淀屋橋のすぐ下を流れる土佐堀川で、狭い水路を大きな観光船が器用にUターンしていました。右端が淀屋橋です。
中之島図書館での「新古典塾 平安文学」は、まず「変体仮名で書かれた『百人一首』を読む」〔入門講座〕です。
今日は、変体仮名を読む前に、『百人一首』の読み札に書かれている歌仙絵が、どのようにして描かれているのかがわかる資料を見てもらいました。
展示したのは、架蔵の『探幽筆 三拾六哥仙』です。これは、平成5年に私がパリで見つけ、テニス仲間の八人会の協力を得て入手し、現在は私が預かっている物です。その37枚の絵をすべて拡げました。こうして36歌仙のワンセットの絵が一堂に会する展示は、今回が初めてのことです。壮観でした。これは、絵画化するための指示が書き込まれた〈粉本・模本〉なので、いわば下絵です。これで、狩野派は絵の大量生産をしていたのです。絵の工房で使われたものが、明治時代に海外に流出し、それが日本に戻ってきたのです。日本の絵画がどのようにして描かれていたのかがわかる、貴重な文化的資料です。
真ん中に長く拡げたのは、私が全体像を把握するためにコピーをして復元したものです。14メートルあります。また、コンピュータを活用して彩色復元をしたものも見ていただきました。小野小町と在原業平の復元画は、この講座の案内チラシにも使っています。
本日配布した資料には、次の拙文を掲載しています。これを適宜読んで、説明をしました。
■『探幽筆三十六歌仙』(架蔵粉本)の実見
(1)「架蔵『探幽筆 三拾六哥仙』の復元」(伊藤鉄也)
(前略)
『探幽筆 三拾六哥仙』は、平成5年春に伊藤がパリで見つけ、八人会(大森俊憲・公子、新谷栄一・香代子、井上大治・文、伊藤清子)の理解を得て、幸運にも輸入することができたものです。
〈『36歌仙紛本画帖』〉と仮に呼ぶ本書は 、平安時代の著名な歌人36人の人物画が、B4版の大きさの和紙に書かれています。それがA3版大の厚紙に貼ってあるので、一枚ずつ手に取って見ることができます。鑑賞できると言いたいところです。しかし、丹念に彩色を施された顔以外は、すべて墨書きとなっています。また、着衣には色付けの参考とするための、細かな色取りの指示が書き込まれています。これは、〈紛本〉とか〈模本〉といわれるものです。
(後略)
(2)「八人会蔵『探幽筆 三拾六哥仙』について」(『大阪明浄女子短期大学紀要 第8号』1994.3.10)
はじめに
(前略)
ソルボンヌ大学のあるカルチェ・ラタンからノートルダム寺院周辺を、一人気侭に散策した。そして、たまたま通りかかった古書店で見かけたのが、ここに紹介する『探幽筆 三拾六哥仙』である。
(中略)
これは〈紛本〉とか〈模本〉といわれるものであり、一般には次のように説明されている。
紛本画巻・紛本画帖
「紛本」とは下書きの絵のことであるが、修行や後の研究、参考の為に模写したものも、白描の下書き風のものが殆どであるので、これも「紛本」という。江戸時代は勿論、明治期までは、画家の修行の殆どは模写を中心とした所謂紛本主義であったので、今でも時として夥しい「紛本」を見ることがあるわけである。(『日本古典書誌学総説』一二三頁、藤井隆、和泉書院)
一、八人会本の形態
洋装仕立ての〈八人会本〉の製本は、実に立派である。
本の大きさは、縦三九〇mm・横五〇〇mm。背皮には金の箔押しで、"PORTRAITS DES TRENTE-SIX GRANDS POETES JAPONAIS"とある。見返しはマーブル紙。『探幽筆 三拾六哥仙 軒』と記す紙を台紙に貼り付けたものを扉としている。
扉以外は、背綴じのところから一頁ずつ鋭利な刃物で切り取られていた。展示するための処置であろう。計三十七枚の歌仙画集なのである。
