2025年12月12日
読書雑記(362)中野信子『フェイク』
2025年09月28日
読書雑記(361)村田英治『『砂の器』と木次線』
2025年08月24日
読書雑記(360)安達未来『締め切りより早く提出されたレポートはなぜつまらないのか』
2025年07月17日
読書雑記(359)アップル愛に欠ける『スティーブ・ジョブズ名語録』
2025年07月10日
読書雑記(358)渡辺都『お茶の味』
2025年04月29日
読書雑記(357)水野敬也『夢をかなえるゾウ4 ガネーシャと死神』
『夢をかなえるゾウ4 ガネーシャと死神』(水野敬也、文響社、2020年7月)を読みました。
奇想天外な話にはすぐに慣れました。軽快に、予想外の展開が繰り広げられます。おもしろく読み進みました。文章の間に挟み込まれたイラストも秀逸です。話題を滑らかに進めます。
そして何よりも、人間を見る目と、社会を見る目が変わります。
勘当された父に、余命幾許もない今しか気持ちを伝える機会はない、と思って会いに行く話は、感動的な物語となっています。父が自分のために貴重な時間を割いてくれたことに対して、素直な感謝の気持ちを伝えたのです。自分が親よりも先に死ぬことは言いませんでした。しかし、それでも気持ちはスッキリしたのです(133頁)。
本作ではもう一箇所、感動的な場面が出てきます。夫が妻に宛てた遺書とでも言うべき手紙を読み聞かせる場面です。(274頁)
そして、妻は末期ガンのために倒れ、苦しい中で夫に語る話と、その妻に対する夫の姿がみごとに描かれています。
余命宣告された夫とガン末期の妻の話が、軽快にコミカルに語られます。人生訓を随所に盛り込みながら、それでいて重くないのがいいと思います。「夢をかなえる」ということを考えさせられました。
本書は、人間が生きていく上での根源を、さまざまなわかりやすい例を挙げることで、読者に気付かせようとしています。納得しながら読み進みました。しかし、しばらくすると現実の世界に意識が戻り、いつもの俗世観に立ち戻っています。達観と俗念を行きつ戻りつしながら、ガネーシャの関西弁の語り口と作者の想いの中を遊ぶことができる、ズッシリとした重みのある物語に仕上がっています。折々に、何度も読んで感心する本だと思います。
最後の詩織の言葉、「あなたたちと会うために……私は生まれてきたの」(367頁)は、なかなか意味があるものでした。
巻末のまとめで、「人間が死に際に後悔する十のこと」(6頁の再掲)があります。それを引きます。
本当にやりたいことをやらなかったこと
健康を大切にしなかったこと
仕事ばかりしていたこと
会いたい人に会いに行かなかったこと
学ぶべきことを学ばなかったこと
人を許さなかったこと
人の意見に耳を貸さなかったこと
人に感謝の言葉を伝えられなかったこと
死の準備をしておかなかったこと
生きた証を残さなかったこと
これも、何度か読み返して、自分に当てはめています。【5】
2025年03月18日
読書雑記(356)箕輪厚介『死ぬこと以外はかすり傷』+『かすり傷も痛かった』
2025年03月05日
読書雑記(355)「平安時代の文学作品と図書館」を特集した『現代の図書館』
2025年02月24日
読書雑記(354)麻田雅文『日ソ戦争』
2025年02月06日
読書雑記(353)樋口清之『関東人と関西人』
2025年01月27日
読書雑記(352)矢部太郎『マンガ ぼけ日和』・『矢部太郎の光る君絵』
2024年11月12日
読書雑記(351)小松亜由美『イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子』
2024年06月20日
読書雑記(350)永井みみ『ミシンと金魚』
2024年05月26日
読書雑記(349)高原英理『不機嫌な姫とブルックナー団』
2024年02月18日
読書雑記(348)広瀬浩二郎・相良啓子『「よく見る人」と「よく聞く人」』
2024年02月17日
読書雑記(347)コナン・ドイル『緋色の習作』
2023年12月28日
読書雑記(346)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 20』
2023年12月27日
読書雑記(345)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 19』
2023年10月26日
読書雑記(344)谷合侑『盲人の歴史』
2023年07月29日
読書雑記(343)山口謡司『あ" 教科書が教えない日本語』
語られていることの傍証が必要な話題がいくつかあるように思いました。しかし、愉しく日本語の歴史がわかる本です。
以下、私がチェックした箇所を列記します。
・「 じつは、日本語の語感の特徴のひとつに、言葉の初め(語頭)に濁音が来る言葉には、不潔感、不快感を感じさせるものが多いのです。
なぜなのか、それははっきりとはわかっていません。
ただ、これは、江戸時代の国学者・本居宣長(一七三〇~一八〇一)が発見したことなのですが、七〇〇年代に書かれた日本の古代の文献『古事記』『日本書紀』には、濁音で始まる和語がひとつもないことがわかっています。
また『万葉集』では、山上憶良(六六〇~七三三)の「貧窮問答歌」に使われている「鼻、毘之毘之に」の「ビシビシ」が、語頭に濁音がつく唯一の言葉だとされています。
「ビシビシ」は、現代日本語で訳せば「ビチョビチョ」です。」(23〜24頁)
・「 鷗外に『ヰタ・セクスアリス』という小説があります。当時、このタイトルがあまりに猥褻だという理由で発禁処分を受けた本です。
内容はまったく猥褻なものではありませんが、人の気を惹く魅力的なタイトルです。ラテン語から日本語に訳すと「ヴィタ(生活)」と「セクスアリス(性的)」で、「性生活」という意味なのですから。
さて、ここで注目したいのは、その発禁のことではなく、鷗外がタイトルの「ヴィ」を、ワ行の「ヰ」で書いていることです。
現代の「ワ行」は「ワ」と「ヲ」しかありませんが、一九四六年まで使われた教科書には「ワ・ヰ・ヱ・ヲ」がありました。鷗外は、この「ヰ」を使っているのです。
これでは「ウィタ」じゃないか? と思われるかもしれません。
ですが、鷗外はドイツに留学をしています。
ドイツ語では「Wi」は「ヴィ」と発音されるのです。たとえばオーストリアの「ウィーン」は「Wien」と書いて「ヴィエン」と読まれますし、車のメーカーBMWは、「ベーエムヴェー」と呼ばれます。
鷗外は、ドイツ式の発音を表現するため「V」を「ヰ」で書き表したのです。」(32頁)
・「日本語がオリジナルタイトルを可能な限り音で再現するのと違って、中国語では、伝統的にそのものを意訳して漢語に変換する方法が取られています。同じ漢字を使う国でも、中国語と日本語では、言語の性質に基づく異なる文化の発達が起こったのです。
日本語と中国語において、言語としての大きな違いのひとつに、中国語にはオノマトペ(擬音語、擬態語)が非常に少なく、日本語は、オノマトペが非常に多いということが挙げられます。
日本語は、雨が「シトシト」降るのか、「ジトジト」降るのかで、その雨の状態、あるいは雨を感じる気分の違いが表現できます。
ところが、漢語では「霖々下雨(リンリンと降る雨)」と書くことはできますが、「シトシト」と「ジトジト」の違いを表す言葉がありません。(35頁)
・ 鎌倉時代末期の関東地方では、おそらく「て」はすでに現代の日本語と同じ「テ」の発音に変わっていますが、京阪神ではまだ「て」は「ティェ」という発音で、「つ」も「ティゥ」のような音だったと考えられます。一三三〇年頃、あるいは一三四九年頃に編纂されたとされる『徒然草』は、「ティゥレ・ディゥレ・クサ」と呼ばれていたのだろうと思われます。
しかし、江戸時代になるともう京都でも「たちつてと」は現代日本語とほとんど変わらない「タチツテト」の発音になっています。
「父」を呼ぶ「てて」は俗語としては残っていきますが、江戸時代前期には「とと」、あるいは尊敬丁寧を表す「お(御)」が語頭に、また「さま(様)」が語尾に付けられた「おととさま」が使われるようになっていくのです。
「てて」また「おててさま」では「手」を表す言葉と同音衝突をしてしまうからです。
さらに「とと」「おととさま」は、江戸時代中期までには同音の連続が促音便化し、「おとっちゃん」「おとっちゃん」(ママ)「おとっさん」「おとっつぅぁん」となりますが、これを丁寧な言い方で言おうとする意識が「おとうさま」を生むことになるのです。(46頁)
・『舞姫』は、二〇二一年度までは、高校三年生で読む、定番の教材として使われていましたので、読んだことがある人も少なくないと思います。
しかし、二〇二二年度からの新しい教科「論理国語」の導入で、高校では「文学」を学ぶ機会は少なくなります。いずれ鷗外の『舞姫』は読まれなくなってしまうことでしょう。
「国語」については、また別の章で詳しく述べますが、「文学」が国語から消えた原因のひとつは、先生たちが、明治時代の文豪の言葉を、理解して生徒に伝えることができなくなったからなのです。
必ずしも先生たちの勉強が足りないというわけではありません。鷗外が『舞姫』を書いてからすでに一三〇年以上が経過し、鷗外が使った言葉の感覚を享受できる限界を超えてしまったからです。
鷗外の『舞姫』は、小説家・井上靖(一九〇七~一九九一)の「現代語訳」が筑摩書房から文庫本で出ています。言い替えれば、『舞姫』は、現代語訳を読まないと、国語の先生でさえ、もう読み解くことができない遠い過去の言葉で書かれた「古典」になってしまったということなのです。
もちろん、『舞姫』が発表された当時、読者はこれを難しい文体だなんて思いもしませんでした。
明治二十三(一八九〇)年『国民之友』一月号に発表されると、みんながこの小説を読んで、作者・鷗外の私生活にまで及ぶ問題作として大評判になるのです。(48頁)
・「明治政府が五十音図を全国の小学校に配布する際、ア行の「エ」とは別に「ヤ行」にも「イ」に似た形の下に横一棒をつけた「エ(一画目はノ)」という変な仮名を作ったのでした(上図参照)。
でも、この文字は、まったく普及しませんでした。
だれも「エ」と「イェ」の区別ができなかったこと、それに当時はまだ「ワ行」の「ヱ」もありました。よほど語学的センスを持っている人でなければ、それらを聞き分け、書き分けるということはありませんでしたし、またそういう必要もなかったのです。」(145頁)
『小学授業法細記』(国立教育政策研究所教育図書館所蔵)
・「 ご存じの方も少なくないと思いますが、じつは「ワ行」の「ゐ(ヰ)」や「ゑ(ヱ)」が五十音図の中から削除されたのは、昭和二十一(一九四六)年十一月十六日、「現代かなづかい」の内閣告示が行われ、その翌年四月から施行されてからです。
「居る」を「ヰる」と書いたものが戦前にはたくさんありましたし、「猪」も「いのしし」ではなく「ゐのしし」と書かれていました。
また「ゑ」は「笑う」「酔う」のほか、「とみゑ」「ゑみこ」など、女性の名前でも使われていました。
これが「現代かなづかい」の施行によって次第になくなってしまったのです。」(150頁)
・「戦前の国語教科書
ところで、戦前の国語教科書は、唐澤富太郎(一九一一~二〇〇四)「教科書の歴史」(創文社)によれば、それぞれの時代に、次のような傾向があったと記されています。
第一期国定教科書 一九〇四~〇九 (明治三十七~四十二)年
資本主義興盛期の比較的近代的教科書
第二期国定教科書 一九一〇~一七 (明治四十三~大正六)年
家族国家観に基づく帝国主義段階の教科書
第三期国定教科書 一九一八~三二 (大正七~昭和七)年
大正デモクラシー期の教科書
第四期国定教科書 一九三三~一九四〇(昭和八~十五)年
ファシズム強化の教科書
第五期国定教科書 一九四一~一九四五(昭和十六~二十)年
決戦体制下の軍事的教科書
また、唐澤の研究をもとに教科書の内容を分析した大田勝司「国語教科書」には、次頁のような表が示されています。
国定教科書の内容分析 (単位:%)
教材内容/時期区分 第1期/第2期/第3期/第4期/第5期/第6期
文学的内容 32.8 38.7 51.5 54.1 48.4 80.5
「第六期」に分類されるのは、戦後、一九四七(昭和二十二)年に発行された『こくご』『国語』(「みんないいこ」読本)の国定教科書を指します。
表を見ると「国語」が、「日本語」を教えるための教科書でないことはおわかりになると思います。
「国語教育」とは、その時の政治、また政治が目的とするところと決して無関係ではないことが明らかなのです。」(169〜171頁)
・「 仏教を学ぶ僧侶に対しても、桓武天皇は次のような勅令を発しています。
「自今以後、年分度者、非習漢音、勿令得度。(今より以後、年分の度は漢音を習はずんば得度せしむることなかれ)」と言います。
「今年以降、年度分に行う得度は、漢音を学んだ者でなければ許さない」という意味です。
「得度」とは、正式に仏道に入ることを許された人を意味しますが、当時「得度」した人は税金を免除されたのです。
そうした特権階級になるためには、漢音を学ばなければならないと、桓武天皇は勅令を出したのです。」(215頁)
・「奈良は、平安京の遷都によって、中国から来たネイティブの先生がいなくなり、残された日本人だけで、主に仏教の経典を深く内面的に理解していく空気に包まれていきます。
聖武天皇や孝謙天皇(重祚して称徳天皇)などが書いた書は、六朝風の固い書体ですが、奈良時代、平安時代の写経の字は、すべて章草体で書かれています。
遣唐使として唐に渡っていた空海が帰朝したのは八〇六年ですが、京都に入ることが許されたのは八〇九年以降です。
大同四(八〇九)年九月、平城上皇が平安京を廃して、再び平城京へ都を遷そうとした「薬子の変(あるいは『平城太上天皇の変』とも)」を鎮めるために、嵯峨天皇は空海を招聘します。
ここから空海の活躍が始まるのですが、もし、再び奈良に遷都されていたとしたら、あるいは奈良で始まる〈カタカナ〉の発達や、空海や嵯峨天皇、橘逸勢らによる京都を中心にした〈ひらがな〉の発達はなかったかもしれません。
〈カタカナ〉は、奈良にあった古い中国六朝の文化から生まれたものです。一方、〈ひらがな〉は、空海が唐から持ち帰った新しい草書体(章草体)から生まれて来たものなのです。」(224頁)
2023年06月08日
読書雑記(342)高瀬乃一『貸本屋おせん』
学生時代に、江戸時代の貸本屋のことを調べていた時がありました。私が小学校年中さんの頃の昭和30年代には、住んでいた島根県出雲市古志町にあった小さな貸本屋で、読み物や漫画などを借りて読んだものです。知りたかったことがフィクションとはいえ具体的に描かれていて、いい本との出会いとなりました。
■第一話 をりをり よみ耽り
主人公せんのことが次のように語られています。そこに、古活字本の『源氏小鑑』が古本として出てきます。
せんは年老いた店主を手伝い、ちらばった本を集めながら、そこで手にした一冊の本に目を止めた。
『源氏小鏡』
源氏物語の各巻の筋立てを、わかりやすく書いた古活字本だ。かなり年季の入った古本で、今にも破れて粉になってしまいそうだった。
迷うことなく手銭をきってそれを買った。
長屋にもどると、平治が遺した行李から、灰色の塵紙をかき集めた。読本の漢字が読めなかったせんのために、平治はいつもやさしいかな文字で本を作ってくれていたのだ。せんは昼夜をわすれて文字を書き写した。そして出来上がった書本の最後の丁に、作者や版元の署名をする。これを奥付というが、そこに並べるように自分の名を記した。
『和漢貸本 梅鉢屋』
それが、貸本屋せんの船出だった。(23〜24頁)
また、『源氏物語』に触れる箇所が他にも。
「なあ、娘。おめえさん、好きな本はあるかい?」
「……『源氏物語』」
「ククク、女はみんな好きさあな」(35〜36頁)
するとおかみが、酒の中に声を落とすように口をひらいた。
「なく声も 聞こえぬ虫の 思ひだに 人の消つには きゆるものかは」
光源氏の娘玉鬘に思いを寄せた兵部卿の宮が、蛍の灯りに照らされた想い人を目にして詠んだ歌だ。
「むかし、この歌を書いてよこした男がいてね」(47〜48頁)
小道具や話題としてであっても、手堅く当時の質の高い文化を書き留めています。そして、人間の生きざまが、出版文化を背景に描かれています。作者の用意がしっかりとなされていることがわかります。【4】
■第二話 板木どろぼう
江戸時代の出版において、板木の役割とその大切さが語られます。その板木が盗まれ、焼かれた背景が明らかにされます。人情噺になっていく中で、馬琴の飽くなき物書き魂も語られます。
貸本屋のせんは、蔵書家から稀覯本・奇書・禁書などを書き写させてもらっていました。貸本屋が書写をしていることを知り、江戸時代の本の流通について再認識しました。【4】
■第三話 幽霊さわぎ
物語の展開の妙に引き摺り込まれました。インパクトのある話です。本への書き込みの価値を語るのは、なかなか気付かないことです。コメントはこれだけにしておきましょう。語り手の豊かな創造力に、今後の作品を読むのが楽しみになりました。【5】
■第四話 松の糸
『源氏物語』の中でも幻の写本『雲隠』を探そう、という話です。
「で、探してるってのは?」
「源氏物語『雲隠」の帖」
隈八十の口から出る煙が一時止まった。再び吐き出されたときは、蛸坊主が大笑いをした時だった。
『源氏物語』は言わずと知れた、平安期に書かれた長編物語。
主人公の源氏の君が織りなす恋愛、政治権力闘争、栄華と没落。話の筋をわかりやすく書き直した類の本は梅鉢屋でも人気で、当世の読物に劣らず愛されている。
『雲隠』は、『幻』と『匂宮』の間に存在する帖として伝承されているが、本文を見た者はいない。古い回想録などに、『雲隠』なる帖があったと記されているだけで、実際の物語は書かれていないというのが定説である。
光源氏が妻の紫の上を亡くして失意にある「幻」と、八年がたち、源氏の息子たちの物語
へと世代交代をする『匂宮』。その間にあったのが「雲隠』だというならば、描かれているのは源氏の君の死であろう。
「寝言はむこう横丁で言いやがれ」
「正しくは、『雲隠』の写本だ」
「おなじこったろう。そんなものありゃあ、わしは公方様に献上して、この先左うちわで暮らしていけるわ」
写本は板木で摺られる本とは違い、人の手で正しく書き写し作られたものだから、当然元となった原本がある。
公之介の話では、写本をこしらえたのはお松の死んだ亭主だという。(165〜166頁)
身内が遺した大量の蔵書は、たいていの遺族にとってただの紙束にすぎない。
「で、その女が取り返したいのが、売られちまった『雲隠」だって? 胡散くせえなあ。だってその死んじまった亭主は、表に出歩けねえくれえ病が重かったんだろ? いつどこで誰から、幻の本を手に入れたってんだ」
「茶問屋夫婦は息子にしごく甘くて、日本各地から本屋を寄こして、望まれるまま本を与えていたそうだ」
「やっぱり嘘くせえ。そんなどえらいもんが出回っているなら、わしの耳にも入っているはずだ」
「幻だもの。そうそう簡単に世には出ないだろ」
隈八十が鼻白むように、せんも若旦那の口から『雲隠』と聞いてすぐに偽物だと思った。
だが、日が経つにつれ、夢に光源氏らしき色男が現れるようになる始末だ。川底から砂金を見つけることより難しい案件だが、この世は案外おかしなことが、ひょいと背中合わせに佇んでいるのではないだろうか。(167頁)
横になりながらめくった年代物の大本の間から、薄い本が現れた。
夕暮れ色の本の題簽には、流暢な平がなで『くもがくれ』と書かれていた。(181頁)
せんが袱紗に包んでいた丹色の写本を差しだすと、お松がはっと息をのむのがわかった。
「これは世にいう、幻の帖「雲隠」ではございませんでした。ですが、お松さんが探していた本に間違いはないようですね」
この『くもがくれ』は、夫が妻へ残した恋文だった。たしかに源氏の君の死にゆく様が描かれているが、中身は亭主が自身を光源氏に投影して描いた全くの作り話。病に伏せった源氏の君が、世に未練を残す姿が延々と記されていた。
紫の上を回想する場面では、うっかり「松の上」と記されていて、あとで慌てて書き直した痕もあった。身近な者にだけ見せる素人蔵板という類のものである。(182〜183頁)
見つかった写本はお目当ての『源氏物語』とは違う物でした。そして、お松が探していたものはこの本の内容に関わることではなく、挟まれていた一枚の紙だったという、意外な展開となります。男女の仲を取り持つ本を巡る、質の高い文化を背景にしての話です。【5】
■第五話 火付け
文章が生きています。臨場感のある描写に、つい引き込まれます。書籍に対する愛情に溢れた話です。
火事場の様子が真に迫って伝わりました。私自身、住み込みの店が火事で燃え、焼け出された経験があるので、状況や心情がよくわかりました。作者も、体験なさったのでしょうか。
終始明るく、元気の出る物語でした。【5】
※初出誌
「をりをり よみ耽り」 「オール讀物」二〇二〇年十一月号
「板木どろぼう」 「オール讀物」二〇二一年六月号
「幽霊さわぎ」 「オール讀物」二〇二一年十一月号
「松の糸」 書きおろし
「火付け」 書きおろし
2023年05月16日
読書雑記(341)Catchy 著『AIが答えのない問題に答えてみた』
連休中に読み終えたので、ここに紹介します。
著者は人間ではなくてAIです。AIが、問われた難問に答える、というスタイルで展開する本です。書き手が人間ではないので、いささか勝手が違います。正直なところ、ことば巧みに次から次へと繰り出される質問をかわして行く姿に、爽やかさと潔さを感じました。もっと独自な視点で答えてほしかった、というのは的外れでしょう。今のAIは、現在までにわかっていることから答えるしかできないのですから。
「はじめに」で、編者の一人の成田氏は次のように言います。
この書籍は、AIを使って歴史上の人物を生成し、人類が現在直面している重要なテーマの様々な質問に対して、AIプロジェクトがどのような回答をするかを検証する試みです。
例えば、ナポレオンAIが起業家支援について語っていたりします。
本書を読んでいただいて読者の方に判断いただきたいところですが、僕としては予想以上に精度の高い回答になったと考えています。
人物の個性を捉えつつ、現代の僕たちにとっても一理あると思わせる回答が並んでいます。
この書籍で紹介されているAIによる回答を見ていけば、将来的に人間のリーダーがAIになる可能性があることを感じとれるかもしれません。僕は近い将来、こうしたAIによる意思決定の実験を通じて人類がこれまでにない強力なツールを手に入れると考えています。
それは単に論理的な意思決定だけでなく、思想的なイノベーションのヒントも今後AIが生み出すという可能性も秘めています。
それほどまでに今起こっているAIの進化のスピードは異次元です。(2〜3頁)
今後は、我々がこの新たなツールをどのように使いこなすか、どう付き合っていくか、ということになります。楽しみな道具が提供されました。
私は、今から43年前にパーソナル・コンピュータと出会った頃の、居ても立ってもいられないワクワク感で古典文学と対峙したことを思い出しています。28年前にインターネットと出会い、文科系の研究者として初めてホームページを公開した時の、あの情報発信というダイナミックな躍動感も重ね合わせています。
これからの人がこのAIをどうするのか、じっくりと様子見をしながら、自分なりに使いこなしていきたいと思っています。
なお、本書全体を通して、「です、ます」調と「である」調が混在していることが気になります。刊行の趣旨に影響はないとはいえ、今後はこうした分野での文体の調整が必要だと思いました。
(1)聖徳太子/内閣総理大臣
