2014年01月23日

読書雑記(92)浅田次郎『活動寫眞の女』

 昨日の記事「京洛逍遥(304)京都府立鴨川公園と目玉の松ちゃん」を受けて、京都の映画草創期を扱った作品を取り上げます。

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 本作品では、映画の全盛期から衰退の様子について、次のように語っています。


「映画少年」という言葉は今や死語であろう。だが、テレビの普及する以前の邦画全盛期に育った僕らは、およそ何入かに一人がまちがいなく「映画少年」だった。
 なにしろ町なかにはやたらと映画館があり、東宝、東映、日活、松竹、大映という邦画五社がこぞって週替わり二本立ての映画を上映していたのだ。
 もっとも、僕が京都に行ったそのころには、そうした隆盛の時代もうたかたのごとく去り、映画館は続々と閉業していたのだが。
 東映は伝統の時代劇からヤクザ路線へと転換し、東宝は時代におもねったグループ・サウンズの歌謡映画を作っており、日活は青春アクション映画を見限って、ロマンポルノの時代に突入していた。大映は最後の力をふりしぼった大魔神の像とともに消え去ろうとしており、とりわけ金看板の市川雷蔵がその年の夏に三十七歳の若さで死んだことは、邦画の凋落を象徴する出来事だった。(54頁)


 ちょうど私の青春時代と一致している頃の話です。

 そもそも日本に映画を持ち込んだのは、京都の実業家であった稲畑勝太郎です。1896年のこと。稲畑はリヨンで学んだ後、エミュエールが発明した技術と機器を、京都に持ち帰ったのです。京都電灯会社の庭で映写会をしたのです。

 本作品の中に出て来る京大北側の進々堂でのシーンは、いかにも京都らしい設定です。

 京都府立鴨川公園に、尾上松之助の銅像があることはすでに書きました。その松之助のことは、本書にはほんの少しだけ、それも一カ所で触れているだけです。

 本作の恵まれなかった女優の話は、私には中途半端な作り事に思え、退屈な思いをして読み進めました。この話の中では、プラスには働いていない設定のように思えるのですが。

 話の幕間に置かれた映画史とエピソードが、おもしろい味付けとなっています。
 この作品は、小説としての出来は評価できません。しかし、映画興亡史をわかりやすく知ることができる点では、少しは意味があるかもしれません。もちろん、小説としてではなくて、単なる読み物として。
 とにかく、彷徨える霊魂の話は説得力に欠けるため、作品全体が読者に迫ってくる迫力はありません。

 後半は話に真実味がなく、オタクの映画ネタに頼って展開するだけでした。
 一応、京都と映画史を扱った読み物がある、という意味で紹介しておきます。
 駄作です。【1】

書誌情報︰1997年に双葉社から単行本として刊行
     2000年に文庫版として双葉社から刊行
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2014年01月14日

読書雑記(91)高田 郁『ふるさと銀河線 軌道春秋』

 高田郁の『ふるさと銀河線 軌道春秋』(双葉文庫、2013年11月17日)は、これまでの時代小説とは一転して現代小説で構成されています。前作の「高田郁『あい 永遠に在り』」(2013/11/22)よりもさらに現代を舞台としています。新しい分野を開拓しようとする作者の、意欲的な作品群となっています。
 もともとは、川富士立夏というペンネームで漫画の原作を書いていた頃の作品群を、小説に書き改めたものだそうです。女性向けコミック誌『YOU』(集英社)に、「軌道春秋」として28回連載された、その漫画原作から8編を選んで小説にしたものなのです。「返信」だけは「あかぞえ」に寄稿したものだとか。
 双葉社を媒体にして、また新たな高田郁の作品群が拡がることは楽しいことです。

■「お弁当ふたつ」
 心温まる話です。平和そのものの日々が、意外な展開となります。そして、夫と妻の別々の行動が、一つに交わります。新しい高田郁のスタートです。元気が出る話となっています。【5】

■「車窓家族」
 人それぞれに、自分の過去を照らしてものを見ているのです。車窓から見える文化住宅の一室が、人々にさまざまな思いをさせていました。その話の仕掛けが巧みです。車窓をめぐる一コマが、朗らかに語られています。【3】

■「ムシヤシナイ」
 1本の包丁を通して、心の交流が描かれます。オジイチャンと孫の心温まる話です。そして、駅の蕎麦屋の存在が、大写しになります。【3】

■「ふるさと銀河線」
 関寛斎つながりで『あい 永遠に在り』が思い起こされます。北海道の雄大な自然の中で、星子の心の中が語られています。夜の空を見上げながら、星子が思う「羽ばたく勇気」が伝わってきます。【5】

■「返信」
 亡き息子の面影を抱いての陸別への旅をする夫婦。家族というものを考えさせられます。そして、「何もないところですが、そこがいいのです」という言葉が印象的でした。星空が残影として心に滲み込んできます。【5】

■「雨を聴く午後」
 「みっともなくても生きる」というセリフが心に残りました。また、セキセイインコが印象的です。内容は変化がなくて、不自然な設定です。しかし、人の心情は丁寧に描かれています。【2】

■「あなたへの伝言」
 前作「雨を聴く午後」をなぞるように展開します。アルコール依存症を扱う物語です。しみじみと、決意の固さが伝わってくる作品です。【3】

■「晩夏光」
 しだいに記憶をなくしていく母親の気持ちがよくわかります。そして、その母を見つめる息子が、感動的に描かれています。【4】

■「幸福が遠すぎたら
 学生時代の思い出が交錯する3人の待ち合わせ場所は嵐山です。充実した日々を振り返りながら、今の苦悩がお互いを慰めます。心が弱った時に読むと、勇気をもらえます。【3】続きを読む
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2014年01月09日

京洛逍遥(302)進々堂のパンと短編小説『毎日のパン』

 京都の老舗パン屋さんである進々堂は、昨年ちょうど創業100周年を迎えたそうです。その記念として小冊子を作り、店頭で配布しておられます。

 『毎日のパン』(いしいしんじ著、非売品、平成25年12月24日発行、進々堂刊)と題する文庫本サイズで35頁ほどの小さな冊子は、京都市内の同店12店舗に置いてあります。レジなどでお願いすると、無料で手渡してもらえます。2万部印刷されたとのことなので、まだ入手できるはずです。

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 私は、三条河原町店でいただきました。レジの下の開き戸の中に入っていたものを出してくださったので、カウンターを探しても見当たらない店が多いと思います。臆せずに、『毎日のパン』をください、と言ってみることです。

 この中身は、いしいしんじさん(織田作之助賞受賞作家)による書き下ろしの短編小説です。
 この作品が、どのように読まれていくのか、畑違いの私には皆目わかりません。
 お店の中に犬が入って来ることをはじめとして、洪水による被害の話は、谷崎潤一郎の『細雪』を連想させ、東日本大震災の時の津波を思い起こす方もいらっしゃることでしょう。


家屋のほぼ八割が、二階の高さまで水没(22頁)


とか、


水が襲いかかり、すべてを泥の下にかくしてしまう直前。(22頁)


など。さらには、


家が真っ黒い水にのみこまれつつある、その最中、おばあちゃんはからだをなげうち、まちがいなく、もろともに溺れたのだ。(23頁)


とあります。

 こういう表現に出くわすと、このような場面や表現が必要だったのか、私には疑問が湧きました。

 きれいごとで紹介すれば、ふんわり柔らかな食パンの感触が伝わってくる、心優しい話に出会えます、という紹介の仕方になります。その方が無難な紹介です。しかし、それでいいのか? 正直言って悩みます。

 この作品をどう読むか、という意味で、とにかく手にする価値はあると思います

 進々堂の続木創社長は、本冊子巻末の「ごあいさつ」で、次のように言われます。


百周年を記念していしいしんじさんにパンを題材に小説を書いていただくことを思い立ったのは、しんじさんのどの小説からも溢れ出る、人間の毎日の営みに対する温かいまなざしが大好きだったからです。毎日のパンと、人々と、白い犬の物語、お楽しみいただけたことでしょう。(34頁)


 また、この冊子を紹介した京都新聞(2013年12月26日発行)では、次のような記事になっています。


 いしいさんと家族ぐるみで交流のある続木創社長(58)が、デイリーブレッドに込められた思いも踏まえ、パンを題材にした小説の執筆を依頼した。

 「毎日のパン」は、主人公が働くパン屋に毎日来る1匹の白い犬を通して、当たり前すぎて普段見落としている大切なものに気付かせてくれる物語。1斤のパンは、家族ごとに異なる幸福の形として象徴的に描かれている。

 いしいさんは作品に関して「いろんなことがあっても、食べることは必ず毎日ついてくる」と話し、パンに限らない食の営みについて掘り下げている。

 続木社長は「それぞれのパンの楽しみ方をかみしめてほしい。パンには命をつなぐ社会的使命があることも伝えている」と喜ぶ。


 このように紹介されても、私には素直にこの作品を創業記念として祝福して紹介できないことを申し訳なく思います。
 こんな心得違いも甚だしい感想を持った者がいる、ということを記してもいいかと思い、記念のお祝いにはふさわしくないかもしれない駄文をしたためたしだいです。

 お前にはこの良さがわからないのだ、と言われれば甘受します。

 この短編小説をどう読むのか、1つの問題提起をしたいと思います。

 なお、私のブログ「読書雑記(80)続木義也『カレーの海で泳ぎたい』」(2013/9/26)で紹介した続木義也氏は、この進々堂の4男であることを付記しておきます。
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2014年01月08日

読書雑記(90)宮尾登美子『松風の家』

 今回、宮尾登美子の『松風の家』(上下2巻)は、文春文庫(1992年9月版)で読みました。
 明治、大正、昭和と、京都の茶道家元が貧苦の中から家を興すまでの物語です。

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(上)明治初年の京都における芸道三家の内、後之伴家の話がきめ細やかに語られます。
 もちろん、これは裏千家のことを意識しての仮名でありフィクションです。ここで物語られることと、実際の裏千家の盛衰が知りたくなります。
 芸道を継承する世界の内実を、赤裸々に語っています。人としてのありようが、道の中に埋没しながらも、あくまでも人間が描かれていきます。
 作者の問題意識と視点は、しっかりとしています。さらには、主人公である由良子の秘密が、最後まで読者を惹き付け、物語世界に引き込みます。由良子の父である恭又斎が隠居したことなど、由良子の謎は続くのです。
 物語は、母を恋い求める気持ちが伏流していて、読者の心を掴みます。
 産みの親と育ての親に対して、その思いを二分される時の由良子の逡巡の気持ちが、言葉巧みに描かれています。
 この由良子が実の母に逢おうとし、一大決心をして山崎の父のもとを訪れる場面が感動的でした。うまいと思いました。
 苦しい生活の中から編み出した円諒斎のお茶は、一般の人々に普及させるものでした。盆略手前などです。ただし、それには20年もかかった、とあります。
 業躰の不秀と結婚した由良子は、佐竹本三十六歌仙の小大君の和歌を通して、夫へ心を閉じて行きます。うまい設定です。
 後半の不秀の語りは、この作品を文学に押し上げています。
(下)芸道の家の隆盛が、ダイナミックに、ドラマチックに語り続けられます。人情の機微も丹念に描かれていきます。
 後之伴家に寄り添い、情勢を敏感に見据えて立ち回る人々も活写されています。
 一つの流派の家という群れを描くのが巧いと思います。家の動きが、個人から炙り出されているからです。家の存続にかける人々の心の内と、秘められた願望が滲み出ています。
 下巻の半ばで仙台の話になると、途端に読む速度が落ちて私は飽きだしました。話があまりに広がりすぎたからです。瑣末な話題になったと思ったのは、加藤家の話のあたりからです。
 折角のテーマが惚けて来たと思えたからです。その話が次第に14代家元に結び付きます。
 やがて、本流と合体して、またおもしろくなります。この遠回りは、余分な道草とも思えました。
 このことは、物語の構成に基因するものかもしれません。読む立場から言うと、作者の思いが強引なように思えました。最終的には、しっかりとした物語に紡がれたからよかったのですが……
 終盤は、辰寿が主役に回ります。そして、宗家を支えることになり、紗代子を浮かび上がらせます。
 仙台と京都の文化や生きざまの違いも、おもしろく書かれています。そして、由良子が包み込むように後之伴家とその家の人々を見守ります。
 最後の作者の語り口はすばらしいと思いました。話をぐっと盛り上げるのは、芸術的ですらあります。
 もっとも、人の情に寄りすぎる気がしないでもありません。しかし、長編を読み通し、人間の生き方を見聞きした読者の1人として、感情移入のできる展開ととじめになっていると思いました。
 義母と実父との死別に由良子の一生が立ち上がります。人それぞれの歩みが、走馬燈のように廻り来ます。【4】
 
□初出︰「文藝春秋」1987年1月号〜1989年3月号
□単行本︰1989年9月文藝春秋刊
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2014年01月05日

読書雑記(88)「忘れ去られた「ニッポン」にならないために」

 年末年始に、日頃はあまり目を通さない冊子などをまとめて読む機会がありました。
 その中で、一番興味深かったものをまとめておきます。

 石塚修氏(筑波大学人文社会系准教授)の「リレー連載 世界の中の日本研究16 忘れ去られた「ニッポン」にならないために」(『鴨東通信 2013.12 No.92』思文閣出版)は、私にとってまだよくわからない世界を垣間見させてもらい、日本の文化についてあらためて考えるヒントが得られるものでした。

 以下、石塚氏が述べておられることを引きながら、簡単にまとめます。

 まず、石塚氏の研究対象である「茶の湯」にまつわる話として、〈大寄せ茶会〉が取り上げられます。これについて、茶道評論家の佐々木三味氏(1893〜1969)がそれを〈三され茶会〉として批判しておられたことへとつながっていきます。
 〈大寄せ茶会〉とは、「いくつかの茶席を持つ茶寮などを借り、濃茶や薄茶の席主を決めて茶席を運営し、軽い食事〈点心〉も出し、参加者から会費を集める」(12頁)ものだとのことです。

 そして、これについて佐々木氏は、次のように言われたそうです。


(1)茶席に入るのを「待たされ」
(2)水屋からの点てだしの茶を「飲まされ」
(3)飲み終わると次の席を待つ人のために席を「追い出され」


 〈三され茶会〉とは、この三つの「され」から命名されたものなのです。

 こうしたお茶会の盛行を見て、次の感想を持つ方がいらっしゃるようです。


「茶の湯は日本でどうしてこんなに流行っているのだろう」
「茶の湯愛好者は日本にはまだまだたくさんいるので、今後もこうした会は続けられる」


 こうし風潮に対して、石塚氏は世界の中の日本研究の現状とこの茶会のことが似ていることから、警鐘を鳴らしておられます。

 そして、次のような感想を記されます。


 そうしたセッションやプログラムの席が満席になっているからといって、世界が「ニッポン」に注目しているかのように思いこむこと自体がははなはだ危険な思いあがりではなかろうか。果たして世界の総人口のどれほどの人々が、この「ニッポン」という国に強い興味関心を抱いているのかを考えてみると、はなはだ心もとないのが実態であるような気がしてならない。
(中略)
 つまりは、たまたま目的を同じくした愛好の人々が群れているからといって、そこに来ていない人までもがその目的を共有していると思いこんではならないのである。


 確かに昨秋スペインへ行った時も、多くの方々が日本文化や日本文学に深い理解と興味を示しておられました。日本のすばらしさを、あらためて実感して帰国しました。
 しかし、これを「目的の共有」という視点で見ると、スペインの方々の何パーセントがその理解に至っておられたか、ということを考えるざるをえません。はなはだ心もとない、裏打ちのない、個人的な手応えにしかすぎないものなのです。
 その手応えも、たまたま、イベント会場に集まった方々の反応からの印象でしかないのですから。

 石塚氏は、さらにこう続けておられます。


 オリンピック招致の成功や日本食文化の世界遺産登録はもちろん「ニッポン」を忘れ去らせないための「点」として大きな役割を果たしている。しかし、「点」は数多く連ねていかないと「線」にはならない。「線」にならなければ世界地図には存在が残せまい。
 では「線」にするにはどうすべきか。日本の次世代に正統な伝統文化の継承を確実にして、そのうえで世界に送り出すことであろう。外国での日本文化紹介の場で、外国語の流暢さの裏でよくよく中身を吟味すると、日本人の常識としてかなり怪しいことを自信ありげに話している新進の研究者を見かけることがある。小学校から英語教育をするのと同時に、日本の食文化や和装の基本、畳の上での立ち居振る舞いの基礎などについても、もはや家庭教育に期待すべくもない現状のなかで、生活科と同じように「日本文化科」として学ばせていく時期を迎えていると考える。


 海外における日本文学の研究状況を『源氏物語』という作品から見ようとする私にとって、この石塚氏の小文は私の痛点を突く内容です。
 「点」から「線」へということは、言い古されていながらも新しい意識改革につながることです。

 今私が取り組んでいる科研のテーマは、「海外における源氏物語を中心とした平安文学及び各国語翻訳に関する総合的調査研究」です。
 また、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉は、これまでに作りあげた『源氏物語』に関するデータや資料を再確認し、次の世代に引き渡す役割を担っています。
 個人個人の取り組みが積み重なり、より多くの若者の手を経て、次の世代に引き継がれることの意義を、新年を迎えて自覚を新たにしました。

 昨年と変わらぬご理解とご支援をいただく中で、こうした目的を一歩ずつ実現していくつもりです。今年もコツコツと歩んでいくことになります。

 健康でさえあれば、あと3年はこうした課題に身を置いて取り組めます。
 まずは、昨年から引き続くいくつかの課題から実行していくことにします。
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2013年12月27日

読書雑記(87)伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』

 今年は、中盤からスペインに関する勉強に終始しました。特に、支倉常長たちの慶長遣欧使節団派遣400周年の記念事業の一環でスペインへ行く話が進展しだしてからは、さまざまな本を読み漁りました。

 専門外のことになると、「ウィキペディア」を見ることがあります。
 人には勧めません。しかし、重宝する情報が盛られている記事の集合体であることは確かです。
 そこに、『オーデュボンの祈り』について次のように書いてあります。


『オーデュボンの祈り』(オーデュボンのいのり、a prayer)は、伊坂幸太郎による推理小説。作者のデビュー作であり2000年に新潮社から出版され、同年の第5回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した。
2004年にラジオドラマ化、2009年に漫画化、2011年には舞台化された。
(中略)
仙台との関わりが深く、話の中にこまめに登場する(支倉常長など)。これらの仙台近辺を利用した語り口は、伊坂の後の作品にも受け継がれている。


 また、「支倉常長」についての記述の中で「支倉常長が登場する、あるいは彼をモデルにした作品」という項目に、遠藤周作の『侍』と共に、この『オーデュボンの祈り』もあがっています。

 それなら、と思って読んだのがこの本です。

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 私は、伊坂幸太郎の作品を読むのは初めてです。
 この手の本を読むことはなかったので、なかなか話に入っていけませんでした。しかも、私の意識の中では、支倉常長を追いかける意図で読むことにした小説なので、なおさら読み方に先入観が先行しています。
 この小説は、私の期待をすっかり裏切ってくれました。新潮文庫で456頁もあり、それなりに時間がかかりました。ただし、期待外れでも、伊坂流のおもしろさが伝わってきたので、途中で本を置くこともなく読み終えたのだと思います。

 数カ所、物語の舞台との関連で「支倉常長」という単語が出てきました。しかし、それは内容とは直結しません。あてが外れた、というのが正直な感想です。しかし、めったに読まないタイプの作品なので、それなりに楽しみました。

 以下、ピンボケの読書体験を伴っての、個人的な読書メモです。

 仙台沖の牡鹿半島の南にある荻島が、この物語の舞台となっています。
 この島は、150年も外界と交流を絶った孤島です。支倉常長が、ヨーロッパとの交流に利用しようとしたという島だといいます。ここでの、現代日本と日常を切り離された世界における、おもしろい話が展開します。

 リアリティに欠けるところがこの物語の特徴だ、と作者は言っています。
 確かに、思いがけない話題と仕掛けが楽しめます。ただし、私はこの手の作品が苦手なのか、後半は読み飛ばしてしまいました。
 いかにも作り話の域を出ていないからでしょうか。
 さらには、私がこの本を手にしたのが、支倉常長の話が書かれていると思い込んで読み始めたせいもあります。

 とにかく、支倉常長のことは、数カ所で触れられているだけで、物語とは特に接点を持っていません。この、私が勝手に期待したことと、あまりにも違う作品だったので、肩すかしを喰った思いです。
 機会を改めて別の目で読むと、というよりも素直に読み進めると、伊坂幸太郎流のおもしろさが伝わってくるかも知れません。【1】
 
 
注︰巻末に以下の注記があります。

この作品は平成十二年十二月新潮社より刊行され、文庫化に際し改稿を行った。
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2013年11月22日

読書雑記(85)高田郁『あい 永遠に在り』

 『あい 永遠に在り』(2013.1、角川春樹事務所)は、高田郁が自身に対して、一回り大きくなるための試練を課したと思える作品です。
 完成度としては、まだ工夫の余地がありそうです。しかし、新しい視点と表現手法を模索していることがよくわかりました。その意味では、作家の成長過程を見せてもらったと思っています。

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第一章 逢
 記憶に色が付けられて行きます。関寛斎とあいの結婚式の場面が情愛たっぷりに語られていて、印象的です。ただし、全体として彫りが浅いようです。話のテンポがゆったりとしていて、物足りなさを感じました。【3】

[初出誌]「ランティエ」2012年8月号

第二章 藍
 月光が物語の中にうまく配せるようになったと思います。そして、醤油の香りもしてくる文章です。常に前を見て歩む寛斎とあい。目先のことよりも、永遠を見据える寛斎です。本作のサブタイトルである「永遠に在り」というテーマを支える章となっています。【3】

[初出誌]「ランティエ」2012年9月号

第三章 哀
 己が一念を貫き通す寛斎が、みごとに活写されています。気持ちのいい程に高望みはせず、自分の信念のままに生きている姿は、やや誇張気味に感じられます。しかし、そこがこの作品の太い柱となっているのです。江戸時代から明治時代へと社会が変わる中で、軸がぶれない人間の生きざまが、よく描かれています。【3】

[初出誌]「ランティエ」2012年10月号

第四章 愛
 永遠を見つめ、自らの人生を後代のために賭ける寛斎が、力強く描かれます。ただし、この同じ調子の語り口と展開に、少し飽きました。それでも、その展開の中から信念が伝わってきます。
 離縁してでも北海道に渡るという寛斎に、妻のあいは「連れていってくださいな。私も一緒に」と言います。終始夫に付き従う妻の姿の中でも、この場面が一番よく描けています。ごく自然に出たことばとなっているからです。そして、主人公はあいだったのだ、と気付かされました。
 ここまでの3章とはまったく異なる世界が現出します。高田郁が得意とする、情を湧き上がらせる物語に仕上がっています。【5】

[初出誌]書き下ろし
 
 本作では月をうまく描けているところに、作者の大きな成長を確認できました。加えて、山桃の存在感もしっかりと伝わってきます。
 自分の力で考えて歩む人生のすばらしさを、しみじみと感じさせてもらいました。
 ただし、後半まではもたもたしていて、盛り上がりに欠けていました。苦労の中で、耐えながらも前を見据えて生きる2人を描くという、その設定と内容がそうさせたと思われます。
 それが、第四章に至り、突然おもしろくなります。
 九州から北海道までと、スケールの大きな舞台を背景にした物語なので、それまでの視点が落ち着かなかったかと思われます。また、史実の寛斎に拘束され、あいが描きにくかったとも言えるでしょう。しかし、第四章では、そのしがらみから解放されたかのように、あいが活き活きとしています。
 一組の夫婦の波瀾万丈の生きざまを、丹念に描き終えています。これまでの高田郁の世界が、これで一回り大きくなったことがわかります。今後のさらなる活躍に期待を持たせます。【3】
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2013年11月05日

読書雑記(84)見限った本が大賞受賞−小説の評価はおもしろい

 本日(2013年11月4日)の京都新聞に、「初代京都本大賞に「珈琲店タレーランの事件簿」岡崎さん」という記事が掲載されていました。

 〈京都本大賞〉というのは、京都を舞台にした小説で最も読んでほしい本を選ぶ、というものだそうです。これは、京都府書店商業組合が主催するもので、以下の趣旨で投票を募ったものでした。

「京都本大賞」とは、過去1年間に発刊された京都府を舞台にした小説の中から、もっとも地元の人々に読んで欲しいと思う小説を決める賞です。
決定方法は書店員だけでなく、一般の読者と共に投票で決定します。
ぜひ投票にご参加ください!

ノミネート作品は以下の3作品です。

●『回廊の陰翳』広川純 / 文春文庫
●『珈琲店タレーランの事件簿』岡崎琢磨 / 宝島社文庫
●『史上最強の内閣』室積 光 / 小学館文庫


 その第1回の大賞受賞作が、岡崎琢磨氏の『珈琲店タレーランの事件簿』(宝島社文庫)でした。
 投票結果は、『珈琲店タレーランの事件簿』642票、『史上最強の内閣』388票、『回廊の陰翳』118票でした。圧倒的な支持を得たと言えます。

 この本について、私は次の「読書雑記」で取り上げました。
 あまりいい評価はしていません。共に、〈5段階〉の【2】です。

【3.0-読書雑記】「読書雑記(52)岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』」(2012/11/14)

【3.0-読書雑記】「読書雑記(67)岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿2』」(2013/6/19)

 特に、後者の『珈琲店タレーランの事件簿2』については、次のように書きました。


 この第2作目は、さらに出来が悪いようです。前作にあった文章のキレがまったく感じられません。私は、いいところを探すようにして読むことが多いと思っています。しかし、これに関してはまったくそうした褒めるところを見つけられませんでした。
 『〜3』が刊行されても、それを読むかどうか……。余程大々的な変化が見られない限り、もう読まない作家となりそうです。相性の問題だと思われます。作者さん、ごめんなさい。何事も縁ということで。


 つまり、この岡崎氏の作品は、私が見限ったものです。
 私は、文芸評論家でも批評家でもありません。しかし、意識の中で消えていく作家だっただけに、この本が大賞を受賞したというニュースに、私は興味を持ちました。自分の価値観と異なるものが評価される、ということは、自分の本の読み方や感じ方に刺戟を与えてくれます。
 選考の趣旨と選考委員によって、当然判断は異なります。そのことは当たり前としても、その理由付けを知りたくなります。その選評が公開されるのが楽しみです。

 なお、本に関する最近の賞については、【3.0-読書雑記】「読書雑記(79)東西の本屋さんによる受賞作2点」(2013/9/4)に書きました。

 東京を中心として〈エキナカ書店大賞〉があり、大阪で〈Osaka Book One Project〉が設立されました。いずれは京都も、と思っていた矢先だったので、この〈京都本大賞〉は自然の流れの中で生まれた賞だと言えるでしょう。

 いろいろな賞が設立され、さまざまな本が受賞することは、非常にいい傾向だと思います。
 書店に行っても、多彩な内容の本が並んでおり、どれを読もうかと迷います。そんな時に、賞というレッテルが貼られている本は、読んでみようという気を起こさせます。新しい世界を知りたい、今の流れを知りたい、という思いを満たす本の選択に、受賞作というものは一つのきっかけを与えてくれます。
 それが、その人にとってアタリかハズレかは、また別のおもしろい問題だとして……
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2013年10月18日

読書雑記(83)大泉光一『キリシタン将軍 伊達政宗』

 スペイン行きを控えて、大泉光一氏の『キリシタン将軍 伊達政宗』(2013年9月、柏書房)を読みました。

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本書の帯には、次のように記されています。


支倉常長がヨーロッパへ渡った真の目的は?

