2024年11月12日

読書雑記(351)小松亜由美『イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子』

 『イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子』(小松亜由美、小学館文庫、2024年7月)を読みました。
 現役の解剖技官が、司法解剖など現場の雰囲気そのままに語る、法医学ミステリです。

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■「第一話 業火の棺」
 秋田医科大学の博士課程一年の南雲瞬平が語り手として事件を炙り出します。ただし、この「博士課程一年」というのが、博士前期課程なのか博士後期課程のことなのかはわからないので、年齢のイメージが湧きません。
 指導教授の上杉永久子は自殺研究の第一人者で、本作の事件を解明する探偵役の中心人物です。
 秋田医科大学は偏差値全国最下位の三流単科大学だといいます。しかし、上杉教授は「定年退官まであと三年」だとあるので、国立大学の教官ということになります。この「国立」という設定でいいのでしょうか。何か誤解を招く表現だと思いました。
 また、「標準語」という表現があるので、言語に対する無意識の差別意識があるようです。誤解のない表現をするなら、「標準語」ではなくて「共通語」とすべきでしょう。「秋田弁」がさまざまな場面で出てくるので、秋田の言葉が標準以下だと暗に言っているようになりかねません。
 それはさておき、物語は新鮮な切り口で事件の背景を法医学の立場から明らかにします。大いに楽しめました。
 本話に出てくる秋田銘菓は「もろこし」です。


■「第二話 胡乱な食卓」
 早々に、修士課程一年の鈴屋玲奈が出てきます。ということは、第一話の博士課程というのは、今の博士後期課程だということになります。私が50年前に、博士後期課程と言うようになってすぐだったので、この話はそれ以前の制度となり、医学部がどうなのかということになります。
 それはさておき、食中毒の事案が死体遺棄事件ということになり、話は急展開。死体解剖の経過が克明に描写されていき、専門分野の話に引き摺り込まれます。
 熊谷検視官が言う「んだっすな」という言葉は、秋田の義父や義兄がよく言っていた言葉です。懐かしく読み進みました。
 本話では、横手の名物の「花見だんご」が出て来ます。スーパーの和菓子コーナーでは「あやめ団子」として売られているとか。
 最後になって、たけや製パンの「バナナボート」が出て来ます。一般的にはオムレットというもので、秋田県内でしか入手できないものだそうです。


■「第三話 子守唄は空に消える」
 仙台名物の「萩の月」と「喜久福」が、まずはお菓子として出て来ます。
 秋田弁の会話は健在です。

 「やざねぇ」とは秋田弁で「ダメ」という意味だ。(113頁)

と、レベルの高い秋田弁には注釈が付いています。
 物語は、赤ちゃんの死をめぐり、虐待ではないかとのことで、解剖に同席した一人の大学院生の軽はずみなマスコミへの取材から、教授に謹慎を言い渡されます。そして、マスコミ批判へと向かいます。母親に対しては、教授から病死であることが伝えられ、大騒動は収まりました。しかし、教授が抱える問題が明らかにされ、この物語の奥行きが深くなります。
 妻の実家がある秋田県由利本荘市が出て来るので、松本清張の『砂の器』出てきた羽後亀田のように、現地への親しみを持って読み進みました。


■「第四話 出会いと別れの庭」
 小野小町の遺跡があることで知られる、湯沢市小野の出身の同級生が、自殺をしたのです。

 秋田弁で「ねまれ」とは「座れ」という意味だ。(169頁)

 2人で湯沢を旅し、実家で楽しい時を過ごしたことが詳しく語られます。そして、友の自殺。現場で、教授との出会いがありました。
 秋田銘菓の「金萬」が出て来ます。
 自殺した親友香西からの暗号を解き、死因などに思いを馳せます。
 話は、教授の元夫の自殺が明かされます。それから、教授は自殺を研究テーマにしたのです。
 そして、イシュタムのいう言葉が、マヤ神話で自殺を司り、死者を楽園に導く女神だと言うことが語られます。
 人の情に訴える話としてまとまっています。
 本話での秋田弁の解説には、次の例が興味深いものでした。

 「きみ、け」と香西は僕に一本のとうもろこしを手渡した。秋田県人は「食べろ」を「け」と言う。「食え」が更に短くなったものと思われる。「きみ」は「とうもろこし」の意味だ。(169頁)


■「第五話 真夏の種子」
 まずは、水羊羹がコーヒーに合うものとして出て来ます。

 作者自身が現職であることから、非常に生々しい描写となっています。そんな箇所を、長文ながら以下に引きます。

「私が頭を開くから、南雲くんと秀世先生は背中をお願い」
 教授は遺体の頸部から臀裂までを一直線に切開した。その後で教授は遺体の頭側に立ち、遺体の左耳介後部にメスを入れ、右耳介後部まで半円形を描くように頭部の皮膚を切開した。
 僕は遺体の右側、秀世は遺体の左側に立ち、二人で背中の皮膚を捲ってゆく。秀世の手つきが予想以上に鮮やかで、驚きつつ暫し見惚れてしまった。
「秀世先生、早いっすね…」
「ほほっ。腕は鈍ってねがったみでえだな」
 秀世は軽口を叩きながらも、あっという間に皮膚を捲ってしまった。負けずに追いつこうとするが、教授に注意されてしまう。
「南雲くん、メスで自分や人の手を傷つけるかもしれないから、焦っちゃダメよ!」
「はい......。すみません」
「マイペースを守りなさい」
 僕も解剖に入って二年目になり、少しは早く皮膚を切開できるようになったと思っていたが、まだまだだった。あと五体も残っているのに、早くも挫折した気分だ。
 解剖中にメスや針刺しでケガをすると、労災扱いになり、病院部の指針に従わなければならない。手続きや検査が面倒で厄介だ。それに何より、感染が怖い。
「昔、オラもメスで自分の指を刺したごどあるよ。メスの傷は痛ぇし、ながなが治らねぇんだ。しかも、遺体がB型肝炎で、暫くこごの病院部さ通って検査繰り返したども、幸い感染しねがったな」
 こんなに腕の立つ秀世でも、解剖中にメスでケガをするのか。猶更気をつけなければならないと、背筋を伸ばす。
 背中を切開し終えると写真撮影をし、次は背中の筋肉を捲る。広背筋や肩甲骨を覆う棘上筋や棘下筋、肩甲下筋、脊柱起立筋をメスで捲った後は、骨膜剥離子で肋骨や肩甲骨、脊椎に付着した筋肉を剥がし、骨を綺麗に露出させてゆく。(275〜275頁)

 このリアルさが、物語をしっかりと支えており、死体からの死因の推理へと展開していくのです。
 この第五話は読み応えがありました。法医学の世界に引き摺り込まれました。第四話と第五話は、書き下ろしの原稿です。本書の中で、この第五話が一番出来のいい物語となっています。


初出誌:第一話「業火の棺」/「STORYBOX」2021年11月号
    第二話「胡乱な食卓」/「STORYBOX」2022年7月号
    第三話「子守唄は空に消える」/「STORYBOX」2022年3月号
    ※上記の初出の作品を、文庫化にあたり加筆改稿。
    第四話、第五話は書き下ろし




posted by genjiito at 21:05| Comment(0) | ■読書雑記
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