政治家特有の空疎な文言が並ぶ文章です。言葉が持つ意味が、うまくつながらないままに日本語らしい表現が生み出されました。これは、人の心に響く意見の表出とは程遠いものです。大学生の作文、というレベルのものに終わっています。語り口に伝えようという意思がないために、このような文章となったと思われます。もっとも、この種の文章を読むのは初めてのことなので、しばらくは批判的な姿勢ではなくて、お手並み拝見という気持ちで読んでいくことにします。
(2)ナポレオン/経済産業大臣
フランス統治時代の例を思い起こしながら、今とこれからの見通しを示します。まともで当たり前のコメントのように思えます。しかし、これがAIとの対応によるものだと思うと、意外にしっかりと会話ができているものだと感心します。大所高所からの視点での発言は、問題意識の低い者にとっては足場を固めるのに役立ちます。
(3)徳川家康/財務大臣
歴史を振り返り、過去の事例を示しながら手堅い回答を寄せています。特に、高齢化社会がもたらす財政的な課題に関しては、しっかりとした正論を方策として提案しています。議員秘書や政策立案を担う官僚の文章のようです。
(4)渋沢栄一/農林水産大臣
設定されたテーマにあまり興味がないせいか、そうですか、という感想に留まります。
(5)アイシュタイン/環境大臣
物理学者に対して環境変動などの質問は、直球勝負の対決となり、あまりおもしろくありませんでした。質問の仕方と問題意識が、得られる回答に影響するという例のようです。
(6)孔子/文部科学大臣
新しい教科や科目に関しては、明確な提言には至らないのは致し方のないことでしょう。儒教や中国古来の道徳を持ち出しての意見は、新たな提案には至りません。この問題は、まさに「答えの出ない問題」であり、AIを試すには格好の問いかけです。
(7)エリザベス一世/外務大臣
紛争地域の平和について、ロシアとウクライナの問題を抱える今の状況からは、なかなか答えにくい問いです。次の回答は、うまくかわした、と言えるでしょう。
結論として、紛争地域の平和を促進するには、外交的解決策と経済的インセンティブを組み合わせた多面的なアプローチと、人道支援プログラムが必要であり、これらはすべての関連機関や組織における強い政治的意思に支えられている。互いの立場を理解し、苦難の時に思いやりを持って行動することで、将来の世代が恐怖や恐れのない永続的な平和を享受することができるのです。(99頁)
(8)始皇帝/法務大臣
強権発動による対処については、今の時代にはそぐわないものです。これは、反面教師としていい例だと言えます。犯罪者への癒しの精神と社会復帰への支援を提案します。可もなく不可もなく、という回答でしょうか。
(9)ニーチェ/厚生労働大臣
労働者に寄り添った意見と提案をしています。温故知新の発想を感じます。人間性や道徳感にも踏み込みます。
(10)ガンジー/国連大使
集団的な発展のための行動を推奨します。そして、社会奉仕活動の重要性も説きます。
なお、次の文章は、語り手である自分がガンジーであることを忘れての発言となっています。赤字で示した部分です。
しかし、何よりも、私は市民の抵抗の力を評価するようになりました。歴史上何度も見られたように、そして特に英国の植民地支配に対する私の国の独立運動で見られたように、非暴力と非暴力的不服従は平和的変革のための強力な手段となり得ます。
かつてガンジーが言ったように、「法は正義を守るが、愛はそれを確実にする」これは今日、かつてないほど真実味を帯びた感情である。(139頁)
(11)リンカーン/社長
自分の創造性を刺激し、わくわくするような仕事を見つけ、自分の興味とスキルを追求し、その先にあるものを見てほしい、と言っています。
(12)チンギス・ハン/営業部長
自分が成し遂げたことを例にして、新たな戦略を提示します。あまりおもしろくありません。それぞれの問いの最後に要点をまとめてくれているので、わかりやすい回答となっています。
(13)田中角栄/人事部長
実績を踏まえた、組織文化論が展開されます。質問によるせいか、お金に絡む話はありませんでした。資金をどのように活用するのかを、聞いてみたいところです。
(14)レオナルド・ダ・ビンチ/広報部長
ソーシャルネットワークの話の中で、新しいものの見方や考え方を踏まえた提案があるのかと期待しました。しかし、過去の事例の分析に留まっていたのは残念です。既成概念に囚われない発想の、その具体的な例を聞きたかったのです。温故はあっても、知新がなかったように思います。
(15)エジソン/商品開発部長
開発にあたっては、過去から今へ、そして明日へという、これまでのアドバイスと同じ論理で話が展開していきます。ここでも、具体例に乏しいのが残念です。
(16)坂本龍馬/新規事業部長
情熱と進取の心意気が強調されています。スケールの大きさも提示します。龍馬らしい具体的な事例がほしいと思いました。
(17)北条政子/妻だったら
家庭と家族を守る、という視点からアドバイスがなされます。一般論であり、特徴的なことは見出せません。このシステムでは、個人的な発想からの意見は出にくいようです。
(18)マルクス/夫だったら
これまで通り一般論が展開されます。ただし、いくつかのユニークな提案がなされます。変化球です。持ち家か賃貸かの議論は、マルクスらしさがない平凡なものでした。
(19)アリストテレス/父親だったら
自分を信じることの大切さを力説します。得意なことを先優先にすべきだとも。前向きなアドバイスを与えてくれます。わかりやすくてこなれた語り口です。
(20)マザー・テレサ/母親だったら
何か問題があれば、今の状況を受け入れて、明るい明日を作るために努力をすべきだと言います。そして、大学に進学することを勧めます。これは、意外でした。また、お金に執着せず、精神的な豊かさを優先すべきだとも。
本書の「おわりに」でもう一人の編者である伊藤氏は、書籍の今後について興味深い可能性を示してくれています。
書籍に関しても、今後は読む人の知識背景や興味関心に合わせて、1冊の本の内容をその人向けにAIが書き換える書籍のパーソナライズも現在の技術で既に可能になっていますし、数年もかからずに僕たちが本を読む際、馴染みのない例え話を読む機会も減ってくると思っています。
また、書籍自体を擬人化する取り組みも2023年初頭から実験が進んでおり、1冊の書籍のことならなんでも答えてくれる書籍Q&Aサービスも数年もかからずに普及してくるものだと思っています。僕たちは、書籍から知識を吸収する際、読むか対話するかを選択できるようになるのではないでしょうか。(261〜262頁)
書籍と向き合うことが多い自分の生活を思うと、本が読者に近付いて来て、しかも対話形式で読むことができるのは、より豊かな本との付き合いが始まることにつながります。この新しい流れは、刺激的な読書生活に身を置くことになるのです。こうした時代が一日も早く来ることを願っています。
2023年04月20日
読書雑記(340)仲町六絵『京都西陣なごみ植物店4』
第一話 ミツマタと賢者の石
前巻に失望していたので、少し不安を抱きながら読み始めました。穏やかな滑り出しで、前巻の最後を受けて、プラントハンターの話が展開します。安心しました。
『源氏物語』の例を引く中で、次の記述があります。
「紫式部が卓越した才能を持って生まれたことは不幸な巡り合わせであったらしい。少なくとも、父親にとっては。」(48頁)
姉の花弥の想いとして語られています。もう一捻りして欲しいところです。あまりにもありきたりな文なので。
ミツマタの話には、和紙に関わることなので興味深く読みました。そして、〈和の植物の博物館〉の構想の提示。希望に満ちた爽やかな話に仕上がっています。
一つ気になったことがあります。それは、会話が続く場面でそれが誰の発言なのか探ることが何箇所かでありました。私が文章に集中していなかったからだとしたら、申し訳ありません。【4】
第二話 葡萄の涙
葡萄の絵にリスという画題の水墨画に涙ぐむことが話題となります。そして、話は指紋をきっかけにして人間の情愛に展開します。さらりとした話です。【3】
第三話 花開く絹
持ち出された和歌の話は、無理があるためにイマイチです。しかし、コンパクトにまとまっています。行きつ戻りつした神苗と実菜の恋心は、明るい展開となります。【3】
第四話 花の王様
学芸員の資格を取得する話が具体的な目標となります。実菜が、新しい生き方をはっきりさせた証です。私は、40代の後半で学芸員の資格を取りました。気長にどうぞ、とアドバイスしたくなりました。【2】
第五話 豊臣秀吉に背いた桜
読者の知りたいという思いを掻き立てながら、テンポよく謎解きが展開します。これまでとは別人の作品となっています。秀吉と桜の問題がすっきりと片付いたとは思えません。しかし、登場人物の今後が見え出したことは、物語としては完結に至ったと言っていいでしょう。明るく終わったことに、ホッとしています。【3】
2023年03月26日
読書雑記(339)仲町六絵『京都西陣なごみ植物店3』
今回も、この物語の展開や内容は、私にとって楽しめるものではありませんでした。作品や作家との出会いは、多分に相性の問題があります。これまでの2冊でも、次のように書きました。
(1) ※読み終わり、この掌編集は若年層を読者とした物語だと思いました。ジュニア向けの、ちょっとした連作の推理話だということです。それなりにおもしろさはあります。しかし、〈PHP 文芸文庫〉という範疇に入れるのには、やはり大人も読めるように、内容のレベルを数段上げてほしいと思いました。もちろん、私が新しい時代のライトノベルという分野の流れを摑み切れていないという問題だとすれば、著者にとっては失礼なことになります。植物を通して謎解きをする、という趣向はおもしろいと思います。それだけに、さらに手応えを求めてしまいました。続刊があるので、植物とどのような推理の絡みがあるのか、機会を得てまた読んでみようと思います。
「読書雑記(336)仲町六絵『京都西陣なごみ植物店』」(2022年12月26日)
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(2) 全四話のうち第三話までは、未完成の作品群としか思えませんでした(失礼な表現ですみません)。植物探偵である和久井実菜が扱う植物にまつわる謎が、読者である私をワクワクさせるものではなかったからです。好みの問題として終わりそうに思っていたところ、第四話で作者が抱えるテーマに興味がわきました。次作も読んでみようと思います。
「読書雑記(337)仲町六絵『京都西陣なごみ植物店2』」(2022年12月30日)
このシリーズの物語には、興味深いおもしろい視点があります。もう少し、この作品にお付き合いしようと思っています。
第一話 明智光秀の竹藪
どういうわけか、話題について行けませんでした。話の内容に気持ちがついていかなかったのです。またいつか、読み返すことがあるかもしれません。【1】
第二話 判じ絵の桜、根引きの松
江戸時代の判じ絵が何を示すものなのか、ということが話題の中心です。しかし、それがどんな絵なのかは、言葉で説明されているだけです。作者は、言葉で語り切る決心をしておられるようです。しかし、各話の最後には取り上げた花の絵が添えてあります。そうであれば、ここでもどんな判じ絵なのかは、その絵を示すべきではないでしょうか。判じ絵は、視覚と言葉遊びの問題なので、絵がないことには話にもなりません。さらには、アナスタシアの役割も中途半端です。その命名の背景がおもしろそうなのに、もったいないことです。【1】
第三話 やまははの森
趣向を凝らしたお茶会の話で、話は快適にスタートします。やまははの森の話は、盛り上がりを期待させます。ただし、虫が大嫌いな私は、走り読みになりました。登場人物も輪郭がぼやけています。おかげで、何となくぼんやりした印象に留まりました。【1】
第四話 茶の花如来
お茶の種を蒔いたのは最澄だと言います。初めて知りました。幅広い話題が提供されているので、新しいことが新鮮に感じられます。
お茶に関する話だったので、興味を持って読みました。しかし、それと植物にまつわる謎解きとが、うまくリンクしていないように思われます。【2】
第五話 閉じられた花園
語られている養蜂の話はともかく、実菜が京都で新しいプラントハンターになるという決断は、このシリーズの新しい流れを作りそうです。「春の女神」の路線です。もう少し、この物語に付き合っていこうと思います。【3】
2023年01月25日
読書雑記(338)梶よう子『お茶壺道中』
■第一章 葉茶屋奉公
宇治で生まれ育った仁吉(後の仁太郎)が主人公です。
茶葉を商いとして扱う人々の様子が、登場人物の態度や心情に寄り添って丁寧に語られています。初めて読む作者の作品なので、読むスピードを調整し、様子見をしながらページを繰りました。しっかりとした文章で、安心して読んでいけます。これからの物語の展開が楽しみです。
なお、「ずいずいずっころばし」の歌について、次の説明があります。
ずいずいずっころばしは、山城国宇治郷から将軍家に茶葉を運ぶ御茶壺道中の情景を表しているといわれている。
行列がやって来たら、戸をぴしゃりと閉めるから、 とっぴんしゃん。 通り抜けたら 、どんどこ騒いでも構わない。けれど、鼠が米を食べても、父親母親に呼ばれても、井戸で茶碗が割れても、行列が過ぎ去るまでは静かにしていなければいけないと、子どもたちを戒める唄だと仁吉はいう。それほど、御茶壺道中というのは、権威と威厳のあるものだった。(13頁)
この歌の背景は、本作品のタイトルとも関係し、読者もその意味を知りたいところなので、もっと詳細に語ってほしいと思いました。【3】
■第二章 湊の葉茶屋
異国の船が横浜に入ってくることで、商いは大きく変わることを仁太郎は理解します。生麦事件など幕末の社会情勢もしっかりと描き込まれています。次の文は、そうした状況において、前章で宇治と横浜のことが語られている部分です。
『泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず』
という落首が出た。これは蒸気船と上喜撰を掛けた洒落だが、「上喜撰」というのは、宇治の「喜撰」という煎茶の銘柄の中でも最上級の品だ。仁吉は、落首になるほど、江戸でも宇治の茶葉が広まっているのが嬉しかったのを覚えている。
太兵衛は苦虫を噛み潰したような表情をしながら、幕府が横浜に店を出すように大店に通達しているようだといった。
横浜は、東海道から外れた寒村だった。そこに町を造ってしまおうという考えらしい。
「町を造るのですか?」
うむ、異人のためのな、と太兵衛はいった。(25頁)
この章でも、女将さんであるお徳が、いやらしい悪役として活写されています。この女将さんがこの先どのような役割を担うのか、後段を予想しながら話を追いました。
人間関係が私にはわからないままです。このあたりで一度整理をしてほしいな、と思いながら読み進めました。【3】
■第三章 変わりゆく茶葉
横浜は、茶葉を輸出する新たな拠点として注目されています。そこへ、混ぜ物をした粗悪な茶葉が作られていることが発覚。そうした背景のもと、これからの輸出のことを考え、仁太郎は製茶所で働くなど、情報収集に励むのでした。仁太郎とおきよの結婚話も出ます。恋する若者の爽やかな姿が、物語にいい味付けとなっています。茶葉を巡る話が明るい方向に急展開です。ますます物語に惹き込まれていきます。【4】
■第四章 将軍の茶葉
話が突然トントン拍子に進み、仁太郎とおきよの祝言が急遽執り行われます。読んでいて、驚くばかりの電光石火とはこのことです。
そして、話は徳川の世が変わるのではないかという世相を踏まえた展開へと大きく舵を切ります。茶処宇治を守るために、仁太郎の奮闘が続きます。
白河藩主となった阿部と仁太郎のやりとりは、時代の変遷と頭の切り替えの大切さを描いています。
仮祝言の礼に、白河藩上屋敷を訪ねたときだ。
阿部を前に、仁太郎は思っていることを口にした。助言を求めたのではない。ただ、思いの丈を吐き出したかった。
「将軍家の威光が保てなければ、御茶壺道中が消えます。それはすなわち、茶処宇治の誇りも失われることになります。この泰平の世さえも。私はそれが悔しくてなりません」
仁太郎は歯噛みをしながら、いった。阿部が静かに仁太郎を見つめる。
「誇りを捨ててはどうかな。 宇治の茶は天下一だとお前はいった。それはなにも上さまのお口に入るからだけではなかろう。お前は宇治の茶を多くの者に味わってもらいたいと思っていたはずだ。自身の茶を信じてやれ」
「私の茶を−−信じる」
阿部はゆっくりと頷いた。(330頁)
若さが賞賛される顛末は、気持ちのいいものです。「宇治のお茶は日本一」という仁太郎の信念が、この物語を支えています。【5】
※付記
なお、抹茶と煎茶の区別が本作の中ではあまりなされていないように思われます。宇治は碾茶・抹茶の里なので、今も茶畑では日を遮るための黒い覆いが掛けられます。一般的になじみのある煎茶の産地としては、宇治よりも、九州や中部地方が生産量から見ても中心です。軸足を碾茶・抹茶に置いている宇治を、もっと強調してもいいと思いました。
初出誌︰「小説 野生時代」158号〜171号、原題は「茶壺に追われて」、加筆修正改題して、2019年3月にKADOKAWAから刊行。本文庫は、その単行本に加筆修正したもの。
2022年12月30日
読書雑記(337)仲町六絵『京都西陣なごみ植物店2』
全四話のうち第三話までは、未完成の作品群としか思えませんでした(失礼な表現ですみません)。植物探偵である和久井実菜が扱う植物にまつわる謎が、読者である私をワクワクさせるものではなかったからです。好みの問題として終わりそうに思っていたところ、第四話で作者が抱えるテーマに興味がわきました。次作も読んでみようと思います。
■第一話 街角の草迷宮
開巻早々、龍田川のことから「ちはやぶる〜」へと、いにしえの龍田姫が話題になります。するとすぐに、マンション建設予定地の草花が異常に茂っていることの疑問へと、推理が展開していきます。
推理は、あまりおもしろくありませんでした。巻頭の龍田姫のことに関わらせることができたら、古典をベースにした上質の謎解きになったことでしょう。【2】
■第二話 晴明の愛でた桔梗
桔梗は私が好きな花です。それもあって、読み入りました。テンポもよく、楽しい話です。
ただし、後半は空回り。話が荒っぽくて失速します。晴明を扱うのであれば、もう一工夫して、もっと別の展開にした方がよかったと思います。【2】
■第三話 どんぐりころころ
さまさまな内容が飛び交う話です。時代祭や和歌の知識など、植物以外にも興味と関心は広がっていきます。ただし、まとまりはよくないと思いました。さらには、恋心の描写が生煮えです。【1】
■第四話 禁じられた花
角倉了以の茶会を再現するプロジェクトに関して、お茶席で入れてはいけない花の禁花について、わかりやすい推理が展開します。「禁花一輪 葉一枚」を解くのです。
これまでの作品が軽かったのに対して、本作はテーマに真剣に立ち向かっている、という印象を持ちながら読みました。もちろん、私が茶道に興味があることに関連しての感想です。特に、歴史と文化に深く入り込んでいるところは、しっかりとした物語性が伺えます。今後が楽しみです。【4】
2022年12月26日
読書雑記(336)仲町六絵『京都西陣なごみ植物店』
■第一話 逆さまのチューリップ
この作者の作品を読むのは初めてです。
舞台は、京都府立植物園。就職したての神苗健が主人公です。
一人の女の子が、逆さまに咲くチューリップを探しています。そこへ、植物の探偵登場が登場。和久井実菜と言います。
調査は簡単に終わり、正しい花の名前もわかりました。「キィジョウロウホトトギス」。明るい調子の物語が展開していくようです。
なお、「こんにちはっ、神苗さん!」(23頁)の「は」に違和感を持ちました。その後の、「お姉ちゃん、こんにちはっ」(27頁)にも。
語中語尾のハ行音なので「わ」と発音しても「は」と表記することは知っています。しかし、それが不自然に思えたのです。私の語感が変わったのでしょうか。
平易に語る作品なので、気楽に読み流せる作品集となっていくのでしょう。【3】
■第二話 信長公のスイーツ
よく似たスイーツの新商品が、他の店から1日早く売り出されたのです。どうするか、植物の探偵に相談の依頼が来ました。「麩の焼き」はどうしたら和菓子になるかが問題です。
前回の「正解を見つけ出す課題」から、今回は「正解を作り出す課題」となりました。
できたのは、信長の薬草園から見つけたローズマリーを使ったカキ氷です。あまりインパクトのないお話に終わりました。【2】
■第三話 さそり座の星
大学の後輩から、彼氏が短歌で「赤い花」を「白い花」と読んだことから、相談が始まります。自分たちが見たのは「赤い花」だったと。
(これは、とてもあなたに似た花)
さそり座の 星の話を していたね
白い花見て あなたを想う(109頁)
この疑問はすぐに解けました。酔芙蓉が関係していたのです。粋できれいな謎解きとなっています。【4】
■第四話 紫式部の白いバラ
『源氏物語』に出てくる「そうび(薔薇)」に関する話です。
「紫式部の白いバラ、売ってますか?」と二人の男が尋ねて来ます。いったい何なのか、という謎を解きにかかります。そして、それが危険ドラッグに結びつく、という流れです。
「そうび」について、古典の知識が現代人の理解につながっていません。もっと説明がほしいと思いました。その発端の部分を引きます。
「『源氏物語』に出てくるバラは『そうび』と書かれているんですけど、これって一般的にバラと聞いて思い浮かべるような、花びらが何重にも重なった大きなバラではないですよね」
鳴沢がうなずく。
「はい、そういうのんはもっと後の時代に品種改良で生まれたので。『源氏物語』のバラは、一重咲きの原種・・・つまり自生してたもんやと思いますよ。中国から持ち込まれた庚申バラか、もともと日本にあった原種の白い野バラか」
「もしかして、白い庚申バラかな、と私は考えてます」
(中略)
「このレポートでは『源氏物語』の原文を参照しながら、どんなバラなのかできる限り絞り込もうと思います」
淳子はA4サイズのコピー用紙を出した。
「『源氏物語』では、二ヶ所に薔薇が出てきます。『少女』では、列挙される色んな植え込みの一つとしてさらっと書いてあって、『賢木』では貴族たちが楽器を奏でる場面で、割と細かく描写されてます。こちらが原文です」(135〜136頁)
『源氏物語』を持ち出しながら、何となく検討が流れて進んでいくのに物足りなさを感じました。【3】
■第五話 蛍の集まる草
庭に埋めてある金庫の鍵の場所を示す暗号は、次のものでした。
「金庫の鍵は、ホタルが集まる草の下。
ヒント、龍安寺の石庭。落語の扇子。」(172頁)
植物の探偵の出番です。ただし、この暗号の解読はこじつけで、おもしろくありません。「見立て」についても、遊び心がなくて残念です。【2】
■第六話 桜に秘める
染色家から、茜色に染める桜を探してほしい、という依頼を受けます。
人間関係が整理されていません。読んでいて、よくわからなくなりました。また、謎が説明口調で語られるので、ワクワク感に欠けます。次作を楽しみにしましょう。【2】
※読み終わり、この掌編集は若年層を読者とした物語だと思いました。ジュニア向けの、ちょっとした連作の推理話だということです。それなりにおもしろさはあります。しかし、〈PHP 文芸文庫〉という範疇に入れるのには、やはり大人も読めるように、内容のレベルを数段上げてほしいと思いました。もちろん、私が新しい時代のライトノベルという分野の流れを摑み切れていないという問題だとすれば、著者にとっては失礼なことになります。植物を通して謎解きをする、という趣向はおもしろいと思います。それだけに、さらに手応えを求めてしまいました。続刊があるので、植物とどのような推理の絡みがあるのか、機会を得てまた読んでみようと思います。
2022年11月27日
