最近の本ブログの記事では、「司馬街道(2)「モンゴル紀行」」(2022年10月10日)でこの問題に触れています。
両親が生きた時代の背景について理解を深めるために、まずは、1945年8月にソ連がそれまでの日ソ中立条約を突如破棄して満洲に侵攻してきたことから確認することにしました。時系列で見ると、8月6日午前8時15分に広島に原爆投下、8日午後11時にソ連が日本に宣戦布告し、その直後の9日午前1時にソ連が満洲へ侵攻、そして9日午前11時02分の長崎原爆投下となります。
両親の放浪は、8月9日から数日後に始まったのでした。
『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利、文藝春秋、1999年7月)を読みました。
半藤氏は、膨大な資料を調査し、インタビューを踏まえた事実を克明に記し、自分の言葉で解説していきます。以下では、少しずつであっても時間をかけて両親の苦難の道を知りたいという思いから、それに関連する記事を抜き出すことで、今後とも自分の力で自分なりに考える材料にしたいと思います。後で思い出すために、今の時点での自分なりのメモを少しでも記しておくつもりです。
私が両親から聞いた話に出て来た満洲の地名がわかるように、本書の見返しにある地図の一部を引きます。赤丸を付けた街に、両親はいたようです。参考までに、私が行ったことのある街には、青丸を付けています。
ソ連は、終戦の前年の昭和19年10月には、日本に戦争を仕掛けることを決めていたようです。
翌十九年になって、ソ連の対日参戦の決意はよりはっきりした。十月九日、チャーチルがモスクワを訪問したとき、対日参戦が改めて約束されている。
「ソ連はソ満国境に三十個師団と十九旅団をもち、関東軍の二十四個師団と四十二旅団と対峙している。対日攻撃には六十個師団を必要とする。あと三十個師団を増強しなければならない。これには軍用列車千台を必要とし、輸送に三ヶ月はかかる。....もし連合国が必要な軍需品を援助し、ソ連参戦の名分を立てるような政治的条件を整えてくれるならば、ドイツ敗北の三ヶ月後には、対日攻撃を間違いなく行う」
とスターリンは明白にいいきった。ここに期日がはじめて明らかにされた。そして翌日の会談では、かれみずからが地図をさし示しながら、東部満洲国境から攻めこみ、北からは圧迫を加えるいっぽう、西正面のバイカル湖地区から機甲部隊が北京へ、さらに天津へと突っこみ、関東軍と中国派遣の日本軍とを分断するという攻撃計画を説明した。(150頁)
そして、「ヤルタ会談」でも、ソ連が日本との戦争に参加することが協定としてなされていました。そうしたことを、日本軍はまったく知らなかったようです。
ちなみに、いま明らかになっている「ヤルタ秘密協定」の全文は以下のとおりである。日付は一九四五年二月十一日となっている。
「三大国即ちソビエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し、かつヨーロッパにおける戦争が終結したる後に、二ヶ月または三ヶ月を経て、ソビエト連邦が左記の条件により連合国に与して、日本に対する戦争に参加すべきことを協定せり。(156頁)
(中略)
しかも空しさを痛感させられるのは、当時の日本はヤルタの密約についてまったく知るところがなかったことである。二月八日の非公式放送、あるいは十二日に発表された公表文にも、ソ連の対日参戦については、かすかな気配すらあらわれていなかった。駐ソ大使佐藤尚武はヤルタから帰ったモロトフと会見し、会談の結果について打診した。そのときの外相の答は実にあっけらかんとしたものである。
「ヤルタ会談は公表のとおりであって、同会談においては、日本問題についてはなんら議せられなかった。ソ連の日本にたいする方針は、なんら変更がない」
疑問にたいする全否定の明言である。“闇の約束”を守りぬくソ連のしたたかさに佐藤はとりつく島もなかった。(159頁)
ソ連が満州に侵攻した時、人々の反応を次のように紹介しています。まずは大佛次郎の日記に触れた個所。
この日の東京は風のない晴れて暑い日であった。市民は酷暑にあえいでいた。そのなかで、午後三時のラジオのニュースが、はじめて日本国民にソ連軍の参戦を報じた。作家大佛次郎の日記にそのことが書かれている。