メキシコ、スペイン、イタリア…
17世紀の海外文書が暴く驚愕の真実!!

慶長遣欧使節団派遣400年記念

政宗が使節団に託した最高機密事項とは?

日本のキリスト教徒たちの悲願は、政宗が将軍になることだった!


 また、柏書房のホームページには、次のように内容が紹介されています。


新事実を発見!東北の雄・伊達の秘めた野望を、支倉常長研究の第一人者が解き明かす!!


 参考までに、本書の目次をあげます。

プロローグ 江戸時代初期における日本の対外貿易およびキリシタン政策
第1章 伊達政宗の遣欧使節派遣の計略
第2章 江戸におけるキリシタン迫害と「訪欧使節団」派遣の狙い
第3章 支倉とソテロ、スペインとの外交交渉に辛苦
第4章 支倉、政宗の名代としてローマ教皇に服従と忠誠を誓う
第5章 幻のキリシタン将軍伊達政宗
第6章 使節一行、ローマを出発し、スペインへ戻る
第7章 政宗が夢見た「キリシタン帝国」とは
第8章 政宗謀叛説を傍証する「東奥老士夜話」
第9章 政宗、領内のキリシタン弾圧に踏み切る
エピローグ ルイス・ソテロ神父のローマ教皇宛て書簡に関する
      異端審問委員会長官ドン・イバン・セビスコ博士の覚書


 本書は、著者が半世紀にわたって取り組んだ、ライフワークの集大成です。
 『侍』を執筆した遠藤周作をメキシコに案内したことなど、さまざまなエピソードを交えながら語っています。
 「あとがき」には、NHKの番組批判も記されています。これは、興味深い問題提起ともなっています。東日本大震災後の東北の復興支援に名を借りた、こじつけの論破となっているからです。
 また、間違った歴史観の指摘も貴重です。
 このテーマに関する資料が日本側にないこともあり、諸言語の翻訳とその解釈の問題も表面化しています。これは、著者の読みに関しても波及することにもなります。思い込みによる資料の解読はないのか、ということです。

 資料を基にして行なう立論や論証をする際の研究手法についても、学ぶところの多い本でした。基本となる共有資料の読み方の確定は、この問題の喫緊の課題のようです。

 さて、著者の持論は、支倉常長がメキシコからヨーロッパへ旅をしたのは、通説のような伊達政宗が通商交易のために宣教師を派遣要請したこととは異なる、ということです。
 在外の多くの原典資料を読解することによって、実証的に通説の否定を繰り返します。その信念が伝わってくる論調に、圧倒されます。
 ただし、素人ながら、その論証の過程には、付いて行けないことも多々ありました。

 それはともかく、とにかく面白く読めた、の一言です。

 政宗の「訪欧使節団」の派遣真相は、ますますわからなくなった、というのが率直な感想です。

 慶長の使節団には、次の2つの役割があったとします。


慶長遣欧使節団は、幕府と仙台藩合同派遣の「訪墨使節団」と、後述するように仙台藩単独派遣で政宗の密命を佩びた「訪欧使節団」の二組で編成されていたのである。(32頁)


 そして、政宗将軍待望論があったことも、証明しようとしています。

 支倉たちの訪問について、スペイン側が疑念を抱いたことが多くの記録から炙り出されます。日本の皇帝(将軍)がキリスト教の禁制をしているのに、奥州の王(政宗)が外国からの宣教師派遣を求める矛盾を見抜かれていたとする件は、大変おもしろく読みました。
 すると、この支倉たちの旅が何だったのか、ますます謎が深まります。

 支倉のスペインでの洗礼について、著者は遠藤周作の『侍』を引いて、遠藤よりもさらに同情的に支倉の入信を確信しています。ただし、支倉の名前を記した洗礼台帳は、いまだに見当たらないそうです(144頁)。

 『仙台市史』を取り上げて、政宗がローマへ使節を派遣した主目的の所を翻訳していないことを、問題にしています(166頁)。
 確かに、資料の信頼性と研究を紛らわせる一例といえます。この指摘は、歴史研究において大事なことです。政宗がローマ教皇に服従を誓うために、支倉たちを派遣したことを確認する文書なのですから。

 支倉たちがメキシコに続いて訪問した都市名が列記されています。参考のために、ここに引いておきます。


キューバ、スペイン(セビィリャ、コルドバ、トレド、マドリード、サラゴサ、バルセロナ)、フランス(サン・トロペ)、イタリア(ジェノヴァ、ローマ、フィレンツェ)


 1614年に政宗は、大坂冬の陣で行き場を失ったキリシタンを大勢匿います。その理由は、政宗が将来、キリシタンと手を組んでキリシタン帝国を建設し、倒幕決起を目論んでいたためではないか、と著者は言います。ここは、もっと傍証となる資料がほしいところです。

 私には、平将門の説話に近い論理や展開を感じられました。

 著者は、政宗の策謀が功を奏さなかったのは、彼がソテロ神父を他力本願的に対処した、その姿勢にあったとしています。

 不確実性の高い計画だったために、キリシタン将軍となってキリシタン帝国を築く野望が潰えた、と著者は言います。
 鋭いというよりも、おもしろい指摘です。ただし、やはり資料に裏打ちされた論理展開でないところに、読者の一人として素直に読み切れない印象が、最後まで付きまといました。

 膨大な資料が提示され、その解釈で推論が展開していきます。
 しかし、その資料の翻訳や翻字の信頼性とその解釈の妥当性がどこまで客観的なものなのか、というところで、筆者の存在が遠ざかります。このことが、読み手である私が素人であるが故に、常に不安がつきまといながらも残りました。
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2013年10月03日

読書雑記(82)遠藤周作『侍』から見える支倉常長像

 支倉常長は、学校で教わった名前として記憶しています。
 しかし、自分でも意外なほどに、その実際を知らなかったことがわかりました。
 今回、スペインへ行くにあたり、これが奇縁で支倉常長に関する本を何冊か手にしました。
 まずは、私が安心して読める小説、遠藤周作の『侍』(新潮文庫、平成15年11月24版)からです。
 

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 東北陸前の小さな村での、一人の男の様子から、丹念に語り起こされます。
 そして、話はしだいにローマへとつながり、日本の対外政策へと展開していきます。
 長谷倉(支倉)六右衛門が日本を発つまでの慌ただしさの背景に、キリスト教内部の揉め事がうまく点描されています。

 物語は、支倉倉と宣教師ベラスコの視線で、交互に語られていきます。語りの主体が変わる毎に、人間のものの見方や考え方だけでなく、文化の質の違いも浮き彫りになる形です。
 また、神とは何か、という自問も、作中の登場人物たちが抱くこととなります。
 神聖なる宗教を布教して広める行為と、その裏に蠢く私利私欲も、巧みに織り交ぜているところが、遠藤らしい構成だと思いました。

 登場人物たちの腹の探り合いが、この作品をおもしろく読ませます。メキシコからスペインへ。克明に船旅の記録と人間の心の記録が刻まれていきます。

 スペインに到着してから、長谷倉たちにキリスト教への帰依という問題が降りかかります。それが本心からではないにしても、目的を達成するために、生きていくために……。心の葛藤の中で苦しみます。
 また、長谷倉たちは、日本からの正式な使節として派遣された者ではないことも、わかりやすい形で炙り出されます。国と国、人間と人間の関係性が、うまく綴られていくのです。
 キリスト教をめぐる論争が行われる所では、日本人論が展開されていきます。

 スペインで知った、日本でのキリスト教禁制は、長谷倉たちの人生を大きく変えます。自分たちのしようとしていることが、すべて無になったのです。故郷が何度も夢に出てきます。
 わずかな活路を求めて、スペインからローマに行くことにします。旅を続け、前に向いて歩むしかなかったのです。

 しかし、それも思い通りの結果は残せませんでした。惨めさと、虚しさを、これでもかと味わうだけでした。
 ヨーロッパからの帰路、田中太郎左衛門が自害します。これが、この長谷倉たちの旅を象徴する出来事だといえます。日本人にしかわからない、日本独特のものの考え方として、異文化圏の人には理解されないこととして語られます。

 厳しいキリシタン禁制が敷かれた日本に、7年の旅を終えて帰ってきた長谷倉たちは、自分たちの旅とその役目が無意味なものだったことを思い知らされ、愕然とします。そして、ひっそりと目立たずに生きていくことを強いられます。

 最後は物語を支えていたみんなが、お仕置きという現実に散っていきます。
 しかし、読み終えて、心に残るものが多くありました。

 私は、次のことばが、この作品の中で一番印象的だったものとして思い出されます。

人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを−たとえ、それが病みほうけた犬でもいい−求める願いがあるのだな。(377頁、新潮文庫)


 この小説の主人公をはじめとして、実際には支倉常長とその使節団のことは、あまり研究が深まっていないようです。
 今回の、支倉常長たち慶長遣欧使節団派遣400周年の記念事業として、スペインで開催される国際集会「スペインにおける日本年」を機に、より一層歴史が掘り起こされ、幅広くこの事実が理解されることを期待したいと思います。
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2013年09月28日

読書雑記(81)澁澤龍彦『高丘親王航海記』

 初めて澁澤龍彦の小説を読みました。しっかりした文章、考え抜かれた構成、そして現実と乖離しながらも読者を惹き付ける物語展開。今から千年以上も前の人間の生きざまを、幻想の世界を彷徨いながら追体験しました。
 現実を超越した世界がこのように描き出されていることは、特筆すべきものだと思います。
 

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 以下、日頃はこうした作品をほとんど読まないので、各章ごとに思いつくままのメモを残しておきます。
 
■「儒艮」
 高丘親王が中国の広州から天竺へ向かったのは、貞観7年(865)の正月でした。話はここから始まります。
 7、8歳の親王に天竺の魅力を吹き込んだのは、父平城帝の寵姫であった藤原薬子でした。その薬子が印象的に描かれています。そして、薬子の死と共に12歳の親王も廃太子になったのです。
 20歳を過ぎて落飾。24歳で空海に師事。
 天竺へ向かう途中で、儒艮や大蟻食いの話があり、南洋の雰囲気にさせてくれます。【4】

■「蘭房」
 カンボジアの後宮に行くことになった親王の目に映るものすべてが、異国情緒を漂わせています。奇譚となっていくのです。陳家蘭と呼ばれる単孔の女たちの話が、興味深く語られます。そこにいた7人の全裸の女性は、みな下半身にさまざまな色の羽を持つ鳥だったのです。【2】

■「獏園」
 親王はマライ半島に移ります。そこで土民に掴まったのです。行った先は、今で言う動物園。夢を喰う獏の話は、おもしろく読めます。親王の夢を食べる獏は、いい香りのする分をすると言います。また、夢を見てもすべて獏に食べられるため、記憶に残らないとも。そのせいもあって、親王は鬱屈していきます。そんなある時、薬子が父平城天皇を殺そうとする夢を見ました。その後、獏と少女の不思議な風景を目にします。空想物語がみごとに紡ぎ出されていいて、読みながら引き込まれていきました。【5】

■「蜜人」
 親王たちの船は流されて、ビルマに着きました。そこで、犬頭の男の話が展開します。さらに、蜜人へと。蜜人とは、バラモンが蜜を食べて捨身すると、その屍体が馥郁とした芳香を放つようになる者のことです。アラビア人が言う蜜人採りに、親王たちは関わるのです。インドへ行くために。
 しだいにグロテスクな話となっていきます。作者の本領発揮というところです。
 親王は、よく夢を見ます。得意技でもあります。そして、空海とのやりとりには大らかさが滲んでいて、好感が持てました。その夢の中には、必ず薬子も出てきます。
 現実と空想、過去と現在が行きつ戻りつし、スケールの大きな語り口を堪能しました。【4】

■「鏡湖」
 親王は、お供3人を連れることなく、1人で雲南にやってきました。心細さよりも、楽天的に考える人でした。そこでの体験がおもしろいのです。人間の存在について考えてしまいます。不思議な話に引き込まれます。穏やかな文章もいいと思いました。【4】

■「真珠」
 セイロンへ向かう船の中でのことです。儒艮をめぐって、不思議な話が繰り広げられます。また、死についての話題が多く語られます。船はセイロンには着かないままです。どこに辿り着いたかは、読者には伏せたままです。【2】

■「頻伽」
 ベンガル湾にあると言われた魔の海域に至ります。
 親王たちが漂着したのは、スマトラ島だったようです。しかし、親王たちはそのことを知りません。まだセイロンかと思っていたのです。
 死にゆく親王とパタタ姫の会話は、無機質で干からびた感じがうまく出ています。2人が出した結論は、虎に喰われ、その虎に天竺へ運んでもらうというものでした。発想は奇想天外です。しかし、強い目的のために設定されたものなのです。
 終盤になって、やたら作者が物語の中に顔を出すようになりります。語りが現実味を持ち、これが不自然ではないのです。
 また、薬子が姿を見せます。この夢想の中の話も、柔らかく包まれて語られます。
 そして、幻想的な結末に。
 1年にも満たない高丘親王の旅は、こうして終わったのです。【4】
 
 この作品は、昭和60年に執筆を開始し、62年10月に文藝春秋社から刊行されました。
 今回、私はこれを読みました。
 澁澤龍彦は62年8月に亡くなっているので、遺作となったものです。
 本作品は、第39回読売文学賞を受賞しています。
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2013年09月26日

読書雑記(80)続木義也『カレーの海で泳ぎたい』

 我が家の近くに、自家焙煎の「カフェ・ヴェルディ」があります。
 このお店のことは、「京洛逍遥(283)下鴨の「カフェ・ヴェルディ」が開業10周年」(2013/8/14)で紹介しました。

 そのお店のオーナーである続木義也さんが、『カレーの海で泳ぎたい インド料理の見方・食べ方・楽しみ方』(マリア書房、2013年8月12日)を出版されました。
 

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 かねてよりカレーと縁の深い方であることは仄聞していたので、早速読みました。
 とにかく、おもしろい本です。

 現在、急激に変わりつつある日本のインド料理の実態が、楽しいエッセーと豊富な写真と、おしゃれな脚注で語られています。コラムも一味違っているので、多彩なマサラの世界が拡がります。

 筆者続木さんは、今年で創業100年を迎えた京都の老舗パン屋さん「進々堂」の四男です。京都人だな、と思うくだりがふんだんに出てきます。
 珈琲店の店主として、コーヒーについての質問を受ければ、それにはその道の専門家として語る用意があると仰います。問われれば、という謙虚な姿勢が顕著です。すぐに熱く蘊蓄を……という東人との違いが行文のそこここに見られて、東西の職人の気質がおもしろいと思いました。

 料理についても、自分は作らずに食べ歩くことに徹しているのも、気持ちのいいものがあります。
 カレーに対する思い入れが、温かく伝わってきます。

 目の前で語っておられるような錯覚に陥るのは、非常に具体的で的確な評価を下しながら、次々と話題が展開するからでしょう。背伸びしない語り口が、目にも耳にも優しいのです。
 これは本なので、残念ながら、舌と鼻は楽しませてもらえません。

 文章に関する注も、お店や地名や料理のことが、脚注というよりも下向きの吹き出しか風船のような仕掛けでぶら下がっていて、工夫された楽しい情報提供となっています。

 筆者の語るインド人気質も興味深いものがありました。私は10年近くインドに通い詰めています。ただし、デリー中心です。その中で掴んだインドの方々の特質が、著者の言うものと大いにズレを感じます。
 これは、インドにどれだけ行ったのかということよりも、インド料理に関わっている人とどれだけ多く接してきたか、ということの違いからくるもののようです。私は学校関係者であり、著者は料理関係者です。自ずと、そこには違いがあるのは当然です。しかし、そこは同じインド人のことです。大いに理解を深める指摘もたくさん出てきました。

 インドとネパールの違いについては、私も同感です。
 両国は違うのに、日本では混同して捉えられています。

 本書は、全編がインド料理を中心にしています。しかし、和食・中華・洋食も取り込んだ食べ歩き記となっています。話題が豊富で、文章にも躍動感があります。
 これは、筆者が一番語りたいことをストレートに語り下ろしているからでしょう。

 著者は、画一的に決めつけるのを嫌い、それぞれの個性を見ようとしています。
 「寿司・天ぷら・スキヤキ」と「ナン・カレー・タンドリーチキン」が、お互いの国の料理だという先入観を批判もしています。単一化がかえって実態をねじ曲げる例とも言えることです。

 次の例は、私がいつもインドでお世話になっている先生の檀那さんがお医者さんなので、以前からよく聞いていたことです。


実は、インド人がよく食べる主食と言えば、圧倒的にライス。特に南インドへ行くと、ものすごい量のご飯を食べるそうである。あまりにもご飯を採りすぎて糖尿病の患者が増えたため、医者がアタで作るパン、チャパティを推奨しているとか。そんなライス文化の国なのだから、カレーもご飯に合うものが多いのは当たり前。(53頁)


 糖質制限食を心掛けている私にとって、この炭水化物の摂り過ぎは興味深い事例です。
 このままではインドは、これからますます糖尿病大国になることでしょう。

 ランチだけでは味は分からない、ということも納得しました。確かに、提供する対象も、調理方法も、ランチとディナーでは違うのですから。

 さらには、こんな話も。


ランチやターリーとアラカルトで味に大差のないインド料理店は、マサラの使い方など総合的な技術を持っていないか、日本人を見下しているかのいずれかかもしれない。(58頁)


 もう一つ。おいしくなかった時のうまい褒め言葉について(85頁)。


日本料理の場合:「懐かしい味ですね」
それ以外の国の料理の場合:「本場の味ですね」


 これは使えます。

 本書には、京都のお薦めレストランが目白押しです。京都のインド料理は食べ尽くしたと自負するほどのことはある、充実した情報です。ぜひとも、私も折々に渡り歩いてみたいと思います。ただし、摂取する炭水化物の量をよくよく注意しながら。

 お薦めのインド料理店は、京都だけではありません。
 好奇心旺盛な筆者は、東京の情報もしっかりと押さえておられます。

 満腹状態で本書を綴じた時、私の大好物のパニールについて、まったくと言っていいほど情報がありませんでした。出てきたのは1回だけで、アラカルトの料理名として「パラクパニール」しかなかったように思います。その注も簡素なものでした。
 私のように、消化管にやさしいインド料理を探し求めている者にとっては、パニールはありがたい料理です。どうして触れておられないのか、機会があれば珈琲店「ベルディ」に行った時に聞いてみたいと思います。

 とにかく、食べ物について人の嗜好はさまざまです。しかも、それが外国発祥のものであればなおさらのこと。食材からして違うのです。一口にインド料理と言っても千差万別です。本場の味などは、どだい無理なので、自分がおいしいと思うものを楽しむことに行き着きます。

 北インド料理から南インド料理へと、現在の状況や流れが広がりつつあることわかりました。しかし、私が毎年行くデリーでは、至るところに南インド料理があり、私もよく行っていました。

 現地の人々が暮らす地域には、デリーであっても南インド料理のお店は多いのです。多少、北インド料理店よりも値段が高く、少し上品な雰囲気の店が多かったのは確かですが。
 北も南も混在するのは、いろいろなものに興味を示すインド人の習性だと思います。北インド料理から南インド料理へと、という流れは、日本にいるインド人の方々から聞いた話を元にしてのことなのでしょう。あくまでも日本でのこと、として理解しました。
 イタリアのように南北に長い国なので、食文化の伝播も日本に適したと思われる北インドのメニューが先に受け入れられた、という事情もあるのでは、と素人ながら思いました。

 私はデリーで、そんなに辛いカレーは食べません。辛いモノを探せば多いのは確かです。しかし、地元の人はそんなにいつもヒリヒリするほどの辛さのマサラ料理は食べていません。
 私はインドへ行くと、いつも体調が良くなって帰ってきます。マサラという薬膳料理を毎日たべるからでしょう。そして、豆とパニール中心の料理は、添えてある唐辛子で辛さを調節するのです。
 これからの日本におけるインド料理は、辛さを競うのではなくて、人にやさしいマサラ料理を目指してもらえたら、と思うようになりました。

 本書の巻末にある「京都のお店」と「東京のお店」と「インド料理豆知識」、さらに「京都マップ」は、早速PDFにして iPhone に入れて持ち歩くことにします。

 盛りだくさんの内容と、楽しい話で満腹です。
 ごちそうさまでした。
 また、「ベルディ」のコーヒーをいただきに行きます。
 
 なお、これまで私は、インドのカレーに関しては、小菅桂子さんの『カレーライスの誕生』(講談社、2002年6月)を折々に推薦していました。この本は、今年の3月に、〈講談社学術文庫〉の一冊として装いを新たに刊行されています。
 
 

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 今回、本書が刊行されたことにより、これも加えることにします。
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2013年09月04日

読書雑記(79)東西の本屋さんによる受賞作2点

 毎週のように東西を往き来していると、道中でいろいろと目に付くものがあります。
 そんな中から、本の話題を。

 〈本屋大賞〉(NPO法人 本屋大賞実行委員会)というものがあります。
 「新刊を扱う書店(オンライン書店を含む)の書店員」が、売りたいと思う本を投票で選ぶのです。
 創設からすでに10年を経ていて、今回が10回目となります。定着した賞だと言えるでしょう。
 本年度、2013年の大賞は、百田 尚樹 『海賊とよばれた男』でした。
 私はまだこれを読んでいません。

 これまでの〈本屋大賞〉受賞作の中で私が読んだのは、第3回の『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』だけです。選考基準と自分の好みがズレていることもあるのでしょうか。

 そんな中で、地域を意識した選書がなされるようになりました。
 今春、本ブログでも「京洛逍遥(265)本屋さんで多彩な京都と遭遇」(2013年3月17日)として、京都関連の本を集めたフェアを紹介しました。
 それが、さらに賞という形に昇華・凝縮して、地域・地元の読者に提供されるようになりました。

 まずは、関西の方から。

(1)Osaka Book One Project
  (2013.7.25発表)
 
 
 
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大阪の本屋と問屋が力を併せて、大阪のお客様に向けて絶対にはずさない1冊を150点以上のノミネート作品の中から選びました。
(ほんまに読んでほしい本)
Osaka Book One Projectは、この本の販売で得られた収益の一部を使い、大阪の児童養護施設の子供たちに本を寄贈いたします。
 
第1回受賞作
『銀二貫』
高田 郁 著
幻冬舎時代小説文庫
 
大阪天満宮を舞台に描かれる大阪商人の素敵な気質と人情...
大坂天満の寒天問屋の主・和助は、仇討ちで父を亡くした鶴之輔を銀二貫で救う。
大火で焼失した天満宮再建のための大金だった。
人はこれほど優しく、強くなれるのか?
一つの味と一つの恋を追い求めた若者の運命は?


 この賞の選考は、書店員有志と出版取次会社の約40人でなされたそうです。
 著書や内容が大阪ゆかりの文庫から4点に絞り、そこから投票で選ばれたのです。

 賞の意図が明確で、大阪という地域を意識した選考です。
 地元大阪はもとより、幅広く全国方々から支持される賞として続くことでしょう。

 なお、この受賞作『銀二貫』については、本ブログの「読書雑記(25)高田郁『銀二貫』」(2010/12/5)で、自分なりのメモを残していますのでご笑覧いただければ幸いです。
 
 つぎは、関東のものを。

(2)エキナカ書店大賞
  (2013.8.29 or 12(フライング?)発表)
 
 
 
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BOOK EXPRESS/HINT INDEX BOOK
 駅のなかの本屋さんが選んだ
いちばんオススメの文庫本!
第2回 ブックエキスプレス HINT INDEX BOOK
エキナカ書店大賞
  第1位
ミッドナイト・ラン!
  樋口 明雄
に決定!