読書雑記(335)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 18』
■「プロローグ」
新年早々、真城葵は親友の宮下香織と2人で、北野天満宮大鳥居の横にある洋菓子店で、カステラとワインでよもやま話をしています。どの話題がこの巻で展開するのか、思いを巡らせました。
北野天満宮にお参りをした所で、文中に「一礼二舶拍手」という語句がありました。
私と香織は一礼二舶拍手をして、手を合わせたまま目を瞑る。
良い学びができて、実りのある一年になるのを願い、最後に一礼した。(14頁)
初めて見た用語だったので、「一礼二舶拍手一礼」ということばをいろいろと調べました。結局、「二舶拍手」は今のところ見つかっていません。誤植なのでしょうか。本書には、これまでの巻と違って、アレッと思う表現がいくつもありました。以下に指摘する通り、これらは校正漏れなのでしょうか。
なお、一般的に参拝の作法は、「二礼二拍手一礼」とか「二拝二拍手一拝」と言われています。しかし、私は学生時代に神道関係の授業や先生から、「二礼二拍手一揖(ゆう)」と教わりました。「揖(ゆう)」は、軽くお辞儀をすることです。さらに丁寧な作法は「一揖二礼二拍手一礼一揖」だとも。
そんなこんなで調べを進めていると、「二礼二拍手一礼」は日本の伝統的な作法ではない、という内容の『神社で拍手を打つな!』(島田裕巳、中公新書ラクレ、2019年11月)という本があることを知りました。あくまでもしきたりなので、拘ることはないとは思うものの、表現が乱立しているのは好ましくありません。年末年始と神社にお参りすることが増えます。どなたか、整理していただけませんか。
■第一章 「うまい話には」
小松探偵事務所に、知人のイーリンから京都のガイドを高額で依頼されます。それこそ、「うまい話には落とし穴」の始まりです。
■第二章 近所の有名人
伊藤若冲が話題となります。ホームズさんのお話を聞く、という内容です。
■第三章 ミッションスタート
わがままなお嬢様のガイド役となった清貴は、要求されたインパクトの強いところとして、縁切り神社の安井の金比羅さんに案内します。
次は、感動できる京都として、幽霊子育飴のお店へ。
特別な体験ができるところとしては、八坂の塔。
続いて、京都らしいランチは湯豆腐。
その後は葵と合流して、フォトジェニックな八坂庚申堂。
次に、葵は嵐山の着物の森に案内します。
楽しい京都案内のパターンのお披露目です。【4】
■第四章 アクシデント
始まってすぐに、次の表現に出くわします。
「京都府立大学の前に到着すると、葵が門の前で待っている葵の姿が見えた。」(136頁)
書き急いだのでしょうか、前の「葵が」は不要でしょう。
女の子が喜ぶ所として、今春まで住んでいた下鴨神社が出て来ます。もっと書いてほしい所です。
「崇敬」という語に「そうぎょう」と振り仮名を傍記しているのは、何か理由があるのでしょうか(138頁)。日本国語大辞典に出ている読みだとはいえ、一般的ではありません。また、これを普通は「すうけい」と読むこととの違いも、よくわかりません。さらには、この「崇敬」は「そうけい」とも読むようです。あえて振り仮名を充てているので、そう読んでほしい理由があるのでしょうか。
後半は、それまでの平和なやりとりが突然の乱闘場面となり、緊張感が漂います。【4】
■第五章 昔取った杵柄
自作自演の誘拐劇、という展開にはガッカリです。話の展開が打ち切られ、引き摺り回された読者はそこに置き去りにされるからです。そして、推理が人情噺になってしまいました。【2】
■第六章 支える者
京都国立博物館での若冲展のくだりを読んでいて、この本のここに絵があったら、と思いました。文字による語りに絵を混在させるのは、語り手の尊厳を傷つけるものだと言われそうです。しかし、読者が想像力を膨らませ、理解を深めるためには、絵があってもいいと思います。
ここでも、表現に違和感を覚えたので、懲りずに指摘しておきます。
「八坂庚申堂のくくり猿が頭が過った。」(223頁)は、「猿が頭を過った。」でしょう。【3】
■第七章 二人の価値観
葵とホームズは、価値観の違いについて意見の交換をします。
「だって違う人間なんですから、まったく同じなんてありえない。何もかも違っているから、分かり合おうと努力したり、譲り合ったりできるんじゃないですか」
ホームズさんは驚いたように目を見開いている。
「もちろん、価値観が近いに越したことはないかもしれませんが、違うからって離れる理由にはならないですし、違っていればいるほど違う視点を知ることができるわけで、大きな学びになると思いませんか?」
私がそう訊ねると、ホームズさんは顔をくしゃくしゃにして、額に手を当てた。(237頁)
あまりにもありきたりの表現なので、もっと別の視点で語らせることはできなかったのか、と残念に思いました。これが、ライトノベルと言われるものの限界なのか、と思わせます。もう一捻りあれば生きた人間の心が表現できたのに、と。その、あと一押しが、この作者に求められるように思いました。これでは、読み流して終わりの消耗品であり、心に何も残りません。【2】
■エピローグ
女性が突然キレることを、言語化の問題として語ります。
「そうかも。うちのかみさんも、ある日、突然キレるんだよ。話を聞くと、「ずっと我慢してたんだ』って怒られるんだ。それなら溜め込まずに言ってほしいよな」
「溜め込んでいる時は言語化できない、靄のような状態なのかもしれませんね」
「言語化できない、か。......なるほどなぁ、言語化できるようになった時が、キレ時ってことか」(251頁)
なるほど、うまく言うな、と思いました。もっとも、ここは「言語化の問題」として煙に巻かず、もう少し丁寧に語ってもよかったのではないでしょうか。
なお、この章でも、表現に違和感を覚えました。
「気持ちが分かるからこそ、自分でしっかり考えて彼女と向き合ってもらいたい、という思ったので、それが滲み出たのかしれませんね」(248頁)
私が購入した本では、「どいう思ったので、」と読めます。俄然本職の習癖が出て来て、写本の文字を拡大する道具でこの「ど」を見ました。すると、「と」の右上にインクの痕が濁点のように見えたことがわかりました。
そうでなくても、ここは変な言葉となっています。「滲み出たのかしれませんね」も「滲み出たのかもしれませんね」のほうが、ホームズさんらしい言葉遣いです。【2】
■番外編 拝み屋さんと鑑定士[彼の胸の内]
この掌編が番外編として最後に置かれた理由は、その前の「あとがき」に書いてあります。しかし、それにしても、この短編がここに収録された意味が、私にはわからないのです。多くの読者との、仲間内の感覚で置かれたのでしょうか?
2022年11月03日
読書雑記(334)半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』《長文注意 13,000字》
最近の本ブログの記事では、「司馬街道(2)「モンゴル紀行」」(2022年10月10日)でこの問題に触れています。
両親が生きた時代の背景について理解を深めるために、まずは、1945年8月にソ連がそれまでの日ソ中立条約を突如破棄して満洲に侵攻してきたことから確認することにしました。時系列で見ると、8月6日午前8時15分に広島に原爆投下、8日午後11時にソ連が日本に宣戦布告し、その直後の9日午前1時にソ連が満洲へ侵攻、そして9日午前11時02分の長崎原爆投下となります。
両親の放浪は、8月9日から数日後に始まったのでした。
『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利、文藝春秋、1999年7月)を読みました。
半藤氏は、膨大な資料を調査し、インタビューを踏まえた事実を克明に記し、自分の言葉で解説していきます。以下では、少しずつであっても時間をかけて両親の苦難の道を知りたいという思いから、それに関連する記事を抜き出すことで、今後とも自分の力で自分なりに考える材料にしたいと思います。後で思い出すために、今の時点での自分なりのメモを少しでも記しておくつもりです。
私が両親から聞いた話に出て来た満洲の地名がわかるように、本書の見返しにある地図の一部を引きます。赤丸を付けた街に、両親はいたようです。参考までに、私が行ったことのある街には、青丸を付けています。
ソ連は、終戦の前年の昭和19年10月には、日本に戦争を仕掛けることを決めていたようです。
翌十九年になって、ソ連の対日参戦の決意はよりはっきりした。十月九日、チャーチルがモスクワを訪問したとき、対日参戦が改めて約束されている。
「ソ連はソ満国境に三十個師団と十九旅団をもち、関東軍の二十四個師団と四十二旅団と対峙している。対日攻撃には六十個師団を必要とする。あと三十個師団を増強しなければならない。これには軍用列車千台を必要とし、輸送に三ヶ月はかかる。....もし連合国が必要な軍需品を援助し、ソ連参戦の名分を立てるような政治的条件を整えてくれるならば、ドイツ敗北の三ヶ月後には、対日攻撃を間違いなく行う」
とスターリンは明白にいいきった。ここに期日がはじめて明らかにされた。そして翌日の会談では、かれみずからが地図をさし示しながら、東部満洲国境から攻めこみ、北からは圧迫を加えるいっぽう、西正面のバイカル湖地区から機甲部隊が北京へ、さらに天津へと突っこみ、関東軍と中国派遣の日本軍とを分断するという攻撃計画を説明した。(150頁)
そして、「ヤルタ会談」でも、ソ連が日本との戦争に参加することが協定としてなされていました。そうしたことを、日本軍はまったく知らなかったようです。
ちなみに、いま明らかになっている「ヤルタ秘密協定」の全文は以下のとおりである。日付は一九四五年二月十一日となっている。
「三大国即ちソビエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し、かつヨーロッパにおける戦争が終結したる後に、二ヶ月または三ヶ月を経て、ソビエト連邦が左記の条件により連合国に与して、日本に対する戦争に参加すべきことを協定せり。(156頁)
(中略)
しかも空しさを痛感させられるのは、当時の日本はヤルタの密約についてまったく知るところがなかったことである。二月八日の非公式放送、あるいは十二日に発表された公表文にも、ソ連の対日参戦については、かすかな気配すらあらわれていなかった。駐ソ大使佐藤尚武はヤルタから帰ったモロトフと会見し、会談の結果について打診した。そのときの外相の答は実にあっけらかんとしたものである。
「ヤルタ会談は公表のとおりであって、同会談においては、日本問題についてはなんら議せられなかった。ソ連の日本にたいする方針は、なんら変更がない」
疑問にたいする全否定の明言である。“闇の約束”を守りぬくソ連のしたたかさに佐藤はとりつく島もなかった。(159頁)
ソ連が満州に侵攻した時、人々の反応を次のように紹介しています。まずは大佛次郎の日記に触れた個所。
この日の東京は風のない晴れて暑い日であった。市民は酷暑にあえいでいた。そのなかで、午後三時のラジオのニュースが、はじめて日本国民にソ連軍の参戦を報じた。作家大佛次郎の日記にそのことが書かれている。
「……三時のニュウスで簡単な関東軍発表あり五時に繰返す。七時のニュウスで五時の大本営発表を伝える。新京ジャムス吉林など爆撃せられ、満洲里三河、琿春附近の両方面から侵入して来ているらしい。そのニュウスのあとで新型爆弾に対する昨日と同じ注意、毛布などかぶれを繰返す。国民を愚にした話である。真偽は知らず、今日は長崎に同じものを投下したというが一切発表はない。隠すつもりらしいのである」(『敗戦日記』)
大佛が記すように、三時を皮切りに五時、七時と矢つぎ早にソ連参戦の同じ報をラジオは伝えた。生き残るために人びとは暑さにめげず必死に動きまわり、ラジオに耳を傾けていられるものは少なかったからである。それもいつもの大本営発表と違って、自衛のため、ソ連軍と交戦状態に入ったことを告げるのみで、戦果などなに一つ発表することもなく、無敵陸軍は「寂として林の如き」沈黙を守った。(70頁)
次に、高見順の日記。
このように当時の暗澹たる状況下に書かれた日記を書きならべてくると、日本国民にとって、ソ連の対日参戦の報がいかに驚天動地の衝撃であったことかがよくわかる。それというのも、戦争中の日本人はソ連という国を"敵"にしたくはないの強い想いを抱き、そのあまり"味方"なのだとする勝手に裏返った気持を、ひそかに育てていた。そのように思われてならない。
作家高見順の日記には、そんな複雑な気持を示す文字が綴られている。
「ソ連の宣戦は全く寝耳に水だった。情報通は予感していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ連が仲裁に出てくれることを秘かに心頼みにしていた。誰もそうだった。新聞記者もソ連に対して阿諛的とも見られる態度だった。そこヘソ連の宣戦。・・・・・・ソ連の宣戦は一種の積極的仲裁運動なのであろうか。それとも、原子爆弾の威力に屈したのだろうか。ラジオの報道は、ソ連問題や対ソ戦況に関することを何もいわない。日本の対ソ宣戦布告も発表されない。気味の悪い一日だった」
その無気味な一日が暮れた。大日本帝国の黄昏である。人びとは大地が海に沈むような感じを味わった。歴史は一挙に日本の破局に突き進んでいく。(74頁)
ソ連の突然の侵攻を受けて、日本軍は一般民間人を見殺しにして退却という後ろ向きの行動をします。
この満洲放棄と朝鮮へ後退持久の作戦命令のうちには、満洲に居留する一般民間人の処置は、考慮に入ってはいない。非戦闘員は居留現在地にあってまとまって留まるのが、もっとも安全である。戦闘員はこれに接触しないのが戦争の原則であり、これを紳士的に保護して取扱うのが、文明国の軍隊に求められる道義である。それが参謀本部の、そして関東軍の作戦参謀らの考えであったのであろう。しかし、これはソ連軍に信頼をかけすぎていた。
公刊戦史は妙なことを記している。それは「(関東軍は)希望的心理と、防勢企図を秘匿せんとする考え」をもっていたため、居留民にたいする決定的措置をとることができなかった、としているが、そこまではいい。問題はそのあとである。
「いまだかつて接攘交戦を経験せず、きわめて多数におよぶ在外居留民が、直接、戦乱の渦中に投げこまれた体験を持たなかったことが、大きな原因であったといえよう」
いったいこれはどういうことか。経験がなかったから悲劇を大きくした、とはどの面さげていえることなのか。虐殺や自決や強姦や暴行や、そしていまも多くの問題を残している残留孤児と、一般市民がうけた悲劇の責任は市民にもある、といっているにひとしい。それは誤りである。すべての責任は軍にある。参謀たちの判断の誤りにあって、ほかには決してない。(87頁)
関東軍の退却の結果、民間人は悲劇が拡大することとなりました。
父は軍属としてシベリアに送られ、母は居留民の一人としてこの悲惨な逃避行の中にいたと思われます。まさに、『桜子は帰ってきたか』(麗 羅)が描く世界です。満洲から逃げて帰ることについては、少しだけ母から聞いています。宿舎で一緒だった人たちと助け合って、阿鼻叫喚の騒乱の中を南下したそうです。この時に行動を共にした母の親友が福島県伊達市におられ、年賀状のやりとりだけはずっとしていました。妻の実家の秋田県に車で帰省した折に、母をこの伊達市のSさんの家に連れて行きました。涙を流しながら、しばし想い出話が尽きなかったことを、昨日のことのように思い出します。
結果として居留民や開拓団は無警告・無防備のまま放りだされた。しかも屈強の青年層はもちろん、一家の大黒柱ともいえる父親が”根こそぎ動員”で関東軍に召集されている。辺境の開拓地にとり残されたのは老人や婦女子ばかり、というところが多かった。
こうして各地の開拓団や青少年義勇隊や居留民は八月十日ないし十一日、それぞれの逃避行動を開始する。離れがたい“自分の土地”を捨てる。各開拓団が相談の上で統一行動をとったわけではない。早くいえば、お前が行くならという群集心理も働いてまとまって動きだしたといえる。どの開拓団が何十人、何日に、どのようなコースをたどったか。それを正確に示すことはほとんど不可能である。多くの人が必死になって人のあとをついていっただけなのであるから。
虎頭要塞のあったひろい地域(東安省宝清県と虎林県)に散在していた開拓団でいえば、関東軍の指示にあるように虎林線の鉄路にそって南下して、林口から牡丹江そして朝鮮北部へ逃れるのが理想的であったであろう。が、虎林線がいきなりソ連軍の攻撃によって寸断されてしまった。いくつもの開拓団の人びとは南下をあきらめ、西へ西へとあとさきになりつつ、満洲東部の曠野をあてどなく歩いていくことになったのである。
それがのちに多くの悲劇をうんだ。しかもいち早く後退作戦をとった関東軍は、ソ連軍の急追撃をおそれ、計画どおり諸方にかかる橋を破壊した。結果的には、あとから逃げてくる老人や婦女子たちの進路と速度とを妨害したことになる。それがいっそう悲惨をよんだのである。(202頁)
次の文章を読むと、軍属の家族として満洲にいたと思われる母は、徒歩ではなくて鉄道や自動車も利用したのかもしれません。しかし、母はあてもなく歩いて逃げたことを強調していました。その途中で、まさに口にできない光景を数限りなく見たようです。逃避行にも、いろいろなケースがあったに違いありません。
「両親がいた満州とシベリアのことを調査中」(2016年12月27日)では、引き揚げ船のことを書いています。今は、それまでのことを調べています。
頼みの軍はさっさと後退し、その上に県公署、警察なども急速に機能を失った。放りだされた一般居留民や開拓農民の予期されていた悲惨は、いよいよ現実化していく。鉄道や自動車を利用することのできた一部の軍人家族や官吏家族なんかとは違って、かれらは自分の足を唯一の頼りに歩くほかはない。そのあとを急速な、ソ連軍機甲部隊が追撃してくるのである。しかも、すでに記したように、屈強のものたちはすべて根こそぎ動員で奪われている。(219頁)
それまで仲良くしていた満洲や中国の人が、日本が負けたことを知ると掌を返したように、別人かと思われるように突然態度が変わったことを、母から何度か聞いたことがあります。母は、ハルビンから新京に南下したようです。私が新京(現在の長春)へ行き、母が留まっていたと思われる地域へ行ったことは「【復元】母子の絆の不可思議さ」(2010年04月29日)に書きました。
ソ連兵の乱暴狼藉はいまや目に余るものとなった。赤旗や青天白日旗をかざした一部の中国人(満洲人)も反日行動をあらわにしはじめた。かれらは争うようにして、日本人を襲った。殺人、婦女強姦、略奪、暴行はひんぴんとして行われだした。軟禁同様の関東軍は、もう完全な無力の存在である。軍人民間人を問わず、いまや日本人は丸裸の自然状態に放りだされたのである。
溥儀皇帝が奉天飛行場で逮捕されたというニュースや、大杉栄殺しで有名な満映理事長甘粕正彦が自殺したというニュースが、日本人のあいだをかけめぐった。ソ連兵は腕時計と万年筆を強奪するから外出のときに持ち歩くな、という注意もいち早く伝わった。それと知らず、白昼路上で拳銃を片手のソ連兵によびとめられ、
「チャスイ、チャスイ(時計)」
と、腕時計をひったくられる日本人があとを絶たなかった。しかもそのソ連兵の腕には十数個の腕時計が誇らしげにはめられている。
街頭ばかりではなく、日本人住宅に押し入って手当り次第に略奪するもののなかには、将校を先頭の部隊ぐるみのものもある。それも、ソ連軍はどんどん新京に入り、一泊してまた南へ下っていく。新規の侵入者が、新しい立場で押し入ってくる。腕時計や万年筆はもとより、布地、長靴などを、かれらは先きを争うようにして奪いとっていった。こうしたソ連兵の暴行、略奪は新京にかぎったことではない。満洲のいたるところの都市でも、容赦なく行われている。八月十八日、ハルビン市の中心の大直街をソ連軍の巨大戦車数十台が行進した。この日からこの市もソ連兵による強盗、略奪、暴行、強姦の街と化した。(272頁)
次の、子供の買い付けについては、ほんの少しだけ、母が満洲から逃げる途中の出来事として話してくれたことがあります。一緒に逃げていた宿舎の友だちの話だったのかもしれません。この話の行き着く先は、母親が我が子を殺さざるを得ないことにつながります。私と姉が生まれる前のことなので、母も私には詳しくは語らなかったように思います。中国残留孤児を捜索しているニュースが話題となっていた頃、母は必死に新聞やテレビに釘付けでした。思い当たる人が、子どもがいたからだと思っています。
なんどもなんども暴民や武装匪賊の襲撃ですべてを奪われ、乞食以下となった日本人の行列に、中国人や朝鮮人が「栗を買わんか」「とうもろこしは要らんか」と声をかけてくる。指導者が「決して買ってはならんぞ。この行列はまだ金があるとみたら、また襲ってくるに違いないから」と止めた。また、幼い子供をつれて歩いているものには、中国人が「子供をくれ、子をおいてゆけ」とうるさくつきまとい、ついには、
「女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ、それでどうだ」
と値段をつけてまでして、執拗そのものであった。(281頁)
半藤氏の視点がわかる箇所を引いておきます。
「評論家や歴史家が旧満洲を語るとき、つねに上からの目で、『侵略の歴史』として見ることが多い。果たしてその人たちは下から満洲を見つめたことがあったのだろうか。異民族にまじり、ともに汗にまみれ油に汚れた日本人もいたことを知っていたのだろうか。大陸浪人や一旗組、威張り散らした官僚や軍人がいたことは事実である。だが大多数の人は、骨を埋める覚悟で海を渡ったのである。その国を愛さないで、海を渡ることができるであろうか」
生き残って帰った元開拓団の人の言葉は重く、心にいつまでも残る。
(37) この場合、現地人のすべてが、開拓民や居留民に敵対行動をとったわけではないことを指摘しておかなければならない。「主人」であった日本人を最後まで助けてくれた現地人も、決して少なくはなかった。結局、暴動の背景は土地や家屋をとりあげたり、不当な仕打ちを加えるなど、良き隣人ではなかったため、というところにあったようである。(286頁)
半藤氏は、非戦闘員の安全確保について、次のように言います。
敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、また被占領地域にある非戦闘民の安全を図ることにある。その実行である。ヨーロッパの戦史をみると、いかにそのことが必死に守られていたかがわかる。日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。
だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されてはいなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。本土決戦となり、上陸してきた米軍を迎撃するさい、避難してくる非戦闘員の処置をどうするか。この切実な質問にたいし陸軍中央の参謀はいったという。
「やむをえん、轢き殺して前進せよ」
そうした帝国陸軍の本質が、満洲の曠野において、生き残った引揚者に「国家も関東軍もわれわれ一般民を見棄てた。私たちは流民なのであった。棄民なのであった。ソ連軍の飽くなき略奪と凌辱、現地民の襲来、内戦の弾下の希望なき日々」(村岡俊子氏)とつらい叫びをあげさせるもといをつくったのである。そして、こうした国家と軍の無知蒙昧そして無策とが、スターリン大元帥の思う壺だったのである。(215頁)
父に関する箇所の引用が少なかったので、ここで補っておきます。
まず、シベリア抑留の実態を日本はどのように把握していたのか、ということです。驚くべき、何とも能天気な事情が明らかにされています。
