2021年07月12日

谷崎読過(40)「戀愛及び色情」

 お茶室に掛ける物では、戀をテーマにしたものは禁じられているとあります。禅語を掛けることは聞いていたものの、恋愛物については知りませんでした。

日本の茶道では、昔から茶席へ掛ける軸物は書でも繪でも差支へないが、たゞ「戀」を主題にしたものは禁ぜられてゐた。と云ふことはつまり、「戀は茶道の精神に反する」とされてゐたからである。
斯様に戀愛を卑しめる氣風は日本の茶道ばかりでなく、東洋に於いては決して珍しいことではない。(192頁)


 関連して、『源氏物語』や平安文学に言及したところを引きましょう。

「源氏」については古來いろ/\の說がある。儒學者は淫蕩の書として時に攻擊するものがあったのに反し、國學者はさながらあれをバイブルのやうに神聖視し、あの書の內容を以て最も道コ的な教訓に充ちたものであると云ひ、果ては作者の紫式部を「貞女の鑑」であると迄コジツケル者があるやうになった。が、ユジツケであるにもせよ、―――兎に角表向きはあの物語が「姪湯の書」であることを否定しなければ、―――さうして無理にも「道徳的」な「教訓的」な試み物であるとしなければ、―――文學としての「源氏」の立場がなくなるやうに考へたところに、矢張一種の「禮儀」があり、東洋人に特有な「體或を取りつくろふ癖」があるのである。(196頁)


平安朝の女は動ともすると男に對して優越な地位に立ち、男は又女に對してとかく優しかったやうな氣がする。清少納言が宮廷に於いてしば/\男子をヘコました話は枕草子を見ても分るが、あの時分の日記や、物語や、贈答の和歌なぞを讀むと、女は多く男から尊敬されてをり、或る場合には男の方から哀願的態度に出たりして、決して後世のやうに男子の意志に蹂躙されてゐない。

源氏物語の主人公は、大勢の婦女子を妻妾に持つたのであるから、形から云へば女を玩弄物扱ひにしたことになるが、しかし制度の上で「女が男の私有物」であったと云ふことゝ、男が心持の上で「女を尊敬してゐた」と云ふことゝは必ずしも矛盾するものでない。自分の財産の一部であつても貴重品と云ふものはある。自分の家の佛壇にある佛像は、もちろん自分の所有品に違ひないが、それでも人はその前に跪き、掌を合はせ、勤めを怠れば罰を受けることを恐れる。私がここで問題にしてみるのは、經濟組織や社會組織から見た婦人の位置でなく、男が女の映像のうちに何かしら「自分以上のもの」「より氣高いもの」を感ずることを意味する。光源氏の藤壺に對する憧憬の情は、露はに表現してはないけれども、やゝそれに近いものだつたことが推し測られる。(201頁)


 本作品は、谷崎の日本古典文学私感とでもいう趣を持っています。そして、谷崎の美意識が鏤められています。

平安朝の文學に見える男女關係は、さう云ふ點で外の時代と幾分違つてゐるやうな氣がする。敦兼のやうな男を意氣地がないと云ってしまへばそれ迄だけれども、これを云ひ換へれば女性崇拜の精神である。女を自分以下に見下して愛撫するのでなく、自分以上に仰ぎ視てその前に跪く心である。西洋の男子はしば/\自分の戀人に聖母マリアの姿を夢み、「永遠女性」の悌を思ひ起すと云ふが、由來東洋には此の思想がない。「女に頼る」ことは「男らしい」ことの反對とされ、凡そ「女」と云ふ觀念は、崇高なもの、悠久なもの、嚴肅なもの、清淨なものと最も縁遠い對蹠的な位置に置かれる。それが平安朝の貴族生活に於いては、「女」が「男」の上に君臨しない迄も、少くとも男と同様に自由であり、男の女に對する態度が、後世のやうに暴君的でなく、隨分丁寧で、物柔かに、時には此の世の中の最も美しいもの、貴いものとして扱つてゐた様子が思はれる。(199頁)


 この時期の谷崎のインド観がわかる箇所があるので、日本人の性欲に関連して述べているところから引いておきます。

ぜんたいわれ/\は他の方面に於いては可なり活動的な、精力的な人種であることは、過去の歴史に照らしても、現在の國勢に徵しても、明かなことである。われ/\が性慾にあくどくないのは、體質と云ふよりも、季候、風土、食物、住居などの條件に制約される所が多いのではないか。
(中略)
尤も世界には日本以上に濕氣の多い所もある。私の友人の或る會社員で、長らく印度のボンベイに勤めてるた者が、たま/\歸國しての話に、「いや、もう年が年ぢゆう蒸し暑くつて、べとべとして、とても溜らぬ。あんな所に又やられるなら辞職した方が優しだ」と云ふので、「それでもとき/"\歸國出來るぢやないか」と云ふと、「四年に一度ぐらゐ歸つて來たんぢや遣り切れない。彼處に長く住んで見ろ、誰だつて頭が馬鹿になつて、體ぢゆうが、骨の髄から腐つたやうになる、だから日本人だつて西洋人だつてみんな行くのを厭がるんだ」と云つてゐたが、とう/\その男は本當に會社を罷めてしまつた。蓋し數多い在留外人のうちには、日本に派遣されたことを、ちやうど日本人がボンベイへ派遣された如く感じてゐる者もあるに違ひない。(208頁)


 最終節で谷崎は、東洋と西洋の女性美を比べています。その部分を引きます。

東洋の婦人は、姿態の美、骨格の美に於いて西洋に劣るけれども、皮膚の美しさ、肌理の細かさに於いては彼等に優つてゐると云はれる。これは私の殘い經驗でもさう思はれるのみならず、多くの通人の一致した意見であり、西洋人でも同感する者が少くないが、私は實はもう一歩進めて、手ざはりの快感に於いても、(少くともわれ/\日本人に取つては、)東洋の女が西洋に優つてゐると云ひたい。西洋の婦人の肉體は、色つやと云ひ、釣合ひと云ひ、遠く眺める時は甚だ魅惑的であるけれども、近く寄ると、肌理が粗く、うぶ毛がぼうぼうと生えてみたりして、案外お座が覚めることがある。それに、見たところでは四肢がスツキリしてゐるから、いかにも日本人の喜ぶ堅太りのやうに思へるのだが、實際に手足を摑んでみると、肉附きが非常に柔かで、ぶくぶくしてゐて、手答へがなく、きゆつと引き締まった、充實した感じが來ない。
つまり男の側から云ふと、西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適したものであり、東洋の婦人はその反對であると云へる。私の知つてゐる限りでは、皮膚の滑かさ、肌理の細かさは支那婦人を以て第一とするが、日本人の肌も西洋人のそれに比べれば遙かにデリケートであって、色は白ルでないとしても、或る場合にはその殘黄色を帯びたのが却つて深みを増し、含蓄を添へる。これは畢竟、源氏物語の古へからコ川時代に至る迄の習慣として、日本の男子は婦人の全身の姿を明るみでまざまざと眺める機會を與へられたことがなく、いつも蘭燈ほのぐらき閨のうちに、ほんの一部ばかりを手ざはりで愛撫したことから、自然に發達した結果であると考へられる。(221頁)


 これは、谷崎の差別意識というよりも、美意識の観点から、谷崎の作品を読む上で参考になる興味深い視点だと思います。さらには、本作で欧米の文化との比較は興味深いものが多いと言えます。【4】

※初出誌:『婦人公論』昭和6年4月号〜6月号
 
 
 
posted by genjiito at 19:43| Comment(0) | □谷崎読過
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