 
 この賞については、チラシの中に賞の趣旨や作品の紹介があります。
 しかし、店頭で見える部分で比較したいので、ここでは情報が少なくなっています。
 以下、補足しておきます。


第2回受賞作
『ミッドナイト・ラン!』
樋口 明雄 著
講談社文庫
 
エキナカ書店大賞とは…
 今年からブックエキスプレスでは「エキナカ書店大賞」を始めました。これは全26店舖の従業員からオススメ文庫を募り、投票・選考会を経て「今いちばん読んでもらいたい本」を決めるというものです。駅を利用されるお客さまが手に取りやすく、電車の中でも気軽に読めるなど、推薦ポイントにはエキナカ書店ならではの特色が出ています。
 第一回受賞作「カミングアウト」(徳間文庫・高殿円著)に続き、今回の「ミッドナイト・ラン!」(講談社文庫・樋ロ明雄著)もエンタメ度の高い作品で読み応えがあります。まだまだ始まったばかりの賞ですが、今後もぜひご期待ください。
実行委員長 金谷真武(ブックエキスプレス東京北口店)


 この賞は、JR東日本の駅構内の書店(BOOK EXPRESS/HINT INDEX BOOK)の店員さんたちが、この1年間に読んで『面白い、お客様にも薦めたい』と思った本を選考したものです。
 昨年の第1回は、高殿 円の『カミングアウト』(徳間書店)でした。

 この『ミッドナイト・ラン!』を私は読んでいないのでコメントはできません。しかし、キャッチコピーなどによると、「エンタメ度の高い作品」だとか、「痛快無比なジェットコースター・ノベル!!」とあるので、刺激的な内容なのでしょう。「ネット心中、アル中、うつ病、引きこもり、集団自殺をするために集まった男女5人」ということばも躍っています。

 この夏に選考された2作品は、東西で特徴的な性格のものが選ばれたようです。
 印象批評は避けつつも、「西の人情味」と「東の疾走感」という選考結果の違いが、その宣伝文句の中から読み取れました。
posted by genjiito at 23:24| Comment(0) | ■読書雑記

2013年09月02日

読書雑記(78)寺澤行忠『アメリカに渡った日本文化』

 寺澤行忠著『アメリカに渡った日本文化』(淡交社、2013.7.19)を読みました。
 
 
 
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 目次は次のようになっています。

序章 日本文化の特質
第1章 伝統文化
第2章 現代文化
第3章 日本美術
第4章 宗教
第5章 俳句
第6章 日本語図書
第7章 日本語教育
第8章 大学における日本研究
第9章 アメリカ各地の日本文化
終章 文化立国・日本へ

 著者の「あとがき」の一部を引いておきます。
 調査した事実に基づいて今後の日本の方向を示そうとした、意欲的な報告書となっています。

まず、アメリカに渡った日本文化の全体像を出来るだけ客観的に肥述することを心がけながら提示し、その上で日本文化をよりよいかたちで海外に紹介するための方策や、日本が進むべき方向について考察した。(232頁)

 その調査は、自分の足で歩き、そして千人近い方々からの聞き取りを通してであることは、とにかく徹底しています。日本文化が海外でどのように受け入れられているのかを、著者の五体を存分に活用しての成果なのです。日本文化の伝播が、具体的な情報や事例を基にして語られているのです。

 まず、茶道が話題となります。
 アメリカにこんなに本格的に伝わっているのかと、驚きました。
 裏千家の積極的な海外への普及活動は、特筆すべきものがあるようです。

 古典芸能の海外公演は、海外における日本人に日本文化の再認識を促す効用を持つという指摘は、それが具体的な分析によるものであるだけに、おもしろいと思いました。

 日本からアメリカに渡った日本美術の詳細な報告は、とにかく圧巻です。よくもこんなに、と思うほどです。これを見て、里帰り展と言われるものの位置づけを考えさせられました。アメリカに保管されていてよかった、と思われる事例がいくつもあるからです。

 今、私はハーバード大学が所蔵する『源氏物語』の調査を終えた所です。これは、鎌倉時代の中期といってもいいほどの写本で、『源氏物語』の中でも最も古い部類に属するみごとな古写本です。これも、アメリカに渡ったために、こうして無事に残っているといえるのですから。

 宗教としての禅がアメリカで広まっている情報は、貴重だと思います。日本の芸道の理解が、さらに深まることでしょう。

 日本文学の翻訳については、私がまとめた以下の仕事も紹介していただけました(103頁)。こうした機会を得て、広く知られることはありがたいことです。

『海外における上代文学』(国文学研究資料館、2006)
『海外における平安文学』(国文学研究資料館、2005)
『海外における源氏物語』(国文学研究資料館、2003)
『海外における日本文学研究論文1+2』(国文学研究資料館、2006)


 翻訳の重要性は、日本文化の国際理解に直結します。
 日本の翻訳事業について、国際交流基金の仕事の重要性が語られています。これは、海外に行って翻訳本の調査をすると、その意義深さが実感できます。

 これに関連して、事業仕分けで問題となった文化庁の「現代日本文学の翻訳・普及事業」について、興味深い数字が示されています。日本では年間予算は1億5千万円だったのが、フランスでは52億円も計上されているというのです(107頁)。理由はあるせよ、これは日本の文化行政の立ち後れであることは明らかです。真剣に考えるべき課題が、こうしていくつも提示されているのです。

 さらには、日本語の国際化についても提言があります。

鈴木孝夫氏が説かれるように、日本語を国連公用語にすることも検討されるべきであろう(『新武器としてのことば』、二〇〇八年、アートデイズ刊)。日本は国連に対し維持運営のための拠出金を、アメリカに次いで二番目に多く負担している。国民総生産(GDP)は、最近中国に抜かれたが、それでも世界第三位である。日本語を母語として使用する人口は、一億二五〇〇万人、世界第九位で、フランス語のそれより多い。日本語が日本一国でしか使われていないというなら、中国語も同様である。現在国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の六言語であり、日本語はこれらの言語の一角に加えられる資格は充分にある。日本語を加えることによる国連経費の増加分は、日本が負担することは当然であろう。(118頁)

 国連の公用語については、初めて知りました。
 確かに、日本語を理解しようとしている人々は、私の知る限りでも世界各国にたくさんいらっしゃいます。一言語としてではなくて、歴史や伝統と文化を併せ持つ言語として、自信をもって国際的な場でも使えるような環境整備から検討されてしかるべきだと思うようになりました。

 アメリカの図書館情報も興味深いものが目白押しです。ワシントンにある議会図書館の詳しい情報は、日本文化の伝わり方を理解する上で有益でした。

 アメリカの大学における研究者の情報も、網羅的で理解を深めます。アメリカ各地の日本文化とその研究に関する実態が炙り出されているのです。
 外国として訪れた者が見逃している日本文化の拡がりと足跡が、著者の足を使っての聞き取り調査により、具体的に現前してきます。気持ちがいいほどです。

 日本人留学生の減少については、ハーバード大学における次の例が典型的だと思いました。
 それは、次のように記されている箇所です。

ところで近年、日本人学生のアメリカに留学する数が、かなり減少傾向を示している。アメリカ国際教育研究所が発表した二〇一二年度の統計を見ると、アメリカにもっとも多くの留学生を送っている国は中国で一九万四〇〇〇人、次いでインドが一〇万人、さらに韓国七万二〇〇〇人、サウジアラビア三万四〇〇〇人、カナダ二万七〇〇〇人と続き、日本は台湾に次ぐ第七位、約二万人である、九四年から九八年にかけては、アメリカへの日本人の留孚生数は世界一であった。ところがピークの九七〜九八年に四万七〇〇〇人いた留学生が、今はその半分以下となり、中国の約一〇分の一に過ぎない。一方中国は前年比二三・一%増、アメリカにおける留学生の二五・四%を占めている。二〇一二年度におけるハーバード大学学部課程の留学生は、中国人五〇人、韓国人四七人に対し、日本人は九人しかいなかった。(215頁)

 これは、非常にショッキングな情報だ、としかいえません。

 終章で、日本が文化立国・文化大国を目指すように、著者は訴えています。

 今は、文化侵略などできない時代です。過去のことを持ち出して前に進めない状況に縛られることなく、国と民間の役割を見直すことが大事です。
 ソフト・パワーによる世界貢献のためには、本書の情報はますます判断する上での貴重な材料となります。そして、今後進むべき道やビジョンを検討する有益な情報源ともなります。

 なお、国立国語研究所のプロジェクトの一環として、議会図書館に収蔵された『源氏物語』の翻字や影印をインターネットに公開していることにも触れてほしかったと思います。
 アメリカに渡った日本の文化資源を、日本側で新たに掘り起こして日本の技術で世界に公開しているものなのです。これは、ハーバード大学所蔵の『源氏物語』についても同じことです。

 また、福田秀一先生の業績について、参考文献にあげられただけでは物足りなく思いました。
 アメリカに拘ってのものなので、思い切られたのでしょう。しかし、福田先生の功績は、忘れられないと思います。本書を一読して、福田秀一先生のお仕事の延長に位置する、すばらしい仕事の成果だと思いましたので、少し言及しておきます。

 著者が聞き取られた情報は、大学の日本学や日本語教育に関するものだけでも、今回はほんの一部だとのことです。続刊で、こうした点をさらに掘り下げて、分析結果を示していただけると幸いです。【4】
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2013年08月25日

読書雑記(77)中島岳志『「リベラル保守」宣言』

 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』(新潮社、2013.6.30)は、日頃は気になりながらも直視していなかった問題を、なるほどと思わせる視点とわかりやすい語り口で教えてもらえた本でした。
 
 
 
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 何を突然「中島岳志?」、と思われる方もいらっしゃるかと思います。
 小谷野敦氏のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」では、「笑わせるぜ中島岳志」(2013-08-18)という記事がアップされています。
 そんな最中に、この本を興味深く読んだのです。

 安心してこの本を読めたのは、私が著者を知っているからでもあります。
 中島君と一緒にインドで3ケ月間暮らした日々については、「突然インドへ飛ぶ(第3週 01/20〜01/26)」(2002/01/20)をご参照ください。

 私のインド体験は、すべてが中島君のおかげです。毎日、金魚のウンコのように連れ回ってもらっていたのですから。そして、その生活の中で、彼は真宗大谷派の「ばらばらでいっしょ」という言葉を口にしていました。「みんなでいっしょ」ではなかったので、強烈に印象深く刻まれた言葉でした。
 そのことが、本書を読んで繋がり結び付いたのです。
 そして、読み終わった今、保守思想とは何か、戦後の保守とは何だったのか、ということを思い直すことになっています。好い時に、良いタイミングで、佳い本に出会えました。

 本書は、「リベラル」と「保守」の接合点を探るものです。それは、近い将来しっかりとした理論を書くためのラフスケッチだそうです(「まえがき」より)。中島流「リベラル保守」のスタート地点をなすものです。

 そして、「あとがき」を見て、現実社会を自分の信念よって批判的に語ることの多難さを知らされます。橋下徹批判に関する問題です。
 本書は、当初の出版社からは刊行されなかったからです。メディアに対して持論を貫くこの若者の姿勢に、頼もしさを感じます。引くに引けない中での判断に、著者らしさが窺えます。
 上から目線の物言いですみません。インドで共有した中島君との生活の中で、その折々の言動の柔軟さと確固たる信念を見てきたので、本書を読みながら頼もしく見えたのです。当時、彼は京都大学の大学院生、私は国文学研究資料館の教員だったので、年上ということで許していただきましょう。

 本書を通して、私は、他者への寛容ということがキーワードになっていると思いました。それは、著者がインドでいつも口癖のように言っていた、「バラバラで一緒」ということに収斂されるものだと言えるからです。

 「輿論」と「世論」の問題も、おもしろく読みました(48頁)。日本語の問題として、私も興味があります。

 大衆が熱狂することへの懐疑を、ルーマニアのチャウシェスク大統領の処刑を例にして語る場面(72頁)は、説得力があります。そして、保守思想については、熱狂よりも葛藤に注視しているところに新鮮さを感じました。

 親鸞の思想への傾注を語るくだりも、言わんとすることがよくわかります。ただし、同感するかと問われると、私は今は保留です。違うと思うのではなくて、追いつけないというのが正直な感想です。

 多くの人々が社会に居場所をなくしている現在、保守こそその本領を発揮すべき時だと言います。革新だけでは打開できない社会のシステムを、大阪の橋下徹の発言や秋葉原事件を例にして炙り出していきます。

 著者の、人と他者への眼差しに好感を持っています。その関係性と自己存在の実感を重視するところに、中島流の保守主義があるようです。

 震災のこと、橋下徹のこと、原発のこと、貧困のこと等々。
 本書のこうした話題を読むうちに、中島流の切口から見えてくる話を、もっとたくさん聞きたくなりました。【4】
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2013年08月06日

読書雑記(76)清原なつの『千利休』

 清原なつの著『千利休』(本の雑誌社、373頁、2004.11)は、ズッシリと手に重みを感じる本です。それでいて、爽やかな装幀の本です。
 
 
 
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 パラパラと頁を捲ると、中はまんがなので、書店ではすぐに置く方が多いことでしょう。陰影のない線画で描かれているので、シンプルな感じの絵です。しかし、中身は結構濃いのです。

 まんがというよりも、文字の多いコミックと思って見たほうがよさそうです。これも1つの表現法なのです。
 広告のスペースを意識したかのような注は、小事典の趣があります。諸書を博捜して調べた努力の結晶、という読後感を持ちました。一生懸命に調べて書いた報告書、という趣の本です。

 利休が生きた時代を、丹念に描いています。注が多くて、説明に目を通すのが大変です。まんがとして読むと、情報量が半端ではないので、どっと疲れることでしょう。

 本編の中では、お茶の精神と茶道具のことが、何度も繰り返し語られます。そのせいもあってか、茶道の背景がよくわかりました。茶道史や日本文化史のいい勉強になりました。

 ただし、気になったことが散見します。改訂版を出されるときには、以下でとりあげる点に手を入れてほしいと思いました。

 光秀が、信長に出す料理の味付けを京風の薄味にし、不興を買ったことがありました。その時、光秀は急遽濃い味にした逸話が本書にも出ています。
 私は、この話を小さい頃から、父に何度も聞かされました。それが、何と3コマだけでの紹介という、実にサラッとし過ぎです(209頁)。あらかじめ知っていないと、この場面は何が何だかわからないことでしょう。この取り上げ方は、もったいないと思いました。あまりにも摘まみ食いした話題の連続で、ネタが流れていくだけです。それがかえって、読者の記憶に残りにくくしているのです。こうした場面が、至るところで見受けられました。

 利休は、慈鎮の「汚さじと思ふ御法の供すれば 世わたるはしとなるぞかなしき」という歌を、いつも口ずさんでいたそうです。この歌について、「茶の湯を生活の糧に使う事は悔しいことだ」と簡単な訳がついています(270頁)。しかし、読む人にこの歌の意味をわかりやすく伝えるためにも、ここはもうすこし親切な説明がほしいところです。
 こうした説明の過多が、随所で気になりました。

 また、利休の和歌に、変体がなの字母のままで「ミ」や「ハ」が使われています(339頁)。そこまでする必要はどこにあるのでしょうか。本書を読む人は、これは何だろう、と思うだけです。しかも、この字母は国語学的な特別な研究には必要であっても、一般的には意味をもたないものです。
 私は、翻字においてこうした「ミ」や「ハ」は使う必要がない、という考えをもっています。助詞の機能を調査研究する方にだけ必要な字母情報なので、それを混在させるのはよくないと思います。
 下手に変体がなに関する知識をひけらかすことは、この種の本には不似合いです。自分がよく勉強したことを見せたいがために、つい字母のままで表記したとしか思えません。

 また、上記の例で、利休の和歌に濁点がありません(339頁)。これも、古典文学への知識を見せておこうという魂胆が透けて見えて白けました。
 他では古文の引用に濁点を使っています(343頁)。それならば、この慈鎮の歌を引く横に、墨で書かれたものを併置するなりしたら、それらしくさまになったことでしょう。

 最後になって、かろうじて話を感動的に締めくくろうとする努力が、読み進んで来た私に伝わって来ました。
 よく勉強して描いた利休の一代記風のまんが物語となっていました。
 しかし、その勉強した舞台裏がチラチラと垣間見えたのが残念でした。

 完成度は低いながらも、下調べの努力は認められる作品です。
 付録に待庵を付けたのは、いいアイデアだったと思います。【2】
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2013年08月03日

読書雑記(75)宮尾登美子『伽羅の香』

 宮尾登美子の『伽羅の香』(中公文庫、昭和59年)を読みました。
 宮尾登美子の作品を読むのは初めてです。
 
 
 
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 どっしりとした、安定感のある文章で綴られています。いかにも作家の文章だという趣が伝わる、しっかりとした文体でした。久しぶりに小説家の文章だと思い、安心して語りに耳を傾けながら読み通しました。
 時代背景と社会が、丹念に描き込まれているので、文化史的な価値も高いものとなっています。

 話は、明治27年に葵が生まれた時から始まります。明治後半の三重県が、そして大正以降の東京の様子が活写されていきます。

 葵は、御家流から分かれた大枝流を継ぐ杉浦秀峯にお香を教わることになりました。
 お香と古典文学のことや、学問を積むことも出てきます。

 葵は二人の話のやりとりを聞いていて、葵がまだ全く判らない組香の話になると、例えば源氏物語をはじめ宇津保物語、更科日記、栄華物語、明月記、宇治拾遺物語、沙石集、太平記に至るまで、古典の名が次々と口に載せられ、それがごく当然のこととして話し合われるのを、まるで見知らぬ世界を眺め入るような面持ちで聞いているのであった。(129頁)

 現在私は、お香と古典文学をテーマにした博士論文執筆中の大学院生と一緒に、香道周辺の勉強をしているところです。そのこともあって、こうして語られるお香の世界に、少しずつ引き込まれて行きました。

 お香の道に入るために、自分の生家の炭屋を忘れ去ろうとする葵の意識に、昭和初年の時代背景が見えてきました。故郷を捨てて東京で生きる決心をした葵が、活き活きと表現されています。それだけに、結末が読む者に感銘を与えるのでしょう。

 新居に移ってから、『源氏物語』の「桐壺」巻の後半の講義を聴きます(159頁)。源氏香についても説明があります(173〜175頁)。ただし、私としては、もっと源氏香のことを語ってほしいところでした。とくに、その種類や由来やおもしろさについて。この組香の内容や具体的なことが、思いのほか平板でした。

 お香の道を用意してくれた貢の死を契機として、その隠し子のことが出てきます。これが、最後まで話を興味深いものにする一つの種となります。さらには、夫が葵の女学校時代の旧友と関係をもっていたことも。

 両親、娘、息子の死。波瀾万丈の人生が、40歳を前にした葵に襲いかかります。1年に7人という、相次ぐ家族の死という不幸の連続の中を、葵は戦中戦後を1人強く生き抜きます。

 香道をめぐって、人間の心の動きが丹念に描かれています。その精緻さは驚くばかりです。人の心の中が、鮮やかに語られて行くのです。芸術的と言えるほどの言語作品に仕上がっています。
 死に行く息子を照らす月光の中で、葵は髪を切ります。このシーンは、美しく、そして迫力がありました。

 養女にも、と思って大切に面倒を見た貢の娘楠子に裏切られます。人を信頼できなくなった葵は病の身にあります。その哀れさ辛さが、しみじみと伝わって来ます。

 最後に葵が独り言として、「こんな偽りに満ちた、体裁だけを繕う人間との付きあいなんてほとほと嫌気がさしました、」(359頁)と言い続けます。あまりにも寂しい結末に至る展開に、もっと明るく元気に語り納めてほしいと願いました。読者としての勝手な思いなのですが。

 幸せ薄い女の物語です。しかし、香道という芸道に一生を捧げた中に、人間としての満ち足りたところがあるのが救いです。そして、静かに晴れやかに終わります。しかし、明るい未来があるわけではないのです。
 こうした物語に慣れていない私は、中途半端な、落ち着かない気持ちのままに本を置くことになりました。【5】
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2013年07月26日

読書雑記(74)高田郁『残月 みをつくし料理帖』

 1年半ぶりに、高田郁の文庫書き下ろしによる「みをつくし料理帖」シリーズの第8作が出ました。
 『残月─みをつくし料理帖』(時代小説文庫、ハルキ文庫、2013年6月)で、料理人である澪は健在でした。快調に再スタートです。
 ただし私には、これは作者が物語に一区切りをつけるために時間がかかり、続く物語のメドがついたので、ここで刊行したのではないか、と勝手に邪推しています。
 
 
 
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■「残月−かのひとの面影膳」
 人の死が多く語られています。時を遡り、思い出させる効果があるようです。
 そんな中で、次の文を読み、あれっと思いました。何かいつもと違うような語り口なのです。

枝分かれした道のひとつを自ら選んだ旅人は、選ばなかった道がどうだったか、思い描いたりはしない。自身が選んだ道の先を信じて、ひたすら歩み続けるしかないのだ。

 その後も、湿っぽい話題が続きます。亡き又次が呼び戻されます。
 とにかく、まずは静かにドラマの幕が上がりました。【3】
 
 
■「彼岸まで−慰め海苔巻」
 行方知れずになっている佐兵衛のことが語られます。これまでにも、小出しにして読者の興味をつないで来た話題です。今の様子が知れるにつれて、母子の情が描かれます。高田郁の世界です。
 やっと、佐兵衛は母に姿を見せます。劇的な場面です。ただし、この辺りから失速したかのように話がぼやけていきます。
 これまでのことがあるので、この中途半端なままがいいとも言えます。しかし、どうも話を作者が進めかねているように感じました。【3】
 
 
■「みくじは吉−麗し鼈甲珠」
 登場人物が少しずつ動き出します。主人公たちを背後で支えていた伊佐三の家族が、長屋を引っ越しします。
澪にまた、引き抜きの話がかかります。
 話の展開に無理が見えます。勝負事を描くのは、作者は得意ではないようです。情に走り、臨場感に欠ける傾向があります。説明が多くなり、文章がくどくなります。
 あさひ太夫との対面も、話を盛り上げなくてはという、作者のサービス精神を感じます。そんなに無理をしなくても、とも思いました。
 文章は、これまでより格段にうまくなっていると思います。ただし、構成がバラバラになっているようです。
 それでも、最後の締め方に、作者の意地が滲んでいます。【3】
 
 
■「寒中の麦−心ゆるす葛湯」
 手探り状態で進められてきた物語も、やっと落ち着きを見せます。じっくりと丁寧に、登場人物たちが描かれていきます。料理もその中にしっくりと収まっています。
 親子が気持ちを伝え、師弟が技量を伝え、それを周りが支える、というテーマがみごとに結実した章となっています。人と人のつながりが、温かく伝わって来ました。そして、みごとな最後の場面へと展開します。
 この巻で、ひとまず〈みをつくし料理帖〉の第1幕が下りた、という思いにさせられました。
 次は、新たな〈みをつくし料理帖〉で、澪の料理人としての心機一転の生きざまが語られることでしょう。
 「特別付録 みをつくし瓦版」と「特別収録 秋麗の客」で、もう満腹です。
 次巻からは、一新された物語展開が期待されます。【5】
 
 
※これまでに書いた〈みをつくし料理帖〉シリーズと高田郁作品に関する雑感を書き並べると、以下のようになります。本作は10本目ということになりました。
 
 
(1)「読書雑記(21)高田郁『八朔の雪 みをつくし料理帖』」(2010/11/25)
 
(2)「読書雑記(22)高田郁『花散らしの雨 みをつくし料理帖』」(2010/11/26)
 
(3)「読書雑記(23)高田郁『想い雲 みをつくし料理帖』」(2010/12/2)
 
(4)「読書雑記(24)高田郁『今朝の春 みをつくし料理帖』」(2010/12/4)
 
(5)「読書雑記(25)高田郁『銀二貫』」(2010/12/5)
 
(6)「読書雑記(26)高田郁『出世花』」(2010/12/6)
 
(7)「読書雑記(33)高田郁『小夜しぐれ みをつくし料理帖』」(2011/4/22)
 
(8)「読書雑記(42)高田郁『心星ひとつ みをつくし料理帖』」(2011/9/9)
 
(9)「読書雑記(48)高田郁『夏天の虹 みをつくし料理帖』」(2012/4/9)
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2013年07月20日

読書雑記(73)松下幸之助『物の見方 考え方』

 松下幸之助が語りかける本は、予想外におもしろい読み物となっています。
 本書『新装完全復刻版 物の見方 考え方』(実業之日本社、2001.3.16)は、昭和38年(1963)に同社から新書判で刊行されたものの復刻版です。
 
 
 
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 もとは、雑誌『実業之日本』に連載として執筆された所感を、あらためてまとめたものです。事業経営の仕方や実務仕事の心得などが満載です。今の私には直結しない話題のように思っていました。ところがどうして、いろいろと思うところに染み込む内容がいくつもあったのです。

 中でも、「私の軍師・加藤大観」の項目にある話が気に入りました(85頁)。
 信頼とは何か、ということを教えられました。人間の縁の不思議さと運命という、自分ではどうしようもないものの存在とどう向き合うか、という問題です。その受け止め方が、一番大事なようです。

 その他の箇所で、特に私がチェックをした箇所を2つだけ摘出しておきます。


人間というものは、肉体的には三十歳が最高である。そのあとはだんだん衰えてくる。一方、知力はどうかというと、僕の考えでは、まず四十歳が最高であると思う。知力というものを統合的にいろいろな分野から考えてみると、体力は三十歳だが、知力は四十歳が一番盛んなときである。四十歳をすぎるとだんだん下ってくるが、それを過ぎてもまだ知力的な仕事をして相当な地位を保ちつづけていけるということは、過去の経験がその知力に加わってくるからである。(17頁)


 確かに思い当たります。
 六十を超した今、私は経験が加味された生活で帳尻を合わせているのか、と思うと楽しくなります。知力の衰えはもはや如何ともしがたいのであれば、過去の経験をもとにして他人様と接していく方途に存在意義を認めましょう。いろいろと貴重とも言える、語り尽くせぬほどの過去は引きずって来て今ここにいるのですから。

 次の言葉は、本書の最後に置かれた「自分の運を伸ばそう」という項目にある一部です。松下幸之助が東北大学に呼ばれ、学生たちを前にして語ったときのものです。
 運命と信念というものを考える上で、大いに参考になる意見だと思います。
 そして、若者たちを勇気づける言葉ともなっています。


 自分は勉強してきたから、こうなったとか、えらい努力をしたから、こうなったのだとか思うと、どこかに無理が生れ、重くるしい感じがする。そこからどうしても誇り以上のものを考えがちになる。野心も生れてくる。そこに失敗の芽生えがあると思う。
 自分のようなものが、こうなったのは、運命のしからしむるところであるが、ただ、自分は死ぬべきときにも死ななかったという強い運を持っているのだから、これをしっかり握って信念にせねばならない、という考え方で私は半生を歩いてきたといえると思う。これはちょっと妙な話になったので、よくおわかりにならないかもしれないが、皆さんはこの私に比べるとみな恵まれた運の持主であると、私はいいたい。私は小学校すらも出ていないような悲運な人間であった。しかし死にかけて死ななんだというところから、自分の心に大きなものが生れた。その強い運命を基礎にして、そこに信念を生み出した。皆さんは私以上に若いときから立派な運を持っている。それで今日最高学府に学んでいる。やがては卒業して立派な社会人として世にたつ偉大な運命の持主であるということを、私はこの際はっきりと自覚してもらいたいと思う。自分はここまで立派にやってきたのだから、これからはさらに自分の運が開けるぞと考えてもらいたい。(237頁)
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2013年07月17日