外務省が日本兵のシベリア送りの事実を知ったのは、なんと、昭和二十一年三月末のことという。それもAP通信が「日本兵捕虜はシベリアへ送致。目的は不明」と報じたことからなのである。さらに、同年五月末にモスクワより佐藤駐ソ大使が帰国し、その報告で、シベリア鉄道沿線で多数の日本人捕虜が労働に従事している事実を知らされ、日本政府は間違いないものと確認したという。つまり戦後半年以上もの間、シベリアの六十万人の日本人は全員幽霊同然であったことになる。
日ソ間の、日本人捕虜の送還にかんする交渉がはじめられたのは、遅ればせながらその後のことである。一応の協定は二十一年十二月に成立した。が、それもソ連側は守ろうとはしなかった。
そして、同じ十二月、イルクーツクの「プラウダ」がはじめて、日本人捕虜がソ連のここかしこ労働に従事している、との報道をかかげている。(301頁)
そして、シベリア移送については、以下のように言います。
日本本土の将兵がなつかしの故郷へ急いでいるのとは正反対に、捕虜"となった将兵たちの北進がはじまったのである。スターリン大元帥が発した「日本軍捕虜五十万の労働利用について」の命令のもと、ワシレフスキーはいよいよ極秘裡にその実行に踏みきった。
兵士たちのシベリア移送のさいの苛烈な状況については、多くの体験が語られている。何をする気力もないままに、ソ連軍の指揮官の言に従った。「牡丹江からウラジオストックに出て、そこから日本に帰してやる」とかいう......。
案内役のソ連の警備兵もそう信じこんで、日本とはどんな国なのか、自分も一度行ってみたいと思っていた、などと嬉しそうに話しかける。日本兵はなおさらのことで、これで故国へ帰れるかと、帰りたい一心で、長い道を文句もいわず歩いていく。作業大隊千人についてわずか二、三十人のソ連警備兵であったが、驚くことに一人の日本兵の逃亡者もいない。(299頁)
抑留と引き揚げについては、次のような数字が示されています。その後の研究で、さらに正確なものがあるかと思います。今は、本書に書かれていることとして引きます。
いや、金銭や物量ではとうてい表しえない莫大な戦利品"があった。日本人のシベリア抑留という巨大な労働力をソ連は手中にしている。まず、ソ連側が昭和二十年十一月十二日に発表したものによれば、「兵五十九万四千人以上、将官百四十八人を捕虜とした」とある。それが三年後の十一月刊のソ連国防省軍事図書部『第二次世界戦争』によれば、「捕虜六十万九千百七十六人、うち百四十八人の将官および提督がいる」となっている。
これらが全員入りしたのかどうか不明である。一説にソ連領内に連行されたのは五十四万六千八十六人という。いずれにしても、ソ連側は、大命によって降伏した日本軍将兵の総数はもちろん、シベリアへ送った日本人の総数をも正確にはつかんでいなかったと思われる。
たいして日本の厚生省調査では、将兵五十六万二千八百人、このほか官吏・警察官・技術者など一万一千七百三十人もシベリアに送られた、とされている。総数五十七万四千五百三十人。そして無事にソ連から引き揚げてきた人びとは四十七万二千九百四十二人である。これが正確とすると、十万人以上の日本人がシベリアの土の下に眠っていることになろう。
在留邦人(居留民・開拓民)の引揚げについてもふれておく。満洲国政府調査による一九四四年九月末の満洲国在住日本人は、軍人・軍属およびその家族をのぞいて、百四十三万人であるという。これに関東州(旅順・大連など)の二十二万人を加えると、総計約百六十五万人がいたことになる。ソ連軍侵攻時にはそれより十万人ほど少なくなっていた、といわれるが、それでも百五十万人がいたことになる。その、曠野で地獄の苦しみをなめた老幼婦女たちの引揚げの第一陣の船が、葫蘆島を故国へ向かって出航したのは、一九四六年五月十五日のことである。一番あとの中国本土の日本軍隊の帰国よりも遅かった。
以後、『満蒙終戦史』によると、四六年十月までに百一万人が帰国し、四八年八月になると、帰国者の数は百四万七千人に達している。ほかに、関東州地区の引揚者が二十二万六千人、朝鮮半島経由の帰国者が五万人という。いずれも概数である。ついに帰れなかった人がどれほどいたか。単純な引き算というわけにはいかない以上、正確な数はつかめない。この書は、在満日本人の死者を十八万六百九十四人と記している。その大半が四五年と四六年に亡くなったという。(314〜315頁)
次の、社会主義と共産主義については、父が一度だけ私に話してくれたことがあります。収容所において、日本人の前で共産主義に関する洗脳教育を父が担当していた、ということです。これは、その後、私は読書を通してそのような実態があったことを知りました。しかし、その過程で父がどのような役割を負っていたのか、どのような思いで思想教育を担当していたのかは、聞かずじまいだったことが悔やまれます。戦友会で、父の部下だった方々から、極寒の地で極貧の日々の中で、父がいかに思いやりのある対応をしていたのかを伺いました。思索家で弁舌爽やかだった父は、いろいろな背景があって意に沿わぬことも引き受けていたのだろう、と思っています。
スターリンは「社会主義から共産主義への移行」の問題を本気で考えていたのである。つまり「各人は能力に応じて働き、労働に応じて与えられる」という社会主義国家から、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」という共産主義国家へ、ソビエト連邦が発展・実現することを夢みていた。そこで、荒野を森林に変え、不毛の砂漠を緑したたる庭園とすべく、いくつもの巨大な計画に着手した。そのために労働力がいくらあっても足りなかった。スターリンは急いでいた。「一目見てから死にたい」個人の勝手な妄想のために、実に多くの日本人がその生涯を無にされた。そう考えると、何とも言葉を失ってしまう。(317頁)
なお、司馬遼太郎に関する記述もあるので、参考までに引いておきます。
ちなみに司馬遼太郎氏はこの戦車第一師団の小隊長であり、この転用によって日本内地に帰るという幸運に、期せずして浴することができたわけである。(133頁)
前にも書いたが、満洲国という巨大な"領土"をもったがために、分不相応な巨大な軍隊を編成せねばならず、それを無理に保持したがゆえに狼的な軍事国家として、政治まで変質した。それが近代日本の悲劇的な歴史というものである。司馬遼太郎氏がいうように、「他人の領地を併合していたずらに勢力の大を誇ろうとした」、その「総決算が"満洲"の大瓦解で」あったのはたしかである。いまはこの教訓を永遠のものとすることが大事である。曠野に埋もれたあまりにも大きすぎた犠牲を無にしないためにも、肝に銘ずべきことなのである。(308頁)
書籍の知られざる役割も記されています。
時計はもとより、会社の机、椅子、書類函、鉛筆、消しゴム・・・・・・何から何まで奪われた。奪われなかったのは日本の書物ぐらいである。そこで、大事なものは、本のなかをくりぬいて隠した。それがたった一つの隠し場所であったという。(313頁)
本書を読んだことにより、「読書雑記(198)船戸与一『残夢の骸 満州国演義9』」(2017年04月28日)を再読したくなりました。知らなかったことを知り、それがさらなる疑問へと拡がってきたからです。
本日の記事は、長大な引用文ばかりで恐縮します。
今後の自分のための資料として、抜き書き帖になってしまいました。
本書で語られていることは、その後の調査研究によって、さまざまな補訂がなされていることでしょう。そうしたことを、この本を起点として、これから少しずつ確認していくつもりです。
本書の目次は、その内容が簡潔にわかるようにできています。
以下に、その目次をあげて、長々と記した記事を閉じます。
第一章 攻撃命令
七月十六日、米国は原爆実験に成功した。それが序曲だった。スターリンはワシレフスキーに言った。「前進し給え」と。
第二章 八月九日
深夜午前一時、ソ連軍侵攻の火蓋は切られた。大本営陸軍部参謀次長河辺虎四郎中将は自らの手帖にこう認める。「予の判断は外れたり」
第三章 宿敵と条約と
満洲とは日本にとって、そしてソ連にとって、どのようなものであったか? 宿敵の日ソは中立条約を結ぶが、両者の思惑には天と地の隔たりが......。
第四章 独裁者の野望 19
スターリンは昭和十七年に対日参戦を決意していた! 戦後処理を図る列強の権謀が渦巻く中、この男の秘かな野望が徐々に浮かび上ってくる。
第五章 天皇放送まで
「五族協和」の理念は音をたてて崩れ去った。関東軍は戦う前から撃破≠放棄し、上層部は妻子を連れ退避する汽車に乗り込む。こうして百万同胞の悲劇が始まった。
第六章 降伏と停戦協定
「天皇の軍隊」は国民を守らなかった。降伏の仕方さえ知らなかった! そして、国際法を無視したソ連軍によって、五十万人がシベリアへ・・・・。
第七章 一将功成りて
スターリンは日露戦争の復讐戦に大勝利した。その陰で、十八万余の日本人が満洲、シベリアの地に果てた。 「正義の戦争」など、未来永劫、ありえようもない。
大本営陸軍部職員表
関東軍指揮系統略図
第一極東方面軍侵攻概要図
対ソ作戦計画参考図
ソ連軍侵攻概要図および関係地名図
主要参考文献:
■あとがき
※初出誌『別冊文藝春秋』225号(1998秋)〜226号(1999冬)
2022年07月28日
読書雑記(333)篠 友子『うえから京都』
表紙に懸けられた帯の裏表紙側には、次のような宣伝文句が書かれています。
同盟か!
決裂か!
京都 vs 大阪 vs 兵庫。
京阪神、夏の乱が勃発!?
関西圏の地域性や、そこに住まう人々の独特な個性とともに、ブラックユーモアを交えながら展開される、全く新しいエンターテインメント小説の誕生!!
京都駅に降り立った女性の名は坂本龍子。彼女は高知県の県庁職員でありながら、政治の世界で数々の難問を解決し「交渉人」と呼ばれ、その名を馳せていた。ある日、龍子の元に京都府知事の桂大吾から、低迷した日本経済を救うため、経済の拠点や首都を東京から関西へ移したいという依頼が入った。この法外とも思える構想を実施すべく、京都・大阪・兵庫の三府県が手を組み、西の統一をはかるため、龍子に力を貸してほしいのだという。しかしその裏には京都が国の政治を司る拠点として返り咲き、そして遷都をまでをも実現するという思惑があった――。
その帯の背には、「文化庁 京都へ」というロゴも……。挟まれていた栞には、そのロゴと共に「文化庁が いよいよ京都へ やってきます。」と念の入ったアピールがなされています。
高知から関西復権のために京都に乗り込んできた坂本龍子が、冒頭から爽快な登場を果たします。坂本龍馬の女性版です。京都・大阪・兵庫の3府県で東京と交渉し、首都機能を2つに分けての分権から手をつけようというのです。京都への遷都ではなくて首都分散です。難題は、京都と大阪の意地の張り合いであり、その論議はまさに関西文化論となっています。
知事による初めての3者会談の前に、仕掛け人の坂本とその秘書を務める沖田が、お互いの首都二分論について意見交換をします。それを引きます。
「東と西を二つに分けるのは、僕もいい考えだと思っています。日本は小さい国ですが、それでも東と西では文化や物の考え方も随分違いますから。それに僕のように政治の世界で働いていると国の施策なども勉強をしますが、同じ年の友だちはほぼ国のことなんて無関心なんです。東側でいろいろ言っていても、そんなことより京都が何してくれるか、そのことの方が重要で。それって、国よりも目先の日常のことが大事ってことで、完全に個人主義ですよね? もし国の政治が西側にもっと現実味をおびて見えるようになったら、僕たちの世代の考え方が少し変わるような気がします。どう変わるのかは全く想像もできないですが、今よりは良くなりそうな。そうあって欲しいと。坂本さんは単に二つに分けることが重要だと考えておられるのですか?」
龍子もゆっくりと答え始めた。
「二つに分けることのメリットはたくさんあると思っています。まず人の流れを大きく変えることができますよね。次に、今の様にほぼ固定の政党が国を動かすということに変化をもたらすことができる可能性を見出せるかもしれないのは、大きいでしょうね。東と西のそれぞれの特徴を活かした政治が実現できれば新しい日本が見られるような気がします」
「実現できるでしょうか。そんなこと」
沖田が不安気に問いかける。
「それは私もわかりません。ただ、歴史に名を残した人たちは前にある結果が見えていて動いたのでしょうか? そうではないと思います。理想を掲げて、その理想で周囲を説き伏せ、仲間作って国を動かそうと努力した。その結果、振り返ってみたら功績といわれる仕事をしたということじゃないでしょうか。ならば、夢や理想を持って考えてみること、動いてみることに意味があるような気がします」(122〜123頁)
関西3府県が一致団結して上京し、東京都知事と談判するくだりは、ここでは触れません。
7月の祇園祭や8月の大文字の送り火を背景にした、ご当地ネタも盛り込まれています。新型コロナウイルスが収束した社会を想定して物語が進行するので、来年の夏がイメージされます。まさに、今が取り上げられているのです。
私は、本作品は政治に興味を持たない若者たちへの応援歌となっている、と思いました。主人公たちは元気がよくて、何よりも明るいのです。物語を大いに楽しみました。【4】
2022年07月03日
読書雑記(332)神野藤昭夫『よみがえる与謝野晶子の源氏物語』
そんな中で、心臓の鼓動が早まる本と出会いました。『よみがえる与謝野晶子の源氏物語』(神野藤昭夫、花鳥社、2022年7月)です。
著者を知っているからとか、テーマに興味と関心があるからではなくて、本を手にした瞬間から、反射的に、まずはどこから読もうかと目次を繰ります。目次の詳細は「版元ドットコム https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909832580」を参照願います。
私は、「第四章 畢生の訳業『新新訳源氏物語』はどのように生まれ流布したか」から読むことにしました。
ただし、本文を読み出す前に、「まえがき」と「あとがき」に目を通し、本書の全体像を確認します。
・本書は、この幻の『源氏物語講義』を第一章に据え、『新訳源氏物語』を第三章、『新新訳源氏物語』を第四章にして、これらを生み出す晶子の古典教養の地盤がどのようにつちかわれ、はぐくまれたかを第二章のテーマとして、これらを晶子の生涯とともに明らかにしようとしたものである。(B頁「はじめに」)
・最後にひそかに思うところをもういちど述べたい。それを述べてはひそかにならぬが、あらためていう。本書は学術書である。その専門的な態度においては、一ミリだっておろそかにせずに書いているつもりである。だが、ここからヒソカにだが、本書は、文学書という名のヨミモノとして読んでいただけるようでありたいと思って書くものでもある。
おつきあいいただいて、少しは私のコウフンを共有していただけるならば嬉しい。そう思っている。
では、さっそくに旅に出るとしよう。(F頁「はじめに」)
・今年は、晶子の没後八〇年、渡欧一一〇年目にあたる。
一一〇年前、二月に『新訳源氏物語』上巻を刊行した晶子は、中巻の原稿執筆を急ぎ、五月にはパリへと旅立った。そして、『新新訳源氏物語』の完成祝賀会から半年の後、左半身不随となり、思うにまかせぬ二年を送った後、八〇年前の五月二十九日、源氏物語の晶子は世を去ったのだった。(421頁「旅の終わりに」)
よし、と一息ついてから、第4章の「畢生の訳業『新新訳源氏物語』はどのように生まれ流布したか」から読み出しました。490頁もの大冊なので、著者に導かれての旅は、しばらく続きそうです。長旅を覚悟です。楽しい日々に身を委ねます。
なお、著者の言葉にあるように、本書は読み物であっても学術書です。その証拠に、巻末に「人名・書名・叢書名・出版社名・関連用語」の索引があります。私は、索引のない本は研究書や学術書だとは思いません。この一時だけで、本書は研究の成果を提示する学術書なのです。
巻頭に置かれた、選りすぐりのカラー写真30数点もお見逃しなく。
2022年06月14日
読書雑記(331)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール8〈最終巻〉』
一風変わった内容と思いがけない展開を、毎回楽しみにしていました。それが、とうとう最終巻になったのです。さらなる展開に発展した続刊が読めることを、待ち望んでいます。
親子や家族について、そのありようの複雑さと魅力を見せてくれます。
読者の情に訴えるストーリーが並んでいるのです。
相手のことを気遣う気持ちのさまざまな面が、物語のそこかしこに満ちていて、心温まる作品に仕上がっています。
帯に「最終巻」とあっても、そんな気配を感じさせない終わり方です。しばらく作者が充電するためにお休み、ということにしておきましょう。【5】
これまでに取り上げた『ヤンキー君と白杖ガール』に関する記事は、以下の通りです。
最初から戸惑いの連続の中で、しだいにこの作者が描く弱視の少女とヤンキー君が織りなす世界がわかるようになりました。それだけ、インパクトのあるマンガだと言えます。
「読書雑記(263)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール』」(2019年07月31日)
「読書雑記(265)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 2』」(2019年08月15日)
「読書雑記(273)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 3』」(2019年11月28日)
「読書雑記(290)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 4』」(2020年07月29日)
「読書雑記(309)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 5』」(2021年04月13日)
「読書雑記(320)『ヤンキー君と白杖ガール 6』」(2021年10月19日)
「読書雑記(327)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 7』」(2022年01月26日)
2022年06月02日
読書雑記(330)ポール・オースター『幽霊たち』
アメリカの文学作品は、ほとんど読むことがありませんでした。今春から生活環境を一新したこともあり、無縁だったものにも手を付けることにしました。まず手始めに、アメリカの短編小説を選びました。今後とも、これまでまったく興味と関心の外にあった小説や物語を、気ままに読んでみたいと思っています。
さて、私立探偵のブルーは、ホワイトの奇妙極まりない依頼を受けます。それは、用意されたアパートの一室から真向かいのアパートの住人であるブラックの見張りを続ける、ということです。そのうちに、これといった変化がないこともあり、自分自身でブラックの背景にあると思われる物語を自由に紡ぎ出すようになります。そして、この三者の微妙な関係が複雑に描かれていきます。
特に大きな事件は何も起きません。私は、人間関係とそこに横たわる事情を、勝手にあれこれ思いやりながら読み進めました。登場人物と作者が織りなす物語は変化に乏しく、動きも緩慢です。本作品の特徴は、ブルーの心理の変化が克明に語られていることです。そんな内容であっても、不思議なことに飽きることなく読みました。作者には、読者を惹きつける能力が高いと言わざるをえません。
後半は、ブルーとブラックの駆け引きで緊張感が高まります。
最後に作者は、仕事を終えたブルーは船で中国へ行って新たな人生を始める、ということにします。私は、ヨーロッパへ行ったのではないか、と思います。作者が言う通り、重要な問題ではありませんが……【3】
※本作は、平成元年7月に新潮社より刊行されたものの文庫化です。
2022年04月27日
読書雑記(329)小西亘『宇治の文学碑を歩く』
本書は、著者の次の問題意識の基にまとめられたものです。
一〇年ほど前宇治に勤務していたときに、宇治に多くの文学碑があることに気づきました。そうして、文学碑を切り口にすれば、宇治の文学について、何かまとまった世界が見えてくるのではないかと思ったのです。文学碑という窓を通して、宇治の文学を、さらには宇治全体を、眺めて
みようと思い立ちました。
(中略)
見えてきたのは広く深い世界でした。宇治の文学碑に刻まれた作品群は、一地方の地域文学にとどまらない、日本文学を俯瞰できるといってもよいような内容でした。
宇治に『万葉集』の歌碑は八基あります。そのなかには、柿本人麻呂の代表作のひとつ、網代木にいさよう宇治の川波を詠んだ歌や、歌人額田王の登場を告げる歌があります。『源氏物語』宇治十帖が与謝野晶子の一○首の連作によって語られ、今も広く愛唱される『百人一首』の喜撰法師の宇治山の歌も含まれています。芭蕉の宇治の句碑や、一字庵菊舎の代表作である万福寺の茶摘み歌の句碑が、宇治の名刹に建てられています。近現代の作品では、明治天皇の御製や、放浪の俳人種田山頭火が宇治を訪ね、平等院で詠んだ句も碑になっています。
さらに、地元宇治に住み、宇治の行政や文化に貢献した人たちの詩歌を読み味わえるのも、宇治の文学碑めぐりの愉しみです。(2〜3頁)
本書の目次をあげます。
はじめに
一、宇治川右岸を歩く
二、塔の島・宇治川左岸の文学碑
三、さわらびの道、源氏物語ミュージアム、大吉山(仏徳山)頂上へ
四、三室戸・黄檗・木幡へ
五、槇島・伊勢田・大久保・志津川へ
『宇治の文学碑を歩く』に寄せて 東義久
著者は、宇治にある歌碑を一基ずつ取り上げ、文献や資料に記載されていることを精査し、現地を歩き、聞き込みをするという調査を行います。丹念な探査は、文献と言い伝えと現状を踏まえての解釈にまで及びます。採訪調査の基本を守っておられます。
ただし、本書では同じ和歌や俳句などが何度も引かれるので、目がスッと次の行に飛んしまいます。そうすることを続けるうちに、内容が薄く感じられるようになりました。著者の文学碑への立ち向かい方に真摯な姿勢が認められるだけに、もったいない、残念な仕上がりとなっていることが惜しまれます。
また、内容の性格上、地名がよく出てくるので、周辺図がほしくなります。一点もないので、ほとんどの方がどこのことなのだろう、と思いながら読み進めていかれたと思います。私もそうでした。
碑文に関する来歴や逸話や関係する人物の話には、調べ上げた資料から読み解ける日本の文化が立ち上がってきます。脱線気味であっても、楽しく読める文章となっています。
以下、私がチェックをした箇所を引いておきます。
■喜撰法師に関して
・「喜撰山は、宇治市東部、平家の落人伝説のある志津川集落の東北にそびえる、標高四一六メートルの山です。(中略)
喜撰山は宇治市街から望める山です。宇治橋に立って眺めると、大吉山(仏徳山)と朝日山の間に、少しかすんで頂上付近が見えるのが喜撰山です。喜撰が隠棲していたと伝える場所は山頂付近で、岩窟に一体の石像が安置されています。」(21〜22頁)
・「先に引用した鴨長明『無名抄』に「これらかならず尋ねて見るべきなり」とありますが、私は、喜撰法師の庵室跡と伝えられているところを、是非訪れたいと思っていました。しかし、宇治橋から見える喜撰山は、山の麓の志津川地区に来ると山容が見えず、どこだか分からなくなってしまいます。
観光協会で伺うと、喜撰山へは、初めての人は案内者と一緒でないと行かない方がいいだろう、とのこと。コピーしていただいた「喜撰山喜撰法師祠案内」の地図には、志津川集落の喜撰山入り口地点からアスファルトの細い車道を約三・三キロメートル行き、そこから徒歩で約二〇分くらい歩けば祠に到着すると説明してあります。私は宇治市炭山在住の卒業生に案内してもらって笠取・池尾方
