2019年08月19日

読書雑記(266)高田郁『あきない世傳 金と銀 七 碧流篇』

 『あきない世傳 金と銀 七 碧流篇』(高田郁、時代小説文庫、角川春樹事務所、2019年8月18日刊行)を読みました。初春と初秋の年2冊の刊行が守られています。

190819_akinai7.jpg

 開巻早々、大坂と江戸での帯の巻き方の違いが語られています。

 湯屋で知ったことのひとつに、帯の巻き方が大坂と江戸では異なる、というのがあった。
 大坂では、帯の巻き始めを左に置いて、左から右へ向かって身体に巻きつける。だが、江戸では帯の端を右に置き、右から左へと向かって巻いていくのだ。
 何故、巻き方が大坂と江戸で逆になるのか、江戸には士分が多く暮らすことと関係があるのか、と考えてみたりもするのだが、今以て理由は定かではなかった。
「私たちは大坂の巻き方で慣れてしまっているけれど、もしかすると、利き手が右なら江戸の結び方の方が、力が入れ易いかも知れないわね」(12頁)


なかなかおもしろい指摘です。ただし、本巻ではこれに対する解答は見当たりませんでした。

「買うての幸い、売っての幸せ」をモットーに、大坂から江戸に進出して商いを展開しようとする幸は、相変わらず明るい明日を見据えて創意工夫を考え続けます。
 舞台は江戸時代だとはいえ、和装のファッションを取り上げ、女性の気持ちを汲み取りながらこの物語は展開します。これは、『みをつくし料理帖』シリーズで料理人の澪に続いて、新しい女性が活躍する場を生み出したと言えるでしょう。
 幸は、「ありきたりではない、視点を変え、発想を変えての新たな知恵を」探し求めます。
 葉月十五夜が、幸たち五十鈴屋にとってさまざまな思い出の日となっていることが強調されています。物語の中で、満月を幸運に向かうものとして取り上げているのです。月光の描写にこだわる私にとって、これは特筆すべきことです。「来年もきっと、笑ってお月見をしましょう。」(163頁)という幸の言葉は、この物語を引っ張っていく力が委ねられていくように思えます。作者が意識しているかどうかはわかりませんが。
 また、江戸と大坂の文化の違いは、もっと知りたいと思わせます。ただし、それはいかにも調べたという雰囲気が伝わるとマイナスです。その頃合いが、作者にとっても難しいところでしょう。
 第九章からの終盤は、伊勢型紙の型彫師、型付師をはじめとして、江戸紫の小紋が出来上がる感動的な物語として大いに楽しめました。しかも、歌舞伎役者を押したてての閉じ目は、それまでが地味な商売中心の話だっただけに、艶やかで華やかな香りが添えられています。構成と展開の妙味を感じ取れました。惜しむらくは、中盤までの話がもっと躍動的であったら、さらに完成度の高いものになったことでしょう。【4】

 以下に、これまでの『あきない世傳 金と銀』に関する本ブログでの記事を、参考までに一覧にしておきます。

「読書雑記(254)高田郁『あきない世傳 金と銀 六 本流篇』」(2019年02月26日)

「読書雑記(224)高田郁『あきない世傳 金と銀 五 転流篇』」(2018年03月22日)

「読書雑記(205)高田郁『あきない世傳 金と銀(四) 貫流篇』」(2017年08月23日)

「読書雑記(196)高田郁『あきない世伝 金と銀 三 奔流篇』」(2017年03月13日)

「読書雑記(179)高田郁『あきない世傳 金と銀 二 早瀬篇』」(2016年09月03日)

「読書雑記(159)高田郁『あきない正傳 金と銀 源流篇』」(2016年03月11日)

 
 
 
posted by genjiito at 20:23| Comment(0) | ■読書雑記

2019年08月15日

読書雑記(265)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール 2』

 『ヤンキー君と白杖ガール 2』(うおやま、小学館、2019.6)を読みました。

190804_hakyjyou2.jpg

 第1巻を読んだ後、「紹介すべき言葉に窮しています。何と言っていいのか、困っています。」と書きました。そして、この第2巻、…………まだ、ウーンです。
 点字ブロックについて、その大切さが強調されています。しかし、私の知り合いで目が見えない方の多くは、あんなに膨大な枚数を敷き詰めなくてもいい、とおっしゃいます。交差点や曲がり角などのポイントだけでも大丈夫だと。いろいろな意見があるかと思います。点字ブロックの是非に関しては、この漫画の中には言及がありません。また、音によるサポートについても、描かれていません。
 トイレの中で水を流すボタンの話は、これまでに思っても見なかった問題点の指摘でした。立場が変わると、確かに大きな問題なのです。レバー、ボタン、タッチパネル、センサーなどと、水洗トイレの仕掛けが実に多彩になりました。これは、トイレのハードウェアとしての装備をうまく整理して統一しないと、目が見えない方たちは一人でトイレに行けないことになります。行き先ごとに水を流す方法が違うのは、混乱の元です。これは、海外からの観光客の方々にも関係します。
 同性愛の問題が、少数派と多数派の関係で説明されています。今後、この問題がどのように扱われていくのか、注目していきたいと思います。
 第2巻を読み終わり、まだ主人公の乱暴な言葉遣いに馴染めません。作品中の日本語は、私の感覚で言うと、相当乱れています。若者たちはこんな感じだ、と言われると反論したくなります。日常生活での行動や態度も、投げやりで粗忽に見えます。これも、私が旧世代だからということで片付けてほしくないものです。漫画の読み方、というよりも、社会の中での行動と言葉によるコミュニケーションを、どのように描写するか、という問題なのでしょう。
 弱視の少女の恋愛話がこれからどう展開していくのか、大いに気になるので、引き続き読んでいこうと思います。
 まだ、作者の意図するところが見えません。とりあえずは、次巻を待つことにします。【2】
 
 
 
posted by genjiito at 20:00| Comment(0) | ■読書雑記

2019年08月05日

読書雑記(264)岸博実『視覚障害教育の源流をたどる』

 『視覚障害教育の源流をたどる 京都盲啞院モノがたり』(岸博実、明石書店、2019年7月31日)を読みました。

190805_kishi.jpg

 「版元ドットコム」から、本書の紹介文を引きます。

2018年、明治時代初期に開校した国内初の公立特別支援学校「京都盲啞(もうあ)院」の関係資料約3000点が、国の重要文化財に指定された。資料には、近代日本の障害者教育で先駆的な役割を果たした教材や文書の数々が含まれる。これら貴重な資料の調査研究に長年取り組んできた著者が、その解説を通じて特別支援教育の源流や社会参加の原点を探る。


 この資料群が重要文化財になったことは、次のように記される通り意義深いものです。

 その内訳は、文書・記録類一一五三点、教材・教具類一九三点、典籍・教科書類一二五三点、凸字・点字資料二二一点、生徒作品八四点、書跡・器物類六四点、写真・映画フィルム三二点である。
 近現代の教育分野としては、東京大学、東京書籍株式会社附設教科書図書館に次ぐ三件目、大学以外の公立学校としては初めての重要文化財指定である。これは、盲学校史だけでなく、近代日本の教育史を巡っても画期的なできごとと思える。(5〜6頁)


 「京都盲啞院」の資料を見ていく前に、盲教育の初発段階からの事跡が確認されています。少し長くなることを厭わず、大事な部分なので以下に引いておきます。

 「世界で最初の盲教育機関」はどこであったか。これについては、一七八四年にヴァランタン・アユイがパリに開いた訓盲院が嚆矢だとするのが通説である。しかし、実際には、一六九三年に盲人・杉山和一検校が江戸で始めた「杉山流鍼治導引稽古所」(後の鍼治講習所)を無視すべきではなかろう。つまり、杉山和一の始めた施設が、世界でも、日本でも、最初の盲教育機関として誕生したのだ。「日本で最初の盲啞院」というくくり方も、正確には「盲教育とろう教育を併設した学校としては日本で最初のもの」という意味になる。あるいは、京都盲啞院の盲教育機能は「近代日本で最初の盲学校」と位置づけられ、同院のろう教育は「日本で最初のろう学校」にあたると言えよう。
 では、「近代日本で最初の盲学校」として京都盲啞院が挙げられるのはなぜか。
 明治維新の後、封建制の打破を図る政府は、一八七一(明治四)年に、中世以来の伝統を持つ盲人の職能団体である当道座を廃止した。これにより鍼治講習所も消失した。つまり、盲教育機関が廃絶したのである。同年、官僚であり、後に楽善会の中軸メンバーとなる山尾庸三が「盲啞学校ヲ創設セラレンコトヲ乞フノ書」として、盲学校ならびにろう学校の設立を建白したが、ただちには実を結ばなかった。山尾は長州ファイブの一人としてイギリスに渡り、造船所でろう者に出会ったことなどをきっかけに盲・ろう教育の必要を痛感したという。かたや当道座の人々による模索もあったが結実はしなかった。一八七五年、宣教師フォールズ、医師ボルシャルト、中村正直、岸田吟香ら、キリスト教関係者による楽善会が訓盲院の創立を目指し始めた。一方、一八七六年には、盲人・熊谷実弥が東京麹町に私学として盲人学校を開いたものの一年ほどの短命に終わったとされる。
 こうした推移がある中、京都において、一八七三−七五(明治六−八)年に古河太四郎(一八四五−一九〇七)が「上京第十九組小学校(後の待賢小学校)瘖啞教場」で啞生の教育に着手し、遅くとも一八七七年には盲生への指導も開始した。その成果を京都市全域に及ぼすべく構想を描き始めた。
 同じ頃、遠山憲美が京都府宛に「盲啞訓黌設立」を建議し、愼村知事も同意した。こうして、古河・遠山らと幅広い町衆および京都府が協力し合って産声を上げたのが「京都盲啞院」であった。一八七八(明治一一)年五月二四日である。その翌年には大阪府が大阪摸範(模範)盲啞学校を設置し、一八八〇年に楽善会訓盲院が授業を開始する。時間軸に沿ったこの経緯をもって、京都盲啞院の盲部門を「近代日本で最初の盲学校」とみなすのは妥当である。(16〜18頁)


 また、なぜ最初に京都で盲学校が誕生したのか、ということについては、次のようにその理由が語られます。5つの項目だけをあげます。

@京都は、盲人にとっていわばメッカであった。
A京都は、宗教都市でもあった。
B京都は、高度な商・工業や文化的資源に富む都市であった。
C明治期になって、京都には「首都でなくなる」ことへの危機意識があった。
D京都盲啞院を設立することになる古河太四郎は、寺子屋・白景堂を営む家に生まれた。(18〜21頁)


 以上のことを最初に確認しておいて、本書の全体を通覧しておきます。「版元ドットコム」より、本書の目次を引きます。

はじめに――重要文化財に指定された〈京都盲啞院関係資料〉

第1章 盲教育のはじまり――京都盲啞院と古河太四郎・鳥居嘉三郎の時代
 「日本最初盲啞院」とは?
 近代日本で最初の盲学校
 なぜ、京都で?
 古河太四郎の発起と教育観・障害観
 古河太四郎の学校づくりと教材開発
 第二代院長・鳥居嘉三郎の時代

第2章 京都盲啞院資料をよみとく
 1 文字を知る――点字以前
  盲生背書之図/木刻凹凸文字/知足院の七十二例法/紙製凸字/盲目児童凸文字習書/蠟盤文字/自書自感器/表裏同画記得文字/墨斗筆管
 2 読み書き
  凸字イソップ/凸字『療治之大概集』/盲生鉛筆自書の奥義/盲生の鉛筆習字/訓盲雑誌
 3 数を計る
  盲人用算木/盲人用算盤/手算法/さいころ算盤/マルチン氏計算器/テーラー式計算器
 4 世界に触れる――地理
  立体地球儀/凸形京町図/針跡地図ほか
 5 力と技を身につける――体育・音楽・職業訓練
  盲生遊戯図・体操図/オルガン/職業教育/按摩機
 6 点字の導入
  盲啞院への点字の導入/ステレオタイプメーカー/ルイ・ブライユ石膏像
 7 学校づくり
  盲生教場椅卓整列図/ろう教育史料/瞽盲社会史と検校杖/受恵函

第3章 盲啞院・盲学校が育んだ文化
 これからの視覚障害教育に活かせる文化として
 障害者の生きる社会を問う文化として

 参考文献/関連拙稿
 京都盲啞院関係資料重要文化財指定番号一覧
 あとがき
 初出一覧


 前置きが長くなりました。
 これまでに岸先生からは、多くのことを直接に、また公開されている文章を通して教えていただきました。何でも疑問に思ったことを聞く私に、先生は丁寧に説明してくださいます。幅広い知識と探究心をもって、これまで私にはよくわからなかった領域に、ポツリポツリと光を灯してくださっています。教えていただいても、すぐに忘れてしまう私は、極力ブログに書き残すことで確認できるようにしてきました。今からちょうど一年前には、「障害者と戦争」をテーマとする展示会場で、お話しを伺いながら展示物を見る機会がありました。「立命館大学の戦争展で視覚障害者の資料を見る」(2018年07月31日)に書いた通りです。
 そんな折、岸先生は京都府立盲学校に保存されていた貴重な資料が国の重要文化財に指定されたことを受けて、その全容を紹介する本書を公刊なさいました。その資料を直接整理なさったことが背景にあるだけに、新しい知見はもとより、教えていただきながら忘れていたことの意味に気づく、ありがたい一書となっています。
 写真や図版が多いので、初めて視覚障害に関する話に接した方にも、わかりやすい手引き書です。また、少し大きめの文字で、ゆったりと組まれた本文は、非常に読みやすいと思います。優しい目で、そして聴く者に負担がないように気遣いをしながら、しかも論理的に道筋をつけて行かれる語りの手法は、まさに名調子です。
 日本で点字戦争がなかったこと(32頁)、京都盲啞院をたどると龍馬に及ぶこと(49頁)などなど、広い視野からの話が満載です。
 仮名文字に興味を持っている私は、『裏表同画記得文字』の項目で紹介されている『古川氏盲啞教育法』に記されている仮名文字の図に注視しました。紹介されている写真(69頁)から、現在の平仮名の字母とは異なる、変体仮名に当たる文字及び「命」や「盲」の文字などを赤で囲ってみました。

190805_kanazu.jpg

 私はまだ平仮名文字の歴史的な変遷について調査をしているところなので、この図の説明ができません。ご存知の方からのご教示を、楽しみにしてお待ちしています。
 木刻文字や凸字などの項目は、私の研究テーマである「古写本『源氏物語』の触読研究」(http://genjiito.sakura.ne.jp/touchread/)に直結するものなので、丹念に読みました。石川倉次が点字を選定するまでの触読の実態については、特に興味があります。
 例えば、『訓盲雑誌』の説明の中で、「点字の出現によって、まもなくこの雑誌の存在意義は薄れていったと考えられる。読者数はどこまで伸びたのだろう。比田虎雄、大庭伊太郎もまた深い霧のかなたの人である。」(95頁)とあります。多くの関係者のその後についても、もっと知りたくなりました。
 最終章では、現代におけるさまざまな問題点について、私見を述べておられます。納得できることが多いだけに、もっと紙幅を割いて語っていただきたいところです。しかし、本書の性格上、そうもいかないのでしょう。またの機会に、ということです。
 そうした中で、これからの視覚障害教育について言及している箇所で、私がチェックをしたところを抜き出しておきます。

いわゆる統合教育を受けている子の中に、ほんとうはもっと早く拡大教材や点字に出会うチャンスがあるべきなのに、その機会に恵まれていないケースがあるのではないかという疑問。二つめには、現に通常学校で統合教育を受けている児童などに対して、文字学習の面で盲学校の持つノウハウが貢献しうるはずだという期待である。(180頁)
 
 
 点字のなかった頃の教材は、限られた盲学校にしか現存しない。四国や近畿の盲学校数校からリクエストをいただき、凸字教具のレプリカや写真を携えて、出前した。徳島県立盲学校を皮切りに、和歌山、滋賀で中学部生や高等部生に「凸字や点字」についての特設授業を行ったのだ。いずれも、新鮮に受け止められたようで、真剣に耳を傾けていただいた。なかでも、徳島の生徒たちは二〇〇八(平成二〇)年、自分たちで「点字の歴史」を調べ、パネルなどに仕立てて百貨店でその成果を発表する展覧会にまでこぎつけた。その会場に駆けつけてみた。「点字への誇り」が新鮮に花開き、多くの市民が点字に接するユニークな機会になっていた。(184頁)
 
 
 点字には、目の見えない人々の、「読みたい・書きたい」願いがこめられている。自由な記録、伝達、表現、読書に不可欠であった。凸字から点字への道を切り開いたことによって、学びの質が飛躍した。大正時代には、全国の盲人たちが連携して選挙における点字投票の公認を目指す運動を成功させた。男性だけという時代的な制約はあったが、世界で初めての点字投票を実現させたのも当事者たちだった。点字が、視覚障害者の社会参加を裏付け、人問としての尊厳を確保させた。(197頁)
 
 
「京都盲啞院関係資料」は、わが国の視覚障害教育にとって"生きたアーカイブス"でなければならない。過去を懐かしみ、その輝きを称えるだけでは、それを活かせない。今日的な素材や技術に基づく教材・教具の中にそれが生きていること、先達の知恵や創意の中には我々が及ぼない高みもあったことなどを知り、指導法や教育条件をいっそう改善するうえでの参考としたい。(198頁)


 よくわからないことや不明な点は、はっきりと疑問のままに提示し、語られています。どこまでわかっているのかが明確なので、今後の調査や研究の上でも大いに助かるところでしょう。
 本書は、これからの盲教育を考える上で、その基盤を整備したものだと言えます。これを出発点にして、共通の情報源として、今後の問題点を考えていくことになると思われます。
 著者は、盲教育史研究会の事務局長をなさっています。これを契機に、ますます共通認識を踏まえた議論と研究が進展することが期待されます。今後の活躍と展開が楽しみです。
 
 
 
posted by genjiito at 23:45| Comment(0) | ■読書雑記

2019年07月31日

読書雑記(263)うおやま『ヤンキー君と白杖ガール』

 『ヤンキー君と白杖ガール 1』(うおやま、小学館、2019.1)を読みました。

190731_hakujyou1.jpg

 紹介すべき言葉に窮しています。何と言っていいのか、困っています。
 数年来、目の見えない方々とのお付き合いの中で、いろいろな話を聞いています。みなさんの明るさに戸惑うばかりです。そんな中で、これはまた種類の違う、弱視の少女の恋心を明るく笑い飛ばす物語です。ヤンキーとの掛け合いが秀逸です。それだけに、どのようなリアクションを取ればいいのかわかりません。素直に読後感が書けないのは、自分の中に何かこだわりや引っかかりがあるからでしょうか。今はよくわかりません。

 この漫画を読んでみようと思われた方は、まずは、巻末の「おまけ」3ページを読んでから巻頭に戻って読む、ということをお勧めします。物語の内容が、多分にアクの強いものなので、その方が自然に話に入っていけると思うからです。
 第2巻を読んでから、またあらためてこの物語について考えてみます。
 
 
 
posted by genjiito at 20:22| Comment(0) | ■読書雑記

2019年07月29日

読書雑記(262)船戸与一『蝦夷地別件(下)』

 船戸与一の『蝦夷地別件(下)』(小学館文庫、1998年7月、669頁)を読み終えました。これは、全3冊の内の最終巻です。

190704_ezoti3.jpg

 前巻同様に、「BOOK」データベースからその紹介文を引いて、物語の流れを押さえておきます。

国後で始まった和人との戦い。しかし、叛乱に立ち上がったのはわずかな地点にとどまり、蝦夷地全土には広がらなかった。そこへ新井田孫三郎率いる松前藩の鎮撫軍が圧倒的な装備で鎮圧に迫る。もはや勝ち目はなくなった。このままでは、厚岸をはじめ鎮撫軍に与する同砲(ママ)とも戦うことになってしまう…。国後の人々は、松前藩から示された降伏の条件のほか、戦いを終わらせるために、さらに大きな犠牲を払わなければならなかった。命を賭したアイヌの思いは報われたのか。そして、江戸幕府の描いた「日本」という国の形とは。圧倒的な筆力の超大作、ここに完結。


 ペテルブルグの独房を抜け出せた、救国ポーランド貴族団のマホウスキのことから始まります。マホウスキが鉄砲を蝦夷に運べるか、ということが物語の展開に大きく影響するのです。
 話はすぐに、蝦夷の地に養生所を作って医療活動をする臨済宗の僧洗元に移ります。蝦夷の反乱に対して鎮撫に向かった松前藩の一行に、洗元は取り込まれていくのでした。
 御家人葛西政信は、老中松平定信のスパイだということが明らかにされます。松前藩から蝦夷地を取り上げるために、蝦夷の反乱を煽ったというのです。海外が狙う蝦夷地を、松前藩に任せてはおけないということです。
 日本という国家の立て直しのためにも、蝦夷地はロシアなどに渡してはいけない、と葛西は言います。船戸の国家に対する考え方を代弁しています。
 血腥い物語が綴られて行きます。迫力があるだけでなく、登場人物の心情が丁寧に描かれています。これまでの船戸のハードボイルドとは違う、人間の忿怒と激情が読者に届けとばかりの口吻で、活劇が展開します。
 鎮撫軍副監軍の松前平角がアイヌを40人惨殺した時、臨済宗の洗元は両目を切られ失明します。その時、天台宗の清澄は大般若経を逆さまに読んだそうです。舞台裏も克明に語られています。
 後半で、ラクスマンや大黒屋光太夫が出てきました。井上靖、吉村昭などの小説を読んだ記憶がオーバーラップします。
 失明した洗元が、音を頼りとする生活を余儀なくされていることが、事細かに描写されています。破戒僧が、しっかりと一人の人間として描かれているのです。
 惣長人のツキノエは、3年半前の悲惨な結末を招いた反乱を振り返ってこう言います。

「アイヌの暮しがこういうふうに変わっていくとは想わなかった。わしはじぶんが裏切者と陰口を叩かれてることを言ってるんじゃない。あの和人が教えてくれたように、アイヌが等級の低い和人として扱われることになるのだとは正直なところ考えていなかった、江戸に住んでる和人の肚のなかはまるで見抜けてなかった……」
「だとしても」
「何だ?」
「まちがってませんよ、絶対に! 何がどうなろうと、アイヌは生き延びなきゃならなかったんだ。それで充分じゃないですか!」
 ツキノエは三年半まえの戦いについてはこれでもう触れる気はなくなった。考えてみれば、喋れば喋るほどそれは愚痴になるのだ。コタントシの言いかたのほうがよっぽどすっきりしている。ああ……じぶんはいったいどこまで老いてしまったのだろう?(508頁)


 アイヌの時代はすでに大きく変化していることを身にしみて感じての、アイヌの総責任者としての感慨が吐露された場面です。

 最終段での壮絶な場面は、蒼い月影の下で展開します。人間が持つ渾身の迫力で語られます。
 最後に、静澄が洗元宛に書いた書簡の中で語られる水戸学のことは、もっとわかりやすく説いてほしいと思いました。

 なお、末尾に表記上の注記があります。著者の姿勢が窺えるものとなっています。

本書初版本(単行本)のアイヌ語表記に多くの誤りがあることが判明し、再版本以降、本文に訂正を施しました。アイヌ語復権への動きが著しい現代にあって、できうる限り正確なアイヌ語を伝える必要性を痛感し、本文訂正に当っては千葉大学助教授・中川裕氏の全面的な協力を得、北海道ウタリ協会札幌支部・阿部ユポ氏からは貴重なご意見を頂きました。
アイヌ語を片仮名で表記することには大きな困難が伴いますが、現在一般的なアイヌ語表記法に倣うことを旨としました。また文学作品という性格上、逐語訳的手法よりも文脈上最も適切なアイヌ語を選択する形をとった箇所も存在します。もとより完壁を期することが難しい作業でもあり、今後も読者の方々のご教示を仰ぎたいと思います。(663頁)


 原稿用紙2800枚の分量に盛りきれなかった内容と問題提起は、ずっしりと私の身体に覆いかぶさってきます。多分に手に負えないテーマながら、心の片隅にしっかりと居座っています。これまで、あまり意識して来なかった問題だけに、船戸氏から大事なメッセージを受け取った思いで、この長大な物語を読み終えました。【4】

初出誌:平成7年5月に新潮社より刊行。

 これまでの上・中巻については、次の記事を参照願います。

「読書雑記(258)船戸与一『蝦夷地別件(上)』」(2019年06月20日)

「読書雑記(261)船戸与一『蝦夷地別件(中)』」(2019年07月05日)
 
 
 
posted by genjiito at 20:01| Comment(0) | ■読書雑記

2019年07月05日

読書雑記(261)船戸与一『蝦夷地別件(中)』

 船戸与一の『蝦夷地別件(中)』(小学館文庫、2012年1月、651頁)を読み続けています。これは、全3冊の内の第2巻です。

190615_ezoti2.jpg

 世界的な視野で多民族の歴史と独立の問題を扱った長編なので、物語の展開を追うのも大変です。巻頭に登場人物44人の一覧と地図があります。しかし、カタカナ名前が苦手な私には、アイヌの人々の名前となるとさらに覚えられません。それでも、興味深い展開と描写に引かれて、快調に読み進んでいます。

190705_map.jpg

 「BOOK」データベースからその紹介文を引いて、物語の流れを押さえておきます。

長く患っていた惣長人サンキチが、和人からもらった薬を飲んだ直後に亡くなった。惣長人は殺されたとして、和人との戦いを叫ぶ声が一気に高まり、鉄砲がなければ戦うべきではないとする脇長人ツキノエの主張は次第に掻き消されがちになっていく。その頃、鉄砲の調達に奔走していたマホウスキは、ロシアの地で獄中に繋がれていた。ミントレをはじめ、マメキリ、ツキノエの息子セツハヤフら若者たちは、アイヌの蜂起を促す和人の動きもあって、ツキノエを択捉へ赴かせ、戦いの準備を始める。和人との戦いは、さまざまな対立を孕んで熱く燃えさかろうとしていた。


 物語は、ロシアでの暗殺や、蝦夷でのアイヌの動向に加えて、松前藩の蝦夷地統治の問題も浮き彫りになります。アイヌの蜂起は、和人との戦いです。その嵐の前の静けさに、月光が効果的に配されて物語を支えています。船戸の得意とする月光の設定です。
 和人と闘う決意を語る場面は、冷静な態度の中にも秘めた熱気が漲っています。これまで虐げられてきたアイヌの人たちの屈辱の想いが、溜まりに溜まっていたのです。我慢の限界を、不気味なほどに心の高まりを抑制しながら語ります。船戸の筆力を感じるところです。
 ハルナフリが、父セツハヤフの反乱を見守る役を負わされます。語り伝え、次に自分の時代が来たら立ち上がるための実地学習です。アイヌの和人たちへの憎しみが、地鳴りのような雷雨の中で、見事に活写されています。
 もう一つの話も展開します。場所は、ペテルブルク。ポチョムキン暗殺未遂に関して、マホウスキが厳しい取り調べを受けます。マホウスキは、300丁の鉄砲を調達する画策をしていた人物です。その背後にある政治的な動きが、ロシア当局の逆鱗に触れていたのです。
 遠く東の果ての小さな国の内乱を意識しながら、ヨーロッパでの権力闘争が語られていきます。まったく別次元の話のように思われることが、次第に連環していくところに、ダイナミックでワールドワイドな歴史のおもしろさを堪能できます。
 国後や択捉だけでなく、目梨に広がる、憎い和人を殺して一掃する話が展開します。そんな中で、アイヌ同士が仲間内で互いに憎み合う闘いも進行していきます。人が心を一つにして行動することの難しさと、個人の思惑、そして揺れ動く人間の心の問題が、丹念に描かれています。そうこうするうちに、裏切り者も出てきます。具体的な闘いに対する姿勢から、思いを統一することの難しさがえぐられています。中巻は、後半になるにしたがって盛り上がって来ます。ジッと読み耽りました。【4】
 
