2021年07月31日

谷崎読過(41)「私の見た大阪及び大阪人」

 谷崎が関西を、大阪をどのように見ていたのかがわかる随想です。実に多方面を見渡しての、東京と比較して自由気儘に語っている、秀逸な文明批評となっています。
 私がチェックした箇所を列記します。

・左團次や菊五郎がめつたに上方の劇場へ來ることがなく、たまにあつても京都や寶塚や神戶あたりの舞臺に出るだけで、道頓堀の小屋にかくることが殆どないのは、どう云ふ譯か。此の兩人は決してコセコセした料簡の人ではないが、東京の歌舞伎俳優中で趣味や氣質が最江戶つ兒的であるから、恐らく關西の地方色なり人情風俗なりが彼等の潔癖に觸れるのであらう。(225頁)
 
 
・關東生れの人間が此方へ移り住んだ當座、少くとも此方の人の肌合ひに同化するまで五年か十年ぐらゐの間、「居心地が惡い」と云ふ程度の不愉快さを忍ばなければならないことは、今日も向否み難い事實である。斯く云ふ私自身も四五年前の「文藝春秋」に「阪神見聞録」なる稿を寄せて、大阪の「人間」に對する反感を露骨に述べ、爲めに土地の人の憎しみを買つたことを今に忘れない。たぶ私の場合には、幸ひにして此方の氣候と食物とが最初から東京よりも自分の體質や嗜好に合つてゐた。私の叔父や親戚なぞの中には、たまに此方へ遊びに來ても白い刺身に箸を付けず、煮物の水つぽいのが物足らず、醤油の仇鹽つ辛いのが氣に入らずと云ふやうな頑固な江戸つ兒があるが、私は味覚の點に於いては始めから西好みであった。そして今では所謂「贅六氣質」に對してさへ何等の不快を感じないのみか、むしろ一種の親しみを覚えるやうになつてしまった。正直のところ、私も此方へ一家を舉げて移って來た當座は正に罹災民であつて、東京が復興する迄の腰かけのつもりだつたのに、その私をして斯くの如く此の土地に根を生やさせてしまつたものは何んであらう。私は昨冬六甲山麓の岡本の山莊を賣り拂ひ、借家住まひの身の上になつたけれども、それでも上方を離れようと云ふ氣はない。出來得べくんば今後も永久に此の地に腰を据ゑ、やがては兩親の墓をさへ、分骨して此方のお寺へ持つて來ようと考へてゐるくらゐである。私のやうな純粋の東京者がさうまで此の土地と關係を結ぶやうになつたことを思ふと、不思議な因縁と云はざるを得ないが、それと同時に、關西の風土人情に對して、善いにつけ惡いにつけ、私の愛情が日増しに深くなつて行くのは甚だ自然の道理である。で、私が茲に大正十二年以來足掛け十年の觀察に基づいて上方文化の批評をするのも、あの「阪神見聞録」を書いた時のやうな皮肉な興味からでなく、今や第二の故郷たらんとする京阪の地への愛情からであることを断つておきたい。蓋し私はいつ迄たつても東京人たる本來の氣質を失はないであらう。從つて私の観察は、やはり何處迄も「東京から移住した者」の眼を以てすることになるであらう。しかしたま/\京阪人の缺點に向つて辛辣な悪口を飛ばすことがあるとしても、それは長年厄介になってゐる土地の人への老婆心であり、忠告であるから、特に關西の讀者諸君はその積りで讀んで頂きたい。(226〜227頁)
 