読書雑記(72)松下幸之助『思うまま』

 松下幸之助の三部作といわれる内の、第3冊目の『思うまま』(PHP研究所、昭和46年)です。
 
 
 
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 日頃からの実践活動を通して思うことを、松下幸之助は片側1頁の分量で手短に語っています。
 短文の寄せ集めなので、具体的な話には展開しません。言いっ放しです。そのせいもあってか、話が短すぎて抽象的となり、わかりにくくなっている話が目に付き、気になりました。
 しかし、松下幸之助という不世出の人間のエッセンスは、幅広く採録されています。その意味では、松下幸之助という男の大凡を知ってから読んだ方がいいかもしれません。

 本書には、意外とあたりまえのような話が多いのです。しかし、そのあたりまえのことをあえて言葉にしているところに、その意味するものが世代を超えたところにあることがわかります。

 以下に、わかりやすい話をいくつか抜き出しておきます。
 

(1)
「とらわれない」

 世の中にはやっぱり理外の理というようなものがあるようだ。素直な心になれば、それがしだいにわかってくる。偏見がないからである。
 しかし、一つの流儀や学問にとらわれてしまうと、その範躊からしか物事が見られず、ものの実相がつかめない場合が多い。だから、いくら知識をもっていても、それにとらわれてしまっては、その知識を真に生かすことができにくいであろう。
 知識をもっていて、それにとらわれなければ、それは真に大きな力になると思うのである。(65頁)

 

(2)
「適正な大きさを」

 人間というものは、どちらかというと小よりも大を好むもので、往々にして内容のわりにかたちを大きくしやすい。また大きくすることがよいことだと思いやすい。しかし、それは非常に危険だと思う。
 たとえば商売でも、横丁で経営しているうちはある程度繁盛していたが、表通りに店を構えたとたんにつぶれたというようなことがよくある。やはり自分の実力に応じて適正な大きさを保ちつつ、さらに実力を高めてゆくということが大事であろう。(162頁)

 

(3)
「諸行無常」

 諸行無常という教えがある。今日、一般には"世ははかないものだ"という意に解釈されているようだ。しかし、これを"諸行"とは"万物"、"無常"とは"流転"、つまり万物は常に変わってゆくものであり、そのことはすなわち進歩発展なのだという意味には考えられないだろうか。
 人間の考え方も変われば社会も変わる。政治も国も変わってゆく。これみな進歩。
 つまり、諸行無常とは万物流転、生成発展、言いかえると日に新たであれという教えだと解釈したいと思う。(211頁)

 

(4)
「創造力と知恵と」

 青年には物事を興し、創造してゆく力がある。しかし、そのよし悪しを判別するためには、老人の体験を尊重することが大切であろう。
 青年の逞しい創造力と老人の体験による知恵とが適切に融合されたとき、そこに大きな成果が生まれてくるのではないだろうか。(220頁)


 本書には、前の2書に較べて「妙味」ということばが8例と多用されています。
 今このことばを私は、「えも言われぬおもしろさ」というくらいの意味で理解しています。または、松下が言う「尽きざる興味もわき、喜びも生まれてくる(137頁)」ということを表現するためのことばともなっているようです。

 以下に抜き出しておきます。
 

(1)
 人間のすることに完壁ということはない。それは神ならぬ身の人間にとっては、しょせん無理なことであろう。だから、何事をする場合にも、人一倍熱心にやるというか、全力をあげて行うことは大事だとしても、それによって九〇パーセントほどのことがうまくできれば、まずそれで結構なのだと思う。あと一〇パーセントくらい足りないというところにこそ、人間としての言うに言われぬ妙味があるのではないだろうか。(38頁)
 
(2)
 必要に迫られて事を運ぶというのも、それはそれで妙味のあるやり方であろう。(70頁)
 
(3)
 過ぎ去ってみてはじめてわかるのであって、前もって予知することはできない。そこにまた人生の妙味というものもある。(102頁)
 
(4)
 見方はいろいろあろうけれども、秀吉が天下を取ろうと意識せず、ただひたすらに日々はげんでいたからこそ天下が取れたのであって、最初から意識していたら、天下は取れなかったのではないかとも思う。そんなところに人生の妙味の一つがあるような気もするのだが、どうであろうか。(111頁)
 
(5)
 保険を売るセールスマンの中で、いちばんたくさん契約をとる人と最低の人との間には二十倍からの差があるという。保険というものはいわば各社とも同じ製品である。同じものを売っていてこれだけの差ができるのである。ここに仕事というものの妙味があると思う。(132頁)
 
(6)
 みずからの創意工夫を加え、独自の新しいものを生み出していゆく、そういうところにもまた、経営の妙味、おもしろさというものがあるといえるのではなかろうか。(153頁)
 
(7)
 要はやり方如何である。そこに商売の言い知れぬ妙味というものがあるのではなかろうか。(157頁)
 
(8)
 適度とか適正というと、何となくあいまいなようであるが、また一面まことに妙味あることばだと思う。(227頁)
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2013年07月11日

読書雑記(71)松下幸之助『続・道をひらく』

 松下幸之助の3部作のうち、第2作目の『続・道をひらく』(PHP研究所、昭和52年)も、読みやすい本でした。
 
 
 
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 第1作目の『道をひらく』(PHP研究所、昭和43年)とは一転し、自然の美しさや日本の良さを、思うままに縦横に語っています。日々この日本に生きる感懐、というべきでしょうか。

 四季の中で、一人もの想う人間として、語り手である松下幸之助がいます。純真な人間です。素直な目で自然を見、社会を見つめています。
 静けさの中に、明日へのエネルギーを蓄えている人間として、一人佇んで語って来ます。

 「春雷」という話には、詩人幸之助がいます。
 

「春雷」

 空が暗くなる。風が吹く。枯葉が舞い、土ぼこりが上がる。何となく不安な心で見上げる空に閃光一せん。思わず歩みをとめ、眼を閉じ、耳をふさぐ。
 安心するがいい。春雷なのである。新たな春を告げる大自然のとどろきなのである。この冬の耐えぬいた寒さは、もう一息。もう一息で水ぬるむ暖かさを迎える。その前ぶれなのである。そしてこれが自然の理であると気づいたとき、人びとはおどろきのなかにも、いそいそ
とした思いに立つ。
 ながい人生。いろんな不安がある。いろんなおどろきがある。閃光一せん、眼のくらむ思いにおろおろするときもある。不安とおどろきに足がすくむときもある。
 しかし、安心するがいい。おろおろしなくてもいい。あなたにとらわれの心がないかぎり、あなたが素直な心でいるかぎり、そして自然の理を見失わないかぎり、そのおどろきも不安も、あなたが耐えに耐えぬいた末の新たな春を告げる前ぶれなのである。いそいそとした思いであってよいのである。
 日本の国にも、いま春雷が遠く近くとどろいているのであろうか。(50頁)


 四季の中で、作者は五感を研ぎ澄ませます。目・耳・鼻・口・手などなど。自然の営みと人間の歩みに思いを重ね合わせて、詩情を語っています。
 自分へのつぶやきを、読む者にも届くように語ってくれています。

 以下に、いくつかの文章を引いて、記録としておきます。
 
 
(1)

「フシの自覚」

 この世の中、人の一生いろんなことがあるもので、何にもなくて平穏無事、そんなことはなかなかに望めない。だから時に嘆息も出ようというものだが、けれどもそのいろんなことのつらなりのなかにも、おのずから何らかのフシというものがあるわけで、何がなしにダラダラといろんなことがつづいていくわけでもない。
 ダラダラとつづいているように思うのは、そのつらなりのなかのフシを見すごしているからで、だから心も改まらなければ姿勢も改まらない。
 大事なことは、このフシを見わけ、自覚し、そのフシブシで思いを新たにすることである。
 これがわかり、これができれば、いろんなことがすべてプラスになり進歩の糧となって、次々と起こることをむしろ歓迎するようにもなるであろう。
 フシは自然に与えられる場合もあるし、自分でつくり出していく場合もある。いずれにしても、とらわれない心でものを見、考え、ふるまうことである。むずかしいことかもしれないが、やっぱりこれがいちばん大事なことではなかろうか。(14頁)


 このフシについては、古来日本人は節句というもので具体的に自覚してきたはずです。女の節句といわれるものが、まさにこれです。しかし、季節感などの喪失により、このフシのあるべき意味も忘れられようとしています。気分を切り替える節目としてのフシの復権は、私にもその重要さが自覚できていますので、これは今後とも広く訴える意義のあるものだと思います。
 
 
(2)

「心静かに」

 一犬影に吠ゆれば万犬声に吠ゆ。何かの気配におびえた一匹の犬が、もののけにつかれた如くけたたましくほえたて始めると、その声におびえた犬たちが、次から次へとほえたててゆく。ついには、何のためにほえているのかわけもわからぬままに、ほかの犬がほえているから、だから自分もほえる。
 そんなこんなで、けたたましいほえ声が、意味もなく町々を走り、野山をかけめぐる。月にほえる一犬は一幅の景になるけれど、いたずらに騒々しい万犬の声には、しばし静かにあれとよびかけたくもなる。
 犬だけではない。お互いのこの世の中、手前勝手な声ごえで、何とはなしに騒々しくなってきた。あちらが勝手ならこちらも勝手。勝手と勝手がぶつかり合って、とにもかくにも大きい声。そんなこんなで無用のまさつが起こり、わけのわからぬかっとうで自他ともに傷つく。
 今こそ心静かに、ほんとうに何が起こり、何が大事で、何をなさねばならないのか、自他ともの真の幸せのために、広く高く深く考え合ってみたい。そんな時なのである。(178頁)


 痛烈な社会風刺となっています。吠える、ということにどんな意味があるのか。意味深長な喩えが提示されています。
 
 
(3)

「成功の連続」

 何ごとにおいても、三べんつづけて成功したら、それはまことに危険である。
 人間の弱さというか、うぬぼれというか、安易感というか、つづけて三度も調子よくいったなら、どうしても自己を過信する。自分は大したものだと思うようになる。そして世間を甘く見る。そこから、取返しのつかない過失を生み出してしまうのである。
 だから本当は、三度に一度は失敗した方がいいようである。他人から見て、たとえそれが失敗だと思われなくても、自分で自分を省みて、やり方によってはもっとよい成果があがったはずだったと考えたら、それはやはり一つの失敗である。失敗とみずから感じなくてはならないのである。
 こうして、三度に一度は失敗するが、そこから新たな自己反省を得て二度は成功する。
 それがくりかえされて、次第次第に向上する。それが本当の成功の連続というものではなかろうか。
 お互いに人間の弱さを持っている。その弱さをどう生かしていくかが大事なのである。


 非常に自己抑制の効いた考え方が示されています。しかし、これくらい堅実に自己を見つめていると、確かに着実に前に進んでいくことでしょう。
 手堅く前に進んでいくための心構えとして、耳を傾ける価値のある話です。

 なお、本書に「妙味」は2箇所にありました。メモとして残しておきます。

(1)

「天与の妙味
(前略)
 対立大いに結構。正反対大いに結構。これも一つの自然の理ではないか。対立あればこそのわれであり、正反対あればこその深味である。妙味である。
 だから、排することに心を労するよりも、これをいかに受け入れ、これといかに調和するかに、心を労したい。そこに、さらに新しい天与の妙味が生まれてくる。日々に新たな道がひらけてくる。(21頁)

 
(2)

 (前略)喜べども有頂天にならず、悲しめどもいたずらに絶望せず、こんな心境のもとに、人それぞれに、それぞれのつとめを、素直に謙虚にそして真剣に果たすならば、そこにまた、人生の妙味も味わえでくるのではなかろうか。(137頁)
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2013年07月10日

読書雑記(70)松下幸之助『道をひらく』

 松下幸之助が語ったことばを収録した本で、『道をひらく』(昭和43年)、『続・道をひらく』(昭和52年)、『思うまま』(昭和46年)は3部作と言われています。共に、PHP研究所から刊行されています。

 『道をひらく』と『続・道をひらく』は見開きで読み切り、『思うまま』は左右片側ページで一話です。
 電車内や乗り換えの時間が私の読書タイムなので、この本は非常に読みやすいものでした。

 人生の先達からお話しを伺う、というスタイルの内容です。松下幸之助は、特段にレトリックを凝らしたり、もってまわった言い方はしません。ごく普通の、常識的な話が多いように思います。しかし、そんな話の中にも、さすがは神さま扱いをされるだけあって、なるほどと感心しながら読む項目や行間に、しばしば出会います。

 なお、今回は「新装版」としてビニール装で刊行されている、読みやすい大きさでゆったりとした文字組み、そして読み切り型に整形し、さらには時代に合わないと思われる部分は整理された本で読みました。
 このスタイルの本は、私の手に馴染みやすいことと、コンパクトなサイズなので気に入っています。
 この本専用のブックカバーを特別に作り、折々に持ち歩いて読んでいます。

 電子ブックに馴染めない私は、本の手触りやページをめくる感触を楽しんでいます。読み進んでいるペースや、残りの分量が目で見て手で摘まんで体感できる、そんな本の読み方が好きです。途中で付箋を貼ったり、しおりを挟んでパタンと閉じたり、ある時にはソッと閉じる時の感覚を楽しんでいます。

 さて、本書『道をひらく』には、PHP研究所の機関誌『PHP』の裏表紙に連載された121編が再編集して収録されています。
 
 
 
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 そんな中から、記録として残しておこうと思ったものを、以下に抜き出しておきます。
 
 
(1)

「志を立てよう」

 志を立てよう。本気になって、真剣に志を立てよう。生命をかけるほどの思いで志を立てよう。志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。
 志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。
 今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、いくたびか道を見失い、また挫折したこともあったであろう。しかし道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではなかろうか。(14頁)


 志は、まずは立てるだけで道半ば、という考えに頷きました。それには、年齢は関係ないと。志の挫折は、その弱さが原因だとも。熱意を持てば道がひらける、ということばから、心強さが伝わってきます。
 
 
(2)

「失敗か成功か」

 百の事を行なって、一つだけが成ったとしたら、これははたして失敗か成功か。
 多くの場合、事の成らない九十九に力を落とし、すべてを失敗なりとして、悲観し意欲を失い、再びその事を試みなくなる。こうなれば、まさに失敗である。
 しかし、よく考えれば、百が百とも失敗したのではない。たとえ一つであっても、事が成っているのである。つまり成功しているのである。一つでも成功したかぎりは、他の九十九にも成功の可能性があるということではないか。
 そう考えれば勇気がわく。希望が生まれる。そして、事の成った一つをなおざりにしないで、それを貴重な足がかりとして、自信をもって再び九十九にいどむことができる。
 こうなれば、もはやすべてに成功したも同然。必ずやその思いは達成されるであろう。
 どちらに目を向けるか。一つに希望をもつか、九十九に失望するか。失敗か成功かのわかれめが、こんなところにもある。繁栄への一つの道しるべでもあろう。(124頁)


 成功を見つめることの大切さが説かれています。何かをしたとき、この考え方には勇気がもらえます。
 
 
(3)

「一人の知恵」

(前略)
 わからないことは聞くことである。知らないことはたずねることである。たとえわかっていると思うことでも、もう一度、人にきいてみることである。
 「見ること博ければ迷わず。聴くこと聡ければ惑わず」という古言がある。相手がどんな人であろうと、こちらに謙虚な気持ちがあるならば、思わぬ知恵が与えられる。つまり一人の知恵が二人の知恵になるのである。二人が三人、三人が四人。多ければ多いほどいい。衆知を集めるとは、こんな姿をいうのである。おたがいに、一人の知恵で歩まぬよう心がけたいものである。(139頁)


 独り相撲を戒める気持ちが語られています。聞く、尋ねる、さらにもう一度。そこから「思わぬ知恵」が授けられる、というのです。みんなで考え、みんなで取り組むことの大切さが、よくわかることばです。
 
 
(4)

「おろそかにしない」

 人から何かを命ぜられる。その命ぜられたことをその通りにキチンとやる。そこまではよいけれど、そのやった結果を、命じた人にキチンと報告するかどうか。
 命ぜられた通りにやって、その通りうまくいったのだから、もうそれでよいと考える人。いやたとえ命のままにやったとしても、その結果は一応キチンと報告しなければならない、そうしたら命じた人は安心するだろうと考える人。その何でもない心がけ、ちょっとした心のくばり方のちがいから、両者の間に、信頼感にたいする大きなひらきができてくる。(後略)(160頁)


 結果を報告することの重要さです。それは、相手への思いやりなのです。この心がけが、意外と信頼感に影響していることは、私も何度も経験しました。
 
 
(5)

「体験の上に」

 ここに非常な水泳の名人がいるとする。そしてこの名人から、いかにすれば水泳が上達するかという講義をきくとする。かりに三年間、休まず怠らず、微に人り細にわたって懇切ていねいに講義を受け、水泳の理を教えられ、泳ぎの心がけをきかされる。それでめでたく卒業のゆるしを得たとする。だがはたして、それだけで実際に直ちに泳ぎができるであろうか。
 いかに成績優秀な生徒でも、それだけですぐさま水に放りこまれたらどうなるか。たちまちブクブク疑いなし。講義をきくだけでは泳げないのである。
 やはり実際に、この身体を水につけねばならない。そして涙のこぼれるような不覚の水も飲まねばならない。ときには、死ぬほどの思いもしなければならないであろう。
 そうしてこそ水に浮けるし、泳ぎも身につく。体験の尊さはここにあるわけである。
 教えの手引きは、この体験の上に生かされて、はじめてその光を放つ。単に教えをきくだけで、何事もなしうるような錯覚をつつしみたいと思う。(242頁)


 頭で理解するだけでは、実際には充分ではない、ということを言っています。これも、よくあることながら、しばしば錯覚に陥るものです。「レディネス」という、心の準備、気持ちの準備があるかないかによる習得や習熟の違い、という面はあっても、実際にはよくある勘違いなのです。
 
 
 松下幸之助の文章には、「妙味」ということばがよく出てきます。私は、この使われ方に興味を持っています。
 本書『道をひらく』には、1箇所だけありましたので、最後にこれを引いておきます。その意味については後日考えます。

 

ちがうことをなげくよりも、そのちがうことのなかに無限の妙味を感じたい。無限のゆたかさを感じたい。そして、人それぞれに力をつくし、人それぞれに助け合いたい。(21頁)
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2013年07月06日

読書雑記(69)本田宗一郎『やりたいことをやれ』

 稲盛和夫氏や松下幸之助氏の本を読むようになった流れの中で、息子の本棚にあった本田宗一郎氏の本も手にして読んでみました。これが、なかなかおもしろいのです。
 本田宗一郎著『やりたいことをやれ』(PHP研究所、2005年9月)は、今だからこそ読めた本だと思います。
 
 
 
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 苦労を苦労ともせず、やりたいことを楽しくやり通した実業家の話は、本当に痛快感を残してくれます。本書はそうした意味で、日々を楽しいものに読み替えてくれます。いい本との出会いとなりました。

 開巻早々、こんな話で始まります。


まず第一歩を

 人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことである。ちゅうちょして立ち止っていては駄目である。なぜなら、そこにどんな障害があろうと、足を踏み込んではじめて知れるからだ。失敗は、その一歩の踏み込みだと思う。前進への足跡だと思う。
 わが国には「サルも木から落ちる」という言葉がある。慢心とか油断へのいましめである。心のゆるみだが、このための失敗には、私は寛容の心を持ち合わさない。なぜかといえば人間に許される失敗は、進歩向上をめざすモーションが生んだものだけに限るのだと思うからだ。しかし、私は猿が新しい木登り技術を学ぶために、ある試みをして落ちるなら、これは尊い経験として奨励したい。(14頁)


 この、まず第一歩の意味あいに、深い共感を覚えました。
 そして、2番目の話は次のように語られるものです。


人は給料でばかり働くのか

 人間、給料でばかり働くと思ったら大間違いですね。やはり、意気に感じるというところがある。たとえていうなら、うちの運動会でボクは赤組に入って綱引きをやった。ボクからすれば、赤が勝とうが白が勝とうが関係ないんですよ、どうせうちの人間同士でやってんだから。ところが、赤の帽子をかぶっただけでね、一生懸命引っぱるでしょう。次の日、腰が痛くてね。あしたの朝まで腰が痛いなんていう仕事したことないですよ、カネじゃね。
 だから私は給料で働いていると思ってる人は気の毒だな。人間、気のもんだといいたい。そういうものが積もり積もって、いろんな問題を解決していくんじゃないかな。(15頁)


 これで勢いがつき、その続きを一気に読み終えました。
 やはり、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉を設立したことがあるからこそ、本田氏の話を我が事のように照射する話として響いてくるのです。

 また、こんな話もありました。
 本田氏には、言葉に対する愛着があります。語ることが好きなのでしょう。


日本語の命

 "手の人"という一面に加えて、私は"言葉人間"としての一面も持っている。子ども時代は家の手伝いとか、村の子どもたちと日が暮れるまで遊びまわったりで、読書やつづり方などそっちのけだったが、十代後半からは、けっこう本も読んだ。雑誌『日本少年』や立川文庫の講談、『枕草子』『徒然草』『方丈記』など、今でもあの頃読んだものは、はっきり覚えている。
 私は、日本語が持っているリズミカルなこころよい語調が好きだ。そして、何世紀にもわたって使いこまれてきた言葉の中に、人間の深い知恵が宿っているところも好きだ。なるほどな、と納得するたびに、言葉の持っている命のようなものを感じるのである。(55頁)


 しかし、どうやら本田氏には、言葉や文学に対する知的好奇心はあるものの、その根底には不信感が根強く横たわっているようです。これは、どこからくるものなのか、興味を持ちました。創業者として、事業を展開する責任者として、その過程で自然と培われた、どうしようもない局面から得られた不信感なのではないでしょうか。


行動は全人格の表現

 人間の意志を一〇〇表現することのできるものは、文学でも言葉でもないと思う。なぜかといえば文字や言葉は、ときには計算された嘘も入る。場合によっては都合の悪い所は訂正もでき、消してしまうこともできる。
 しかし行動となるとそうはいかない。また一個の人格をもつ人間であったら、当然、自分の行動はつねに全人格の表現だという自信を持ち、それによるすべての責任をとるだけの覚悟がなければならない。
 行動というものはそうでなければならないし、そういうものだと思う。
 私は行動を信頼する。行動による話しかけに、私は一〇〇%の表現力を認めている。(203頁)


 また、次のようにも言っていることからも、そのことは確かなようです。


ゴマカシは通用しない

 人間、理屈をつける気になると、相当に無理なことも一見モットモらしい正当づけ、あるいは合理づけができるものである。高等技術を駆使する連中にかかると、権威づけまでやってのける。こうなると、言葉を自由に使いこなせない人間は、手も足も出ない。だから私は、言葉や文字を信用できない。科学や技術の世界なら、そんなゴマカシは通用しない。理論にまちがいがあったり、飛躍があったりすれば、実験がすぐに「それはまちがっている」と指摘してくれる。小さな部品が一つなくても、機械は絶対に動いてくれない。こんなシビアな世界で暮してきたせいか、私は言葉や文章を使う商売の人たちを、どうも百%信じきれないものがある。(226頁)


 さて、本田氏の心の中は、言葉と文学と行動が、どのように混在していたのか、興味深いところです。

 なお、最後の方で、こんなことも語っています。


年寄りのほうが世間知らず

 自分では若いつもりで、飛行機を操縦したりオートバイをすっ飛ばしたり、派手な色柄の服を着て喜んでいるが、私は要するに八十近いジジイである。世界のジジイ経営者同様、このジジイも、おれはだてに年をとっちゃいない、若い者が真似できない体験をしてきているし、いろいろ見てきている。そうした知恵はきっと役立つはず……と思わなくもない。それを認めた上で、私は老人は社会の一線から早く身をひくべきだと考えるのだ。理由は、今の世界というものは年寄りのほうが世間知らずだからだ。昔は若い人を世間知らずといったものだが、現在は逆。急激な世の中の変化に、もはや老人はついていけなくなっている。(253頁)


 これは、歳と共に、世の中の出来事を訳知り顔で解説する年寄りを、実に痛烈に批判するものとなっています。孔子の時代から、「今の若い者は」と言われながら、それでいて世の中は着実に発展を続けてきていることが想い合わせられます。

 私が大阪の高校の教員になった時、お世話になった中林功先生から「同じ職場に10年以上いてはいけない」ときつく言われました。長くいると、後から来た若者がすることが一々気になり、前に向かって進もうとするエネルギーを遮ることを言う羽目になり、邪魔者となりかねない、ということでした。
 その言葉を胸に刻み、3周した9年目に転勤することにしました。確かに、長居をするうちに、後から来た若者の発言を素直に聴けなくなっている自分を発見したのです。それまでに立ち働いてきた自分を庇おうとする、保身のなせる感情だったように思います。

 本書は、こうしたことに始まり、さまざまな自分を見つめ直す契機を与えてくれる本でした。
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2013年07月04日

読書雑記(68)父の日に贈られた『マザーテレサCEO』

 息子が父の日のプレゼントとして、ルーマ・ボース&ルー・ファウスト著『マザーテレサCEO 驚くべきリーダーシップの原則』(近藤邦雄訳、集英社、2012年4月)をくれました。子供から本を贈られるのは嬉しいものです。これまでに、糖尿病の本やボケ防止の本をもらっています。今回は、これまでとは趣を異にした本です。早速読みました。そして、予想外の感想を持つこととなりました。
 この本をくれた息子に、これから話すことのできる楽しい話題を提供してもらったことに、感謝しています。
 
 
 
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 本書は、マザー・テレサの経営術や仕事術について書かれたものです。その意味では、一風変わったビジネス書です。あのマザー・テレサの姿と存在を見る目が、私の中で少し変わりました。

 本田直之氏の前文があったことで、本書にすんなりと入っていけました。
 ところが読み進む内に、著者の語り口は歯切れがよくて勇ましいのに、具体的なことが乏しいために迫力に欠ける文章であることに気付きます。その理由は、翻訳による問題ではなさそうです。

 マザー・テレサの例を引きながら、我々が組織を立ち上げたり維持する上での注意点を、著者ルーマは熱っぽく語り出します。しかし、しだいにそれが、マザー・テレサの行動原理と思惟を推測しつつ、推論の上に提示されているコメントであることに気付かされます。マザーは単に、おしゃべりのための添え物なのです。
 徐々に、最初の熱気が失せ、迫力が伝わってこなくなります。