面から一度、自分で志津川から一度喜撰山に行こうとしましたが、いずれも天候不順などで目的を果たせないでいました。
その後、宇治の観光ボランティアをしておられる西田勇さんのお誘いで、地元の宇治市明星町・池尾在住の方々にも案内していただいて、ようやく祠に到達することができました。志津川から池尾へ向かう道中、右手に喜撰山ダム湖が見えます。そこから喜撰山に入って、約一キロほど歩いたところに祠はありました。柔らかい落ち葉の尾根路や山中を、標識もはっきりしないので何度か迷いながら歩き、標高四一六メートルの三角点から急坂を下って少し横にそれ、やっと祠を見つけました。(頂点まで行かずに途中で折れるルートが順路のようです)
一面の雑木の山の中にそこだけ形の良い岩窟があり、そのなかに喜撰の像がありました。顔はすこし面長で、切れ長の目の目尻が上がっています。怒っているような、皮肉な笑いを浮かべているような、なんとも味のある表情でした。胸のあたりには薄く苔がついていて美しい緑色になっています。長らく見たいと思っていた念願が叶って、私は思わず像に手を合わせました。
祠はきれいに掃除され、お酒や仏花、おさい銭が供えてありました。こんな山の中に、六歌仙の歌人を慕って、お参りに来る人の少なくないことが偲ばれました。ふりむくと美しい紅葉の山々が続き、広々として見晴らしがよく、彼方には枚方の街並みが霧がかって見えていました。
しかし――平安朝の初期に、隠者とはいえ歌僧喜撰が、本当にこの山奥に庵を結んで住んでいたのでしょうか。」(26〜27頁)
■山吹の瀬に関して
・「先にあげた「万葉集」最古の注釈書『秘府本万葉集」は山吹の瀬を、「宇治川にある所の名なり」とするのみで、どことも記していません。山吹の瀬の具体的な場所を記すのは江戸時代の地誌で、『扶桑京華志」(一六六五)に「宇治橋北西」とあり、「山州名跡志」(一七一一)に「宇治橋北」とあります。いずれも宇治橋の下流にあるとしています。宇治橋下流といえば、万葉時代には川はすぐに巨椋池に注いでいたはずです。
秋里籬島の『都名所図会』(一七八〇)は宇治橋の上流としており、おもしろい逸話を記します。
山吹瀬は、融大臣此地に別荘ありし時、川岸に山吹多く栽ゑ給ひしよりなづけしなり
「山吹の瀬」は、融大臣、すなわち『源氏物語』光源氏のモデルとも言われる源融(八二二~八九五)が、宇治の別荘近くの川岸に、山吹を沢山植えたことにより名付けられたというのです。源融の別荘とは後に平等院になったところですから、この伝承によると「山吹の瀬」は、宇治川左岸の平等院の前あたりということになります。」(45〜46頁)
■『源氏物語』の歌碑九基に関して
・「 現在の名木川の辺にも文学碑があります。府道宇治淀線の北側と南側に、「源氏物語」宇治十帖の歌や文を刻んだ、九基の碑が建てられています。九基とも同じ形の、花崗岩に銅板をはめ込んだ四角い小さな文学碑です。
近鉄大久保駅を降りて府道宇治淀線北側の歩道を名木川に沿って西に下ると、右手に自衛隊大久保駐屯地が見えますが、その敷地の見えるはずれあたり、京阪バス停留所「緑が原口」付近に、小さな歌碑があります。
(41)桜こそ おもひ知らすれ さきにほふ 花ももみぢも つねならむ世を 薫
そこから一○○mくらい西に行き、「日産株式会社 オートワークス京都」の門を通り越してすぐのところに、
(42)山桜 にほふあたりに 尋ねきて 同じかざしを 折りてけるかな 匂宮
さらに一〇〇mくらいのところでしょうか、「日産車体前」バス停留所のすぐ側に、
(43)この古宮の梢は、いとことにをかしうおもしろく、常磐木にはひまじれる、蔦の色なども 「総角」
(43)から約三〇mくらい行ったところ、
(44)濃き鈍色のひとへに、萱草の袴、もてはやしたる、なかなか、さまかはりてはなやかなり 「椎木」
さらに一〇〇mくらい西に歩くと右手に「日産橋」が見え、そのすぐ東側に歌碑があります。
(45)宮城野の 小萩がもとと 知らませば つゆもこころを わかずぞあらまし 少将
以上が宇治淀線北側の歩道、名木川沿いに立つ文学碑です。
そこから道路を南側に横断すると、(44)の歌碑のちょうど対面あたり、「任天堂販売株式会社京都物流センター」の門の西側の、きれいに刈り整えられた生垣の間に歌碑があります。
(46)立ちよらむ かげとたのみし 椎が本 むなしき床に なりにけるかな 薫
東に歩いてすぐ、三○mくらいでしょうか、「さいかいばし」の対面、南側には更地が広がる歩道の脇に、
(47)はかなくて よにふる川の 憂き瀬には たづねもゆかじ ふたもとの杉 浮舟
そこから五m弱くらいのところ、バス停留所「日産車体前」の対面、マンションの門の西側に、
(48)いづこより あきはゆきけむ 山里の 紅葉のかげは 過ぎ憂きものを 衛門督
そして九つめの碑は、(48)からすぐのところ、マンションの東端あたりにあります。
(49)つれづれなりける人のしわざと見えたり またぶりに、山橘つくりて、つらぬき添へたる板に 「浮舟」」(194〜197頁)
(以下、一首ごとに解説が続きます。今ここでは省略します。)
なお、巻末に置かれ東義久氏の「『宇治の文学碑を歩く』に寄せて」の最後に、次のように記されています。
ぼくは大久保に住んでいるが、不勉強でこの地の名木川に源氏物語の歌碑があることを知らなかった。
まずは熟読をし、そして、読破したあとは、この「宇治の文学碑を歩く」を手に、あらためて地元の小さな旅へと出てみようと思わせる、そんな一冊である。(226頁)
私も、この名木川にある『源氏物語』の碑については知りませんでした。宇治十帖から適宜和歌と文章が選ばれ刻まれているようです。その背景がよくわからないので、この未知の石碑と対面するために、後日出かける機会を作ることにします。
2022年01月29日
読書雑記(328)横山光輝『三国志1(桃園の誓い)』
晋の陳寿が書いた『三国志』は、1200年後の14世紀中頃に羅漢中が『三国志通俗演義』(全24巻)と題する読み物としてまとめ、広く読まれるようになりました。それが、日本では1689年に義轍と月堂が『通俗三国志』として訳し、『三国志』のファンが多く生まれました。
1939年からは、吉川英治が独自の視点で『三国志』を書き、日本の幅広い層に読まれ出したのです。
横山光輝による『三国志』のコミック化は1972年からです。『希望の友』『少年ワールド』『コミックトム』へと連載は続き、今回私が荷物を整理する中で見つけて取り出したワイド版『希望コミックス版』(全19巻)は、まだ道半ばの段階のものです(以上、本書第1巻の巻末解説を参照)。
私がこのマンガを読み始めたのは、刊行と同時の1980年からです。ちょうど高校の教員をして3年目の頃で、漢文の授業でこの『三国志』の話をした記憶があります。同じ時期に、電動ひらがなタイプライタを購入して、メモをタイプで打ち出した頃でもあります。中国の歴史書に出て来る人名や地名などの漢字を、手持ちの京大カード(B6カード)にひらがなで打つことに苦労した以上に、打ったかな文字を自分で確認するために読むことに四苦八苦しました。「さまざまな物を整理していて」(2012年03月21日)に、このタイプライタで印字した例を紹介しています。
このすぐ後、NEC のパーソナルコンピュータの最初期を飾る「TK80」に夢中になった時は、まだひらがなも漢字も使えない、英数字と半角カタカナ文字しか使えなかったので、その漢字文化を取り込む苦労は一世を風靡したPC-8001の時代を経てしばらく続きました。翌年に PC-8801を購入してから、やっとひらがなや漢字が何とか情報を記録する文字として使えるようになったのです。懐かしい時代の話です。
さて、この物語は、紀元後184年に黄巾賊の乱が起こった頃から始まります。
劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳の3名が乱れた世の中を糺すために立ち上がった姿を中心とした、勇士の活躍が活劇風にえがかれています。終盤では、曹操孟徳も顔を出します。そして、天下泰平のための戦いが続くのでした。
まだ読み始めたばかりです。のんびりと、楽しみながら紹介していくつもりです。
2022年01月26日
読書雑記(327)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 7』
私の意識が変わってきたのか、始まる早々、漫画の表現に迫力を感じました。動きが、台詞が、躍動するのです。読み耽りました。
見えない人に限らず、「存在に気づいて見守ること」の大切さを説くくだりは考えさせられました。
水着の話で、見るとか見られることの意味を問う流れは、興味深い問題提起となっています。
家族が話題になるのも、新鮮な展開です。
今後の話が、ますます、楽しみになりました。【5】
・これまでに本ブログで第6作までを取り上げた記事は、以下の通りです。
「読書雑記(320)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール6』」(2021年10月19日)
「読書雑記(309)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール5』」(2021年04月13日)
「読書雑記(290)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 4』」(2020年07月29日)
「読書雑記(273)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 3』」(2019年11月28日)
「読書雑記(265)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 2』」(2019年08月15日)
「読書雑記(263)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール』」(2019年07月31日)
2022年01月24日
読書雑記(326)再読『老後は銀座で』
前回の記事は13年も前の、「読書雑記(13)『老後は銀座で』」(2009年05月29日)で取り上げています。ご笑覧ください。
その最後に「数年後に迫った定年後の生活について、楽しく考える材料を提供してくれる本でした。」と記しました。その定年後に2つもの仕事に就き、ようやく本来の定年後を迎えた今、あらためて終の住み処を考え出しました。そして、『老後は銀座で』を書棚からまた取り出して来たのです。
2回目となると、あれから自分が変わってきていることを痛感しました。
これまで、終の住処は一戸建ての持ち家で、という固定観念がありました。しかし、賃貸のマンションで身軽に人生を終えることもいいな、と思うようになったのです。前回の記事でも、「私は、マンションが嫌いです。しかし、老後を身軽で割り切った生活にと考えると、それもありか、と思うようになりました。」と書いています。この「それもありか」という気持ちに変化が生まれたのです。「ありだ!!」と思うようになったのです。生き方の選択肢が広がりました。現役で頑張る必要がなくなると、自由に物事に向かい合えるのです。
本書では中盤を過ぎてから、著者の考え方に衰えを感じるようになりました。人生を達観した物言いに、疲れたというよりも枯れた思考法に傾いていくのです。読んでいて、淋しくなりました。それまでの、銀座の価値と意義を説いていたパワーがしだいに消えていくからです。物の見方と考え方が、ありきたりの人生訓に脱してしまったのは惜しまれます。
文章を引用しながら、具体的に述べます。
前回もよくわからなかったことで、今回もその意味が理解できなかった箇所があります。読み進むとわかるのかと思いました。しかし、今回もわかりませんでした。
人や組織に縛られないで自分の好きなようにできれば、これもすべて自分の「予想」に従っていく結果になる。まったく「意外性」のない世界である。仕事の世界にあった「予測不能性」を無意識のうちに懐かしく思う心情になっていく。落ち着いた生活に満足しているようでも、心の片隅ではちょっとした刺激を求めている。(「人とドラマを求める」15頁)
今回、新たに気付かされた楽しみに、次のものがあります。京都に住まう身には、至るところでこうした体験ができます。
銀座にはこのうえない美術鑑賞の場がある。銀座には一流の店が多い。一流の店は本物志向だ。商品やサービスを売る店舗は、客のためを考えた雰囲気づくりをしている。壁に掛けてある絵画や棚に置いてある彫刻も、鑑賞に値する美術品クラスのはずだ。料理屋の床の間に掛けてある掛軸も、有名な人の描いた山水であったり高僧の手になる墨跡であったりする。それらの作品の真正面に身を置いて、虚心坦懐に眺めてみれば、作品とのコミュニケーションも少なくともある程度は成り立つ。(「美術鑑賞歩き」168頁)
次のバリアについては、視点はおもしろいものの、比喩に留まらないもっと検討すべき事が多いように思います。特に老齢化社会において、身体が不自由な方々が外出することを思うと、バリアの役割がさまざまな形で立ち現れます。
ちょっと努力すればできる範囲内であれば、多少のバリアは残しておいたほうがよい。注意しなくてはいけないことがなくなったり、挑戦することがなかったりすれば、前向きの意欲が削がれてくる。バリアをクリアしていくのが人生だ。それを忘れてしまったら、人生は面白くなくなるはずである。その点からも、「生き馬の目を抜く」東京のど真ん中にある銀座の刺激には、バリアに似たような効果がある。(「バリアフリー」190頁)
次の水中ウォーキングの視点は新鮮でした。
世の流れを乗り切ろうとして全力を尽くした時期は通りすぎたのである。世の中を泳いでいこうと思ってはいけない。プールの中を「歩く」ようなつもりで生きていくのがよい。ちょっとした水の圧力を感じながら動く。エネルギーが溢れて身体を動かしたくなったら、ちょっと身体を水に浮かせて泳いでみる。すぐに疲れてくるだろうから、そうしたら足を底につけて休む。落ち着いたら、また水の中を歩いて進んでみる。(「水中を歩くがごとく」211頁)
また10年後に本書を読めたらいいな、と思っています。この「老後は銀座を」という考え方が私にとってどうであったのか、本ブログが続いている限り取り上げてみたいと思います。【3】
2022年01月17日
読書雑記(325)中島岳志『思いがけず利他』
著者が本書を通して言いたかったことは、最後に次のようにまとめてあります。
重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。しかし、偶然が宿る器になることは可能です。
そして、この器にやって来るものが「利他」です。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。
このような世界観の中に生きることが、私は「利他」なのだと思います。(176〜177頁)
中島氏の著書としては、熱く語るものではなく、静かに説き語りをするような内容となっています。おそらく、現地調査をしたり文献調査に基づく成果の公表ではないからでしょう。
そう思いながら読み終えたところで、「おわりに」に次のように本書の経緯が記されており、自分の肌感覚の原因を確認することとなりました。
本書は東京工業大学未来の人類研究センターの「利他プロジェクト」を進める過程で書かれました。
本書の著者は一応「私」ですが、私一人で書いた本ではありません。プロジェクトのメンバー、そして研究会でお話しくださったゲストの方々の知見が多く含まれています。多くの人の声が、私の中に蓄積し、私を通して表出されたものが、この本です。(177〜178頁)
「利他」に関する興味と関心が読者である私の方に薄かったものの、何となく興味を抱き、気付かされることがいくつもありました。
そんなことから、個人的にチェックをした箇所を抜き出しておきます。
・ 私は利他の本質に「思いがけなさ」ということがあると考えています。利他は人間の意思を超えたものとして存在している。このことは本文でじっくりと述べていきたいと思います。(6頁)
・ヒンディー語の与格構文
私は一九九四年に、大阪外国語大学に入学しました。この大学、今は大阪大学と合併し、大阪大学外国語学部になっています。
私が大阪外大で学んだのは、ヒンディー語という言語でした。ヒンディー語はインド中部から北部で話されている言葉で、今では約五億人の話者がいます。近年はテレビや映画の影響で、ヒンディー語を母語としないインド人でも、この言葉を理解できる人が増えています。
ヒンディー語は、日本語と語順が概ね同じであるため、日本人にとっては、比較的習得しやすい言語ではないかと思います。とはいえ、外国語です。日本語では一般的ではない文法や構文があり、使いこなすことができるまでには幾多のハードルがあります。
中でも、初学者が必ず躓く文法があります。「与格構文」というものです。
例えば、「私はうれしい」と言う場合、ヒンディー語では「私にうれしさが留まっている」という言い方をします。「風邪をひいた」も同様で、「私に風邪が留まっている」という言い方をします。この「〜に」で始める構文を「与格構文」と言います。
(中略)
では、ヒンディー語話者の間で、「主格」と「与格」の使い分けは、どのようにしてなされているのでしょうか。
文法書では、自分の意思や力が及ばない現象については、「与格」を使って表現すると書いてあります。この説明を読んで、「なるほど」と思いました。要は自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合、ヒンディー語では「与格」を使うのです。(60〜61頁)
※私注︰偶然ながら私は、2019年4月より2021年3月まで大阪大学 国際教育交流センター 招へい教授として、旧大阪外国語大学の箕面キャンパスに研究室を持つこととなりました。2002年には、2ヶ月間もインドで中島氏に大変お世話になりました。縁は異なものとはこのことです。
・ 学生時代、私が「なるほど」と思ったのが「愛」の表現でした。ヒンディー語では、「私はあなたを愛している」というように主格を使う場合もありますが、「私にあなたへの愛がやって来て留まっている」というように、与格を使う表現もあります。日本では一九六五年に「愛して愛して愛しちゃったのよ」という曲がヒットしましたが、この「愛しちゃったのよ」という表現は、ニュアンスが近いかもしれません。あなたのことを愛そうと思って愛したのではない。あなたへの愛がやって来たんだ。不可抗力なんだ。どうしようもないんだ。そんな愛の構造が言語に表れていて、何かカッコいい表現をするな、と思いました(62頁)
・ 大切なのは、謝罪の気持ちが湧いてくることです。「謝っておいたほうがうまくいく」という合理的な判断で謝罪をしても、本当の和解にはつながりません。「本当に悪かった」という思いが心の中に現れ、それが相手に伝わるとき、「許し」というモメントが生まれるの
だと思います。
重要なのは、与格による謝罪です。真の感情は与格的に現れます。ヒンディー語では、「うれしい」も「悲しい」も与格です。感情は意思が所有しているのではない。これが与格の文法構造に現れた人間観です。(78頁)
・ 私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。発信と受信の間には、時間的な隔たりが存在します。(129頁)
・ 私はデリーで調査をしているとき、日本人の建てた仏教寺院に下宿していたときがありました。そこの物置部屋のようなところに荷物を置かせてもらい、北インドのあちこちに出かけていました。
このお寺には、宿泊できる部屋がいくつかあったため、時折、日本人がやって来て滞在しました。お寺では、朝食と夕食を宿泊者全員でとるため、私もここに泊まりに来た人たちと、食事を一緒にとることがありました。(153頁)
※私注︰2002年1月にこのお寺で私は中島氏と出会いました。そして、2ヶ月間ここで一緒に暮らし、毎日のように調査に同行させていただき、デリーの隅々までを連れ回っていただきました。以来、10年以上もインドで日本文学研究集会を開催してきました。私のインド体験の原点に中島氏がいます。それ以降も、インドで何度も出会い、楽しい勉強をさせていただきました。)
・ 利他とは、「とっさに」「ふいに」「つい」「思いがけず」行ったことが他者に受け取られ、利他と認識されたときに起動するものです。その行為が利他的であるか否かは、行為者本人の決めるところではありません。利他はあくまでも受け取られたときに発生するものであり、事後的なものです。「利他」という現象は、「この現在」の行為が受け手によって「利他」として意味づけられた未来において、起動するのです。これは偶然・必然と同じ構造です。(160頁)
・ 将来の利益を期待した行為は、贈与や利他ではなく、時間を隔てた交換になっていますよね。今の行為が、将来の利益と等価交換されることが想定されており、利他の可能性が捨象されています。「今、損をしても、いずれ間接的な互酬関係によって、利益がもたらされる」という考えは、とても打算的です。「将来の自分に利益がありますように」と願って渡すプレゼントは、かなり利己的なものです。贈与ではなく、間接互恵を利用した交換に他なりません。
利他は未来への投資ではありません。(162頁)
※追記
これまでに中島岳志氏の著書に関連する紹介記事は、以下のものがあります。
参考までに列記しておきます。
「読書雑記(237)中島岳志『保守と大東亜戦争』」(2018年09月29日)
「読書雑記(220)中島岳志『アジア主義』」(2018年01月19日)
「読書雑記(162)中島岳志・島薗進『愛国と信仰の構造 ―全体主義はよみがえるのか』」(2016年03月24日)
「読書雑記(77)中島岳志『「リベラル保守」宣言』」(2013年08月25日)
「【復元】とにかくおもしろいインドと日本に関する一冊」(2011年05月15日)
「先入観で見てはいけないインド」(2009年02月21日)
「読書雑記(2)『パール判事』快著誕生」(2007年08月02日)
2021年12月02日
読書雑記(324)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 15 劇中劇の悲劇』
■プロローグ
登場人物の性格と特徴がうまく描き分けられていて、快調にスタートします。
■第一章 それぞれの歩みと心の裏側
世間話がダラダラと続きます。そんな中で、鴨川でトンビに食べ物を取られた話は、私も経験しているだけにそうそうと頷きました。それ以外は、サッと話が流されていきます。【2】
■第二章 劇中劇の悲劇―京都探偵事件譚 華麗なる一族の悲劇 相笠くりす
劇中劇で、「幼い頃に大病を患い、目が見えず、耳が聞こえず、話すこともできなくなってしまっていた。」という女の子がすでに成人していることが紹介されています。この子がどうなるのか、興味深く追いました。しかし、全巻を通して同情の域を出なかったのが残念です。視覚及び聴覚障害者に対する作者なりの考えを明確に示してほしかったのは、求めすぎだったのでしょうか。
その女の子のことは、次のように紹介されます。
彼らの上に異父姉の百合子。彼女は三十六歳で、目が見えず、耳も聞こえず、そして話すこともできない、不幸な女性だ」
その言葉を受けて、清貴は、そっと眉を顰める。
「目と耳が不自由なのですから、不便は多いかもしれませんが、それを『不幸』と決めつけるのはどうなんでしょう?」
そう突っ込まれて、冬樹は一瞬、何を言っているのか分からない、という顔をしたが、そんなことを議論している時間がもったいないと思ったのか、それは失礼、と会釈をして話を続けた。(131頁)
(中略)
「百合子さんは、目も耳も不自由なわけだから、この状況を説明しようがないよな」
秋人が気の毒げにつぶやくと、メイドは「いいえ」と首を振る。
