鎌倉時代に書かれた『源氏物語』の臨模本を制作中の宮川保子さんと、京都駅中のホテルのラウンジでこれまでに試し書きとしての下書きと仮の清書本を置いて、文字列の慎重な検討と今後の打ち合わせをしました。
臨模本を作るに当たり、基本的な共通理解を踏まえて、あとは宮川さんの判断で模本が作成されています。
すでに、「須磨」(ハーバード大学蔵)、「蜻蛉」(ハーバード大学蔵)、「鈴虫」(国立歴史民俗博物館蔵)の3冊の臨模本は、すべて原本を共に実見して出来上がっています。
次は、相愛大学の春曙文庫所蔵の断簡である「帚木」、「藤裏葉」、「橋姫」、「宿木」、「手習」の5冊に宮川さんは挑戦中です。
あらかじめ託されていた5冊の試作本の内、すでに「橋姫」の前半は私の視点からの字母の特定などのコメントを記入したものはお渡ししていました。今日は、それを含めての5冊すべての紛らわしい文字に関して、その字母を判定した私からのコメントを直接確認しながらお伝えしました。
今回の相愛大学本の文字は、非常に曖昧な表記が多くて、悩ましい問題を抱えています。
今日、宮川さんが、これは『源氏物語』の草稿本の写しではないか、とおっしゃったことが私の心に突き刺さりました。ハッの思ったのです。本文を書き写す立場からの直感は、研究という視点とはまったく異なる感触があったようです。これまでのハーバード本や歴博本とは、明らかに書かれている文字の字形や印象が違います。
例えば、「思」「程」「給」の漢字は、字形に揺れがあります。仮名についても、「あ」「那」「ら」「越」などにも、崩し方が自由奔放です。
粗雑というと語弊がありそうなので、清書本を書き写した写本ではなさそうだ、と言っておきましょう。
「手習」の巻から、1例だけあげます。
これは「ひめきみ(姫君)」という単語を「ひめ支見」と書いたとしか思えない文字列です。「支(ki)」も「見(mi)」も、そのつもりで見ればそう書いてあります。しかし、この写本の書写者は、果たしてその文字が何というか音を表すものか、わかっていたのか疑問です。
親本の文字が乱れていたのか、書き写す時に注意力が散漫になっていたのか。こうした例の一々を取り上げながら、この相愛大学本の本文の素性を検討すべきだと思います。
文字の字形以外にも、本文の違いも顕著です。
現在の『源氏物語』の基準本文となっている室町時代の写本に江戸時代の手が入った校訂本文「大島本」とは、この鎌倉時代の本文は大きな異同を見せています。
春曙文庫の収集所蔵者であった田中重太郎先生が、次のようにおっしゃっていたことが、実際に本文を確認していると実感として伝わってきます。
■源氏物語本文について(田中重太郎)
ところで、源氏物語の本文でも定家の証本がいま定本視されているが、いわゆる別本系の本文と読みくらべると、いまの源氏物語の本文は、なんだかばかに整頓され、みがかれ過ぎた感じがする。架蔵の鎌倉初期書写の源氏物語断簡(昭和三十九年十月刊)を読みかえしていると、こんな本文の源氏物語がすくなくとも平安末期にはあって、読まれていたのだと思い、いま行われている源氏物語の本文と読みあわせると、そらおそろしい気がして来る。(下略)
(清少納言と「ほのかなり」と、『平安文学研究』第四十二輯、昭和四十四年六月号、『枕草子三十五年』再掲)
書道家である宮川さんも、忠実に臨模を続ける過程で、本書の特殊性を身をもって体感なさったようです。これは、これまでの写本とは何か違う、と。
相愛大学蔵本『源氏物語』として伝わる5冊の写本(断簡)は、平安時代から鎌倉時代にかけて、物語本文が形成される道程を照らす資料となるかもしれません。
ひきつづき、本文の「変体仮名翻字版」の作成を続けます。今後のさらなる翻字作業と、本文の調査や検討が楽しみです。
本書に興味と関心をお持ちの方は、私がNPO活動として展開している、キャンパスプラザ京都(京都駅前、「帚木」巻を読む)と、シェア型書店HONBAKO京都宇治(宇治駅前、「橋姫」巻を読む)でこれらの本を読んでいる勉強会にご参加ください。遅々として進まないものの、順調に前に向かって取り組んでいますので。
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