 私が一番気になったのは、著者であるルーマがマザー・テレサのもとにいた経験を語るところです。
 「神の愛の宣教者会」での経験が、話の流れとうまく噛み合いません。「ボランティア」として働いた期間がどれほどの日時だったのかということすら、最後まで確認できませんでした。
 このことが明確でないこともあり、「私がマザー・テレサと経験したことを追体験していただけます。」(19頁)ということは、本書の内容からは無理なのです。

 次の段落の文章も、本質から逃げて躱す姿勢が顕著です。

 この本はあなたにリーダーシップの原則を授けるものです。あなたが個人として、あるいは仕事で、挑戦を試みる立場にあるのなら、毎日、その原則を生かすことができるでしょう。紹介する原則を自分のものにし、常に応用していけば、あなたの人生も、組織もポジティブに変化していくはずです。しかし、マザー・テレサがどのように「神の愛の宣教者会」を運営してきたのかについて分析することを意図してはいません。分析は別の本の仕事であり、他の著者にお任せします。
 あなたにインスピレーションを与える本であり、リーダーシップの八つの原則についてのシンプルなストーリーがあるだけです。八つの原則こそが、マザー・テレサが設立した「神の愛の宣教者会」を世界的な成功へと導いたものなのです。
 では、マザー・テレサへの旅をお楽しみください。(34頁)


 マザー・テレサと直接共有した時間が貴重だったことは書かれています。しかし、それがどれほどの長さであり、どのような密度だったのかは、ついに記されないままです。人間と人間としての接点に、まったくと言っていいほど具体性がないのです。

 本書には、行動を起こすための3つの要点として、「感情」「ファイナンス」「オペレーション(手順)」が提示されています。しかし残念なことに、本書では2つ目の「ファイナンス」の意味が伝わってくるだけで、それ以外は準備不足のままに刊行されてしまったと思われます。

 また、マザー・テレサの施設でのこととして、著者は次のような驚くべき発言をしています。

 私は間違っていました。そのための準備などまったくできていなかったのです。(中略)自分と同じ世界のなかで多くの人が苦しみながら生きているという事実を受け入れることができなかったのです。(83頁)


 これでは、一体マザー・テレサからどのような本質的な核心を学んだと言うのでしょうか。こんな無責任な話を読まされる読者は、たまったものではありません。

 本書は、自分のビジネスに対する持論を展開するために、マザー・テレサを利用したに過ぎません。マザー・テレサに関する具体的な事例が乏しいのがその証拠です。これでは、マザー・テレサこそいい迷惑です。

 稲盛和夫、本田宗一郎、松下幸之助などの本を読んだ後なので、本書を読み進む内に、これが非常に浅薄なものに思えるのです。
 情報収集に始まり、何かと調査不足であり、構想も練られていません。ましてや、論証過程などは皆無です。経験談は自慢話の域を出ていません。理性に訴える手法ではありません。それが、明快さに欠ける印象をもたらすのです。

 著者は情に流されてしまっています。あまりにも、感情で表現し過ぎです。もっとマザー・テレサの行動なり言葉で、読者に迫った方がよかったと思います。その前に、もっとマザー・テレサを理解してから書くべきでした。
 終盤に、そうした気配は感じられます。しかし、時すでに遅し、という状態です。

 人間の大きさに思い及ばず、自分のレベルに引き込んだために、結果的に内容が矮小化されてしまいました。
 また、共著にしようとしたためか、コラムとして間に挟まれたルーのコメントも練られておらず、思いつきのネタを投げかけるだけで、全体の話の流をぶつ切りにしています。

 息子から贈られた本を真剣に読んだお陰で、一書としては多くの不備を感じながらも、失敗学の例を楽しみ、さらにはマザー・テレサにこれまで以上に興味を持つようになりました。【1】
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2013年06月19日

読書雑記(67)岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿2』

 岡崎琢磨著『珈琲店タレーランの事件簿2 彼女はカフェオレの夢を見る』(宝島社文庫、2013.5)を読みました。
 
 
 
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 前作については「読書雑記(52)岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』」(2012年11月14日)をご笑覧ください。あまりいい評価はしていません。

 この第2作目は、さらに出来が悪いようです。前作にあった文章のキレがまったく感じられません。私は、いいところを探すようにして読むことが多いと思っています。しかし、これに関してはまったくそうした褒めるところを見つけられませんでした。
 『〜3』が刊行されても、それを読むかどうか……。余程大々的な変化が見られない限り、もう読まない作家となりそうです。相性の問題だと思われます。作者さん、ごめんなさい。何事も縁ということで。

 第一話「拝啓 未来様」におけるプロポーズという推理と、郵便の消印をめぐる小細工は、いかにも作った話で興ざめでした。【1】

 第二話「狐の化かんす」はおもしろい展開で楽しみました。
 京都見物に来たはずの妹の秘密の行動を推理する過程は、ごく自然で納得できました。ただし、最後に付けられた状況説明は、それまでの話を水で薄めるようでいただけません。せっかくいい話として収まりそうだったのに。【1】

 第三話「乳白色のハートを壊す」は、コンパクトによくまとまった作品になっていると思います。
 話がわかりやすいことと、推理に無理がありません。ただし、あまり事件におもしろさはありません。明るさのない話なので、ただこじんまりとまとまった、というのが正直な好意的な感想です。【2】

 第四話「珈琲探偵レイラの事件簿」は、読み終わってみるとおもしろい話でした。
 しかし、終盤まではつまらなかったのです。読みさして次の話に移ろうと思い、どこで止めようかと切り上げどころを探しているうちに、ズルズルと最後の段落まで来ました。そして、突然話がおもしろくなりました。
 作者は損をしていると思います。まず、話が暗いこと。そして、表現と構成が練られていないことで。【1】

 第五話「(She Wanted To Be)WANTED」は、私にはよくわからない話でした。
 1話で完結していないこともありますが。【1】

 第六話「the Sky Occluded in the Sun」では、話が急展開します。
 下手な推理がないので、安心して物語についていけます。ただし、根拠が薄弱な理由で断定的に、決めつけて行動する登場人物たちに、読者を引きずり回す手法を感じました。1話完結ではないので、引き伸ばされている感じも、終始つきまといます。【2】

 第七話「星空の下で命を繋ぐ」は、最後になってこれまでの話をうまくつなげることになりました。ここでやっと、話がまとまった印象を受けます。終盤で、やたらと星空を持ち出して、話をきれいにしようとしています。これまでとの違いに戸惑いました。【2】

 最後のエピローグは、きれいにまとまっています。
 全体としての構成がまずかったことが、返す返すも残念です。【2】
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2013年06月18日

読書雑記(66)稲盛和夫『新版・敬天愛人 ゼロからの挑戦』

 最近、息子の書棚に並ぶ本の背表紙を見ていて、読んでみようと思うものが何冊か目につきました。
 ビジネス書であり、啓蒙書であり、ものの見方や考え方の本です。
 こうした本に目が行ったのは、おそらく、私がNPO法人〈源氏物語電子資料館〉を設立したことに起因するのでしょう。

 たまたま親子が別々に起業を志し、共にそれを果たし、今はひたすら前を向いて取り組んでいるところです。
 期せずして同じ本に心引かれるのは、偶然ではないようです。その意味では、息子の方が先行しているのです。

 これまで、自分で買って読もうとは決して思わなかった本です。しかし、そうした本が同じ屋根の下に並んでいるのを見て、読んでみたくなったのです。おもしろくなければ即刻止めればいいので、気楽に手にしました。ところが、意外とこれがおもしろいのです。

 一言で言えば、揺らぐことのない起業精神の高揚であり、共に歩むための人心掌握術の伝授であり、何ものにも替えがたい純粋な気持ちの崇高さが、己が人生の総決算として語られているのです。これほど心に滲み入る本だとは思いませんでした。

 稲盛和夫、本田宗一郎、松下幸之助と、ビジネス・ストーリーとでも言うべき成功者たちが語る話に手が伸びました。しかも、PHP研究書から出ている本ばかりを手にしていました。

 南禅寺の近くにある、松下幸之助の「真々庵」へ行ってから、その生きざまに感銘を覚えたことが、潜在的に影響しているのかも知れません。そのことは、「京洛逍遥(208)「真々庵」でPHPを考える」(2011年12月22日)に書いた通りです。

 折々に書棚から取り出し、読み終えた本が積まれだしたので、整理を兼ねて読書雑記としてここに残しておきます。

 まずは、稲盛和夫の『新版・敬天愛人 ゼロからの挑戦』(PHPビジネス新書246、2012年11月)から、目に留まった文章を抜き書きしておきます。
 
 
 
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 稲盛和夫は、京セラの創業者で、KDDIの設立、そしてJALの再生を成し遂げた人です。その考え方の独創的なところに、大いなる魅力を感じました。
 
 

 現在の能力をもって、可否を判断していては、新しいことなどできるはずがない。今できないものを何としても成し遂げようとすることからしか、真に創造的なことは達成できないのである。(63頁)

 
 

 私は、「世の役に立ち、自分も幸せだった」と振り返って感じられるような生き方が、究極的には人々の求めている人生の姿であろうと思う。(82頁)

 
 

 人生・仕事の結果=「考え方」×「熱意」×「能力」
 私は長年、この方程式に基づいて仕事をしてきた。またこの方程式でしか、自分の人生や京セラの発展を説明することはできない。(98頁)

 
 

 成功への王道
 松下幸之助氏や本田宗一郎氏は、高等教育を受けておられない。学校を出てすぐ丁稚奉公に行かれたので、最高学府での学問の経験もなければ、専門知識もお持ちでない。
 しかし、何にも増してお二人は燃えるような「熱意」を胸に、誰にも負けない努力を払われた。また、事業を通じて、従業員をはじめ世の多くの人々に貢献したいという崇高な考え方を持っておられた。
 人問はともすれば、有名大学を出、学問をすればするほど「能力」に依存し、「熱意」や、さらには「考え方」の重要性に対する認識が希薄となってしまう。そのせいか有名大学出身の創業者で成功した人は思いのほか少ない。
 才能があればあるだけ、謙虚に考え、素直に努力することができないのではないかと私は思う。(105頁)

 
 

 仕事でも事業でも、その動機が純粋であれば必ずうまくいく。私心を捨て、世のため人のために善かれと思って行なう行為は、誰も妨げることができない。逆に、天が助けてくれる、そう思えるのである。(152頁)

 
 

 人間というのは、一人では成長できない。志ある者たちが集まり、揉まれ合うことによって、より素晴らしい人間に育まれ、その集団もさらなる成長発展を遂げていく。(187頁)
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2013年05月26日

読書雑記(65)津村節子『紅梅』

 吉村昭の妻である津村節子の文章を読むのは初めてです。育子という登場人物が一体誰なのか、手探りで読み進めました。

 妻の仕事や生活を気づかう、吉村のことばが印象的でした。

あなたにも仕事があるのだから……(23頁)
君は君の生活を大切に……(28頁)
お前にはお前の生活があるのだから、(70頁)
毎日来なくてもいいよ(70頁)

 膵臓癌で全摘出後は、インスリンが出にくくなったことで、糖尿病の治療となります。この糖尿病のくだりは、私自身との関係もあり、読むスピードが上がります。毎日4回、私と同じ血糖値測定器を使った測定をする話があります。とても親近感をもって読みました。

 この作品は、私のとって非常に読みにくい文章でした。集中力が沸かないのです。途中で途切れるのです。筆者の吉村昭に対する熱意も、直には伝わってこないのです。

 恐らく筆者は、大変な中にあったことでしょう。そのためもあってか、本書では冷静さを保とうとする筆致が認められます。しかし、そこに私は筆者の覚めた目を感じました。吉村は果たして、こうした妻の対応に本当に満足していたのだろうか、と。

 そんな思いを抱くと、最後まで吉村は優しかったのだ、という思いを強くします。思いやりの吉村が、こうした行間から立ち現れてくるのです。

 舌癌に苦悶する吉村の姿から、その痛みが伝わってきました。ただし、吉村の心の内は、この文章からはうまく読み取れませんでした。人間の心の中を代弁することは、難しいのです。

 吉村の遺書のくだりは、もっと詳細に描いてほしいところでした。
 最後の、自宅に帰ってからのことです。その時にも、吉村は「お前には仕事があるんだから」(163頁)と言います。これに対して、妻は次のように思ったというのです。

本当に、小説を書く女なんて、最低だ、と育子は思った。

 読んでいて、こうした表現とこういったことを書く筆者に、非常に違和感を覚えました。何かズレているような。
 吉村と津村には、どうやら溝があるようです。失礼ながら、そんな感想を最後に持ちました。

 本書の帯には「全身全霊をこめて純文学に昇華させた衝撃作」とあります。
 
 
 

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 しかし、これが純文学で小説だとしたら、女主人公育子の発言や行動には、不用意な点が多すぎます。【1】
 
初出誌:「文學界」2011年5月号
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2013年05月25日

読書雑記(64)佐川芳枝『ゆうれい回転ずし 本日オープン!』

 『ゆうれい回転ずし 本日オープン!』(作・佐川芳枝、絵・やぎたみこ、わくわくライブラリー、講談社、2012年8月)を読みました。この作品は「小学中級から」となっているので、児童文学というジャンルになるのでしょう。
 
 
 

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 日頃はあまり手にして読むことのない分野なので、新鮮な気持ちでおもしろく読みました。ただし、読み手である私に大人の感覚が抜けきれないこともあってか、素直ではない感想を記すことになり恐縮です。
 井上靖が童話を書いています。それとはまったく違う世界が展開し、お話を楽しむことができました。

 さて、エレベータで転落するという事故に遭い、一平君は天界に行きました。エレベータのドアが開いたので乗り込もうとしたら、そこには箱がなかったので地下まで真っ逆さま、というのは、最近もあった事故なので生々しい始まりです。

 天界で一平は悲しくて泣いていました。少し本文を引きます。
 そこに、おしゃかさまが来て、
「おまえはほんとうなら、まだこちらに来るはずではなかった。だから、いずれかならず下界で店を開かせてあげよう。」
と、いってくれたんだ。
 店を出すのが決まったとき、おしゃかさまに、どんなすし屋をやりたいかって聞かれたから、回転ずしにしたいっていった。そうすれば、おとなも子どもも来てくれるし、気楽にたくさんすしを食べてもらえるだろ。(10頁)

 回転ずしのお店を開くことにしたのは、大人も子供も気楽にたくさんたべられる、というのが理由でした。
 天界料理人組合の理解を得て、一平君は下界でお店を出すことになりました。

 さて、下界では、魚屋の潮君がスーパーマーケットの友一君からイジメにあってピンチです。仕返し、仲間外れと、いじめの様子がわかりやすく描かれています。
 そこで、交通事故で天界に行った潮君のおじいちゃんの依頼で、一平君はお店を潮君がいる町で開店します。
 お店では、お皿を運ぶレールはなくて、宙に浮いて回っているのです。ゆうれいが経営する回転ずし屋なのですから、お皿も空中浮遊しているのです。

 やがて、潮君の家族と友一君の家族がこの回転寿司屋に無料招待され、一夜限りの寿司職人である一平君のとりなしで、お互いの誤解が晴れます。
 ここには、本当のことがわかればお互いは理解し合える、ということが語られています。
 このくだりは、もっと丁寧に語ってもよかったように思いました。仲直りの場面が、あまりにも急ぎ足です。

 また、職業に対する差別のことが、和解の場面では触れられないままに進行したことも気になりました。魚の臭いのことが、新鮮さと置き換えられていたのです。ここはもっと言葉がほしいと思いました。

 さらには、母親がクラス発表会を中座したのは、家族のことで病院に行くためだったということが、仲直りの場面では再確認されることなく、フォローもされていません。やはりここでは、家族を大切にするという意識を確認するためにも、これも両家が理解し合う内容の一つにしてほしかったところです。

 もう一点。イジメに対して潮君が【がまん】したことを褒める、という両親の対応には違和感を持ちました。
「(略)でも、大倉さんの、ごかいがとけてよかった。潮、いじわるされても、よくがまんしたわね。えらいわ。」
 お母さんは、ぼくの頭をやさしくなでた。お父さんも、
「負けん気が強いところは、おじいちゃんゆずりかもしれないな……。」
 ふたりにほめられて、
「ぜんぜん、たいしたことないよ。」
 ぼくは、ちょっと強がった。きのうの夜、ろうかで泣いたことは、ないしょだ。(100頁)

 ここでは、自分の身に降りかかっているできごとを、ありのままに語れる家族なり友だちを設定してもよかったように思います。
 後で、友だちみんなが誤解だったと謝ります。イジメの始まりは誤解にあり、誤解が解けたことでイジメがなくなる、というまとめ方はわかりやすいと思います。しかし、「イジメ」の対処を「ガマン」で遣り過ごすのは、問題の解決を読み手に問いかけていません。
 ゆうれいの話にイジメを真っ正面か持ち込んだのですから、正攻法でその問題の解決につながる道筋を語ってほしかったところです。

 あまり注文ばかりでもいけません。
 次の母親と父親の描き分けは、私なりに納得しました。よくある情景だと思われるし、ズバリと、いい指摘がなされていると思います。
「あなたっ、いったい、だれの味方してるのっ。」
 母親が、声をはりあげた。
「味方するとか、しないとかの問題じゃない。ほんとうのことを、聞きたいだけだ。このまま、うやむやにしたら、友一は成長してから、平気で弱い者いじめをする人間になるぞっ。」
「まあ……。」
 父親の、きびしい声に、母親は、だまってしまった。(83頁)

 ただし、男と女の役割分担の再確認を子どもに擦り込むものだと、この手の人物設定を問題視する方もあるでしょう。しかし、現実はこうしたやりとりが一般的にありそうなので、私は的確に両親の性向が描かれていると思います。
 また、この母親像は、次のようなフォローもされています。男女差について、バランス感覚があるようです。
 母親に背中をおされ、友一たちは、なだれこむように、車にのりこんだ。
 父さんも、あわててドアを開けようとしたが、あせってしまって、なかなか開かない。でも、お母さんは落ち着いていて、ドアをさっと開けた。(99頁)

 最後に、「きのうのおすし、おいしかったわねえ。回転ずしなのに、高級なおすし屋さんの味だったわ。」(129頁)とあります。
 著者が寿司屋の女将さんなので、しかたがないとはいえ、「回転ずし」と「高級なすし」の味を比較する意識に、私はどうしても従えません。そもそも、高級とは何なのでしょうか。味ではないはずなので、ここは値段なのでしょう。しかし、いい材料さえ使えば高級なのではなくて、あくまでもおいしいお寿司が食べられることが大事です。
最後の最後で、またまた違和感を抱きました。すなおじゃなくてすみません。【2】
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2013年05月19日

読書雑記(65)筒井紘一『茶道具は語る』

 『茶道具は語る ─記憶に残る茶事を催すコツ─』(筒井紘一、淡交社、2013年3月)を、楽しく読みました。
 
 
 
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 写真が多いので、楽に読み進められます。
 もっとも、茶道を始めたばかりの初心者である私には、お客さまをもてなすための趣向や茶事の極意は、レベルが高すぎてひたすら仰ぎ見る気持ちで展開を追っていきます。分不相応な内容です。しかし、茶道についての視野が広がり、今の自分のレベルなりに得るものが多い本でした。

 終始、著者筒井氏のこだわりが伝わってきます。
 まず、持論である「する茶」のすすめが語られます。女性のための「教える茶」になっている現状に対し、本来のお茶を思い、「する」と「教える」という二つのバランスが程よくとれた状態を理想とされます。そのためにも「教える」に傾き過ぎている傾向に対して、「する」の復活を提唱されているのです。

 このことは、昨日紹介した「読書雑記(64)筒井紘一『新島八重の茶事記』(2013年1月、小学館)」(2013年5月18日)に通底する考え方でもあります。

 さまざまなお茶の実践を語られる中で、私は特に、『源氏物語』で遊ぶ話に興味を持ちました。二番目の章である「源氏物語「匂宮」に遊ぶ」がそれです。本ブログの末尾に、その内容の一部を引用しておきました。
 『源氏物語』に関する茶道具を用いた茶会の演出には、初級レベルの私には眩いほどの世界を垣間見ることとなりました。それでも、こうした遊びに『源氏物語』が関わることに、大いに興味を持ったのです。文化としての知識を共有する中で、一座を作ることのおもしろさが伝わって来ました。
 ただし、これは誰にでもできることではありません。ある特定の、限られた方々にしか実現させられない、一線を画したハイレベルな遊びです。それだけに、そうした世界を覗き見ることの楽しみを楽しめた、とも言えます。

 小林逸翁の話は、伊井春樹先生が逸翁美術館の館長をなさっていることもあり、身近で興味深い例として読みました。「丼茶会」や柿の天麩羅をカボチャと間違えたことなど、おもしろい話です。

 以下、興味を持った箇所を、備忘録として抜き出しておきます。
 

・文化・文政期(一八〇四〜三〇)を経て、天保の時代に入ってきますと、江戸や京・大坂などの富裕町人の子女たちをも含んだ私塾が多数誕生いたします。大坂で私塾を開いた跡見重敬の娘滝野(花蹊・一八四〇〜一九二六)は京都や大坂に開いた塾で、読み書き・算盤のほかに、女子には茶道と生け花、裁縫を教えるなどして、明治八年(一八七五)には東京に跡見学校を設立して、学校における茶道教育を始めます。(9頁)
 
・圓能斎は八重と相談しながら京都市立第一高等女学校(現在の堀川高校)であるとか、京都府立第一高等女学校(現在の鴨沂高校)に茶儀科を設けて女子教育を行うようになりました。それが、現在、女性が茶道人口の九十パーセントを超えるという状況の原点の一つでありました。こうして飛躍的に伸びた茶道人口でありましたが、女子教育が原点にありましたので、「教える茶」が主になってしまい、茶道の本来の姿である「する茶」が後退してしまったところがあります。しかし、「する茶」と「教える茶」は車の両輪であり、一方に比重がかかりすぎると上手く動かなくなってしまいます。現在はどちらかといえば茶道界は「教える茶」に傾きすぎています。だから、これからは、「教える茶」の中に「する茶」が復活するように心がける必要があると思います。(11頁)
 
・茶道とは「日常茶飯事」を基本にしながら精神性と感性を育てる生活文化です。「する茶」が増えれば男性茶人が増えるに違いありません。そして「する」ためには点前作法を挙ぶ必要があり、教える茶人も自ずから増えてくるはずです。(14頁)
 
・『源氏物語』と茶とのかかわりは古く、鎌倉時代末期に始まった闘茶のなかに見ることが出来ます。それは「源氏茶」といわれるものですが、そのもとになったのは聞香の「源氏香」であったと思われます。そのため、競技のしかたは源氏香と同様に五種類の茶を使って産地を当てていく遊びです。(中略)
 当時の茶人たちは『伊勢物語』『源氏物語』『平家物語』などの知識を能楽から吸収したと思われます。その中で『源氏物語』をモチーフにして好み道具を製作した代表的な歴代家元は玄々斎ではなかったでしょうか。好み物の中には「源氏棗」を代表に、樂慶入作の「兎耳水指」などがあります。そして近代になって、「与謝野源氏」や「谷崎源氏」というように現代語訳が出版されるようになると、今回取り上げた「御幸棚」を始め、永樂即全の源氏茶器などが作製されるようになりました。(18頁)
 
・今回は『源氏物語』をテーマにした茶道具の取り合わせを試みることにしました。永樂即全がやきもので行ったように『源氏物語』をテーマにした茶道具の取り合わせは五十四帖のすべてで出来るわけですが、ここでは梅をテーマにして「匂宮」を素材にした道具を取り合わせました。(中略)
 茶会では彼らが六条院へ向かう道中から始めたいと思います。(中略)
 道具の取り合わせは、江戸時代中期に描かれた『源氏物語』の貼交ぜ屏風の中の「匂宮」の掛物を待合に掛け、下に横笛と楽器蒔絵の筒を荘りました。本席の掛物は、認得斎の筆になる二字「梅酔」の横物、花入は宗旦作の尺八銘「鶯笛」を柱に掛け、花は紅白梅。香合は二人の貴族を象徴させた古染付「万歳烏帽子」。無限斎好の御幸棚に、仁清作の箪瓢形の水指を載せてみました。茶碗には関白鷹司政通公手造で「雅の友」銘の赤茶碗と、永樂保全作の呉須赤絵写し「魁」茶碗の二種。薄器は公家好みのものをと考えて、近衛予楽院好の木賊蒔絵中次にして、冷泉為村作の茶杓、歌銘「うへそへし園庭の竹一ふしに千代こもれとて雪のつもれる」を合わせました。最後は、末富製の菓子「舞の袖」で締めくくることにしました。(21〜25頁)
 
・茶会の料理は、正式の折敷に四つ椀がなければ懐石にならないと考えるのではなく、逸翁の丼会のように、鱠仕立の向付を盆に載せて一献目を出し、次に焼物か天麩羅か和え物で二献目を出したら、親子丼か鰻丼などで食事にして前席を終え、席を替えて濃茶・薄茶を頂くという仕方での茶事の普及を図るべきだと考えます。読者諸賢のご主人や周囲の男性たちに茶道を普及していかれてはいかがかと思います。茶道普及の一つの在り方だと思います。たとえ正式でなくても酒と食という日常茶飯が茶事の基本だと知れば、男性は必ず興味を持つはずです。なぜなら、食事が出来て、酒が飲めて、長生き出来る茶が飲めるとなればこれほど有り難いことはないからです。食事をし、酒を飲みながら「雑談」に花を咲かせればよいのです。ただ、茶席の雑談は「数寄雑談」といって、『山上宗二記』のなかで、牡丹花肖柏の歌を引いて次のようにいわれております。それは和歌や連歌で詠んではいけない内容と同じものだというのです。内容は、
  世間之雑談悉無用也、夢庵狂歌ニ云
  我仏隣の宝聟舅天下軍人乃善悪
というものです。宗二が、茶人として心得なければならない十の教えを説いた「茶湯者覚悟十体」に続く「又十体」のなかの一つです。宗教や婿や舅のこと、さらには人の持ち物や善し悪しのことは世間雑談といって話題にしてはいけない内容だというのです。では数寄雑談の基本は何かといえば「花鳥風月」です。花鳥風月を話している限りは人間関係にもひびは入らないし、取り合わせに大切な感性を磨くことが出来るからです。(99〜100頁)
 