 
 
posted by genjiito at 19:03| Comment(0) | ■読書雑記

2019年07月04日

読書雑記(260)平山郁夫『生かされて、生きる』

 『生かされて、生きる』(平山郁夫、角川文庫、平成8年11月)を読みました。

190704_hirayama.jpg

 井上靖やシルクロードへの興味から知ったこともあり、好きな画家の一人です。長く奈良に住んでいたので、仏教伝来をテーマとする一連の絵には、平安とは違う親近感を持っています。
 これまでに書いたブログでは、「平山郁夫の「大唐西域壁画」」(2011年02月12日)が最も詳しく紹介しています。

 「自分の型」を持つことと、「自分の世界」を摑むことが、著者の課題だったと言います。そして、「自分の世界」を摑むことが先だと決心し、画家の道を歩み出すのでした。
 自分の物の見方や考え方を、一つずつ確認しながら語っています。私の耳元で、優しく語ってくださっているかのように思いながら、耳を傾けるようにして読みました。
 一枚の絵の中には、描き手である画家の文化や人や物に対する想いが込められている、ということに気付かされました。
 自分の役割について、次のように語ります。

 日本はこれまで西から東へと伝わってきた優れた文化の恩恵を被ってきた。今までの日本はあまりにも自己を語らない「顔のない国」だった。これからは自己の文化を勉強し、相手に語り、発信していくべきではないだろうか。そのための、いわばボランティァ組織的な機関が世界文化財機構である。
 私は絵を描き続けながら、この活動に余生の全てを捧げるつもりである。あの被爆で生き延び、生かされて、生きてきた私の、これは務めだと思っている。(112頁)


 15歳の時に広島で体験した原爆の話は、日本画家平山郁夫のその後の原点です。抑制された語り口が、読む者を引き込みます。
 奈良の薬師寺にある玄奘三蔵院の壁画は、ここでお茶会が催されることもあり、何度も見に行った親しみのある絵です。それだけ、その話がストレートに入ってきました。

 私はいま、玄奘三蔵の姿を描いている。
 奈良の薬師寺に完成した玄奘三蔵院の内陣の壁画と天井に、私は玄奘の功績を荘厳する絵を描くことになっている。
 薬師寺は法相宗に属するが、この開祖こそ中国唐の僧、玄奘三蔵である。三蔵法師の遺徳を称えるため、信者たちの写経勧進などによって玄奘三蔵院は建立されたのである。
 長方形のお堂のなかにある、十三面の壁画に三蔵法師の旅を描く。新聞紙で二百四十枚ほどになる天井には一面に星座を配し、壁面には玄奘が辛苦の旅で目にした風物を描こうと考えている。
 縦二メートル十五センチ、総延長五十メートルほどの壁画となり、既に大下図は描き終え、実制作も始めている。今世紀内に終わらせたい、と決意しており、これまでの百回を超えるシルクロードの旅のすべてをこの大壁画に注ぎ込みたい。
 考えてみれば、私はこの大壁画を描くために、仏教伝来の道を歩んできたのかもしれない。シルクロードを旅し始めたとき、このようなことは全く予想できなかったが、いま自分の人生を振り返ると、被爆して以来の私は、三蔵法師のお導きで画業人生をここまで続けてこられたのかもしれない。(117〜118頁)


 お人柄がよくあらわれていると思われる語り口で、非常に読みやすい文章です。
 なお、本文庫の186頁から188頁までの3頁分だけが、「楼蘭」と表記すべき箇所で「桜蘭」となっています。私は初版を読んだので、再版以降は補訂されているかと思います。
 本書刊行までの経緯は、巻末に次のように記されています。
本書は一九九二年七月、プレジデント社より刊行されたBOOK&VIDEOカミュ文庫「永遠の道」の「本」に加筆し、文庫化したものです。(226頁)

 
 
 
posted by genjiito at 20:37| Comment(0) | ■読書雑記

2019年06月21日

読書雑記(259)梨木香歩『西の魔女が死んだ』

 『西の魔女が死んだ』(梨木香歩、平成13年8月、新潮文庫、平成27年2月88刷)を読みました。

190615_majyo.jpg

 西の魔女と呼んでいたおばあちゃんが、心臓発作で倒れたことから始まります。
 話は、すぐに2年前へ。主人公のまいが中学に入学した時にさかのぼります。
 まいは、苦痛しか与えない学校へは行かなくなります。そして、田舎のおばあちゃんのところで一緒に暮らすことになりました。車で1時間ほどのところです。
 まいは、おばあちゃんとの自然の中での生活を満喫します。そして、その自然の中から多くのことを日々学びます。素直におばあちゃんに接する姿が爽やかです。絵本の中のような世界が展開していきます。メルヘンタッチの、女の子が少しずつ成長する物語です。心のきれいな人たちばかりです。透明感のある語り口です。学校に行かないまいに対する周りの接し方について、次のようなやりとりがあります。

「何でパパはわたしが学校に行かないのか聞かないんだろう」
「ママは聞きましたか?」
「ううん。そういえばおばあちゃんも聞かなかったね」
「みんな、まいのことを信頼しているからでしょう。まいが行かないと言うからには、きっとそれなりの理由があるからだとみんな思っているんですよ」(158頁)


 おばあちゃんとまいとの会話は、澄んだ目で人を、社会を見つめているから成り立つやりとりです。
 死についての対話も、自然体です。物事を決めつけず、結論を焦りません。
 1つだけ、気になったことがあります。予想外の出来事があったのです。おばあちゃんの元を離れる時、まいが向かいの家のゲンジさんを悪し様に罵った時のことです。おばあちゃんは、まいの頬を打ったのです。

「わたしはそういうことに動揺せずに、平気になんか、絶対なれない。わたしはあの人を好きになんか、絶対なれない。あんな汚らしいやつ、もう、もう、死んでしまったらいいのに」
「まいっ」
 おばあちゃんは短く叫んでまいの頬を打った。瞬間の出来事だった。まいはあっけにとられた。それから涙がじわりとわいてきた。(170頁)


 この後、2人の間には次のやり取りがあります。おばあちゃんは、魔女は動揺してはいけない、と教え諭していたことが、この背景にあるのです。

「でも、おばあちゃんだって、わたしの言った言葉に動揺して反応したね」
 おばあちゃんはにやりと笑って片目をつぶった。
「そういうこともあります」(172頁)


 さらに、次のようにも言います。

 おばあちゃんのことを思うと、いつも胸が痛んだ。あのときゲンジさんのことをあんなにひどく言ったのは、自分でも止めようのなかった感情の「流出」だったとまいは今でも思う。(「流出」という言葉は最近本で覚えた。でも実生活で使ったことはないので、まだ自分の言葉という気がしていない)後悔も反省も今はまだするつもりはない。
 けれど、おばあちゃんにとっても、まいにああいう手荒なことをしたのは、やはり止めようのなかった感情の「流出」だったのではないだろうか。おばあちゃんだって、魔女である前に人間なのだ。まいは、おばあちゃんと離れてからそんなことを考えるようになった。(182頁)


 私には、おばあちゃんにまいの頬を打たせた作者の思いが、いまだによくわかりません。おばあちゃんが暴力に訴えたことは、一時の動揺や理性や感情で説明しきれないものなので、語り手はさらにフォローが必要だったのではないか、と思います。この1つの行為で、おばあちゃんの人間像が崩れます。機会があれば、再読で再確認したいと思っています。

 そうであっても、この作品は、人に対する思いやりと、人の死というものを実感させてくれます。人の心の温もりも伝わってきます。きれいな物語です。【3】

※平成6年4月に楡出版より刊行。平成8年4月小学館より新装版刊行。
 
 
 
posted by genjiito at 21:07| Comment(0) | ■読書雑記

2019年06月20日

読書雑記(258)船戸与一『蝦夷地別件(上)』

 船戸与一の『蝦夷地別件(上)』(小学館文庫、2012年1月、588頁)を読みました。これは、全3冊の内の初巻です。

181115_ezoti1.jpg

 長編なので、物語の展開を追うのも大変です。「BOOK」データベースから、その内容紹介を引いて、まずはその流れを押さえておきます。

十八世紀末、蝦夷と呼ばれるアイヌ民族は和人の横暴に喘いでいた。商人による苛烈な搾取、謂れのない蔑みや暴力、女たちへの陵辱…。和人との戦いを決意した国後の脇長人ツキノエは、ロシア人船長に密かに鉄砲三〇〇挺を依頼する。しかし、そこにはポーランド貴族マホウスキの策略があった。祖国を狙うロシアの南下政策を阻止するべく、極東に関心を向けさせるための紛争の創出。一方で、蝦夷地を直轄地にしようと目論む幕府と、権益を死守しようとする松前藩の思惑も入り乱れていた。アイヌ民族最後の蜂起「国後・目梨の乱」を壮大なスケールで描きだす超大作。


 ペリーが浦賀に現れた時へと時間が遡ります。序章には、次のような書簡の一部が引かれています。

 それにつけても、愚僧は貴僧とはじめて御逢いした六十五年まえのあの地が憶いだされます。異国にたいする日本という国家。それがいまのようなかたちを整えはじめたのは愚僧と貴僧が六十五年まえにあの地で見た一連の動きと深い関わりを持ってる。そんな気がしてならないのです。(10頁)


 船戸は、平原や海原や大空を描くのが上手いと思います。さらには、月の光を巧みに取り込んで、夢語りを展開させます。本作にも、随所に見られます。この小説作法が、私は好きです。
 また、音が語りを重層的にしています。話をしている時に、泣き喚く子供の声がやがて遠ざかっていく場面など。
 上巻の後半で、救国ポーランド貴族団の話が出て来ます。唐突に感じたので、ポーランドがこれからこの話にどう関わっていくのか、楽しみになりました。日本の漂流民とかラクスマンなどのことが語られると、大黒屋光太夫などの話が背景にあることがわかります。井上靖や吉村昭の作品が思い出されます。それを殊更詳しく語らないのが、船戸の流儀なのでしょう。とにかく、世界史の知識がフル稼動です。
 アイヌとシャモ(和人)の生き様が、その違いを確認しながらダイナミックに展開します。船戸の筆力は、北の大地を舞台に冴え渡っています。
 アイヌの大地からシャモを追い払うためには、どうしても鉄砲が要ります。その鉄砲が、ロシアから入ってこないことがわかったところで、上巻は終わります。大河の一端を見た、という感じです。【4】
 
 
 
posted by genjiito at 20:40| Comment(0) | ■読書雑記

2019年06月06日

読書雑記(257)芥川賞2作を読んで

 平成30年下半期の芥川賞受賞作を2本一気に読みました。
 文章に、普通は漢字で書く語句が、頻繁に平仮名で書いてあることに、違和感を覚えました。今は、平仮名多用の時代になっているのでしょうか。
 また、女性の役割が添え物のように感じられました。テーマが女性の存在を特に求めなかったからでしょうか。この2作を、女性はどのように読まれるのでしょうか。
 2作共に、恋愛をテーマにするものではありません。コンピュータのエンジニアと、ボクシングの選手が主人公です。神経が張り詰める世界に生きる男が息を抜く様子が、合間合間に語られていたので、興味深く楽しみました。

■上田岳弘『ニムロッド』
 「駄目な飛行機コレクション」が、物語の展開の中でいくつも出てきます。これはどんな意味を持たせて語られるものなのか、終始疑問に思いながら読み進めました。しかし、現代が直面している課題を抉り出していることはわかります。【3】

■町屋良平「1R1分43秒」
 戦いと時間を前にして、人間が自分の身体の限界と向き合う話です。戦いを控えた1人の男の内面が、具体的に語られています。後半は、2人の男の交流が。こうした戦いは経験していなくても、その心持ちは理解できます。そこに、作者と読者の接点があります。【4】

 共に、私が日頃経験しない世界が舞台です。ビットコインとボクシング。そして、共にわかりやすい文章でした。比喩をこねくり回した、凝った文章は好きではありません。その意味からも、この2作は、また読んでも疲れない作者だと思いました。
 
 
 
posted by genjiito at 23:08| Comment(0) | ■読書雑記

2019年05月28日

読書雑記(256)高梨耕一郎『京都半木の道 桜雲の殺意』を再読して

 『京都半木の道 桜雲の殺意』(高梨耕一郎、2006年4月15日、講談社文庫)を再読しました。

190528_hangi.jpg

 この本については、「読書雑記(4)高梨耕一郎『京都半木の道 桜雲の殺意』」(2007年10月02日)で取り上げました。あまりいい評価はしていません。そのことが、半木の道を散策するたびに思い出されるので、もう一度読んでみたのです。
 植物園の西側にある、北大路橋と北山大橋の中間地点にある飛び石のことは、128頁に出ています。気になっていた割には、さらりと触れているだけなので拍子抜けです。
 予想外に、物語の内容には肉付けがされていることが実感できました。前回は、推理を追うことに一生懸命になって読んだからでしょう。そうであっても、登場人物が多すぎて、しかも人間関係が希薄です。おもしろい物語なのに、人物が立ち上がってこないのです。作者の立ち位置が曖昧で、物語を引っ張る人が存在感を示さないからだと思います。キャラクターの整理が必要だと思いました。
 さらには、舞台である京都らしさが伝わってきません。もっと風物に関わるエピソードを盛り込むなどして、工夫すべきだと思いました。せっかくの上質なネタが、これではもったいないのです。お寿司屋さんで、いいネタを仕入れながら、シャリがパサパサだったりベタベタだったら、変なものを口にしたという印象しか残りません。
 前回はほとんど気にしていなかった目の見えない花純さんの存在が、今回はその後に問題意識を持つようになったこともあり、非常に気になりました。中学2年生の時に失明した花純さんは、18歳の時にひき逃げされて亡くなったのです。そのことは、226頁以降で語られます。最終局面での推理に関係するのでここでは触れません。この花純さんの扱われ方に、私は非常に違和感を覚えました。これは、機会があればあらためて批判的に書きたいと思っています。
 それはさておき、この作品は、書き換えるともっとおもしろいものに化けそうです。私なら、飛び石をもっと活用します。半木の道に接する植物園も巻き込みましょう。その隣にある府立大学も出番です。この作品が発表された当時は総合資料館があったし、今は京都府立京都学・歴彩館に姿を変えて資料の宝庫となっています。推理モノにふさわしい舞台も資料も人物も、ふんだんに揃っている場所なのです。
 さらには、北大路通りを西に進むと、日本最初の盲学校やライトハウスがあります。千本閻魔堂の紹介をしながら、紫式部のことには言及がありません。物語をおもしろくするネタは満載の素地が眠っている作品です。
 作者の再挑戦を期待しています。【2】

※本作は、文庫本での書き下ろしです。
 
 
 
posted by genjiito at 20:21| Comment(0) | ■読書雑記

2019年03月26日

読書雑記(255)山本兼一『夢をまことに』附[山本兼一の記事一覧]

 遺作となった『夢をまことに』(山本兼一、文藝春秋、2015.2)を読みました。

190325_yumewo.jpg


 これで、山本兼一が生涯に書き残した著作のすべてを読み終えたことになります。
 この記事の末尾に、これまで本ブログに書いてきた山本兼一に関する記事をリストとして掲載しています。気ままにその他の物語に関する私見をお読みいただけると幸いです。

 本話は、「夢はまことになる。」で始まり、その後に、「絵空事はまことになる。」とあります。私の大好きな展開が期待できます。
 主人公の一貫斎は、鉄砲鍛冶が生業の国友村が抱える裁判のために江戸に出ます。その担当部署である寺社奉行について、「寺社奉行は、寺社ばかりでなく、連歌師、楽人、検校、陰陽師、古筆見なども管掌しているのだそうだ。鉄炮鍛冶は、これらの人々と同列の扱いということだ。」(30頁)とあります。「連歌師、楽人、検校、陰陽師、古筆見」とあることを知り、寺社奉行が? と、意外な思いでいます。
 さて、江戸時代でも裁判は長期間かかったそうです。そこで一貫斎はその間を好機とばかり、かねてより知りたかったさまざまなことを学ぼうとします。
 その日記に、次のように記します。

 旅日記に今日のできごとを簡潔に記し、手控えに、さきほど思いついた格言を書いた。
−自分で考え、自分の歩幅で歩くべし。(56頁)
 
 人間は、世の中で通用している常識を、根拠もなく信じてしまう生き物らしい。
−なにごとも、根本から疑ってかかるべし。
 一貫斎は、手控えにそう書き記すと決めた。(71頁)
 
−技術は人柄だ。
 つくづく感じて、手控えにその一行を書き留めた。仕事に対する熱意が人間の根本にあればその人なりのやり方と努力で技を磨き、成功できるのだ。(78頁)
 
−仕事は生きる楽しみ。
 思いつきで口にした言葉だったが、すぐに筆を手にした。
 なかなか正鵠を射ている。控えに書きつけるために、一貫斎はすぐに筆を手にした。(116頁)
 
−驚いたあとは、しっかり学ぶことだ。
 一貫斎は、そのこともまた、手控えに書きつけ、しっかりと肝に銘じた(156頁)


 ただし、この手控えとしての日記に一貫斎が記した思いつきや格言らしいものは、後で整理してまとめられることはありません。日記を間に挟んで物語を展開すると、また違う味の作品に仕上がったことでしょう。今作は話が飛びすぎていたと思われるので、私は整理しながら進めて行ったらよかったのに、と思いました。無い物ねだりですが。

 とにかく、知的好奇心と行動力に長けた一貫斎は、次々と新しいことに妙案を出し、頭角を表すのでした。
 オランダから伝わった風炮(空気銃)を何度もじっくりと見る内に、一貫斎はさまざまなことを解明します。疑問を持つことが解決への道を開くのです。追求することの意義を、次のように言います。

 大切なのは、とことん追求する気持ちだと思うようになった。
 世の中には、不思議なことが山ほどある。なぜ、朝になると太陽が東から昇って、夕方になると西に沈むのか。
 考えてみれば不思議きわまりないことだが、日本人は、日輪が昇るのをありがたがるだけで、なぜ昇って沈むのか、その理を独自に究めた者はいなかった。
 月が満ちて欠けるのもいたって不思議なことなのだが、日本人はそれを愛でるばかりで、不思議の理を解明しようとはしなかった。
 ヨーロッパの人間のなかに、それをとことん考え抜いて、解き明かした者がいる。
−当たり前のことにひそんでいる不思議を見抜く心だ。
 この世界のことには、すべて理があるのだ、と考えてはいたが、一貫斎は、まだまだ目の前に起こっている不思議を見逃していた。(150頁)


 一貫斎は平田篤胤と、神の摂理や宇宙の本義について問答をします。なかなか読ませる場面です。
 ただし、この第3章の後半に置かれた天狗少年の話は必要だったのでしょうか? 40頁もの分量があるので、残されていた一貫斎に関する資料があり、その記事を基にして逸話風に描いたのでしょう。しかし、一貫斎の知的好奇心を語るのにはいいとしても、作品全体としては冗長となり不要な話だと思いました。後に、「江戸で天狗小僧に会って刺激を受けてから、発想がさらに自由自在にふくらんで、とりとめがなくなっている。」(413頁)とあります。しかし、その効果のほどはないように思います。

 私は、「役に立つ道具」の節(318頁)が一番おもしろく、ワクワクして読みました。特に、万年筆を開発し、京都や大坂に売りに行くところは秀逸でした。夢をまことにしようとする一貫斎が、活き活きと語られているからです。

 また、夢を実現するための心構えを、一貫斎は次のように語ります。

「どうすれば、そんなことに気づけるようになるのでしょうか」
 熊太郎が真顔でたずねた。一貫斎は思わず笑みをもらした。
「ずっと考え続けているのです。どうすればうまくいくのか、ただそれだけを考え続けているのです。頭がこちこちになるまで考えて、くたびれたら別のことをしてから、新しい気分でまた考えるのです」(335頁)


 一貫斎は、今で言う空気銃、望遠鏡、万年筆、無尽灯、海に潜る船、空を飛ぶ船を実際に作り上げようとしたのです。そのほとんどが完成しました。発想の柔軟さと辛抱強さの成果です。
 そうした一貫斎の思いつきのいくつかは、林子平の『海国兵談』にあることが、加賀の斉泰公から指摘されます。30年も前に、すでに考えた人がいたのです。しかし、物を作って実現することの大切さは、一貫斎に一日の長があります。最後は、望遠鏡の開発話で楽しめます。
 まさに、「夢をまことに」ということを本書で追体験できました。我がことを振り返り、我が身と引き比べながら読みました。共感の多い物語でした。
 2015年2月に文藝春秋社から刊行された本作は、2014年2月13日に満57歳で亡くなった山本兼一氏の遺作となったものです。【4】

初出誌:「京都新聞」2012年7月16日〜2013年6月30日
    (刊行にあたり修正)

[山本兼一の記事一覧]



「読書雑記(246)山本兼一『心中しぐれ吉原』」(2018年11月14日)

「読書雑記(231)山本兼一『修羅走る 関ヶ原』」(2018年07月04日)

「読書雑記(217)山本兼一『まりしてんァ千代姫』」(2018年01月08日)

「読書雑記(212)山本兼一『信長死すべし』」(2017年10月06日)

「読書雑記(209)山本兼一『黄金の太刀』」(2017年09月07日)

「読書雑記(197)山本兼一『おれは清麿』」(2017年03月17日)

「読書雑記(178)山本兼一『ジパング島発見記』」(2016年08月28日)

「読書雑記(171)山本兼一『弾正の鷹』」(2016年07月05日)

「読書雑記(168)山本兼一『いっしん虎徹』」(2016年06月17日)

「読書雑記(163)山本兼一『雷神の筒』」(2016年04月05日)

「読書雑記(154)山本兼一『火天の城』」(2016年02月04日)

「読書雑記(152)山本兼一『狂い咲き正宗』」(2015年12月25日)

「読書雑記(146)山本兼一『白鷹伝 戦国秘録』」(2015年11月18日)

「読書雑記(137)山本兼一『神変─役小角絵巻』」(2015年07月28日)

「読書雑記(125)山本兼一『命もいらず名もいらず 下 明治篇』」(2015年05月06日)

「読書雑記(124)山本兼一『命もいらず名もいらず 上 幕末篇』」(2015年04月30日)

「読書雑記(100)山本兼一『利休の茶杓 とびきり屋見立て帖』」(2014年06月03日)

「読書雑記(99)山本兼一『花鳥の夢』」(2014年05月30日)

「読書雑記(98)山本兼一『銀の島』で追悼」(2014年05月22日)

「読書雑記(63)山本兼一『赤絵そうめん』でお茶のイメージトレーニング」(2013年04月17日)

「読書雑記(59)山本兼一『利休の風景』」(2013年01月08日)

「読書雑記(58)山本兼一『利休にたずねよ』」(2013年01月07日)

「読書雑記(57)山本兼一『ええもんひとつ ―とびきり屋見立て帖』」(2012年12月19日)

「読書雑記(56)山本兼一『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』」(2012年12月18日)

 
 
 
posted by genjiito at 23:34| Comment(0) | ■読書雑記

2019年02月26日

読書雑記(254)高田郁『あきない世傳 金と銀 六 本流篇』

 『あきない世傳 金と銀 六 本流篇』(高田郁、時代小説文庫〈ハルキ文庫〉、2019.2.18)を読みました。

190226_takada6.jpg
■「中有」
 大坂の呉服商「五鈴屋」の六代目店主だった智蔵が急死します。跡取りの問題が展開する中、9年前に亡くなった四代目の隠し子の存在が、跡取りの問題に関わって浮上します。緩急自在の展開が始まりました。【5】

■「女名前」
 「女名前の禁止」という掟に直面し、幸たちは後継の問題の対処を思案します。「抜け道」はないものかと。光明を見出すための策を、同じ身の女たちのためにも前を向いて歩こうとします。【3】

■「出帆」
 「女名前の禁止」という、おかみの「定法」と大坂商人の「慣習」のしがらみを、幸は条件を設けて認めてもらいます。もっと揉めるのかと思いました。少し気が抜けます。緊縛感がほしいところです。話の風向きは江戸へ出ることに移ります。今後の展開が示されたのです【3】

■「木綿と鈴紋」
 今後の物語展開の要となりそうな木綿が、幸の七代目を継いだ挨拶の品としての小風呂敷に使われます。しかも、生まれ育った津門村の木綿。過去と未来が行き来する語り口です。【4】

■「春日遅々」
 夫の隠し子との出会いが、挿話として温かく語られます。この話が、後の展開に関係するのかしないのか、興味深いところです。【4】

■「果断」
 幸の的確な判断で、江戸へ出ることが決まります。幸と共に女衆のお竹が話を引き締めています。蛍が効果的に飛んでいます。この作者は、季節感をうまく話の随所に盛り込んで、膨らみのある描写を心がけています。【5】

■「蟻の眼、鶚の眼」
 五鈴屋の要石である治兵衛は、江戸へと旅立つ幸へのはなむけに、「豪気と細心、大気と小心」ということを語ります。幸のあらたな門出の章です。【3】

■「七代目の誓い」
 大坂から江戸に出た幸たちは、浅草に近いところで店を持つことになっています。その開店準備も、着々と進んでいます。次の話への繋ぎとなる小話。みんなの前向きな気持ちに溢れた話です。【3】

■「光と塵」
 江戸に慣れるにしたがって、上方と江戸との生活する上での文化の違いがわかってきました。この比較は、楽しく読めます。特に、上方の女は前帯で、江戸は後ろ帯というのは初めて知りました。話は、古着をどう売るかという問題に展開していきます。【3】

■「知恵を寄せる」
 開店のための準備では、さまざまなアイデアが検討されます。反物の見せ方、塵の払い方などなど。一歩ずつ進んで行く様子が、わかりやすくて丁寧な描写で語られていきます。【4】

■「満を持す」
 討ち入りの日に店開きをする、というのは、なかなかのアイデアです。着々と進む用意の背景に、神社仏閣の手水舎に、屋号を染め抜いた手ぬぐいを奉納する、というのも奇策であり名案です。知恵が随所に生きています。気持ちのいい物語展開に、「笑って、勝ちに行く」という言葉が話を締めています。【4】

■「討ち入り」
 ようやく開店。夢で胸を膨らませる商法は、さらに江戸で人気を博することになりそうです。大坂の呉服商が江戸に討ち入りです。【5】

 この物語の刊行を1年間待ちました。今回も、丁寧な仕上がりで語られています。安心して読める作家として定着したようです。〈みおつくし料理帖〉の高い完成度に追いつけるように、さらなる物語の進展を楽しみにしています。
 
 
 
posted by genjiito at 20:01| Comment(0) | ■読書雑記

2018年12月12日

読書雑記(253)【復元】〈その5〉上映中の「ダ・ビンチ・コード」は編集変更版?

