2025年09月14日

我が仕事環境の写真(その2_研究室)

 1999年の4月から、東京都品川区にあった文部省所管の国文学研究資料館に転職しました。それまでは、大阪の熊取にあった大阪明浄女子短期大学(現・大阪観光大学)の教員でした。その頃の写真はフイルムベースのプリント写真だったので、まだ整理ができていません。これは後日にしましょう。

 東京の職場には、大和平群から単身赴任で平日通っていました。
 研究室は元は倉庫だった部屋なので、次の写真の左端に写っている小さい小窓が唯一の明かり取りでした。

2006-8_NIJL研究室のみ01.jpg

 その後、2008年に国文学研究資料館は品川区から立川市に移転しました。それに伴い、職場も新庁舎に移り、研究室も新しくなりました。引っ越したばかりの、何とか仕事ができるように整理をした状態の写真です。

2008-2_立川研究室01.jpg

 スケールの大きな科学研究費補助金によるプロジェクトを同時に3つ運用していたので、研究室の向かいに広い作業室をもらっていました。3人の補佐員さんや10人近いアルバイトの方々に、研究のお手伝いをしていただいていました。私が定年で離職する直前の、作業室の写真が残っています。

170311_NIJL作業室退去01.jpg

 定年退職した翌4月からは、古巣の大阪明浄女子短期大学が4年制の共学となり、新しくなった大阪観光大学に出戻りの教員として赴任しました。かつて使っていた研究室の下の階に、新たに研究室をもらいました。

2019-2_観光大研究室01.jpg


 そして着任早々、また大型科研が採択されたために、科研の業務用の部屋としてもう一室使えることとなりました。荷物を運び込んだばかりの部屋の写真が残っていました。ここで、補佐員さん1名とアルバイトの学生さん8人に、情報収集や資料整理をしてもらいました。

190313_観光大の科研室.jpg


 その2年後に、経営者の意に沿わなかったのか、突然私は解雇されました。大型科研はまだ2年間2千万円の経費が残っており、研究も半ばでした。このままでは全額返納です。そんな宙ぶらりんになった私を、大阪大学にいる仲間が救いの手を差し伸べてくれたのです。大阪大学箕面キャンパス(旧・大阪外国語大学)に研究場所を確保してもらえました。
 だだっ広い部屋に大量の本や情報文具を運び込み、新しくアルバイトさんにも来てもらい、心機一転研究を再開しました。手前が、私が使うことになる机です。

2019-05_阪大研究室01.jpg

 順調に研究成果を上げていた時、またまた突然、大阪観光大学から学長としてお呼びがかかりました。民事再生下にある大学になっていたのです。解雇されて1年半で、学長や理事などの役職者として再建の手伝いをする者として呼び戻されたのです。
 その翌春、科研は終了し、大阪大学の箕面キャンパスも箕面船場にすべて移転することになったと同時に、私は大阪観光大学の学長理事職専任となりました。
 新たな研究室は、学長室があることもあり、大量の本を入れると入口からは仕事机が見えなくなる手狭な部屋でした。

210821_観光大研究室02.jpg

 順調に再建のお手伝いをしていた中の2021年12月末日に、私は大学の運営に関して抗議の辞任をしました。そのために、ここが私の最後の公的な研究室となりました。

 なお、私が我がまま勝手なことをする人間だと思われないためにも、いつも筋は通していることを示す意味で、辞任の経緯を記した文書を、以下の2本の記事として公開しています。あらぬ誤解を受けないように、念のために明示しておきます。

(1)「私が2021年12月末日で学長を辞めた理由」
   (2022年04月02日、http://genjiito.sblo.jp/article/189437966.html

(2)「梯子を外された具体的な例証ひとつ」
   (2022年04月03日、http://genjiito.sblo.jp/article/189439395.html

 以上が、いろいろとあった我が仕事環境を記録した写真です。

 次回は、京都の自宅の勉強部屋を整理してアップします。




posted by genjiito at 21:42| Comment(0) | *回想追憶
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