谷崎は、自由気ままに思いのままに、自分が思うことや聞いたことや調べたことを書き綴っています。その中で、宗旨について次のように語ります。
昭和廿二年の秋の彼岸には、師に乞うて曼殊院で父母の法要を營んで貰つた。と云ふのは、私の家は本來日蓮宗であるが、私はどうもあの宗旨が嫌ひなので、東京にある菩提寺にもめつたにお詣りしたことはなく、戰争で疎開してからはいよいよ佛事をおろそかにするやうになり、戰後京都に家居してからも、何處か此の地で然るべき寺を定めようと思ひながら、今日までぐづくに過してみたのであつた。
(中略)
しかしながら、曼殊院は外ならぬ天台宗であつて、その昔比叡山で修行をした日蓮は、さすがに傳教大師や天台宗の排撃はしてゐない、云つて見れば日蓮宗は天台宗の出店のやうなものであるから、此の宗旨に變へる分には、悪口屋のお祖師様もまあ見逃してくれるであらう。(120頁)
また、『少将滋幹の母』執筆の背景や、本作を執筆するに至る事情も、次のように語っています。貴重な思い出語りなので、長くなることを厭わず引用します。
そのうち私は毎日新聞のために「少將滋幹の母」を執筆することになつたが、此の作品を書きつある間に、光圓師の教を乞はねばならないことがつぎ/\に出て來た。たとへばあの中には不浄觀のことが書いてある。又滋幹の母が隠棲したことになつてゐる地、西坂本のを中納言敦忠の山荘のあつた所と云ふのは、ちやうど現在の曼殊院のあるあたりになる。滋幹は叡山の横川にある良源和尚の坊から、或る日雲母越えを下つて來て、偶然敦忠の山荘のほとりへ出、昔の母にふやうになるのであるが、その雲母越えは曼殊院の直ぐ上を行く坂道なのである。
それやこれやで私はたび師を訪ねて、不浄觀の教理や實踐の方法、叡山、雲母坂、一乗寺邊の地理や道程などについて質したのであつたが、師は私のうるさい質問にいつも快く感じてくれたばかりでなく、進んで有益な示唆をも與へてくれたのであつて、ありていに云へば、私があそこへ良源和尚を點出したのも、師の入れ智慧に依つたのであつた。
さう云ふ譯で、師はあの小説が新聞に載り始めると、毎朝熱心に愛讀され、批評や感想を寄せられたことも二三回あつたが、或る時私に、自分が材料を提供するからそれを小説にして見ては如何、自分の提供するものをあなたの筆で創作にしてくれたら、天台宗の宣傳にもなつて大變有難いのであるが、と云ふ話があつた。私としては、それがたま/\創作的感興を催さしめる底のものであつたら、一篇の作品に纏めてみる氣もないではないし、そんな風にして出来上ったものが師のお役に立つと云ふなら、結構なことに違ひないのであつたが、殘念ながらその折師から提供された材料と云ふのは、慈覺大師の顯揚大戒論に菅原道真が序文を書いたと云ふ、北野縁起にもちよつと出てゐる挿話であつて、これはどうにも小説になりかねるものであった。
(中略)
私は仕方なく、その理由を云つて師から借用した參考書類を返却したのであつたが師はなか/\そのくらゐなことでは諦めず、それではと云つて、二度目に提供してくれたのが、元三大師の材料であった。(122〜123頁)
もっとも、元三大師の物語を書くにしても、資料が勝っている中での谷崎なりの創作はうまくまとまりそうにはなかったのです。そのあたりを、次のように回想しています。
私としては、矢張これを普通の小説の形式で書くのはむづかしく思へた。宇多法皇と月子姫との關係を骨子にして一般の興味を惹くやうな虚構の事實を多分に加へでもすればであるが、少將滋幹の場合と違ひ、大師のやうな佛教史上に顕著な足跡を印した人を、殊には日本の帝王であられた方を材料にしてありもせぬことを捏造し、まことしやかに物語ると云ふことは、私の今の心境に合致しないところである。が、小説の形式に囚はれることなく、もつと自由に、随筆風になら、何か書けさうな気がしたので、兎に角私は、師の手許から參考資料を借りて歸って来たのであつた。(127頁)
という事情を経て、曼殊院の光圓氏から提供された元三大師の資料を元にして、本作品は語られるものだったのです。谷崎の創作手法の一端が伺える例証となることなので記しておきました。
廬山寺の逸話も記されています。
大師はしば/\宮中に召されたが、いつも御所へ上る ことを歸る/\」と云つたので、大師が院の落胤であることを世人が誰も知るやうになった。(中略)
(大師に由縁のある寺町廣小路元天台宗古刹廬山寺に、大師が被つたと云ふ面を藏してゐる。大師は宮中へ參る時に、自分の美しい顔を女官たちに見られないやうにその面を被って行つたのだと云ふ。廬山寺ではその形を木版に刷り、元三大師降魔面御符として参拝者に頒つてゐる)(126〜127頁)
大師が宇多法王の落胤であることの妥当性を、いろいろな資料を駆使して検証します。
ただし、谷崎は大師に好意を持てなかったようで、いろいろと難癖を付けるような事例を挙げて書いていきます。
たゞかう云ふ型の坊さんは、いかに偉くても何となく俗つぽいやうに思はれて、心から追慕する氣にはなりにくいのであるが、平安朝初期頃の、貴族佛教が興隆せんとする時代に方つては、坊さんとして斯様な偉さを持つことが、一往必要であつたのかも知れず、最澄や空海にも矢張斯様な一面があつたのであらう。(143〜144頁)
そのこともあってか、この物語はあくまでも大師の母に注視して綴られていきます。
此の物語は大師と母との關係を敍するのが目的であつて、大師その人のことはたゞ母との關連に於いて觸れようとするだけであるが、それにしても大師が實際にどれほど偉い人物であつたかと云ふことは、遺憾ながら天台宗の僧侶でない私などには正直のところよく分らない。(138頁下段)
終盤は、雄琴村にある乳野(千野)における祭礼の民俗調査の様相を呈して来ます。聞書のようにして、大師の母を語ります。
最後は、次の文章で随想を閉じます。
擱筆に臨み、私は光圓師に約束を果たしたとは云ふものゝ、その實師の氣に入らないことを多く書き、却つて天台宗の惡宣傳になり終ったかも知れないことを、深くお詫びする大第である。(157頁)
結局この小品は、谷崎にとっては小説にならなかった作品、ということになります。【3】
初出誌:『心』昭和26年1月〜3月
原題:「元三大師の母−乳野物語−」
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