191頁)。これは、明らかに差別的な用語です。作者の年齢からすると、このような表現に親しんでいたための、ケアレスミスというものでしょうか。
 このように、多少作文上の難はありますが、とにかく快調に話は進みます。

 登場人物の一人が、黒アゲハチョウのブローチをしています。本作の最初に、プロローグで蝶のことが印象的に語られていたので、421頁の本を読み始めて30頁も進まない内に、この作品の謎に大きなヒントをもらいました。事件の核心となる人物がわかったのです。
 また、70頁も読まない内に、「○○はやるべきことがあったので、机のそばに行き、その用事を済ませた。」とあり、これで事件の犯人がわかりました。なぜ、作者はこんなに早く、犯人のアリバイ工作を示す、不用意な文を記したのでしょうか。これは、ない方がいいと思います。犯人を推測させるメッセージが、ミステリとしてはあまりにも早すぎます。その意味では、犯人捜しの興味は、この時点で失われました。もったいないことをしました。また、犯人は、いろいろな局面で動きすぎです。というよりも、作者はこの犯人を描きすぎです。

 舞台となる家の当主である堂島新之助の死後、雨をめぐる論議で少し話が停滞しそうになったすぐ後に、第2、第3の殺人事件が起きます。俄然、話が息を吹き返し、ますますおもしろくなります。作者のうまさを感じました。

 犯人を早々に読者に気付かせるようにしながらも、それをうまく誤魔化しながら物語は進んでいきます。 読んでいる私も、何度か犯人は違うのかな、と思いながらも、やはりあの人だ、と確信しながら読みました。

 犯人がわかってから、唐突に車椅子のことが出てきます。そういえば、そういうことになるな、と納得しながら、なぜここまで引っ張ってきてから車椅子を持ち出したのだろう、と訝しさを感じました。100センチの世界のことも。
 それまでには、このことは語られなかったと思います。私は、そのことがそれまでに語られていなかったように思います。再読すれば確認出来るのでしょうが、今は読み終わったすぐの感想です。もし私が読み過ごしていなかったのであれば、突然犯人のイメージを修正することになります。そうであれば、フェアな仕掛けではありません。また、『目線』という書名との整合性にも関わります。

 そのような不満が残るにしても、この作品は力の入った仕上がりです。楽しめます。お薦めします。
 ただし、帯に記された「驚愕のラストに隠された深い哀しみに、あたなは必ず涙する。」というのは、私の場合は違いました。「涙する」ほどには、この小説は人間を描けていなかったからです。
 そうであっても、この作者については今後とも気にかけたいと思っています。【4】
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2010年04月21日

【復元】吉村達也『回転寿司殺人事件』

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2004年06月26日「ミクシィ」掲載分より

 最近、シャーロックホームズに夢中です。新潮文庫の十冊の内、ただいま第9冊目の『シャーロックホームズ最後の挨拶』を快調に読書中です。毎週新幹線に乗る楽しみの一つとなっています。

 今年の春先には、『松本清張傑作総集 1・2』(新潮社)の全2000ページを一気に読みました。そのすべてが、これまでに何度か読んだ作品ばかりでした。しかし、前回の日記にあるように、昨秋より保険会社を相手取って個人で裁判をしていた関係もあり、プロの裁判官や弁護士に立ち向かう上での論理展開の勉強を推理物で鍛えようという意図もあり、こうした本を真剣に読んでいたのです。

 さて、昨日は『回転寿司殺人事件』という本を読みました。作者は吉村達也。この人のものは、今回初めて読みました。たくさん作品を書いておられる方のようです。回転寿司大好き人間としては、読んでおくべきかと思って一読。しかし、とても人に勧められる本ではありませんでした。ひどいものでした。
 文章が軽い上に論理的ではないのです。それでいて、小説とは縁遠く、いわゆる刑事ものの衣装をまとっています。こんな本も出版されているのですね。知りませんでした。
 人の仕事を貶すのは好きではないので、この本で私が好意的にチェックしたところを紹介しましょう。「話す」と「語る」の違いに関する箇所です。

「たとえば将来の夢とか、愛の告白とか、そういったものって、相手に話しかけるばかりじゃなくて、独り言の部分もあって初めて本心がぜんぶ語れると思う。だって、独り言のほうが飾らなくてすむじゃない。恥ずかしいことも言えるじゃない」
 翠は、和久井の目を見ずにきいた。
「わかる? 向かい合っていたら、話すことはできても、語ることはできない。でも横に並んでいたら、話すことだけじゃなくて、語ることもできる」(講談社文庫、318頁)



 カウンターに二人で並んで話し、語る様子を思い浮かべてみると、その違いがよくわかる例だと感心しました。収穫はたったこれだけの本でした。しかし、物語について考えることの多い私には、いいヒントをもらいました。

********************** 以上、復元掲載 **********************
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2010年02月25日

読書雑記(17)井上ひさし『合牢者』

 今、立川であった送別会の二次会を中座して、立川駅前発の夜行バスに乗り込んだところです。
 明日の朝から始まる関西での会合に出席するために、急き立てられるように呑んで乗り込みました。

 今夜は、私が担当している「国文学論文目録データベース」の実働部隊の世話役だった補佐員Aさんを送る会でした。
 このデータベースは、大正元年から平成19年までに発表された日本文学・語学・教育に関する研究論文463,000件を、さまざまな視点から検索できるものです。
 昨年の実績では、年間に150万件ものアクセスがありました。
 アクセスしたユニークユーザー数は、一年間に7万人以上です。
 地味なデータベースです。知的好奇心がなければ、およそ縁遠い存在です。
 しかし、日本文学や語学の論文を書く人は、このデータベースを利用しないと何も書けない、と言ってもいいほどのデータベースとなっています。
 これだけ支持されているのは、的確なキーワードが各論文に付けられているため、論題だけではわからない論文が効果的にヒットするからでしょう。その背景には、日本文学や語学を専門的に研究している大学院生やオーバードクターの方々が、丁寧に論文を一編ずつ読んで分類し、詳細なキーワードを付けていることがあります。国文学研究資料館が提供している「国文学論文目録データベース」は、単なる論文名や執筆者名や掲載誌名などを羅列した、よくある一覧型のデータベースではないのです。
 年々、利用者からは、高い評価をいただいています。それなのに、予算が毎年削られていて、優秀な読み手であるアルバイトの方々の確保が厳しくなってきています。
 このような、手間暇かけて丁寧に作り上げているデータベースがあることを、もっと幅広く宣伝していこうと思っています。

 出席していた方の中に、近代文学で修士論文を書いている人がいました。話を聞いているうちに、ちょうど私が読んだばかりの井上ひさし著『合牢者』に収録されている「海老茶式部の母」も参考になるのでは、と思い至りました。先ほどの席では、書名をメモした紙を渡しただけでした。しかし、手控えの文章がいま手元にあるので、夜行バスの中からですが、参考までに iPhone からアップしましょう。
 
 
井上ひさし著『合牢者』(昭和50年3月、文藝春秋)

■「合牢者」
 だんだん話がおもしろくなります。
 ただし、最後の着地で、小説が持つ意義に言及したところは、この作品の完成度を下げたと思います。
 友情か出世か、という問いかけに、理屈で答えようとしています。物語の緊張感が崩壊したように感じました。【2】
 
初出誌:「合牢者」オール讀物 昭和49年3月号
 
 
■「君が代は」
 作者の「君」の解釈を知りたいと思いました。【1】
 
初出誌:「君が代は」オール讀物 昭和49年7月号
 
 
■「帯勲車夫」
 「国家との一体感は仕掛けなければ生まれない。」(155頁)と陸奥宗光に言わせているところが印象的でした。【4】
 
初出誌:「帯勲車夫」オール讀物 昭和49年11月号
 
 
■「海老茶式部の母」
 下田歌子の実践女学校に関して、「渋谷常磐松には宮内省経営の皇室御料の乳牛牧場があった。」(179頁)とあります。
 このすぐそばの大学で学生時代を送った私は、明治の常磐松の風景が知りたくなりました。
 下田歌子の私生活が井上流に生き生きと語られていて、非常に興味深く読みました。ただし、結末が煮え切らなくて残念に思いました。
 また、下田歌子をこの視点から語ることについて、異論を持ちました。話はおもしろくできています。しかし、語られる主人公の環境と状況の設定に、大いに不満を持ったからです。
 さらなる工夫が……、という印象が残りました。【2】
 