 消えたブログを、折々に復元しています。再構築できたもので、『ダ・ヴィンチ・コード』と『ユダの福音書』に関するシリーズ全5話については、これが最終話です。
 これまでに、これに関連する4本の記事は、以下の通りです。

「読書雑記(247)【復元】〈その1〉『ダ・ビンチ・コード」(2018年12月02日)

「読書雑記(248)【復元】〈その2〉「古代エジプト語(コプト語)の写本解読」(2018年12月03日)

「読書雑記(249)【復元】〈その3〉「空中分解する日本語訳」(2018年12月05日)

「読書雑記(250)【復元】〈その4〉『ユダの福音書を追え』のユダとは何者」(2018年12月09日)


(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年5月21日公開分
 
副題「撮影道具と物語展開がバラバラ」
 
 やはり突然でしたが、映画『ダ・ビンチ・コード』を、封切りの日に観に行きました。奈良の西大和にある小さな映画館です。観客はいっぱいでした。しかし、私にとっては大ハズレの映画でした。最近は、わざわざ映画館に脚を運んでも、ガッカリして帰ることが多いのです。そんなに観ないから、ということもあるのでしょうか。自分が時代遅れになったようで、選ぶセンスが狂ってきたのかもしれません。ことごとくハズレばかりを観ています。私の興味が、映画となったものとズレているとしか思えません。ただし、『たそがれ清兵衛』はいい映画だったと思います。鑑賞基準が違うせいだ、ということにしておきましょう。

 さて、『ダ・ビンチ・コード』というベストセラーの映画化も、期待を大きく裏切る出来の悪さでした。現今の映画は、楽しむためにはそれなりのルールがあり、その制約の中で観るようになっている、ということなのだとしたら、私には映画を観る資格はないと言えましょう。映画が私を楽しませてくれないし、うまく騙してくれないのです。
 それはともかく、以下は、とにかく思いつくままに。

 先月の、4月6日に「聖書の増補・改訂とは? ―知的な刺激に満ちた『ダ・ビンチ・コード』―」というタイトルで本ブログを書きました。そこで私は、「何かと話題になっている割には、この本はそんなに長く読みつがれることはないように思われます。おもしろい話です。しかし、その反面、飽きやすいともいえましょう。もう一度読もうとは思わない人が多いと思います。」と書きました。
 小説はいまいちでした。しかし、キリスト教に関する問題提起をしてくれたのは有益だったと思います。ちょうどいいタイミングで、つい先頃の4月7日に、『ユダの福音書』という1700年前のパピルス文書も解読されたというニュースが公表されたばかりです。これまでの常識を再検討することは、キリスト教の原点に目を向ける意味からも、意義深いことです。この小説はともかく、映画はそうした役割の一端を担うべきものでした。残念です。

 映画がわかりにくかったのは、どこに起因するのでしょうか。あらかじめ小説を読んでいたにもかかわらず、それでもストーリーを追うのに疲れました。また、映画は、字幕版と吹替版があり、私は内容をしっかりと理解したかったので、吹替版を観ました。字幕版は、会話が相当省略してあることが多いので、今回のように言葉による説明が大切な内容の時には、吹替版がいいと思います。そして、吹替版ですら内容がよくわからなかったのですから、字幕版の内容は、どの程度の翻訳だったのか、次に機会があれば、ぜひ字幕版を観たいと思います。

 映画館では、まずパンフレットを買いました。その巻頭見開きには、「ダ・ビンチは、その微笑みに、何を仕組んだのか。」とあります。

1148209045_1.jpg

 これは、モナリザの絵のことを言っているのでしょう。しかし、モナリザの絵は、この映画ではほんの一瞬しか出ませんし、話題の展開には大きな影響を持っていません。『最後の晩餐』についてのコメントならば、そのメッセージはパンフレットを手にした人に伝わります。なぜこんなことばが、巻頭にあるのでしょうか。

 主演のトム・ハンクスは、2004年にスピルバーグ監督の『ターミナル』に出ていました。その映画は、私にとっては作り話過ぎて、トム・ハンクスも大根役者を演じていたので失望しました。落ち目のアメリカを象徴する映画でした。今回の『ダ・ビンチ・コード』では、トム・ハンクスはがんばっていました。しかし、いかんせん台本が悪かったとしか言いようがありません。映像は良かったので、総合的な完成度の低さが惜しまれます。

 監督のロン・ハワードは、『ビューティフル・マインド』ですばらしい映画を作った人です。なぜこの『ダ・ビンチ・コード』がこんな不出来に終わっているのか不思議です。
 私の今の結論をメモとして記しておきます。撮影終了後のフイルムの編集段階で、内容が引き起こすキリスト教に関するさまざまな問題に配慮をしたために、当初の編集意図が変更されたのでは、と思われます。事実、この映画が上映されるや、世界各地で上映禁止が取りざたされています。バチカンの法王庁も、この映画は事実ではない作り話だとの声明を出しました。本来は、監督はもっと小説にあるがままに、ストレートにキリスト教に対する問題点を盛り込むつもりだったにもかかわらず、いろいろな状況により映像をつなぎ変えることとなり、結果的に撮影シーンの選択と物語展開がバラバラになったのではないか、と判断します。
 映画のパンフレットに、監督のインタビューが載っています。そこでハワードは、

この本ではキリストの人生について、衝撃的な説が展開されていますね。この説に、あなたは賛成ですか、反対ですか?

という質問に対して、次のように答えています。

このプロジェクトに携わった初期の段階で、僕はある決心をした。それは、僕自身がこれらの説についてどう思うかを、絶対表には出さないということだ。僕らの目的は、観客自身に考えてもらうこと。そして新鮮にミステリーやサスペンスの要素を楽しんでもらうこと。僕個人の意見を押し付けるのは、間違っている 。

 つまり、最初から監督のメッセージは封印されていたのです。これでは、いい映画になるはずがありません。
 ぜひ、監督が本当に作りたかった映画に再構築して、本来の物語展開にして観せてほしいものだと思います。話の切れ目がうまくつながっていないところも、丁寧に埋めたものにしてほしいものです。まさに、反応を恐れた妥協の産物に堕落したものとなっているのですから。

 映画パンフレットに、監督のハワードが語ったこととして、こんなことも記されていました。ここで彼とあるのは、小説の作者であるダン・ブラウンです。

彼が学んだり読んだりして得たものを我々が解釈していくうえで、彼は貴重な情報源となった。その情報の中には、彼が本を書いた後に発見したものもあって、それらも脚本に織り込まれている。だから、この映画は、ある意味で『ダ・ビンチ・コード』の最新版、注釈付きの『ダ・ビンチ・コード』なんだ

 それならなぜ、最近明らかになった『ユダの福音書』について、少しでもいいから触れなかったのでしょうか。関係者の間では、この文書のことは話題になっていました。もっとも、内容の不足を補強するには、時間が足りなかったのかもしれません。この映画がイマイチ盛り上がりに欠けるのは、こうした事情も関係しているのかもしれません。とにかく、監督がテーマから逃げていることは明らかです。
 さらには、小説も映画も、ルーブル美術館のガラスのピラミッドが活かされていません。聖杯に結びつけるために、無理やり持ち出したものとしか思えません。ルーブル美術館へ行ったことのある方には伝わるかと思います。
 これは、作り直してほしい映画です。編集し直してほしいものです。

 この映画は、莫大な興行収入が予測されています。ベストセラー小説とともに記録として残るでしょう。しかし、共に作品の寿命は短いものだと言えましょう。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
posted by genjiito at 23:25| Comment(0) | ■読書雑記

2018年12月11日

読書雑記(252)小松左京『大阪万博奮闘記』

 『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』(小松左京、新潮文庫、平成30年10月)を読みました。

181115_komatsu.jpg

 本書は、「第一部 やぶれかぶれ青春記」、「第二部 大阪万博奮闘記」の2部構成です。そして、「第二部 大阪万博奮闘記」は「ニッポン・七〇年代前夜」「万国博はもうはじまっている」「小松左京と走り抜けた日々」(加藤秀俊)の3本でまとめられています。以下では、この第二部に関して記します。

 大阪万博の言い出しっぺである小松左京氏が、梅棹忠夫氏や加藤秀俊氏に「万国博を考える会」の趣旨説明をするところ始まります(以下、敬称略)。
 昭和39年7月、小松は「万国博を考える会」を発足させました。その背景には、「京大人文研(京大霊長類学)」や「放送朝日」を通じての交流があったのです。

 まず、次の「国際」という言葉の意味の確認から。

名称も、当時新聞関係は「国際博」をつかっていたが、私たちは「万国博を考える会」にした。「万国博」という言葉は、何だか明治的で、語感として古めかしいのではないか、という意見も出たが、「国際」という単語こそ近代主義的−特に「戦後近代主義」的ニュアンスがつきまとっている、という梅棹氏の意見に、結局みんな賛成した。
「国際関係ちゅうと、特にインテリやエリートは、じきに欧米のことを思いうかべよるねン」と梅棹氏はいった。「中国との関係や、ネパールやザンビアとの関係を、国際問題と思いよれへん」
 とりわけ日本でおこなわれるとするならば、AA諸国の参加を重視しなければならないだろう、ということが、京都の発起人会の席上で、みんなの頭にすぐうかんだ。
(中略)
 いったい、関西で万国博を、という話がどこから出ているのかしらべると、どうやら通産省の輸出振興関係、それにジェトロもからんでいるらしい、ということがわかった。話の持ち上がったのも、ここ一年以内の話で、何しろまだオリンピックの方さえ開かれていないし、その成功か失敗かもわかからない状態なので、万国博が果して本当に開かれるかどうかもまだわからない。
 しめた、これなら今からトレースすれば、ある程度間にあうかも知れない、と私は思った。−その時は、まだ、自分たちが万国博を「つくる」側にまきこまれることになろうとは夢にも思わなかった。よくいえば純粋な好奇心、悪くいえばヤジ馬根性で、日本の社会の中で、この壮大なイヴェントがつくられ、利用されて行く過程を、傍でじっくりながめられると思ったのである。(255〜256頁)


 昭和15年の「皇紀」二千六百年記念に計画された、いわゆる「幻の東京万国博」のテーマは、「東西文化の融合」だったことについて、西田哲学の影響か? と小松は言います。会場は晴海あたりが想定されていたようです。こうした、大阪万博の背景にある政治がらみの話は、興味深いものがあります。
 この「考える会」の存在は、万国博の批判団体だとか、万国博協会と敵対関係にあるものだと思われていたそうです。そうした背景も、ユーモア交じりに語られています。

 小松は、「飴が歯にくっついたみたいな」万博協会とは直接折衝しなくてもいいように、深く関わらないようにして、距離を置くことに腐心しておられる姿がよく伝わってきます。お役所仕事には、徹底抗戦の様相です。岡本太郎とのくだりは鮮やかです。国家的な事業におけるお役所仕事の優柔不断さへの嫌悪は、身に染みておられたからでしょう。

 予算といえば、あの「エキスポの顔」といわれた高さ六十メートルの名物「太陽の塔」があやうく消えかかったことがある。テーマ展示の総予算は前にもいったように建設費こみのあら見積もりで三十億は必要だと、岡本氏のスタッフははじき出していた。(この金額で理事会で説明する時、岡本氏はテーマ展示には、「最低三十万円」必要だ、とやってしまった。石坂会長の「明治四十五年の万国博」とともに万国博の二大迷言とされている)
 大蔵省筋はこの規模を内々に承認していたが、監督官庁の通産側は、あまり正面に大きなものを建てられると、ホストカントリーの日本政府館が目立たなくなる、という理由で強硬に反対した。テーマ展示の総予算はせいぜい三、四億でいい、というのだ。モントリオールのテーマ予算百億と大変なひらきだ。そんな予算ではとてもテーマ展示はできないとプロデューサー側がいうと、もともとテーマなんてものは万国博にはいらないものだ、とまで極言した。(339頁)


 全編、熱気が伝わってくる文章でした。
 そして今に目を転じ、先月に開催が決定したばかりの2025年大阪万博について、現在はどのようにものごとが動いているのか、興味が湧いてきました。小松らのように、真摯な議論と検討がどこで、誰が、どのようにしてなさっているのでしょうか。いつの日にか、後日談としての「2025年 大阪万博奮闘記」を読みたいと思います。

 本書は、2025年の大阪万博が決定(2018年11月24日)を見越した刊行だけに、タイムリーな復刻版となっています。これからの2025年大阪万博の動きと比較する参考情報として、格好の資料だと思います。【4】
 
 
初出誌︰巻末に以下の情報が記されています。
「ニッポン・七〇年代前夜」
初出 『文藝春秋』(文藝春秋)一九七一年二月号
書籍 『巨大プロジェクト動く』(廣済堂出版、一九九四年七月)
   『小松左京全集完全版47』(城西国際大学出版会、二〇一七年六月)
   *『文藝春秋』記事を底本とした。

「万国博はもうはじまっている」
初出 「万国博覧会資料」一九六六年
書籍 『未来図の世界』(講談社、一九六六年九月)
   『小松左京全集完全版28』(城西国際大学出版会、二〇〇六年十月)
   *講談社『未来図の世界』を底本とした。「万国博覧会資料」の現物は確認できていないが、万博協会関係者によれば、六六年七月より、万博協会主催で国内企業の参加奨励のための説明会が行われ、小松は丹下健三と共にその講師を務めた。本稿は、理念を担当した小松が説明会の資料用に書いた文章であると推測される。同資料の現物をお持ちの方は、編集部までご一報ください。

 
 
 
posted by genjiito at 20:16| Comment(0) | ■読書雑記

2018年12月10日

読書雑記(251)河添房江著『源氏物語越境論』から科研の現状を想う

 河添房江氏の『源氏物語越境論 唐物表象と物語享受の諸相』(岩波書店、2018年12月7日)が刊行されました。

181210_kawazoe.jpg

 本書に収録されている諸論稿の中でも、第三編の3本の論稿は、広く読まれるようになればいいと思い続けていたものです。
第三編 近現代における受容と創造
 第一章 国民文学としての『源氏物語』――文体の創造
 第二章 現代語訳と近代文学――与謝野晶子と谷崎潤一郎
 第三章 翻訳と現代語訳の異文化交流――世界文学へ

 それが、読みやすく整理されてまとまっているのを確認し、一人勝手に安堵しました。
 自分の興味と関心のありようから、与謝野晶子と谷崎潤一郎には思い入れがあります。それ以上に、『源氏物語』の受容に関する問題として、世界各国で翻訳されているものを対照とした研究が広がればいいと願い、折々に機会を得てはその話をしてきました。特に若い方々には、これから取り組む研究テーマの一つとして、問題意識を持っていただきたいと思っていたものです。メインでなくてもいいのです。主食でなくてもいいのです。幅広くものを見る上で、このテーマは大切だとの思いからでした。
 今回、本書の第三編の中でも、特に「第三章 翻訳と現代語訳の異文化交流――世界文学へ」は、現在私が取り組んでいる科学研究費補助金による研究(「海外における平安文学及び多言語翻訳に関する研究」)との関連から、周りにいらっしゃる方々に、ぜひとも読んでくださいと言える章となっています。
 この章は、本書の中では周縁に位置するものです。けっして、メインのテーマではありません。河添氏がおもちの多くのテーマを、側面から支える1つのものでしかありません。しかし、私には、まずはこの章だけで満足をしています。この章が置かれているだけで、河添氏に感謝したい気持ちです。
 さらには、この章の後注で次のような記述があり、これに勇気づけられました。

(1)伊藤鉄也氏の「海外源氏情報」のサイト(http://genjiito.org/)では、『源氏物語』翻訳史として、一八八二年の末松の英訳から、最新の二〇一六年の朴光華のハングル訳の夕顔巻まで、各国の翻訳情報を計二九〇件、挙げている。その他、このサイトでは、『源氏物語』や平安文学の翻訳や国際会議、国際共同研究に関する諸情報やオンライン・ジャーナル(「海外平安文学研究ジャーナル」vol.1.0〜6.0)が提供されており有益である。


 個人的に取り組んでいる地味な調査の報告にもかかわらず、このようにして紹介していただけたことを、ありがたく思います。私だけではなくて、私のまわりで情報収集や資料の整理のお手伝いをしてくださっている多くの方々に、お役に立っているのだということを実感できる、心強い支援となっているのです。
 これまで、自分が論文の書き手であった頃には、このような注記が持つ意義や側面に意識が向いていませんでした。新たな生活の中で、1つの注が意外な研究支援の役割を果たすことを、今さらながらあらためて知らされました。他人さまにとっては、本当に些細なことです。どうでもいいことでしょう。しかし、このようなものの見方ができるようになったことを、自分一人で嬉しく思っています。

 今、この注の中で紹介されている「海外源氏情報」(http://genjiito.org)は、さまざまな問題に巻き込まれ、新しく予定している[海外平安文学情報]に移行できずにもがいているところです。最近は、その状況を、次のブログの記事にしています。

「科研のHP[海外へいあんぶんがく情報]が半歩前進」(2018年11月24日)

「科研[海外へいあんぶんがく情報]のHPが本格的に始動」(2018年11月29日)

 しかし、先週からこのホームページの移築がストップを余儀なくされています。外圧と無理解により、なかなか思うように進みません。

 川添氏の論稿の中の1つの注記から、このサイト「海外源氏情報」(http://genjiito.org)がお役に立っていることを、あらためて実感しました。現在、私を取り巻く周辺で生起する雑音に負けることなく、研究協力者とともに着実に前を見て[海外平安文学情報]のサイトの移築に向かって突き進んでいきたいとの思いを強くしました。

 以上、あまりにも個人的な感懐となりました。この記事がブログである、ということでご寛恕のほどを願います。
 それはさておき、本書の全体像を知るためにも、岩波書店のホームページから目次を引き、拙文の欠を補っておきます。

序 二つの越境――異文化接触とメディア変奏

凡 例

第T部 東アジア世界のなかの平安物語

第一編 威信財としての唐物
 第一章 『竹取物語』と東アジア世界――難題求婚譚を中心に
 第二章 『うつほ物語』の異国意識と唐物――「高麗」「唐土」「波斯国」
 第三章 『枕草子』の唐物賛美―― 一条朝の文学と東アジア

第二編 『源氏物語』の和漢意識
 第一章 高麗人観相の場面――東アジア世界の主人公
 第二章 唐物派の女君と和漢意識――明石の君を起点として
 第三章 梅枝巻の天皇――嵯峨朝・仁明朝と対外関係
 第四章 和漢並立から和漢融和へ――文化的指導者としての光源氏

第三編 異国憧憬の変容
 第一章 平安物語における異国意識の再編――『源氏物語』から平安後期物語へ
 第二章 『栄花物語』の唐物と異国意識――相対化される「唐土」
 第三章 平家一族と唐物――中世へ

第U部 『源氏物語』のメディア変奏

第一編 源氏絵の図像学
 第一章 「源氏物語絵巻」と『源氏物語』――時間の重層化と多義的な解釈
 第二章 「橋姫」の段の多層的時間――抜書的手法と連想のメカニズム
 第三章 「源氏物語絵巻」の色彩表象――暖色・寒色・モノクローム
 第四章 源氏絵に描かれた衣装――図様主義から原文主義へ
 第五章 源氏絵に描かれた唐物――異国意識の推移

第二編 源氏能への転位
 第一章 『葵上』と『野宮』のドラマトゥルギー――葵巻・賢木巻からの反照
 第二章 『半蔀』のドラマトゥルギー――夕顔巻からの転調
 第三章 『住吉詣』のドラマトゥルギー――澪標巻のことばへ

第三編 近現代における受容と創造
 第一章 国民文学としての『源氏物語』――文体の創造
 第二章 現代語訳と近代文学――与謝野晶子と谷崎潤一郎
 第三章 翻訳と現代語訳の異文化交流――世界文学へ


初出一覧
あとがき
索 引

 
 
 
posted by genjiito at 21:14| Comment(0) | ■読書雑記

2018年12月09日

読書雑記(250)【復元】〈その4〉『ユダの福音書を追え』のユダとは何者?

 これまでに、情報発信の母体としていたプロバイダのサーバーがクラッシュしたり廃業するなどによって、公開していたブログの記事が消滅したものが数多くあります。その内、探し出せた文章などを整理して、このように復元を続けています。
 今回は、『ダ・ヴィンチ・コード』と『ユダの福音書』に関するシリーズ全5話の内の、四つ目の記事の復元です。
 いずれも、『源氏物語』の生々流転を考えるときの参考になる事例だと思い、再建してここに残して置きます。

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年5月19日公開分
 
副題「新発見の古文書が語るドラマチックな流転の物語」

 今月の2日に『ユダの福音書を追え』(日経ナショナルジオグラフィック社)が発売されると同時に本書を買い、数日で一気に読み終えました。古書をめぐる、古美術商とその流転の物語です。ここで言う古書とは、『ユダの福音書』という1700年前のパピルス文書です。そのドラマチックな変転の軌跡を、推理仕立てで語っています。
 転々とするこの本の最終的な行方は、すでにニュースで知っているとはいえ、その背景の複雑さと数奇な運命に驚嘆するばかりです。本と人との波乱万丈の巡り合いが、次から次へと意外な展開の中で語られるので、休む暇なく読み耽ってしまいました。

1147978060_2.jpg

 『源氏物語』にも、このようなドラマがあってもいいと思います。いや、近い将来、こんな展開が日本でもありそうに思えました。『ユダの福音書を追え』を読み終えた満足感のまま半月が過ぎた頃に、そうだブログに書くのだった、と思い出したしだいです。ちょうど、今日は映画『ダ・ヴィンチ・コード』の封切り日です。この映画をいつ見に行こうかと、何かと忙しい日々の中で、その日の設定を思案しています。どうも難しいのです。突然映画館へ行くことになるはずです。

 さて、本書の冒頭に「BCE」と「CE」という略号の説明があります。世界史の時代区分の用語である「紀元前」と「紀元後」のことなのですが、この新語を今回初めて知りました。私はこれまでは、「B.C.」(before Christ)と「A.D.」(anno Domini)という略称で覚えていました。学校でそう教わったのです。しかし、今は「B.C.」は「BCE」(before Common Era)、「A.D.」は「CE」(Common Era)と言うのだそうです。これは、あくまでも特定の文化圏の時代区分を、別の文化圏に押し付けないための配慮なのだそうです。イエス・キリストの誕生年を基準にした西暦に違和感を抱いていた私は、この説明なら西暦のありように理解を示すことができます。この西暦を日本人が使うかどうかは、今は別の問題としておきます。

 それにしても、イエス・キリストとは何者なのか、本書を読んでみて、ますますわからなくなりました。

 これから本書を読まれる方の興味を削がないためにも、ここでは私の気を引いた箇所だけを紹介します。

この写本は二十年近くもの間、買い手を求めてエジプトから持ち出され、ヨーロッパから米国へと転々としていた。(379頁)


 これまでに運命的な出会いによって発見紹介された『源氏物語』の古写本も、それぞれが数奇な運命を背負っていました。もっとも、海外で発見されたものはないので、ドラマ性は低いのですが。私は、インドと中国にあるはずの、伝阿仏尼筆本と従一位麗子本の出現を心待ちにしています。

・問題の写本を持っていた古美術商のハンナは「ナイル・ヒルトンのコーヒーショップで待ちあわせすることもあっただろう。」(75頁)とあります。このカイロの中心地にあるホテルは、私が昨秋泊っていた所で、このコーヒーショップに、私も毎日いました。この物語が、俄然身近に感じられました。

カイロに移されたこのパピルスの写本には、歴史上最も有名な裏切りに関する異説が述べられ、ほとんど誰もが信じてきた事実がくつがえされていた。イエスが弟子の一人の裏切りによって磔刑にかけられたことは、ずっとキリスト教の教義の要だった。(改行) ところが、新たに見つかった福音書には、ユダはただ師イエスに言われたことをしただけ、という驚くべき記述があったのだ。(77頁)


 いわゆる常識となっていたものへの懐疑は、いつの世にもその検証が必要なようです。

キリスト教の歴史が始まってからずっと、キリスト教徒は、イエスはユダヤ人のせいで殺されたと非難し、ユダはイエスを裏切ったユダヤ人の象徴であった。もし、本当にイエスとユダが、ユダの使命について示し合わせていたのなら、ユダヤ人とキリスト教徒の関係のとらえ方も変わってくる。(81頁)


キリスト教を、ユダヤ人以外の人々にも分かりやすく伝えたのは、パウロの大きな功績のひとつだった。(中略)パウロの不断の努力が実って、キリスト教は、ユダヤ教という母体から離れ、独自の宗教としての地位を確立していく。(245頁)


『ユダの福音書』は、新約聖書とほぼ同時代か、ほんの少し後で書かれたものだ。そしてこの文書は、ユダが正しい行動をとったと擁護している。(201頁)


 本当に、キリスト教とは何かが、改めて問われる時代に入ったと思います。もっとも、無宗教の典型的な日本人を自負する私は、この問題に切実さは感じないのですが。
 従来のキリスト教の教義を信奉していた方々は、こうした資料の出現に対して、どのように思っておられるのでしょうか。

巻物ではない冊子本の写本は、聖典や古い文書の原典を複写したものである。巻物よりもずっと多くの分量を記すことができ、取り扱いも容易なため、初期キリスト教の教徒は冊子本を用いた。(178頁)


 『源氏物語』にも、絵巻詞書と冊子本があります。最初の『源氏物語』は、巻物だったのか冊子本だったのか。私は、当初の物語は巻物形式だったと思います。それを整理した段階のものが、冊子本だと思っています。

キリスト教正典としての新約聖書は徐々に形成されていき、完成するまで何世紀もかかった。(248頁)


 そうです。わが『源氏物語』も、長い時間の中で成長し文字として固定したのだと、私は勝手に思っています。

初期キリスト教の世界は波乱に満ち、福音書にしても、現在新約聖書に収録されている四つだけでなく、三十以上も流布していて、それぞれが正典であると主張していた。(249頁)


 『源氏物語』も、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、たくさんの写本が伝えられていました。それが、徐々に整理され、五十四巻にまとめられ、統合して一つの証本なるものが定められて来ました。どの国にでも、同じような経緯があるようです。

エイレナイオスは(中略)、福音書は四種類だけであって、多数存在してはならないと宣言した。四と言う数は意味があって、(中略)福音書も四つでなければならなかった。福音書として認められるのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのみであり、いずれも神の啓示を受けたものとされた。のちに、この四つが正典福音書となる。(259頁)


 日本でも、三とか六とか八は神聖数とされてきました。どこの国でも、特別の意味を持つ数字があるものです。

こうした著作が消えていったのは、古代から中世にかけて、筆記者が書写をやめたからである。プロフェッショナルの筆記者が模写を行うのは、そういう依頼があって、報酬が支払われる場合だけである。キリスト教の教典が神学理論にとって不要、あるいは危険と判断されたら、そうした書物の模写を依頼する者はいないし、筆記者自身が仕事を拒絶した可能性もある。現存しているキリスト教関係の手稿本のほとんどは、独立したプロフェッショナルの筆記者ではなく、修道院で製作されたものである。「異端」の書の書写を、修道院長が認めるはずがない。また本の材料や書写サービスは、とくに古代には費用がかかるものだったので、需要のない書物はすぐに消えていった。(271頁)


 『源氏物語』も、書写を専門とする人たちの一団がいて、お金をもらって書写していました。いわゆる賃書きです。奈良の天理近辺にもいたようです。『源氏物語』が普及するにともなって、異本や異文は書写されなくなります。私は、この書写されなくなっていった本文である〈別本群〉に興味を持っています。『源氏物語』の本文についても、まだまだ解明されていないことが多いのです。