「……三時のニュウスで簡単な関東軍発表あり五時に繰返す。七時のニュウスで五時の大本営発表を伝える。新京ジャムス吉林など爆撃せられ、満洲里三河、琿春附近の両方面から侵入して来ているらしい。そのニュウスのあとで新型爆弾に対する昨日と同じ注意、毛布などかぶれを繰返す。国民を愚にした話である。真偽は知らず、今日は長崎に同じものを投下したというが一切発表はない。隠すつもりらしいのである」(『敗戦日記』)
大佛が記すように、三時を皮切りに五時、七時と矢つぎ早にソ連参戦の同じ報をラジオは伝えた。生き残るために人びとは暑さにめげず必死に動きまわり、ラジオに耳を傾けていられるものは少なかったからである。それもいつもの大本営発表と違って、自衛のため、ソ連軍と交戦状態に入ったことを告げるのみで、戦果などなに一つ発表することもなく、無敵陸軍は「寂として林の如き」沈黙を守った。(70頁)
次に、高見順の日記。
このように当時の暗澹たる状況下に書かれた日記を書きならべてくると、日本国民にとって、ソ連の対日参戦の報がいかに驚天動地の衝撃であったことかがよくわかる。それというのも、戦争中の日本人はソ連という国を"敵"にしたくはないの強い想いを抱き、そのあまり"味方"なのだとする勝手に裏返った気持を、ひそかに育てていた。そのように思われてならない。
作家高見順の日記には、そんな複雑な気持を示す文字が綴られている。
「ソ連の宣戦は全く寝耳に水だった。情報通は予感していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ連が仲裁に出てくれることを秘かに心頼みにしていた。誰もそうだった。新聞記者もソ連に対して阿諛的とも見られる態度だった。そこヘソ連の宣戦。・・・・・・ソ連の宣戦は一種の積極的仲裁運動なのであろうか。それとも、原子爆弾の威力に屈したのだろうか。ラジオの報道は、ソ連問題や対ソ戦況に関することを何もいわない。日本の対ソ宣戦布告も発表されない。気味の悪い一日だった」
その無気味な一日が暮れた。大日本帝国の黄昏である。人びとは大地が海に沈むような感じを味わった。歴史は一挙に日本の破局に突き進んでいく。(74頁)
ソ連の突然の侵攻を受けて、日本軍は一般民間人を見殺しにして退却という後ろ向きの行動をします。
この満洲放棄と朝鮮へ後退持久の作戦命令のうちには、満洲に居留する一般民間人の処置は、考慮に入ってはいない。非戦闘員は居留現在地にあってまとまって留まるのが、もっとも安全である。戦闘員はこれに接触しないのが戦争の原則であり、これを紳士的に保護して取扱うのが、文明国の軍隊に求められる道義である。それが参謀本部の、そして関東軍の作戦参謀らの考えであったのであろう。しかし、これはソ連軍に信頼をかけすぎていた。
公刊戦史は妙なことを記している。それは「(関東軍は)希望的心理と、防勢企図を秘匿せんとする考え」をもっていたため、居留民にたいする決定的措置をとることができなかった、としているが、そこまではいい。問題はそのあとである。
「いまだかつて接攘交戦を経験せず、きわめて多数におよぶ在外居留民が、直接、戦乱の渦中に投げこまれた体験を持たなかったことが、大きな原因であったといえよう」
いったいこれはどういうことか。経験がなかったから悲劇を大きくした、とはどの面さげていえることなのか。虐殺や自決や強姦や暴行や、そしていまも多くの問題を残している残留孤児と、一般市民がうけた悲劇の責任は市民にもある、といっているにひとしい。それは誤りである。すべての責任は軍にある。参謀たちの判断の誤りにあって、ほかには決してない。(87頁)
関東軍の退却の結果、民間人は悲劇が拡大することとなりました。
父は軍属としてシベリアに送られ、母は居留民の一人としてこの悲惨な逃避行の中にいたと思われます。まさに、『桜子は帰ってきたか』(麗 羅)が描く世界です。満洲から逃げて帰ることについては、少しだけ母から聞いています。宿舎で一緒だった人たちと助け合って、阿鼻叫喚の騒乱の中を南下したそうです。この時に行動を共にした母の親友が福島県伊達市におられ、年賀状のやりとりだけはずっとしていました。妻の実家の秋田県に車で帰省した折に、母をこの伊達市のSさんの家に連れて行きました。涙を流しながら、しばし想い出話が尽きなかったことを、昨日のことのように思い出します。
結果として居留民や開拓団は無警告・無防備のまま放りだされた。しかも屈強の青年層はもちろん、一家の大黒柱ともいえる父親が”根こそぎ動員”で関東軍に召集されている。辺境の開拓地にとり残されたのは老人や婦女子ばかり、というところが多かった。