初出誌:「海老茶式部の母」オール讀物 昭和50年1月号
 
 
■「自転車お玉」
 政治の道具となった女の、数奇なドラマです。表現の軽さとテーマの重さが、ほどよく塩梅されています。
 ただし、最後の医者の行動は、興ざめでした。舞台ならともかく、活字として残すなら、ここはもう一工夫が……。【4】 
 
初出誌:「自転車お玉」オール讀物 昭和50年3月号
 
 
 
◎全5編ともに、明治の文明開化を舞台にした物語です。時代の色がよく出ています。人間も、うまく描かれています。
 ただし私には、それぞれの話の綴じ目がスッキリしない思いが残りました。
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2009年12月23日

読書雑記(16)『朝青龍はなぜ強いのか?』

 先日、東京外国語大学の大学院生であるA君から、武蔵境の駅前で食事をしながらモンゴルの情報をたくさん聞く機会を得ました。
 新年早々にモンゴル語訳『源氏物語』の調査でモンゴルへ行くにあたり、当該書の「桐壺」巻だけでも日本語にしてもらうことが、その日の面談の目的でした。
 その話の中で、『朝青龍はなぜ強いのか?』(宮脇淳子、WAC)という本がモンゴルのことを知るのに最適な本であることを教えてもらい、早速読みました。
 
 
 
091222mongol
 
 
 
 本書は、モンゴルのことがよくわかります。ただし、題名が損をしていると思います。サブタイトルの「日本人のためのモンゴル学」というのが、本書の内容をストレートに表しています。いい本なのに、題名を見て通俗本として手にしない人が多いのではないでしょうか。
 私も、A君に紹介されなかったら、この題名を見ただけで読まなかったでしょう。

 本書は、第3章以降は、著者の専門ということもあるせいか、具体的でわかりやすい内容と展開になっています。しかし、それまでは、説明が中途半端で、話も飛び飛びで広がりすぎて、わかりにくいと感じました。申し訳ないのですが、前半の文章は、あまりうまくないのが残念です。いかにも、書くための文章が書かれています。

 以下、いくつか内容を引きます。

・「日本の平安朝に宮中でおこなわれたという射礼と騎射と相撲の三つの儀式は、現代モンゴルの祭典に見られる競馬と弓と相撲の三種の競技と、起源は同じであるといえる。」(33頁)

・「一九〇九年、初の常設相撲場となる「両国国技館」が落成した。つまりこのとき、相撲が、日本ではじめて国技となったわけである。
 しかし、現在の日本相撲協会は、一九二五年に設立された財団法人で、管轄官庁の文部科学省は、相撲を国技と認めていないのだ。だからいまでは、相撲は国技ではないのである。」(35頁)

・「自分独自の判断力があって運動能力に長けた男が、モンゴルの女から見ていい男なのだ。それでは、モンゴルでは、どういう女がいい女かというと、正確が強くてエネルギーのある女をモンゴル人は美人だという。」(65頁)

・「ウズベク人にサマルカンドを逐われて、アフガニスタンを経由しインド北部に入ったバーブルは、インドにムガール朝を建てた。「ムガール」というのは「モンゴル」をペルシア風に発音したことばである。
 北インドの標準語をウルドゥー語というが、ウルドゥーというのは、モンゴル帝国の君主の宮廷である大テント「オルド」のペルシア語読みで、宮廷で話されていたことば、という意味からきている。」(134頁)

・「日本の教科書に「女真」とあるのは、朝鮮と宋の書き方で、『遼史』『金史』『元史』『明史』は、みな「女直」と書いている。」(139頁)

・「モンゴル人は中国人が大嫌いである。」(159頁)

・「アルファベットの一種である横書きのチベット文字を利用して、これを縦書きにした新しいモンゴル文字を完成させた。これをパクパク文字と呼んでいる。」(169頁)

・「末松謙澄は、モンゴル史についても、ハワースの『モンゴル史』など英語の本を利用して詳しく述べるが、肝心のチンギス・ハーンと源義経が同一人物であるという論証に関しては、論拠は薄弱である。」(187頁)


 モンゴルを身近に感じることのできる本です。
 隣国理解に、最適な本です。
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2009年11月19日

【復元】『坂の上の雲』は小説というよりも物語

 来週から、司馬遼太郎の『坂の上の雲』がドラマとして毎週放映されるそうです。全5回とか。
 書店には、この作品に関連する書籍がたくさん積まれています。
 私は、NHKの大河ドラマかと思っていましたが、どうやらそうではないようです。

 今から3年半前の2006年4月9日に、「小説というよりも物語」と題するブログを公開しました。副題は「『坂の上の雲』の小説手法」でした。
 ただし、その記事はサーバーがクラッシュしたために、今ではもう読めなくなっています。
 過去の記事ですが、私にとっては大事な記録の一つなので、手元の資料をもとにして復元しました。

 仕掛けられたブームの隙間を埋めるものとして、以下に掲載します。
 
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』(全8冊、文春文庫)を読み終わりました。
 昨年末に買った本のはずなので、4ヶ月がかりで読んだことになります。年度末の多忙な時期に、それも海外出張が続いた頃、新幹線の中で読み耽りました。本当におもしろい作品でした。日露戦争前後の、明治という時代の人々の、今は失ったとしか言いようのない心意気を体感しました。
 
 
 
1144514249_1文庫本の表紙
 
 
 
 伊井春樹先生とご一緒に国際会議に出席するために大連へ行ったのは、もう2年も前(2004年)の夏のことです。
 幸運にも、外交特権車で旅順を案内してもらいました。警察の車の先導で、普段は観光客が入れない所へも行きました。日露戦争についてはほとんど知識を持っていなかった私には、今から思えば、本当にもったいない旅でした。伊井先生は愛媛県のご出身だけあって、精力的に調査収集をなさっていました。
 あの頃、私がこの『坂の上の雲』を読んでいたら、と返す返すも悔やまれます。
 『坂の上の雲』の登場人物は、秋山好古・真之兄弟をはじめとして、正岡子規などなど、愛媛の男たちなのです。先生の思い入れも、『坂の上の雲』を読んだ今にして思えば納得です。

 次の写真は、明治38年(1905)に、降伏したロシア軍司令官のステッセルと乃木希典が会見した、旅順の水師営会見所へ行った折に、その中で、お土産用の絵文字を書いてもらっているところです。
 
 
 
1144514249_2水師営会見所で
 
 
 
 『坂の上の雲』は、小説の枠をはみ出した物語です。スーケールの大きな物語です。
 筆者は、「あとがき」で、次のように言います。(文庫版第8巻の「あとがき集」から引きます。)

小説がもっている形式や形態の無定義、非定型ということに安心を置いてこのながい作品を書きはじめた。
 (中略)どれほどの分量のものになるか、いま、予測しにくい。
(309頁、313頁)


 何と、これが本当ならば、大胆な執筆進行ということになります。歴史の中の人間を記述する物語の場合は、綿密な計画に基づく構成よりも、事実に語らせることを大事にするほうがいいのでしょう。文中でも、「これはすでに述べた。」という表現が散見しました。描写が行ったり来たりするのは、こうしたことが理由のようです。

この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、いまひとつは、この作品の書き手―私のことだ―はどうにも小説にならない主題を選んでしまっている。(330頁)


日露戦争を接点にして当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題がだ、こういう主題ではやはり小説にはなりにくく、なりにくいままで小説が進行している。(331頁)


 これだけスケールの大きな物語となると、私も含めて、当然、資料収集などでの協力者の腕のよさを忖度します。しかし、そうではないことを、著者自身が次のように語っています。

この作品世界の取材方法についてだが、あれはぜんぶ御自分でお調べになるのですか、と人に問われることがあって、唖然としたことがある。(359頁)


 これに続く文で、著者は自分の書き方を披露していますが、これには頭が下がります。とにかく、膨大な資料を読み解いての文章なので、協力者を想定したくなるのです。

 また、著者は、折を見て原稿に手を入れることによって、よりよいものにしようとする姿勢が顕著です。原稿を訂正する労を厭わないのです。この姿勢には敬服します。

新聞連載であることが、多少は幸いした。連載中に誤りを指摘されることがあれば、本になるときに訂正できたからである。本になってからも、気がついたところは訂正した。全集の形になってからもそれを繰り返した。いずれも軽微な誤りで、その点、安堵していたところ、やがて重大な誤りがあることに気づいた。その訂正を、とりあえずこの月報でしておきたい。(369頁)


 とにかく、読んでよかった本でした。読むのが遅過ぎたことを後悔させる本でした。
 
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
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2009年08月24日