『ユダの福音書』が写本専用の写字室で作成されたものであるのは明らか(359頁)


 『源氏物語』の別本と言われるものが、ほとんど今に伝わらないのは何故なのか、という疑問に関連することだと思われます。古典の伝流と、その裏側にいる書写者の存在について、注意しておきたいものです。

・放射性炭素年代測定によると、「ユダの文書が作成されたのは紀元二四〇年から三二〇年の間」(351頁)ということになっています。
 『源氏物語』の鎌倉期の古写本に対して、このような調査の手が延びることを期待しています。

『ユダの福音書』の中のイエスは大いに笑い、地上に生きる人々のありとあらゆる欠点や、さまざまな個性の中にたっぷりとユーモアを見出している(354頁)


 キリストは、四箇所で笑っているそうです。キリストは人間とどう違うかを考える上で、非常に大切なポイントだと思われます。

『ユダの福音書』には、その後の歴史においてユダヤ人に対する蔑視や大量虐殺、あるいはナチの強制収容所における大虐殺を引き起こすことになる。いわゆる血の中傷をもたらすような内容は記されていない。ユダは、イエスに愛された弟子として、崇拝する主の意向に従ったのだ。(374頁)


 世界史の再検討を促すような話です。

 なお、『ユダの福音書』に関する内容と問題点だけを知りたい方は、『ナショナルグラフィック日本版 ユダの福音書を追う』(2006年5月号、日経ナショナルジオグラフィック社)という雑誌を読まれることを薦めます。

1147978060_1.jpg

 私は、こちらの方から読みました。もっともこれは、書籍に先立つ4月28日に発売になった、という事情もありますが。こちらを読んで、興味が掻き立てられたら書籍の『ユダの福音書を追え』を読んで、本をめぐるドラマに参加したらいいと思います。

 冊子には、次のことばが記されています。

レマン湖にある建物では今も、専門家がばらばらになったパピルス文書の修復作業を続けている。―現代によみがえったユダが、まもなくその姿を現そうとしている。(58頁)


 こうした基礎的な資料の検討は、評価は低いのが実情です。しかし、ぜひみんなで継承したい仕事だと思います。目先の成果よりも、近い将来を見据えての評価と提言の方が、今は大切なことではないでしょうか。
 
 
 
posted by genjiito at 19:17| Comment(0) | ■読書雑記

2018年12月05日

読書雑記(249)【復元】〈その3〉「空中分解する日本語訳」

 これまでにブログとして公開しながらも、何度も消え去った記事を復元したものです。
 今回は、2006年4月8日に公開した、「読書雑記(248)【復元】「古代エジプト語(コプト語)の写本解読」」(2018年12月03日)に続くものです。これは全5回で構成されており、その内の3つ目の記事になります。

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年4月8日公開分
 
副題「原書はどんな文章なのでしょうか」
 
 久しぶりにハズレの本を読むことになりました。
 先日のブログで触れた『ダ・ビンチ・コード・デコーデッド』(集英社、2006.4.10)は、目次と小見出しに釣られて買った本でした。既述の通り、『ダ・ビンチ・コード』を読み終わったので、早速、本書を手にしました。読んでみてガッカリ。半ばまでは、まったくおもしろくありません。というより、日本語の文章がすんなりと入ってきません。知識の断片がこれでもかと飛び交うだけで、キリスト教に素人の私には、とてもついて行けません。話が次から次へと展開し、あっちへ跳びこっちへ跳びしているうちに、内容が空中分解していくのです。私には、そうとしか感じられず、本当に字面を流し読みするしかありませんでした。

1144508167_1.jpg

 半ばを過ぎたころに、こんな文字列に、フト目が留まりました。

キリスト教徒の休日は土曜日から日曜日に変更され、ユダヤ教とキリスト教との間の距離が広がった。しかも、かつてキリストの誕生日は一月六日に祝われていた。(127頁)


 しかし、この話題もおもしろくならないままに、すぐに終息します。楽しそうなネタが並んでいるようなのです。しかし、原作者が話ベタなのか、それとも日本語の翻訳がうまくいかなかったのか、本当に気の毒な本になっています。
 一見して豊富そうなネタを、読者のほうで繋ぎ合わせて楽しめる人にとっては、意義深い本なのでしょう。しかし、私には、とてもついて行けません。原作が酷いのか、日本語訳に問題があるのか、あるいは読者を選ぶ本なのか。私とは相性の合わない本であったことは確かです。自分の理解力の欠如は、今は目を瞑ります。
 後半に、教訓書からの次の引用がなされています。皮肉にも、これは私にとっての本書のことを言い当てているようなので、ついチェックをしてしまいました。

本を買うときには必ず、博学で慎重なキリスト者の忠告を仰ぐようにしよう。無益なものや、有害なものを買ってしまうかもしれないから。本をかかえていると思ってはいるが、ごみ袋を持ち歩いている人が実に多い(127頁)


 言いえて妙、とはこのことでしょうか。私は、しっかりと、ごみ袋を抱えてしまいました。

 あまり貶してばかりではいけないので、本書を読んで少し勉強になったことも記しておきましょう。第五章(123頁)と第七章(158頁)にある以下の文章は、今後の確認事項になるかもしれません。前述の「キリストの誕生日」のことも、この部分にあります。これらは、本当は、本書で詳しく、楽しく述べておいてほしいことなのですが。

コンスタンティヌスは歴史の書き換えを決行する機会をつかみ、新版・新約聖書の編纂を命じた。キリスト教の指導者たちが適切だと判断した範囲内で、自由な創作が認められたのだ。〈改行〉 これの意味するところは、現在我々の元にある新約聖書は、四世紀に、コンスタンティヌスにとって好ましい政治的意図をもって書かれたということである。それは、アメリカ大統領が、自分の政治的目標と合致するようにシェクスピアを修正するようなものだ。
(中略)我々の知っているキリスト教の創立者は一世紀のイエス・キリストではなく、四世紀のコンスタンティヌスとなる。(「新約聖書の書き換え」の項、129頁・131頁)
 
 
我々が信じ込むよう仕向けられたもう一つの誤解は、ユダによるイエスへの裏切りである。ユダが、自分にとって不利であるにもかかわらず、警戒されているキリストの使徒だと宣伝することは不自然であり、彼がこの役割に選ばれたのは、反ユダ的策略の一環である。イエスの告発を招いたとされているユダヤの人びとと、名前が似ているためだった。(「ユダの〈裏切り〉」の項、156頁)


 この指摘は、昨日のニュースで発表された、2世紀に異端の禁書として文献に出てくる〈ユダの福音書〉の解読のことなどは、まったく知られていない時点で書かれたものです。「反ユダ的策略の一環」というのは問題ですが、ユダの裏切りへの著者なりの疑問は、もっと信念を持って書き込めばよかたっのにと、惜しまれます。

福音書の中には、キリスト教の〈公認路線〉に合致しないために切り捨てられたものもある。元来の、互いに矛盾するマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、その時々の流儀と政治的傾向に沿って訳され、書き換えられてきた。五千ほど現存する新約聖書の写本の中に、四世紀以前のものはない。昔の柄と刃がその時々に取り換えられてはいても、提示されているのは原初のキリスト教の斧だと信じる者もいるようだが、それは明らかに間違っている。(「福音書の書き換え」の項、157頁)


 ここに、「四世紀以前のものはない」とあります。しかし、昨日のニュースによると、2世紀には確認されている〈ユダの福音書〉の解読に成功したのですから、これからの進展が楽しみです。

 結局、私はこの本を、読み飛ばすことになりました。これだけ氾濫する出版物の中から選択するのですから、こんなこともある、という例として記しておきます。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
 
posted by genjiito at 20:06| Comment(0) | ■読書雑記

2018年12月03日

読書雑記(248)【復元】〈その2〉「古代エジプト語(コプト語)の写本解読」

 これまでにブログとして公開しながらも、何度も消え去った記事の復元です。
 今回は、2006年4月6日に公開した、「読書雑記(247)【復元】『ダ・ビンチ・コード』」(2018年12月02日)に続いて書いた記事です。

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年4月7日公開分
 
副題「『ユダの福音書』の写本が解読されたニュース」
 
 Yahooニュースに、以下のような読売新聞、共同通信、時事通信の記事が掲載されていました。
 『ダ・ビンチ・コード』を読んでから、こんなニュースに目が留まるようになりました。
 まずは、時間的に早い読売新聞から。(引用者注:ネットのニュースの全文引用はどこまで許されているのか、今は不明なので、そのまま引きます。問題があるようでしたら、どなたかご教示をお願いします。)

■ユダ裏切ってない?1700年前の「福音書」写本解読
 米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフィック協会」は6日、1700年前の幻の「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。
 イエス・キリストの弟子ユダがローマの官憲に師を引き渡したのは、イエスの言いつけに従ったからとの内容が記されていたという。
 解読したロドルフ・カッセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。
 13枚のパピルスに古代エジプト語(コプト語)で書かれたユダの福音書は、「過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」で始まる。イエスは、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。
 同文書は3〜4世紀に書かれた写本で、1970年代にエジプトで発見され、現在はスイスの古美術財団で管理されている。同協会が資金援助し、カッセル元教授らが5年間かけて修復、内容を分析した。
 福音書はイエスの弟子たちによる師の言行録で、実際は伝承などをもとに後世作られたものと見られている。うち新約聖書に載っているのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人分だけ。ユダの福音書は、2世紀に異端の禁書として文献に出てくるが、実物の内容が明らかになったのは初めて。
 詳細は、28日発売の「ナショナルジオグラフィック日本版」に掲載される。
(読売新聞) - 4月7日3時13分更新


 今日のお昼には、共同通信が、以下のニュースを流しました。

■裏切りはキリストの指示? 「ユダの福音書」写本解読
 【ワシントン6日共同】米地理学協会(本部ワシントン)は6日、「異端の書」としてほとんどが破棄されたとみられていた「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。キリストを敵に売った使徒として知られるユダが、実はキリストの指示を受けていたと記されており、今後論争を呼びそうだ。
 写本は古代エジプト語(コプト語)でパピルスに記され、放射性炭素による年代測定などで、3−4世紀(約1700年前)の本物と鑑定された。
 ギリシャ語の原本から訳されたとみられ、キリストは、自分を人間の肉体から解放する手助けを、教えの本当の意味を理解していたユダに頼んだとの内容になっている。(共同通信) - 4月7日11時44分更新


 この写本の内容が、これまでのキリスト関係の理解をどのように変えるのかは、素人の私には皆目見当もつきません。しかし、今までの解釈に何かが付加されることは確かでしょう。
 と、昼食をとりながらこの記事を書いている時に、このニュースサイトの内容が更新されました。上記のニュースは、本日11時台のものであり、12時台には、時事通信の以下のような詳細な記事となりました。

■「わたしを裏切りなさい」=キリストが弟子ユダに命令・古写本解読
  拡大写真の一部を切り抜き引用((Copyright (C) 2004 〔AFP=時事〕 All Rights Reserved.)12時09分更新)

1144381177_1.jpg

【ワシントン6日】約1700年前に書かれた初期キリスト教の外典「ユダの福音書」の写本が解読され、米ナショナル・ジオグラフィック協会で公開された。新約聖書には、イエス・キリストの弟子ユダがイエスを裏切り、刑吏に引き渡したと記載されているが、「ユダの福音書」では、イエスがユダに対し、自分を裏切るよう命じていたと書かれてあり、キリスト教理解に大転換を促す内容になっている。
 この古写本はギリシャ語で書かれた原本のテキストを紀元3―4世紀に古代コプト語に移し替えたうえでパピルスに記録されたもので、66ページに及んでいる。放射性炭素測定やインク分析などを使った徹底的な分析を経て、本物と認定された。
 写本には、イエスがユダに対し、「お前はあらゆることがらを越えていくだろう。なぜなら、お前はわたしを包んでいるこの男を犠牲にするからである」と述べたとあり、イエスの肉体からの離脱を手助けすることによって、ユダはイエスの内部にある聖なる「セルフ」の解放を手伝ったと解釈されるという。
 ナショナル・ジオグラフィックの担当研究者は「写本の解読はキリスト教研究史上、過去60年で最も重要な発見の一つであり、初期キリスト教の理解のあり方に多大の貢献をするものだ」と位置づけている。
 「ユダの福音書」の写本は1970年代にエジプトで見つかり、さまざまな骨董商の手を経て欧州から米国に渡った。ニューヨークの金庫に16年間にわたって保管された後、2000年にスイス・チューリヒの骨董商に買い取られた。
 歴史に「ユダの福音書」の名が登場するのは、紀元180年にリヨン司教の聖イレナエウスが残した文書が初めて。この文書では、福音書は偽書であると決め付けられている。
(時事通信) - 4月7日12時9分更新


 現在読み進めている『ダ・ビンチ・コード・デコーデッド』を今日中に読み終えるつもりです。この本にも、このニュースと関連することが書いてあるので、また改めて報告します。今は、取り急ぎ、ということで。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
posted by genjiito at 22:59| Comment(0) | ■読書雑記

2018年12月02日

読書雑記(247)【復元】〈その1〉『ダ・ビンチ・コード』

 これまでに何度も、ウエブに公開した記事が消えています。すべて、プロバイダの情報管理に起因するものでした。特に、2004年から2006年にかけて書いたブログの記事は壊滅状態です。
 そのような中で、自宅のハードディスクの中やウェブ上で幸運にも探し出し、拾い出せた文章や写真は見つけ次第に、忘れない内にと復元してきました。これまでに、105本の記事を復元して公開しています。記事のタイトルの中に【復元】と記しているので、検索すればそれらを特定することは容易です。

 今回の復元記事は、今から12年半以上も前に書いた5本を、公開した順番にアップします。
 いずれも、ベストセラーとなった小説『ダ・ビンチ・コード』に刺激され、当時いろいろと聖書や福音書に関する本を読んでいた頃のメモです。こうした問題は、10年も経った今はどのような評価がなされているのか、今まだ検証していません。的外れなコメントや、すでに批判の対象となっていることを取り上げているかもしれません。その点は、かつての記事をそのまま復元したものであり、その後の勉強が追いついていないということでお許しください。
 しかし、『源氏物語』の本文が写本としてどのような経緯で今に伝えられて来ているのか、という問題意識は明確にその根底にあります。
 このようなことを考えていた、というメモとして、ここに復元しておきます。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年4月6日公開分
 
元題「聖書の増補・改訂とは?」

副題「知的な刺激に満ちた『ダ・ビンチ・コード』」
 
 角川文庫の『ダ・ビンチ・コード』が、発売1ヶ月ほどで発行部数が百万部を突破したそうです。来月から映画が公開されるので、そのこととも関連して読む人が増えているのでしょう。
 私も、単行本の時から読もうと思いながら、それでも文庫化を待っていました。電車の中で読むことになるので、持ち歩きに便利な文庫本が重宝するからです。単行本が2冊セット、文庫本が3冊セットです。さらには、写真が100枚以上も収録されたビジュアル版もあります。しかし、これは重たい本です。
 海外の翻訳物を読む時、私はどうしても巻頭に添えてある「主な登場人物」のリストを参考にします。それが今回、なんとなく犯人が見えてきた原因となりました。上中下の3冊のうち、中巻でおおよそわかりました。犯人探しにはあまり興味がないので、どうでもいいことですが。

1144252835_1.jpg

 何かと話題になっている割には、この本はそんなに長く読みつがれることはないように思われます。おもしろい話です。しかし、その反面、飽きやすいともいえましょう。もう一度読もうとは思わない人が多いと思います。
 私は、この本を読んでから、すぐに『ダ・ビンチ・コード・デコーデッド』(集英社、2006.4.10)を買いました。「デコーデッド」とは「解読」の意味なので、これは謎解き本です。すでに、『ダ・ビンチ・コード』の嘘を暴く式の本が何冊か書店に並んでいます。しかし、これは、そうした興味本位一色ではないようなので買いました。でも、まだ読んでいません。このブログを書くまでは、自室のこれから読む本を並べた書棚に置き、頁を繰るのは我慢しています。この本は、ようやく明日から読むことになります。

 『ダ・ビンチ・コード』を読んで、私は、登場人物の一人である英国人の宗教史学者ティービングの、次のことばに興味を持ちました。

聖書は人の手によるものだということだ。神ではなくてね。雲の上から魔法のごとく落ちてきたわけではない。渾沌とした時代の史記として人間が作ったもので、数かぎりない翻訳や増補、改訂を経て、徐々に整えられた。聖書の決定版というものは、歴史上一度も存在していないのだよ(文庫・中・130頁)


 このくだりの「増補、改訂」に、私は反応しました。私は、現在伝わっている『源氏物語』が、紫式部一人が執筆した作品だとは思っていません。いろいろな人の手が入った、いわば「増補・改訂」されたものを、今読んでいると思っています。だから、こうした記述に出会うと、つい反応するのです。聖書もそうなのか? と。
 そして、次の箇所では、エジプトやインドへと思いが飛びました。

十二月二十五日はエジプトのオシリスや、ギリシャのアドニスとディオニュソスの誕生日でもある。また、インドのクリシュナが生まれたときには、イエスと同じく金貨と乳香と没薬を贈られている。キリスト教の毎週の聖日すら、異教から借用したものだ(132頁)


 私はキリスト教について疎いので、おもしろい指摘だと思いました。
 さらには、次もそうです。

“神の子“というイエスの地位は、ニケーア公会議で正式に提案され、投票で決まったものだ」(134頁)


 こうしたことは、学問的にはどうなっているのか、興味があります。ティービングの語ることは、まだ続きます。今度は、少し長い文章を引用します。非常に問題のある箇所だと思います。

コンスタンティヌスは資金を提供して新たな聖書を編集するよう命じ、イエスの人間らしい側面を描いた福音書を削除させ、神として記した福音書を潤色させた。以前の福音書は禁書とされ、集めて焼却された(中略)
 コンスタンティヌスが抹殺しようとした福音書のなかには、かろうじて残ったものがある。一九四〇年代から五〇年代にかけて、パレスチナの砂漠にあるクムラン付近の洞窟で、死海文書が発見された。そして、一九四五年にはナグ・ハマディでコプト語文書が見つかっている。これらは聖杯の真実の物語を記すとともに、イエスの伝道を実に人間くさく描いている。もちろんヴァチカンは、情報操作の伝統に則って、文書の公開を懸命に阻止しようとした。まあ、当然だろうな。これらの文書によって、史実とのあからさまな矛盾や欺瞞が露見し、今日の聖書が改竄編集のたまものであることが疑問の余地なく立証されるのだから。イエス・キリストという男こそ神であると言い広めて、その影響力を権力基盤の安定のために利用してきたことが発覚してしまう(136頁)


 聖書が編集された背景、とでもいうべきものが暗示されています。「今日の聖書が改竄編集のたまもの」だという記述は、その真偽を調べたくなります。その聖書の編集者に関して、ティービングはさらに次のように語りを展開させていきます。

かつての教会は、人間の預言者であるイエスが神だと世間を納得させなくてはならなかった。それゆえ、イエスの生涯の世俗的な面を記した福音書を、すべて聖書から除外した。しかし昔の編集者にとっては不都合なことに、とりわけ扱いにくいひとつの話題が数々の福音書に繰り返し現れていた。それがマグダラのマリアだ(153頁)


 最後にもう一箇所、興味あることばを引いておきます。

イエスは男女同権論者の草分けだ。教会の未来をマグダラのマリアの手に委ねるつもりだった(161頁)プラム


 ここで引いたこれらのことばは、すべて中巻にあります。この本は、この中巻までが一番盛り上がります。そして、下巻に入ると、徐々におもしろくなくなりました。読後感は、肩すかし、というのが正直なところです。後半がもったいないように思えます。でも、知的な刺激を与えてくれた点では、いい作品といえましょう。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
posted by genjiito at 19:45| Comment(0) | ■読書雑記

2018年11月14日

読書雑記(246)山本兼一『心中しぐれ吉原』

 『心中しぐれ吉原』(山本兼一、角川春樹事務所、2014.10)を読みました。

181114_sinjyuu.jpg

 この作品も、しっかりとした山本らしい文章なので、ゆったりと、それでいて時にどんな展開になるのか作者の手腕に探りを入れながら、頁を繰るのを楽しみつつ読み通しました。山本兼一は、いつも期待を裏切りません。

 蔵前の札差である大口屋文七の妻みつは、役者の極楽屋夢之丞と茶屋で心中をしたのです。それに合点がいかず、戸惑うばかりの文七の様子から語り出されます。
 これは相対死なのか殺人なのかで、心中とされた双方の言い分が分かれます。妻のみつは夢之丞に殺されたと信じて疑わない文七は、死因の究明に奔走します。

 状況は不利なことばかりです。それでも、みつは裏切らないはずだとの信念で、殺されたに違いないとの思いで、文七は実際に何があったのかを探り続けていきます。時に妻を疑うこともあります。しかし、やはり信じ続けるのでした。

 心中したと思うしかない妻みつの四十九日が過ぎてから、文七は花魁の瀬川を見請けします。そんな話の中で、花魁が札差や奉行を手玉に取る姿が、いかにも見てきたかのように活写されます。これまでの山本兼一とは別の、色街の世界と花街の女たちの生態が艶っぽく繰り広げられます。

 花魁を身請けして、新しい心豊かで幸せな生活を始めたのも束の間、あろうことか強盗に金品を盗まれ、新居に火が放たれました。また、一からのスタートです。

 後半は、息つく暇もない急展開となります。語り口が穏やかだけに、引き込まれて読み耽ります。
 妻みつの死は心中だったのか、そうではなかったのか。読者にとっては、最後まで引き回されます。そして、その真相が語られるくだりは、あまりにも淡々とした語り口で、しかも意外なものだったので、2度も読み返してしまいました。【5】
 
初出誌︰『ランティエ』2008年4月〜2009年10月に掲載分に大幅な加筆・訂正
 
 
 
posted by genjiito at 23:45| Comment(0) | ■読書雑記

2018年11月07日

読書雑記(245)白川紺子『下鴨アンティーク  アリスの宝箱』(最終 第8巻)

 『下鴨アンティーク アリスの宝箱』(白川紺子、集英社オレンジ文庫、2018年5月)を読みました。この第8巻が、このシリーズの最終巻となります。

181030_simogamo8.jpg 
 
■「鶯の落し文」
 野々村家に引き取られた津守幸が主人公となります。「幸」は「ゆき」と読みます。しかし、私はつい「さち」と読んでしまいます。紛らわしい読みの名前は、読むスピードが落ち、物語の中に入りにくいので困ったことです。他にも、真帆の父は弥生と言います。これも、慣れればいいものの、つい女性だと思ってしまい気が散ります。
 物語は、『不思議の国のアリス』を思い出すメルヘンチックな内容です。消えるのは、着物の柄ではなくて、笄に取り付けられた鶯です。【3】
 
 
■「青時雨の客人」
 春野に、牡丹柄の振袖を着た少女が取り憑いているというのです。
 物語に情緒を求める方には、この話はしっとりしていていいかもしれません。しかし、物語に躍動感や意外性を求めたくなる私には、非常に退屈でした。【2】
 
 
■「額の花」
 語り手は、彫金の額紫陽花のブローチです。そして、鹿乃や慧は背景にいます。 語り手の視線が新鮮です。語り口も優しくて、ふわっと話が入ってきます。インパクトがなくて物足りないと思いながら、流れるように読み終えました。これも一つの物語の書き方のようです。【3】
 
 
■「白帝の匂い袋」
 この文庫本で106頁の分量なので、中編小説と言えます。
 京言葉がきれいです。物語も品があり、惹き込まれる作品に仕上がっています。
 主人公は16歳の鈴。東京から京都の野々宮子爵家に嫁いだ鈴は、化け物屋敷と言われる家で、夫となる心優しい季秋と出会いました。摩訶不思議な世界での、現実とファンタジーが入り混じる生活が始まります。
 その中で、魔物との格闘劇がアクションドラマそのままに展開します。明治時代を舞台にした活劇と言えます。思いがけず、作者のパワーと筆力を体感することができました。
 鹿乃たちにつながる、野々宮家の先先代の話です。その枠組みが、少し弱いように思いました。このシリーズの中での位置付けをもっと明確にしたら、本作はさらに完成度の高い作品として独立していくことでしょう。【5】
 
 
■「一陽来復」
 いつものメンバー、鹿乃、惠、良鷹、幸が揃っての小話です。
 良鷹が鹿乃に与えた、魔除けのような抱え帯をめぐる話です。鹿乃の帯にあった12頭の子虎のうち、1頭だけが抜け出し、慧のマフラーに飛び移り、そしてまた元に戻りました。幸は、チリチリと鳴る虎の根付を持っています。軽妙な語り口で、ほのぼのとした話です。【4】
 
 
■「山吹の面影」
 良鷹の父の事故死をめぐっていろいろと調べているうちに、不思議なことが起きていたのです。
 民俗学者だった良鷹の父は、狐憑きや添い嫁などのことを調べていたようです。そこからの話は、もっと語ってほしい内容です。なんとなく核心に触れずにまとめに入った、という感じがします。
 ラストシーンは、京都府立植物園の横の半木の道にハイキング気分で行き、サンドイッチを食べます。幻想的な世界と現実とが、あまりうまくは融合しなかったことが残念でした。もっと紙数を費やして、長編にすべきテーマだと思います。【3】
 
 
※本書がこのシリーズ「下鴨アンティーク」の最終巻です。最終巻は、バラバラの編集になっていると思いました。しかし、今後につながる成果が数多く見られました。
 これまでの作品を思い浮かべると、出来不出来の激しいシリーズだったように思います。今の所、この作者の他の作品で読むものはなさそうです。またいつか、出会えることを楽しみにしています。
 
 
※これまでの全8巻の内、私がおもしろいと思った作品をリストにしてみました。あくまでも個人的な評価ながら、【5】と【4】を付けたものを抜き出しています。
 
(1)「読書雑記(204)白川紺子『下鴨アンティーク アリスと紫式部』」(2017年08月22日)
 
 ■該当作ナシ
 
 
(2)「読書雑記(214)白川紺子『下鴨アンティーク 回転木馬とレモンパイ』」(2017年12月05日)
 
■「亡き乙女のためのパヴァーヌ」【5】
 
 
(3)「読書雑記(189)白川紺子『下鴨アンティーク 祖母の恋文』」(2017年01月09日)
 
 ■「金魚が空を飛ぶ頃に」【5】
 ■「祖母の恋文」【4】
 ■「真夜中のカンパニュラ」【4】
 
 
(4)「読書雑記(218)白川紺子『下鴨アンティーク 神無月のマイ・フェア・レディ』」(2018年01月10日)
 
 ■「兎のおつかい」【5】
 ■「星の花をあなたに」【4】
 ■「神無月のマイ・フェア・レディ」【4】
 
 
(5)「読書雑記(229)白川紺子『下鴨アンティーク 雪花の約束』」(2018年06月06日)
 
 ■該当作ナシ
 
 
(6)「読書雑記(241)白川紺子『下鴨アンティーク 暁の恋』」(2018年10月08日)
 
 ■「暁の恋」【5】
 ■「月を隠して懐に」【4】
 ■「羊は二度駆ける」【4】
 
(7)「読書雑記(243)白川紺子『下鴨アンティーク 白鳥と紫式部』」(2018年10月23日)
 