「百合子お嬢様は、生まれた時は健康で、六歳の時に大病を患い、目と耳が不自由になってしまったそうです。百合子お嬢様はとても聡明で、六歳で読み書きは完璧だったとか。ですので、いつもこれで会話を」
そう言ってメイドは、ひらがなが浮き彫りになったボードを取り出した。それは、積み木のように並べられ同じ文字が並んでも問題ないよう、複数用意されている。(163頁)
入れ子式の作中物語の作者は、相笠くりすとなっています。この相笠作とする物語は、望月さんの本作以上におもしろく読みました。視点が異なっていることで、別の味が出ていたように思います。作者にとっても、気分転換になり、楽しみながら書いたように思えます。もっとも、謎解きに一役買う殺人事件の概要を記した創作ノートは、私にはアイデア倒れだように思います。【4】
■終章
本作が、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』を基にしており、トリックはそれによると言っています。また話題が、今後の続編の期待へと及びます。あとがきに書かれていることなので、共にいらない駄弁だと思います。【2】
■エピローグ
さらりと、葵と円生の後日譚が語られます。【3】
■掌編『鏡の法則』
恋愛心理を、独白というスタイルながら、具体的に語っています。時間が余ったので書いておきました、という印象の内容です。おもしろいことなので、別の作品の中で活かしてほしいものです。【4】
2021年11月15日
読書雑記(323)望月麻衣『京都船岡山アストロロジー』
この船岡山は、建勲神社の南側に建つ〈紫風庵〉で三十六歌仙の襖絵とハーバード大学蔵『源氏物語』「須磨」を読んでいる関係で、勝手知ったる地域です。それだけに、その地をどう活かして作品に仕上げてあるのか楽しみにして読みました。書店と喫茶店と占星術がメインの話題です。穏やかな語り口で、スーっと読めました。もっと手応えがあってもよかったのに、との印象を持ちました。
前作である「読書雑記(321)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ16/前編』」(2021年11月01日)で、船岡山プロジェクトのことが話題となっていました。本作は、それを受けて構想し発展するものかと思っていました。しかし、まったく別の物語になっていたので安心しました。
■第一章 ナポリタンと第一ハウス
船岡山を舞台とする話です。かつての銭湯が、今は男湯が書店、女湯が喫茶店になっています。
話は、星占いが中心となって、明るく楽しい雰囲気で始まります。【3】
■第二章 太陽と月曜日のモーニング
大徳寺の三門に置かれた利休の木造に関連して、秀吉が切腹を命じたのはスイッチが入ったからだ、と語っています。このスイッチという喩えは言い得て妙だと思いました。読み進みながら、西洋占星術の知識が付きました【3】
■第三章 水曜日のアフタヌーンティー
起伏が乏しい物語の展開に、少し飽きてきました。
占いに関する情報があったので、私に関係する記述を引いておきます。
逆境に強くピンチをチャンスに覆す
底力を持つカリスマ
陰のボス(106頁)
やりがいを重視することで力を発揮(204頁)
「カリスマ」とか「陰のボス」はともかく、何となく当たっているようにも思えるのは、占いが持つマジックなのでしょうか。
先日、那智勝浦へ行った時、那智の瀧の下で久しぶりにお御籤を引きました。妻共々「中吉」でした。そこに記されていたお言葉のそれが、今の我々の置かれた環境と心境を鋭く突く言葉遣いで書かれており、よく当たっていたのです。占いはおもしろいな、と思っていたところだったので、本作での星占いも満更ではないように思えます。【2】
■第四章 大人のお子様ランチと京の灯台
親子関係に情が絡んだ話として展開します。ありきたりで、あまりいいところが見当たらない話でした。若い読者には、これでいいのかもしれません。【2】
■エピローグ
いろいろな種明かしが語られます。楽屋落ちの感じが伝わってくるので、これは本作の中に溶け込ませて展開してほしかった、と思いました。【2】
2021年11月02日
読書雑記(322)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 17/後編』
■「プロローグ」
現在と過去とを往き来しながら、登場人物を整理し、物語を進めます。【3】
■第一章「歯車」
親子関係を軸にして、物語が動き始めます。これまでとはまったく違う方向なので、先が楽しみになります。【5】
■第二章「取材と調査」
取り交わされる会話が生きています。軽いタッチながら、スーッと頭に入ってきます。ただし、つなぎの章です。【3】
■第三章「過去のしがらみ」
気のせいなのか、何となく筆が荒れているように思いました。話が雑で、人物も角張っているようです。流れを変えたいのでしょうか?【3】
■第四章「光と陰の傷跡」
手堅く話をまとめています。本来の路線に戻りました。どう展開させようとしているのかが気になり、読んでしまいます。【3】
■第五章「たった一人の展覧会」
円生と清貴の問答に、何か違う論理の流れを感じました。誤解を承知で言うと、女の論理です。この2人の男は、こんな考え方をするのだろうか、と思いました。あまりにも理屈っぽいのです。家系と血の問題にも、同じ感想を持ちました。
背筋を伸ばして姿勢を良くする話は、記憶に残っています。【3】
■「エピローグ」
めでたしめでたしの後は、新たな旅立ちへの期待です。【4】
■掌編「幼馴染との語らい」
円生とユキのやりとりと会話を通して、円生の心の中が描き出され、語られています。本作の中で一番いいものになっています。【5】
■番外編
直前の掌編とバランスを取るようにして書かれた、ホームズと葵の2人のクリスマスの日の話です。作者はサービスのつもりのようです。しかし、私は一読者として、これは要らないと思いました。【2】
2021年11月01日
読書雑記(321)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ16/前編』
■「プロローグ」
お寺さんのことを「オッさん」と言う理由を、いろいろと説明しています。しかし、私は「御師さん」から来ると思っていました。そのことは、ここではまったく出てきません。実際はどうなのでしょうか?【3】
■第一章「船岡山プロジェクトと玄武の願い」
船岡山のことが登場。〈紫風庵〉で襖絵三十六歌仙と『源氏物語』の勉強会を、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉主催で開催しています。もっとも、新型コロナウイルスのためにしばらくお休みですが。
その〈紫風庵〉は、この船岡山の建勲神社の南斜面にあります。地元話として、興味津々で読みました。
話は、船岡山エリアの活性化へと流れていきます。「恋人たちの聖地」にできないかと。船岡山をめぐるコース作りは、大阪観光大学の実習で観光コースを考える授業を思い出しました。この話は、教材に使えます。
「歴史探索コース」
@玄武神社→A建勲神社→B大徳寺→C高桐院(大徳寺境内)→D今宮神社(106頁)
※B大徳寺の前に船岡山山頂の『国見の丘』が追加となります。(121頁)
この話には、2人の女性の嫉妬が絡ませてあります。自分の気持ちを繋ぎ止めることへの不安から、迷いが生じたものです。ちょっとしたスパイス程度ですが。この章が本書の半分の量を占めています。【4】
■第二章「絡まり合う縁と過去」
陶磁器とガラス工芸の話で、気分転換の章です。【3】
■第三章「梶原家の秘密」
読まされます。しかし、人物設定と語りの内容に無理があるように思いました。話を盛り上げるために、不自然な展開なのです。【2】
■第四章「新たな謎」
円生を中心にした、後編につなぐ章です。【3】
■番外編「相笠くりすの憂鬱」
話の内容と掌編のタイトルの「憂鬱」が結びつきません。中に書かれているように、ボツの草稿が取り上げられています。なぜこの原稿が、印刷する本に収録することになったのでしょうか。【1】
2021年10月19日
読書雑記(320)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール6』
人を好きになる時、なった時の心の揺れが、絵と言葉でうまく表現できていると思います。しかも、ユーモアが巧妙に混じり合っているので、かえってよくわかります。さらには、相手の顔が見えないことから想像力が膨らみ、会話が上滑りをしているところが絶妙なやりとりとなっています。見えないことが、恋愛心理を巧みに描くことに結びついたのです。作者の表現力には、他の作家の追随を許さないものがあります。
赤座ユキコは、見えないから、わからないから余計に知りたいと言います。そして、「ひとめぼれ」がどんな感覚なのかをユキコが黒川森生に聞く場面は、心の不可思議さを考えさせられます。
そんな中、妹分と思っていたハチ子から告白された黒川は、ユキコへの思いと板挟みになります。
また、全盲の青野君が、色が見える人に自分を合わせるためもあって、色の辞典を作ります。自分にない世界を知るということの意味も、語られています。
そして、「愛の色」は何色か?
色とは何かを考えさせられます。【5】
[付記]
・今月から、本作が日本テレビ系で、杉咲花主演で連続ドラマ化されています(毎週水曜日22時〜)。明日20日(水)が第3話とのこと。いつかまとめて見る機会があれば、ここに取り上げます。ネットの評判は上々のようです。
・これまでに本ブログで本作を取り上げた記事は、以下の通りです。
「読書雑記(309)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール5』」(2021年04月13日)
「読書雑記(290)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 4』」(2020年07月29日)
「読書雑記(273)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 3』」(2019年11月28日)
「読書雑記(265)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 2』」(2019年08月15日)
「読書雑記(263)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール』」(2019年07月31日)
2021年08月31日
読書雑記(319)谷崎由依『鏡のなかのアジア』
初めて読む作家です。独特の雰囲気を持つ短編と掌編が編まれています。文庫本の帯には、「珠玉の幻想短編集」とあります。私は、こうした本を読んできませんでした。しかし「第69回 芸術選奨文部科学大臣新人賞 受賞作」ともあるので、興味の赴くままに、新刊として書店の平台に積まれていた一つの山から、一冊を取り上げました。
私は、ネットでの買い物はしません。本もまたしかり。本屋さんで、目の前に並ぶ本との出会いを楽しみにして、本からお出でお出でをするものを選んでいます。これがまた、楽しいのです。
戸惑いながらも、日常から遊離した想像の世界の語りを読みました。その時間の流れが、非日常なのです。知らなかった国を、地域を、土地を旅する中で、形が不定形な人々との出会いが楽しめました。
読み終わり、不思議な旅から帰ってきた思いがしています。
■「……そしてまた文字を記していると−−チベット」
僧院で経典を書写し、問答を繰り返す修行僧の心の中が描かれていきます。しっかりした歯切れの良い文章なので、スーッと読者である私に届きます。
後半に出てくる少女が、この物語の奥行きを深めています。【4】
■「Jiufen の村は九つぶん−−台湾、九份」
不思議な村の不可思議な男と女たちの話です。人間の心と行動の、原始的なありようが浮き彫りになる描写で語られます。人間とは何なのか、ということを考えました。ただし、作者の意図と話の意味は、まだ私にはわかりません。【2】
■「国際友誼−−日本、京都」
情景が絵として思い浮かぶ、懐古の語り口です。
女子学生が長い髪を切るくだりは印象的です。
王朝の女たちが、落飾といって髪を切ったのはそのためだったのではないか。一箇のべつの生きもののように艶々と輝いて、御簾の下から差し覗かせては渡殿をゆく男どもの目を惑わしていたその髪を、切るというのは何も色恋沙汰や信仰のゆえばかりではなかったかもしれぬ。女らは、この際限のない枝毛切りから手を引くために、枝毛があっても自分では届かぬ短さに切り縮めたのではなかったか。しじゅう地べたに引き摺られていれば、朝な夕なに次々と生まれ続けたであろう枝毛どもに、もうこれ以上心とらわれるのはまっぴらだったのではないか。
煩悩とはすなわち、枝毛切りである。
ああ、これもまたおもかげだ。女子学生は考えた。はやくはやく、この影がすり抜けていかぬうちに、ちょうめんをひらきその痕跡を焼きつけておかなければ。
けれど女子学生の右手は、鋏を放すことができない。黒目は消えてゆくおもかげよりさきに目先の枝毛にとらわれて、そうしてその枝毛もまたいましも、髪の林に消えていく。(116頁)
『万葉集』など、古歌が巧みに引用されています。
男子学生の言葉に対する思いもチェックしました。
言葉が通じるというのは、どういうことなんだろう。男子学生はなすすべもなく、そんなことをあのころ思い、いまもまた思っている。あんなにたくさん交わした言葉のあとで、どれひとつとして通じなかった。どれもこれもが日本語として、確かに意味はわかるのに、確かに自分にぶつかるくせに意味をすり抜け逃げていく。元恋人とのそうした会話は、キャッチボールというよりもドッジボールのようだった。(132頁)
この作品でも、読者である私は、理解の混乱の中を引き摺り回されました。表現の妙と言葉遊びの世界を彷徨い、不可思議な話に付き合うこととなりました。【3】
■「船は来ない−−インド、コーチン」
一人の少年の回想を通して、海辺の様子が活写されます。短かすぎるので、もっと語ってほしい話です。【2】
■「天蓋歩行−−マレーシア、クアラルンプールほか」
自然が発する音を書き記す手法の多彩さに、これまでに感じたことのない新鮮さを感じました。感覚が文字として表現されています。私の想念から紡ぎ出される風景や女たちが、次から次へと話題に上ります。脈絡もなく語られているように思えます。それでいて、心象に残ります。【3】
※書誌情報:集英社より二〇一八年七月に刊行。
初出誌:「……そしてまた文字を記していると」『すばる』(二〇一三年四月号)
「Jiufenの村は九つぶん」『すばる』(二〇一二年一〇月号)
「国際友誼」『すばる』(二〇一四年六月号)
「船は来ない」『すばる』(二〇一五年一月号)
「天蓋步行」『すばる』(二〇一六年五月号)
2021年08月04日
読書雑記(317)宇佐美りん「推し、燃ゆ」
作者は、1999年生まれ。私が上京して単身赴任生活を始めた47歳の年です。
作者との年齢差を考えると、もっと言葉のレベルで違和感を持つかと思っていました。しかし、話の展開についていけたのです。主人公の「あたし」の気持ちもわかります。独白が、ストレートに伝わってきます。ただし、物語を楽しむということはありませんでした。他人の話を他人事のように聞く、という読み方に終わりました。そうした性格の作品なのでしょう。
チェックをしたのは、次の3箇所です。
文章が浮かばないときは散歩に限る。小さな鞄ひとつだけ持って外に出ると晴れ上がった空の青さにまぶたの裏が点滅した。いつものようにイヤホンで推しのバラードを聴いているうちに、駅についた。そうやってならどこまででも行ける気がした。すれ違う電車が圧倒的な音量で覆い尽くし、青いスニーカーのつま先が点字ブロックに引っ掛かって転びそうになる。ほとんど人のいない電車に揺られながら、推しの画像を見る、曲を聴く、ネットインタビューを見る。そこにいるのはみんな過去の推しだった。(400頁)
個人的なことながら、邪魔ものとしての点字ブロックに私は反応したようです。
バスを押し出され、ふるえて崩れそうになる脚をふんばった。お盆のときに茄子や胡瓜を支える爪楊枝が浮かんだ。(401頁)
ここで爪楊枝を持ち出したのは上手い、と思いました。ただし、お盆のお供えが日本の文化から消えていく今、いつまでこの意味が読者に伝わるのだろうか、とも思いました。作者の感覚を読者が引き受けられる受容の問題です。新感覚と言われる作品を読む時に、こうした点がいつも気になります。
次の箇所は、アイドルの存在とその変質を、的確に描いています。
あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。
もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。(402頁)
この小説は、電車の中で読みました。読みさしながら数日をかけて読んだ、ということもあってか、すでに読んだ所を気付かずにまた読み、アレッここは読んだな、と思って本来の読み出し地点を探すことが三度ほどありました。物語の展開に、時系列での緊張感がなかったからでしょうか。
それでも、最後に綿棒のケースを叩きつけるあたりには、文章に力が籠もっていることが伝わってきました。若者の文章に追いつけた、と安堵の気持ちで読み終えました。【3】
■初出誌:『文藝』2020年秋季号
2021年06月19日
読書雑記(316)藤原緋沙子『茶筅の旗』
開巻早々、古田織部に急使が来ることから、話題が読者を惹きつけます。何事が起こったのかと。
次には、主人公綸が小堀遠州に淡い恋心が伝えられないという、もどかしい心の襞が語られます。
やがて、宇治の平等院に仕える朝比奈家の綸は、御茶師として生きる決心をします。しかし、初めての茶葉の手解きを受けている時に、父が急に病に臥します。
うまく読者を捕まえて、飽きさせないように物語は進んでいきます。
後半になって、ますます筆(?)は冴えます。これは忘れないようにと思い、チェックした箇所を引きます。
「よく我慢した、それでこそ朝比奈家の娘じゃ。ばばは綸に伝えておくぞ。これはばばの旦那さまが綸の父上、道意に残した言葉じゃ。『怒りは呑み込め、それを糧にして機をみて踏み出せ、何どきも御茶師であることを忘れるな』とな」(255頁)
「わしも一服所望したいが、点ててくれるか」
綸に問う。
「はい」
綸は立ち上がって、織部と交代して亭主の座に座った。
織部の優しい視線が注がれている。
輪は大きく息をつくと、心を静め、丁寧に点前を始めた。
「あっ」
手元が狂って、茶杓ですくった抹茶が畳に零れた。
綸は思わず、織部の顔を見た。
織部は優しい笑顔で頷いた。かまわぬ、続けよ。織部の顔はそう言っていた。
心を静め静めして、綸は茶を点て、織部に差し出した。
「最期に、お前とこうして御茶を飲めるとは……」
織部は、ゆっくりと味わって御茶を飲み干した。
綸は、深々と頭を下げた。
その時だった。
「綸、その茶杓をそなたに授ける。お前に会えると聞いて昨夜から削り始めて、今朝ようやく削り終えたものじゃ」
織部はそう言ったのだ。
「おじさま...」
掌にある茶杓を見詰めた綸の脳裏に、幼い頃、綸が暮らしていた屋敷の縁側で竹を削っていた父とおぼしき侍の姿が蘇った。
――そんな筈はない……。
はっとして見つめ直した綸に、織部は告げた。
「茶杓の銘は、綸とした」(260〜261頁)
最上級の碾茶は二種。ひとつは織部が好んだ青茶の最上の御茶を「後昔」と命名し、白茶の最上の御茶を「初音」と命名する。つまりこの二種の御茶だけは、各家が一番美味しいと思った御茶に、同一の銘をつけて出荷することに決まったのだ。(348頁)
終盤は一気に読みました。今回、新しく作家との出会いがあったことを、嬉しく思っています。【5】
[付記]
新潮社の「書籍詳細」で、著者はこの作品を書き上げるに当たっての裏話を語っています。40代後半に立命館大学の史学科に、「御茶師」を卒論のテーマとして入学したそうです。本書が、しっかりとした背景の元に語られていることに納得しました。
私は、46歳の時に大阪明浄女子短期大学の教員をしながら大阪大学大学院に入り直したので、学ぶ姿勢で挑んだテーマへの思い入れに共感を覚えました。
参考までに、このインタビュー記事(https://www.shinchosha.co.jp/book/328683/)を引用します。
20年以上かかった卒業論文――ライフワークを書き終えて
藤原緋沙子――長年構想をあたためていらした『茶筅の旗』、ついに刊行となりました。
藤原 心底ホッとしています。これを書かずに作家生活は終れないと思っていましたから。
構想を得たのはもう30年近く前。その頃、私は作家を志しつつ、ドラマのシナリオを書いていました。ある時、歴史ものを書くための資料を探しているうち、茶の栽培から生産までを手掛けた宇治の〈御茶師〉に行き当ったんです。戦国時代、茶の湯が政治と強く結びついていたことはよく知られていますし、秀吉と千利休を題材にした小説も山ほどあるけれど、茶を生産する者までもが政治に巻き込まれ、戦場に駆り出されていたことは誰も書いていない。「絶対に私が書かなければ!」と決心したんですね。――書名は御茶師たちが戦いに際し掲げた旗印に由来します。茶筅の絵が描かれていたことは史実だそうですね。
藤原 本来、戦いから最も遠い場所にある茶の道具が旗印になるというのはなんとも皮肉ですし、象徴的ですよね。
御茶師はただの生産者ではありません。大名家や禁裏との関係が深く、別格の権限を与えられ、苗字帯刀を許される者もいたほど。当主が代替わりしたら大名や旗本と同じように将軍に報告すべしともされていました。
その一方で、為政者から出陣の要請があれば応じざるを得ず、御茶師たちは戦いが起きるたびにどの陣営につくか頭を痛めたといいます。というのも彼らにはトラウマがあって、信長と将軍・足利義昭が争った槇島城の戦いにおいて、茶道の庇護者だった義昭側についたために、信長が勝利するや全員、宇治から追放されるという憂き目に遭っているんですね。後で呼び戻されたり、自力で畑を再開した者もいましたが、その記憶が彼らに凄まじい緊張を強いたのです。まとめ役だった上林家などは、どちらに転んでも家が存続するよう、息子の一人を豊臣方に、もう一人を徳川方に差し向けたほどで、生き残るための処世術は武家並みでした。――そんな乱世を背景に、主人公の女御茶師・朝比奈綸の成長が描かれます。彼女の茶道の師である古田織部の失脚、そして小堀遠州への秘めた恋と失望が時代の厳しさを物語る。
藤原 女の御茶師がいたという史実はありません。ですが、史料に残るのは男の名前だけでも、その陰にはそれを支えて頑張っていた女たちが必ずいたはずです。
結局、今ある歴史は勝者と強者の歴史なんです。この小説に登場する古田織部にしても、なぜ家康に疎まれ、切腹を命じられたのかは、師匠の利休が秀吉に切腹させられた理由と同様、謎に包まれたまま。もちろん状況から想像することはできますが、敗者や弱者の真実は結局、歴史の中に塗り込められてしまう。私はそれを掘り起こして書きたいのです。――確かにこの小説には多くの発見があります。
藤原 それは嬉しいですね。私が何より大切にしているのは、読者が「そうだったのか!」と思うような知識を小説に盛り込んで喜んでもらうこと。じつは私が大好きな藤沢周平さんの小説を読んでいて嬉しくなったのが、そういう瞬間なんです。たった一行でも、江戸時代にはこんな風俗があった、こんな言葉があったと知るのがたまらなく楽しい。だから私も安易な書き方に流れず、きちんと読者の期待に応えたい。そのためには歴史をきちんと学ばなければいけないと思い詰めて、立命館大学の史学科に入学したりもしました(笑)。――失礼ですが、それはおいくつの時ですか。
藤原 40代後半、もう20年以上前ですね。社会人入学一期生でした。――卒論は?