芥川賞受賞作「終の住処」

 饒舌な語り口に耳を傾けました。
 それにしても、現実感に乏しい小説です。
 なぜか、頭から紡ぎ出された、原稿用紙というか、パソコンに打ち付けられた作品のように思えます。

 作者の思索の中を、一緒に彷徨えばよかったと思われます。しかし、実際に私には、そのような付き合い方ができませんでした。

 久しぶりに、芥川賞(第141回、平成21年度上半期)を受賞した作品を読みました。しかし、あまり親しみの持てる作品ではありませんでした。

 自分が、明るい展開と展望を作品に求めていたからでしょうか。自分の求める文学のありようが、改めて自覚されました。
 その意味でも、本作品は、私向きではなかった、ということになります。
 ただし、文章力のある作家として成長する兆しが感じられる作品になっていました。

 この作品に関しては、「時間」というものが問題とされています。しかし、私には、それは大きな問題とはなりませんでした。【2】


『文藝春秋 8月号』(平成21年、新潮6月号 )収録
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2009年06月20日

読書雑記(15)嵯峨徳子『京都大不満』

 『じっぴコンパクト 京都大不満』(嵯峨徳子、実業之日本社、2007年11月)を読みました。

 昨年の2月に、「京都大不満の会」と題する一文を書きました。
 以来、読もうと思っていた本を見つけました。
 以前に著者からいただいたメールと、本書の内容があまりにも乖離していて、非常に戸惑っています。
 何かが違う、そう思いながら読み終えました。
 著者の手に余る問題が目白押しの内容となっています。
 とにかく、設定した課題が消化不良のままに投げ出されています。その残骸の山が、実は我々にとっては宝の山になっていそうです。
 その意味から、あえてここに取り上げます。
 
 
 
090619daifuman京都大不満
 
 
 
 各章で、京都の文化を鮮やかに切っています。ただし、昔はよかった、という論調が繰り返されて落胆します。

 回転寿司に関するコメントは、あまりにも素っ気ない気がします。食べ物への蔑視を感じました。
 そして、今を貶す口調が、読む気を削ぐのです。ことばの空回りとなっているのが、非常に残念です。
 京都人の視点から、日頃の疑問を素直にぶつけていて、傍目には意外に思うことが指摘されています。しかし、それが投げ出されたままなのは、読んでもらう人に対して無責任な感じがします。感じたことを言いっぱなしでは、読む方も途方にくれます。どこか、結論らしき所へ誘導すべきでした。

 一言で言えば、自虐的な京都文化論です。見ているところは、焦点がうまくあっているのです。橋のデザインなどの指摘は、おもしろいと思います。しかし、それをどう解釈するかです。読者各自が、自分のための京都観を見いだすためには、この本はいいワークブックになります。
 語りは支離滅裂ですが、語るためのネタは今後とも再考の余地のあるものが多いのは救われます。
 取り上げてあるテーマは、著者には手に負えなかったようですが、いろいろなおもしろいネタをばらまいてくれました。それらを拾いながら、いつか自分が考えてみるための材料にする場合に、好都合な内容です。
 その意味では、著者の意見や考え方は、むりやり押しつけなくてもよかったと思います。へたに結論らしい私見を披瀝せずに、問題提起として投げ出すだけで、この本は価値をもっています。

 もっとも中に、とんでもない発言がありました。
 川には人の営みを浄化する機能がある、と言った後、

処刑には古い時代には娯楽の要素があった。(131頁)


とあります。誤解を招く、不用意な表現です。
 そして、

京都は市井の研究家が多い。彼らの考えを集めると面白いのに、それが見当たらないのは、似て非なる人に本を書かせるからだろう。(175頁)


と言います。著者は、自分が見えていないのです。
 ものごとを切るだけ、という背景に潜む落とし穴に填ってしまったようです。【2】
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2009年06月02日

読書雑記(14)大門剛明『雪冤』

 先日発表された第29回横溝正史ミステリ大賞は、大門剛明氏の『雪冤』(応募時のタイトル「ディオニス死すべし」を改題、平成21年5月、角川書店)に決まりました。
 早速読みました。

 死刑問題を取り扱い、圧倒されるほどのエネルギーで語られます。作者の熱意が感じられ、読者の私も、難しい問題を理解しようとしました。知らなかったことを、たくさん教えてもらいました。
 ただし、小説やミステリという視点で作品を読むと、いろいろと問題があります。また、作者の文章が下手なので、なかなかうまく伝わってこないものがあります。特に、人間関係の書き方がわかりにくいのが難点でした。

 息子の冤罪を晴らそうとする八木沼と、姉を殺された菜摘は、自転車で京都を走りまわります。京都での生活を知る作者らしい設定です。
 現実の京都の風土を取り入れ、鴨川を中心とした話の展開は、京都案内にもなっています。
 しかし、関西弁が変だと思われる箇所が散在していました。
   「…どう思わはれますか」(52頁)
   「…どう思わはれます?」(168頁)
とあるのは、実際には、「はれます」ではなくて「はります」と使っているのではないでしょうか。
 菜摘は、姿かたちが理想的な美人として出てきます。それなのに、言葉遣いは下品で乱暴です。敬語も、美人の女性のイメージを、その言葉遣いで壊しています。
 作者は、女性の言葉遣いをもっと工夫すべきです。菜摘の発言部分だけでも、早急に改稿すべきです。そうしないと、ドラマ化できないでしょう。
 その他、各所でぎこちない関西弁にでくわします。無理矢理、関西弁を書き言葉にしたための不自然さのようです。
 それとも、三重弁がこうした表現をするのでしょうか。京都の言葉遣いではないですね。

 また、「綺麗になられましたね」ということばが、早い段階で2回も出てきた時点で、物語展開のおおよそが見えてきました。
 作者は、よけいなことをしてくれました。読者の楽しみが半減です。

 気になったことの指摘よりも、よかったところも記します。
 第4章は、感動的な章となっています。刑務所で死刑を待つ息子は、本当は父親に会いたかったのです。情に訴える章となっていました。この作者は、それ以外が割と力まかせの文なので、こうした描写を心がけたらいいと思います。
 ただし、このよかった第4章の内容が、後半にうまくつながっていきません。

 全体に、無理矢理に話を複雑にして、引っ張りすぎだと思います。
 話はおもしろいし、読ませる力のある文章です。しかし、話を複雑にしなければいけないと思っているのか、後半の矢継ぎ早のどんでん返しの連続は、付いていくのに疲れます。登場人物の関係が混乱します。ゴチャゴチャさせられた、という印象を持ちました。
 そのためか、最後に紹介される「ディオニス死すべし」という台本が、ストンと私の中に落ちてきませんでした。
 折角の大事なネタが、最後に大慌てで出されたという印象を持ちました。もったいないことをしました。

 本書を通して、真実も冤罪も、当事者にとってはさまざまな思いが重なり合っている、ということがわかりました。死刑制度に一石を投じる作品となっています。
 しかし、それにしても、殺人犯人を特定していく後半で、話をややこしくした分だけ、単純化できずにテーマがぼやけたのは残念でした。ミステリにしようとして小細工をせずに、中盤までの調子で篤く冤罪と死刑制度が内包する問題を、ストレートにぶつけもらったほうがよかったように思います。内容がどんどん軽くなってしまったからです。

 いいテーマを取り上げていたのですが、最後に失速してしまった作品でした。
 同じテーマで、趣向を変えてチャレンジしてほしいものです。
 次の作品も、読んでみたいと思わせる作者です。【3】
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2009年05月29日

読書雑記(13)『老後は銀座で』

 銀座で『老後は銀座で』(山崎武也、PHP文庫、2007.10)という本を見つけました。そして、一気に読み終えました。

 銀座は「人間社会のデパート」だと言う著者は、老後は銀座で生きることの意義を主張しています。
 確かに、便利で刺激の多い所に居を構えるのは、元気に明るく生きるためにも大切なポイントです。
 老後は、「身軽に」そして「銀ブラ」をしながら、というのはなかなか洒落た生き方になりそうです。

 奈良の山の中から京都の街中に引っ越しをして2年が経ちました。
 今の家は駅のすぐそばなので、便利さを実感する日々です。
 街中で老後を、というのは一理あります。活動範囲が広くなります。活動時間も長くなります。

 銀座に限りませんが、勝手知ったる便利な所は、老後の生活にぴったりです。
 田舎に引っ込むのもいいでしょうが、人が往き来しやすいところはいいものです。
 私は、マンションが嫌いです。しかし、老後を身軽で割り切った生活にと考えると、それもありか、と思うようになりました。