こうして各地の開拓団や青少年義勇隊や居留民は八月十日ないし十一日、それぞれの逃避行動を開始する。離れがたい“自分の土地”を捨てる。各開拓団が相談の上で統一行動をとったわけではない。早くいえば、お前が行くならという群集心理も働いてまとまって動きだしたといえる。どの開拓団が何十人、何日に、どのようなコースをたどったか。それを正確に示すことはほとんど不可能である。多くの人が必死になって人のあとをついていっただけなのであるから。
虎頭要塞のあったひろい地域(東安省宝清県と虎林県)に散在していた開拓団でいえば、関東軍の指示にあるように虎林線の鉄路にそって南下して、林口から牡丹江そして朝鮮北部へ逃れるのが理想的であったであろう。が、虎林線がいきなりソ連軍の攻撃によって寸断されてしまった。いくつもの開拓団の人びとは南下をあきらめ、西へ西へとあとさきになりつつ、満洲東部の曠野をあてどなく歩いていくことになったのである。
それがのちに多くの悲劇をうんだ。しかもいち早く後退作戦をとった関東軍は、ソ連軍の急追撃をおそれ、計画どおり諸方にかかる橋を破壊した。結果的には、あとから逃げてくる老人や婦女子たちの進路と速度とを妨害したことになる。それがいっそう悲惨をよんだのである。(202頁)
次の文章を読むと、軍属の家族として満洲にいたと思われる母は、徒歩ではなくて鉄道や自動車も利用したのかもしれません。しかし、母はあてもなく歩いて逃げたことを強調していました。その途中で、まさに口にできない光景を数限りなく見たようです。逃避行にも、いろいろなケースがあったに違いありません。
「両親がいた満州とシベリアのことを調査中」(2016年12月27日)では、引き揚げ船のことを書いています。今は、それまでのことを調べています。
頼みの軍はさっさと後退し、その上に県公署、警察なども急速に機能を失った。放りだされた一般居留民や開拓農民の予期されていた悲惨は、いよいよ現実化していく。鉄道や自動車を利用することのできた一部の軍人家族や官吏家族なんかとは違って、かれらは自分の足を唯一の頼りに歩くほかはない。そのあとを急速な、ソ連軍機甲部隊が追撃してくるのである。しかも、すでに記したように、屈強のものたちはすべて根こそぎ動員で奪われている。(219頁)
それまで仲良くしていた満洲や中国の人が、日本が負けたことを知ると掌を返したように、別人かと思われるように突然態度が変わったことを、母から何度か聞いたことがあります。母は、ハルビンから新京に南下したようです。私が新京(現在の長春)へ行き、母が留まっていたと思われる地域へ行ったことは「【復元】母子の絆の不可思議さ」(2010年04月29日)に書きました。
ソ連兵の乱暴狼藉はいまや目に余るものとなった。赤旗や青天白日旗をかざした一部の中国人(満洲人)も反日行動をあらわにしはじめた。かれらは争うようにして、日本人を襲った。殺人、婦女強姦、略奪、暴行はひんぴんとして行われだした。軟禁同様の関東軍は、もう完全な無力の存在である。軍人民間人を問わず、いまや日本人は丸裸の自然状態に放りだされたのである。
溥儀皇帝が奉天飛行場で逮捕されたというニュースや、大杉栄殺しで有名な満映理事長甘粕正彦が自殺したというニュースが、日本人のあいだをかけめぐった。ソ連兵は腕時計と万年筆を強奪するから外出のときに持ち歩くな、という注意もいち早く伝わった。それと知らず、白昼路上で拳銃を片手のソ連兵によびとめられ、
「チャスイ、チャスイ(時計)」
と、腕時計をひったくられる日本人があとを絶たなかった。しかもそのソ連兵の腕には十数個の腕時計が誇らしげにはめられている。
街頭ばかりではなく、日本人住宅に押し入って手当り次第に略奪するもののなかには、将校を先頭の部隊ぐるみのものもある。それも、ソ連軍はどんどん新京に入り、一泊してまた南へ下っていく。新規の侵入者が、新しい立場で押し入ってくる。腕時計や万年筆はもとより、布地、長靴などを、かれらは先きを争うようにして奪いとっていった。こうしたソ連兵の暴行、略奪は新京にかぎったことではない。満洲のいたるところの都市でも、容赦なく行われている。八月十八日、ハルビン市の中心の大直街をソ連軍の巨大戦車数十台が行進した。この日からこの市もソ連兵による強盗、略奪、暴行、強姦の街と化した。(272頁)