「探幽」とは、狩野探幽(一六〇二〜一六七四)のことである。狩野派は、江戸幕府の御用絵師として栄えた。特に、探幽以降の江戸狩野派は、臨写を基本とする紛本主義をとったことで知られる一大派閥である。〈八人会本〉の原本の筆者を探幽とする根拠は、今のことろはこの第一紙に「探幽筆」とある記載のみである。探幽は、鎌倉時代の『佐竹本三十六歌仙絵巻』が欠く、凡河内躬恒と紀貫之(位署と和歌)を補写するほどの実力者であった。多くの歌仙絵や縮図を残している。しかし、今はこれ以上に〈八人会本〉の筆者を確定する資料を持ち合わせていないので、「探幽」を伝称筆者名として了解するに留めておく。
(中略)
一枚の絵図の大きさは、おおよそ縦二六五mm・横三八〇mmほどで、B4版より一まわり大きいサイズである。この三十六枚の歌仙絵を敷き並べると、ちょうど三畳の部屋を埋める広さとなる。一枚ずつを横に繋いだ絵巻物のスタイルを想定すると、約十四mもの長さになる。この歌仙絵が、縦三四五mm(切断後)・横四八三mmの淡いブルーの厚紙の中央に、一枚ずつ貼ってある。
(中略)
人物画は楮紙に書かれている。用紙は少し光沢のある薄い丈夫な紙で、筆の勢いがある時には擦れが出ている。
人物の顔には、丹念に彩色を施してある。頭髪や眉や髭の一本一本に至るまで、丁寧に書かれている。顔のシワはもとより、瞳まで明瞭に入れてある。人麿には、一本一本の歯まで数えることができる。これに対して、首から下の体の線と衣服は、実にそっけない。原本を見ながら慎重に臨模したらしく、墨跡の滑らかさやスピード感は認められない。衣の模様は、その一部を描いているだけで、後は歌仙絵作成者が自由に仕上げることができるようになっている。図中には、色取りの指定がある。人麿には、「白」「うすきあさき」「うすきゑんしのく」などとある。色名・着色に関する指示は、詳細なものと、比較的簡略なものがある。斎宮女御における夥しい色取りの指示は圧感である。
保存状態の良くないものが何点かある。一番破損被害の大きいものは平兼盛である。
この平兼盛の図は、横幅が一番短い。歌仙絵が貼り付けてある台紙も、用紙の周囲がもっとも破損が激しいものとなっている。
二、配列と巻頭部
洋装本に仕立て直された"PORTRAITS DES TRENTE-SIX GRANDS POETES JAPONAIS"が、『探幽筆 三拾六哥仙』と呼ばれていた時の原形を考えよう。巻子本か折本か冊子本か、ということである。
これは、虫損箇所の位置を丹念に調べればよい。もとの形式がわかれば、虫損・切り口・紙シワ・墨汚れなどから、各絵の配列順序が復元できるはずである。
(中略)
破損の激しい平兼盛の絵図が、実は本書の巻頭だったことになる(図4)。平兼盛像の右側四分の一が欠損しているのは、表紙が付く以前に、頻繁に本書を取り出すことがあったためであろう。平兼盛の本紙の横幅は、中央の最長部が二七四mm・下部二一〇mmである。〈八人会本〉の各本紙の平均横幅は三八三mmなので、約一一〇mm〜一七〇mm分が欠けていることになる。これはまさに、一般的な巻子本の外周に相当する長さである。
(中略)
平兼盛の右端の切断面が不自然なのは、表の軸巻を付ける部分が千切れたためであろう。現存の表紙と見較べると、その幅も切り口もほぼ接合部分が符合する。
画面下部にある畳を示す線の下に、この平兼盛一枚だけは、波の模様が描かれている。平兼盛以降の歌仙絵でサッと線引きされただけの簡略化された畳とその下部は、この巻頭で指示された通りに描けばよいのである。
(中略)
〈八人会本〉の原画と、その紛本としての本書の性格を考えるにあたっては、右の歌仙額の可能性が多分にあるように思われる。なお、記(ママ)友則の左下には、本紙と裏打ち紙との間に、平兼盛の波文の左下端部の断片が貼り込まれている。この小紙片は、平兼盛の左下の欠落を完全に補完するものである(注3)。なぜこんな場所にあるのか、その理由は不明である。