 ■「雛の鈴」【5】
 ■「散りて咲くもの」【4】
 
 
(8)本書の記事
 
 ■「白帝の匂い袋」【5】
 ■「一陽来復」【4】
 
 
 
posted by genjiito at 19:56| Comment(0) | ■読書雑記

2018年10月30日

読書雑記(244)森下典子『日日是好日』

 映画化されたと聞き、大急ぎで『日日是好日』(森下典子、新潮文庫、平成20年11月)を読みました。読んでから観たかったからです。

181030_hibikore.jpg

 著者は二十歳の時、母に勧められてお茶を習い始めます。「茶人」の響きに惹かれて、「お茶、いいかも……」ののりで。
 本書は、週1回のお茶のお稽古を始めて26年目の平成14年に、それまでの体験や思うことを書き綴ったものです。

 お稽古に行った初日に、四角い帛紗の両端を引っ張って、「パン!」「パン!」と鳴らせます。「ちり打ち」というのだと。茶碗を洗い拭く時には、茶巾で底に「ゆ」と書くとか、お茶室に入る時にはいつも左足から入る、とあります。私がやっている裏千家とは違うことに気づきました。表千家のお作法のようです。

 お茶会の喧騒をハーゲンと見立てるなど、ユーモアたっぷりの語り口です。楽しく読み進められます。

 流れるように話が続く中で、「第九章 自然に身を任せ、時を過ごすこと」と、「第十一章 別れは必ずやってくること」が、破談と死別という内容から人の情に訴えかけ、生き生きと語られていると思います。

 本書は、小さな発見や心の気づきを、優しい文章で綴っています。さっと読めるので、映画鑑賞の直前にお勧めです。
 
初出誌:平成14年1月、飛鳥新社より刊行。
 
 
 
posted by genjiito at 18:18| Comment(0) | ■読書雑記

2018年10月23日

読書雑記(243)白川紺子『下鴨アンティーク 白鳥と紫式部』

 『下鴨アンティーク 白鳥と紫式部』(白川紺子、集英社オレンジ文庫、2017年12月)を読みました。

181004_antiqu.jpg

■「雛の鈴」
 鹿乃たちは楽しく着物を身に纏い、友達3人とひな遊びに興じています。そこへ、鹿乃が正式に付き合いだした八島慧が差し入れの「引千切」持って参入。会話が軽快に、ポンポンと弾むように飛び交います。リズミカルで心地よい文章です。
 帯をめぐる話が、親子や兄妹や恋人との情をたっぷりと含ませて展開します。心の温もりを語るのは、作者が得意とするパターンです。【5】
 
 
■「散りて咲くもの」
 西行の『山家集』に収録されている桜の歌が、野々宮家に残された最後の着物と関わっていきます。その八首の和歌は、失踪した叔母英子が短冊に書き残したものでした。英子のことを調査するために吉野へ行き、桜と着物の関係を追い求めます。
 蔵で見つけた英子の手紙は、草書で書いてあったので鹿乃には読めなかったとあります。

 半紙ほどの大きさの紙に、草書で文字が綴られている。やわらかく、流れる水のような清々しい文字。清らかさと強さを持つ字−英子の字だ。草書なので、鹿乃には何と書いてあるのかわからない。英子の手紙を掛け軸にしたものは、それひとつだった。鹿乃は掛け軸をしまい直すと、箱に戻し、それを抱えて母屋に戻る。(131頁)


 漢字が崩されていただけではなくて、変体仮名が使われていたから読めなかったのでしょう。
 めでたく蔵の着物はすべて取り出し、それぞれの着物にまつわる問題を解決することができました。鹿乃も高校を卒業です。また新しい物語が始まります。【4】
 
 
■「白鳥と紫式部」
 白い藤の花が描かれた着物が、突然届きます。それをめぐって、良鷹の同級生の死後の話が遺産相続がらみで展開します。
 『源氏物語』のことが話題に関わらせて語られます。ただし、物語の展開に深くは関係しません。『源氏物語』というネームバリューに寄り掛かった手法のようです。

 慧が着物の背を振さした。そこにひとつ、紋が刺繍されている。藤の花だ。こちらはちゃんと紫の藤だった。
「藤の花に、ええと−−」
 花に、文字が組み合わされている。鹿乃でも読める程度の崩し字だ。
「《藤壺》?」
 慧がうなずいた。
「『源氏物語』にちなんだ伊達紋だな」
 伊達紋というのは、家紋とはべつの、装飾目的の飾り紋だ。伊達紋は飾り紋のなかでも装飾性が高く、絵や文字を使って、花鳥風月や故事、文芸を表したりする。
「江戸時代に、こういう伊達紋だとか、かんざしや袱紗なんかで『源氏物語』を題材にするのが流行ったんだよ。雛形本に−−当時のファッションデザイン集だな、それに残ってる。それだけ『源氏物語』が広く庶民のあいだに知られていたっていう証左なわけだが」
 江戸時代のみならず、いまにいたるまで『源氏物語』は着物まわりで好まれる題材である。
「ほな、この藤の柄も、藤壺からきてるんやな」
 藤壺−−というのは、光源氏にとって父帝のきさきにして、初恋の女性だ。(148〜149頁)

 −−あの着物は、ていさんのものなのだろうか。
 利光が家を追いだされるにまで至るほど、恋しく慕った相手。
「後妻だから、『藤壼』なんだろうか」
 慧のつぶやきに、鹿乃は「え?」とふり向く。
「利光さんは『光源氏』と呼ばれていた。そして藤壺は光源氏にとって、いわば、父親の後妻だろ」
 それになぞらえて誂えたのだろうか、と。
「ていさんが? それやったら、ていさんのほうも利光さんが好きやったんやろか」
 藤壺は光源氏と密通している。利光が勘当されたのも、そういう理由で?
「ていさんは、若いうちに亡くなった、て言うてはったな」
「そうだな。病気なのか事故なのか……もうちょっと詳しい話が聞けるといいんだが」(201〜202頁)

「たしか、〈紅葉賀〉のかんざしやったな」
「紅葉賀?」
「『源氏物語』だな」と、これは慧が答えた。「〈紅葉賀〉って巻があったろ」
「ああ……」鹿乃は記憶を掘り起こす。『源氏物語』はひと通り読んだが、巻の名前だけ言われても、すぐには思い浮かばない。
「紅葉賀−−紅葉の時季の祝宴に、光源氏が頭中将と〈青海波〉を舞うんだよ。夕暮れどきに紅葉のなかで舞を舞う、光源氏の美しさが際立ってる。紅葉と〈青海波〉に使われる鳥甲を合わせて、櫛やら伊達紋やらにされることが多い。かんざしにもしやすいモチーフだな」
「藤壺の着物に、〈紅葉賀〉のかんざし……やっばり、利光さんがどっちも誂えはったんやろか。ていさんのために」(233頁)


 着物とかんざしを光源氏と藤壺につなげるために、次のように語ってもいます。

 鹿乃は礼を述べて電話を切る。ていはおそらく、利光のことを想って、〈紅葉賀〉のかんざしを誂えた。〈紅葉賀〉−−紅葉を背景に、光源氏が舞を舞う。鳥甲は光源氏を表しているわけだ。
 光源氏、と利光があだ名されていたという話を思い出す。いわずもがな、かんざしは利光をイメージしたものだったのだ。嫁ぐ前にそれを誂え、利光を想うよすがにしたのではないだろうか。
 それを、ていの父親か、母親かわからないが、利光に譲り渡した。利光はー。
 だから、あの着物を誂えたのだろうか? ていが光源氏に利光をなぞらえてひそかにかんざしを持っていたように、利光も藤壺に、ていへの想いを託した。『藤衣』として、悼む気持ちとともに。(236頁)


 次の熟語「躊躇」は、和語にしたらどうでしょうか。わざわざ「ちゅうちょ」と振り仮名がついているので、この読みを意識しての表記です。白川紺子さんの文章を読んでいると、漢語表現のところを和語にしたら、もっと雰囲気が和らぐのにと思うことが多いのです。多分に好みの問題でしょうが。

ふくは涙とともに思い出が一気によみがえってきたのか、もはや躊躇もなく話しだした。(216頁)


 また、「断腸の思い」(217頁)ともあります。これも、中国の故事にまつわる熟語や漢語を強要された学校教育(?)を受けて来た、現代日本人の弊害だと思っています。「ためらい」や「はらわたが引きちぎられる」としたほうが、作品の中で和が醸し出す雰囲気に合うと思います。

 本作では、日頃はぐうたらしている良鷹が、人格が変わったようにキビキビと行動し、みごとな推理も見せます。作者が変わったかのようです。話を切り上げるためか、突然に不自然な設定になっています。
 また、『源氏物語』という作品が粗雑に扱われているのが気になりました。『源氏物語』がこの話の中では熟しきれなかったのでしょう。残念でした。【2】

■「あとがき」と「短い話」
 本巻でこのシリーズも終わりであることが告げられます。安定した筆致で語り進められた作品でした。
 この「あとがき」に続いて、短いお話がおまけとして付いています。うまくまとめきれなかったためか、大団円の挿話を読者に提供する形となっています。これはない方がよかったと思います。なお、番外編については、後日書きます。【3】
 
 
 
posted by genjiito at 20:29| Comment(0) | ■読書雑記

2018年10月16日

読書雑記(242)望月 麻衣『京都寺町三条のホームズ 10』

 『京都寺町三条のホームズ 10 見習い鑑定士の決意と旅立ち』(望月 麻衣、双葉文庫、2018年07月)を読みました。

181004_homes10.jpg

 このシリーズもこれで最終巻かと思わせる展開です。しかし、「あとがき」で作者が「京都ホームズは、まだ最終回ではありません。もう少し続きます。」(292頁)と言うように、もう少し続くようです。
 たしかに、一時は退屈な迷走がありました。しかし、掌編というつなぎの小話を入れながら、また息を吹き返しそうな気配が兆しています。もうしばらく、この物語にお付き合いしてみようかな、と思っています。
 
 
■「プロローグ」
 雪舟を意識して、鼠と斎王とみさごを配した掛け軸が、展覧会の後に盗まれます。その盗難事件と海外でのオークション、そして民法でいうところの「即時取得(善意取得)」の説明がわかりやすく語り出されます。

■「京の三弘法と蓮月の想い」
 ホームズは、四条通りに面した大丸京都店で修行をします。物語を離れた現実では、今年の8月下旬に、その大丸の隣にアップルストアがオープンしました。このことは、本作の発売日にはすでに知れ渡っていました。京都在住の望月氏は、アップルユーザーではないようです。
 作中でホームズは、四条通りを挟んだ大丸の真向かいのビルの2階にある「営業推進部」で仕事をしています。京大の大学院で「文献文化学」を勉強し、論文は『古都・京都の文化が世界に与えた影響』だといいます。
 ここでの話題は、観光ツアーのプランニングです。これは、後々展開するのでしょう。
 茶器と蓮月尼の話は、よくまとまっています。しっかりと次へとバトンタッチされていく章となりました。【4】

■「掌編 宮下香織の決意」
 以前にも書いたように、この小話は、単調になってきた物語に緩急をつけるために挿入された、別伝の話です。香織が語り手になっています。このように、視点を変えた話を挟む意図は何なのでしょうか。話の流れを切り替えるためか、マンネリ打破のためか、話に奥行きをもたせるためか。【2】
 
 
■「二人の旅立ちと不穏な再会」
 クルーズトレインの「七つの星」で、ホームズと葵は九州の旅に出ます。葵の誕生日を祝っての、いわば婚前旅行です。車中のことが丁寧に語られます。ファッション、食事と、明るい話題が続きます。
 そんな中、意外な人物が現れ、突然の謎解きが展開します。ただし、その内容といい推理といい、中途半端なものに留まっています。物語の内容のみならず、背景と登場人物の個性が鮮明になっていただけに、言葉足らずです。もったいないと思いました。【3】
 
 
■「瞳に映るもの」
 クルーズトレイン「七つの星」の中で起こった、嫌がらせの張り紙をめぐって、筆跡鑑定がなされます。具体的な例証が文字面からは伝わりにくいためもあって、スッキリしません。後半の求愛の場面は、さらりと語り終えようとしています。若い読者たちへの配慮でしょうか。もう少し語ってもよかったのではないでしょうか。【3】
 
 
■「掌編 宮下香織の憂鬱」
 挿話が中途半端です。いっそのこと、オムニバス形式にした方が良かったのでは、と思いました。
 香織は、「蔵」の店長に告白する前に振られます。話を持ちかけられての、そこでの店長の言い分に異議があります。あまりにも単純だからです。違う考えも、当然のことながらあります。【3】

■「エピローグ」
 爽やかなまとめです。これまでと、これからが見通せています。人の心が描けていると思いました。
 
 
■「掌編 秋人は見た〜一触即発の夜〜」
 短いながらも、軽妙で楽しい話です。この作者は、こうしたショートコントがうまいと思われます。物語性が求められる中編と、さらに構成力が必要不可欠な長編は、さらなる文章修行が求められると思いました。【4】
 
 
 
posted by genjiito at 19:57| Comment(0) | ■読書雑記

2018年10月08日

読書雑記(241)白川紺子『下鴨アンティーク 暁の恋』

 『下鴨アンティーク 暁の恋』(白川紺子、集英社オレンジ文庫、2017年6月)を読みました。アンティーク・ミステリー・シリーズの第6弾です。

180918_akatsuki.jpg

 快調に筆は進んでいます。そして、この巻が一つの折り返し地点となっているようです。

■「椿心中」
 居候で大学准教授の矢島慧に、主人公である野々宮鹿乃は前作で想いを告白しました。その後の鹿乃の心の揺らめきから語り出します。
 「衣通姫」と名付けられた、椿が描かれた振袖にまつわる話です。義兄弟の心中が背景にあり、よくまとまっています。ただ、その落ちた椿が枝に戻るところは、中途半端な処理のように思えました。
 鹿乃への一歩が踏み出せない慧の様子が、たどたどしい表現で語られます。これが、なかなか的確に心の中を読み当てているように思いました。最後は今後の展開を考えてか、どうも煮え切らないままです。【3】
 
 
■「月を隠して懐に」
 着物の柄に関係のある、能の「班女」と下鴨神社の話が意外と展開しなかったので惜しいと思いました。
 鹿乃は慧が怖いと思っていることを考えます。しかし、慧は父との会話の中で、鹿乃とのことを思い直すのでした。
 こうしたくだりで、慧と父の心の交流を描く場面には違和感を覚えます。何か違うのです。その反面、慧の母親は少ない言葉数ながらもよく描けていると思います。【4】
 
 
■「暁の恋」
 軒端の梅という帯と、和泉式部と民俗学が連環して話が展開します。さらには、『和泉式部日記』にまで発展していきます。日本の古典文学の香りが行間から漂って来ます。その和泉式部を巻き込んだ話が、折しも慧から突き放された時だったことと重なり、知人の大学生である石橋春野からのデートを鹿乃は承諾したのです。しかし、回りくどい話の流れを経て、慧は鹿乃に結婚の申込みをする事態にまで、一気に進むのでした。場所は蹴上のインクライン。
 人を好きになった者同士の心の戸惑いや迷いが、爽やかに語られます。着物の話が霞むほどに、行きつ戻りつしながら相手のことを想い合う、純粋な恋愛感情がぶつかり合う、恋物語が出来上がりました。さらには、慧はあれだけ遠ざけて来た父との生活に踏み切ります。そんなに急がなくても、と思うほどに円満な大団円で幕を閉じます。【5】
 
 
■「羊は二度駆ける」
 緩急自在の展開です。
 鹿乃と慧の話が幸せの道を歩み出しました。それと合わせたかのように、鹿乃の兄である良鷹と、その幼馴染である真帆の関係が、友達の一線を越えることになります。
 祟りの話は味付けに過ぎず、新しいカップルを生み出した話に仕上がりました。【4】
 
 
 
posted by genjiito at 19:26| Comment(0) | ■読書雑記

2018年10月04日

読書雑記(240)伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗、光文社新書、2015年4月)を読みました。

180904_mienai.jpg

 先入観が揺さぶられる本です。意外なことが、スッキリと理解できます。そーなのかーっ、と納得します。
 帯に書いてある文章が、本書の内容を端的に示しています。

 自分と異なる体を持った存在のことを、
 実感として感じてみたい

本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。(中略)障害者は身近にいる「自分と異なる体を持った存在」です。そんな彼らについて、数字ではなく言葉によって、想像力を働かせること。そして想像の中だけかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。(本文より)


 以下、私がチェックした箇所を、今後のために引用し列記していきます。
 
◆最近私は、点字ブロックの必要性と、その反面で迷惑がられている点について、街中で写真を撮りながら考えています。次の言葉に接し、何かヒントがないかと思って読みました。しかし、本書では点字ブロックについての言及はここ以外にはありませんでした。
たとえば新しい点字ブロックの考え方やより創意に富んだ支援サービスを生み出したらいいな、と私としては望んでいます。(42頁)

 
 
 ただし、次のような説明を見ると、街中の点字ブロックの利点が生かされていると言えます。この足の感覚を、もっと活用することで、点字ブロックの問題点を解決したいものです。
 そんななか、自分が透明人間でないということをかろうじて証明してくれるのは、周りにいる人や物に触れる触覚、そして何より足の裏の感覚です。暗闇に入ると、足の裏からこれほど多くの情報が得られるのかと、その豊かさに驚きます。見えない世界では、サーチライトの役割を果たすのは、目ではなく、足なのです。自分が立っているそこが土なのか、絨毯の上なのか。傾いているのか、平らなのか。体重をかけていいのか、まずいのか。もし見えないまま和室の中を歩いているとすると、畳の目の向きから、壁の方向さえ推測できるかもしれません。(121頁)

 
 
◆居住空間に関する次の指摘から、目が見えない方は触読で文字の識別をする時などに、独特の感性を発揮して崩し字なども正確に読めるのでは、と思いました。
 こうした見えない人の空間把握の仕方がわかるのが、見えない人の住まいのインテリアです。人は、世界をとらえるよう世界を作ります。つまり、空間のとらえ方が幾何学的で抽象的であるということは、幾何学的で抽象的な仕方で空間を作るということです。もちろん個人差はありますが、全体的な傾向として、見えない人の住まいは幾何学的で抽象的な傾向があります。
 幾何学的で抽象的な住まいといっても、椅子が真っ白いキューブだったりカーペットが無地の円形だったりする、ということではありません。言ってみればエントロピーが低い、つまり乱雑さの度合いが低い、ということです。余計なものがなく、散らかっていない。きちんと整理されていて、片付いているのです。
 理由は簡単です。物がなくなると探すのが大変だからです。きれいに片付いているということは、言うまでもありませんが、使ったものは必ずもとの場所に戻されているということ。つまり、あらゆるものに「置き場所」があるということです。ハサミは引き出しの中、財布はテレビの横、醤油はトレイの奥から二番め云々。置き場所がきちんと指定されていれば、欲しいものがすぐに手に入ります。
 あるべきものが「定位置」にない場合は、それを探さなければならないわけですが、これは見えない人にとっては非常に労力がかかることです。部屋のすぺての場所を手で触ってくまなく探さなければならないからです。リモコンが見つからなくて友達に電話して来てもらう、なんてことになりかねません。(58〜60頁)

 
 
◆次のことから、塙保己一を思い起こしました。
メモという形で情報をアウトソーシシグできないため、情報を効率よく蓄積しておく方法を身につけなければならなかったのです。(61頁)

 
 
◆「文化的なフィルター」を通して見ていることの意味を、ここで具体的に知ることになりました。
私たちは、まっさらな目で対象を見るわけではありません。「過去に見たもの」を使って目の前の対象を見るのです。
 富士山についても同様です。風呂屋の絵に始まって、種々のカレンダーや絵本で、デフォルメされた「八の字」を目にしてきました。そして何より富士山も満月も縁起物です。その福々しい印象とあいまって、「まんまる」や「八の字」のイメージはますます強化されています。
 見えない人、とくに先天的に見えない人は、目の前にある物を視覚でとらえないだけでなく、私たちの文化を構成する視覚イメージをもとらえることがありません。見える人が物を見るときにおのずとそれを通してとらえてしまう、文化的なフィルターから自由なのです。(67頁)

 
 
◆点字の識字率については、私もよく例に出す数字です。1割の方しか点字が読めないという現実の中で、身の回りになんと点字のラベルが氾濫していることか。私は、点字よりも音声によるガイダンスに力を入れるべきだと思っています。そのためにも、白杖をアンテナにすれば、無線で音が自由に拾えるのです。
 まず「見えない人=点字」の方程式について。少し古いデータですが、二〇〇六年に厚生労働省が行った調査によれば、日本の視覚障害者の点字識字率は、一二・六パーセント。つまり、見えない人の中で点字が読める人はわずか一割程度しかいないのです。(89頁)
 
 
 さらに深刻なことに、こうした電子化の影響は、若い世代ほど強く受けています。見える世界でも若者の「活字離れ」が叫ばれて久しいですが、見えない世界でも同じように「点字離れ」が進んでいます。若い世代は電子化の波をダイレクトに受けていて、パソコンや携帯を駆使して見える人と同じように情報を収集します。スマートフォンを使いこなす視覚障害者も増えています。タッチパネルも、もちろん使いこなします。(90頁)

 
 
◆現在、変体仮名は立体コピーにした資料で読んでいただいています。しかし、次の文章を読んでから、音声と融合したテキストを作成する方策を考え出しています。
 このようなことを知らずに、「見えない人=点字=触覚」の方程式で状況を解こうとしてしまうと、「見えない人にとって、必要な情報は何でも触れるようにしてあげるのがいい」と杓子定規に考えがちです。たとえば、図形や絵の情報を伝えるために、それを立体コピーして見えない人に渡したとします。立体コピーとは線の部分が浮き出るように加工する印刷技法で、エンボスとも言われます。立体化された図形などを触って観察することを「触察」と言い、教育現場にも導入されるなど有用な場面もたくさんありますが、細かい図になってくると、見えない人であっても、理解するのは容易ではありません。線が混ざって模様のようになってしまう。
 けれどもこうしたケースでは、「分からない」とはなかなか言いだしにくいものです。「わざわざ立体コピーをしてくれたのに悪い」と感じてしまう人もいるでしょう。それではますますディスコミュニケーションが深まってしまいます。詳しくは第4章で紹介しますが、図形の「情報」そのものではなく、やわらかい、楽しそう、などその「意味」を伝える方法もあるはずです。(91〜92頁)

 
 
◆本書の最後では、語り尽くせなかったことに言及があります。「しょうがい」という言葉と、その表記についての問題に対して、著者の明確な考えが示されています。
 従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。障害学の言葉でいえば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こったのです。
 「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。
 先に「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ、と述べました。私がそう考える理由はもうお分かりでしょう。「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。そうした「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」でとらえられた障害であるように見えるからです。むしろ「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです。(211頁)

 
 
 
posted by genjiito at 21:44| Comment(0) | ■読書雑記

2018年10月02日

読書雑記(239)船戸与一『神話の果て』

 『神話の果て』(船戸与一、講談社文庫 新装版、1995年11月)を読みました。

180918_sinwa.jpg

 本書のことは、今夏8月にペルーのリマへ行った折、日秘文化会館の中にあるエレナコハツ図書館で、同僚で同行のアンデス考古学者の宮野元太郎氏よりご教示いただきました。その時には、図書館の書架にあった単行本を手にして、ご自分の調査地などのことを交えて話を伺いました。帰国後、すぐに入手できた文庫本で読みました。

 アンデスが専門の文化人類学者である志度正平は、酔いだくれとして登場します。スペイン語はもとより、ケチュア語とアイマラ語を巧みに操れる日本人です。正平は、殺し屋としての仕事となると、まさにプロとして別人になります。その落差が、巧みに語られていきます。
 ペルーの高地に、天然の純度の高いウラン鉱床が発見されたのです。これが、アメリカの権力機構を変えるというのです。ただし、その一帯はゲリラの支配下にあるのです。そのゲリラ組織を破壊することが問題として浮上します。
 月光の中で、ツトム・オオシタは脱獄します。そのツトムと正平が入れ替わるのです。話は、船戸らしく急展開です。
 言語による問題で、組織的な闘争が失敗する例は興味深いものがあります。

第四インター系の革命家ウーゴ・ブランコに指導されたその闘争は結局、失敗に終わる。その理由のひとつに闘争内部の言語の問題があった。組織のなかの統一言語としてケチュア語が採用されたのだ。山岳地帯ではケチュアとアイマラが混在している。当然それはアイマラの反撥を呼んだ。そのことがやがて闘争そのものを衰弱させていく一因となったと言われている。(158頁)


 コンピュータで書類を作成し、それを暗号化して FAX するなどの通信事情のくだりは、この背景となる時代を感じます。この作品が最初に『小説推理』に公表されたのは1984年です。それは、ちょうど私がNECのPC-9801F2を購入し、本格的に漢字平仮名混じりの日本語で『源氏物語』のデータベースを構築し始めた頃です。当時勤務していた大阪府立の高校に、富士通のFM77を25台導入し、パーソナル・コンピュータ(当初は「パーコン」と言っていた)を活用した国語教育に着手した時代でもあります。1986年に、私は初めての著書となる『新・文学資料整理術 パソコン奮戦記』(桜楓社、昭和61年11月)を刊行しました。

100624funsenki

 これは、文科系におけるコンピュータを活用した知的生活の啓蒙活動を始めた頃でもあります。

 オリバレスは机の左手に置かれているマイクロ・コンピュータのまえに腰をおろした。
 解読文のコピーに眼を落したまま指がすばやくキイを叩きはじめた。ディスプレイに次々とアルファベットが浮きあがる。すべてを写し終え、文書の再確認を終了したのは十二時半をほんのすこしまわったところだった。オリバレスは解読文の全文にクリストファー・ビッグフォードの死と志度正平の予想される行動を附記し、末尾に『至急、指示を乞う』とつけ加えて新たなキイを四度叩いた。
 このコンピュータには三日おきに異った乱数表がインプットされる。いま写し終えた解読文はその乱数表に従って判読不明の彪大な量のアルファベットの不規則な羅列に変わるのだ。そして、それはコンピュータに繋がる周辺機によってただちにプリントされる。
 プリントされた不規則なアルファベットの羅列はファックスによってワシントンのポトマック河畔にある小さな商事会社に送られる。この商事会社は中央情報局(CIA)のダミーだ。情報は瞬時にしてそこから五マイル北西にあるヴァージニア州ラングレーにある本部に届けられる。(163頁)


 インディオの集団が、明るく生き生きと語られています。ただし、ここで著者は、観光を否定的に捉えています。私自身の問題意識と関連するので、今後のためにメモとしてその箇所を切り取っておきます。

「南北に伸びようとする共和国も現状ではクスコ、プーノと言ったアンデス山岳地帯に存する観光都市に分断されている。観光というインディオの魂を蝕む最悪の都市に!」
「カル・リアクタが顕在化するというのは……」志度正平は声を落として訊いた。「そういう観光都市への攻撃をいよいよ開始するということですか?」(330頁)
 
 
「教会の人たちやナザレの住人たちになぜ人家を購入するのかと不審がられたら、観光資本が新たな観光資源を開発するために調査員を送ってくるのだと秘密めかして喋っていただきたい。要求はただそれだけです」(460頁)


