2024年05月01日

清張復読(66)『ゼロの焦点』

 結婚して1ヶ月も経たないのに、夫が行方不明となります。妻であった禎子は、夫のことを知らなさ過ぎたことを痛感します。
 なぜ夫がいなくなったのかを探っているうちに、探すのを手伝っていた義兄と会社の同僚が、共に青酸カリで殺されます。なぜ殺されたのか、が後半のテーマとなります。
 その間、クリーニング屋を訪ね歩いていた義兄の意図を考えます。そして、クリーニング屋の存在が意外な役割を果たしていたことがわかります。中盤から出てきたクリーニング屋のことは、私も一緒に考えました。思いがけない意味に、清張の着眼点の斬新さを思い知らされました。
 最初はただの失踪事件だと思わせておきながら、読者を飽きさせることなく、どんどん深みに誘い込んでいくのです。うまい展開です。

 また、背景に戦後の混乱期の立川が謎を深めます。清張の作品によく出てくるGIとパンパンの存在も、かつての戦後社会の現実を想起させ、読者の記憶の中に埋め込んでいきます。これが、ボディーブローとして効いてきます。
 このことに関して、『松本清張全集 3』(文藝春秋社、1971.5.20)の巻末に収載されている小松伸六氏の「解説」には、本作の核心に触れる説明をしています。物語の理解を深め確認するためにも、以下に引用しておきます。

 まず、なぜ、憲一は自殺(?)しなければならなかったのか。憲一が戦後の混乱期に、東京立川署で、米兵相手の夜の女をとりしまる風紀係りの巡査をしていたことがあり、そのときに知ったのが、夜の女であった田沼久子であり、社長室田の妻となっている佐知子である。悲劇の原因はここにある。つまり憲一たちは、アメリカに占領されていた基地立川が象徴する日本の戦後という「戦争の傷あと」を背負って生きていたわけだ。それが憲一の結婚によって、かくされていた傷あとがばくろされ、それをおそれた人間たちによって殺人事件までがおこる。憲一、久子、佐知子らは匿名で生きなければならなかったのだ。あるいは仮面をかぶって生きなければならなかった、素顔をばくろされた悲劇がおこる。とすれば、その殺人の動機には少くとも読者をなっとくさせる社会的悲劇性があるとおもわれる。(460頁)

 北陸能登半島の、金沢を中心とした地方も、丹念に描き込まれています。海岸の断崖絶壁、温泉地、気候や風土もたっぷりと語られています。本年正月に起きた能登大地震が、この物語の舞台と重なります。今年だからこそ、能登の風景が印象深く思い合わせられるのです。いいタイミングで読みました。
 この能登に関しても、小松氏はその「解説」で次のように言います。

 私事になるが、私は戦後、八年ほど金沢で教師をしていたので、能登も鶴来も知っている。五年ほどまえ、能登金剛に行ったとき、「ゼロの焦点」に描かれた能登の海にあこがれ、同じ場所で命を絶った女性があった。今はそこに「ゼロの焦点」の文学碑が建てられている。いや、そればかりか、映画「ゼロの焦点」のロケーションの地という碑までが、二、三カ所にあったと記憶している。ついこの二月末にも、金沢で恩師がなくなり、その葬式に出たついでに、能登羽咋に近い志雄町の某寺に、かつての親友Fが生きていることを知り、三十五年ぶりに会った。F住職も松本さんのおかげで能登の観光客がふえ、海に近いお寺では、夏には民宿をやっていると話していた。能登から、松本氏の名前が消えることはないはずだ。(459頁)

 終戦から13年。その間の女性の社会的な位置付けとその変転が、物語の背後に見え隠れしています。それを飲み込むように、能登の断崖絶壁を舞台として、感動的な幕切れとなります。荒海と吹き曝す風と波の音を聴きながら、静かにページを閉じました。
 本作も、これまでに何度か読み、ドラマや映画も見ました。しかし、そのような記憶は思い出すことなく、再生することなく、初めて読むような新鮮な思いで読み終えることになりました。松本清張の作品には、過去の読書体験が消えるという、不可思議さがあります。【5】


原題:『虚線』→『零の焦点』→『ゼロの焦点』

初出誌:『虚線』(『太陽』)昭和33年1月〜33年2月
    『零の焦点』(『宝石』)昭和33年5月〜35年1月


※参考資料:『松本清張全集 3』(文藝春秋社、1974.5.20)の巻末に収載されている小松伸六氏の「解説」には、松本清張と井上靖を対比してその2人の特徴を次のように語ります。井上靖の作品のすべてを読み終えた私にとって、このことばは要を突いた言葉だと思えます。

 松本作品の絶対的魅力は、色彩語でいえば〈黒〉の魅力である。
 それは松本氏の「黒い画集」「黒地の絵」「黒の様式」「黒の図説」「黒い福音」など〈黒〉という名のついた題名の作品が多くあることでもわかる。一時期、松本さんはブラック清張≠ニいわれたこともあるそうだ。
 松本氏は作家になるまえに、九州の朝日新聞西部本社広告部につとめ、デザインの仕事もやっており、洋裁学校では色彩学の講義を受けもっていた方だから、色彩にたいしては独自の見識をもっている方のようだ。
 その松本氏が、悲哀の象徴語である〈黒〉、あるいは夜、冥府、死の色ともいうべき〈黒〉を好むのは、いかにも松本氏にふさわしい。つまり〈黒〉は松本氏の心象風景を語るシンボル語である。
 その反対に、たとえば井上靖氏の作品を考えてみる。井上氏の魅力は〈白〉である。井上氏の作品には「白い牙」「白い河床」など〈白〉の題名をもった小説や詩が多いのだが、松本作品には、ちょっと思い出せない。そして〈白〉は、純潔を意味する色彩語である。しかしどこか冷いところのある色だ。そこから井上さんは、清潔で朝の詩人だが、一方、人生の傍観者といわれるゆえんも当然である。(453頁)




posted by genjiito at 23:26| Comment(2) | □清張復読
この記事へのコメント
京都が大好きで最近は源氏物語を夢中になって読んでいます。
葵祭を見物するために観覧席の切符を手に入れました!
そのあと実際に一条大路の場所を知りたくて調べていましたらこのブログに行きつきましたら私の大好きな松本清張さんの記事を見つけ嬉しくてコメントさせていただきました。これからも楽しみに読ませていただきたいと思います。
Posted by 出水 満寿美 at 2024年05月02日 10:00
出水さま

コメントをありがとうございます。
清張の作品は、何度も読み返しています。
折々に、勝手気儘に好きなことを書いています。
今後とも、よろしくお願いします。
 
 
Posted by genjiito at 2024年05月02日 20:07
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