注3 拙稿「伝『探幽筆 三拾六哥仙』の画像データベース化と原本復元」(『人文科学とコンピュータ 研究報告 No.18』平成5、情報処理学会)では、コンピュータを活用して、平兼盛の欠落部分の補完と、猿丸大夫→清原元輔→伊勢→山辺赤人→記友則という配列順の確認をした。また、表紙と平兼盛の接合に関しても、コンピュータ・グラフィックを活用した鏡像処理による左右反転画像を用いて、それらが整合することも検証した。(追記:なお、小野小町と有原業平の彩色復元図は、本〈源氏物語電子資料館〉の第3室-画像・映像・音声コーナーの画廊〈歌仙絵〉に掲載している。)
三、表紙と表題
(前略)
実際に現物をコピーして、〈八人会本〉の巻子本形式の複製版を作ってみた。太さは直径四十五mmほどになった。表紙の横幅は二三〇mmなので、ほぼ一巻半の長さとなる。したがって、この『探幽筆 三拾六哥仙 軒』と書かれた紙は、〈八人会本〉の歌仙絵三十六枚の表紙であったものと見てよかろう。これは、第一番平兼盛の冒頭部の修理にともなって、全三十六枚の裏打ち補強を行なった際に取り付けられたものと推測したことは、前述の通りである。表紙左端の切断面も、平兼盛の裏打ち紙の右端の切断面と一致する。
(前略)
もし、探幽筆とされる歌仙絵と関連する冊子本の表紙だったものを、軸巻の表紙に転用したとすると、元の冊子本は、各歌仙の和歌などを記したものだったかもしれない。歌仙絵を描いた後に、その右か上部に和歌を書く職人のための資料だったものではないか。そんな可能性があることも、指摘しておく。
四、制作過程と伝来形態の変遷
(前略)
まず、原画を模写するにあたっては、水を含ませた筆で一枚の楮紙に歌仙の姿をなぞったようである。それは、衣を描いた線の周囲にうっすらと残る輪郭線が確認できるからである。薄くなぞった後に、衣を書いたのである。現在のところ、一応私は、板絵として掲げられていた〈扁額歌仙絵〉を想定している。丁寧に書かれた彩色した顔の筆は、体を描いたものとは明らかに違っている。顔を描いた後に、体を書き、そして色名などの書き込みをしたと思われる。
(中略)
また、伊勢の左上端にあたる継目の下に残された墨の汚れは、次の赤人の右上端の汚れの続きが、紙継ぎ後の切断によって残存したものである(注3)。山辺赤人の歌仙名が人物画の六十mm右上にあり、歌仙名の右三十五mmに墨の汚れがある。とすると、この墨の汚れは紙の継ぎ合わせ以前においての、歌仙名を書いた時に付いたものと考えることも可能である。
(中略)
いずれにしろ、私は次の理由から、最初は五mほどの巻紙三本の形式ではなかったかと想像している。それを、歌仙絵作画の際に、手本・紛本として作業場に置いて利用していたのではないかと。
そう考える理由は、凡河内躬恒の左端が上から覆うようにして紙片が貼られており、その下部には厚紙が付着していること。その凡河内躬恒と次の藤原仲文の切断面を接合させると、裏打ちに大きなズレが生ずる。また、中務は左端四十五mmを裏から補強しており、その左側は縦に墨の汚れが広がっている。そして、その左端上下が極端に縮まっている。これは、左端に水がかかったためであろうか。さらに源宗于朝臣では、左端に紙継ぎの切断紙片がないのである。これらの状態から、平兼盛から凡河内躬恒までの十二人と、藤原仲文から中務までの十三人、そして紀貫之から源宗于朝臣までの十一人の、都合三巻仕立として利用・保管されていた時期が長かったことを想定してみたい。そうでないと、中務の紙面の左側が極端に黒ずんで汚れていることなどの説明がつかないのである。
(中略)
また、本紙の裏には、多くの墨の汚れが残っている。作業場で使用中に、巻かれていた紙の裏側に筆が当たることが、多々あったのであろうか。
(後略)
五、歌仙絵の切断