 限られた収入の中で、少し上質な生活をすることを心がけるのもいいでしょうね。
 また、最近は銀座に全国各地のアンテナショップが出店しだしました。
 居ながらにして、日本全国の名産や特産が見られ、手にも入りやすくなります。
 日本が、身近になってきます。

 本書は銀座を例にしていますが、私にとっては、銀座は京都の街中に置き換えられます。
 今の京での生活は、ここに描かれた世界に近いものとなっています。

 本書は、ものの見方を切り替えるのに、大いに有効なものとなりました。
 そして、数年後に迫った定年後の生活について、楽しく考える材料を提供してくれる本でした。【4】
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2009年05月23日

読書雑記(12)酒井順子『都と京』

 書店で見かけた『都と京』(酒井順子、新潮文庫、2009.3)を、気ままに読みました。

 ほとんど脱力状態で、ノンビリと本を読んだのは久しぶりです。
 今の京都を知るのに最適な本です。京都の本質を突く一冊です。
 読みやすい文章なので、お薦めです。

 東の都から西の都という街を見つめた話が、言葉・料理・節約・贈答・高所・祭り・流通・神仏・大学・喫茶店・若者・文学・宿・交通・サービス・土産・敬語・田舎・女、と展開します。

 紫明通りの老舗中華屋の酢豚を、今度さがしてみます。
 力餅食堂のしっかりした味は、先週食べたばかりなので、なるほど、と思いました。確かに、薄味ではありません。

 「節約」「贈答」の視点と語り口がいいと思いました。筆者のモノの見方がユニークです。

 「流通」では、京都産として売られているものの価値を見いだしています。流通過程で京都色に染められている指摘は、文化論となっています。

 「神仏」の切り口が鮮やかでした。「思うことになっている」ことへの疑問から発展します。
 「法会はコンサート」「プチ出家」「おすがり先」「テンプルショップ」「悩みの集積地」という言葉が印象的でした。結びの文が、よく効いています。おもしろいエッセイです。

 「文学」で、京都人の小説家がなぜ京都を書かないか、と問うています。おもしろい着眼点です。そして、京都人はなぜ小説を書かないか、とも言います。山村美紗以外に。
 それに引き替え、歌人が多いことを指摘します。
 「皆まで言う」ことを避ける京都人の気質を結論としています。
 考える価値のある問題提起です。

 「サービス」で、店側が先に挨拶をする東京、客側が先にする京都、というのは、今はどうでしょうか。
 本書は平成18年刊なので、まあ今を語るものです。ややポイントがズレているように思います。
 サービスの意味とありようを語るために、無理な仕分けがなされているように感じました。多様なものごとを、無理矢理にどちらかに分けない方がいいのではないでしょうか。何事も、そんなにきれいに分けられないのですから。
 その分けられないところに、京都らしい文化が脈々と生き続けていると思います。単純な東京と、複雑な京都、というものが、かえって見えてきたように思われます。これは、女と男に置き換えられないでしょうか。

 本書の最後の数節は、ことばを紡ぐための論理が先行し、理屈っぽいものになっています。
 多分に思い込みで、実証できないことを、思いつきで語っています。関東の女性の語り口だな、と思わせます。
 終わりに近づくにしたがって、面白味が欠ける一冊になったのは、中頃までが快調だっただけに残念です。【4】
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2009年04月29日

読書雑記(11)浅田次郎『月のしずく』

 3月中旬に、浅田次郎氏の講演会に行きました。
 本ブログでも、「浅田次郎の講演会」と題して報告しました。

 その時に、「実は、私は浅田氏の本をまだ1冊も読んだことがありません。」と書きました。それ以来、折を見て読んでみようと思っていました。
 今日、短編集ですが、やっと読みました。

 『月のしずく』には、7編の短編作品が収載されています。

 通読してみて、文章がうまいと思いました。
 ただし、やや原稿用紙に書いた作文の匂いが強い印象を持ちました。もちろん、浅田氏はワープロを使っての作家活動のようです。しかし、あえて原稿用紙のマス目を丁寧に埋めた文章と言っておきます。いわゆる作家としての文章を、多分に意識しておられるのでしょうか。
 江戸っ子というよりも、東京人の文章だな、と思いました。

■「月のしずく」
 月が効果的です。文章のテンポがいいのです。
 絵になるシーンを、月が演出しています。
 月の明るさが、読後も残る作品となっています。【3】

■「聖夜の肖像」
 背景に、意外なドラマを持った展開がおもしろいと思いました。
 男と女の嘘が、うまく描かれています。
 男の方が不自然です。それが、最後にわかります。妻の愛人を知っていたのです。その優しさに、妻は一気に気持ちを預けます。好きではない、と言っていたのに。
 いい作品です。しかし、計算しすぎが見え見えで、かえって中途半端になっているようです。【2】

■「銀色の雨」
 話のおもしろさと、現実離れした内容が痛快でした。
 情の世界を描いています。ただし、いかにも作ったお話というところが、どうしても気になります。【2】

■「琉璃想」
 亡き妹を追慕しながら、生まれ故郷の中国の街をさまよう主人公。人間の情に訴える小説です。過去と今を、うまくつないでいます。
 その内に、今の三角関係を取り込んで展開します。
 最後は浅田らしからぬ、平凡な終わり方で残念でした。【2】

■「花や今宵」
 毎日の通勤で中央線を利用している私にとって、三鷹から山梨方面への話はよくわかります。
 乗り過ごしは、自分でも、いつも気をつけていることです。それだけに、現実離れした作り話であることが透けて見え、読んでいて興ざめしました。
 月と桜の設定も、わざとらしいのです。満月でない方がいいと思います。
 偶然出会った日の、男と女の嘘をめぐる話は、最後までリアリティのないままに終わっています。【2】

■「ふくちゃんのジャック・ナイフ」
 過去のことを思い出しながらの独り語りが、うまくいった例です。
 無理のない話の展開に、安心しました。
 ブラジル移民のことは、自分でも思い当たることがあるので、作者と同年代の者としては、よくわかりました。
 しかし、話のまとまりがよくありません。
 ボヤーッとしたままで、話が終わりました。【2】

■「ピエタ」
 記憶を手繰り寄せながら物語る、友子がうまく表現されています。
 浅田は、この手法が特異な作家のようです。人間の情を、母子を通して紡ぎ出した作品です。
 ピエタ像は、1ヶ月前にイタリアのバチカンで見たばかりです。読みながら、目の前に立ち現れて来ました。そして、ミケランジェロの気持ちを語る下りに、納得できるものがありました。
 エンディングがきれいです。
 それにしても、リーさんの存在が中途半端な気がします。きれいな男として設定したかったのかもしれません。しかし、この男が、話の流れを壊しています。かえって、いないほうがよかったと思います。【3】
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2008年12月04日

愛用のブックカバー(2)

 去年の9月に、「愛用のブックカバー」という話を書きました。


 その後も、折を見ては、気に入ったブックカバーを集めています。

 この1年間で手にしたものを4点ほど、紹介します。



081204bookcoverブックカバー


 左下の青色のものが、新書判用です。
 ビニール質で少し硬めなので、あまり使いません。
 新書判は、まだいいものに出会っていません。


 それ以外は、すべて文庫用です。

 今、一番気に入っているのが、右上のうさぎをデザインしたものです。
 これは、布の生地の手触りがよくて、ふっくらと本を包んでくれます。

 左上のものは、麻の生地に糊がよく利いていて、柔らかな感触がします。

 右下のものは、ふわりとした和紙の風合いがする、優しい感じがします。

 電車で本を読むことが多いので、本を閉じたり開いたりを繰り返します。
 そうした読書をしているので、ブックカバーの役割は大きいのです。

 最近は、革でないものを好むようになりました。
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2008年11月28日

読書雑記(10)交渉するための秘術『神の交渉力』

 たまたま手にした本が、予想外におもしろいものでした。一気に読みました。

 『スティーブ・ジョブズ 神の交渉力』(竹内一正、リュウ・ブックス アステ親書2008・6)

 アップルのCEOであるスティーブ・ジョブズの人間像を語った本です。

ジョブズのエネルギーは、半径一〇メートル以上離れている人々を熱狂させ、半径五メートル以内の人々を恐怖に陥れる。(91頁)


