1960年に松本清張が連載を始めた『球形の荒野』と『砂の器』は、私が何度も読んできた清張シリーズの中でも2本柱とでも言うべき愛読書です。特に『砂の器』は物語の舞台が私の生活に密接な所なので、長編にもかかわらず、特に読むことの多い作品です。
学生時代に住んでいた大森駅の次は蒲田駅であり、蒲田は生活圏の一部でした。この物語は、「国電蒲田駅の近くの横丁だった。」と始まります。その蒲田で殺人事件が起き、被害者がそこの小さなバーで若い男と話していた言葉がズーズー弁だったことと「カメダ」という言葉から、捜査の手は秋田県の羽後亀田に延びます。
妻が生まれ育ったのは、その羽後亀田の近くでした。昨年3月下旬に、義兄にこの羽後亀田駅へ連れて行ってもらい、積年の思いであった現地取材を叶えることができました。
作品では、次のように語られています。しかし、その雰囲気はまったく残っていませんでした。
本荘で乗り換えて、亀田に着いたのは、十時近かった。
駅は寂しかった。だが、その前の町並みは家の構造がしっかりしていた。古い家ばかりである。想像していたより、ずっと奥ゆかしい町だった。
雪国なので、どの家も廂が深かった。今西も吉村も初めての東北の町なので、これは珍しかった。(35頁)
話は、秋田の捜査から国立国語研究所での調査を経て、島根県の出雲地方も秋田県と同じズーズー弁を話す地域だということがわかります。この国立国語研究所は、2008年に私が当時勤務していた国文学研究資料館が同じ敷地に移転し、仲間もいたことから頻繁に行き来した研究所です。
このブログで何度も書いたように、私は小学4年生までは島根県の出雲市で育ちました。結婚する時に、私の両親が秋田へ挨拶に行った折には、父親同士、母親同士がお互いのズーズー弁で喋ったにもかかわらず、みごとに意思の疎通が問題なくなされたのです。この『砂の器』の捜査の撹乱というトリックは、両親が証明してくれました。
そして、物語での調査の対象地域が島根県に移り、しかも父がよく知っていた奥出雲が注目されるようになったのです。
その後、私が出雲から大阪に出て中学と高校時代を過ごした大阪が、犯人の戸籍操作の舞台となります。私が赴任した高校は、その近くです。私が生きた足跡がそのまま物語に出て来るので、この作品は愛着が一入です。
作中で、犯人の略歴が次のように記されます。
本籍、大阪市浪速区恵比須町二ノ一二〇、現住所、東京都大田区田園調布六ノ八六七。昭和八年十月二日に生まる。京都府立××高等学校卒、上京後、芸大烏丸孝篤教授の指導を受く......。(101頁)
これについても、いろいろと書きたい所です。しかし、それはまたの機会としましょう。
あまりに興味深い作品なので、大阪で高校の教員をしていた時に、この国立国語研究所が出て来るくだりを教材にして授業をし、試験問題としたことがあります。
また、出雲弁について清張は次のように語ります。
この地方の人は、自分の田舎訛りに気はずかしさを持っているのです。ですから、他所の人と話すときはできるだけ標準語に近い言葉で話していますし、あのディーゼルカーで宍道に出るときも、町の近くになると、田舎言葉を話さないようにしています。まあ、それだけ劣等感を持っているんでしょう。一つは、交通が開けたことにも由来するでしょうね。なにしろ、この辺の言葉をそのまま話すと、ひどいズーズー弁なんです。今では、よほどの山奥か年寄りでないと、そんな言葉は使っていないようです。(153頁)
私は、よく滑舌が悪いとか、発音が聞き取り難いと言われます。小さい時から父には、出雲人は語尾が不明瞭なので最後まではっきりと言うように、とよく諭されました。しかし、なかなか直るものではなく、今でも喋るのが苦手です。このことは今さらどうしようもないので、割り切って、ベラベラと喋っていますが……
こうした話はきりがないので、物語に即したことに戻ります。
物語の中盤からしばらくは、音楽などの文明評論家の関川と恵美子の話が長々と続きます。蒲田での犯人を誤誘導するためなのでしょう。
3分の2を過ぎた第十二章から、この物語は佳境に入ります。蒲田で殺された三木謙一が、伊勢の旅から急遽東京へ行った理由がわかり、三木の過去が犯人を炙り出します。物語の構成の妙に敬服します。このことが一気呵成に最後まで読ませます。【5】
初出誌:讀売新聞 1960年5月〜61年4月
※参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)には、次のようにあります。
ベテラン刑事の執念の捜査を描いた社会派ミステリーの傑作。何度も映像化されて名実ともに清張の代表作となった。(97頁)
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