さて、〈八人会本〉の原形であった〈紛本画巻〉の切断についてである。この一枚ずつの切断面は実に杜撰きわまりない。刃が二度三度と入った跡が顕著に残っている。切り口も、右へ左へとカーブしている。すべてに〈定木〉は用いなかったようである。ここからは海外で行なわれたであろうことは、ほぼ間違いない。切り直しの跡や、紙継ぎのところが捲れたままで切断したりもしている。
(中略)
これら一連の作業は、製本をした国(フランス?)でのできごとだと思われる。台紙に歌仙絵を貼り付けるのに、強力なボンドを使用しているところに、本と紙に対する文化的な相違を痛感する。
このようにして完成した"PORTRAITS DES TRENTE-SIX GRANDS POETES JAPONAIS"と題する『探幽筆 三拾六哥仙』は、その後どのような手を経たかはわからない。とにかくパリの古書店に落ち着き、そして八人会が所蔵するものとなったのである。
おわりに
『探幽筆 三拾六哥仙』は、〈三十六歌仙絵巻〉または〈三十六歌仙扁額〉を制作するにあたって用いた、絵の手本としての〈紛本画巻〉だと思われる。狩野探幽は多くの模本を残している。しかし、これはその探幽の手になる模本の一つではなく、〈探幽筆三拾六哥仙絵〉を模写したものと考えられる。もちろん、絵巻からとは限らず、歌仙額からの可能性も高いと思っている。
〈八人会本〉は保存・備忘・研究のための模本ではなく、実際に利用・活用された紛本である形跡が多々認められた。ただし、この〈八人会本〉をもとにして描かれた一式の歌仙絵は、現在のところは確認できていない。探幽筆とされている背景ともども、さらに検討を続けていきたい。
本三十六歌仙の構図を子細に見ると、いろいろのことがわかる。
体と顔の向きを、藤原公任が『三十六人撰』であげた順番に並べると、二人ずつが向かい合う形となる。歌仙の配列については、他本の歌仙絵と比較するとおもしろい。各人物における「体の向き」「被り物」「持ち物」および「顔の向き」「視線」「手」「足」「耳」「髭の有無」「座り方」についても、〈佐竹本〉をはじめとする諸本との比較研究は、残された課題である。〈八人会本〉と同じ図様の三十六枚一式の絵画群が、一般に公開されているものの中には見あたらない。その点からも、本書の資料的価値は認められよう。
探幽自筆の各種歌仙絵と〈八人会本〉との比較は、これも稿を改めたい。探幽自筆『百人一首手鑑』中の小野小町と在原業平は、〈八人会本〉における図様と類似するところがある。〈八人会本〉の小野小町と在原業平との二点を、コンピュータグラフィックを活用して着色を試みた。今は、彩色復元したカラー図版を示して(注4)、推測を重ねることに終始した私見を終えることとしたい。
注4 〈八人会本〉の着色復元の詳細については、情報処理学会 第20回・人文科学とコンピュータ研究会(平成5年11月26日・於岡山大学)で「伝『探幽筆 三拾六哥仙』の画像データベース化と原本復元」と題して研究発表した。注3にあげた拙稿は、その時のものである。また、歌仙絵の画像データベースについては、拙稿「小野小町データベース〈図像編〉私案」(『人文学と情報処理3』平成6、勉誠社)を参照願いたい。
(平成五年十月二十七日脱稿・十二月十九日補訂)
今日の『百人一首』の確認は、45番歌の謙徳公から51番歌の藤原実方朝臣までを、変体仮名に注目して進めました。
休憩を挟んで、次は「ハーバード大学本『蜻蛉』巻の仮名文字を読む」です。
まず、先ほどの『百人一首』の時に見てもらった『探幽筆 三拾六哥仙』を、まだ片付けずに置いておいたので、なかなか見る機会のない物なので簡単に説明をしました。ケンブリッジ大学の故ジョン・コーツ先生が、これと同じ表紙と装丁の『源氏物語』の絵巻詞書をお持ちであったことにも触れました。
次に、44番目となるインドネシア語訳『源氏物語』を回覧しました。
書名:GENJI MONOGATARI
出版元:Boston and New York. Houghton Mifflin Company.
