6巡目となる西国三十三所の観音巡拝は、しばらく中断していました。昨年10月に岩間寺にお参りして以来1年ぶりに25箇所目になります。
今回は、私が病人だということで、姪が車を出してくれました。まずは、電車で新三田駅で待ち合わせです。JR京都線が大幅に遅れ、宝塚線も遅れたにもかかわらず、予定通りのスタート。同道者は妻と姉です。鉄道とバスだけでは行きにくい、姪の生活圏にある播州の二寺へ行きました。第25番札所の播州清水寺と番外の花山院菩提寺です。
途中、相野駅前のたこ焼き屋さんの看板に「まこれるだんご」とあるのを見かけました。
これは、三田地域のことばで、みんなで仲良くあそぼ、という意味だそうです。たこ焼きを注文したところ、待ち時間に黒豆茶と黒豆の含め煮を、お腹がいっぱいになるほどいただきました。ありがとうございました。
最初は、遠い方の播州清水寺です。ここは、同じ西国三十三所の第16番札所である京都市内の音羽山清水寺と区別するために、播州清水寺と呼ばれています。1800年ほど前にインドから渡来した法道仙人によって創建されたお寺です。
ご詠歌:あはれみやあまねきかどのしなじなに なにをかなみのここに清水
■[変体仮名翻字版-2023]での翻字
阿王れみやあま祢き
加登"の志奈/"\に
奈にをかなみの
古ゝ尓き与みず
[変体仮名翻字版-2023]の翻字
花山法皇御製
清 水 寺
あ者れ三や
普き
門農
品〻に
な尓を可なみの
こゝ耳清水
境内には桜が咲いていました。
藤袴と蝶もきれいでした。
次は、花山院菩提寺です。
ご詠歌:有馬富士ふもとの霧は海に似て 波かときけば小野の松風
朱印をいただく時、非常に不愉快になる対応をされました。持参して提示した軸に書いてくださる方が、菊の印を批判する自説を述べ、上から目線で軸の批判をしてから、押印を拒否されました。
いわく、西国三十三所は観音菩薩を念ずるものであり、それに菊の印は矛盾し不要であると。そのために、最近、これまでの菊の印を廃止したのだそうです。最近まで使っていたといわれる、菊の花びらの中に「花」という一文字が書かれた印影を見せてくださいました。これは、もう使わないことにしたので、私の軸にも捺せない、捺さないのだと。
次の写真にあるように、番外の元慶寺では菊の花びらの中に「元」の文字があります。その方によると、そもそもこれは菊の印章を冒瀆するものだそうです。その一つ下にある、菊の花びらの中に「三」とあるのは粉河寺でいただいたものであり、これもいけないと。本来は、那智の青岸渡寺で菊の花弁の中に「一」とある印をいただくことになっていました。しかし、あの時はこの軸が小さすぎると言ってケチが付けられ、この軸は我々の会が推奨するものではないのでダメだと言われ、印も小さなものがないのではみだすことを了解することによって、やっと書いていただきました。横柄な態度で、何も知らない素人は困るとブツブツ言いながら書いておられました。そのため、本来捺すべき菊の朱印を捺さずに渡されました。次の2番札所の紀三井寺でも、一番がないので書き飛ばされました。そのことに気付いたのは、三番札所の粉河寺の方でした。ご丁寧に、番外の元慶寺と花山院が菊の印をお持ちなので、そこで捺してもらうことで埋めるといいというご教示をいただきました。元慶寺は快く捺してくださり、次は花山院で捺してもらってくださいとのことでした。それが、花山院では拒否されたのです。
とにかく、今日いらっしゃった花山院の方が、このお寺でどういう立場の方かはわかりません。一方的に、むちゃくちゃな自説を聞かされました。自己矛盾と論理的な破綻をきたした自説の展開としか言いようがありません。機会をあらためて、この方の自説を確認しに行きたいと思っています。
この花山院に関しては、ネット上に次の説明がありました。
「正暦3年(992年)ごろ、西国三十三ヶ所観音霊場を巡礼した「花山法皇(平安時代の天皇)」が、第25番・播州清水寺に登った際に、東方の山上が光り輝くのを見て深く心に留めた地であったという。巡礼を終えた花山法皇は、再びこの地を訪れ、帰京するまでの約14年間を過ごしたとされている。」
そのお寺で、花山法皇と結びつく菊の朱印を拒否することは、何を意味するのでしょうか。
私は、持参した軸に菊の朱印を捺してもらいたくて行きました。しかし、お寺側はそれを拒否するのです。こんなことができるのでしょうか。おまけに、業者が勝手に作ったこの軸はネットで買ったものに違いないと蔑み決めつけ、そもそも軸に菊の朱印を捺す場所があるのはおかしい、とおっしゃいました。観音菩薩をお祈りするのが本義であり、菊の朱印は無価値であるとも。
確認しておきたいのは、この花山院菩提寺には観世音菩薩は祀られていません。薬師堂に薬師如来が祀られています。そのお寺が番外に入っていることや、花山院の所業から西国三十三所の巡礼が始まったとされる歴史的文化的な経緯と、この方の言い分は明らかな矛盾を露呈しています。
横にいた妻と姉は、あまりにも上から目線で無礼な対応をされていたので、しきりに私に反論しろという目で見ます。しかし、最初から支離滅裂なことを仰る方だったので、終始無視してお話を聞くことに留めました。これ以上の愚かなやり取りをするに値する方ではない、と早々に判断したので、終始無言を通し、まともにお相手はしませんでした。
こんな方が、巡拝者の対応をしておられるのは、西国三十三所札所の巡礼という文化を破壊することにつながります。今は、巡礼巡拝という行為が、若者たちによって多様な受け取り方をされ、複次的多面的な視野で文化の再認識がなされています。若者たちの間に、あらたなブームが起きています。聖地巡礼とかスタンプラリーと言われながら、新たな文化が再生・再興している時代にあります。
関係者の方にお願いします。こうした独断と偏見で参拝者に対応しておられる方がいらっしゃるということと、その自説なるものの内容の確認と、朱印を捺さないという行為について、実状の確認をしてほしいと思います。私は、今、6巡目を歩いています。このような体験は、初めてです。一部の心無い関係者によって、西国三十三所を経巡る文化的な行為が捻じ曲げられないように、統括者による冷静な指導と対応をお願いします。
帰りに、お寺の麓にある十二妃の墓に詣でました。
この墓の前には、次の説明文が掲げられています。
花山院・十二妃の墓
花山天皇(在位=寛和元年~2年)は、藤原氏との政争に敗れ退位した後剃髪し法皇となった。やがて弘法大師が巡ったという西国各地の寺院を巡拝したことが西国観音霊場巡りの始まりと伝えられ、隠棲生活を送った花山院は札所の特別番外とされ、今も参拝者が絶えない。
正式な寺名は東光山菩提寺
山麓の集落尼寺には、都より法皇を追ってこの地に来た弘徽殿女御と女官たちが、女人禁制の山中に入いれず草庵を結び暮したと伝える。山中で修業する法皇に聞かせたいと登り口の坂で琴を弾いたことから、参道の坂を琴弾坂と呼ぶ。
中央の五輪塔は弘徽殿女御のもので、周囲の十一基の石塔とあわせて十二妃の墓と呼ぶ。
三田市観光協会
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