 CIAの破壊工作員ジョージ・ウェップナーは、志度を密殺するためにアンデスの山中まで追いかけます。また、殺し屋ポル・ソンファンも、志度を追いかけています。2人に狙われる志度がどうなるのか。それに加えて、元ボリヴィア解放戦線の活動家でソヴィエト国家保安委員会(KGB)とも関係を結ぶシモン・アルゲダスという男が加わります。目が離せません。チャカラコ溪谷に眠る鉱石をめぐって、米ソを交えての情報戦が繰り広げられたのです。

 カル・リアクタというゲリラ組織の長であるラポーラとは、一人の固有の肉体を持つ人物ではなくて、概念としてのものであり、複数存在することもある、という設定であることが終盤で明かされます。何代目のラポーラという考えで見ればいいようです。ということは、破壊工作員の志度正平が一人のラポーラを抹殺するという使命は、まったく無意味だったということになります。
 最後の赤く濡れた月影が印象的な長編小説です。【5】
 
 
※初出誌:『小説推理』(1984年1〜7月号に連載)
 その後、大幅に加筆修正をして、昭和60年1月に双葉社より単行本として刊行。
 
 
 
posted by genjiito at 20:14| Comment(0) | ■読書雑記

2018年09月30日

読書雑記(238)望月 麻衣『京都寺町三条のホームズ・9』

『京都寺町三条のホームズ・9〜恋と花と想いの裏側〜』(望月 麻衣、双葉文庫、2018年3月)を読みました。

180601_Holmes9.jpg

 今夏テレビアニメになるという宣伝と、コミック版(作画:秋月壱葉)が発売されていると帯にあります。
 
 
■「プロローグ」
 ホームズのライバルである円生が、葵を「スルメ」だと言って帰ります。何のことだろう、と思いながら、次節へとページをめくりました。
 
 
■「花と酒と恋の鞘当て」
 冒頭に出てくる「府立総合資料館」は、本書が刊行された本年3月よりも前の2年前(平成28年12月)に、「京都府立京都学・歴彩館」としてスタートしています。また、「風見はみるみる画面を蒼白とさせ、額に手を当てた。」(167頁)とか、「今日 皆に暴かれます。〈改行〉 エンターテインメントにすべてを捧げたあなたは、エンターテ インメントの中で消滅してください」(268頁)などは、校正が間に合わなかったようです。
 次第に親しさを増していくホームズと葵の会話が、そろそろ鼻に付くようになりました。特にホームズの歯の浮いたような葵への言葉遣いは、私には次第に下品になって来たように思われます。この作者には男が描けないことが、こうしたところからわかります。
 話の展開中に、抹茶に合う和菓子のことが出てきます。もっと盛り上がればよかったと思います。
 小野小町の「恋ひわびぬ〜」の歌の訳で、「夢に見れなくても、」(118頁)とあります。がっかり。
 この作品は、人間関係で遊びすぎです。短編では、読者が追いかけるのに疲れます。長編にして、もっと豊かな作品に仕上げたらいいと思いました。【2】

 ここで出てくる和歌は、以下の通りです。
 「見せばやな 雄島のあまの 袖だにも〜」(殷富門院大輔)
 「つれづれと 空ぞ見らるる 思ふ人〜」(和泉式部)
 「君こひり 寝てもさめても くろ髪を〜」(与謝野晶子)
 「忘れじの 行く末までは 難ければ〜」(儀同三司母)
 「恋わびぬ しばしも寝ばや 夢のうちに〜」(小野小町)
 「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ〜」(小野小町)
 「玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば〜」(式子内親王)
 「君がため 惜しからざりし 命さへ〜」(藤原義孝)

 
 
■「掌編 答え合わせ」
 なぜここに挿入されているのか、意味不明です。内容も、後の物語に関係するのでしょうか。男同士のやりとりとして、ピンボケで品のない話です。【1】
 
 
■「金の器と想いの裏側 〜清貴 十三歳になった日」
 これまた中途半端な話です。前の掌編と話を繋げられます。しかし、この掌編の位置付けが不明です。【1】
 
 
■「掌編 宮下香織の恋路」
 これも、中途半端な短編です。【1】
 
 
■「復讐のショータイム」
 ホームズは、女の子にモテるための前提条件は、清潔感だと言います。若者へのメッセージなのでしょうか。
 本話は、枚方パークでのイベントをめぐる話が中心です。ただし、話と推理がちぐはぐで、読み飛ばしました。シリーズ化における手詰まり感が伝わってきました。【1】
 
 
■「エピローグ」
 これまでを振り返り、これからの話に期待を持たせる話ぶりは、なかなか旨いと思います。
 本書を読み始めて間もなく、もうこのシリーズはこれまでかな、と思いながら読み進めて来ました。しかし、この最後の言葉を読み、次も読んでみるか、と思いました。この、無理をしない、飾らない語り口がこの作者の本領なのでしょう。
 
[追記]「あとがき」に次の付記があります。
 前回、清貴の修業先をメインに書いてしまったことで、葵の十九歳の誕生日の様子をお伝えすることができず、『ちゃんと誕生日を祝ったのでしょうか?』という質問をたくさんいただきましたので、今回、振り返るかたちでエピソードを紹介させていただきました。
 また、シリーズもここまで長くなると、各々のキャラクターのドラマがあり、それをいつもの短編連作に組み込むことが難しくなってきました。
 悩んだ結果、前回同様、『掌編』と分けてお届けすることにしました。
 清貴と円生のやりとり、香織の恋の行方など、『掌編』も小さな楽しみにしていただけると嬉しいです。(306頁)

 過日の「読書雑記(236)高田郁『花だより みをつくし料理帖 特別巻』」(2018年09月19日)で書いたように、この作品も短編が積み上げられてシリーズ化することによって、『源氏物語』でいうところの「並びの巻」が読者の受容の中から生まれます。外伝や別伝に加えて、後日談などで物語の隙間を埋めるのです。物語が次第に形を成していく様子が、この作品の形成過程からも伺えるようです。
 
 
 
posted by genjiito at 19:42| Comment(0) | ■読書雑記

2018年09月29日

読書雑記(237)中島岳志『保守と大東亜戦争』

 『保守と大東亜戦争』(中島岳志、集英社新書、2018年7月)を読みました。

180904_nakajima.jpg

 「まえがき」で、「保守=大東亜戦争肯定論という等式は、疑ってみる必要があるのではないか? これが本書のテーマです。(中略)戦中派保守の論理とは、一体いかなるものだったのでしょうか。」(4〜5頁)と、明確な問題提起をして語り出しています。過去の論客たちの思索をたどりながら、その歴史を整理したいという思いが冒頭から伝わって来ます。
 しかし、中島岳志氏の著書にしては、しかも新書にしては、単調で読みにくい文章でした。
 さまざまな保守論客たちの思考の過程を通して、保守というものを照らし出そうとします。私が知っている人が、何人も紹介されています。これまでに知らなかったその人の物の見方や考え方を知りました。立場が違えば、このように違って見えるのかと、あらためて切り口による評価の違いに驚いています。
 それにしても、著者は先人の発言に耳を傾け過ぎたのではないか、と思っています。

 竹山道雄の『ビルマの竪琴』については、竹山自身の思想の紹介と確認が中心でした。『昭和の精神史』は、ぜひ読んでみようと思いました。ただし、私個人の興味と関心からは、もっと竹山の作品である『ビルマの竪琴』の内容にまで及んでほしいと思いました。この、よく知られる小説を読み解いて竹山の考え方を示した方が、『ビルマの竪琴』を知る年配者は、素直に理解が及んだように思われます。
 福田恆存については、国語政策に対する独自の意見を持つ方、という理解しかしていませんでした。一人の人間として、福田の思想と行動を見ていなかったことを教えられました。

 恐怖心を植え付けて服従を強いる構造の指摘が随所にあります。今現在、それは構造的に蔓延してはいないと思いながらも、現実には自分の周辺で思い当たることがいくつもあり、ハッとします。言葉を奪われることの恐ろしさについて、あらためて共感します。思考は停止し、条件反射として命令に服従するようになるのです。

 本書を通読して、中島氏が心からの叫びとしての言葉が少なかったせいか、解説を聞かされている印象が拭えません。誰それがどう言っているか、ということよりも、それをどう思うか、ということを楽しみにしていた私は、眠気が時々襲ってきました。
 戦中派保守の論客の見解を巧みに引用して、持論に導こうとしています。しかし私には、さまざまな論客の意見が渦巻く中を彷徨った、という読後感しか残らなかったのは残念でした。いつもの中島岳志流の切り込みの鮮やかさや、諸説を整理する手際の見事さを共に体験することがなかったのです。さらなる展開を楽しみにしています。【3】
 
 
 
posted by genjiito at 19:49| Comment(0) | ■読書雑記

2018年09月19日

読書雑記(236)高田郁『花だより みをつくし料理帖 特別巻』

 『花だより みをつくし料理帖 特別巻』(高田郁、ハルキ文庫、2018年9月)は、これまでの10巻を懐かしく思い出しながら読みました。

180918_miwotsukusi.jpg


 登場人物たちをはっきりと覚えています。それぞれの巻の内容については、以下の記事にゆずります。

(1)「読書雑記(21)高田郁『八朔の雪 みをつくし料理帖』」(2010年11月25日)

(2)「読書雑記(22)高田郁『花散らしの雨 みをつくし料理帖』」(2010年11月26日)

(3)「読書雑記(23)高田郁『想い雲 みをつくし料理帖』」(2010年12月02日)

(4)「読書雑記(24)高田郁『今朝の春 みをつくし料理帖』」(2010年12月04日)

(5)「読書雑記(33)高田郁『小夜しぐれ みをつくし料理帖』」(2011年04月22日)

(6)「読書雑記(42)高田郁『心星ひとつ みをつくし料理帖』」(2011年09月09日)

(7)「読書雑記(48)高田郁『夏天の虹 みをつくし料理帖』」(2012年04月09日)

(8)「読書雑記(74)高田郁『残月 みをつくし料理帖』」(2013年07月26日)

(9)「読書雑記(94)高田郁『美雪晴れ―みをつくし料理帖』」(2014年02月20日)

(10)「読書雑記(105)高田郁『天の梯 みをつくし料理帖』」(2014年08月24日)

(補1)「江戸漫歩(74)『みをつくし料理帖』の舞台を歩く」(2014年02月23日)

(補2)「江戸漫歩(85)『みをつくし料理帖』の爼橋と千代田図書館」(2014年09月05日)


 この『みをつくし料理帖』シリーズが2014年8月に完結してから丸4年。本編で語られなかったことや、その後のつる屋の面々の話です。いわば外伝とか番外編と言われるものであり、『源氏物語』で言えば「並びの巻」にあたるでしょうか。例えば、『源氏物語』の「帚木」には並びの巻として「空蟬」「夕顔」があり、「若紫」には「末摘花」がそれにあたると考えればいいかと思います。人気を博した物語は、読者の要望からこのように隙間を埋める作品が生まれるのです。今回は、作者である高田郁自身が4編を書き足しました。過去を振り返ると、今後は別の作者が現れてこの「みをつくしシリーズ」を書き継ぐことも想定されます。物語の生成過程を見せてくれる好例だと思います。その意味では、『源氏物語』のように物語が長い年月の中で成長発展していく様を現代において追体験できたことは、幸いな時代に身を置いたと言えるでしょう。
 
■「花だより 愛し浅利佃煮」
 江戸から大坂にいる澪に会うために、つる屋に縁のある人々が東海道を下ります。しかし、いろいろなハプニングもあって、箱根から江戸に引き返すことになります。相変わらず、爽やかで人の想いが伝わる話になっています。【4】
 
■「涼風あり その名は岡太夫」
 一風変わった妻乙緒の話です。こうした女性を描けるのは、作者の大いなる成長です。
 小野寺数馬の妻となった乙緒は、夫が過去に惚れていた女料理人、澪のことを知ります。そして、自由に生きる道を選ばせる夫だったことに思い至るのでした。さらには、醍醐天皇も好まれたというわらび餅が、義母とその息子である夫を間に挟んで、つわりに苦しむ乙緒を助けることになります。ひいては、心を開かなかった夫婦が、互いを理解し合うことになるのでした。これまでになかった、高田郁の新しい作風の完成です。【5】
 
■「秋燕 明日の唐汁」
 舞台は大坂高麗橋に移ります。澪の幼馴染だった野江は、唐高麗物を扱う淡路屋を営んでいます。主力の品は眼鏡。方や澪は、道修町に源斎と住み、北鍋屋町に料理屋みをつくしを出しています。二人の往き来は、幼い頃のことや、天涯孤独で江戸に出てからを知る読者を安心させます。
 本話は、野江の婿選びが主題です。その中で語られる、吉原での思い出語りは読ませます。そして最後に辰蔵に対する「嫌だす」が効いています。【5】
 
■「月の船を漕ぐ 病知らず」
 大坂に疫病ころりが蔓延します。源斉も病の床に伏します。澪の料理屋みをつくしも店じまいです。源斉に心尽くしの料理を出しても、まだ食べてもらえません。
 「月も無く、星も無い。暗い暗い闇の海で、船を漕いでいる……」(267頁)とあり、「生きて生きて、生き抜くことだけを考えろ」(268頁)という言葉が、私にも思い当たることが幾度もあっただけに染み渡りました。人の思いやりが静かに伝わる話です。
 澪は、姑に教えられた江戸の味噌汁で源斉に活力を与えます。二人で煌々と輝く月を観ながら語り合う場面は秀逸です。本話も次の話が待ち遠しくさせる趣向となっています。ぜひとも、大坂四ツ橋での料理屋みをつくしの話が続くことを、今から楽しみにしています。ただし、特別付録の「みをつくし瓦版」によると、特別巻の後の続編の予定を聞かれた作者は、次のように答えています。「名残惜しいのは私も同じですが、この特別巻ののちは、皆さまのお心の中を、澪たちの住まいとさせてくださいませ。」(309頁)【5】


posted by genjiito at 12:46| Comment(0) | ■読書雑記

2018年07月27日

読書雑記(235)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 8 』

 『京都寺町三条のホームズ8 〜見習い鑑定士の奮闘〜』(望月麻衣、双葉文庫、2017年9月)を読みました。

180527_homuzu8.jpg

180727_Holmes8.jpg

 真城葵は、念願の京都府立大学文学部歴史学科に入学し、学芸員の資格を取りたいと思って勉強をします。
 一方、恋人で京都大学大学院を修了した家頭清貴は、成長のための修行に出ます。新しい環境で、2人はスタートします。

■第一章『一生に一度は』
 葵にゾッコンのホームズの姿は、あまりスマートではありません。なぜこのように下品なホームズの様子を、わざわざ描くのでしょうか。作者には、恋愛状態にある男について、勘違いをしているのではないかと思われます。
 ホームズが葵たちに、「お二人はどうぞゆっくりされてくださいね。」(91頁)と言う場面があります。私は使わない表現なので、今の若い方は使うのかな? と思いました。
 石清水八幡宮での推理は腰砕けです。せっかくの舞台と題材が精彩を欠き、もったいないと思いました。【1】

■第二章『小さなホームズ』
 ホームズは、二つ目の修行先として社長秘書をします。その社長の回想がくどくて馴染めませんでした。また、展開される恋愛観もおざなりで、若さを感じません。読者は若者たちだと思っていました。しかし、欲張って、中高年の読者にも届くようなメッセージを伝えようとしたと思われます。読み手の拡大を意識したためか、型通りの男と女のあるべき姿で話をまとめています。
 また、この章でも泣き虫のホームズを描きます。ホームズのイメージに、理知ではなくて感傷に包まれた姿がまといつきます。なよなよとした、いわば光源氏のようなホームズを、読者は求めているのでしょうか。その中性的な要素は、最後まで封印しておいてほしかったところです。登場人物を男性、女性、中性の3つに区分けした時、このままでは男性がいない物語になってしまいます。その中性の存在を、作者はまだ摑み切れていないと思っています。読者に若者を取り込もうとした時に、この性別に対する意識は大事な要素となるはずです。そうした意味からも、私はこの作者と物語に興味をもっています。【1】

■第三章『聖母の涙』
 修行中のホームズは、メトロポリタン美術館のキュレーターの秘書をします。
 ホームズの家にある青磁に関しては、美術館ではなくて別のことを考えているとあり、それはまだ口に出せる段階ではないと言います(190頁)。これがどうなるのかが、今後の物語で明らかにされることでしょう。
 葵の家が、バス停「下鴨神社前」を降り、小さな教会と「聖母幼稚園」の近くにあることが語られています。これまではここまで具体的に語られていなかったことなので、この地域住民としてはどこなのだろうという興味が湧いてきます。中庭に真っ白いマリア像があったり、バザーが開催されるとのことなので、我が家の近くに思い当たる所があります。実際にはどうなのか、いつか確認してみましょう。
 その教会のマリア像が血の涙を流すというのです。その謎解きが展開します。ただし、おもしろくありません。【1】

■掌編『宮下香織の困惑』
 香織の新しい恋愛話が、次巻以降に展開するのでしょうか。前振りのような話です。

※第8冊目になっても、まだ話が安定しません。10巻までは引っ張っていこうとしている意図が、この第8巻で垣間見えます。
 さて、作者がここから立て直す奇策に期待しましょう。
 
 
 
posted by genjiito at 20:11| Comment(0) | ■読書雑記

2018年07月16日

読書雑記(234)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 7』

 『京都寺町三条のホームズ 7 〜贋作師と声なき依頼〜』(望月麻衣、双葉文庫、2017年4月)を読みました。

180527_homuzu7.jpg

 作者は、ゴールデンウィーク明けから語り出しながら、なぜか5月の葵祭のことを失念して書き始めています。どうしたのでしょうか。
 物語は、若者たちの愛情を見守る気持ちで始まります。そして、本巻が高校生編のとじめとなるものです。
 
■「その心は」
 お茶会の話で、抹茶の泡だて方で表千家か裏千家がわかる、という話題は、ちょうどお茶のお稽古帰りに読んでいたこともあり、おもしろく読みました。
 また、着物に関する話題と描写も、よくわかります。
 お菓子の松風を口にした場面で「芳ばしさ」(108頁)という語が出てきます。「かぐわしい」が変化した「こうばしさ」という言葉で、平安時代から使われています。ふりがながほしいところだと思っていたら、次の頁ではふりがなが付いています。どうして最初の出現例につけなかったのでしょうか。
 お茶室を競う話では、利休の一輪の朝顔譚をなぞった茶室と、和泉式部の「ありとても」の歌を飾った手作りの茶室。そして、「気は遣うものやない。配るものや」という締めの言葉。初めてのお茶会に出た葵の、爽やかな話に仕上がっています。【5】
 
■「砂上の楼閣」
展開が不自然です。【1】
 
■「言霊という呪」
呪文という言葉が物語を陳腐なものにしています。【1】
 
■「望月のころ」
 相手の心の中を読み合う場面はいいと思います。ただし、話を作り過ぎです。言葉がストーリーの上を滑っています。もっと丁寧にホームズ、葵、円生を描いたら、語らせたら、心温まる話としてまとまったことでしょう。読者に想像を任せる部分が、早めに投げ出されたように思います。そして、情の世界に収めたことに物足りなさを感じました。【2】
 
 
 
posted by genjiito at 18:14| Comment(0) | ■読書雑記

2018年07月12日

読書雑記(233)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ・6 新緑のサスペンス』

 『京都寺町三条のホームズ・6 新緑のサスペンス』(望月麻衣、双葉文庫、2016年12月18日)を読みました。

180527_homuzu6.jpg

 ホームズこと家頭清貴と晴れて交際することになった真城葵は、アルバイト先の骨董品店『蔵』でホームズから鑑定の指南を受けます。その中で、こんなシーンがありました。

「掛け軸や他の古美術品の鑑定には、基本的に手袋を着用しますが、茶碗などの『焼き物』の鑑定をする時には、手袋を外すものなんです」
「−え、でも、今まで手袋をしてましたよね?」
「ええ、触感を用いてまでじっくりと鑑定する必要がないものは、手袋をはめたままにしてきました。というのも、お客様の中には直に触れることを嫌がられる方も多いんですよ。『焼き物の鑑定の際には手袋を外す必要がある』ということを知らない方も多いようで、『どうして手袋をしない!』と怒鳴られたことが何度もあります。時に人から預かった物などを扱う時も手袋をするよう指示されることがありまして、そうしたことから、気分を害されないように基本的につけたままにしてきました」
 その言葉には、少し納得した。
 大切な茶碗の鑑定をお願いしようと持ち込んで、素手で触れられたら、『手袋しないの?』と思ってしまうのかもしれない。
「焼き物の鑑定に手袋を外す理由の一つとして、『手袋は滑りやすいから危険』というのがありまして、それで僕は滑り止め付きの手袋をしているわけです。(後略)」(10〜11頁)


 陶器は経験がないとして、写本など和紙に書かれた物を見る時に、私は手袋をしません。手袋が紙を痛めるし、捲りにくいからです。

 また、こんなことも。これはどうでしょうか。

「彼が史郎さんのことを話すとき、一瞬目線が右上を向き、その後に瞬きが多くなりました。人が過去を思い出す時の目は、左上を向きがちで、事実ではない架空の出来事を思い浮かべる時は右上を向きがちです。そして、動揺を隠せない時は瞬きが多くなる。おそらく、厄介な息子がいるのでしょうね」とホームズさんは、腕を組む。(123頁)


 とにかくこの作品は、私が日々行動している範囲が舞台なので、非常に具体的に場面が迫って来ます。出町などは、日常的に行き来している所なので、我が事のように物語の中に入り込めました。

 木屋町での二人の初々しい会話や行動は、微笑ましいくらいに若者の心を掴んだ表現です。作者が理想とする恋する二人を活写することに成功しています。それは、巻末でも見られました。

 本作は、作者にとって初めての長編です。恋愛を軸にして、鑑定、推理、アクション、観光と、欲張った内容です。そして、それらが成功しています。作者の構成力に感心しながら読みました。【5】
 
 
 
posted by genjiito at 19:04| Comment(0) | ■読書雑記

2018年07月11日

読書雑記(232)本多健一『京都の神社と祭り』

 『京都の神社と祭り 千年都市における歴史と空間』(本多健一、中公新書 2345、2015年10月)を、コンチキチンの祇園囃子が流れる中で読み了えました。

180523_honda-book.jpg

 今まさに、京都は祇園祭に沸いています。その意味からも、早速本書を読んでみようと思われた方は、第8章の祇園祭の山鉾巡行の話から読まれるといいでしょう。説明が非常に具体的で、何がわからないのかを明確にして語られています。私も、今年は本書から得た知識を携えて、祇園祭の雑踏の中に身を置こうと思っています。

180711_gion.jpg

 さて、本書は、数多い京都の神社の歴史と地理について、わかりやすく概観した本です。現在佇んでいる神社と祭りの姿の背景にある、さまざまな謂れが紡ぎ出されていきます。詳細な実地踏査を行なっての語り口なので、安心して読み進められました。

 平安京造営以前と以後にわけての説明も、長い歴史が堆積する京都のことなので、スッキリと理解できます。また、京の町衆からの視点が生かされていることも、特筆すべきことでしょう。為政者側からの歴史語りだけではないのです。

 読み進んでいって、一番楽しみにしていたのは、第5章の葵祭についてです。しかし、正直なところ期待ハズレでした。他の章と比べても、切り込みが浅いと感じました。私が知りたいと思っていたことと、著者の興味と関心が完全にズレたようです。
 そのことは、葵祭に関して民俗学的な視点で長年調査してこられた小山利彦先生の研究成果が、内容にも注記にも皆無であることからも言えます。

小山先生は、下鴨神社や上賀茂神社での祭儀に長年にわたって立ち会い、祭りの本義を神官や地域住民のみならず、民間伝承と文献資料の考察に加えて、その成果を文学作品の解釈に援用しておられます。文学を理解するための賀茂祭の調査研究が背景に核としてあるだけに、さらにはそれがライフワークともなっているだけに、その研究成果が本書には一つも盛られていないことが気になりました。

 小山先生の調査には、私も後輩としてご一緒させていただきました。神職の皆様との長いお付き合いから得られた生きた情報は、文献資料や口頭伝承を補完するものも多いことを学びました。本書にそのことが取り込まれたら、さらに興味深い内容が展開したことでしょう。

 下鴨神社で禰宜をなさっていた嵯峨井健氏は、神仏習合をテーマとする儀礼空間の研究で学位を取得されました。私は嵯峨井氏の後輩でもあることから、葵祭の祭儀に随伴させていただいたことがあります。

「京洛逍遙(141)葵祭の社頭の儀」(2010年05月15日)

「京洛逍遥(232)葵祭で神仏習合を考える」(2012年05月16日)

「京洛逍遥(276)下鴨神社の葵祭-2013」(2013年05月15日)

 直接下げられたばかりの神饌の前で、懇切丁寧な教えを受けました。秘儀と思われることも、研究者の視点で読み解いてくださいました。そんなこともあったので、本書の第5章は楽しみだったのです。このくだりは、自分の興味と関心に引きつけ過ぎた、あくまでも読書雑記としてのコメントであることをお許しください。

 本書を通して、さらに欲を言わせてもらえれば、周辺図と境内図がもっとあると、地理的な状況が伝わったと思います。記事のそばに図版が置かれているので、前後に目が移動することはないような配慮は伝わって来ました。その点はいいとしても、もっと点数があれば、ということです。京都に住む私でさえ、地理的な位置を別の資料で確認しながら読み進めたので、そのような感想を持ちました。

 さらには、コラムとしてのこぼれ話もほしいところです。幅広い視野で見通した説明が多いので、各社寺にまつわるおもしろおかしい話があると、旅人として本書を紐解く人は、読後の印象が違ってくるはずです。京都が立体的に見えてくることでしょう。
 もちろん、こうしたわがままな要求に応えていると、ページが嵩みます。こうしたことは、続編に期待することかもしれません。妄言多謝。

 そんな勝手な注文はともかく、わからないことはわからないと明記する姿勢が顕著なので、安心して読み通せます。京都の新たな魅力を知るための一書として、一読をお薦めします。【3】
 
 
 
posted by genjiito at 20:50| Comment(0) | ■読書雑記

2018年07月04日

読書雑記(231)山本兼一『修羅走る 関ヶ原』

 『修羅走る 関ヶ原』(山本兼一、2014年7月30日、集英社)を読みました。

151211_syurahasiru.jpg

 慶長5年(1600)9月15日の話です。
 石田三成に始まり、一人10頁くらいの話を順番に読みます。時々、巻頭の「関ヶ原合戦布陣図」を見ては、各武将の陣地とお互いの勢力図を確認しました。
 一人一人の武将を、その人柄と考え方に至るまでを見通した、的確な描写で描き出します。それらの集積が、関ヶ原の合戦という大きな戦闘の実際と、その背景にある人々の思いを浮かび上がらせていきます。読みながら、うまい、と思いました。
 東西両軍の武将一人一人の性格が浮き彫りにされています。戦いのありようが、各武将の視点で語られるので、複眼的な戦闘場面が立ち現れているのです。驚くべき筆力です。そして、迫力のある戦闘場面が活写されています。
 人は、対立した時にどちらに付くのかを、読みながら思いました。自分が納得のいく場所を探し求める者と、計算尽くで立ち位置を決める者、そして様子見をしながら右顧左眄する者など、さまざまな生き様があることが、この物語に盛り込まれています。
 登場する男たちはみな、自分なりに筋を通しながら生きる道を決め、自分の意思で死んでいくのです。女性が出てこないのもみごとです。【4】