・茶を学ぶ方々で趣向の茶会を催そうとする場合は勿論、客人となって出かけられる機会のある方々は、宮中儀礼を少しでも多く知っておかれることをおすすめいたします。(105頁)
 
・私は、現代の茶道界は「教え・学ぶ茶」になってしまっていて「する茶」が忘れられていると思っています。茶道は、「教え・学ぶ茶」と「する茶」の両輪がバランスよく動いて、初めて全うしたことになります。まずは小林逸翁の行った「丼茶会」から始めようではありませんか。(191頁)
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2013年05月18日

読書雑記(64)筒井紘一『新島八重の茶事記』

 『新島八重の茶事記』(筒井紘一、2013年1月、小学館)は、非常に興味深い話が書かれています。茶道を始めたばかりの私は、その歴史を特に注意深く読みました。
 
 
 
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 著者は、八重の人生はNHKが『八重の桜』で取り上げるような、会津戦争の明治維新の激動期ではない、と言います。夫を亡くしてからの40数年間に注目すべきだ、と。
 新島八重は、今や大河ドラマを中心として各方面で話題の人です。ただし、それは京都に出るまでが中心の展開のようです。本書では、京都に出て新島襄と結婚した後、襄の死後に茶道に邁進した八重の姿が描かれています。
 八重は、「今日の茶道のあり方を決定づけた一人」だそうです。茶道界は、明治を境にして、男から女へと移っていった、と著者は言います。


江戸時代までの茶道は九分九厘が男性のものだった。茶会では、客として高貴な女性がいただくことはあったかもしれないが、女性が茶を点てることはほとんどなかっただろう。ところが、いまでは逆転して、八割かそれ以上が女性によって占められている。ではなぜ、女性中心の茶道界になったのか。また、それはいつからなのか。この変化のきっかけのひとつが八重の存在だったのである。(26〜27頁)


 八重が裏千家に入門したのは、夫の死後、50歳になってからです。そして、短期間に道を極めたのでした。
 また、明治維新を機に、理解を失った茶道の復興に対する動きも、本書では活写されています。明治初年の、玄々斎と八重が果たした役割は大きかったのです。
 茶の湯に生きた晩年の八重が浮き彫りにされていきます。茶人である筒井氏の目が行き届いているからこそ語られる、茶人八重の姿が立ち現れてくる話となっています。

 八重が開いたとされる女性とお茶の道は、今、働く女性たちによって新しい役割が期待されているそうです。これからの女性とお茶は、これまでの花嫁修業としての茶道をどのように変質させ、意味づけられていくのでしょうか。興味深い問題であり、これからの動向がますます楽しみです。

 巻末資料の略年表で、明治8年に跡見学園に点茶の科目が設けられた、とあるのが目に飛び込んで来ました。
 NPO法人〈源氏物語電子資料館〉の運営メンバーには、跡見学園で神野藤昭夫先生の教え子に当たるみなさんが大活躍しているので、これは私にとっても楽しいネタになります。

 「おわりに」で述べられる以下のことばには、今ある問題を鋭く指摘しておられるように感じました。

近代茶道は、圓能斎と八重の邂逅によって花開いたと言っても過言ではない。しかし、男性のものであった茶道が、女子教育の重要な拠点としての「教え学ぶ茶」になった事で、茶道本来の「する茶」がおろそかになったのも事実である。茶道とは、「教え学ぶ茶」と「する茶」の両輪がうまく回っていくことで全うするものである。近代茶道といっても、特に敗戦後の茶道界が「教え学ぶ茶」をしているのは、利休以来の茶道のあり方としては間違った方向へ進んでいるような気がして仕方がない。今後は両輪が一本の軸を中心にしてうまく回っていくことを願ってやまない。なぜなら、それが八重も望んで果たせなかった茶道の源流に戻ることになるからである。(125頁)
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2013年04月17日

読書雑記(63)山本兼一『赤絵そうめん』でお茶のイメージトレーニング

 山本兼一の〈とびきり屋見立て帖〉の第3冊目である『赤絵そうめん ―とびきり屋見立て帖』(山本兼一、文藝春秋、2011年11月)は、今の私の古道具趣味と茶道に対する興味と一致することが多く、楽しく読めました。
 前2作は文庫本でした。移動中に読むのに、文庫本はコンパクトなので重宝します。しかし、本作がなかなか文庫化されないので、待ちきれずに単行本で読みました。
 
 
 
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■「赤絵そうめん」
 坂本龍馬の土佐弁が、いかにもそれらしく聞こえてきます。読み進んでいて、楽しくなります。
 高価な万暦赤絵の鉢でそうめん食べる女の子。その背景には、道具屋の事情があります。その中で、きれいな商いを目指す真之介とゆず夫婦をめぐる、心落ち着く話です。【3】
 
初出誌:『オール讀物』2010年2月号
 
 
■「しょんべん吉左衛門」
 御恩と奉公に直面する中で、自らの信念を貫く真之介が、気持ちよく描かれています。
 話は前話の赤絵の鉢の後日譚です。明るく爽やかな話に仕上がっています。【3】
 
初出誌:『オール讀物』2010年5月号
 
 
■「からこ夢幻」
 真之介のお点前が見物です。今、私がそのお稽古をしているところなので、あたかも目の前で、話も所作も展開しているように錯覚します。作者は、相当の茶人のようです。
 お茶の力が、芹沢鴨も黙らせるのです。お茶のもつ魅力が伝わってきます。私が好きな「放下着」という禅語も出てきます。ますます茶人の世界が拡がります。
 本話も、上品できれいに仕上がっています。【3】
 
初出誌:『オール讀物』2010年8月号
 
 
■「笑う髑髏」
 源頼朝のご幼少のみぎりの髑髏のくだりだけが、一読の後の印象として僅かに残りました。
 相撲と見せ物小屋の興行話には、まったく興が沸きませんでした。一息入れて、というところでしょうか。【1】
 
初出誌:『オール讀物』2010年11月号
 
 
■「うつろ花」
 名物の茶道具の話に釣り込まれ、時間を忘れて読み耽りました。目の前に道具が広げられているようで、イメージが膨らみます。京の古道具屋さん巡りをする楽しみが、さらに増えました。
 彫三島の茶碗の貸し借りについての話に展開します。そして、夕去りの茶事へと。話題に興味があるだけに、とにかく楽しいのです。自分が少し経験した茶事へと思いが連なり、心浮き立つ思いでページを繰りました。
 まだ私がお稽古を始めたばかりの頃に、先生に誘われるがままにお茶事に行きました。何も知らずに行ったのです。しかし、それがよかったと思います。作品の行間に、自分が見聞きしたことが埋もれており、それに気付かされるのが、非常におもしろいのです。最後の落ちも絶妙です。【5】
 
初出誌:『オール讀物』2011年2月号
 
 
■「虹の橋」
 桂小五郎登場。三条実美も。
 ゆずが、三条公に薄茶を点てた後に、虹が月にかかって現れたのです。茶碗は、最初に菊花天目、二服目は虹の橋。作者の遊び心が満載です。茶の湯の組み合わせの妙が、存分に楽しめます。
 勤王と佐幕が蠢く激動の世を背景にチラつかせながら、お茶と道具の世界がゆったりと展開しているのです。国事に奔走する志士たちや新撰組の心の内が、古い道具を通して炙り出されています。【4】
 
初出誌:『オール讀物』2011年5月号
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2013年03月28日

読書雑記(62)瀬尾まいこ『天国はまだ遠く』

 先日紹介した「ご近所小説 in 京都」に選定されていた15作品の内の、瀬尾まいこ『天国はまだ遠く』(新潮文庫、平成18年11月、5刷)を早速読みました。
 残りの本については、本ブログの「京洛逍遥(265)本屋さんで多彩な京都と遭遇」(2013年3月17日)をご参照ください。

 初めて読む作者の小説です。歯切れのいい、私好みの短いフレーズが畳み掛けるように続く、軽快な書き出しです。
 女主人公が民宿でしだいに自分のことを語りだし、等身大の物語になります。奇をてらわない、明るさと軽さが同居した、自然な雰囲気が醸し出されて行きます。

 気になったことは、物語の設定が浅薄すぎることでしょうか。軽薄さが話の背景の至る所に感じられます。これが、今風と言うものでしょうか。読み慣れていないタイプの小説なので、読み進めるペースがなかなか掴めません。

 死に損なった主人公は、携帯電話の充電器がないことで、現実に引き戻されます。上手い切り返しです。
 人との別れが、さりげなくきれいに書かれています。深刻な問題なので、こうした軽めの文体がいいのでしょう。

 魚釣りや鶏小屋の掃除などなど、自然の中での体験談が綴られます。ただし、多分にミーハー気味です。自然の中に抱かれる小さな人間の存在を浮き彫りにしようと、盛んに話題を提供しようとしています。

 やがて、女主人公は自然の恵みを礼讚する日々に対する疑問が湧いて来ます。
 もっとも惜しいことに、そのことが深く掘り下げられることはありません。

 否定的な物言いが多く、人間が描かれないままに、背景だけが絵として見えた作品でした。地に足がつかないままの、自分が知らなかった世界を、傍観者として見るしかない精神的に未熟な女性は、それなりに描かれています。ただし、それだけの戯言に付き合わされたことへの読者としての物足りなさは、強く読後感として残りました。

 結局は、能天気になりきれなかった一人の若い女性の話という駄作に、数時間おつきあいさせられた、ということに留まるものでした。

 私は、「ご近所小説 in 京都」の中に選ばれている一冊として手にし、読み始めたはずでした。しかし、この作品と京都ということとのキーワードが、どうしても結び付きません。【1】
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2013年03月13日

読書雑記(61)森見登美彦『四畳半神話大系』

 森見登美彦の『四畳半神話大系』(角川文庫、2008・3)を読みました。『太陽の塔』に続く著者第2作目です。
 
 
 
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 おもしろい構成になっています。4話ある物語のそれぞれの冒頭と末尾は、いずれもほぼ同じ文章です。第4話である最終話だけは、少し捻ってありますが。

 その冒頭部分で、「生後間もない頃の私は純粋無垢の権化であり、光源氏の赤子時代もかくやと思われる愛らしさ、……」とあるので、『源氏物語』のことも関係して語られるのかと思いきや、ここ以外にはまったく触れられることはありません。少し残念でした。この光源氏ということばは、作者のどこから出てきた語彙なのか、興味を持ちました。

 主人公は、下鴨泉川町の下宿に住む大学3回生です。このあたりは私が自転車で散策する地域なので、身近な場所として親近感をもって読み進めました。

 同じ下宿人であり、下鴨神社の祭神だと名乗る師匠とは、奇妙な関係を持つようになります。また、鴨川デルタと呼ばれる葵橋や出町あたりの様子が、しばしば語られます。この私の散歩エリアが舞台になっているのは、イメージが膨らみやすくてうれしい限りです。

 賀茂川周辺を舞台として、主人公たちはとにかく自由かつ楽天的に学生生活を謳歌しています。その明るさには脱帽します。物語のテンポも、賀茂川を散策する歩調で語られるので、心地よく読み進められます。

 ただし、途中であまりにも同じ世界が繰り返し展開し、拍子抜けする話が長々と続くような錯覚に陥ります。こうした語り口に、私はなかなか慣れることができません。
 同じような趣向の話が、工夫をして変化を付けてあるといっても、ワープロでよく使うコピー&ペーストのような文章の塊に出会うと、読む気が萎えます。その緩急自在な構成を楽しむべきなのでしょうが……

 深い意味は探らず、楽しめばいいのでしょう。しかし、コピー&ペーストの展開に、私はやはり飽きが来ました。

 それでも、つい読み進んでしまうおもしろさが、この物語にはあります。奇想天外さが、読みながら気分転換になっていいのです。ありえないことが、いかにもまことしやかに語られのに耳を貸すのも、この作者の筆の力を味わうことになるのです。

 第3話で、言い寄る女性から理屈っぽい思考を繰り返して逃れる場面は、秀逸だと思いました。描写がうまいのです。

 再読する機会があれば、同じパターンを繰り返しながらも、それぞれに変化を与える構成や心中および場面描写を、特に意識して読んでみたいと思っています。【2】
 
(付記)
今回読んだのは、単行本『四畳半神話大系』(太田出版、2005・1)に加筆修正した文庫本です。
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2013年01月17日

読書雑記(60)アガサ・クリスティー『ブラック・コーヒー』

 アガサ・クリスティーの作品はほとんど読んだつもりでした。しかし、1930年に初めて戯曲として書かれた『ブラック・コーヒー』は、書店で手にしてパラパラとページをめくっても、読んだ記憶がまったく蘇りません。
 
 
 
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 早川書房の〈クリスティー文庫65『ブラック・コーヒー』麻田実訳〉には、クリスティーらしくないと言われながらも幻の傑作とも評される『評決』が併載されていました。最近、コーヒーを飲むのが楽しみの一つになっていることもあり、読んでみることにしました。読み進む内に、読んだものだと気づいたらその時点で辞めればいい、という軽い気持ちで。
 『評決』の方は、また読みたくなった時にと、今はとっておきます。

 読み始めて間もなく、夫と一緒にインドへ行ったエドナに私の注意は向きました。科学者クロード卿は、原子爆発の研究を完成させ、その方程式のメモが盗まれます。そして、名探偵ポアロの登場です。
 エドナはクロードの妹で薬剤師です。殺人事件に発展した時点で、私はこのエドナが怪しいと見ました。しかし、このエドナは最初に触れられるだけで、後は出番がまったくない人物でした。みごとにハズレだったのです。

 この作品の展開は、舞台で見るに限るようです。コーヒー茶碗を誰がいつどうしたか、とか、誰が読書室のどの位置にいて、いつ出入りしたかなどなど。文字を追っていく読書スタイルでは、この話のおもしろさが存分には味わえないように思いました。舞台と読書では、楽しみ方が違ってくることを実感したのです。

 推理劇の台本を文字で読むと、イメージを喚起するのに手間取って、おもしろさが半減しているように思えます。推理だけを楽しむには、この方がいいと言う方もいらっしゃるでしょう。しかしこの『ブラック・コーヒー』は作者の戯曲第一作目であり、劇という総合芸術仕立てでの発表形態が、作者の願う本来の目的だったはずです。
 身振り手振りに加えて表情豊かだった桂枝雀の落語を活字化したもので読む時のような、隔靴掻痒の感が最後まで付きまといました。
 つまり、作者がサービスとして少し長めに書いてあるト書きによって、舞台の臨場感を感じ取るしかないのが、もどかしく感じられたのです。

 芝居という視聴覚で楽しむ点は最初から考えないと割り切って、自分のイメージだけで楽しむ読書とした方がよさそうです。あまりこうした読み方に慣れていないので、あらためてそんなことを感じました。

 ただし、その場合には、翻訳という壁が立ちはだかります。異文化をどのような単語で訳すか。原文が織りなすクリスティの世界を、どのような表現で日本語化して伝えるか。翻訳者の腕次第で、作者の意図が大きく左右されます。

 今回は、麻田実氏の翻訳を読みました。これまで、翻訳による違いはあまり気にしていなかったので、機会があれば他の方の翻訳を読んでみるのもいいかもしれません。

 いろいろな意味で、この『ブラック・コーヒー』は楽しく読めました。そして、まだ読んでいなかったこともわかりました。
 日頃は日本の作品ばかり読んでいます。しかも今回は戯曲という異分野だったので、刺激的な読書時間を持つことができました。私は、この『ブラック・コーヒー』を電車の中で読みました。しかし、これはやはり、大好きなコーヒー豆をハンドミルで挽き、そして挽き立ての粉をドリップし、そうした薫りに包まれた部屋で、一人でコーヒーを飲みながら飲むのが最高でしょう。いつか、果たしたいものです。
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2013年01月08日

読書雑記(59)山本兼一『利休の風景』

 前回の読書雑記(58)に記した山本兼一著『利休にたずねよ』を読んだ後、ちょうどいいタイミングでその作品の背景を語った『利休の風景』(山本兼一、2012.12、淡交社)が刊行されたので、早速読みました。利休とその時代について、さらに理解を深めることができ、生きたいい勉強になりました。

 『利休の風景』は、月刊誌『淡交』の平成22年新年号から23年12月号までの連載24本に補訂を加え、さらに樂吉左衛門氏との対談「利休がいるところ、待庵」を収録したものです。茶道に興味を持ち始めた私にとって、『利休の風景』は非常にありがたい充実した内容の本でした。

 山本氏は、「かじける」ということばをよく使われます。「かじける」ということばを調べると、次のような説明がありました。

かじ・ける【悴ける】(古くはカシクとも)
(1)やつれる。生気を失う。やせ衰える。
(2)手足がこごえて思うように動かなくなる。かじかむ。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 日頃は使わないことばなので、辞典の意味を知っても、まだよくその真意がわかりません。今は保留としておきます。

 山本氏は、利休が道具に執着したことがわからないと言われます。利休にたずねたいと。こうした、利休にたずねたいことがたくさん語られています。

 ここに収録された随想からは、小説『利休にたずねよ』の資料的な背景が見えてきました。作者が舞台裏を語っていて、おもしろく読み進めることができました。それにしても、よく勉強し、調べておられます。

 利休の孫の宗旦は、お茶室の入口である「躙(にじり)」を「賤しき言葉」だと言ったそうです。一口に茶道といっても、利休以前から以後の時間の流れの中では、いろいろな捉え方があったことがわかります。
 「数寄」と言っても、さまざまな形があることも、今回初めて知りました。

 今ある姿、今に伝えられているものが当初からのものではなく、いろいろと創意工夫が加えられて今がある、ということがよくわかりました。ということは、このままを忠実に伝えるのではなくて、よりよいものにして伝えていくのも、文化や伝統の継承ということになります。

 もちろん、「まねぶ」ことが「まなぶ」ことの基本であることは、どの世界、どの分野でも共通することに変わりはありません。しかし、学んでそれからの姿勢も大事です。その意味では、利休は「佗茶」をうまく変容させた一人であることに、今回この本を読むことで気づかされました。

 また、山本氏は、井上靖の小説『本覚坊遺文』における利休の捉え方に同意できない、と言われます。
 その箇所を引用しておきます。

 僕も『利休にたずねよ』を読ませて頂きましたけど、山本さんをはじめ、様々な方が利休を語っておられる。利休を小説にされた方は少ないんですか?
山本 小説では野上彌生子さんの『秀吉と利休』や井上靖さんの『本覚坊遺文』が有名で、どちらも映画になりました。
 利休を捉えるのは、難しい?
山本 はい。いろんな捉え方があると思います。例えば井上靖さんは、利休が求めたものは武士の死に場所だと。これは利休の極北的な捉え方だと思います。ただ、私はその説にはどうも同意ができません。これまでの「枯れた茶聖」のイメージをさらに深化させてはいますが、井上さんはお茶を習ってらっしゃらなかったようです。
 どうにも思弁的な、つくりものの世界の気がして「人間利休」としてちっとも納得がゆかないのです。私は、利休は「パッション」の人、情熱の人だと思ってるんです。少し説明させて頂くと、そもそも利休は、秀吉の茶頭になったのが六十一歳で、大体、それ以降のことばかりが伝えられるので、どうしても「枯れきった老人」というイメージができ上がり過ぎてると思うんです。(178頁)

 この井上靖の利休像のことは、私自身の問題として、今後とも考えてみたいと思います。

 なお、山本氏は、狩野永徳の小説を構想しておられるようです。
 狩野探幽のあとさきに興味を持っている私は、その作品の完成が楽しみです。
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2013年01月07日

読書雑記(58)山本兼一『利休にたずねよ』

 山本兼一の『利休にたずねよ』(PHP文芸文庫、2010.10.29)は、第140回直木賞の受賞作です。そして、今回読んだのは、2008年11月にPHP研究所から刊行されたものを文庫化したものです。

 茶道に関する話題で展開します。しかし、その柱は、利休の恋心にあります。よく歴史と人物が調べてあります。利休が抱いていた美学が、読み進む内にこちらに伝わって来ます。

 利休の切腹をめぐり、時間軸を操作する手法で語られていきます。ただし、私はこの手法に、最後まで馴染めませんでした。作者にとっては創意工夫の産物なのでしょう。しかし、これまでにない利休像を浮き彫りにするために、作者は懲りすぎているように思えるのです。個人的には、もっとシンプルに、ストレートに物語を進めていった方がよかったのでは、と思っています。利休の内面を掘り下げたこのテーマだけで、充分に完成した形を成していると判断できるからです。
 利休がなぜ死んだのか。それに加えて、利休の恋。そのことに絞りきれたら、ここまで複雑な構成にしなくてもよかったのでは、と一読者としては思います。

 この小説では、絵巻物が過ぎ去りし日へと巻き戻されていきます。人の心の静寂と騒擾とが、巧みに描かれています。心臓がドクドクとする音と、無音の世界が耳に届いてきます。描写がうまい、と思いました。

 インドのことが少し書かれています(文庫版、157頁)。秀吉の統一のことが、インドまで伝わっていると。インドとなると、すぐに反応してしまいます。一応、念のためにメモとして残しておきましょう。

 ポルトガルの宣教師ウァリニャーノロドリゲスと伊東マンショが秀吉に案内されたお茶室での話は、日本文化の特質がよく描かれています。おもしろく読めました。
 また、お茶を点てる利休と宣教師のやりとりが見物ともなっています。

 本作の中では、「うたたね」の章が秀逸でした。娘の死に臨んで、お茶を点てる利休がみごとに描かれています。

 利休が、何度もお茶を点てるシーンがあります。自分が習い覚えた動きが描写されていると、映像としてイメージが膨らみます。流れるような利休の作法が、目の前に浮かびあがります。

 時間が遡るにつれて、利休と秀吉の間の緊張感が薄れているのに気づきました。読み進むうちに薄らぐ、人と人の確執が、かえって前半のピンと張った雰囲気を懐かしく思うようにさせます。

 最終章の「恋」は、力作となっています。作者も、相当気合いを入れていることが伝わってきます。丹念に、与四郎(後の利休)と高麗の女の道行きとなっているのです。物語のおもしろさを堪能しました。

 そして、振り返って、利休に何をたずねましょうか。やはり、一番好きな女性はだれでしたか、と。それに利休は何と応えるでしょうか。
 文庫本の解説を担当された宮部みゆき氏は、「利休さん、あなたがもっとも深く愛した女性は、やっぱり宗恩ですね」と言われます。しかし、私はそうではなくて、高麗の女の方だったと思います。利休は、最後まで夢と憧れを心に抱いて死んで行ったと思うからです。

 この作品は、木槿の花が印象的でした。【4】
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2012年12月20日

「京都漱石の會」の会報を通読して

 「京都漱石の會」の会報『虞美人草』(第10号、2012年10月27日)を手にし、A4版24頁の冊子を興味深く一気に通読しました。夏目漱石は私にとっては異分野の作家です。しかし、そのほとんどの作品を読んだ記憶があるので、つい読み耽ってしまいました。

 まずは、目次をあげます。


巻頭 『野分』と『虞美人草』……久保田淳
高瀬川幻想……杉田博明
漱石と萬福寺と落語と……水川隆夫
子規と漱石、そして京都のぜんざい……末延芳晴
Album オレゴンのソーセキ(8歳) 茶会に
オレゴン大学から……平岡敏夫
思い出あれこれ……森成元
二つ年上の……蔭山淳
陽子先生を「偲ぶ会」とお茶席のこと……中山久美子
Album オレゴン・メモリアル 茶会
漱石詩C 消えぬ過去……平岡敏夫
学生と歩く"漱石の〈京都〉"……佐藤良太
用式の美 様式の美……岩原正吉
菫山児……野網摩利子
コラム 平澤美喜 高橋芙美子 広瀬勤 桂美千代
二つのメモリアル……丹治伊津子
Album パリから里帰り……関健一
○来信 ○編集局だより


 これは、茶道家である丹治伊津子さんが会の会長をなさり、編集しておられる会報です。幅広い方々からの寄稿をもとに、大変読みやすく編集されています。私などの門外漢でも、そのすべての記事に目をとおしたのですから、近代文学に特に興味をお持ちの方はなおさらでしょう。漱石とその周辺の人々の動きや、いろいろなエピソードは、非常に有益でした。

 末延芳晴氏の文章(5頁)に、漱石の「京に着ける夕」の一節が引用されています。


 はじめて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであつた。麸屋町の柊屋とかいう家に着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、はじめて余の目に映つたのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまで決して動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時受けた第一印象でまた最後の印象である。


 今、「京都」と「ぜんざい」というイメージの連関はないと思われます。漱石がこう言ったのは、どのようなところからなのでしょうか。
 ネットという便利なものがあるので、「京都・ぜんざい・夏目漱石」で検索したところ、『虞美人草』の中で、延暦寺西塔の転法輪堂(釈迦堂)を目指す場面にこんな文章があるようです。

善哉善哉、われ汝を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ


 しかし、どうもこれは今探し求めているものとは違うように思われます。
 〈京都とぜんざい〉については、今後の楽しみにしておきます。

 「Album 漱石のヤシャゴ オレゴンのソーセキ(8歳) 茶会に」という頁にも興味を持ちました。

 そもそも、この冊子を読むことになったのは、同僚の野網摩利子さんがこの会報に「菫山児」と題して寄稿をしておられ、こんなことを書きました、と言って私にくださったことが発端です。
 漱石と子規の二人には、呉梅村の漢詩「菫山児」が共有されていたようで、網野さんの文章からは、短いながらしっかりとした問題意識が伝わってくるものでした。

 この野網さんの文章を読んでから、つい巻頭の久保田先生に始まり編集後記までを読んだしだいです。読まされた、と言うのが正確です。私にとって、新鮮な内容でした。

 しかも、偶然とはいえ、会長で編集者の丹治さんは、裏千家茶道では著名な茶人。ネットでのハンドルネームは「椿わびすけさん」として知られているようです。
 そのご著書である『夏目漱石の京都』(翰林書房、2011.1)も、機会を得て読んでみたいと思っています。

 こうした側面から京都を見る方々がいらっしゃることに、いい刺激をいただくことになりました。
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2012年12月19日