次の、子供の買い付けについては、ほんの少しだけ、母が満洲から逃げる途中の出来事として話してくれたことがあります。一緒に逃げていた宿舎の友だちの話だったのかもしれません。この話の行き着く先は、母親が我が子を殺さざるを得ないことにつながります。私と姉が生まれる前のことなので、母も私には詳しくは語らなかったように思います。中国残留孤児を捜索しているニュースが話題となっていた頃、母は必死に新聞やテレビに釘付けでした。思い当たる人が、子どもがいたからだと思っています。
なんどもなんども暴民や武装匪賊の襲撃ですべてを奪われ、乞食以下となった日本人の行列に、中国人や朝鮮人が「栗を買わんか」「とうもろこしは要らんか」と声をかけてくる。指導者が「決して買ってはならんぞ。この行列はまだ金があるとみたら、また襲ってくるに違いないから」と止めた。また、幼い子供をつれて歩いているものには、中国人が「子供をくれ、子をおいてゆけ」とうるさくつきまとい、ついには、
「女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ、それでどうだ」
と値段をつけてまでして、執拗そのものであった。(281頁)
半藤氏の視点がわかる箇所を引いておきます。
「評論家や歴史家が旧満洲を語るとき、つねに上からの目で、『侵略の歴史』として見ることが多い。果たしてその人たちは下から満洲を見つめたことがあったのだろうか。異民族にまじり、ともに汗にまみれ油に汚れた日本人もいたことを知っていたのだろうか。大陸浪人や一旗組、威張り散らした官僚や軍人がいたことは事実である。だが大多数の人は、骨を埋める覚悟で海を渡ったのである。その国を愛さないで、海を渡ることができるであろうか」
生き残って帰った元開拓団の人の言葉は重く、心にいつまでも残る。
(37) この場合、現地人のすべてが、開拓民や居留民に敵対行動をとったわけではないことを指摘しておかなければならない。「主人」であった日本人を最後まで助けてくれた現地人も、決して少なくはなかった。結局、暴動の背景は土地や家屋をとりあげたり、不当な仕打ちを加えるなど、良き隣人ではなかったため、というところにあったようである。(286頁)
半藤氏は、非戦闘員の安全確保について、次のように言います。
敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、また被占領地域にある非戦闘民の安全を図ることにある。その実行である。ヨーロッパの戦史をみると、いかにそのことが必死に守られていたかがわかる。日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。
だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されてはいなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。本土決戦となり、上陸してきた米軍を迎撃するさい、避難してくる非戦闘員の処置をどうするか。この切実な質問にたいし陸軍中央の参謀はいったという。
「やむをえん、轢き殺して前進せよ」
そうした帝国陸軍の本質が、満洲の曠野において、生き残った引揚者に「国家も関東軍もわれわれ一般民を見棄てた。私たちは流民なのであった。棄民なのであった。ソ連軍の飽くなき略奪と凌辱、現地民の襲来、内戦の弾下の希望なき日々」(村岡俊子氏)とつらい叫びをあげさせるもといをつくったのである。そして、こうした国家と軍の無知蒙昧そして無策とが、スターリン大元帥の思う壺だったのである。(215頁)
父に関する箇所の引用が少なかったので、ここで補っておきます。
まず、シベリア抑留の実態を日本はどのように把握していたのか、ということです。驚くべき、何とも能天気な事情が明らかにされています。
外務省が日本兵のシベリア送りの事実を知ったのは、なんと、昭和二十一年三月末のことという。それもAP通信が「日本兵捕虜はシベリアへ送致。目的は不明」と報じたことからなのである。さらに、同年五月末にモスクワより佐藤駐ソ大使が帰国し、その報告で、シベリア鉄道沿線で多数の日本人捕虜が労働に従事している事実を知らされ、日本政府は間違いないものと確認したという。つまり戦後半年以上もの間、シベリアの六十万人の日本人は全員幽霊同然であったことになる。