藤原 御茶師ですよ。私はこの小説を書くために史学科に行ったので、入学前から卒論のテーマは決っていたのです。――えっ、この小説のために大学に!?
藤原 でも、もう一度同じことをやれと言われても絶対無理。特に語学には手こずりました。英語のクラス分けテストで、読み上げられる問題すら聞き取れずに難儀したのを思い出すと今でも笑ってしまう。
ただ、歴史小説、時代小説の場合はどうやって物事を調べていくかが基本ですので、史料のあたり方、見方を大学でしっかり身に付けられたのは本当によかった。だから、この作品は私にとって、20年以上かけてやっと仕上げた卒業論文でもあるんですよ。(ふじわら・ひさこ 作家)
波 2017年10月号より
単行本刊行時掲載
■書誌情報:2017年9月に新潮社より単行本として刊行。
2021年06月15日
読書雑記(315)上阪徹『JALの心づかい』
キャビンアテンダントの方や機長や整備士の方が書かれた本は、いろいろと気の赴くままに読みました。しかし、本書はそれらとは視点を異にする、空港職員であるグランドスタッフの方の接客の心遣いを浮き彫りにしたものです。おもてなしの極意が、聞き取り調査によって集めてあります。
同じような趣旨や、よく似た視点で語られた事例や心構えが重なって出てくるので、もっと整理をしていただきたいという印象を持ちました。また、取材された関係者の方々の人数は10人以上とあるので、あまり多くないとも言えます。さらに多方面からの質問や切り口でまとめると、また違った印象の本になることでしょう。
それはさておき、とにかくここでは、JALが掲げる「JALフィロソフィ」の精神を体現する事例を中心にした、そのすばらしさを堪能することができました。そして、そのJALフィロソフィには「答え」は書かれていない、ということが要点のようです。JALは、経営破綻から奇跡の復活を果たしたと言われています。この、JALの背景にあるJALフィロソフィは、破綻から再生への支柱でもあったと言えるようです。
以下、私がチェックした箇所を、本書から引きます。
・ JALを大きく変え、JALのサービスを大きく変えたJALフィロソフィ。いかがだったでしょうか。
ざっと斜め読みをしてしまうと、正直、それほど特別なことが書いてあるわけではない、という印象を持たれるかもしれません。果たして、これをベースに行動することで、本当に会社や仕事が大きく変わるのか、と感じた人もいるでしょう。
実はJALの社内でも、JALフィロソフィ教育が始まった当初は、そんな空気が流れていました。どうして、今さら大の大人がこんな当たり前のこと、道徳のようなことを学ばなければいけないのか、と。
しかし、やがて気づいていくことになったのです。こんな当たり前のことが、実はできていなかったのではないか、と。教育を通じて、だんだんとそれがはっきりわかっていったのです。
実際、特別なことが書かれているわけではない、と思えるわけですが、よくよく読んでみると、果たしてこれらのことを自分自身がきちんとできているかどうか、考えさせられます。
自分の仕事に照らし合わせたとき、本当にこの通りに行動ができているかどうか。JALフィロソフィを実践するには、どんな仕事の仕方や考え方をすればいいか。
JALでは実際に、このJALフィロソフィの項目をどう体現したか、共有する場も作られています。日々の仕事に、JALフィロソフィをどうおとし込んでいくか。どうすれば、自分の仕事でJALフィロソフィを体現できるか。そこまで意識が向くようになって初めて、JALフィロソフィは浸透した、と言えるのです。
そしてJALでは、役職が上になるほど、JALフィロソフィ教育をたくさん受けることになります。空港本部長の阿部さんは語ります。
「管理職 3500人は、年1~2回、2時間半のリーダー教育を受けます。部長級社員や役員は、毎月3時間のリーダー勉強会も受けています」
部下に「JALフィロソフィを実践しなさい」と言っているのに、上司が実践できていないのでは、JALフィロソフィは浸透しません。むしろ、役職が上になるほど、率先垂範する必要がある。そんなカルチャーになっているのです。(30〜31頁)
・ それこそ、要望を聞かれて、「あ、それはできません」と答えているだけでは、サービスにはなりません。たとえ95%ノーだと思っても、5%の可能性があるのであれば、「いったん、お調べします」と言えたとしたらどうなるのか。
あるいは、要望をそのまま叶えることは無理でも、それに近いものを探し出すことができたらどうなるのか。
これこそが、「お客さまに寄り添う」こと。たとえ、結果がノーだったとしても、「いったん、お調べします」とギリギリまで粘って考えてくれたサービスと、「それはできないので」と簡単にノーを伝えられるのとでは、受け取る印象は全く変わってくるのです。(51頁)
・ 笑顔でいることがいかに大事か。教官が語っていたのは、「顔の表情を笑顔にすることで、声も笑顔に乗って出てくる」ということ。これを、「笑声(えごえ)」と呼びます。
逆に、暗い表情でしゃべっていると、声まで暗いトーンになってしまう。イライラしていたり、怒っていたりすると、実は声もそうなってしまいます。表情と声は連動している。ダブルで印象を作ってしまうということです。
だからこそ、笑顔でいることが大切。普段から笑顔でいる意識を持っておくことで、声のトーンまで明るくなっていくのです。(66頁)
・ ちなみに間違ってもやってはいけないのは、一本の指で指し示してしまうことです。最近では、タッチパネルを触ることも増えていますが、ここでも指一本だけで操作するのは、美しくない。
タッチパネルの場合は、手の甲を上に向けることになりますが、すべての指を揃えて、中指だけでタッチする。普段からこれが意識できるよう、スマートフォンのタッチパネルにどう触れるか、というところから指導する教官もいます。美しく見えるスマートフォンの使い方、意識してみる価値があります。(71頁)
・ 人は基本的に話したい生き物です。その意味で、自然に自分も言葉が出せるようなコミュニケーション、会話ができるようなコミュニケーションは、とても好印象になると思います。
では、グランドスタッフが何をしているのかというと、相手から言葉が返ってこないような発信はできるだけしないのです。
例えば、「いらっしゃいませ」から始めない。「いらっしゃいませ」と言われても、こちらから返す言葉はありません。
これがもし「おはようございます」なら、どうでしょうか。こちらも、「おはようございます」と返していくでしょう。一方的に確認をするというより、引き出すようなコミュニケーションを目指すのです。
もちろん、「イエス・ノー」を確認するコミュニケーションもありますが、とりわけ入り口は「イエス・ノー」で終わらないようにする。キャッチボールができるような会話の入り方をするのです。(84〜85頁)
巻末の「文庫版あとがき」は、次のことばで締めくくられています。
2018年1月に刊行され、好評をいただいた本書ですが、それから3年を経ずして世界は想像もしていなかった事態に見舞われることになりました。新型コロナウイルスの世界的流行です。
国内はもちろん世界中の経済が大きなダメージを受けました。中でも大きな影響を被ったのが、航空業界でした。人の移動が滞り、便数はギリギリまで減ることになりました。飛行機を使う機会がまったくなくなってしまった、という人も少なくないかもしれません。私もその一人です。
こうなると、空港で働くグランドスタッフの皆さんの心地良い接客やサービスを体感することができません。
しかし、たくさんのグランドスタッフに取材することで、その心髄を残すことができた本書があります。ぜひ、グランドスタッフのホスピタリティを思い出していただけたらと思います
そして早くコロナ禍が去り、かつてのような日常が戻って、世界の、日本の空港で大勢のグランドスタッフの皆さんの爽やかな笑顔に、素敵なサービスに再び会える日を心待ちにしています。(222頁)
本書を読み終えて、あらためてJALのグランドスタッフの皆様の対応を自分の目で確認してみたくなりました。
あれだけ世界中を駆け巡ってきた私も、一昨年の師走に中国へ行って以来、もう一年半も飛行機に乗っていません。今は関西国際空港へ40分で行けるところに職場があるのにもかかわらず、です。次はいつ乗れるのでしょうか。空港へ、飛行機に乗るために足を向けるのはいつになるのか、楽しみになってきました。
2021年06月10日
読書雑記(314)高田崇史『オロチの郷、奥出雲 古事記異聞』
読み進む内に、奥出雲の神社を巡る観光旅行に連れて行かれた気分になります。もっと独創的な描写と物語展開を期待していたので、大いにガッカリ。
四柱推命学や九星気学が、統計学と共に出てきます。
大学院生が『出雲国風土記』を片手に歴史ミステリーの旅をするのに付き合わされます。
終始、話題が中途半端です。物語の展開に集中できません。
星に関する蘊蓄が示されたくだりは、もっと語ってほしいと思いました。調べたことの出し惜しみのように感じます。後で、個人的に調べてみます。
夜空に一際大きく輝く『つつ』である金星は、最大の『悪神』素戔嗚尊と考えられ、朝廷の人々を震え上がらせました。それがやがて『星』という呼称だけでも、不吉な物と認識されるようになりました。その名残が、現代までも続いていますね。たとえば、隠語で『ホシ』は『犯人』であるとか『前科者』『犯罪者』。それが転じて『警察官』。また、相撲や江戸の吉原でも『星』という言葉が使われましたが、こちらに関してはまた別の長い話になりますので、今日は止めておきましょう」
水野は微笑んだ。
「それよりも『星』『筒』が、昔からとても忌まれていた証拠として、こんな言葉が残っています―」
水野の講義は続いた。(216頁)
本作は、最後は遊びの論理が展開する構成となりました。民俗学などの成果を援用しながら、都合のいい結論に導く論理が展開します。学者でありながら実証性に欠ける研究者が語る話に、再構築されていると思いました。
また、川上から箸が流れてくる説明では、賀茂や三輪の丹塗の矢伝説が消化不良のようです。明らかに調べた範囲では、という前提での物語の構成となっています。著者には、すでに三輪山を扱った『神の時空 ―三輪の山祇―』(2015年7月)があります。それとの接点がないように思えました。これも、残念なところです。
和泉式部と小野小町の話は、突然で中途半端です。氏族伝承における語り手の話に発展しません。丁寧に語ってほしいところです。残念です。
参考までに、当該箇所を引いておきます。
昨日見てきた和泉式部もそうだし、小野小町も日本全国に、いくつも墓が現存している。しかし、有名人だからといって誰もが勝手に墓を造ってしまったというわけはなく、実際に「和泉式部」や「小野小町」がそこに存在していたのだろう。歴史に現れなかった血縁者や、彼女たちと非常に近しい者たちという意味だ。その女性たちが「和泉式部」や「小野小町」と名乗ったとしても、何の不思議もない。それと同様に、素戔嗚尊や五十猛命も(もちろん、最初は一人だったとしても)いつしか個人の名称ではなく、その一族の神々をも含むようになったと考えて間違いない。いや、むしろその方が正しいのではないか――。
雅の話を聞いて、
「そりゃあ」と源太は納得したように言う。「歌舞伎役者なんかが、何代目誰それって名乗るのと一緒だな。八代目団十郎とか、六代目菊五郎なんてのは、よく聞くよ」
雅は頷く。そして、その昔、浦島太郎のように何百年も生きた人間がいたというのも、そんなことなのかも知れないと思った。(94頁)
あまりにも有名な話が例に引かれたために、場違いな譬えで終わってしまいました。もったいないネタの扱いです。
出雲を扱った作品は、まだシリーズとしてあります。著者の本を読むのは、本作で2作目です。最初は、「読書雑記(295)高田崇史『古事記異聞 −京の怨霊、元出雲−』」(2020年09月18日)でした。さて、3作目をどうするか。出雲に生を受けた者として、小学校4年生まで出雲で育った者として、読みたい気持ちと躊躇いがごちゃまぜになっています。【1】
初出誌:2018年10月に講談社ノベルスとして刊行
2021年06月09日
読書雑記(313)夏山かほる『源氏五十五帖』
夏山氏の第1作は、「読書雑記(291)夏山かほる『新・紫式部日記』」(2020年07月30日)で紹介しました。続くこの第2作は、平安文学の核心へと切り込んだ、ミステリー仕立ての作品です。
以下、やや批判的な視点で印象批評を記しています。さらにおもしろい物語を紡いでほしいとの思いからです。視点の新鮮さと平安時代の理解が深い作者のことなので、なおさら希望を記しました。ご寛恕のほどを願います。
■第一章
道長は、太皇太后宮彰子が女院号宣下を受けるのを機に、物語合わせのイベントを企画します。そして、その場に『源氏物語』の第55番目の巻を出して勝とうとします。その巻を探すことを、道長は菅原孝標の女の更科に命じました。さらには、その協力者に紫式部の娘の賢子が指名されたのです。誰も知らない写本探しの始まりです。
女性の言葉遣いに堅苦しさを感じました。作品全体が女性で展開しているので、現代の感覚で言うのはどうかとは思うものの、もっと柔らかい表現と語り口が良いように思いました。
■第二章
賢子が母の紫式部を思い出しながら語るくだりは、いかにも作り話という雰囲気なので違和感を持ちました。具体的な描写がなくて、思いを紡ぐだけのスタイルだからでしょうか。色彩がなくなったようなので、景色や装束などを点綴したら、イメージは違っていたことでしょう。そして、物語の展開も、メリハリを付けようとしてドタバタ劇にしたために、彩りがなくなりました。
また、国司が突然殺された場面での次の行文は、私にはその意味がわかりませんでした。
五十五帖を見つけるというよりは、この世から消すことが主目的なのではないかという気がした。そのために五十五帖のありかを吐かせようとして、国司は殺されたとしたら合点がいった。(105頁)
また、写本のありかも、納得のいく説明ができるようにすると、さらにおもしろくなったことでしょう。
■第三章
清少納言の登場で、物語は俄然おもしろくなります。そして、幻の冊子本一冊の姿がわかります。ここは、平安文学を学ばれた作者の筆だけに、もっとその知識を活かした描写を期待しました。装丁や書写されている文字の特徴なども、存分に語ってほしいところです。
さらには、『枕草子』を書く時に用いられた同じ紙が出て来ます。そこに何が書かれるのか。これから後は、物語を読む楽しさが味わえます。
■第四章
『源氏物語』の第五十五帖をめぐる話が凝縮された章です。作者渾身の一章なので、コメントは控えましょう。
■第五章
一品宮が重要な役を担います。ただし、話が速くなり、付いて行くのが大変です。もう少し言葉を尽くして語られたら、読者は安心したと思います。
■終章
物語の幕は静かに下ります。話の展開に戸惑いながらも、もう一度読み直すだろうな、と思いました。【3】
2021年05月06日
読書雑記(312)伊井春樹著『人がつなぐ源氏物語』
本書の冒頭、「はじめに−−『源氏物語』写本への招待」に、本書の位置付けが明記されています。
今後も長く信頼のおける「源氏物語」を読む上において、作品が生み出された時点から、時を経て今日まで伝えられてきた実態をたどり、今後の課題を提起してみたく思う。(8頁)
そして、第一章が始まるや否や、大島本の本文に問題点があることが提示されます。「持仏」なのか「仏」なのか、ということです。ただし、掲載されている図版写真や大島本のカラー写真を確認すると、この「志も仏」と書かれている「志」の右横には、「持イ△」という傍記があり、それが擦り消されています。本書では、このことの説明はありません。この傍記は何でしょうか。また、「尓しおもて尓」と「志も仏」の文字の間には朱点があります。この朱点も、その意味することをあらためて確認する必要がありそうです。この部分に関しては、この指摘を出発点としてさらに問題は拡大しそうです。大島本に書き写されている文字列に疑問を持ち、さらには補訂の手が多く入っていることを再検討すべきことの大切さがわかります。
本書で語られる文中には、歴史の背景や舞台裏などが配されています。また、文学史を彩る作品は、その内容を具体的に引いて解説が進みます。いわば、本書は教養の書ともなっています。面目躍如の伊井節となっています。わかりやすく語られているので、古典文学に興味がなかった方でも、その世界に身を置き、楽しんでページを繰ることができます。
一例をあげます。イメージを豊かに膨らませて、学問的な知見に裏付けられた伊井語りが展開しています。一般の方も、楽しく読み進められます。
中宮彰子に男御子の誕生という喜びに続く数多くの行事も一段落し、内裏へ還暦する日が近づき、女房たちは道長邸を離れる支度もしなければならない。何かとあわただしい中、中宮の強い意志のもとに、準備を進めていた『源氏物語』の書写作業が始まる。紫式部は朝早く中宮の前に控え、最終的な『源氏物語』本文の点検をしたのち、さまざまな色の料紙も整える。道長の意向のもとに能筆家たちも加えられ、書写者にはあらかじめ連絡がなされていたはずである。紫式部が一人ひとりに手紙を書き、そこには中宮の一筆も添えられ、原本の冊子と料紙が届けられる。藤原行成や公任も加えられていた可能性もある。(58頁)
(中略)
研子も『源氏物語』の話を知り、しかも姉のもとで書写されているのを目にするにつけ、何とか読みたいとの思いが強かったはずで、父道長に本の入手を懇願する。新しく書写された本文は中宮彰子のもとに届けられ、料紙に添えた紫式部の浄書本も同じく返却されてくるはずで、道長はそれを妍子に与えようと考えていたのではないか。ところが、紫式部自身も嘆いていたように、「よろしう書きかへたりしは、みなひきうしなひて」と、大半の原本は戻ってこないで、それぞれ書写した人が手もとに残してしまった。担当したのは、一巻か二巻なのだろうが、「これは興味深い物語だ」と、返却しないのだ。
道長は、紫式部が浄書前の揃い本を部屋に隠し置き、時に本文などを確認しているのを知っており、娘の願いをかなえようと、留守を狙ってすべてを盗み出し、妍子に与えたというなりゆきなのであろう。妍子にとっては読みたいと願う物語で、道長も世の中を知る上にもふさわしいと判断していた。この事実一つによっても、『源氏物語』は中宮彰子だけではなく、貴族世界の頂点にいる道長も公認していたと知られる。(74頁)
本書の特色は、『源氏物語』を取り巻く平安文学がわかりやすく引き込まれていることでしょう。視野が広いために、『源氏物語』の周辺が見えてきます。さらには、やはり物語の本文を読む、ということに対する独自の視点が際立っています。物語の本文が、異本や異文を引き合いに出して、複眼的に物語を見据えます。これまでは、論文を通して理解していたことが、本書では多視点で読み解かれているのです。私にとって、学ぶことの多いものの見方でした。
今は伝わらない「巣守」巻や「さくら人」巻については、次のように語られています。
紫式部は内容を全面的に改稿し、ヒロインを浮舟に改め、大筋ではもとの作品を踏襲し、歌なども再利用することがあったようだ。巣守三位の登場する「巣守」巻から、新しく「手習」巻に書き改めて取り換えたものの、世の中では新旧の判別もなく、浮舟の物語も併せて読まれ、結果的に二つの巻が流布してしまった。こうでも想像しないと、「風葉集』に巣守三位と浮舟が同時に登場するのは考えられない。(108頁)
(中略)
わずかな本文の残滓から巻の内容を拡大して解釈するのは危険ではあるが、「さくら人」巻には明らかに「夕顔の御手」の本文があり、玉鬘と何らかの関係をもっていたのは確かであろう。現在の「真木柱」巻と内容は重なりながら、源氏が玉鬘を六条院に引き取った後、昔の面影を思んで消息文を取り出したとも考えられる。『源氏釈』には「さくら人」との巻名に続けて、伊行自身が加えたのであろう、細字で、
この巻はある本もあり。なくてもありぬべし。蛍が次にあるべし。
と、『源氏物語』の伝本によっては、「さくら人」巻をもたない本文も存在しており、あってもなくてもよいとし、内容からすれば「蛍」巻の後に続くべきだとする。
定家や河内家が、数多く世に伝わる『源氏物語』の本文を校訂し、それらが人びとから認められて五四巻に定着する以前は、「巣守」巻とか「さくら人」巻も加えられた、流動的な時代が続いていた。今日では失われたそれらの巻々は紫式部の作なのか、後人が別案として創作したのか、知るすべはないが、平安時代末期には明らかに流布して読まれ、系図として示され、また注釈までなされていた。
詳細は省くが、のちの五四巻とは異なる「さくら人」巻が添えられていたというだけではなく、『源氏釈』に引用された『源氏物語』の本文も、各巻において定家や「河内本」との違いが目立つ。鎌倉時代になって、二つの有力な本文が出現したため、それ以前に読まれていた本文は、徐々に淘汰され、やがて消失してしまう。伊行の所持本は整理される以前の、平安時代の人びとに読まれていた本文の一部の痕跡でもあった。(112頁)
(中略)
伊行の娘の右京大夫が家に伝えられた『源氏物語』を読んでいたとすれば、それには「さくら人」巻が付され、『無名草子』が用いた本文と重なり、源氏が紫上の文を漉いて写経した場面が語られていたのであろうか。(119頁)
次の文章は、定家が『源氏物語』の本文といかに対峙し格闘していたかがイメージできる説明となっています。