The Riverside Press Cambridge, 1925年版。
著作権・出版情報:Copyright コピーライトマーク CV. Shinyuu Japanindo
翻訳者:Sutrisno / 編集者:Gafna Raizha Wahyudi
※本書は2024年に出版された。(ただし、2022年と2023年にも出版)
※インドネシア語訳は、アーサー・ウェイリーの英訳(The Tale of Genji, 1925)全6巻の内の、第1巻のみをインドネシア語に訳したものです。他の言語でよくあることです。例えば、インドのサヒタヤアカデミーから出版されたインド語8種類による翻訳は、すべてがウェイリーの英訳の第1巻だけをそれぞれの言語に訳したものです。
これによって『源氏物語』の翻訳は、次の44種類の言語でなされていることになります。
古い情報で論文や報告書やコラムなどが書かれているので、これが最新であることを再度確認してください。
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【『源氏物語』が翻訳されている44種類の言語一覧】(2025年10月31日現在)
アッサム語(インド)・アラビア語・イタリア語・【インドネシア語】・ウクライナ語・ウズベク語・ウルドゥー語(インド)・英語・エスペラント・オランダ語・オディアー語(インド)・カタルーニャ語・クロアチア語・ジョージア語・スウェーデン語・スペイン語・スロベニア語・セルビア語・タミル語(インド)・チェコ語・中国語(簡体字)・中国語(繁体字)・テルグ語(インド)・ドイツ語・トルコ語・日本語(現代)・日本点字・ハンガリー語・ハングル・パンジャービー語(インド)・ビルマ語・ヒンディー語(インド)・フィンランド語・フランス語・ベトナム語・ヘブライ語・ペルシャ語・ポーランド語・ポルトガル語・マラヤーラム語(インド)・モンゴル語・リトアニア語・ルーマニア語・ロシア語
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今日のメインであるハーバード本『源氏物語 蜻蛉』は、残り時間で駆け足で本文の確認をしました。確認し終えた「変体仮名翻字版」を公開します。
■ハーバード大学蔵『源氏物語 蜻蛉』64丁裏〜65丁裏8行目まで
翻字データの中にある付加情報(/)の記号について
傍書(=)、 ミセケチ($)、 ナゾリ(&)、補入記号有(+)、補入記号無(±)、 和歌の始発部
( 「 )・末尾( 」 )、底本陽明文庫本の語句が当該本にない場合(ナシ) 、 翻字不可・不明(△)
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阿らねと/ぬ&ね・ひき者て・【給】者ぬ越・な可/\なりと【心】
いれ多る/い±ら〈薄墨〉、(な可な可なりと、【心】いられ多る)・【人】八・きえ可へり・【思】・わ可・八ゝ/(八八)・三や八・於と
り/と〈判読〉・【給】へき・【人】可八・きさい者らと/よ&さ〈薄墨〉、き$い〈薄墨〉、(きよき者らと)・きこゆる者かり
の・へ多てこそ・あれ・み可との/と〈判読〉・於ほしかしつき
多る・さ万・こと/\ならさりける越/(ことこと)・なを・こ
の・【御】あ多りは・ことなり介るこそ・阿やし介れ・
阿可しのうら八・【心】尓くかりける・【所】可なゝと/(【所】可ななと)・【思】
川ゝくる/(【思】川川くる)・ことと母尓・【我】・寿く世八・いと・やむ
ことなしかれ/れ$し〈薄墨〉、(やむことなしかし)・まして・ならへて・もち・多てま
川ら八やと【思】そ・いと可多きや・[34]【宮】のき三は/(64ウ)
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この・尓しの多い尓そ・【御】可多・し多りける・王可
き・【人】/\乃/(【人人】乃)・け者い・あま多・して・【月】・めてあへり・いて・
あ者れ・これも・【又】・於なし・【人】そかしと・【思】いて・きこえて・
【御子】の・む可し・【心】よ世・【給】しものをと・いひなして・そな
多へ・於八しぬ・わら八の・於可しき・との井す可多に
て・【二】・【三人】・いてゝ/(いてて)・ありきなと・したり・三つけて・
いる・さ万ともゝ/(さ万ともも)・かゝや可し/(かかや可し)・これそ・よのつねと・
於もふ・三なみ於もての・す三の・万尓・よりて・うちこ
者つくり・【給】へ八・すこし・おとなひ多る・【人】・いてき
多り・ひとしれぬ/〈墨合点〉・【心】よせなと・きこ江させ・【侍】れ八・【中】/\/(【中中】)、(65オ)
--------------------------------------
三な【人】・きこえさせ・ふるし川【覧】・うい/\しき/+【事】を、(【事】を、ういういしき)・
さ万尓て・まねふ・やう尓・なり・【侍】り・万めや可尓
なん・ことより・本可を・もとめられ・八へると・の【給】へ八・
き三にも・いひ川多へす・さかしら多ちて・いと・
於も本し可けさ里し・【御】ありさ万尓・川け
ても・こ三やの・於もひ・きこえさせ・【給】へりし・
【事】なと・於もひ【給】へいてられてなん・かくの三・
於り/\/(於り於り)・きこ江させ【給】なる【御】しりうことも
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帰りには辺りは薄暗くなっていました。図書館と淀屋橋駅までのみおつくしプロムナードは、光のイルミネーションで飾られていました。
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