■「柳湯の事件」
突然飛び込んで来た青年の様子が、詳しく観察した描写で読者に提示されます。その慌ただしさから、何か事件が起きたことを予感させます。
青年の幻覚や錯覚が、果たしてどういうものなのか、自分が人殺しをしたのかどうかも含めて、高名な博士に判断してもらおうというのです。
本人は自ら、「僕はたゞ、自分には氣違ひの血統があると云ふ事と、十七八の時から可なり激しい神経衰弱に罹り通して來た」(127頁)と言っています。
また、次のような病気に関する誤った認識も見せています。
「僕は去年あたりから神經衰弱の上に重い糖尿病を患つて居ました。で、その爲めに、彼女の肉軆に愛溺する心はありながら、彼女の生理的慾望に十分な満足を興へる事が出来なくなつたのも、二人の不和を増大させる有力な原因だったに相違ないと思ひます。」(129頁)
「先生は多分、糖尿病と云ふ病氣が、神経衰弱とどれ程密接な關係があるかと云ふことを御存じでせう。それからまた、太つた人の糖尿病はさほど恐るゝに足らないけれども、僕のやうに痩せた人間の糖尿病は、極めて悪性なものであると云ふ事も御存知でせう。僕の場合には糖尿病が神經衰弱を重くさせたのか、或は其の反對であつたのか、執方が先だか分りませんが、兎に角此の二つの病氣は互に連絡を取り足並みを揃へて、僕の心身を一日々々に腐らせて行くばかりでした。」(130頁)
中でも、「痩せた人間の糖尿病は、極めて悪性」というくだりには、おいおい、と言いたくなるところです。
この作品に出てくる博士とT氏は、コナン・ドイルの探偵ものの主人公ホームズとワトソンのコンビを彷彿とさせます。
さて、ヌラヌラとした感覚を好む性癖の描写が続く場面は、谷崎らしいと思いました。異常で敏感な触覚が語られているのです。そんな、谷崎らしい要素が詰まった作品だと言えるでしょう。【3】
今回読んだ『谷崎潤一郎全集 第十巻』(新書版、昭和34年5月)の解説で、伊藤整は次のように言っています。私には、ここで言っている「出色」の意味がよくわかりません。
「小説としての具体性を生かし、感覚的描写を十分に行つてゐる点においては「柳湯の事件」が出色である。」(295頁)
初出誌:「中外」大正7年10月号
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