読書雑記(57)山本兼一『ええもんひとつ ―とびきり屋見立て帖』

 山本兼一の〈とびきり屋見立て帖〉の第2冊目となる、『ええもんひとつ ―とびきり屋見立て帖』(山本兼一、文藝春秋、2010年6月、文春文庫、2012年12月)を読みました。前作の『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』(山本兼一、文藝春秋、2008年5月)を読んだ後、昨日アップした「読書雑記(56)」の読後感では、「今後のシリーズ化が楽しみな作品集です」と記しました。第1冊目がおもしろい作品集だったからです。
 しかし、この第2冊目には失望しました。作品の評価は、人により、読み方によります。あくまでも、私の期待は裏切られました。はんなり感と共に、スピード感と時代背景のおもしろさを、引き続き楽しみにしていたからです。もちろん、古い道具に対するものの見方や知識が得られたことは、読んだからこそ知ることができたこと、と言えます。
 それにしても、本書に収録された6作品よりも、巻末の杉本博司氏の「解説 骨董の魔性」が格段におもしろく、本を綴じてから変な思いに囚われました。本編よりも解説の方の出来がずっとよかったからです。本書の中では、5番目の「花むすび」だけが気に入りました。しかし、それもこの「解説」のおもしろさには及びません。
 とにかく、興味深い作家なので、第3作に期待しましょう。
 私の読書は、移動する電車の中が多いのです。そのため、文庫本を持ち歩きます。この『ええもんひとつ』も、文庫化されて店頭に並ぶやいなや、昨日すぐに入手し、早速読んだものです。
 次は、第3作である『赤絵そうめん―とびきり屋見立て帖』(山本兼一、文藝春秋、2011年11月)の文庫化を待って読みたいと思っています。そして、解説の出来具合も楽しみにしましょう。

■「夜市の女」
 時は文久三年(1863)。梅田雲浜の漢詩が書かれた扇子と茶碗が150両と高値で競られました。それを落とした女の素性が話題となります。それが、実は倒幕と関係があったというのです。興味深い話です。しかし、物語は道具屋夫婦に引き戻され、盛り上がらないままに終わりました。【1】
 
初出誌:『オール讀物』2008年9月号
 
 
■「ええもんひとつ」
 話題は、香道用の香箱です。坂本龍馬の登場です。龍馬に、道具を買う時の極意を聞かれたゆずは、「一番ええもんひとつだけ買うこと」だと答えます。背後に伽羅の香りがします。しかし、話としては、香をネタにした小話で終わっています。【1】
 
初出誌:『オール讀物』2009年2月号
 
 
■「さきのお礼」
 道具屋の日常生活や、雑談に終始しています。この章をあえてこの本の中に置いた意味が、私にはわかりません。【1】
 
初出誌:『オール讀物』2009年8月号
 
 
■「お金のにおい」
 後半の壺の話はわかりやすいのに、全体としては盛り上がりません。【1】
 
初出誌:『オール讀物』2009年4月号
(「金のにおい」を改題)
 
 
■「花むすび」
 とびきり屋が、桂小五郎の変装と裏の寺へ逃げるための場所として提供されます。そして、預かった書状をめぐり、芹沢鴨の前で息もつかせぬ展開となります。紐をきれいに結ぶ話が、大文字の送り火とともに閉じられます。うまくまとめています。作者は、勝負ごとの話になると、活き活きと筆が冴えてくるようです。この前の4作はどうした、と言いたくなります。【5】
 
初出誌:『オール讀物』2009年11月号
 
 
■「鶴と亀のゆくえ とびきり屋なれそめ噺」
 結婚前のことへと、時が遡ります。狩野永徳の亀図をめぐる話です。
 道具商「からふね屋」の二番番頭だった真之介は、仕えていた店の娘ゆずとの結婚をかけた、命がけの勝負をしかけます。相手は、茶道の東西二つの家元です。鶴亀の字句が問題の品なのです。ただし、その軸が持つ真相を知った真之介は驚愕するのでした。おもしろい話です。しかし、話の内容と登場人物の設定や描写に、言いしれぬ下品さを感じました。話を作ることに必死になり、温かい眼で人を見ることができなかったようです。
 骨董の世界は奥が深いことでしょう。闇もあることでしょう。どうも、この第2冊目に収録された作品には、人の温もりが欠けているようです。【2】
 
初出誌:『オール讀物』2008年6月号
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2012年12月18日

読書雑記(56)山本兼一『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』

 『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』(山本兼一、文藝春秋、2008年5月、文春文庫、2010年11月)は、今後のシリーズ化が楽しみな作品集です。

■「千両花嫁」
 文久三年(1863)三月。鴨川の枝垂れ桜が八分咲きの春のことです。三条木屋町で道具屋「とびきり屋」を新たに開店した真之介とゆず夫婦は、ほやほやの新婚です。というよりも、拐かしての略奪婚でしたが。
 場所は三条大橋の袂で、東海道の上がりの地点という恵まれた場所です。
 ゆずは、京で3本の指に入る茶道具屋の愛娘です。真之介は、捨て子からその店で育てられた奉公人でした。当然のこと、娘の父は大反対。物語が始まる早々、楽しい仕掛けがなされています。
 ゆずは開き直り、命を賭けてる夫の道具道楽に付き合うつもりです。
 開店早々にやってきたのが壬生浪の面々、近藤勇の登場です。これからの展開にますます期待が持てます。
 芹沢鴨が盗んだ自分たちの結納金三千両を取り戻すくだりは秀逸です。【5】
 
初出誌:『オール讀物』2004年12月号
 
 
■「金蒔絵の蝶」
 高杉晋作と祇園の妓の話です。ゴム鞠が弾むような第一作と違い、これは創意と工夫とエネルギーが文章から感じられないのが惜しいと思いました。話も陳腐です。【1】
 
初出誌:『オール讀物』2005年4月号
 
 
■「皿ねぶり」
 坂本龍馬の登場です。道具屋とは、という話で、今後のつなぎとなる話題が盛られています。勝海舟を家に預かったところ、侍たちに襲撃されます。命拾いをする立ち回りがおもしろい話に仕上がっています。
 ゆずは、眉を抜きお歯黒をして、やっと嫁らしくなりました。【4】
 
初出誌:『オール讀物』2005年10月号
 
 
■「平蜘蛛の釜」
 一つの釜をめぐって、ゆずの魅力が十二分に発揮された話になっています。夫婦の信頼関係と人間が持つ味が出ています。高杉晋作と坂本龍馬は、贅沢にも背景に置かれているだけです。茶道具の目利きになるのには、とにかくいいものを見ることだとか。いろいろと出歩いて見て回るしかないようです。【3】
 
初出誌:『オール讀物』2006年4月号
 
 
■「今宵の虎徹」
 刀をめぐる話です。いろいろと物を見ることの大切さの勉強ができます。ここでは、近藤勇と土方歳三が出てきます。それも、ピエロ役で。二人は、作者にさんざん弄ばれています。
 最後のゆずの母の話は、綴じ目を盛り上げています。おもしろい話に仕上がっています。【4】
 
初出誌:『オール讀物』2006年10月号
 
 
■「猿ヶ辻の鬼」
 坂本龍馬がお店の二階に寝起きしているという設定がおもしろいところです。龍馬から頼まれた、公家の攘夷を諦めさせるための贈り物を探すゆずがおもしろい展開を引き出していきます。対する夫の真之介は、武市瑞山から、龍馬とは逆に開国を諦めさせるための贈り物を頼まれます。さて二人は何を選ぶのか。
 真之介は、日本が愛おしくなるものとして、「源氏物語絵巻」を持参します。しかし、首を振られます。決まったものの一つは、『源氏物語』に関わりのあるものでした。何とも優雅なものをと、思わず日本文化の継承に思いを及ぼしました。話のオチに、人の心は、物ではなくて心で動かすものだとあります。なるほど、と得心しました。【3】
 
初出誌:『オール讀物』2007年1月号
 
 
■「目利き一万両」
 辻が花の裂は、捨てられた真之介が肌身に付けさせられていたものです。それをめぐる出生の話へと展開します。
 近藤勇が率いる壬生の屯所を舞台にして、結成されたばかりの新撰組が背後に動いています。社会の動きを躍動的に語ります。屯所での対応は、芹沢鴨があたっています。ただし、どうも人間が描けていません。話の綴じ目も、安易なハッピーエンドに作りすぎです。【1】
 
初出誌:『オール讀物』2007年12月号
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2012年12月07日

読書雑記(54)水上勉『出町の柳』

 京都の我が家の周辺が舞台となる6編の作品集です。
 見た目にも薄味の京料理を食べた読後感が残りました。
 気楽に京の香りを味わうのにはお薦めの1冊です。
 もう少し寝かせて、心に滲み入る話にしてもらえたらよかったのに、と思っています。

■「出町の柳」
 標題作となっているだけあって、いい話でした。
 北大路の住宅街や出町柳の辺りが舞台となっていて、地元民としては親しみをもって読みました。ただし、登場人物たちは我々が知らない世界を生きる女性です。
 花街の茶屋に生きる女たち一人一人が、次第に輪郭を鮮明にしていきます。作者の女への視線が柔らかなのです。
 クモ膜下出血で障碍を持つようになった菅井が、みごとに描かれていると思います。その菅井をめぐるかつ江も、温かく語られています。父と娘の初めての対面では、父の嬉しさが伝わってきます。
 下鴨神社の南端にある河合橋に佇む菅井が、読み終わっても残像として焼き付いています。【4】
 
 
■「八瀬の片しぐれ」
 義母の死後、北大路の家で夫と二人になっても、何か満たされない、自由になった気がしないてる子でした。義母に限りない親しみを実感するばかりです。
 義母の遺骨を八瀬のお寺に納めた帰り、八瀬に降る小雨が印象的です。
 義母を語るてる子と、その夫の存在が、私には中途半端なままに置かれたように思われました。【2】
 
 
■「片瀬川冬」
 茶屋の女中から木屋町の店をもつようになった麻子には娘の千代子がいました。
 寺町二条にある骨董屋を営む伊佐山は、麻子の夫の死後、千代子の成長を見守ります。そのあたりの話に、もっと人間のつながりを書き込んでもよかったのでは、と思いました。
 丁寧に描ききれたら、雪ももっと効果的に織り込めたのではないでしょうか。軽すぎる出来なので、もう少し、という感が残ります。
 下鴨にいる千代子がワープロを打つところは、マッキントッシュユーザーだった水上の一面が窺えました。【1】
 
 
■「賀茂の蜩」
 賀茂川から高野川を遡って修学院辺りを舞台とします。
 夫の死後すぐに弔問に訪れた女性の素性が、最後まで話を引っ張っていきます。
 陶工だった夫に関して、知子はさまざまな憶測を廻らせます。弔客の女が言ったことが気がかりになり、知子は骨壺を見据え物思いに耽り、亡き夫と会話を交わします。
 夫に対する疑念が、納骨した寺の和尚と語らうことで晴れます。妄想や思い過ごしと決別し、あらためて亡き夫とぼんやり過ごす楽しさの中に身をおきます。
 心の迷いがスッキリするまでを、丁寧に描いています。【4】
 
 
■「たんぽぽ」
 賀茂川にかかる出雲路橋が舞台となっています。
 茶屋の女中と、その娘の父のことが話題になりながら、あまり話はふくらんではいきません。
 世間話の1つとしての物語に留まっています。【1】
 
 
■「高野川桜堤」
 出町柳の三角州が印象的な舞台となっています。
 ここに建つ映画俳優の尾上松之助の銅像が出てきます。何度もそこに私は行っているのに、そんな銅像があることに気付きませんでした。今度確認してみます。
 昭和20、30年代の映画の話は、興味深く読みました。映画が衰退し、テレビが普及しだした頃の話です。
 京都の川沿いには桜がよく似合う、そんな風景が点描されています。【2】
 
 
〈初出誌〉
「出町の柳」(『オール讀物』1987年4月号)
「八瀬の片しぐれ」(『オール讀物』1987年7月号)
「片瀬川冬」(『オール讀物』1988年1月号)
「賀茂の蜩」(『オール讀物』1988年8月号)
「たんぽぽ」(『オール讀物』1989年1月新春号)
「高野川桜堤」(『オール讀物』1989年5月号)
 
〈単行本〉
『出町の柳』(1989年8月、文芸春秋社)

〈文庫本〉
『出町の柳─水上勉作品集─』(1992年8月、文春文庫)
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2012年11月15日

読書雑記(53)中村久司『イギリスで「平和学博士号」を取った日本人』

 中村久司著『イギリスで「平和学博士号」を取った日本人 −英国の軍産学複合体に挑む−』(高文研、2012年9月刊、\1,800)は、平和ボケした日本人にジワジワと効くボディーブローを打ち付けてくる本です。
 「出る釘は打たれる」という喩えを自戒の念とすべく教え込まれた人には、現代の日本において、もう著者のような生き方は不可能です。しかし、巧みに教育的配慮からガス抜きをされた人でも、本書を読めば、正しいと思うことにどう立ち向かうか、ということに対する視野は広がります。
 闘う、ということを忘れた人には、刺激の多い内容です。それだけ、本書には毒も薬も盛られていると言えるでしょう。

 最近、夢を育てようとしているか? と自問することが多くなりました。
 過日も、本ブログに「今、夢を育てようとしているか」(2012年10月 9日)と題する拙文を書いたところです。

 常に夢を抱き、そしてそれを実現すべく真っ直ぐに歩んで行く姿勢が、本書の著者には顕著です。それが、言葉という形でこの本から立ち現れて来ます。
 そして、今を語るのが、本書のサブタイトルとなっている〈英国の軍産学複合体に挑む〉という闘いの報告です。

 
 
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 夢を持ちようにも持てない人々、もしくは夢を探し求めている人々に、私はこの本を勧めます。

 人はみな生き方を異にしています。しかし、同じではないにしても、基底にはよく似た問題が横たわっています。解決すべき問題を前にして、各自がどう立ち向かうのか。その一つの対処と方策が、現在進行形の形で本書には提示されているのです。

 特に終章は、著者の終始一貫した生きざまが語られ、心に響くものがあります。最後に記される「抵抗の意思表示」や「何もしないでいることは、とても罪深いことに感じられた。」ということばには、読者である我々にあらためて考えることを迫る力と奥深さがあります。

 さて、開巻冒頭から、巧みな文章で読まされました。非常に個人的な話から始まります。それでいて、実体験をもとにした内容なので、語られる言葉がストレートに伝わってきます。ドキュメンタリーの世界に引き込まれていくのです。

 また、作者は、読者に語りかける内容を、次のように明確にしているので、わかりやすく読み進められます。


本書は、イギリスという国や異文化・国際関係の問題、また留学に関心を持っておられる人々や、多様な状況下で広い意味の平和問題に触れ、その問題解決のために悩み、考え、たたかっておられる世代を超えた広範な人々に、私のささやかな体験を紹介したいと願って書き出しました。状況と形態は私の場合とはまったく異質でも、平和の問題を真摯に考えその実現のためにたたかっておられる人々には、私の日本とイギリスでの生活・就労・留学体験の中の、苦悩・葛藤・失敗・発見・感動・喜びなどを共有していただけるのではないかと考えたからです。(3頁)


 著者は私よりも1つだけ年上ということもあり、時代背景もよく理解できました。あらためて、その生きざまが理解できました。

 読み進むうちに、海外に向けられた知的好奇心も、ジンジンと伝わってきます。正しいと思うことには、真正面からぶつかっていく、その具体的な実話が興味深く、そしておもしろいだけに、一晩中この一冊が手放せず、ついつい読み耽ってしまいました。

 また、奥様との結婚話や娘さんへの溢れんばかりの愛情は、それまでの道のりの険しさを知ると、その底流に家族の間での信頼に裏打ちされた思いやりがあることに気付かされます。

 英語と英国文化の話もおもしろく読めました。その苦闘の中で、著者はひたすら前を見て、いわゆる義憤にかられながら、それをコントロールしながら生きてこられたのです。そしてこれからも。

 そうそう、「いわゆる」ということばの英訳の話は、このことばを「いわゆる青表紙本」などということばとして使う私には、大いに参考になるものでした。


「自衛隊」なる存在も、英語の文献・記事では、「the so-called SelfDefense Force(s)」と、「so-called」を「自衛隊」の前に付けて論じられる場合が多い。「so-called」は、「いわゆる」「世にいう」ではあるが、通常の場合、「不信・軽蔑・嘲笑」を含む。「自衛隊とやら」「本当かどうか疑わしいが自衛隊」となる。実質上、「自衛隊などと呼んでいるが軍隊だ」という含みがある。(163頁)


 後半で、ヨークへの篤い思いが溢れ出るように語られます。しっかりと立ち位置を定めて、自分の足で生きようとする著者の強い意志が、行間の各所から伝わってきました。しかも、その背後では、慎重な判断がなされています。

 学びながら生きる、という姿勢も明確です。ここがしっかりとしているので、納得できないことへの抵抗や抗議や闘争という行動にブレがないのでしょう。

 「コングラチュレーションズ、ドクター・ナカムラ!」という祝福の言葉と共に、平和学博士という称号がもたらされます。このくだりを読んでいて、つい私の目頭も熱くなりました。

 本書は、非常に不思議な本です。生々しい事実をもとにした話題が展開しています。そして、著者の人間としてのすべてが、読み進む内に読者の体内に染み込んできます。しかも、時間軸が今に近づく後半に至るまで、著者の強い意志が貫き通されているのです。

 活動家でも研究者でもない、いつまでも夢を追い続ける一人の人間が、この一冊の本の中にいて、問わず語りに話しかけて来るのです。
 日頃はフィクションの世界に身を委ねる私にとって、久しぶりに魂の叫びを聞いた余韻に浸っています。
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2012年11月14日

読書雑記(52)岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』

 この小説には、〈また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を〉というサブタイトルが付いています。
 私なら、このサブタイトルの方を書名にします。もっとも、今後のシリーズ化を狙ってのことなのでしょうから、このタイトルで行くのなら、もっと事件やミステリ性を盛り込んでサービスを心掛けないと、読者に失望を与えます。
 なお、本作品は、第10回「このミステリーがすごい!」大賞(2012年度)の応募作であり、最終選考まで残ったことにより「隠し玉」として出版されたものだとのことです。

 私は、毎日のように自分でコーヒーを淹れています。自分で気に入った豆を買ってきて、電動ミルで挽いて淹れるのです。
 一度に5杯分を作るのが、朝夕の楽しみです。ほぼ毎日10杯近くものコーヒーを飲んでいることになります。
 まったく同じコーヒーメーカーを3台持っていて、京都、東京、立川の3ヶ所に1台ずつ置いています。
 何度かフィルターを交換したので、よく使っている方でしょう。
 
 
 
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 それぞれの場所で、挽く豆も変えています。好みは、香り高くソフトな味の豆です。京都北大路にある伊藤珈琲店の「さくらブレンド」が一番のお気に入りです。次は、これも京都にある小川珈琲の「KAORI」です。京都は、コーヒーの文化も楽しめる街です。

 挽いた粉が飛び散るので、粉のお掃除には、100円ショップで見つけたお化粧用で太い刷毛を使っています。
 この小説を読み、ハンドミルで豆を挽くのもいいかな、と思うようになりました。

 忙しい時期には、すでに挽いてある粉を買ってくることもあります。さまざまなブレンドがあるので、おもしろ半分ではあっても、いろいろと楽しめます。

 この小説は、読んでいるとコーヒーの香りが漂う作品です。ただし、少しだけ温めのコーヒーを飲んだ後の感触がするのは、どうしてでしょうか。特に取り立てて心躍る事件がなかったせいかもしれません。

 バリスタである切間美星が謎解きをする物語です。テンポよく会話が遣り取りされて、話が進行していきます。
 コーヒー豆を、ハンドミルでコリコリと挽くのが、謎を解き明かす時の一つのパターンとなっています。
 コーヒーの香りが行間から匂い立つ中で、ささやかながらも理詰めの推理が展開します。そして、舞台は京都。

 取り立てて大きな事件が起きるわけではありません。男と女の関係を通して、人間のつながりのおもしろさが描かれていきます。
 第3話(103頁)で、北大路にある焙煎屋さんから豆を仕入れている、とあります。私が好きな伊藤珈琲店ではなさそうだし、どこだろうと、地元民としてはあれこれと思いをめぐらせました。京都には、たくさんの喫茶店と、豆を挽いてくれるお店があります。この豆選びは、私の楽しみの一つとなっています。

 さて、物語は想像力を刺激する話が並んでいます。ただし、そのつながりが弱いせいか、話の展開に置き去りにされることもあります。特に、第3話など。
 作者の構成力が足りないのか、原稿に手を入れすぎたためにこうなったのか。この作者の今後の成長を見たいと思いました。

 バリスタの美星さんを描く筆が冴えています。丁寧にふっくらと焼き上げたオムレツのように、魅力的に語られています。
 ちょうど真ん中あたりで、美星さんがこう言います。

「これは私の勝手な希望かもしれませんが、アオヤマさんとはいずれ、互いの内側の深いところまで立ち入ることのできる間柄になるのでは、という予感がしています。けれども今はまだ、その勇気がないのです。どうか、もうしばらくそっとしておいていただけませんか。しかるべき時期がきたら必ず、私のほうからお願いいたしますので」(208頁)

 このセリフを美星さんに言わせた時点で、その後の展開が見えてきました。
 作品の構成力が弱いのは、こうした不用意な発言を挟んでいるからだと思われます。原稿に手を入れすぎたために、人間の感情がこんなところに紛れ込み、かえって話がぼやけてしまっています。読んでいて、ここで余計なことを言わせなければいいのに、と残念に思った場面です。

 また後半で、美星さんの秘められた過去というものが語られます。これは、もっと早く匂わせておいた方が、作品全体に緊張感を与えたと思われます。これも、手の入れ方が中途半端だったからだと言えるでしょう。

 この作品の推理は、あまりにも日常的なレベルでの小事に終始しています。これがこの作品の上品さだとしても、もう少しダイナミックさを加味してほしかったと思っています。そこに、物足りなさを感じました。
 
 全体的に、理詰めで堅苦しさが感じられます。しかし、文章に歯切れの良さがあることが救いとなり、一気に読めました。エピローグは、映画のエンディングのようでした。
 脚色を工夫すれば、京都を舞台にしたいい映画ができそうです。

 なお、最終章である第七章は、なぜか、節が「T 2 V 4 5 6」となっています。ローマ数字の「T」と「V」が用いられているのは、何か意味があるのでしょうか。その他の章ではないものなので、校正ミスなのでしょうか?【2】
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2012年07月03日

読書雑記(51)森見登美彦『宵山万華鏡』

 今年も京都市内では、祇園祭の準備が進んでいます。
 一昨年の宵山は、私が癌の告知を受けた日でした。
 妻と四条烏丸で待ち合わせて鱧を食べて帰ったことが、遠い日のように思い出されます。
 書店で本書『宵山万華鏡』(森見登美彦、2012年6月30日、集英社文庫)を手にし、すぐに読みました。
 2009年7月に集英社から刊行された作品の文庫化です。
 今年は何かと仕事が溜まっているために宵山に行けそうにありません。
 本作で宵山をファンタジーワールドとして楽しんだことにします。
 
 
 

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■「宵山姉妹」
 好奇心旺盛な姉に引き摺られて、京都三大祭りである祇園祭の宵山に紛れ込んだ妹。
 姉を見失った妹は、金魚のような浴衣姿の女の子たちに連れられて細い露地を覗いては歩いていきます。
 京都の町家とビルの隙間に展開する世界を、夢遊病者のように彷徨うさまが、妖しく語られていく連作です。南観音山と蟷螂山が印象的です。【4】

■「宵山金魚」
 虫嫌いな私には苦手な話題が展開します。「町屋」とあるのは、これでいいのでしょうか。
 さて、頭の天窓が開いている男の話は、おもしろいと思います。宵山の露地を彷徨う男二人。祇園祭の神髄を突く指摘があります。
祭りがぼんやりと輝く液体のようにたひたと広がって、街を飲みこんでしまっている。

 そこへ、赤い浴衣の少女たちが。場面展開がうまいと思います。
 高校時代の友人である乙川が、いい役所を受け持っています。この一風変わった男が、このおかしな話を支えています。ただし、奇想天外なのはいいのですが、私にはどうもこの手の話には白けてしまいます。【1】

■「宵山劇場」
 前話を読んだ後、そうだったのか、と得心させられます。うまい構成です。しかし、それなら前作をもっと妄想で膨らませればよかったのではないでしょうか。ここで語られる奇想天外さは、いささかネタばらし的で説明に脱した感が否めません。
 しかし、それにしても、おもしろい話です。登場人物たちが遊びに没頭していて、活き活きしているのです。直前の「宵山金魚」があるからこそのおもしろさです。そうであるならば、「宵山金魚」はもっと書きようがあったと思います。【5】

■「宵山回廊」
 おもしろくないのです。後半は、テンポと雰囲気が森見らしくなります。しかし、全体としては冴えないこぢんまりとした話に留まっています。【1】

■「宵山迷宮」
 昨日と同じ今日が繰り返される、不思議な話として語られます。昨日のことは夢だったのか、と。
 本書所収の全作を通して、赤い浴衣を着た女の子たちが、宵山の雑踏の中を金魚のように自由自在に浮遊する姿が、強く目に焼き付きました。妖しい不思議な体験を、この女の子たちが背後で支えています。【2】

■「宵山万華鏡」
 最後の話は、最初の話「宵山金魚」をなぞるようにして、イメージを微妙にダブらせながら語られていきます。この手法は、おもしろい趣向だと思います。最初の話をもう一度見返しました。初めからもう一度読みたくなります。
 この分野での常套手段なのか、森見登美彦ならではのことなのか、寡聞にして知りません。読者を意識したサービスとして、これはいいと思いながら本を閉じました。【4】

 今振り返ると、出来不出来が入り乱れている一作でした。作者がそれを意図したものとは思われません。一冊にまとめあげる上での、編集上の手をもっと入れてもよかったのでは、という畑違いの立場からの感想を持ちました。
posted by genjiito at 22:25| Comment(0) | ■読書雑記

2012年06月05日

読書雑記(50)『十二単衣を着た悪魔 源氏物語異聞』

 『十二単衣を着た悪魔 源氏物語異聞』(内舘牧子、幻冬舎、2012.5)を読んだので、その感想を記します。
 
 
 
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 内舘氏は、高校生のころから弘徽殿女御が好きだったそうです。以来、弘徽殿女御ファンとして鬱積した不満がこの作品となったと言えます。

 小説は、威勢がよくて歯切れのいい文章で快調に語られていきます。初めて内舘氏の文章を読んだ私は、小気味よさを感じました。内容に入る前に、文章のテンポが読者を惹き付けます。ただし、しだいに中だるみがして来るので、この点がこの作品の出来を軽くしているように思いました。