とあるように、ジョブズの魅力が存分に書き綴られています。

 人間としての破天荒さから垣間見えるジョブズの姿が、わかりやすく記されています。

 「気力」「熱意」「独創」ということばが、この本の内容をカバーすると思います。人を前向きにし、やる気を起こさせる本です。

 「妥協」が無意味であることを、この本を通して実感として体得したように思います。
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2008年07月04日

きょう買った本

 今日の京都は、32.5度だったそうです。明日は33度だとか。

 東京から京都への移動途中に、書店で買った本をメモしておきます。
 最近は、まともに勉強する余裕がなく、本も読み捨てにするものばかり買っていました。
 これではいけないと思い、少しまともな本を数冊買いました。

(1)『絵とあらすじで読む源氏物語 ―渓斎英泉『源氏物語絵尽大意抄』―』(小町谷照彦、平成19年7月、新典社)
  最近は、源氏絵のことを勉強し出したために、近世の源氏絵に関する資料を豊富に集めた便利な資料集として買いました。『絵入源氏』の挿絵説明は、とにかく重宝します。絵を解読するのは、素人にとっては大変なことです。こうして、絵に書かれている場面の説明をみられることは、自分の想像力を補うものとして、非常に役立ちます。

(2)『京都 紫式部のまち その生涯と『源氏物語』』(坂井輝久・井上匠、平成20年5月、淡交社)
  京都新聞に連載されていたものが、一冊の本にまとまりました。新聞で時々読んでいたのですが、整理されたとのことなので、購入しました。『源氏物語』ではなくて、紫式部にスポットを当てて語られているので、買う価値があると判断しました。

(3)『紫式部の生きた京都』(京都市埋蔵文化財研究所、2008年7月、ユニプラン)
  2009年1月まで、京都市考古資料館で開催中の特別展示「紫式部の生きた京都」を、ビジュアルにまとめたものです。過般、この展示を見たので、確認の意味で買いました。それよりも、付録の「源氏物語ゆかりの地」の説明板設置場所の情報が貴重です。地図と写真が、イメージを膨らませてくれます。

(4)『世界の源氏物語』(ランダムハウス講談社MOOK、平成20年4月)
  一冊まるごと『源氏物語』の情報誌です。海外情報が豊かであることと、アーサー・ウエイリーのことが詳細に語られているので買いました。ここに紹介されているハイゲイトは、私も行きました。貴重な報告となっています。

(5)『ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論』(小林よしのり、平成20年6月、小学館)
  私のインド体験の恩人である中島岳志君への挑戦状です。中島君を徹底的にやっつけるのが趣旨の本です。これは、読まない訳にはいきません。この分野には素人の私ですが、中島君という青年の立場から読んでみようと思いました。小林よしのり氏の本は初めて読みます。挑発的なことばが氾濫する本ですが、冷静に読み進めています。

 今は、たくさんの仕事を抱えていますが、こんな時に限って、取り組んでいること以外の本が読みたくなるものです。
 電車での移動中などの時間を使って、読書を楽しみたいと思います。




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2008年05月25日

読書雑記(9)〈 定年小説 〉特集を読む

 『小説現代』の6月号に「〈 定年小説 〉特集」が組まれていました。

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 そろそろ自分自身の問題になる、という自覚が日々強くなることもあり、いつもは読まない文芸雑誌を、つい買って読んでしまいました。

 「定年」という一つの課題のもとに、6編の短編小説が収録されています。6人の作家のうち、私がこれまでに読んだことのあるのは、藤田宜永と橋本治の2人だけです。
 それぞれに結構たのしめました。

■秋元康「シリーズ潮時 定年」
 キーワードは「潮時」です。
 最後の、定年を迎えてのスピーチは、あまりに状況に頼り過ぎたものです。話す内容で勝負すべきだったと思います。

■藤田宜永「ブーベの恋人」
 いつもの藤田ワールドでした。ただし、定年というテーマと合わないように感じました。
 話がユラユラと揺れていて、不安定な話になっています。
 タイトルに合わせた仕掛けがなかったのが残念でした。
 平凡すぎたのです。

■高任和夫「シンパシーの復権」
 「シンパシー」がキーワードの話ですが、最後が流れてしまいました。話をきれいに収めようとし過ぎたせいではないでしょうか。

■佐江衆一「駅男」
 小説作法が透けて見えました。いい話が散らばっているので、もったいないことです。作中作の小説は不要だと思います。 

■橋本治「チューリップが咲くまで」
 話の構成がうまいと思います。人間の心理を解説して聴かせてくれます。その説明がわかりやすいのです。橋本治の文章をよんだことは何度もありますが、小説は初めてでした。「定年」というテーマを、うまく表現して作品としていました。

■藤原智美「お分かりにならない方」
 丁寧な描写で語り進められていきます。切れ切れ、飛び飛びの文が、リズミカルに展開していきます。
 仕事からの定年というよりも、人生の定年というか終着点に立っての物語です。
 「楽しいボケ老人を演じる」ひとりの男を通した、スリルに満ちた話です。後半の急展開が気に入りました。
 私は、この作者のことをまったく知りません。ほかにどんな作品を書いているのか、書店で本を探す楽しみが増えました。



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2008年05月14日

読書雑記(8)澤野久雄『失踪』

 この『失踪』は、読まないままで本棚の中に眠っていた本です。
 奈良から京都へ引っ越しをして、とにかく詰め込んだ書棚の隙間から顔を覗かせていたので、取り出してみて読み始めたら、最後まで読んでしまったのです。

 京都を舞台にした、京女の話です。優しい京ことばと、会話と地の文とが融合した独特の文章に引かれて、気持ちよく読み進むことができました。

 奥書によると、昭和45年1月に朝日新聞社から刊行された初版本です。横長の本なので、その装丁からしておしゃれです。定価が560円で、裏表紙には天牛書店のラベルと400円の値札が付いています。
 今想うに、これは私が高校を卒業してすぐに東京で大手術をし、大阪の自宅に帰って療養していた半年の間に購入した本のようです。
 とにかく医者からはブラブラしろと言われ、フラフラと難波の古書店・天牛書店へ行って、あこがれの天牛新一郎さんのお店の本を眺めていた頃です。
 この『失踪』は、どうして購入したのか思い出せません。いつも何か理由をつけて、新一郎さんにことばをかけるきっかけを探していました。そして、何かのきっかけで、新一郎さんと話をした時に、この本を紹介されたのでしょう。
 当時は、京都に興味がありました。谷崎潤一郎の作品が好きだったからでしょうか。前回の読書雑記で水上勉の『京の川』を取り上げました。

http://blog.kansai.com/genjiito/173

 天牛新一郎さんのことは、そこに書きましたので、ここでは省略します。
 『京の川』も、この前後に買ったまま読まなかった本だったようです。
 ただし、私は昭和45年の秋に再度上京した時に、めぼしい物と本はほとんど大阪の家から持って行きました。そして、47年の正月に新聞配達店の火事で、私物の全てを失いました。したがって、『京の川』やこの『失踪』は、両親の元に残しておいた物だったために、こうして今残っている、ということです。
 私の数少ない十代の頃の遺品です。

 本との出会いには、いろいろとあるものです。

 さて、この小説は、着物の紋を書く上絵師の女性の話です。そして、それが京都の案内記にもなっています。京都の町が印象的に背景をなしています。語り口も、地の文に会話文が融合していて、まったりとした京都らしい時間の流れを感じさせます。それでいて、文章に歯切れがあり、京都の雰囲気の中で表現も遠回しで、美しく語り進められていきます。矛盾する手法が渾然としていて、無理がありません。

 ただし、読んでいて、1つ不満が湧きました。それは、女主人公の服装が詳しく語られていないのです。着物なのか洋服なのかがわかりません。そのことがわかるのは、ほんの少しです。主人公である志摩がどんな着物を着ていたのかを描写してほしいくらいに、この志摩は魅力的な女性です。日本文学は、こうした描写を大事にしてきたと思うので、つい知りたくなるのです。

 後半で、祇園祭の夜に、婚家に置いて来た息子が亡くなります。京都を背景にして情感に訴える、きれいなドラマです。
 ロートレックのマルセルの名画が盗難にあった話が、伏流として効果的に話をつないでいます。それが、思いがけない結末で、何となく宙に浮いてしまったように思います。
 私は、この小説の結末に大いに不満を抱いています。作者は、なぜこんな結末にしたのでしょうか。この終わり方は、残念でなりません。こんな結末にしなくても、十分にいい小説になっています。無理な終わり方となっていることが、非常に惜しまれます。作者の意図が、私にはまったくわかりません。