初出誌:『小説すばる』二〇一一年一月号〜二〇一二年十一月号

巻末付記:
「著者が逝去された為、本書は連載時のまま、手を加えておりません。ルビや明らかな間違いについては、著作権継承者と相談し、編集部にて修正しました。」(473頁)
 
 
 
posted by genjiito at 23:00| Comment(0) | ■読書雑記

2018年06月14日

読書雑記(230)清水潔『「南京事件」を調査せよ』

 『「南京事件」を調査せよ』(清水潔、2016年8月25日、文藝春秋)を読みました。

180615_nankun.jpg

 本書の冒頭に、次の文章があります。この本の性格を示すものなので、まずは「まえがき」の書き出しから引用します。

 あえて冒頭に明記しておきたいことがある。
 それは本書が”ある一部の人たち”から拒絶される可能性についてだ。
 これが「南京事件」、「南京大虐殺」などと呼ばれるこの事件を、数年にわたって取材した私の素直な感想である。
 1937年、中国・南京で日本軍が起こしたとされる(引用者注・「される」に傍点あり)虐殺事件……、と、短く事件を説明するだけでも、必ず「される」といった言葉尻が求められるのだ。
 この事件は、存在そのものが「あった」「なかった」と延々と論争になっているからだ。
 あるいは事件の存在は認めても、今度はその被害者の「人数」で激しい議論が続いていたりもする。数千人から、30万人以上と、その幅はあまりに広く今後も折り合いはつきそうにもない。そして次には〈南京30万人虐殺の嘘〉といった声も飛び出す。(3頁)


 著者は資料を慎重に吟味し、解釈していこうとしていることが伝わってきます。常に中立の立場を意識して考え、事実を確認して真実を知ろうとし、わかりやすく語ろうとしています。その姿勢に、テーマの重さに対峙する著者の苦しみがうかがえました。
 元兵士の「陣中日記」などの発掘と紹介は、虐殺の事実を証明する上で貴重な資料の提示となっています。「黒須上等兵の日記」といわれる1次資料は、青インクで記されているそうです。次の昭和12年12月26日の記事は、著者の検証の中でも、中核に位置するものです。この記述の吟味が、真実に近づく一つとなっていきます。

 午后一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃湯ノ目的ニテ馬風山方面ニ向フ、二三日前捕慮セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バカリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
 山となって居ル死人ノ上をアガッテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒゝガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ……ウーン/\トウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル。(59〜60頁)


 時系列において、その物としての資料が持つ価値と共に、説得力を持つものです。複眼的な論証を心がけていることはわかります。ただし、「陣中日記」などの資料吟味とその詳細がもっと語られていれば、さらに読者の理解が深まったと思われます。元兵士の日記が、著者自身が見つけた資料ではないところに、紹介者の立場に身を置いての解釈であるところに、迫力を欠くものとなっています。もちろん、紙幅の関係もあり、それらは実際に博捜して探し出された方の発言と、見せてもらった資料が語るところに譲らざるを得なかったという限界はわかりますが。
 こうした戦場での一次資料となる筆記資料や写真や証言の組み合わせは、事実を明らかにする上で効果的です。ただし、学問的な手続きによる資料と書かれている内容の検証がなされているかと言えば、私の読解力では論理的な構成などに、まだ反論の余地を残しているようにも思われます。私自身がこの資料を実見していないので、この点に言及できません。書かれていることを信じると、という条件下での判断です。問題が問題だけに、常に資料や証言の読み解きに多視点的な判断をしてしまいます。
 それにしても、虐殺はなかった、という立場からの実証的な反論を聞きたくなります。まだよくは調べていないものの、目にしたらそれをまずは読みたいと思っています。少なくとも、虐殺者は30万人だった等等、人数を云々するやりとりは不毛に終わるので、やはり虐殺はあったのかなかったのか、もしあったとすればどのような状況で、どのような方法で、そしてそれはどのようにして処理されたのかを明らかにすべきだと思います。虐殺はなかったという立場からは、残された資料や証言や写真を一刀両断のもとに切り捨てるのではなくて、その存在が意味することも丁寧に解明して反論とすべきでしょう。
 第5章の「旅順へ」は、重い問題提起となっています。この章により、本書の性格と著者の物の見方や考え方への印象が違ってきました。まだまだ、この問題は追求すべきことが残っています。そして、戦争とは何かというテーマに性急に結論を出そうとするのではなくて、もっと事実を固めていくことの大切さを読み取りました。【4】
 
 
 
posted by genjiito at 23:57| Comment(0) | ■読書雑記

2018年06月06日

読書雑記(229)白川紺子『下鴨アンティーク 雪花の約束』

 『下鴨アンティーク 雪花の約束』(白川紺子、集英社オレンジ文庫、2016年12月)を読みました。シリーズ第5作となります。

180606_simogamo-book.jpg

 主人公である野々宮鹿乃が管理している着物に秘められた、秘密や謎を解く物語です。全編、少女好みというのでしょうか、穏やかな空気に包まれた話が続きます。若い読者は、その居心地のよさに惹かれるのでは、と思われます。
 
 
■「星の糸」
 奈良の三輪山伝説を背景にする物語です。ただし、伝説に深入りはしません。厚みが出るのに残念です。着物の柄が糸巻に鱗紋で、その糸が切れていたことから展開します。
 その合間合間に、鹿乃と慧のほのかな恋心が適度に配されています。これが薄味なので、読者に少女を意識した構成のようです。
 洛中の市内観光も、少しだけ楽しめます。
 もっとも、後半の話題がギリシャ神話になるところから、本作の話題とうまくつながりませんでした。これも残念。
 デザートとして出てきた、果実の入っていないゼリーのような作品です。食感だけが残る話でした。【2】
 
 
■「赤ずきんをさがして」
 京都の壬生での着物の話から、次に奈良の生駒へ。自分に関わりのある土地が出てくるので、つい読み入ってしまいます。話の舞台を知っているというのは、物語を読む上では大きなウェイトを占めます。
 慧の父と、御所北にある大学の構内で出会います。気まずい雰囲気が中途半端です。もっと語る言葉があれば、と思いました。
 全編、何気ない話の中で、温かな人間関係は伝わってきました。【3】
 
 
■「雪花の約束」
 内気な春野君。鹿乃に心惹かれながらも、ぎこちなく自分の想いを小出しにして関わろうとする気持ちがよくわかります。ちょっとした嘘をつくことも。作者の身近なところに、こんな人がいるからでしょうか。男の子の心理を読み解いています。それに対する鹿乃は、幼い頃から一緒に暮して来た慧が好きです。鹿乃の言葉と行ないは、あまりよくは描けていないように思いました。作者は、女心の分析よりも、男心をよく摑んでいるように思います。最後の、慧と父との場面がいいと思いました。
 雪の話に関連して、鈴木牧之の『北越雪譜』の話が詳しく紹介されます。この牧之の研究をしている、インドのハイデラバード英語外国語大学のタリクさんの顔が浮かびました。こんな作品に紹介されているよ、と。【3】
 
 
■「子犬と魔女のワルツ」
 無意識に紙面にプリントされた文字を追っていただけで、お話の内容はほとんど入ってきませんでした。なかなか得難い体験です。私に何があるのか。作者に何があったのか。無色透明な読後感だけが残りました。【0】
 
 
 
posted by genjiito at 20:09| Comment(0) | ■読書雑記

2018年06月01日

読書雑記(228)松 樟太郎『究極の文字を求めて』

 『究極の文字を求めて』(松 樟太郎、ミシマ社、2018年6月3日)を読みました。

180601_moji.jpg

 著者は、中学2年生の時から文字を作ることに興味を持っていたそうです。それが嵩じて、この本をまとめるに至ったとか。

「すべての文字を自分オリジナルなものにして、自分だけの究極の文字体系をつくってやろう」と思い立ち、ひたすらその作業に没頭したのです。(1頁)


 そういえば私も、小学3年生の時、少年探偵団ごっこをしていて、友だちといろいろな暗号や秘密の文字を作りました。みんなそうだったのだ、と微笑ましく思いながら読み進めました。

 この筆者がいいのは、以来20年経っても、いまだにその夢を追いかけていることです。筆者は、次のように言います。

 つまり、文字は「変化」あるいは「進化」していく。実際、私の自分文字ですら、進化していったのです。
 だからこのバカな試みを公開することで、人類における文字の変遷を知るための貴重な資料となる。なるかもしれない。なったらいいな。なると思うのは勝手だろ―。そんな強い願いを込めて、ここに今「究極文字プロジェクト」をスタートさせようと考えた次第です。
 今まで私が見た、知った、学んだ文字を紹介しつつ、その「いいところ」を抽出し、組み合わせて「究極の文字」を作っていきたいと思います。我ながら書いていて「本当にできるのか?」と思いますが、まぁそのへんは騙し騙しやっていきたいと思います。(3頁)


 さて、さまざまな文字の話が、おもしろおかしく展開します。そこで引かれる文字の形を見ながら、筆記体と印刷体の違いはないのだろうか、また、フォントという字体間に違いはないのだろうか、と思いました。

 さまざまな言語における文字の形にこだわり、自らボケとツッコミを入れながら軽妙洒脱に語り続けていきます。そして、世界中のおもしろおかしい文字にまつわる話が展開します。飽きません。時々言葉遣いが低俗に響くことは無視しましょう。

 文字が書かれた媒体について、興味深い言及があります。ヤシの葉に文字を書いたという話です。

 本当かウソかわかりませんが、スリランカで聞いた話によれば、もともとシンハラ語はヤシの葉に書かれていたそうです。いかにも南国らしい話ですが、このヤシの葉は繊維の関係で、まっすぐ線を引くと葉が切れてしまう。だから自然と丸みを帯びていった、とのことなのです。
 なるほどシンハラ文字は、葉っぱの上にも書けるというフレキシビリティを持った文字だったのです。(17頁)


ミャンマー文字はその声調をしっかりと表すことができるが、その声調を示す文字がまた丸かったりして、全体の丸々しさをさらに増している。ちなみにシンハラ文字と同じく、丸くなった要因は「ヤシの葉に書かれていたから」らしい。(104頁)


 この植物に文字を刻むということについては、ミャンマーのネーピードーにある国立図書館で見た、パームリーフと糸罫の話「経典を書写する前に使う横長の木枠と「糸罫」のこと」(2018年03月11日)で報告しています。

 ミャンマーの文字は、一部好事家の間では「視力検査文字」と呼ばれているそうです。確かに、ミャンマーに行った時に、私もそのように見えました。その文字が並んでいる文字列は、みたらし団子だと思ったらいいでしょう。

 タミル文字の中に日本語の平仮名の「あ」とそっりくな文字が紹介されています(160頁)。次の写真の左側の文字です。ただし、これは「イ」と読む文字だそうです。

180601_a.jpg

 上の写真の右側の文字は、著者が「究極の文字」として最後にあげるものです(182頁)。
 おもしろおかしい話を堪能していたのに、突然これはないと思いました。
 楽しく読んで来て、最後の「ひらがな」と「漢字」の項目で急激な失速感が伝わって来ました。さらに、最後の「おわりに」で、ガックリ。それまで快調に、軽快に走って来た自転車が、もうすぐ家の前だといところで突然、変速歯車からチェーンが外れて空回りしだした感触が脚に来ました。そのため、本書の評価は【2】。ただし、最後の13頁分はなかったことにすると【4】。

 さまざまな文字が、次から次へと出てくるので、参考までに目次を掲出します。
 それぞれの文字の形を確認する時に、役立つかと思います。

第1章 中二病的とんがり文字vs女子高生的丸文字
  ・世界一危険な文字/チベット文字 8
  ・ナイフみたいに尖っては/ベンガル文字 12
  ・網から転げ落ちる文字/シンハラ文字 16
  ・丸から始まり丸に終わる/タイ文字その1 19
  ・「あいつ、四角くなっちまったよな」
    /パスパ文字・モンゴル文字 22
第2章 どこで切るか、それが問題だ
  ・インド棒/デーヴァナーガリー文字 28
  ・さらばインド棒/グジャラーティー文字 32
  ・かわいいから許す/オリヤー文字 35
  ・チェック済み/テルグ文字 38
  ・文字は踊る/クメール文字 42
第3章 古代の文字はロマンの香り
  ・コケコッコー/ヘブライ文字 46
  ・モアイを出せモアイを/ロンゴロンゴ文字 49
  ・横顔に恋をして/マヤ文字その1 52
  ・自由にもほどがある/マヤ文字その2 56
  ・孤高の原始(風)文字/ティフィナグ文字 60
第4章 母音をどう表すか問題
  ・嫁なのか、闇なのか/アラビア文字 64
  ・文字は転がる/カナダ先住民文字 67
  ・豚の鼻と火星人/ゲェズ文字 71
  ・細川たかしを表記できるか?/ギリシャ文字 76
  ・怪音波を発しがち/突蕨文字 79
第5章 そんなルール、ありですか…?
  ・ダイイングメッセージ/オガム文字 84
  ・そこを取るんだ!?/ターナ文字 88
  ・省略はきちんと示そう/タイ文字その2 91
  ・笑う牛/ブストロフェドン 94
  ・赤面するほどに流麗な/ジャワ文字 97
第6章 何かに似ている
  ・視力検査/ミャンマー文字 l02
  ・リーゼントブルース/シリア文字 105
  ・雨水をムダなく溜める/アルメニア文字 108
  ・UFOキャッチャー/グルムキー文字 112
  ・蚊取り線香を吊るそう/ソヨンボ文字 116
第7章 文字で遊べ!
  ・カンバンが読めません/ルーン文字 122
  ・振り向けばそこに牛/ヒエログリフ 126
  ・思いのままにピックアップ/チェロキー文字 130
  ・偽古代文字を作ろう/ハイリア文字 134
第8章 オリンピックとか、国旗とか
  ・滑る文字/グルジア文字 140
  ・幻の文字を探せ!/ロシア文字 143
  ・ゴマ粒ほどの違い/キリル文字(ウクライナ語) 147
  ・文字じゃないよ、○○だよ/ハングル 150
  ・世界はもっと文字を使うべき/国旗 153
第9章 身のまわりの文字たちの起源
  ・文字兄弟/タミル文字 158
  ・世界征服を企む文字/ラテン文字 162
  ・これも文字と言えば文字/数字 167
  ・かな導入のご提案/ひらがな 170
  ・トリ情報の流出/漢字 178
おわりに 181

 
 
 
posted by genjiito at 23:58| Comment(0) | ■読書雑記

2018年05月31日

読書雑記(227)【ブンゴウメール】「走れメロス」(全31回)を読み終えて

 先月5月1日から、【ブンゴウメール】がスタートしました。
 早速登録し、1ヶ月ほど体験しました。
 これは、次の主旨で提供されているサービスです。実におもしろい企画です

1日3分のメールで、ムリせず毎月本が読める

青空文庫の作品を小分けにして、毎朝メールで配信。気づいたら毎月1冊本が読めてしまう、忙しいあなたのための読書サポートサービスです。


■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.notsobad.jp

 私は、興味がない本は見向きもしません。書店で、読んでみようかなと思っても、その時々の優先順位で本を選んで読んでいます。そんな中で、人任せにして、毎日配信されて来るという作品を読んでみました。これなら、いつか読んでみようと思っていた作品や、読もうとは思っていなかった作品に目を通す出会いともなります。

 そんなこんなで、毎朝送られてくる太宰治の「走れメロス (全31回)」を読み始めることになったのです。これは作品自体が短いせいもあってか、一回分の分量は300字ほどです。400字原稿用紙で一枚ほどの分量なので、確かに1分で読めます。
 無意識に文字を追っていただけなのに、意外と話の内容が頭の中に入っています。受け身の読書なのに、しっかりと読めていて驚いています。
 今回のテキストの出どころは、以下のものでした。

底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年10月25日初版発行
   1998(平成10)年6月15日第2刷
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:金川一之
校正:高橋美奈子
2000年12月4日公開
2011年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


 これに関連して、こんな記事がありました。

(おまけ)なんで初回は走れメロスになったのか

登録いただいた方にはもう届いてるかと思いますが、初月となった5月は太宰治の「走れメロス」を配信しています。(登録したのに届かない!という方は迷惑メールボックスなどもご確認くださいませー)
初回配信タイトルを選ぶときに考えていた条件は、
• みんなが知っていて
• 短くて
• 親しみやすい作品
ということだけでした。そりゃメロスになっちゃうよねー。
しかしブンゴウメールとほぼ同時期に「実時間メロス」がバズっていたので、メロス何回読むねんみたいな人が出てしまったのは本当に申し訳ない…。
19時「メロスは激怒した」約3日間のメロスの旅がリアルタイムで進行する読書アプリ「実時間小説 走れメロス」 - ねとらぼ
まぁ過去の名作を扱う以上、今後も読んだことある作品が出てくるのはしょうがないなーと思ってまして。再読もおもしろいというか、むしろ楽しんでもらえたらいいのかなというスタンスです。
ただ実時間メロスと並行してメロスが届いてしまうというのは完全に誤算だったので、そこに関しては謝るしかないです。ていうかこんなことってある?(いやない)
http://blog.notsobad.jp/entry/2018/05/03/145404


 とにかく、毎朝この短文を読むのが楽しみになりました。何か得をした気持ちになっています。
 明日から、また新しい月となります。どんな作品が送られて来るのか知りません。知ろうともしていません。それも、楽しみなのです。
 
 
 
posted by genjiito at 21:16| Comment(0) | ■読書雑記

2018年05月29日

読書雑記(226)宮脇淳子『日本人が知らない 満洲国の真実』

 『日本人が知らない 満洲国の真実 封印された歴史と日本の貢献』(宮脇淳子、監修:岡田英弘、扶桑社新書257、2018年1月1日)を読みました。本書は、2013年4月にビジネス社より単行本で刊行された『真実の満洲史[1894−1956]』に加筆し改題の上で新書として発行したものです。

180527_mansyu.jpg

 印刷されている文章と、それを語る作者の背景がよくわからないながら、筆者の思い込みが気になりました。「と思う。」とか「ということです。」が多すぎます。また、引かれている著書や著者と思われる人名も、どうしてその本が? その人が? と思うことがいくつかありました。
 論理的な展開ではなくて、感情的な表現に私は引っかかってしまいました。これは、人や物に対する、思いやりというものに欠ける文章になっているせいではないでしょうか。
 一例を引きます。

孫文もそうですが、いまだにウィルソンを誉める日本人の気が知れません。(206頁)


 歴史を見る目は真っ直ぐなのでしょう。しかし、読み進むうちに、そういうことだろうか、違う視点ではどうなるのか、別の資料はないのだろうか、などと、行文の背後が気になって仕方がありませんでした。

 逆接の接続助詞「が」で文章がダラダラとつながっていくので、読者としては非常に疲れる文章だったことも補足します。

 また、次のような文はどのように読んだらいいのか困りました。いくつかあげます。
 まずは、筆者自身の意見はどこからかが不明な文章から。

『歴史通』(2012年5月号、ワック出版)に、「日帝支配資料館『加虐日本人』の正体」という小名木善行さんの記事が掲載されました。中国に南京虐殺事件の資料館があるように、韓国にも日帝支配資料館があるのですが、ここに、日本が行なったという残虐行為の写真がたくさん残っています。しかし、それはじつは朝鮮人の仕業だったというのです。
 日本は朝鮮半島の統治にあたり、言葉や地理に詳しい現地の朝鮮人を補助員として大量に採用しましたが、この人たちが、同じ朝鮮人に残酷な仕打ちをしたり拷問をしたりしました。日韓併合後に残虐だった日本人は全員、日本軍の服を着た朝鮮人の憲兵や、日本の制服を着た警察官だった、という記事です。
 韓流歴史ドラマでもひんぱんに描かれていますが、李氏朝鮮時代には拷問はあたりまえでした。日本は日韓併合後、法律を作って拷問を禁止しました。ところが法律で禁止したにもかかわらず、これまで一部の特権階級にいじめられてきた朝鮮人は、日本の権力を借りて恨みをはらそうと、同胞であるはずの朝鮮人たちに、苛酷な暴行を始めたのです。支那事変でも、日本人になった朝鮮人が中国人に恨みを晴らしたことも多く、朝鮮の創氏改名も、満洲で中国人に対して威張りたい朝鮮人が日本名が欲しかったということがあります。じつのところ、朝鮮人たちが創氏改名したかったのです。日本人は決して強制していません。現に、東京帝国大学を朝鮮名のままで卒業した人や、朝鮮名のまま日本帝国陸軍の中将になった人。オリンピックの選手になった人など、能力があって自信のある朝鮮人は、朝鮮名のままで通しました。(36〜37頁)


 次に、私には「筋違い」だと思われるくだりです。

「一八九五年から一九四五年までの五十年間の台湾、一九一〇年から一九四五年までの朝鮮は日本史でしょう。満洲についても、一九〇五年に日露戦争に勝ってから一九四五年までを日本史として扱うべきで、それをまったくしていないことが問題です。
 日本人はそれが問題だということを理解しません。いまだに「満洲の歴史など知りたくない。中国も台湾も放っておけ」という態度で、何か問題が起こると、「もう日本人だけの日本にして、外国人は全部出ていって欲しい」となるのが、多くの日本人の考えです。従軍慰安婦が問題になると、「在日(朝鮮人)は出て行け」となるのです。これは、まったくの筋違いではないでしょうか。
 なぜなら、一度は日本になった地域出身の人間を、日本人として扱わないことに問題があるからです。世界史を見ればわかります。ヨーロッパであろうとどこであろうと、自分たちが征服したり、宗主になった土地に関しては、よくも悪くも責任があるのです。たとえ台湾や韓国の出身であっても、日本語を話し日本文化が好きな人たち、日本で教育を受けて、精神はほとんど日本人と変わらない人たちを、血筋だけで差別することは、日本人の悪いところだと私は思います。(39〜40頁)


もし日本が中国と同じように、かつて日本だったところをすべて日本として載せるとどうなるかというのが地図3です。これは大東亜共栄圏の範囲を示したものですが、日本もこれくらいのものを教科書に載せないでどうするのかと言いたいです。大日本帝国はこれほど広かったのです。(53頁)


 次の固有名詞の表記については、どのような議論があるのか知りたくなります。

「満洲」という文字は、漢人が「マンジュ」という種族名に音を当てたものですが、なぜサンズイがつくかというと、もともと彼らが自分たちは水に関係があると意識していたので、清という国号もそうですが、こういう漢字を選んだのです。したがって、サンズイを抜いた「州」にすると、たんなる「満族の土地」という意味になって、もとの固有名詞ではなくなります。だから、戦後、過去を否定するような気分で「満州」と書き換えてきたような風潮は、ここで止めましょう。日本だって、東京駅には「八重洲」という改札があり、「洲」という字を残しているではありませんか。(58頁)


 次も、明快な文章となっているだけに、筆者の真意を測りかねるものです。発言は自由なので、そのままを引用しておきます。

満洲国は大日本帝国が大東亜戦争で負けなければ、大成功だったのです。現地の四千万の漢人が、日本人が撤退した後、毛沢東や蒋介石を歓迎したかといえば、そんなことはなく、文化の高い日本人の方がよほどよかったのです。そういった意味でも満洲はうまくいきかけていたのです。そして、日本の敗戦から歴史が逆戻りしたのが今の北朝鮮です。(86頁)


 NHKのドラマ『蒼穹の昴』を取り上げたくだりも引きます。これは、私が好きな井上靖のことに言及しているから取り上げるだけです。

あのドラマは、井上靖の『蒼き狼』のチンギス・ハーンがぜんぜんモンゴル人らしくなかったのと同様に、登場人物に満洲人らしいところがありません。人物があまりにも日本人的で、すごく近代的な人間に描かれ過ぎていました。文明としての清朝や満洲は、あれでは理解できません。ドラマとして見れば、清朝宮廷の雰囲気と満洲人のコスチュームプレイが、とても面白かったですけれども。(94〜95頁)


 民主主義に対する、大胆とも思える言及もあります。

国際的にも世論の重要性が言われますが、多数決の民主主義はだいたいが間違った方向へ行くと私は思います。その理由は優秀な人は少数だからです。卑しい感情を煽るのが共産主義なので、立派な人をみんなで潰そうとしました。多数決というのは、悪い感情を暴走させるシステムだと、最近、私は思っています。マスコミの責任も大きいですが、同時に普通の人、大衆は、知らないことには口を出すべきではないとも思います。(237頁)


 日本人は国際法のルールを破っていませんが、戦後はなぜかそれが逆転して、日本が悪かったことにされています。アメリカと中国の利害が一致したので、南京大虐殺などと言いだしたのです。こういったことが、なぜ普通の日本人にはわからないのでしょうか。正直に言って、わからない日本人はもう駄目だと私は思います。(302頁)


 私の父はシベリアに抑留されていました。そのため、次のフレーズもチェックしました。この論法はわかります。しかし、本質がズレているようにも思えます。

私は「シベリア抑留」と言うのは間違いだと思います。その理由は、シベリアだけでなく、モンゴル人民共和国、北朝鮮、ウズベキスタン、キルギスタン、ヴォルガ河、コーカサスにも連れていかれたからです。「ソ連抑留」あるいは「共産圏抑留」と言うべきです。(317頁)


 本書は、次の文章で締めくくられます。これも、どこまで額面通りに読んでいいのか困ります。

 日本人が一所懸命したことに対して、中国や韓国がひたすら非難するのは、前政権を否定しなければ、自分たちの正当性が証明できないから、という向こうの理由であって、日本人がそれをそのまま認める必要はまったくありません。
 日本の敗戦後七十年以上たって、私たちが理想を抱いて開拓した土地が、その後どんなふうになっているかを、私たち日本人はずっと見続ける、ウォッチする義務があるのであって、それは負い目ではなく責任なのです。日本人は、現地をいい国にする責任があります。なぜなら、私たちは一度そこを日本にしたからです。責任を取るというのはそういうことだと思います。この本を読んで、そういったものの見方ができるようになってもらえれば嬉しいです。(350頁)


 こうした、著者の歴史の解釈について疑念を多く抱いたということで、歴史を多視点から見る必要性を学べました。途中で投げ出さずに読んで良かったのではないか、と、読み終わった今、思っています。【1】
 
 
 
posted by genjiito at 23:13| Comment(0) | ■読書雑記

2018年05月27日

読書雑記(225)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ5 〜シャーロキアンの宴と春の嵐〜』

 『京都寺町三条のホームズ・5 〜シャーロキアンの宴と春の嵐〜』(望月麻衣、双葉文庫、2016年8月7日)を読みました。

180527_homuzu5.jpg

■「桜色の恋文」
 城崎への温泉旅行の際、与謝野鉄幹の歌と晶子のことが、少しだけ語られます。点景にはもったいないネタのように思いました。
 葵の前向きな考え方が強調されています。型通りながら、いかにもありそうな高校生の姿なので、この無色透明な女の子を中心とした路線でいいと思います。ただし、『男同士の話』として持ち出される「淫行罪」とか「免罪符」のくだり(57頁)には、作者の背伸びを感じました。後段の画家の話は蛇足です。【2】

■「シャーロキアンの宴」
 シャーロックホームズに関する蘊蓄も、適度なところに留まっていて、好感を持ちました。踊る人形も、挿絵が気分転換になりました。『桜の枝殺人事件』も、ドイルのホームズシリーズ未公開原稿も、味付けが適度でした。マニアの集まりという雰囲気が語られています。【4】