 主人公の伊藤雷は、現実の平安時代ではなくて創作の『源氏物語』の中にタイムスリップします。この設定が、この作品のおもしろいところです。作者内舘氏の創意です。

 主人公雷は『源氏物語』における兄宮(後の朱雀帝)に比され、その母親は出来の悪い息子を持った弘徽殿女御にあたります。斬新な切り口で『源氏物語』が取り込まれ、今から見た平安朝がテンポよく語られます。

 食事のことや歯磨きのことなど、タイムスリップした主人公が見るもの聞くものすべてが現代の視点で描写されるので、そこがおもしろく読めるところです。

 主人公雷は、平安時代では陰陽師と見なされ、雷鳴と名乗って弘徽殿女御側の人物として活躍します。
 その描写は、非常にリアルです。見てきたような大ウソが語られるのです。人間は自分の居場所が必要だということが、この小説で強調されています。

 桐壺更衣の服喪中に弘徽殿女御が音楽会を開くことを描くくだりがあります(90頁)。ただし、このことは注目されていないと言います。しかし、異本の異文には、ここを強調するものがあります。もう一度、この場面の異本での描かれ方を確認してみようと思います。

 帝が桐壺更衣を慕って「尋ね行く〜」と歌ったところは、現代から紛れ込んだ主人公が陰陽師として仕える状況がうまく嵌め込まれています。シチュエーションの妙と言うべき、うまい構成になっています。

 『源氏物語』の作者とされる紫式部は、この弘徽殿女御が好きだったのではないか、と内舘氏は言います(119頁)。また、折々に現代日本人の批評もしています。この時空を超えた視点が、その批判をリアルにし、おもしろくしているようです。

 対象としている『源氏物語』の巻は、「桐壺」から「明石」あたりまでで、まさしく〈須磨帰り〉となっています。一般的な読者の風を装うことと、弘徽殿女御が出て来る場面を中心にした物語だからこそ、このような切り取り方ができたのです。

 藤壷について「本当においしいとこ取りの女である。」(211頁)という指摘がおもしろいと思いました。

 コンプレックスの塊の弘徽殿女御と、その世界にタイムワープした主人公。話はおもしろいのですが、人間性の描写がくどいので、しだいに中だるみとなっていきます。そして、『源氏物語』のあらすじをなぞるだけとなります。最初は語りの新鮮さと軽快さで読者を引っ張っていた文章力が、物語に寄り添いすぎて陳腐なダイジェストに脱してしまいます。

 主人公が平安朝に紛れ込んでから結婚した倫子とその間に売れまた風子も、その設定が生かしきれていません。いい雰囲気に持ち込むのですが、力不足のままで惜しいネタで終わります。物語の流れに溶け込ませるのに汲々として、無理が露呈しています。もったいない設定でした。特に、死者としての母子を回想する件がくどすぎます。この情のかけ方が粘っこいのは、内舘氏の特徴のようです。この設定は、また別の作品で生かしてもらいたいものです。
 主人公や朱雀帝などにコンプレックスを執拗に自覚させる描写がくどいのも、そうした例の一つと言えます。

 弘徽殿女御の思いと発言には、作者の深い作品の読みが反映しています。ここが、この小説の読みどころだと感じました。作者の弘徽殿女御への思い入れが、こうした場面に存分に盛られているのです。ここは、小説となっています。その背景をもっと固めたら、さらに完成度が高くなったと思われます。

 次の視点はおもしろいと思いました。

 弘徽殿女御はトゲトゲしく、激しく、意地が悪いと言われ、書かれているが、それは一面からの見方だ。「弘徽殿コード」で読みとけば、よくぞ今日まで自分を支えたと思う。(274頁)


 登場人物において、主人公である雷鳴は朱雀帝に、その弟水は光源氏に置き換えた設定で読むようにして展開していきます。敗者の側から『源氏物語』を読む仕掛けです。ただし、その発想はおもしろいとしても、あまり長く引き延ばしすぎです。そのため、中程まで読み進まないうちに飽きてしまうのです。『源氏物語』の内容を変更しないという制約に自らを縛っているためです。

 今は亡き人に対する「想い供養」は、心に響く話となっています。思い出してあげることが一番の供養だというのです。さらに、母親は子供にとっては千手観音のようなものだ、とも言います。この喩えはよくわかります。
 後半になって、話に厚みが出てきます。これは、女の視線で『源氏物語』を語るようになったからでしょう。それまでが、伊藤雷であり陰陽師雷鳴という黒衣役の主人公が、現代からワープした男の目を通した語り口でした。それが、後半になり作者の本当のことばで語り掛けてくるようになったのです。

 息子である夕霧のことを語る光源氏に、コンプレックスを吐露させます。本作品のテーマであるコンプレックスが、光源氏にまで及んだことは収穫です。

 また作者は、弘徽殿女御に次のように言わせています。

女の幸せな人生を勝ちとるのに、必要なのものは二つだけ。決断力と胆力だ。

 内舘氏の本音の部分が出ていると思われます。おもしろいところです。

 現代に帰った雷が、図書館で『源氏物語』を読もうとするシーンが不自然です。
 『源氏物語』のテキストが現状ではどのような流布の状態にあるのかが、これでは確認できません。なぜこのような書き方になっているのか、私には理解できません。ここにある貸し出し禁止の「まっさらな原文版」とは、どのような本なのでしょうか。

 書店には原文版があるにはあったが、いちいち細かく語句や社会風俗などの注釈がついている。どのページにも「※」がやたらとあって、「物忌み」だの「後宮」だのを解釈している。うるさくて読んでいられない。
 俺はまっさらな原文が読みたいのだが、書店にはないという。その足で図書館に行ってみた。
 カウンターの司書に、
「源氏物語の原文、古語で書かれたものを読みたいんですが。細かく語句の解説とか注釈がないのがいいんです。もしあれば、当時の墨文字で書かれたものだと、もっといいんですが」
「墨文宇って、源氏物語絵巻のような……ですか」
「そうです、そうです」
 カウンターにいた来館者たちが、ちょっと驚いたように俺を見るのがわかった。いい気持だった。
 墨文字で書かれたものはなかったが、まっさらな原文版はあった。重要な蔵書のため、一般貸出しは禁止で、館内閲覧だという。第一帖の「桐壺」を読んでみると、一ページ目からスッと頭に入ってきた。これだ。(380頁)


 とにかく、終章が説明的になっていて、最初の語り出しがよかっただけに残念でした。
 本作は書き下ろしです。そのために、内容がこなれていません。一度雑誌などに公開し、それからまとめる手法をとったら、このような雑な仕上がりにはならなかったように思われます。
 次作に期待しましょう。
posted by genjiito at 22:29| Comment(0) | ■読書雑記

2012年05月01日

読書雑記(49)谷崎松子『倚松庵の夢』と潤一郎への想い

 本書は、谷崎松子の潤一郎回想記です。昭和40年から42年にかけて書かれた、長短12編の随想が収録されています。谷崎潤一郎の晩年から死に至る背景が、優しい柔らかな文章で綴られています。

 松子夫人は、谷崎潤一郎の妻としては3人目です。いろいろな作品に影を落としていて、『細雪』の幸子のモデルとされています。そのいちいちは知らなくても、本書は充分に潤一郎と夫人の心の通い路が読み取れます。

 全編を通して、傍にいた人としてもっと語ってほしいところです。奥ゆかしさから語られないことや、話がきれいに浄化されていると感じられる箇所があるように思いました。それでも、心のつながりがそうした面をうまく包み込んでいて、読後は爽やかさを感じました。これは、松子夫人にとっての谷崎潤一郎という一人の男を、きれいに語り収めたものなのです。

■「銀の盞」(原題「『源氏』と谷崎潤一郎と私」)
 潤一郎と松子の、『源氏物語』の現代語訳をめぐる日々が語られていて興味深い内容となっています。
■「湘碧山房夏あらし」
 潤一郎の最後の様子が活写されてまいす。松子の文章力に引き込まれました。中絶した男児のことを思い出すくだりは、人の心の揺らぎが美しく語られています。
■「倚松庵の夢」
 谷崎との思い出を大事にしていたことを紡いでいます。谷崎からの手紙がいいと思いました。「盲目物語」や「蘆刈」の裏には、谷崎の松子への思いがあったことがわかりおもしろい内容です。
■「細雪余談」
 谷崎を思い出しながら、「細雪」の中の平安神宮の場面を回想します。特に、最後の一文がきれいな文章となっています。

 今は儚い蝶のような思出かも知れぬが、私には消えるまでの生命の書いても書ききれぬ繋がる絆なのである。読んで下さる方こそ迷惑千万のことゝ、書き終えて身の縮まる思いがするのである。

■「源氏余香」
 これによると、谷崎の『源氏』嫌いは、新々訳を終えてからのようです。『源氏』訳の背後に、貧乏物語があるのがおもしろいと思いました。
■「終焉のあとさき」
 亡き潤一郎に語りかける松子がいます。一方的な会話です。しかし、思い出深い場面なので、様子がよく伝わってきます。病気に追い立てられるようにして、新々訳『源氏物語』は進んでいきます。一人の男の臨終のさまがつぶさに語られていて、人間の温かさがある文章となっています。谷崎のことを思うと、ペンが不思議に走り出すと言っています。さもありなん、と思われます。細やかな愛情に満ちた生活だったことが偲ばれます。
■「「吉野葛」遺聞」
 歌碑をめぐる旅の記です。しっとりとした文になっています。
■「秋声の賦」
 お稽古事を始めとして、何事にも不器用だった谷崎の姿が目に浮かんできます。
■「夏から秋へ」
 走馬燈のように、谷崎との思い出や遺品が点綴されています。
■「桜」
 与謝野晶子が愛でた大島桜が印象的に語られています。
■「桜襲」
 道成寺の桜から歌舞伎へと、話が展開します。松子の奥深い素養がにじんでいます。
■「薄紅梅」
 「台所太平記」の舞台裏が語られます。下鴨にあった潺湲亭のことは、年老いた谷崎の意外な面が見えていておもしろい話です。『源氏物語』に関する一文は、谷崎が『源氏物語』を訳した時の心中が窺えます。そこには、谷崎の松子への深い思いがあるのです。
 最後に次のように書かれています。

京のたよりにきのうもきょうも風花が舞っているという。法然院の墓石は寂として静まり、枝垂桜の咲く日を生きていた日と同じように待っていることであろう。

 この一文を読み終え、そうだ谷崎の墓石がある法然院へ行こうと思い立ち、昨日のブログに記したように自転車を漕いで行ったしだいです。
 左の「寂」の下に、2人は眠っています。
 
 
 
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posted by genjiito at 23:07| Comment(0) | ■読書雑記

2012年04月09日

読書雑記(48)高田郁『夏天の虹−みをつくし料理帖』

 高田郁の文庫書き下ろしによる「みをつくし料理帖」シリーズの第7作(時代小説文庫・ハルキ文庫、2012.3.15)です。
 
 
 
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 高田郁の「みをつくし料理帖シリーズ」は、春と秋の年2回の刊行が楽しみです。今年も、第7弾が先月に出ました。
 しかし、巻末の「作者からひと言」によると、「長年温めていた題材が時の経過とともに失われていくことを危惧し、その取材と執筆に専念させて頂きたいのです。」という理由で、今秋は休刊になるそうです。
 さらに心躍る物語になることを期待して、来春の第8弾を待ちたいと思います。

 さて、本作について、感想を記しておきます。
 
■「冬の雲雀――滋味重湯」
 道は一つしかありません。小松原の理解を得て、澪は武家の嫁入りではなくて、料理人の世界を生きる決断を下しました。
 大人の理性が前面に押し出されています。情は、押し留められたまま、善人たちの物語が続いていきます。
 自分勝手な判断と小松原の思いやりに満ちた態度。その狭間で思い悩む澪。自力で立ち直る澪に、春が重なっています。
 本話では、ご寮さんである芳の存在が、苦境の中にいる澪を救っています。【3】
 
 
■「忘れ貝―牡蠣の宝船」
 一つの料理が完成するまでの苦心を、作者が語る内容を共にしながら読み進むことになります。
 話は、澪の恋に収斂していきます。ただし、話の展開がぎこちなく、盛り上がりに欠ける作品となっています。
 次への繋ぎとして読み終えました。【2】
 
 
■「一陽来福―鯛の福探し」
 匂いと味がわからなくなった澪。又次がそれを献身的に助けます。気心の知れた仲間が力を合わせて、急場を凌ぐことになりました。
 それにしても、料理人にとっては致命的な事態の設定です。作者の物語る苦心も伝わって来ます。
 前作あたりから、月が顔を出すようになりました。心情と情景の転換を、この月に負わせようとしているかのようです。話が暗くなっていることも影響しているようです。
 精進を重ねれば、真っ青な空が望める、ということを信じて、澪は前を向いて生きていくのです。
 この作品は、後半の鯛の福探しの話だけで独立しそうです。それだけ、話の作り方が複雑になってきたということでしょう。
 それに伴い、これまで作者は、個人の行動や感情をうまく描出し、感動的な話を語ってきました。それが、この作品では、集団の動きが描けるようになったと思います。描写力に加えて、筆力と描き分けが巧みになったからでしょう。集団が描けたのは、私の知る範囲では井上靖の戦国ものです。この作者の進歩は、今後の作品をさらに楽しみにしてくれます。【3】
 
 
■「夏天の虹―哀し柚べし」
 人との別れを語ることが多いこの作者。情の掛け方が巧く抑制されてきて、爽やかさが伝わってくるようになりました。この適度なバランス感覚がいいと思います。
 また、添景としての月や星も効果的です。ここでは後半の燕の雛の様子など、話題に絡ませながら演出に活用しています。
 末尾での吉原炎上は圧巻です。作者が描写力を身につけたことを、ここでも確認できます。迫り来る火の粉が眼前に見えるような迫力が伝わってくるのです。
 幼馴染の野江の髪が焦げた匂いで嗅覚が戻った澪は、新たな物語世界に突き進んで行きます。
 これまで情に訴えることにかけては高く評価していた私は、この火事場を描き切った作者の急成長を、こうした場面の描写を通して確認することができました。
 さらなる完成度の高い作品が書かれることを、楽しみにしたいと思います。もっとも、今夏はお休みとのことなので、来年の春3月までのお預けです。【5】
posted by genjiito at 22:31| Comment(0) | ■読書雑記

2011年12月26日

読書雑記(47)水上勉『西陣の女』

 昭和27年の京都西陣を舞台とするお話です。1968年(昭和43年)に新潮社から刊行された長編小説です。
 信州の貧しい家に生まれた刈田紋は、18歳で西陣の帯地問屋に引き取られます。それからは、魅力的な女性となり、思いがけない人生を歩む紋の成長が語られます。

 最初に、西陣織の業界や、帯が出来るまでの話がまとめてあるので、物語の背景がわかりやすくなっています。
 今から30年前のことですが、私は機織り機の調査を通して、報告書を書いたことがあります(「機業ー福生の民具を通してー」『福生市文化財総合調査報告 第12集福生の民俗・生業諸業』福生市教育委員会、昭和55年3月)。これは、福生市教育委員会の委託を受けて行なった、民俗調査にもとづいてまとめたものです。民具としての機(ハタ)を取りあげ、その歴史的な位置づけと、当該地における実情を、モノを通して論じたのです。聞き書きをもとに構成したものであり、特にライフヒストリーの部分のまとめ方には、新たな視点を導入したつもりです。
 その時の聞き取り調査で得た知識が、今回この作品を読みながら思い出され、イメージを脹らませるのに役立ちました。いろいろなことをしておくものです。

 それはさておき、作中では随所に人間の心の機微が丹念に描かれます。人の心の中が克明に描写されるので、つい読み込んでしまいます。京ことばも、男女共にきれいに語らせています。流れるようなことばのリズムに乗せられて、心地よく読み進めることになります。谷崎潤一郎賞や川端康成のような、書き物としての関西弁とは一線を画す、上品な京ことばです。

 紋は、20歳を境にして、ものの見方や考え方、そして人生が大きく変わります。自分の美貌を自覚し、それまでの生活環境からの脱皮を図るのです。これも、自然な成り行きと言えます。ここが、結末を考えるときの参考になりそうです。紋については、いろいろな解釈のできる人物設定だと思われます。

 大家となっている画家、今畑冬葉の家に住むようになると、それまでの生活が一変します。そして、相想い合う綴れ織り職人の瀬谷松吉の存在は、忘却の彼方となって行きます。気にはなりながらも、新しい生活に馴染んでいくのです。

 京都の年賀の風習が書かれていました。ちょうど年末に読んでいるので、興味深く覚えました。(新潮文庫165頁)

 松吉は意中の紋が約束を違えて画家と結婚したことを知った後、紋が締めることになる結婚の祝儀となる帯を執念で織り上げます。職人は自分の腕で自分の気持ちを表現するのです。怨みではなく、技術のすべてを注ぎ込むことで、誠心誠意の気持ちを伝えようとするのです。その心の動きが、克明に描かれます。職人としての想いと誇りが、仕事に没頭することで、新たな生きがいとなる様が伝わって来ます。マイナス思考ではなく、前向きに仕事に立ち向かう職人魂が、読んでいて力強く響いて来ます。
 松吉の母に対する抱きとられる思いが紋にすり替えられるのも、人の心をよく見据えた展開でいいと思いました。

 松吉は、愛する女よりも愛された女との結婚について、先延ばしをしながらも逡巡します。しかし、同じ頃、愛する女の夫である今畑冬葉が入院するのです。話はますます人間関係と思惑が錯綜するドラマとなって行きます。
 特に、冬葉が前立腺ガンで亡くなってからの展開は、一気に読んでしまいました。雪のシーンはことのほか幻想的で印象的です。

 最終となる第50節後半に、次のように作者が顔を出します。

刈田紋と瀬谷松吉の西陣にまつわる長たらしいこの現代の蒸発物語はこれで終ることになる。(339頁)

 この一文はなぜ書かれたのでしょうか。
 私は、ない方が余韻を楽しめてよかったのでは、と思っています。

 最後の「むかし、西陣におった女どすわ」ということばが心に残ります。紋のことが気がかりなままに本を綴じることになりました。予想外に暗くなく、湿度も感じない薄明かりが射す作品でした。【4】
posted by genjiito at 22:33| Comment(0) | ■読書雑記

2011年10月18日

読書雑記(46)福田美鈴『わが心の井上靖』

 今夏、静岡県にある井上靖文学館へ行った折に入手した『わが心の井上靖 いつもでも『星と祭』』(福田美鈴、井上靖文学館、2004年6月)を読みました。
 
 
 

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 この時のことは、「クレマチスの丘にある井上靖文学館」(2011年8月21日)に記した通りです。

 本書には、筆者が日常生活を通して接した、我が師と慕う井上靖の側面が、非常に具体的に語られています。
 こうした記憶をもとにした文章には、個人的な行動範囲での感懐という制約があります。個人の視点での人物描写なので、全体像が見えないことがままあるからです。しかし、井上靖を理解する上で、本書には詩誌を通して知ることのできる参考情報に満ちていると言えます。

 「ネパール行のこと」(132頁)では、『星と祭』のモデルが明示されています。これもまた参考になります。

 私が興味を持ったのは、井上靖が住んでいた場所の移動を整理した、「旧『焔』(昭和四年一月−同十二年七月)から井上靖消息」という3頁ほどの資料です。井上靖の居住先が追えるので、大変参考になります。
 ここで判明したこととして、「上京して下宿するのが昭和六年の夏であったことで、東京ぐらしは一年にも満たない期間であった。」(66頁)という指摘があります。具体的には、「六年七月号 東京市外巣鴨町上駒込八三六 鈴木方へ転居」という記事のことです。

 私はまだ井上靖の年譜を正確に調べていないので、これまでの研究成果を知りません。いずれは、研究史を確認しながら自分なりに井上靖を追いかけていきたいと思っています。今は、「井上靖卒読」として全作品を読破することを目指しているところです。
 とにかく、この資料のことは記憶しておき、折々に参考にするつもりです。

 なお、本書の文章を読んでいて、敬語表現の粗雑さが気になりました。井上靖への親近感から、師への距離感が狂ったとも言えます。しかし、それが父を中心にして語られる時にも、その門弟の方々への言葉遣いにもみられるので、師と父の偉大さから敬意が乱れたと思われます。
 もし増補改訂をなさることがあるならば、ぜひ見直して補正なさるといいかと思います。
posted by genjiito at 23:20| Comment(0) | ■読書雑記

2011年10月15日

読書雑記(45)森見登美彦『太陽の塔』

 森見登美彦の『太陽の塔』(新潮文庫、2006年6月、2003年12月に新潮社より刊行)を読みました。森見作品を読むのは、これで2冊目です。
 
 
 
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 前回読んだ「読書雑記(44)森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』」の後、なんとなく気になる作家です。この『太陽の塔』は、2003年に第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞したという宣伝文句に惹かれて、この本を手にしました。

 本書を読んだ後、「日本ファンタジーノベル大賞」なるものを調べてみました。今年(2011年)で第23回目になります。しかし、その受賞作のリストに、私がこれまでに読んだことのある作家は一人もいません。もちろん、受賞作も知らないものばかりです。
 あるとすれば、第1回大賞受賞作の『後宮小説』(酒見賢一)でしょうか。どこかで見たようなタイトルだという記憶だけですが。

 この分野の作品は、これまで、私が興味を示すジャンルではなかった、ということです。

 さて、本作品について。

 一女性研究の報告書というスタイルを取ることがまず宣言される物語です。


 長きに亘り、私は「水尾さん研究」を行ってきた。
 作成されたレポートは十四にのぼり、すべてを合わせると四百字詰め原稿用紙に換算して二百四十枚の大論文である。(中略)研究内容は多岐に亘り、そのどれもが緻密な観察と奔放な思索、および華麗な文章で記されており、文学的価値も高い。
 いつねんまえの十二月の時点ではまだ不完全な点が多く、より正確を期すためにはさらなる歳月が必要であろうと思っていた矢先、私は彼女から一方的に「研究停止」の宣告を受けたのであった。
 しかし、それぐらいのことで私はへこたれなかった。一度手をつけた研究を途中で放棄することは両親が許さない。幸い、私の研究能力と調査能力と想像力をもってすれば、彼女の協力を排除したうえでも研究は成り立つ。断続的に行われる彼女とのメールのやりとり、および大学内外における実地調査によって、彼女の日々の行動を私は観察し、研究を続けた。むろん、この研究の副次的な目標が、「彼女はなぜ私のような人間を拒否したのか」という疑問の解明にあったことは言うまでもない。(10〜11頁)


 見方によっては、これは明らかにストーカーレポートです。そこは文学的に「水尾さん研究」という言葉の綾で糊塗してあります。

 人間を見つめる作者の眼はするどいのものがあります。その観察眼は、よく行き届いていて感心します。それが語り口を豊かにし、おもしろおかしく展開させていくのです。

 ところが、6割方を読み通したあたりからでしょうか。急速につまらない調子になりました。
 話がだらだらとし、男が喋るシーンがあまりにも陳腐なのでしばらく後まで読み飛ばしました。
 作者をマラソンランナーに喩えると、30キロ目前で急に失速したかのようです。ただただ、惰性で走っているのに付き合わされている、という感じになり、読んでいて疲れ出しました。

 そして、水尾さんも語られなくなりました。

 ただし、ちらっと『源氏物語』という単語が眼に入ったので、そこでは何だと思って読みました。少しだけでしたが。
 水尾さんは、『源氏物語』を愛読していたようです。


・本棚には山本周五郎、谷崎潤一郎、そして源氏物語が並んでいた。私は源氏を手に取り、ぱらぱらとめくってから本棚に戻した。宇治十帖に辿り着こうとし、「えいや」とかじりついたものの読書力及ばず、何度も挫折したことを思い出した。(163頁)

・私が永遠にたどり着けない源氏物語「宇治十帖」を愛読する。(227頁)

・それともいつまでたっても宇治十帖を読めなかったのが問題であったのか、(228頁)


 それはともかく、「水尾さん研究」は途中で頓挫しています。こじつけのように、最後の最後になって、水尾さんのことが語られます。最初の意気込みから、そのストーカーまがいのレポートを楽しみにしていただけに、すっかり拍子抜けです。

 話が歪み、水尾さんという女性が描ききれず、京大生という男の生態に留まっている報告となり、中途半端なままに話が終わります。
 これが日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品なのかと、大いに失望しました。

 私には、ファンタジーノベルなるものが、どうも理解しがたいものに思えてきました。
 読む作家とジャンルを間違えたのかな、との思いで、この本を閉じました。【1】
posted by genjiito at 23:53| Comment(2) | ■読書雑記

2011年10月13日

読書雑記(44)森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店、平成18年511月)を読みました。
この作家の作品は初めてです。本のカバーデザインに惹かれて手にしました。
 
 
 

111006_morimi
 
 
 

京大構内と下鴨神社が主な舞台となって展開します。
私は、ファンタジースタイルの作品を読むことが少ないので、奇想天外な物語の展開に戸惑いました。
しかし、しだいにその面白さに引き込まれていきました。
三階建ての電車がいいですね。

下鴨神社の古本市は、私が身近に体験している世界なので、イメージを膨らませながら楽しめました。
この古本市を妖怪の集会とは、言い得て妙といえます。

ちょっとしたネタの奇抜さと小気味よさが、気持ちよく読み進めさせてくれます。
ただし、盛り上がりには欠けるので、少し飽きる時が間歇的にあります。
これも、この作者の味でしょうか。

京大構内で、「阿呆」な人たちの演劇が展開します。
登場人物たちの『阿呆」さ加減に慣れることが、この作家の作風に寄り添うことにつながります。
この読書感覚がわかると、別の作品が読みたくなります。
何となくいい味が出ているので、また味わいたくなります。

温かく、ほんわかしていて、それでいて天空を見つめる視線が心地よいのです。

また、ここで語られる愛は、非常に純粋です。
大学一年生の乙女をとりまく男たちは、若さの中に青くさいながらも清々しいところがあります。
こうした点に、その若いがえゆのぎこちなさにうまくつながっています。

読後感がいいのは、作者の自由な表現力と夢を語ろうという意志がつたわってくるからでしょう。【3】
posted by genjiito at 22:15| Comment(0) | ■読書雑記