 
・大阪式のイヤ味を諒解するのには、あの寶塚少女歌劇の女優たちの藝名を見るのが一番早分りであると思ふ。たとへばあの中のスタアの名前に、天津乙女、紅千鶴、草笛美子、などゝ云ふのがある。かう云ふ名前の附け方はいかにも大阪好みであつて、こゝらが最も東京人から見て大阪人の感覺が一本拔けてゐるやうに思はれる所である。兎に角東京の女優にはこんな垢拔けのしない、――源氏名のやうな、千代紙のやうな、有職模樣のやうな、そして又一と昔前の新體詩のやうな、上ツ調子の藝名を持つてゐる者は一人もあるまい。假にどんな名女優でも、東京でこんな名前を附けてゐたら、そのために人氣の幾割かを損すること講け合ひである。(228頁)
 
 
・大阪の松竹樂劇部に比べると、寶塚の方が美人が多く、粒もよく揃ひ、技藝もずっと上手であり、衣裳や舞臺裝置などにも中々金が掛けてあつて絢爛眼を奪ふものがあるが、臭味と云ふ點になると、寶塚の方が餘計に臭い。元來此處では男の役までも女にやらせるのだから、そこに非常な無理がある。どうしても藝者のお浚ひじみ、三崎座じみる。そこへ持つて來て關西の婦人は音聲が甲高いから、セリフの多い芝居になると、上ずつたキイキイ聲ばかり耳について甚だ聞き辛い。それが「モン・パリ」や「セニヨリタ」のやうなレヴュウになつても、三枚目なぞが出て來て活躍する時は、藝が達者であればある程騒々しく、おまけにそんな女優たちは「少女」とは云ひ條相當な年揩ナあるから、いよ/\以て三崎座じみることになる。東京人だと、見てみる方が冷汗を掻くやうな氣がする場合があるけれども、大阪人はかう云ふ點に臆面がないのである。(229頁)
 
 
・聞けば今年の春あたりから男女共演の出し物を間へ挟むさうであるから、さうすれば追ひく見直すやうになるに違ひない。何んにしてもあのデレデレした、シヤナラシヤナラしたイヤ味だけは、我が愛する寶塚のために是非共矯正して貰ひたいと思ふ。(230頁)
 
 
・關西に於ける最もハイカラな區域と云へば阪急の夙川から御影に至る沿線であつて、あの邊に住んでゐる若夫人や令嬢たちは、随分洋服の眼も肥えてゐるし、趣味も進んでゐるし、金に不自由はないのだから、毛皮、手袋、ハンドバッグの好み迄ソツのあらう筈はないのだけれども、それでゐて何處かスツキリとしない。さうかと云つて、勿論田舎臭いのでも安つぽいのでもない。品のいゝことは飽くまでいゝのだが、つまり前に云ふ寶塚の少女と同様に、シャナラシヤナラして、お姫様が洋服をお召しになつたと云ふ感じが、どうしても抜け切れないのである。いつたい和服の色合ひでも關西の方が關東よりも派手であって、阪神沿道の暖國的風景、――濃い青い空、翠高フ松林、白い土の反射に、そのケバケバしい色彩が非常によく調和することは事實であるが、その和服の派手な好みをそつくりそのまクレプ・ド・シンのドレスなどに持つて來るのは一寸考へ物だと思ふ。彼女たち自身はそんなつもりでないかも知れないが、今も云つた氣候風土の關係で無意識のうちにさうなるのであらう。兎に角私なぞが見ると、阪神婦人の洋装には友禅模様の振袖の情趣が最後まで附いて廻つてゐる。綺麗で、きらびやかなことは無類だけれども、それが餘りに繊弱に過ぎ、優美に過ぎて、縮緬の長襦袢を着たのと選ぶ所なく、最も肝心な洋服の「精神」とでも云ふべきものが缺けてゐるやうに思はれる。きれ地は質素な紺サージでも、神戸あたりの混血兒のオフイス・ガールの方が矢張り本當の洋装をしてゐる。
これは色合ひばかりでなく、彼女たちの骨格や動作などが餘程關係してあるに違ひない。關東の方は昔から野蠻な氣風があり、女でもキビキビしたのが喜ばれたのだから、それが現代のフラッパアの心意地と比較的容易に合致して、坐作進退や表情法などもヤンキー式に同化する可能性が多いのに反し、關西の方は服裝ばかり取り換へても、體のこなしに數百年來のしとやかな習慣が沁み込んでゐるのではあるまいか。(233〜234頁)
 