日ソ間の、日本人捕虜の送還にかんする交渉がはじめられたのは、遅ればせながらその後のことである。一応の協定は二十一年十二月に成立した。が、それもソ連側は守ろうとはしなかった。
そして、同じ十二月、イルクーツクの「プラウダ」がはじめて、日本人捕虜がソ連のここかしこ労働に従事している、との報道をかかげている。(301頁)
そして、シベリア移送については、以下のように言います。
日本本土の将兵がなつかしの故郷へ急いでいるのとは正反対に、捕虜"となった将兵たちの北進がはじまったのである。スターリン大元帥が発した「日本軍捕虜五十万の労働利用について」の命令のもと、ワシレフスキーはいよいよ極秘裡にその実行に踏みきった。
兵士たちのシベリア移送のさいの苛烈な状況については、多くの体験が語られている。何をする気力もないままに、ソ連軍の指揮官の言に従った。「牡丹江からウラジオストックに出て、そこから日本に帰してやる」とかいう......。
案内役のソ連の警備兵もそう信じこんで、日本とはどんな国なのか、自分も一度行ってみたいと思っていた、などと嬉しそうに話しかける。日本兵はなおさらのことで、これで故国へ帰れるかと、帰りたい一心で、長い道を文句もいわず歩いていく。作業大隊千人についてわずか二、三十人のソ連警備兵であったが、驚くことに一人の日本兵の逃亡者もいない。(299頁)
抑留と引き揚げについては、次のような数字が示されています。その後の研究で、さらに正確なものがあるかと思います。今は、本書に書かれていることとして引きます。
いや、金銭や物量ではとうてい表しえない莫大な戦利品"があった。日本人のシベリア抑留という巨大な労働力をソ連は手中にしている。まず、ソ連側が昭和二十年十一月十二日に発表したものによれば、「兵五十九万四千人以上、将官百四十八人を捕虜とした」とある。それが三年後の十一月刊のソ連国防省軍事図書部『第二次世界戦争』によれば、「捕虜六十万九千百七十六人、うち百四十八人の将官および提督がいる」となっている。
これらが全員入りしたのかどうか不明である。一説にソ連領内に連行されたのは五十四万六千八十六人という。いずれにしても、ソ連側は、大命によって降伏した日本軍将兵の総数はもちろん、シベリアへ送った日本人の総数をも正確にはつかんでいなかったと思われる。
たいして日本の厚生省調査では、将兵五十六万二千八百人、このほか官吏・警察官・技術者など一万一千七百三十人もシベリアに送られた、とされている。総数五十七万四千五百三十人。そして無事にソ連から引き揚げてきた人びとは四十七万二千九百四十二人である。これが正確とすると、十万人以上の日本人がシベリアの土の下に眠っていることになろう。
在留邦人(居留民・開拓民)の引揚げについてもふれておく。満洲国政府調査による一九四四年九月末の満洲国在住日本人は、軍人・軍属およびその家族をのぞいて、百四十三万人であるという。これに関東州(旅順・大連など)の二十二万人を加えると、総計約百六十五万人がいたことになる。ソ連軍侵攻時にはそれより十万人ほど少なくなっていた、といわれるが、それでも百五十万人がいたことになる。その、曠野で地獄の苦しみをなめた老幼婦女たちの引揚げの第一陣の船が、葫蘆島を故国へ向かって出航したのは、一九四六年五月十五日のことである。一番あとの中国本土の日本軍隊の帰国よりも遅かった。
以後、『満蒙終戦史』によると、四六年十月までに百一万人が帰国し、四八年八月になると、帰国者の数は百四万七千人に達している。ほかに、関東州地区の引揚者が二十二万六千人、朝鮮半島経由の帰国者が五万人という。いずれも概数である。ついに帰れなかった人がどれほどいたか。単純な引き算というわけにはいかない以上、正確な数はつかめない。この書は、在満日本人の死者を十八万六百九十四人と記している。その大半が四五年と四六年に亡くなったという。(314〜315頁)
次の、社会主義と共産主義については、父が一度だけ私に話してくれたことがあります。収容所において、日本人の前で共産主義に関する洗脳教育を父が担当していた、ということです。これは、その後、私は読書を通してそのような実態があったことを知りました。しかし、その過程で父がどのような役割を負っていたのか、どのような思いで思想教育を担当していたのかは、聞かずじまいだったことが悔やまれます。戦友会で、父の部下だった方々から、極寒の地で極貧の日々の中で、父がいかに思いやりのある対応をしていたのかを伺いました。思索家で弁舌爽やかだった父は、いろいろな背景があって意に沿わぬことも引き受けていたのだろう、と思っています。