「初音」と「真木柱」巻の例を検討しただけで、そこには定家が本文の校訂に情熱を注いだ姿勢の一端をうかがい知ることができる。「河内本」が多数の本文を取捨選択して出現した混成本であるのに対し、定家本は古い本文に手を加えることなく書写しているため、より平安時代に近い『源氏物語』の姿をとどめていると評価されてきた。しかし実態はそうではなく、文字を削り、補入し、訂正するなどさまざまな方法を用いて新しい本文の作成に向かっていた。批判された巻末の注記は切り離して別冊にし、残された本文はその後も校訂の手を緩めなかった。本文の訂正を長年継続し、「証本」として書写したのが嘉禄元年本ではなかったかと思う。自筆「奥入』に残されたのは、定家の校訂作業の過程を示す本文なのであろう。それと注目されるのは、定家が訂正する以前の所持本は、「別本」や「河内本」と重なる性格をもっていたことである。(161頁)
(中略)
定家は宣陽門院を転写し、家の本にしたとしているので、後鳥羽院は一連の経緯を知った上で物語の和歌抄出を求めたのであろう。定家は、新たに手にした後白河院から伝わる素性のよい本文を重宝し、注記を書き入れ、本文の校訂も長年にわたって続けたはずである。定家の「証本」の源流が、後白河院から伝わる伝本であったとするのも一つの仮説にすぎないが、定家は少なくとも宣陽門院本を書写して所持したのは確かである。それが切り出された『奥入』につながるとを想像したいところで、本文は「河内本」や「別本」と共通する性格をもっていた。定家は長い年月の間、他本とも校合を重ね、自分なりの『源氏物語』の姿を求めて校訂を続け、やがて「証本」に定着したと、私なりの本文の成立過程を示しておきたい。(168頁)
(中略)
定家は宣陽門院本を転写して架蔵本にしたと述べているように、この本文が定家本の基本となったのであろう。『古今集』や『伊勢物語』の作業で確認したように、定家は理想とする本文の校訂作業を持続していく。その具体的な姿を示す一つが、残存する自筆『奥入』の「六半本」である。一応の成果を得た定家は、嘉禄元年に五四帖の「証本」にすべく、四半本にした書写に踏み切ったものと思われる。
定家本がはじめから現在見る「青表紙本」の本文として存在していたわけではなく、「証本」の出現までには、「河内本」や「別本」と称する他の本文とも共有する性格ももっていた。「いかに多かる」の引歌一つにしても、よりふさわしい場面の表現を追求し続け、時には削除し、新しい典拠を求めて本文を変えるなどの判断を続けたのであった。(175頁)
(中略)
定家は必要がない表現と判断し、大幅に削ったことになる。物語に直接関係しない、説明とか挿話的な話になると「青表紙本」では削除していくというのが、定家の本文づくりの基本的な方針だったようである。(247頁)
(中略)
「青表紙本」を伝えた一人の肖柏だけではなく、ほかにも二人の本文の違いが指摘されるなど、定家は俊成本は受け継がなかった。俊成と光行とは本文の相談をしてきたとするように、むしろ俊成本は「河内本」に近い内容だったのであろう。河内家が諸本の校訂に用いた伝本の注記に、「五条三品俊成卿、京極黄門定家卿」とし、それぞれ独自の存在として扱っているのも一つの証跡といえる。
定家本が父の俊成本と異なり、「河内本」とも違いがあるというのは、独自に校訂した結果というほかはない。定家が平安時代の由緒正しい本文に手を加えることなく写し、そのまま今日に残されているのであれば、たとえ転写を重ねていても、古い姿を留める貴重な存在といえる。「青表紙本」が現代でも高い評価を得ているのは、古写本の一本を継承しているとの認識を前提にしており、定家が河内家と同じく諸本を参照し、みずからの和歌的な情趣という美的な判断のもとで本文を校訂していたとすれば、論の前提は崩れてしまう。中世において、「青表紙本」の優位性が認められたのは、諸本を公正に比較検討した上ではなく、定家という歌学における権威者を尊崇し、了俊などの指摘する和歌的な表現の情趣深さに引かれての結果であった。(259〜260頁)
(中略)
「河内本」と「青表紙本」の本文を並べると、多くは同じ文章が続き、ささいなことばの異なり、語順の違いが目につく程度である。例文によって知られるように、「青表紙本」は「河内本」に比べて文章量が少ない傾向にあり、詳細な叙述がなされていても、内容の展開にかかわらない場面になると定家本では簡略化する傾向があり、それだけ緊密な文体の表現になったともいえる。
定家が採用した本文には存在しなかったのか、むしろ意図して説明的な文辞は省き、情趣深い文体にしたのか、判断はつきかねる。ただ定家が自分の描く理想の物語にするため、文章を改作したとまでは考えられず、多くの諸伝本から本文を選択して校訂した結果が、「河内本」や「別本」との違いになったと考えたい。もし定家が手を加えたとしても、平安時代の紫式部の文体を再現するための、最小限度の訂正であったろう。「河内本」はときには「別本」と共通した性格をもち、鎌倉時代に同種の本文が存在したと知ると、逆に「青表紙本」が孤立してくる。表現を重んじた「青表紙本」はいわば玄人好みの文体といってもよく、講釈する者は知識を披歴し、自分なりの物語の場面を語る余裕が生まれる。定家の情趣に富んだ表現は歌論書として重んじられ、定家崇拝の時代の流れにより、「青表紙本」は『源氏物語』の標準テキストとして世の中を席捲していった。(276〜277頁)
定家をめぐる〈いわゆる青表紙本〉に関する話は、謎解きの妙味も加わり、写本の行方を一緒に追ってしまいます。〈いわゆる青表紙本〉が流転していく様を体感することができました。
〈源氏読み〉のくだりでは、脳が活性化されました。その文章を引きます。
雅有は、阿仏尼の〈読み〉を「世の常の人の読むには似ず」としているので、『源氏物語』の本文をたんに朗読するのではなく、物語の世界の内容にふさわしい抑揚をつけての語りがなされていたのだろう。「源氏読み比丘尼」と記されるに至ったのは、読みが〈芸〉として知られ、康富邸だけではなく、各所にも招かれて語っていたのではないかと思う。南北朝のころから流行した、琵琶を弾き、『平家物語』を語る琵琶法師の「平曲」の存在が知られるが、〈源氏読み〉は楽器を用いて、曲節をつけてまでの芸能には成長しなかった。
祐倫には、宝徳元年(一四四九)に『山頂湖面抄』、享徳二年(一四五三)には『光源氏一部歌』という著作が残される。前者は「源氏物語巻名歌」の注釈、後者は『源氏物語』のダイジェストに語釈を付し、「口伝」とする秘説の解釈も加える。『河海抄』とか『花鳥余情』といった堂上の注釈内容ではなく、地下層に伝えられた俗説も含まれるなど、『源氏物語』の広がりが知られ、それを公卿が聞くという、これまでとは異なる享受の逆転の現象といえる。
『源氏物語』は、個人で読む場合は一人で物語の世界に浸ればよく、「黙読」であろうがつぶやくような「音読」であってもかまわない。だが他者に読み聞かせるとなると、「音読」による朗読という行為が伴い、阿仏尼などは御子左家の伝統ある読みがなされ、素性が明らかではない祐倫になると、さまざまな俗説を吸収し、独特の〈芸能〉としての〈源氏読み〉を生み出していたのかもしれない。(210頁)
こに長文を厭わず引いたのは、私の大学の卒業論文の題名が『源氏物語と唱導文芸の交渉』という、民俗学の視点から書いたものだったからです。今それは読む価値のない、恥ずかしいものです。しかし、明石入道を中心とした物語りの法師を取り上げ、『源氏物語』が元々は音読で語り伝えられた唱導文芸だったことを、幼い論文として書いたのです。以来、私は『源氏物語』の作者を個人としての紫式部とせず、最終編集責任者が紫式部だとする考えを確立しました。この視点は、折口信夫の考えを展開しようとしたものです。そのことを、上記の〈源氏読み〉の説明から思い出し、しばし自分の想念の世界に浸りました。またまた、本書が手放せなくなりました。
源氏読みの「源氏播磨西円」のことも話題となります(233頁)。「松風」巻で、本文は「荻の枝」なのか「小木の枝」なのか、という問題です。この西円については、私が博士前期課程の時に指導教授に出した論文が思い起こされます。研究のレベルが低いとのことで、指導教授からは再考を促されたまま、まとまらなかったテーマです。それが、ここで興味深い切り口で語られているのです。慧眼とは、まさにこのことなのでしょう。
さらに、『源氏物語』で読まれる本文が、河内本から〈いわゆる青表紙本〉へと時代を経るうちに移り変わっていくさまを、古注釈書などに記されている記事を丹念に検討しながら解き進められていきます。わかりやすく、『源氏物語』の本文の受容史が見えてきます。
本書は、講説における視野の広さと読解の深さを存分に発揮した内容であり、これまでに教わってきたことが、実は限られた一面であることを知ることになる本であると思います。
研究から離れつつあった自分に、また知ることと調べる楽しみを教えられることになりました。
すでに引いたように(259頁)、現在読まれている定家の校訂本文に関して、その評価に大いに疑問を提示しておられます。このことは、これからの若手研究者によってさらに検証を重ね、その妥当性を広く認識すべき『源氏物語』の受容環境を形成することだと思います。
具体的には、陽明文庫本の例が好例です。この問題が指摘されている箇所を引きます。
「別本」は残された数は少なく、相互に関係性はないが、河内家や定家の影響を受けない古い姿を残している可能性があり、そこに見いだされる特異な本文は注目される。具体的には平安時代末期成立の『源氏釈』に引用された本文が、「別本」の陽明文庫本と近似する例など、「河内本」や定家本とは異なる物語の世界も見られる。
『国宝源氏物語絵巻」の「詞書」も定家本とは距離をもっている。これらによっても、現代の読者は平安時代の『源氏物語』を読んでいるわけではないことがあらためてわかる。「古系図」もそうだったが、河内家や定家の校訂本の出現は、それ以前の混乱した本文を否定し、鎌倉時代の物語として再編、変質した姿ともいえる。
本文の大きな流れからすると、「河内本」はときに「別本」と共通するなど古体をとどめ、定家本と距離をもつのは、新しい作品に再生しようとの定家の意識が根底にあったからかもしれない。紫式部の手から離れた『源氏物語』は一本ではなく、複数の本文にすでに違いが生じていたのであろうし、人びとに書写されるに従い異文が派生するのは仕方のないことである。それだけ興味深い作品として、読者は享受し楽しんでいたはずだが、二〇〇年ばかりのちの鎌倉時代になって、伝本によって異なる本文を一本化しようとしたのが、河内家や定家の校訂本であった。残念なこととはいえ、現代の私たちは平安時代の『源氏物語』ではなく、鎌倉時代に定家の方針のもとに整理し直された本文で読んでいることになる。よしんば平安時代の伝本が残っていたとしても、異なる表現の多さに振り回され、作品の解釈には困難が伴い、人気のある作品として読まれていたのかおぼつかなくなる。定家の校訂によって、紫式部の意図を汲んだスタイルの『源氏物語』が復活したのだとも考えたい。結果として紫式部の原典に近づいたのか、むしろ表現がそぎ落とされ、和歌的な要素の横溢した鎌倉の作品になってしまったのか、それ以上は想像するしかない。(269〜271頁)
(中略)
「河内本」では読者の理解を深めようとことばを補った結果、独自の本文となったのかと疑いたくもなる。ところが、別本の「陽明文庫本」においても「あやしき山がつ、たびしまで見たてまつらんことを、あらそひはべるなれ」とするなど、以下「河内本」と共通する本文が続く。河内家で勝手に説明を加えたのではなく、校訂に採用した本文が、現存する別本と同種の祖本に依拠していたにすぎなく、かえって古い姿を留めている可能性もある。
「青表紙本」の叙述は簡潔だといっても、「河内本」のように「地方からも聞き伝え、わざわざ妻子まで引き連れて上洛する人が多いと聞いている」とか、「今日は気分がよさそうだから、お出かけなさい」と大宮がことさら適して車や従者の手配を命じたと書かれなくても、各地から階層の隔てなく人びとが都に上っているとか、牛車で出かけるには前駆が必要なことは説明するまでもない。
了俊が指摘していた、「源氏、見なれざる人のためには、河内本大切のこと」とする、初心者には「河内本」がふさわしい本文だとする認識と重なり、定家本が「ことばも世の常よりも枝葉を抜きたる本」(『幻中類林』)とする言及と通底してくる。定家は、葵祭の見物に出かけるまでの経緯を、こまごまと説明する必要はなく、葵上と六条御息所との「車の所争い」による緊迫した場面に早く移行する方が効果的と判断したとも考えられる。了俊のいう「詞は青表紙本なほおもしろく」とは、『源氏物語』に習熟した者にとってはリズムのある文体として評価するとの意になる。(273頁)
とすると、「大島本」とはいったいどんな本だったのか。論点は次第に絞られていきます。そして、「大島本」の素性が赤裸々に語られます。
ここでも「大島本」は傍線部をもたなく、朱筆で他の「青表紙本」を参照したのか細字で補われる。「大島本」の独自異文というのではなく、これらの一文がなければ物語が成り立たなく、不明な内容になってしまう。明らかな誤脫としかいいようがない。しかも各所で脱文を見いだすため、「大島本」の書写方法は意味内容など考えることなく、丁寧さにも欠けた態度であった。
大内政弘が「青表紙本」の複本を作るため、飛鳥井雅康に書写を依頼したとなると、できあがった書写本は脫文の多い、いわば手抜きの本文だったことになる。歌人であり、能書家としても知られた雅康の書写が、これほどまでに粗略であったとはとても考えられない。
江戸時代以降になり、代々の所蔵者たちは、世間に流布するさまざまな「青表紙本」と違いが多いのに気づき、訂正の手を加えていったとしか考えようがない。一○○年、二〇〇年と流伝する間に、複数の人によって校合がなされていく。結果として「大島本」は、削られた痕跡、胡粉の塗抹、行間から余白には多数の書き込みがなされるなど、美麗な写本とはほど遠くなってしまった。(318頁)
(中略)
「大島本」には江戸時代を通じて多数の訂正が複数の手によってなされ、現代ではその最終的に修正された本文を純正な「青表紙本」のテキストとして使用する。古典文学では採用した写本の本文を忠実に再現するのが原則だが、「大島本」を用いる『源氏物語』に限っては、書写された当初の底本だけではなく、後になって訂正、書き入れられた本文を重視する方針で一貫する。(321頁)
(中略)
書写当初の「大島本」は「青表紙本」の性格をもつのは確かだが、「河内本」「別本」特有の語句ももつため、混態本だったと評すべきであろう。所持者は江戸時代に流布する本文にしようと、校訂を重ねたものの、誤って「河内本」も採用するなど、結果的に「青表紙本」諸本の中でも孤立した本文になってしまった。(326頁)
(中略)
つぎつぎと書き込みの訂正がなされたことで、「より青表紙本の特色をもつことになった」と述べる藤本孝一説は、実態とはかけ離れているというほかはない。文明一三年に大内政弘の求めによって雅康が書写したのが「青表紙本」だったのであれば、複雑な後人の訂正など必要がなかったはずである。雅康筆本が流転して「大島本」になったと池田亀鑑は論じるが、多くの人びとによって脫文を補い、語句の訂正がなされるなど、すっかり性質を異にしてしまった。冊子本そのものは室町時代末から生き残ったにしても、本文はもとの姿を大きく変えてしまっている。雅康本は「青表紙本」であったと高く評価しながら、江戸時代に変化した最終版の本文も「青表紙本」であると認定する池田亀鑑の判断は、きわめて矛盾しているというほかはない。定家本を忠実に書写した雅康本であったのであれば、その後多様な形態によって手を入れる必要などなかったはずである。(327頁)
終盤は、〈いわゆる青表紙本〉の伝来過程が中心となり、その消息が興味深く語られます。謎解きに参加している気分になります。
最終章の「第一〇章 「大島本」の本文の意義」は、現在活字の校訂本文で『源氏物語』を読む人には必読の章となっています。「大島本」の〈いわゆる青表紙本〉における位置づけを、池田亀鑑の評価を踏まえて再検討する章だからです。
池田亀鑑の説明は不明瞭で、あらためて確認しておくが、将軍義政の「青表紙本」が大内家に入ったのは、山名氏を経由して大内良隆の婚姻においてであり、祖父大内政弘没後のことであった。将軍義政本が大内家に伝わったのを政弘時代とし、複本を作成するため飛鳥井雅康に書写の依頼をしたと考えたのであろうか。もともと乗阿說事態が不正確だが、池田亀鑑は書かれてもいない記述をつくり出し、さらに時代の前後を無視した、都合のよい說にしてしまった感じがする。(307頁)
(中略)
このように雅康の書写本は大内氏から流転を重ね、佐渡で発見され「大島本」と称されるようになった。数百年もの間、人びとによって訂正され続け、正統な「青表紙本」へ成長したというのでは、論理的に矛盾するとしかいいようがない。雅康が書写したのは、大内政弘所持の「青表紙本」だったはずである。江戸時代を通じて、人びとはどのような本文を用いて訂正の手を加えていったのであろうか。雅康が書写したのが「青表紙本」だったのであれば、それ以上のすぐれた本文はなく、訂正する必要はなかったはずである。
新出の定家本「若紫」巻が「青表紙本」の一部だったのか、別の定家本だったのか明らかではない。『奥入』(「六半本」)に残存する本文と定家本とが共通していない事実からも、定家は書写するたびに本文の校訂をしていたことは明らかである。些細な違いはここでは取り上げないが、「大島本」と定家本「若紫」とを比べると、両本にはさまざまな違いが存すると知られる。(315頁)
このような「大島本」をこれからも読むのかと問われれば、多くの人がしばし思考停止に陥ることでしょう。私も、このことを数十年にわたりテーマとし、論じてきました。本書でのインパクトも、非常に大きいと言えます。『源氏物語』を「大島本」で読んでいる方々には、ぜひとも本書を一読していただきたいと思う理由でもあります。
この章の最後では、一昨年発見された定家自筆の「若紫」と「大島本」の本文を読み比べ、「大島本」の粗雑さを丹念にしていきていきます。
一部を示したにすぎないが、他の用例も併せての判断によると、新出の定家本は三条西家グループと接近し、「大島本」とは距離を置く傾向にある。「大島本」は、江戸時代に複数の人物によってつぎつぎと校訂していったという要素も考慮する必要がある。「青表紙本」と思って校訂したところ、「河内本」や「別本」を用いてしまった例もあるなど、「大島本」は青表紙グループに属しながら、その中でも孤立した存在になってしまった。(333頁)
(中略)
「大島本」の「初音」巻が「河内本」として排除され、江戸時代には人びとの訂正の手が加えられ、室町時代末書写の本来の姿も変貌した実態からは、もはや純正な「青表紙本」と認定することはできないはずである。
「大島本」の評価は繰り返す必要もないが、伝来そのものにもはや信頼が置けず、「青表紙本」とされる中にどうして「河内本」の「初音」巻が挿入されているのか、有効な解決案もないまま不問に付されてしまった。
このように言及してくると、平安時代の『源氏物語』と信じて読んでいた現代の読者は、鎌倉時代に校訂された本文を読んでいたと知り、しかも定家本ではなかったことに落胆しかねない。平安から鎌倉の新しい時代の訪れにより、河内家も定家においても本文の姿を大きく変えたことは確かである。しかしいずれも勝手に改作したのではなく、伝来した本文の枠から外れることのない校訂であり、読みやすさを求めて說明的な本文としたのか、簡潔で情趣的な本文を選んだかの違いであろう。
歴史的にも「青表紙本」への傾倒は当初から変わらないとはいえ、池田亀鑑は平安時代の古写本に手を加えることなく継承したのが定家本であり、それを復元できるのが「大島本」であると高く評価し、「河内本」は鎌倉時代の混態本であるとして退け、戦後の本文の流れを決定づけて今日に至っている。ところが自筆『奥入』の残存本文と、残された定家本五巻によって、本文の違いだけではなく、定家は絶えず校訂を継続し本文の姿を変えていた実態が知られるようになった。しかも乗阿が大内氏のもとで定家本を見たとの記述を読み誤り、それが転々として佐渡で発見され、「大島本」になったと論じていく。そこから遡及して大内政弘が雅康に書写させたのはし「青表紙本」であったとするが、すでに論理的に破綻しているのはもはや繰り返すまい。
雅康本は「青表紙本」だったとしながら、江戸時代を通じて複数の人物による複雑な加筆訂正により、定家本に近づいたとする。この論理だと、もとの本文は「青表紙本」ではなかったことになる。ここまでくると、「大島本」を用いての『源氏物語』のテキストづくりは、振り出しに戻って根本的に見直す必要がある。
今のところは、定家本が全巻発見でもされない限り、いずれかの系統の転写本で読むしかない。個人的には三条西家本の再評価と、併せて「河内本」も読むべきだと考える。現代ではあまりにも「大島本」に集中し、すっかり読み慣れてしまっているが、いずれの機会に変更すべきだと思う。(337〜340頁)
引用文末にある「三条西家本の再評価」ということがどのような理由によるものであり、どのような意味をもっていくか、今の私にはよくわかりません。全巻が揃っているから、ということなのでしょうか。
もし、本書の続編が書かれるのであれば、この定家自筆「若紫」と「大島本」を、詳細に読み解いていただきたいと思います。まさに、伊井語りの本領発揮となることでしょう。そして、新しい『源氏物語』の読み方の提唱となるに違いありません。楽しみにしたいと思います。
