そんな折、井上靖が1964(昭和39)年10月10日に開催された東京オリンピックに向けて作った3点の詩を、まったくの偶然ながら見かけました。これまでに「井上靖卒読」では取り上げていない作品なので、『井上靖全集』(第一巻、324〜326頁、1995年4月、新潮社)から引用しておきます。久しぶりに井上靖に関する記事を書くことになりました。
すでに、井上靖がローマオリンピックの取材をした時の作品「フライング」(『新潮』1962年9月号所収)については、「井上靖卒読(166)「フライイング」「加芽子の結婚」」(2013年05月29日)で取り上げました。そこで井上は、「もともとスポーツというものにさして関心を持っているわけではなく」と言っていました。1964年の東京オリンピックの2年前のことです。
それだけに、オリンピックを意識した以下の詩で井上靖が言いたかったことを、いろいろと想像して楽しんでいるところです。
なお、1964年の東京オリンピックに関して、井上靖は随想を5作品書いています。いずれも、「井上靖卒読」では取り上げていないものなので、それらについては、後日まとめて紹介します。
火 は や っ て 来 る
東洋の小さい島の首都に、美しい爆弾が仕掛けられ
てある。それに点火するために、遠くオリムピアか
ら火がやって来る。火は次々に、何百人かの走者に
受けつがれ、海岸線を走り、山を越え、野をつっき
り、海を渡り、幾つかの国境を越えてやって来る。
東洋の小さい島の首都をめざしてやって来る。
ある秋晴れの爽やかな日、火は逞しい半裸の若者に
よって点火される。壮大華麗な爆発音とともに、万
国旗ははためき、世界各国の若い男女たちは、跳躍
し、走り、投げ、そして泳ぐ。雄々しさと凜々しさ
が、どんなに美しく、どんなに高貴なものであるか
に、大スタジアムを埋める観衆は眼を見はる。
東洋の小さい島の首都は、美しいものでいっぱいに
なる。世界中の美しいという美しいものが、みんな
東京に集まるので、それを運ぶために海流は流れを
変える。夜になると、満天の星で、新しい星座が描
き変えられる。星が輝きを増すと、波の音が高くな
る。東洋の、日本の、松籟のひびきが、波の音の間
から聞えて来る。
(昭和39年1月1日付『新潟日報』ほかの地方紙に発表)
五 輪 の 年
その頃、日本列島には晴れた日が続くでしょう。間
歇的に白い雲は発射され、風は泡立ち、青い空は永
劫の深さを持ちます。
その頃、日本列島には月明の夜が続くでしょう。海
流は三層になって流れ、岩礁は身震いし、星は雄渾
に飛び交います。
そうしたある日、東京の一角では万国旗が風にはた
めき、何千の若人たちは、半裸の姿で技を競うでし
ょう。それぞれ異った肌の色を持つ若い男女は、超
しい豹になったり、獅子になったり、羊になった
り、跳び魚になったり、昆虫になったりします。
栄光はいろいろな旗の上に舞い下がり、そして舞い
上がるでしょう。そこでは力と勇気が、雄々しさと
凜々しさが、恋よりも優しく、恋よりも強く大スタ
ジアムの観衆の心を揺すぶります。
その頃、日本列島にはひっきりなしに天体からの使
者が到着していることでしょう。嘗て世界が持たな
かった誠実と善意とを主賓にした大円形劇場のレセ
プションに列するために。
(昭和39年1月1日付『讀賣新聞』に発表)
開 幕
遠い南方の珊瑚礁の中から、次々に台風の祝砲が打
ち揚げられています。その巨大なエネルギーは、沖
縄北方海上で霧のような粒子となって四散し、あと
には白い雲が悠々と浮かんでいます。
日本列島は千二百年目の秋晴れです。今宵月明の中
を、渡り鳥の大集団が四国と北海道と九州に着陸す
るでしょう。
さて、東京ではオリンピックの幕が上がりました。
世界各国の若者たちが跳ねたり、飛んだりします。
異変は東京だけのことではありません。古代ギリシ
ャの若者を刻んだ像という像が、世界各地のミュウ
ゼアムの中で爪立ち、背のびします。ミロのビーナ
スも十六度体のくねりを深めます。みんな曾ての栄
光を思い出して、東京の方をかいま見ずにはいられ
ないのです。
(昭和39年10月11日付『毎日新聞』東京オリンピック特集第一日の開会式の写真の下に発表。)
※付記
本記事を書いた後で、『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』(講談社文芸文庫、2014年1月、「たくまざる名演出」所収)と、『1964年の東京オリンピック : 「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己、河出書房新社、2014年1月)が刊行されていることを知りました。
また、井上靖文学館では、〈「井上靖とオリンピック 1960−1964」展〉(会期 2020年3月12日(木)〜2021年1月31日(日))が開催されていたようです。
井上靖は、中学時代から柔道をやり、高校時代には全国大会に出場したことは、いくつかの作品の中で語られています。自身、6段でした。こうしたことは、後日再確認します。
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