■「書道教授」
主人公は妻以外に、古書店の女、バーの女、書道の先生などとの付き合いがあり、それぞれの関係の中で思い悩む男が描かれます。浮気話や揉め事が続くうちに、急転直下それまでの話が収斂します。
その決め手は、次のくだりでした。
「川上さん、実ははっきり申しますとね、文子さんの行方がわかったのですよ」
刑事は扁平な顔を向けて云った。
川上の心臓がどきんと大波のように鳴った。で、思わず云った。
「文子は、生きていましたか?」
「いや、生きていたのではありません。殺されていました」(324頁)
「生きていましたか?」が大きな失言だったのです。自白したもの同然だったからです。
なお、主人公が書道のお稽古に行った時に、最初のお手本は「蘭亭序」でした。そして、書道の先生は悪筆について次のように語ります。
「昔から書道のうえで、忌まれている病勢を申しましょう」
久子は、そう云って朱筆を揮い、点書の悪い見本を書いて示した。
「......こんなふうに、打った点がごつごつと角立ったのを牛頭といいまして、避けなければいけません。......これは角に力を入れすぎて急に力を抜くと出てくる形で、稜角といい、醜いものにされています。......これは筆の入れかたと止めかたが悪い例で、竹節と申しております。......これは、おわかりのように、はじめと終わりに、あまり力を入れすぎて、途中がすっかりお留守になったために形が悪くなったもので、上下が関節のように大きく、その間が細い鶴の足に似ているところから鶴膝という名がついております。......これは磔法のハネ方が悪くて、箒のようになってしまいますから撒箒といって忌まれています......」
「永字八法」についてだけでも、字の「病勢」を勝村久子は講義し、その見本を書いて示した。(265頁)
清張は書について『球形の荒野』で、北宋の書家米芾(べいふつ)の書を取り上げています。娘が唐招提寺の記帳の中に、米芾の書を習っていた父の筆跡があることに気づき、壮大な物語が始まるという設定です。本作でも書道の文字に拘っているのは、清張が博多で見習いだった頃に、米芾の書が手本の中にあったからだと思われます。
恥ずかしながら悪筆を自認する私も、学生時代に書道のお稽古に荻窪におられた先生の所へ行っていました。
書く字が下手だった私に、先生は字を掠れさせる渇筆で、しかもたどたどしく書いたらいいということで、この「蘭亭序」を一生懸命に練習し、「永和九年……」で始まるこの作品を四苦八苦しながら書き上げました。ところが、それが何と毎日書道展に入選し、上野の森の美術館に展示されたことがありました。何かの間違い、ということはあるものです。聯落ち一枚半(53cm×204cm)という、大きな紙に324文字を書いたので、ご苦労さんの意味での努力賞だったのでしょう。いや、多分に先生のお力によるものにちがいありません。その下手なりに書いた縦に長いほんの一部分を、しかも上の方の一部を、若かりし頃の記念品としてアップします。
この「蘭亭序」を書いたのは1974年のことです。先生のお宅で暑い日に、何時間もかかって書いたことを、今でも覚えています。墨を磨る時に、コーンスターチやショウガを入れたことは、かつてブログに書いたことがあります。しかし、そのサーバーがクラッシュしたために、今では読めないものとなっています。またいつか、メモなどをもとにして復元したいと思っています。
そんなことがあったので、この書道の話題に親近感を持ちました。
物語では、この書道教授の家が連れ込み宿の営業もしていたことへと展開します。そして、古書店の女の死。さらには、バーの女が殺されます。書道教授の家が、その殺人事件の舞台でした。
読者には、すでに犯人はほぼわかっています。その事件の背景と殺人の経緯を推理することが、清張の作品を読む時の楽しみです。その意味でも、この話は次第にテンポが早くなり、読者を釘付けにする巧みな構成となっています。
さらには、妻以外の3人の女性の描き分けも楽しめました。【5】
初出誌︰「週刊朝日」1969年12月〜1970年3月
底本︰『松本清張全集10』(文藝春秋社、1973.5.20)
※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)では、本作について次のように言っています。
「倒叙形式でありながら結末の意外性で読ませる本格推理の秀作。」(92頁)
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