2025年01月01日

京洛逍遥(910)宇治上神社へ初詣

 新年の仏壇の中は、両親への供物が一杯でお雑煮が目立ちません。今年は息子が来られなかったこともあり、妻が作ったお節から選んだものを並べています。

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 初詣は、今の住まいの氏神様である宇治上神社です。京阪観月橋駅まで歩いて行き、そこから電車で宇治駅で降ります。
 昨夏から気になっていた、京都アニメーションの大火災で犠牲になられた方々を慰霊する碑が宇治駅に隣接する「お茶と宇治のまち歴史公園」に建ったので、そこに足を運びました。

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 その前にある碑文を引きます。


夢と情熱を人から人へ

アニメーションを通じて果てしなく広がる夢
1本の線を描くのにも長年培った技術と深い想い
子どもたち、そしてすべての世代に届く確かな映像と物語
ここ、宇治・京都から世界に向けて発信していく
私たちの途切れることのない未来への羽ばたき

この碑は、2019年7月18日、京都アニメーション第1スタジオで発生した事件で
亡くなられた36人、一人ひとりの志を36羽の鳥に託し、長く記憶に留めるため、
仲間、家族、応援してくださる方々により建立されました。
                           2024年7月 建立


 その後ろにある交流館「茶づな」では、宇治に関係することから「光る君へ」の「大河ドラマ展」をしていました。『源氏物語』の作者は紫式部だとは考えない私は、いまいち気が進まないままに覗いてみました。すると、宇治市民は無料だとのことだったので、それならと入ることにしました。
 直衣や袿の衣装や、手紙文や写本などの小道具は、考証がかつての同僚や知人によるものだったこともあり、興味深く拝見しました。
 展示資料の中に、「藤原道長の頃の宇治(想像図)」があったので、いまの地形との違いをじっくりと見ました。その説明文も、文字起こしをして掲載します。

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 道長の時代の宇治(西暦1000〜1020年頃)が、どのような景観にあったのかは、自然景観は別にして、実のところよくわかっていません。史料が少なく謎が多い時代なのです。今回の復元イラストは、この謎に挑戦したもので、宇治市の発掘調査成果をもとに今までとは違ういくつかの新しい景観を書き込んでいます。
 まず、@宇治川は現在の宇治橋下流でいくつかに分流し巨椋池に同化していました。A川中には網代が設けられ、夏には鵜飼も行われていました。B宇治津もこの辺りにありました。C宇治川の先にはたくさんの島があり、人々の、暮らしもありました。槇島もその一つです。Dこのころ宇治橋は、上流の浮島十三重石塔あたりに架けられていたと考えられます。E本町通り(奈良街道)が真っ直ぐ橋まで伸びていました。道筋には町家や神社などが建ち庶民の生活がありました。現在の宇治橋通りはこれより300年ほど後に作られたことが分かっています。
 Fこの橋の西岸北側に道長の宇治別業がありました。平等院の場所です。川岸の現在の観音堂あたりに寝殿が作られていました。建物の形はこの寝殿を転用した平等院本堂の形を資料から復元しています。園池は鳳凰堂が立つ阿字池と同じです。G対岸には離宮社があります。史料から付近に別業があったことが分かります。H字治の市街地にも別業の存在が発掘からわかっています。その周りには、使用人たちの家や民の暮らしがあったと思います。I本町通りの西の端には一之坂があります。宇治の西の境とされる場所です。


 宇治橋の袂の通園でお茶をいただき、さわらびの道から宇治上神社へ向かいました。

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 手前の宇治神社(重要文化財)は長蛇の列だったのに反して、宇治上神社(国宝)の方は少なめでした。やや奥まった所にあるので、宇治川に近い宇治神社をお参りしてお帰りになる方が大多数のようでした。歴史的にも文化的にも大切な神社である宇治上神社に足を運ばない方が多いのは、もったいないことです。

 平等院の表参道と宇治橋通りは、ほとんどのお店が正月休みだったために、穏やかなお正月風景となっていました。




posted by genjiito at 20:49| Comment(0) | ◎京洛逍遥
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