 これは、きれいな小説です。暖かみと丸みのある作品です。登場人物が丹念に描けています。それぞれの人柄も、うまく伝わって来ます。
 京都を舞台にした、ゆったりとした時間がながれている作品です。京都らしさを描写するのにピッタリの文体です。女主人公である志摩は、優しさと芯の強さを併せ持った京女として、生き生きと描かれています。それだからこそ、結末に無理を感じます。そんな終わり方をしなくても、という想いが強く残りました。



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2008年05月04日

みやこめっせで春の古書市

 ぽかぽか陽気に誘われて、自転車を漕いで散歩にでかけたついでに、岡崎公園にある京都市勧業館(みやこめっせ)で開催されている「第26回 春の古書大即売会」に行ってきました。

 会場に入って、その本の列の多さに圧倒されました。
 まずは左側から縦に見て行き、Uターンして反対側の列をみます。そうしたことを繰り返して、10列以上もあった本の山脈を徘徊しました。

 受付で聞くと、今回は50万点が出品されているとのことでした。絵はがきも1点と数えるそうなので、本当におおよその数ですが……。
 ここに出展されていた本のほとんどを、およそ2時間をかけて見て回りました。こんなにたくさんの本を物色して歩いたのは、本当に久しぶりです。

 木版刷りの源氏絵がほしかったのですが、値段が微妙に折り合えません。
 瀬戸内源氏を朗読したCD―ROMも、何となく手が引っ込みました。
 ヒンディー語の本がたくさんありました。『源氏物語』の翻訳がないかと探したのですが、手がかりは表紙の絵だけなので、すぐに諦めました。

 京都で開催されているだけあって、京の地誌・歴史に関する本が目につきます。しかし、私は近所の京都府立総合資料館で、そのほとんどの本が見られるので、個人で所有する必要がありません。

 そもそも、本を買うということは、どういう意味があるのでしょうか。
 小説は、一人で楽しんで本棚にしまいます。最近ならば、ブックオフなどに売る人も多いことでしょう。2度読む本はめったにないので、死蔵されることがわかっている本を買うことに疑問をもちます。しかし、買ってしまうのは、習性以外には考えられません。

 もし、自分が住む地域に図書館があり、そこで新刊や勉強する資料が手にできるのであれば、個人が本を買う行為は、違った意味をもってきます。
 公共図書館の充実は望まれます。年とともに、自分で本を買うことは少なくなるはずです。それを図書館に引き受けてもらうのは、我々にとってはありがたいことです。個人で使える資金も、また本を保管するスペースも、共に限りがあるのですから。

 しかし、目を転じて、このことを出版社の側から見ると、本が売れないことに直結します。安くていい本を出すためには、売れなくてはいけません。出版社と図書館の関係は、微妙なありようを見せてくれます。売れなければ、いい著者を抱えることもできません。

 古書市では、図書館にない本がよく並んでいます。その意味では、古書市の意義は十分にあります。ただし、そうした本との出会いが、偶然に頼らざるをえないのは、何とも悩ましいことです。
 今回も、入り口近くに、コンピュータによる図書検索のコーナーがありました。しかし、品物がどんどん動く即売会の会場なので、入力されている本の量も限られていますし、すでに売れてしまっている可能性も高いのです。
 実際、私も2種類の本の問い合わせをしましたが、共に見つからないという結果が返ってきました。
 書店のおやじが、その本ならあの棚の上から2段目の真ん中にあるよ、などという牧歌的な時代は終わりました。大阪の天牛書店の新一郎さんのような方は、もう望むべくもないのです。

 今回は、5冊ほど買いました。以前から探し求めていた本です。真剣に探せば、もっと買う本があったのでしょうが、とにかく目ん玉を上下左右にとせわしなく動かしながら、体は右へ右へと移動させていくのです。目が疲れきった時点で、探す意欲は半減です。

 古書市も、何回かに分けて通えばいいのでしょうが、そんなに豊かな時間があるわけでもないので、これで今回はひとまず打ち切りです。

 たくさんの本の中から、自分と縁あっての出会いがみのった本を手にして、それなりに満足して帰路につきました。
 自転車の前の籠に入れた本が重いこともあり、ハンドルが取られそうになります。賀茂川の緩やかな勾配を太腿に感じながら、川風を浴びてペダルを漕ぎ続けました。

 この古書市は、5月1日から5日までで、主催は京都古書研究会でした。



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2008年02月12日

読書雑記(7)水上勉『京の川』

 水上勉は、本名で読むと「みずかみつとむ」です。ペンネームが「みなかみつとむ」であることを、ある企画で講演をお願いしたときに知りました。ただし、その時は体力的に無理とのことで、実現はしませんでした。

 眼が不自由になられてからは、マッキントッシュのノート型パソコンで文字を大きくして入力されていたので、一層親近感を覚えたものです。

 水上氏は1961年(昭和36年)に『雁の寺』で第45回直木賞を受賞されました。その後は、『越前竹人形』『はなれ瞽女おりん』『五番町夕霧楼』などが印象に残っています。

 昨夏の引っ越しで雑然と押し込められていた書棚の中で見つけた『京の川』が、実はまだ読んでいない本であることに気付きました。そこで、何気なくページを繰っている内に、つい読んでしまったのです。
 新潮社から刊行された奥付が昭和40年なので、私が高校の頃に行きつけの天牛書店で購入したものです。天牛書店については、以下のブログで少し触れているので、そこに譲りましょう。興味がある方はどうぞ。

http://www.npo-genjimonogatari.org/blog/genjiito/index.php?categ=1&year=2006&month=9&id=1157817308

 さて、『京の川』でした。

 この小説は、きれいな京言葉で話が進んでいきます。
 川端康成の『古都』を読んだときに、その京言葉に違和感を覚えました。いかにも文字にした言葉だったからです。
 それが、この水上の小説では、自然に読める言葉として文字になっているのです。

 私は、作品に『源氏物語』のことが出ていると、すぐに反応してしまいます。
 この『京の川』では、二ヶ所に『源氏物語』に関することが出てきました。

 まず、こうあります。

この春、東京の脚本家に委嘱した新作物「源氏螢」に出場したが、静香は、「花の家」の豆六が演ずる光源氏について、笹をひろって舞う螢の精を踊っている。(66頁)


 私には、まだよく理解できない内容です。

 次は、秋の「鴨川踊り」の催し物についてのことです。

京都に在住する老作家の初期短編から舞踊化した「深草物語」と「京の川」である。「深草物語」は、源氏の一節で、例年どおり先輩格の豆六と久幸が、少将を演じ、見ばえのする役どころは、すべて古株の芸妓が占めた。静香はもうひとつの「京の川」で主役の一人をつとめることになった。(273頁)


 これも、深草少将の光源氏のつながりが、よくわかりません。

 後半は、鶴吉と美代子の親子の会話がとてもいいのです。
 人間の情感が、やわらかな流れるような言葉で記されていると思います。

 読後の余韻に浸れる作品でした。【4】





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2008年01月30日

読書雑記(6)清水義範『読み違え源氏物語』

 清水義範著『読み違え源氏物語』の帯には、


「源氏物語」を彩る各段を大胆かつ斬新に解釈

夕顔は実は生きていた−その驚くべき正体とは?




