■「六畳の生涯」
舞台は、東京の郊外にある小さな医院です。79歳の元院長であった元軍医の老人と、34歳の家政婦が物語を展開します。
この老人は、家政婦を気に入ったために、来ない時にはその住まいにまで追いかけます。親切を、好意と履き違えているかのような奇態に見えます。それを、作者は丹念に描写するのです。
この家政婦と病院の看護婦、そして院長である息子の嫁、この女性3人の存在が、6畳の一間を生活の舞台とする老人の周りで複雑な様相を見せます。中盤までは、老人の家政婦への恋愛感情が中心になって展開します。老人の日常が、丁寧に描かれています。人間模様をテーマにした物語かと思って読み進めていました。
ところが後半になり、家政婦が無理心中したことから急展開。自殺なのか、誰かが殺したのか。そして、最後は、看護婦か嫁のどちらかが殺したと思わせるところで終わります。
清張らしくない、歯切れの悪い幕切れです。どうした、と言いたくなるほどです。忙しさのあまり、最後の詰めに盛り上がりを設定する暇がなかった、ということにしておきましょう。【2】
なお、清張の旧満洲での体験の一部がわかるくだりがあります。私の父も極寒の地であるシベリアで抑留生活をしたので、こうした記述は父を理解するのに手助けとなります。記録の一つとして抜き出しておきます。
「 この行季はシベリア出兵のとき、ハルビンやハバロフスクに携えて行ったものだ。当時は見習軍医で、いろいろとまごつきもしたが、今から考えるとなつかしい。この行李もそのとき新品として交付されたもので、どんなに古くなろうと捨てかねている。青春の遺品である。これを眺めると雪の広野が浮かび、さわれば、ペーチカにぬくもった革の肌ざわりが蘇ってくる。中身の医療器具はその後何度も詰めかえはしたが、容器は大事に保存し、こうして未だに役に立てている。」(280頁、『松本清張全集10』、文藝春秋社、1973.5.20)
初出誌︰『週刊朝日』1970年4月〜7月
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