■「紫の雲路」
 サッカーの「京都サンガF.C.」にまつわる話です。そこに、大木高校の古典の教員である早川先生とサッカーの一条選手との恋愛話が絡みます。そこで引かれる『百人一首』の「瀬をはやみ」の77番歌。ただし、216頁では「あはむとぞ思ふ」なのに、220頁では「あわむとぞ思ふ」となっています。また、それぞれにほぼ同じ現代語訳が付いています。「一度分かれても」と「今は、」で微妙に異なりますが。もう一つの50番歌との関連も、深く考えない方がいいようです。どうしたことか、ネタがバラバラでした。【1】

■「茜色の空に」
 セキュリティシステムの暗証番号と『百人一首』の第9番歌「花の色は」の小野小町の歌が交錯します。そこから灰桜色のカラーコードとなると、もう無理を感じます。作者には、二進数の発想はないようです。なかなか凝った趣向であるものの、現実離れがしています。さらには、第十番歌の蝉丸。また、西行などの和歌や、イギリスのビッグベンにまで飛ぶと、もうなんでもありで混乱するだけです。
 しかし、最後の展開は好印象です。次作を読むのが楽しみになります。【3】
 
 
 
posted by genjiito at 20:00| Comment(0) | ■読書雑記

2018年03月22日

読書雑記(224)高田郁『あきない世傳 金と銀 五 転流篇』

 『あきない世傳 金と銀 五 転流篇』(高田郁、時代小説文庫〈ハルキ文庫〉、2018.2.18)を読みました。

180322_akinai5.jpg

 桔梗屋を買い上げて店主孫六を助けた五鈴屋は、本店と高島店の2つの店舗としてスタートします。6代目の女房となった幸の機転と発案が、見事に好転していくのでした。筆の力もいよいよ確たるものとなり、物語は着実に前に進んでいきます。
 『みをつくし料理帳』のシリーズを堪能した者にとって、この新たなシリーズにはなかなか馴染めませんでした。話が江戸の料理から浪速の商売へと転じ、金儲けとは生来無縁な私にとって、なおさら話題が他人事でした。しかし、第5巻ともなると人間関係の妙に筆が及び、物語の背景が楽しめるようになりました。幸の才覚を楽しみにし、商売敵の真澄屋に出し抜かれないようにと応援するようになりました。これで、このシリーズも安心です。
 とにかく、智蔵と幸夫婦をはじめとして、人と人とのつながりを意識した、人間関係を紡ぐ物語となっています。
 第4章「結」が一番印象深い章でした。帯の結び目が前か横か後ろか。大坂の商家では当たり前のように結婚後は前に結んでいた帯に、妹の結の疑問から意識が変わります。文化の変わり目が投げかけられたのです。
 そして、幸の身体に変化が、結の将来を暗示する場面などなど。この章から、新しい物語の胎動を感じました。ただし、これはうまく躱されますが……
 第11章「十五夜」は、心に残る出来栄えでした。月光の下での智蔵と幸夫婦の会話は、高田郁が得意とする場面です。この語り口は相変わらずうまいな、と思います。
 智蔵と幸夫婦は、近々江戸に出るようです。『みをつくし料理帳』では、江戸で澪が大活躍しました。しかし私は、このシリーズではそうではなく、もっと大坂で展開する物語を期待していました。物語の幅と広がりと読者層などを秤にかけると、作家としては舞台を江戸にしなくては、ということなのでしょう。関西に踏みとどまって物語ってほしかったと願う者としては、しかたのないこととはいえ残念です。【5】
 
 
 
posted by genjiito at 23:15| Comment(0) | ■読書雑記

2018年02月21日

読書雑記(223)石井遊佳『百年泥』

 『文藝春秋』(第96巻第3号、2018.2.10)に芥川賞受賞作二作品が掲載されたので、早速読みました。

180221_bunsyun.jpg

 来週早々にインドへ行きます。そこで、まずは『百年泥』から。

 冒頭で、生徒のアーナンダが「……はい……せんせ……はい……」と言う場面があります。敬愛の念を持つ相手に対するこのインドの方々の口振りを、みごとに活写していることが伝わって来ました。本作は、軽妙な語り口でありながら、物語の中身はしっかりしています。硬質な表現がちりばめられていて、言葉遣いも楽しめました。研究論文で使われる口調も感じられます。時々、助詞が省かれているところは、意図的なのか作者の癖なのか、よくわかりません。私は、助詞を省くと品格が落ちるので、付けてほしいと思います。そうした多彩な表現で語られるエピソードの数々に、つい引き込まれます。

 「いっさんに」という言葉が出て来たので、すぐに辞書を調べました。『日本国語大辞典』にありました。1600年頃から出典があり、正岡子規も使っていた言葉なのでした。てっきり、「一目散に」の間違いだろうと思ったのです。

 インドのチェンナイ(旧称・マドラス)で日本語を教えることになった、複雑な経歴を持つ女性が主人公です。洪水に始まり、しだいに、捉えどころのないインドの人々のありようが浮き彫りにされて行きます。さまざまな小話に彩られた、インドならではのおもしろい話が続きます。〈お見合い〉か〈恋愛〉かについては、もっと語ってほしい話題でした。

 物語は時間が行き来し、話題となる場所が転移して展開します。読者を飽きさせません。
知的な言葉で紡ぎ出される文章と、インドを背景にした上品なユーモアに満ちた、私好みの作品でした。関西人ならではの軽さが、作品全体をほんわかと包み込みます。関東の読者は、この作者特有の笑わせ方をどのように読まれるのか、その反応を大いに楽しみにしています。
 ただし、終わり方に釈然としないものを感じました。乱暴です。もっと丁寧で洒脱なエンディングがあるはずです。これまでの饒舌さが台無しでした。今後とも楽しみな方のようなので、次作も期待しましょう。

 なお、芥川賞の選評で、島田雅彦氏が「日本文学はインドを受容し損ねて来た」とおっしゃっています(329頁)。この指摘は気付かなかったことです。今後のために、当該部分を引きます。
『百年泥』のディテールはインド社会の多様性を反映し、ワンダーランドの様相を呈しており、地域研究の成果として出色のものである。日本文学はインドを受容し損ねて来たその歴史といってもいい。和製ヒッピーが自我を見つめ直す時代は遠い昔で、それに較べれば、本作はチェンナイの日本語教師の目を通じ、インド人の結婚観、家族関係、職業意識などをあぶり出し、そこにない読者の常識を揺さぶってくれる。海外体験のバリエーションが増えた現代、ルポルタージュのジャンルはかなり豊かになって来たが、小説との境界線を何処に引くべきかといったことを考えさせられた。(329頁)


さらに蛇足ながら、川上弘美氏の選評に、「関東の「バカ」は、関西の「アホ」と同じく、褒め言葉です。ねんのために。」とあることについて(331頁)。これは、大きな勘違いです。「バカ」は、相手を冷たく突き放し救いようのない愚かな人を指します。「アホ」は、親愛の情を持って相手を貶す言葉です。まったく異なる言葉です。念のために。【5】
 
 
 
posted by genjiito at 21:25| Comment(0) | ■読書雑記

2018年02月07日

読書雑記(222)神田夏生『お点前頂戴いたします』

 『お点前頂戴いたします 泡沫亭あやかし茶の湯』(神田夏生、KADOKAWA、2017,11)を読みました。これまで読んでこなかった本などを、興味のおもむくままに手に取っては乱読中です。

171126_otemae.jpg

 高校生になった三軒和音は茶道部に入ります。校舎の裏手にある「泡沫亭」がその舞台です。そこは、化け物というよりも、あやかしとでも言うべき怪しげな者たちがお茶を飲む、摩訶不思議な場所になっていたのです。部長の湯季千里が笑顔であやかしたちにお点前をする、奇想天外な話が展開します。何気ない会話の連続ながら、一風変わった味のする物語です。ただし、私には軽すぎて、拍子抜けしました。
 次の「副音声」という表現上の工夫は、なかなかいいと思いました。立体的に楽しめるからです。ライトノベルにはよくあることかもしれません。あまり馴染んでいない私には、新鮮な語り口に思えました。

「モテモテですね、湯季先輩」
「あはは。羨ましいなら代わろうか、三軒。君にもこの幸せを味わってほしいからね」
副音声。他人ごとだからって面白がってんじゃねえぞ、代われ。
「やだなあ何言ってるんですか。鬼更が好きなのは湯季先輩なんですよ。しっかりその愛を受け止めてあげてくださいね。俺、心から祝福してますんで」
副音声。絶対代わりたくない。人に押し付けようとしないで、どうぞそのまま鬼更につきまとわれ続けてください。そうすれば俺は安全。
「そうだぞ湯季、私が婿にするのはおまえだけだ。同じ人間とはいえ、三軒みたいな軟弱者では話にならん」(172〜173頁)


 話は意外性を孕みながら、好き勝手に展開して行きます。その中に、お茶の心得がさりげなく語られます。例えば、山上宗二の茶書などが。

 学校を卒業すると、あやかしたちの姿は見えなくなります。卒業した葉真が好きだった狐珀のことが忘れられず、学校のお茶室「泡沫亭」で狐珀にお茶を点てます。「第三話 狐と、さよならの一服」では、見えない狐珀に語りかけながら展開します。虚空を相手に語りお茶を点てる場面は、情感の籠った場面となっています。それまでは、遊びの要素が多い物語でした。それが、ここでは一転して静寂の中に相手を想う語りに変身します。ここは読ませます。想像力を掻き立てます。
 この作者の作品は、機会があり、テーマさえ興味が合えば、また読んでみたいと思いました。【3】


書誌情報:文庫本のための書き下ろし
 
 
 
posted by genjiito at 21:36| Comment(0) | ■読書雑記

2018年02月06日

読書雑記(221)望月麻衣『京都寺町三条のホームズ・4』

 『京都寺町三条のホームズ・4 ミステリアスなお茶会』(望月麻衣、双葉文庫、2016年04月)を読みました。

180124_homes4.jpg

■「年の初めに」
 本書のシリーズ化に伴い、読者を引きつけるために置かれた小話です。矢田地蔵、楽茶碗、コーヒーフレッシュと、物語世界の用意が整いました。


■「ビスクドールの涙」
 八坂神社から清水寺という、京都観光の王道とでもいうべきコースを、清貴と葵は散策します。お互いが好意を伝え合えないまま、その気持ちを内に抱え込んだままに、初々しいデートです。祇園のチョコレートカフェや、祖母の人形にまつわる推理など、読者へのサービス満点の話としてまとまっています。物語の中味よりも、その語り口が優しいので、次の話が楽しみになります。【4】


■「バレンタインの夜会」
 バレンタインの夜、吉田山荘のカフェ真古館で朗読会があります。それまでの話が退屈だったので、私は適当に読み流そうとしていました。ところが、夜会が始まるや、がぜんおもしろくなったのです。一気に読ませます。前半でもっと読む者を惹きつけておけたら、さらに完成度が高くなったことでしょう。【4】


■「後継者の条件」
 今宮神社の話をもっと語ってから、その西にある鷹峯の屋敷での骨董鑑定につなげたらよかったのに、と思いました。今宮神社では、毎月1日に骨董市が開催されます。雑多な古物が境内に並びます。せっかくの話題が、うまく連携しないのは惜しいことです。もう一捻りです。作者は、まだこの骨董市に行っていないのでしょうか。
 さて、本題の鑑定は楽茶碗から始まります。しかも葵が。八碗の茶碗の陶工の名前を当てる試験です。これはありふれた内容で、おもしろい展開にはなりません。引き続き、家の中の宝物探し。その話の合間に語られる男と女の愛憎と純愛の話題は、どうも取ってつけたようでぎこちないのです。作者は、恋愛心理の分析が苦手なのかもしれません。巻末の場面でも、月に爽やかさがありません。【2】

 本作品は、語り口が優しくて、流れるように読み進められます。話にも無理がなく、今の京都の文化が伝わって来ます。本シリーズは、この調子で続くことを楽しみにしています。
 ただし、物語の展開が京都という背景に埋もれています。場所や物をもっと煮詰めて、背景に頼りすぎない物語にしたらいいと思いました。
 
 
 
posted by genjiito at 22:41| Comment(0) | ■読書雑記

2018年01月19日

読書雑記(220)中島岳志『アジア主義』

 『アジア主義 −西郷隆盛から石原莞爾−』(中島岳志、潮出版社、2017年7月)を読みました。

171128_asia.jpg

 まず、次のように問題意識を提示しています。

私はこの本で、近代日本のアジア主義について議論していこうと思っています。幕末以来、日本がどのようにアジアをまなざし、何を期待し、何に躓いたのかを、読者の皆さんと共に考えていきたいと思っています。(16頁)


 複雑で難しい問題を扱っています。しかし、著者は読者を誘い込む配慮を見せています。文中に緩衝材が置かれているのです。大部な本なのに読みやすいのは、次のような心遣いがあるからなのです。

「原文をそのまま読むと難しいので、簡単に現代語で要約してみます。」(76頁)

「もう、そろそろ重要なポイントが見えてきたかもしれません。」(96頁)

「もう一度、振り返りながら、まとめておきましょう。」(97頁)

 また、「愛国」と「右派」についての疑問を、ストレートに述べている箇所があります。本書を読み進めていくためには、先入観をまず措く、ということが肝要です。そして、これは「読書雑記(162)中島岳志・島薗進『愛国と信仰の構造 ―全体主義はよみがえるのか』」(2016年03月24日)での対談の基盤となっている物の見方の確認であることに気づかされました。

 今日の常識では、「愛国」といえば「右派」。国民主権の論理を掲げ、国会開設や参政権の要求を展開した「リベラルな」自由民権運動が、なぜ「右派」のイメージが強い「愛国」を組織名として掲げたのか、当然のことながら不思議に思えてきます。
 しかし、ナショナリズムの歴史を研究してきた者にとっては、実は現在の「愛国」=「右派」という図式のほうがむしろ不思議で、国民主権を訴えるリベラルな運動こそナショナリズムと親和性が強い、と見るほうが論理に適っています。歴史的に見れば、政治的ナショナリズムは、むしろ「左派」的な思想を背景として誕生したと考えるべきで、「愛国」は「右派」の独占物ではありませんでした。(91〜92頁)


 第8章の「閔妃暗殺」はよくまとまっています。この事件については、かねてより興味を持っていた問題です。しかし、アジア主義という視点で語られると、また別の歴史が展開します。切り口の違う物語となっていくのです。

 ここに、与謝野鉄幹が出てきたので、その一節を引きます。

当時の『二六新報』の文芸部長は、与謝野鉄幹でした。鉄幹は、天佑侠に加勢するために朝鮮に向かった同僚への歌を『二六新報』に掲載していました。また、日清戦争勃発時には、「従軍行」という詩を掲載しました。

 おもしろし、千載一遇このいくさ、大男児、死ぬべき時こそ来りけれ……

 鉄幹は、戦争に従軍したくてたまらなかったのですが、念願がかなわず、戦争を題目にした詩や歌を『二六新報』に掲載することで、自らを慰めていたのです。
 鉄幹はその後、『二六新報』を辞め、朝鮮に渡りました。彼は親友の誘いを受け、ソウルの日本語学校で教師を務めました。そして、彼も閔妃暗殺の一味に加わり、計画の中に組み込まれていきます。しかし、事件が予定よりも早まったことから、旅行に出ていた彼は実際に暗殺に加わることはありませんでした。(204頁)


 岡倉天心の話の中で、宮崎滔天に関する批評がなされます。そこでの次の表現に、著者の独特の言い回しに感心しました。

彼は「その先の近代」のヴィジョンを示すことができず、その限界の淵からは浪花節が発せられるばかりでした。(285頁)


 終始、記録や回顧録、書簡などを丁寧に読み解きながら、1900年前後からの歴史の動きを物語ります。中島史観の展開です。

 「第十五章 来日アジア人の期待と失望」の最後は、次の言葉で結ばれています。「連帯」から「支配」へと変転する様を指摘しているところです。

日本に大きな期待を持ち、日本にやってきたタゴールとボースでしたが、二人とも次第に日本の帝国主義的態度に疑問を持ち、その姿勢に対する批判を述べることになりました。しかし、日本は欧米に追随する「覇道」を歩んでいきました。アジア人たちの率直な批判は聞き入れられることなく、アジア主義は連帯の論理から支配の論理へと変転していったのです。(426頁)


 「第十八章 アジア主義の辺境 −ユダヤ、エチオピア、タタール」は、私が知らなかったことばかりで、興味深く読みました。なかなか読みごたえがあります。

 後半で、中島氏は自分の立ち位置を明確にします。アジア主義者として生きることの宣言です。

 私は一度沈没したアジア主義というボートを引き上げ、再び世界という湖に漕ぎ出したいと思います。(566頁)

 無知の上に築かれた表層的反省を繰り返すのではなく、歴史をじっくりと見つめることで、アジアと繋がる道があると私は考えています。そのためには、私自身がアジア主義者として生きなければなりません。その先の近代を模索しなければなりません。
 私はアジア主義の思想的可能性を追求していきたいと思います。現在のような東アジアの不幸な状況を打破し、アジアの連帯を構築するためには思想が必要です。そして、それは歴史の中に埋もれています。
  虎穴に入らずんば虎子を得ず−。
 私は、アジア主義という「虎穴」の中を果敢に歩んでいきたいと思います。(587頁)


 巻末に付された「文庫版あとがき」の末尾でも、次のように言います。

 我々に必要なのは、ポスト日米安保の構想と戦略、そして思想です。その時、アジア主義の轍は大変重要な「資源」となります。先人たちが苦難と失敗を重ねていった歴史の中から、普遍的な価値を抽出し、現代世界の中で磨きをかけることこそ、必要なのではないかと思っています。
 アジア主義は過去に終わった思想ではありません。極めてアクチュアルな可能性をもった現代思想です。この点を最後にもう一度強調し、筆を置きたいと思います。
  二〇一七年六月
              中島岳志(602〜603頁)


 この大著を通して、アジア主義者たちの遠大な物語を堪能しました。
 ただし、十九章や終章に至って、突然マラソンの最後で一気にラストスパートをされた印象が残りました。私にはついていけない表現や内容が多くなったのです。本書での時間軸に沿った物語を踏まえて、あらためて今を見据えた、さらにわかりやすい解説を聞きたいと思っています。【5】
 
 
初出誌︰『潮』2010年8月号〜2011年12月
単行本:潮出版社 2014年7月
 
 
 
posted by genjiito at 20:00| Comment(0) | ■読書雑記

2018年01月16日

読書雑記(219)永井和子編著『日なたと日かげ』

 永井和子先生が折々にお書きになった、研究者としての日々のほとばしりや心優しい随想が、このたび『日なたと日かげ 永井和子随想集』(永井和子、笠間書院、2018年1月)としてまとまりました。装幀もさわやかです。

180116_nagai.jpg

 一般に手にし易い本や雑誌にお書きになったものは、私もいろいろと拝読していました。しかし、幅広く活躍なさっている先生のことなので、本書で初めて読んだものの方が多いのです。文学が、人間が、社会が、さまざまな角度で姿を見せます。それらを、ひとところに集めて編んでくださったのですから、ありがたい本となっています。

 巻頭の〈「老い」と「日なたと日かげ」と〉は、『医歯薬桜友会会報』の第16号(2009年1月)に掲載されたものであり、本書のタイトルとも関係する文章です。原子朗氏の詩「ひかげの嘆語」を引いて、人間の生について語っておられます。その最後に記される、次の文が心に残りました。

老いを問うことは時間・生・人間を問うことである。昨今は美しい老い、豊かな老い、といった表現が多いが、ある意味でそれは人間世界の埒を出ない表現であって、本物の老いではないと思う。美しさや豊かさを喪失しつくした負の状態が老いである。その極限がおのずと人間世界の価値観に突き刺してくる異世界をこそ私は問いたい。(12頁)


 この詩の作者である原氏は、本書の「あとがき」によると、2017年7月4日に逝去されたとあります。それは、永井先生が本書を編集なさっている時のことだったそうです。

 読み終えての個人的な雑感を記すと、それはもう際限がありません。
 いくつもの話が、『もっと知りたい 池田亀鑑と『源氏物語』 第2集』(新典社、2013年)の巻頭に置いた、永井先生との対談「前田善子の紅梅文庫と池田亀鑑の桃園文庫」を呼び起こします。長時間お話をうかがった時のことを日記として書き残した「永井和子先生との対談余話」(2012年07月19日)も、本書を読み進む内に、いくつかの話題の隙間から思い起こされました。
 選りすぐりの58編のお話を、私は長時間通勤の合間合間に、楽しみながら読みました。

 この春から新たな出発をしようとしている若い方たちに、ぜひとも薦めたい一冊です。興味を持ったタイトルから拾い読みすると、日本古典文学を読み、わからないことに出くわしたら調べる、ということの楽しさが伝わってくるはずです。そして、人と人とのつながりの奥深さも、わかってくることでしょう。
 
 
 
posted by genjiito at 20:48| Comment(0) | ■読書雑記

2018年01月10日

読書雑記(218)白川紺子『下鴨アンティーク 神無月のマイ・フェア・レディ』

『下鴨アンティーク 神無月のマイ・フェア・レディ』(白川紺子、集英社オレンジ文庫、2016年7月)を読みました。シリーズ第4作です。

170924_simogamo4.jpg

■「星の花をあなたに」
 登場人物たちが考え、そして、自分の思いを語っています。その背景に、ファッションや草花が鏤められています。丁寧な語り口に惹かれます。
 ただし、ゆったりとした流れに、つい読み飛ばした部分があります。この作者の語りは、読む場所と時を考えて、のんびりと読み進むのがいいようです。作品は上質です。しかし、それを読もうとする私が慌ただしすぎました。『万葉集』を謎解きに使った、古典的な和歌の世界を持ち込んでいます。機会があれば、次はゆったりと読みましょう。【4】


■「稲妻と金平糖」
 鹿乃が生まれた野々宮家は、明治までは陰陽道が家職で拝み屋だったそうです。これは、別の作品に展開していく芽でもあります。
 後半で、やっと人の情が語られます。これまでとは違う文章になっています。突然のように、作者は新しい表現方法を手に入れたようです。前作でやや文章に張りがなくなっていたので、これは今後につながるいい傾向です。
なお、賀茂の丹塗りの矢の伝説は、作中に生かしきれていません。そのために、話題となった雷の帯の話が死んでいます。せっかくいいネタを揃えたのに、もったいないことでした。【3】


■「神無月のマイ・フェア・レディ」
 人間関係が少し複雑になってきます。帯の謎を追いかけていくうちに、慧の親をめぐり、さまざまなことがわかりかけてきました。人のつながりが、思いやりを持って語られます。慧が母親について思い返す場面の点綴は巧みです。そして、慧と鹿乃の距離も接近します。さらにその間に、春野が割り込んできます。ますますおもしろくなっていきます。人間が描けていることで、読み物の領域を出て、小説として成り立っています。【4】


■「兎のおつかい」
 天皇の即位式の後の頃の話だとあります。大正時代ではなくて、昭和の時代でしょうか。とすると、新築されたという京都駅はいつのものなのでしょうか。いずれにしても、ずっと昔の話に立ち返って語られます。兎の櫛が話題となります。時代の雰囲気をよく伝える内容です。
 物語も、夫婦の縁についてのものです。そして、お互いが思い違いをし、すれ違いの愛情がうまく語られています。素直な心とボタンのかけ違いの話がよくわかりました。
 最後に、曽祖父の蛙のネクタイピンと、曽祖母の兎の帯留めの話が、きれいに物語をまとめ上げています。【5】
 
 
 
posted by genjiito at 20:18| Comment(0) | ■読書雑記

2018年01月08日

読書雑記(217)山本兼一『まりしてんァ千代姫』

 『まりしてんァ千代姫』(山本兼一、PHP文芸文庫、2015年11月)を読みました。

160506_marisiten.jpg

 まず、「ァ」を「ぎん」と読むことを、本書で始めて知りました。
 ァ千代姫は一見男まさりのようで、実は花を愛でる心優しい女神だったといいます。舞台は16世紀の九州北部。ァ千代姫を中心とする戦国時代の物語です。

 作者は、女心をさも自分が見聞きしたかのように自在に語っています。男である作者山本兼一が描く女性心理は、どれだけ的を射ているのか知りたいところです。ァ千代姫が結婚した場面などは、13歳の女の子の気持ちが詳細に語られています。これも、現代の女性たちはどのようにその描写を読むのか、非常に興味があります。

 しばらく読み進んで来た時、印刷の文字のフォントが違って来たことに気づきました。作者の語る部分と、ァ千代の侍女みねが語る部分は、文体はもちろんのこと、見た目にも書き分けられているのです。

 前半に据えられた「祝言」の章は秀逸です。人間の気迫と情熱が語られる物語です。
 戦をする時の人の気持ちが、男と女の両面から語られています。特に、ァ千代という女の視点からの語り口に、新鮮で温かい眼差しを感じました。

 ァ千代が秀吉の人質として、九州から大阪に行くくだりから、話はさらにおもしろくなります。
 その後、ァ千代の夫は柳河に移り、さらに朝鮮へ出兵します。夫婦は大きな歴史の荒波に漕ぎ出すことになったのです。そんな中でも、ァ千代は冷静沈着に立ち動きます。「女はつらい」という言葉を何度も漏らしながら。

 人質として預かった公家育ちの側室に手を焼くァ千代が、魅力的に描かれています。その中で、『源氏物語』が自分たち田舎者には馴染めない例として引かれています。『源氏物語』の受容史の一例として引いておきます。

 ァ千代が問いかけると、宗虎が首をふった。
「わしも、最初はそう思うてな。あれこれと話そうとしたのだが、なにしろ京の今出川家と内裏の界隈からほとんど外に出ずに育ったとかでな。歌と源氏物語のこと、香と季節の花のことよりほかには、なにも話ができぬのだ」
 ァ千代は、くすりと笑ってしまった。(434頁)
(中略)
「よろしいではございませんか。源氏物語のお話をお聞きになっておあげなさいまし」
「ああ、すこしは聞いた。しかし、どうにも退屈でな」
 いにしえの殿上人の恋の話を、我慢しながら聞いている宗虎の顔を思い浮かべて、ァ千代はまた微笑んでしまった。
「いや、葵上を苦しめた生霊の話はおもしろかった。というより、ぞっとして恐ろしかったのだがな。女とは、げに恐ろしき生き物だと、聞いていて鳥肌が立ったわい」
 源氏物語の主人公光源氏の正室葵上は、夫の愛人である六条御息所の生霊に取り憑かれ、ついには命を落としてしまう。
 ァ千代は、幼いころ、母の仁志から読み書きを習った。源氏物語はそのころに読んだ。
 生霊の話は子どものころ、ただ恐ろしいだけだった。ひさしく忘れていたが、言われて思い出した。女の心の底には、たしかに生霊となるほど強い嫉妬や執念が眠っている。
 いまなら、そのことがよく分かる。(435〜436頁)


 この長編物語は、読者の心を掴んだまま、意外な方向へと静かに終わります。作者の構想と筆力の凄さを、存分に堪能しました。本を閉じてから、物語の最初から最後までを、しばらく思い返しては再度その展開と人物像を確認しました。
 一人の女性が実に生き生きと描かれています。夫婦の愛情が籠もった物語としても、出色の作品になっています。【5】

初出誌:『文蔵』(2010年11月号〜2012年8月号)
    単行本はPHP研究所から2012年11月に刊行。
 
 
 
posted by genjiito at 01:00| Comment(0) | ■読書雑記