とあります。
 どんな話になっているのか、興味深く読みました。

 短編が8つ収められています。以下、順次、感じたことを認めましょう。

(1)夕顔殺人事件

 玉鬘は空蝉の子供、ということになります。仕掛け人の頭中将は、空蝉との間に玉鬘を儲けたことになるのです。後の話とうまくつながりません。ここをミステリーで解く必要が生じてきます。語り手の話をどこまで信じるか、という問題が前提になってきます。


(2)かの御方の日記

 何を意図したものかが不明です。葵上の独白を読まされただけのことです。日々書く日記のスタイルです。「後日の書きそえ」という文句で、少し工夫があるかと思いました。しかし、特に何もなく終わります。筋をなぞっただけの雑文に終わっています。何の捻りもないのが残念です。


(3)プライド

 『源氏物語』をなぞって、現代版に作り直したものです。『源氏物語』を下敷きにするところが見えすぎて、その必然性がわかりません。小説としても不出来です。無理やり作ったお話です。筋だけで、描写がない上に、心理劇になり切れない失敗作といえます。


(4)愛の魔窟

 登場人物に『源氏物語』の人名をダブらせています。それだけ、話は現代に置き換え切れず、単に『源氏物語』をなぞるだけの駄文です。読んでガッカリしました。なぜ清水氏は、何の工夫もしなかったのでしょうか。人に読ませるものには至っていません。この草稿を、もっと高めるような手を入れないといけません。


(5)ローズバッド

 1950年代のアメリカの男女という設定です。思い切った試みに期待させられます。しかし、『源氏物語』をなぞるだけ。人の肉体的なことをバカにする描写が多いので、読んでいて不愉快になりました。何のための文章なのでしょうか。捻りがないので、いやな気分のまま引きずられます。後半で、シカゴに出たジョンの話からおもしろくなりそうでした。しかし、それも尻すぼみです。素材を生かしきれない作文に留まっています。


(6)うぬぼれ老女

 老女の一人語りという設定です。内容は、『源氏物語』のエピソードをなぞるだけです。何か工夫がないと、あらすじの確認に終わるだけです。『源氏物語』から抜け出せない作者の歯ぎしりが聞こえてきます。


(7)最も愚かで幸せな后の話

 登場人物のネーミングに工夫の跡があります。ただし、ピカリッペは下品です。キリツボーシャも、フジツボーシャも、人をバカにしていないでしょうか。アラビア語の原典を持ち出すのはおもしろいと思います。もっとも、アイデア倒れで、活かされてはいませんが。アホな、思考力をもたない、フジツボーシャの設定は、『源氏物語』を軽く見過ぎた結果のようです。読解不足から発した作り話です。


(8)ムラサキ

 女性を植物にたとえて、通ってやる大切さ、世話をする大切さを比喩として語っています。しかし、それがあまりにも『源氏物語』から遠いところでの語りとなっていて、読んでいる側が疲れます。工夫が報われない出来になってしまっています。作者としては、言い訳をしたい作品のように思われます。


 以上、あまりいい評価が書けませんでした。
 この続きを、また書いてもらいたいものです。


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2007年12月01日

読書雑記(5)川端康成『古都』

 ノーベル賞作家の小説を、久しぶりに読みました。
 多分に、京都をどう描いていたのかを確認するためです。

 『古都』は、思い出せないほど昔に読んだはずです。そして、山口百恵の映画もみました。
 もっとも、双子の姉妹が出て来ることと、北山が出て来ることしか思い出せないままに読みました。

 この文章は、読点が切れ切れのために、読み進む内にリズムを乱されました。意外と、川端は文章の表記がへただったのです。
 また、文中に、記号としての( )が出てきて、作者が補足説明をしています。これは、レポートのような解説口調に思えて、読んでいて邪魔でした。
 こうした点は、作者にとっては何か意図があるのでしょう。川端の研究は進んでいるでしょうから、何か解明されているのでしょう。
 門外漢の私は、そんなことは知らないので、とにかく内容はいいのに文字の表記がへただ、と思っています。

 物語の最後は、きれいな終わり方でした。京の早朝の雪の中を帰る苗子と、それを見送る八重子は、一幅の絵画です。
 ただし、話としては消化不良でした。二人の今後については、読者の側に投げ出されています。ここまでの展開を味わうことで十分な小説となっているので、それはいいと思います。そうだからこそ、もう少し二人のこれからの手がかりがほしくなりました。

 作品全体の雰囲気を作っている京言葉に、私としては違和感を覚えました。きれいな言葉遣いになっているのですが、その流れがぎこちないのです。流れるような美しさがありません。滑らかさがない、と言えばいいのでしょうか。
 この点は、水上勉の方が、数段上です。

 作者のあとがきを見ると、この小説は、眠り薬を使って書いたことと、京言葉を人に直してもらったと告白しています。
 作品の中で京言葉がしっくりとなじんでいないのは、こうしたことと関係するのかも知れません。検証する暇がないので、指摘に留まりますが。

 京都が美化されているのも、気になりました。小説だからいい、と言えばそれまでですが……。
 京都は、新しいものをどん欲に取り入れて今日に至っています。常に新しいものを受け入れて来ました。その点で、この小説の古都は、そうしたエネルギーを持った街としては描かれていません。京都という街の観光的な視点から懐古に留まってしまったのは、残念なことでした。

 あまり名作をけなすつもりはなかったのですが、思い出して記すうちに、こんなことになってしまいました。

 北山の杉の人工的なことを批判する苗子と、最後に竜介と問屋を変えようとする八重子を、もっと活き活きと描いてほしかったと思います。あまりにも日本的な美とされている世界に閉じこもったために、そうした展開がみられません。この小説は、明日を見る目をもっと注ぎ込んだら、きれいなだけでは終わらない作品になったことでしょう。

 この点が、ことばを使って書いた作品が、活き活きと読み継がれるか、一時の美の結晶として終わるかの、いわば分岐点だったように思います。

 私は、この『古都』は、後ろ向きの古典作品、として評価したいと思います。【3】
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2007年10月02日

読書雑記(4)高梨耕一郎『京都半木の道 桜雲の殺意』

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 自宅のそばの桜並木が出て来るというだけで、つい読んでしまいました。
 写真の半木の道がそうです。桜の名所として有名です。この小説も、桜にちなんでの殺人事件が展開します。

 今は秋。季節外れの桜の話も一興か、と思って読み進みました。もっと桜に関する蘊蓄を期待しました。大学の先生が中心となる話なので……。結果は大いに失望。
 本書は、昨春に刊行された、文庫本での書き下ろし作品です。

 あまりいい話が書けませんが、せっかくなので感想文を。
 おもしろがって読みましたが、実は京都という舞台が活かしきれていない印象が強く残りました。また、犯人も早々にわかってしまいました。

 話をややこしくしようとする手法が施されていても、そもそもの話が単純なので、読後の印象が薄くなります。また、登場人物の関西弁というか京都弁に品がありません。小さいひらがなをもっと使うなど、文字を視覚的にする工夫があったらよかったと思います。
 若い女性が電話で「久保やけど」もいただけません。

 大学の先生宛のメールを、研究助手が自由に読み、印刷し、転送しています。プライバシーなどあったものではありません。アドレスから発信者をたどる所も不自然です。

 助手が取材記者のために資料を大量にコピーして渡していました。これは教授の研究費からのものなのでしょうか。公費を無自覚に使うところなど、もっと丁寧に描いてほしいものです。また、某教授の発言は、セクハラやアカハラに該当するものです。細かなところが雑でした。

 タイトルにある「半木の道」は、物語の展開にはまったくといいほど必然性がない場所でした。Aと言う代わりに「半木」という固有名詞をあてただけです。
 ここは桜の名所として取り上げるだけではもったいない所です。
 作者は現地に足を向けたのでしょう。しかし、写真にあるように、飛び石で反対の河原に簡単に行けることには興味がなかったようです。

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 橋を使わなくても、賀茂川の両岸をこうしてショートカットができるのです。物語の中で、この飛び石をうまく使うと、もっとおもしろくなったのに、と残念に思っています。

 こう書くと、まったくの駄作としか言えない小説です。
 ご当地小説は、その地域が舞台として出て来ることだけに興味があるものです。それに期待したのですが、それもイマイチでした。
 京都をブラブラした気分だけは、印象として残っています。

 書き下ろしの小説は、それが殺人事件に関するものは、その場限りの読み捨てと割り切ることにします。
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2007年09月24日

愛用のブックカバー

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 本を持ち歩いて読む時には、愛用のブックカバーをしています。
 本を購入すると、書店で包装を兼ねて紙のカバーをしてくれます。色が選べる書店もあります。購入してすぐに電車で読む時などは、このサービスはありがたいものです。
 本を裸で持ち歩くのに抵抗があるので、私は必ずカバーをします。読まなければならない、多少とも義務を感じる本は、書店のカバーのままで持ち歩きます。または、本の表紙のカバーを引っ繰り返して、白いカバーにします。しかし、読みたくて読む本は、愛用の革カバーを付けます。

 上の写真の(1)(6)は、中国の杭州で買ったものです。包まれていた中身のノートブックは処分し、この革のカバーを手元に残しています。ただし、このカバーの大きさに合う本が、まだありません。ノートの表紙だった革の表紙をブックカバーに使おうとしているのです。いろいろな大きさの本があるので、いずれ出番があることでしょう。