 
・私は劇場で俳優のセリフを聽く時以外に日本語の發音の美しさなどに注意したことはなかつたのだが、大阪へ來て日常婦人の話し聲を耳にするやうになってから、始めてそれをしみ/"\と感じた。京女の言葉づかひが優しいことは昔から知られてゐるが、京都よりも大阪の方が一層いゝ。京都人の發音は、東京に比べればつやがあるけれども、大阪ほど粘つこくない。だから例のドス聲を出すやうなイヤ味もない代りに、それだけ魅力にも乏しい。私に云はせると、女の聲の一番美しいのは大阪から播州あたり迄のやうである。あれから西や南の方へ行くと又變な訛りや濁音が這入つて汚くなる。此の十年間に大阪から九州に至る國々の娘が幾人となく私の家へ奉公に來たので、私は彼女等の聲を聞いた經驗に依つてさう感ずる。それについて思ひ出すのは、曾て岡本の家に播州今津生れの女と、東京の近縣生れの女とが奉公してゐたが、二人を一緒に置いてみると、關東女の聲のスカスカして味も素つ気もないのが異様に耳に附いて聞き辛かつたばかりでなく、しまひには何んの科もないその女までが嫌ひになつたことがあった。(238〜239頁)
 
 
・大阪に、久保田万太郎君のやうな文人がゐないと云ふのは、返す/"\も惜しいことである。若し大阪に一人でも立派な作家が住んでゐたら、明治大正の間に「たけくらべ」や「すみだ川」に匹敵するやうな作品が一つや二つは生れてゐたであらうに、それらしいものさへないと云ふのは、此れだけの大都市の恥辱であると云っていゝ。それにつけても凡べての作家が郷土を捨て東京へ志すのは、大きく云へば日本文學の損失であると考へられる。(248頁)
 
 
・此の間或る新聞に某百貨店員の談話として、東京の婦人連はレヂスターの講け取り票を目もくれないでその場に捨て行くが、大阪の婦人連は十中の八九まで大切に持つて歸る、と云ふ記事が出てゐたのは、恐らく間違ひのない事實であらう。(250頁)
 
 
・大阪語には言葉と言葉との間に、此方が推量で情味を酌み取らなければならない隙間がある。東京語のやうに微細な感情の陰までも痒い所へ手の回くやうに云ひ盡す譯に行かない。東京のおしやべりは何處から何處まで滿遍なく撫で廻すやうにしやべるが、大阪のは言葉數が多くても、その間にポツンポツン穴があいてゐる。言語としての機能から云へば東京語の方が無論優つてをり、現代人の思想感情を表はすにはこれでなければ用が足りないであらうが、しかし隅々までホジクリ返すやうに洗ひ浚ひ云つてしまふのは、何んとなく下品なものだ。東京語の方が餘計丁寧な云ひ廻しを使って却つて品惡く聞えるのは、そのためなのだ。つまり自由自在に伸びるから、言葉に使はれる結果になる。ぜんたい「無言」を美コと考へる東洋にあつては、言語もその國民性に叶ふやうに出來てゐるのだから、その理想に背くやうに發達させると、少くともその言語に備はる美點は失はれてしまふ。今日こんなことを云つても一般には通用しないだらうが、さすがに關西の婦人の言葉には昔ながらの日本語の持つ特長、―十のことを三つしか口へ出さないで残りは沈黙のうちに仄かにたゞよはせる、あの美しさが今も傳はつてゐるのは愉快だ。(259頁)

 
初出誌:『中央公論』昭和7年2〜4月號
 
 
 
posted by genjiito at 22:28| Comment(0) | □谷崎読過
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