2021年12月01日

京洛逍遥(743)初めて登った船岡山

 船岡山に初めて登りました。
 毎月のように、船岡山の南側斜面にある〈紫風庵〉で、三十六歌仙の絵と歌と『源氏物語』の勉強会を開いていました。しかし、バタバタするだけの日々のため、この山に登る機会がありませんでした。

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 この船岡山は、架蔵の『都名所図会』(秋里籬島編著、上下2冊、安永9年(1780)板本の校訂本)には次の絵図が掲載されています。

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 山頂から南面して、京都の町中を見渡しました。
 そばにあった案内図も一緒に掲載します。

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 この案内板には、次のような説明文が添えてあります。

船岡山
〜 標高111.89 メートル 〜
平安時代、清少納言が枕草子で「岡は船岡」と讃えました。また、貴族の清遊の地として多くの和歌が残されています。
 ~船岡の若菜つみつつ君がため子の日の松の千代をおくらむ(清原元輔)
 室町時代には京都北方の軍事上の要地としてしばしば合戦場となりました。応仁の乱の際には西軍が掘や陣屋などをつくり、応仁2年(1468) 東軍との攻防をくりひろげました。そのときの堀や土塁の痕跡を現在でもみることができます。
 歴史的重要性及び、市街地化した京都において遺構が良好に残存していることなどから、昭和43年に国の史跡に指定されています。


 右には、京都五山の送り火の左大文字が見えます。

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 広場には、今は使われていないサイレン塔が建っています。

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 少し下りると、建勲神社の境内を散策できます。

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 公園からは、東に比叡山も望めます。

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 その反対側の西には、佛教大学のキャンパスが迫っています。

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 有名なラジオ塔も健在です。
 側面の説明文は、次の通りです。

ラジオ塔の由来
このラジオ塔は、昭和10年(1935年)の船岡山公園開園にともなって、建造されました。
ラジオ塔は、昭和5年から戦中に掛けて、ラジオ放送を聴くために、全国で300基以上建造され、当時、たくさんの人々が集まり、塔から流れる放送に合わせて、体操をしたり、ニュ
ースを聴いていました。


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 応仁の乱の戦跡碑もあります。

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 この説明板の文章を引いておきます。

船岡山
 標高約百十二メートル、東西四百メートルの丘陵で、その優美な姿が船の形に似ていることから、この名が付いたといわれている。
 一説には、平安京造営の際にここが東西の基点となったともいい、「枕草子」でも、岡は船岡≠ニして讃えられ、平安時代には数々の祭祀が催され、また遊宴の場ともなり、人々の生活に密着していた。
 しかし、中世後期になると、戦略の要衝になり、応仁の乱(一四六七~一四七七)では、西軍の大内政弘、山名教之らがここに拠点を築いたが、応仁二年(一四六八)九月に東軍の細川勝元によって三方から攻め落とされた。
 また、戦国時代の永正八年(一五一一)八月には、この岡に陣取った細川澄元と細川政賢が、室町幕府の政権を奪い返すため丹波から入京しようとした足利義尹、細川高国、大内義典らの軍を迎え撃ったが、戦に破れて逃亡した。
 その後、大コ寺に寄進され、昭和六年(一九三一)に都市計画により船岡山公園となり、現在は国の史跡に指定されている。頂上からは市街地や左大文字、場所を変えると鳥居形以外の五山が望め、市民の憩いの場として親しまれている。
                    京都市


 文学的にも歴史的にも民俗的にも興味深い場所が、まだ自宅の近くに散在しています。
 京洛逍遥は、終わりのない散策であり小旅行でもあります。
 
 
 
posted by genjiito at 21:15| Comment(0) | ◎京洛逍遥
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