 (2)は、女性用の手帳の表紙だったものを、これまた中身は処分し、この表紙をブックカバーにして使っています。文庫本用です。女性用に作られたものだけに、内ポケットや栞など、いろいろと細かな工夫がなされています。カバーの回りは、札入れのようになっています。色々なものが入ります。今、一番使う機会の多いものです。
 ただし、このカバーは縫製が雑で、中央右端のベルトを通す所の縫い糸が下まで通っていませんでした。また、周囲の縫い方も雑で、糸がほどけていたので、返品交換してもらいました。袋にはいった状態で売られていたので、縫い方までチェックして買わなかったのです。商品開発と販売は日本ですが、製造は海外なのでしょう。日本人向けに末長く商品を作り続けようとするならば、まずはシッカリと縫う基本は、大事にしてほしいものです。

 (3)は、これまで使用してきた中では手触りの一番いい、手に馴染むカバーです。カナザワという日本の会社のものです。この会社の革製品は非常に仕上がりがよくて、財布もこの会社のものにしています。大きな文具売り場にあります。

 (4)は、京都の雑貨屋でみつけたものです。革の質はよくないのですが、使い勝手のいいものです。新書版です。

 (5)は、コレクトの商品です。手帳カバーやカード入れとして買ったものです。合成皮革ですが、ソフトカバーの本などがちょうど入るので、ときどき使います。

 (7)は、A5判で約600頁の井上靖全集が一冊そのままスッポリと入ります。ロンドンで購入しました。ノートブックとしてアンティークショップにあったものです。中身は処分し、この革の表紙をブックカバーとして使っています。シッカリとした革で、手触りもいいし、縫製もキチンとされています。

 本を丁寧に読む時には、こうしたカバーに包んで、じっくりと読み進めています。ささやかな贅沢の1つではないでしょうか。
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2007年09月22日

読書雑記(3)室井佑月『ドラゴンフライ』

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 藤田宜永氏が室井佑月氏との対談の後で、こんなことを言っていました。

テレビに出演している室井さんよりも、活字の彼女の方がさらに存在感があります。(『愛に勝つ1・2・3』80頁、藤田宜永、集英社、2005.2)


 室井氏は、OL・モデル・女優・レースクイーン・銀座のホステスを経て作家になった異色の人です。最近は、テレビなどのコメンテーターとして、または新聞などのコラムでお目にかかることが多くなりました。
 ユニークな発言をする、独特の雰囲気を持ったおもしろい人だな、と思っていました。

 先の藤田氏の発言に魅かれて、突然ですが室井氏の小説を読んで見ました。銀座を舞台にしたものだったので、最近ブラブラすることが多いこともあり、具体的なイメージを持って読みました。

 この『ドラゴンフライ』は、非常におもしろい小説です。
 主人公のリュウは、秋田県生まれの新人ホステス見習いです。室井氏が青森県生まれなので、見え見えのフィクションのようです。文章は舌足らずのようですが、表現がサッパリしていて好感が持てました。
 気になったところは、ストーリーの膨らみに欠けるために、もっと掘り下げて描写してほしいと思うところが多々ありました。また、内容の珍しさに魅かれて読み進みましたが、読後は案外希薄な印象しか残りません。新鮮な気分で読んで行けても、おもしろいだけの物語に留まり、歯抜けの櫛のような読後感です。

 出来事で進行するよりも、人間の描写がなされていたら、これとは別のもっといい作品に仕上がったことでしょう。
 
 しかし、この人は、さらにおもしろい作品を書くことでしょう。藤田氏の言う「存在感」は感じませんでした。しかし、今後を期待して、今後の創作活動に注意していきたいと思います。
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2007年08月02日

読書雑記(2)『パール判事』快著誕生

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 中島岳志氏の『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社、2007.8.15、1,800円)が刊行されました。
 新進気鋭の手になる、読みごたえのある本です。内容は固い印象があります。しかし、若い人に、ぜひ読んでもらいたいと思います。学校で教わったこととは違う、視点を新たにした近現代の歴史が立ち現れてくることでしょう。

 中島氏の文章は、いつものことながら語り出しがいいですね。描写が生き生きとしています。話を聞きたくなります。希有の文才を持った若者です。

 本の内容は、パールという人物について<東京裁判>を中心に据えて、冷静に読み解いていきます。
 あとがきに、「本書では「パールの論理」を描くことはできても、「パールという人間」を描くことは出来なかった。」(303頁)とあります。著者の意図はともかく、パールという人物に真正面からぶつかった中から、私にはパールという人間がイメージできたように思います。
 中島氏は、パールを直視します。知りうる限りのことを語ろうとしています。パールの論理展開と歴史認識を辿る中島氏の姿勢には、好感が持てます。

 一つだけですが、欲を言えば、アメリカによる原爆投下について、やや詳述を避けたのではないか、と思われるのですがどうでしょうか。
 次は、中島氏の原爆投下についての意見を聞きたいものです。

 本書については、述べたいこと、紹介したいことがたくさんあります。今はこれ以上書く時間がないので、日を改めることにします。
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2007年07月25日

読書雑記(1)吉村昭『死顔』

 私が好きな作家の一人である、吉村昭氏の小説から始めます。

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 『死顔』(新潮社、2006・11・20)は、吉村氏の遺作短編集です。本書には、5編が収録されています。その中の2作、「二人」と「死顔」に、私は注目しています。それは、吉村氏の小説作法が解明できるものだと思うからです。

 この2作は、兄の死をめぐる同想の小説です。「二人」は平成15年1月に、「死顔」は平成18年10月に、共に『新潮』に発表されたものです。間に、4年弱の時間があります。
 本書の巻末に、吉村氏夫人の津村節子氏が「遺作について ―後書きに代えて」を書いておられます。その中で、この作品については次のように語られています。

 吉村は入院前に書き上げていた短編「死顔」があった。(中略)小説を書くだけの体力気力はなかったのである。かれにとって書斎が唯一心安らぐ場所で、「死顔」の推敲という仕事があってよかった、と思う。(154頁)


 「死顔」は、まさに吉村氏の遺作なのです。そして、これに対する吉村氏の推敲の手は、執拗に入れられたのです。
 津村氏は、さらに次のように語ります。

 「死顔」の推敲は、果てもなく訂正し続けた細かい字が並び、それを挿入する個所が印してある。あれはいい作品よ。私が言うのだから信じてね、と言っても納得した顔はしなかった。七月十八日の日記に、―死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる。ありがたいことだ。但し書斎に残してきた短編「死顔」に加筆しないのが気がかり―と記されている。(155頁)


 この吉村氏がこだわり続けた推敲の跡を辿ることは、それこそ吉村氏の小説作法が見えてくることにつながると思います。「二人」から「死顔」への流れと、「死顔」の飽くなき推敲の検証は、今の私に、それができる時間があればやりたいことですが、どなかたがなさるのであれば、応援したいと思います。
 吉村氏がこの「死顔」の出来に拘ったのは、前作の「二人」の内容との重複に納得できないものがあり、それを解消するための戦いを推敲作業の中でするつもりだったからではないでしょうか。前作にあった女の話が、遺作にはまったくないことなどは、こうした吉村氏の小説を仕上げる手法と関係しているように思っています。

 津村氏の追悼文(後書き)は、次の文章で閉じられています。

 「死顔」のゲラ校正は、私がかれのためにしてやれる最後の仕事となったが、幕末の蘭方医佐藤泰然が、自分の死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物も断って死を迎えたことが書かれている。
 ―医学の門外漢である私は、死が近づいているか否か判断のしようがなく、それは不可能である。―と書いているが、遺言に延命治療は望まない、と記したかれは、佐藤泰然の如く自らの死を決したのである。
 作中、私が褒めた場面で、川があたかも激流のように、こまかい波を立てて流れ下っている描写があるが、かれの父の死が引き潮時であったように、吉村が息を引き取ったのは七月三十一日の未明、二時三十八分であった。
(157頁)


 なお、本書所収の「クレイスロック号遭難」は未定稿であり、この作品のタイトルも津村氏が付したものだ、との編集部注記が巻末に記されています。
 私はこの作品を読んで、「小説と言えるかどうか。史実の描写のみ。ロシア人の死と日英のことに関係がない。」というメモを記しました。
 編集部の注記を知り、幕末から明治に関する吉村氏の創作の構想が窺えるものとして、資料的な意味を汲んで本書に収載されたものであることを、後で知ったのです。何も知らずに読んで変な思いを抱いたのは、それでよかったのですが、最初に断りがあっても良かったかな、と今となっては思われます。こうした事情は、事前に知らされる方がいいのではないでしょうか。

 吉村氏の生きざまが垣間見えるこの短編集は、これまでの吉村小説を読み直すきっかけを与えてくれるものとなりました。
posted by genjiito at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ■読書雑記