スターリンは「社会主義から共産主義への移行」の問題を本気で考えていたのである。つまり「各人は能力に応じて働き、労働に応じて与えられる」という社会主義国家から、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」という共産主義国家へ、ソビエト連邦が発展・実現することを夢みていた。そこで、荒野を森林に変え、不毛の砂漠を緑したたる庭園とすべく、いくつもの巨大な計画に着手した。そのために労働力がいくらあっても足りなかった。スターリンは急いでいた。「一目見てから死にたい」個人の勝手な妄想のために、実に多くの日本人がその生涯を無にされた。そう考えると、何とも言葉を失ってしまう。(317頁)
なお、司馬遼太郎に関する記述もあるので、参考までに引いておきます。
ちなみに司馬遼太郎氏はこの戦車第一師団の小隊長であり、この転用によって日本内地に帰るという幸運に、期せずして浴することができたわけである。(133頁)
前にも書いたが、満洲国という巨大な"領土"をもったがために、分不相応な巨大な軍隊を編成せねばならず、それを無理に保持したがゆえに狼的な軍事国家として、政治まで変質した。それが近代日本の悲劇的な歴史というものである。司馬遼太郎氏がいうように、「他人の領地を併合していたずらに勢力の大を誇ろうとした」、その「総決算が"満洲"の大瓦解で」あったのはたしかである。いまはこの教訓を永遠のものとすることが大事である。曠野に埋もれたあまりにも大きすぎた犠牲を無にしないためにも、肝に銘ずべきことなのである。(308頁)
書籍の知られざる役割も記されています。
時計はもとより、会社の机、椅子、書類函、鉛筆、消しゴム・・・・・・何から何まで奪われた。奪われなかったのは日本の書物ぐらいである。そこで、大事なものは、本のなかをくりぬいて隠した。それがたった一つの隠し場所であったという。(313頁)
本書を読んだことにより、「読書雑記(198)船戸与一『残夢の骸 満州国演義9』」(2017年04月28日)を再読したくなりました。知らなかったことを知り、それがさらなる疑問へと拡がってきたからです。
本日の記事は、長大な引用文ばかりで恐縮します。
今後の自分のための資料として、抜き書き帖になってしまいました。
本書で語られていることは、その後の調査研究によって、さまざまな補訂がなされていることでしょう。そうしたことを、この本を起点として、これから少しずつ確認していくつもりです。
本書の目次は、その内容が簡潔にわかるようにできています。
以下に、その目次をあげて、長々と記した記事を閉じます。
第一章 攻撃命令
七月十六日、米国は原爆実験に成功した。それが序曲だった。スターリンはワシレフスキーに言った。「前進し給え」と。
第二章 八月九日
深夜午前一時、ソ連軍侵攻の火蓋は切られた。大本営陸軍部参謀次長河辺虎四郎中将は自らの手帖にこう認める。「予の判断は外れたり」
第三章 宿敵と条約と
満洲とは日本にとって、そしてソ連にとって、どのようなものであったか? 宿敵の日ソは中立条約を結ぶが、両者の思惑には天と地の隔たりが......。
第四章 独裁者の野望 19
スターリンは昭和十七年に対日参戦を決意していた! 戦後処理を図る列強の権謀が渦巻く中、この男の秘かな野望が徐々に浮かび上ってくる。
第五章 天皇放送まで
「五族協和」の理念は音をたてて崩れ去った。関東軍は戦う前から撃破≠放棄し、上層部は妻子を連れ退避する汽車に乗り込む。こうして百万同胞の悲劇が始まった。
第六章 降伏と停戦協定
「天皇の軍隊」は国民を守らなかった。降伏の仕方さえ知らなかった! そして、国際法を無視したソ連軍によって、五十万人がシベリアへ・・・・。
第七章 一将功成りて
スターリンは日露戦争の復讐戦に大勝利した。その陰で、十八万余の日本人が満洲、シベリアの地に果てた。 「正義の戦争」など、未来永劫、ありえようもない。
大本営陸軍部職員表
関東軍指揮系統略図
第一極東方面軍侵攻概要図
対ソ作戦計画参考図
ソ連軍侵攻概要図および関係地名図
主要参考文献:
■あとがき
※初出誌『別冊文藝春秋』225号(1998秋)〜226号(1999冬)
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