2020年11月26日

読書雑記(303)広瀬浩二郎『それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける』

 『それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける! 世界の感触を取り戻すために』(広瀬浩二郎、小さ子社、161頁、2020年10月)を読みました。

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 冒頭、「はじめに−さわる文化と新型肺炎」で、次のように少し過激な口調で問いかけています。
 世の中には可視化できないものがある。コロナウイルスは、「目に見えない世界」からのメッセージを伝える存在なのかもしれない。新型肺炎の流行は、「可視化=進歩」と信じてきた人類の傲慢さに鉄槌を下したともいえよう。誤解を恐れずに言うなら、オリパラはすべての人が「できる」ようになる、もしくは「できる」ようにする創意工夫の産物である。そのオリパラの開催予定年に、人間の無力さ(できないこと)を明らかにし、進歩とは何なのかを問いかけているのが新型肺炎なのではなかろうか。
(中略)
 近代とはさわらない、さわれない、さわらせない時代なのである。
 新型肺炎の流行に伴い、「濃厚接触」という言葉を頻繁に耳にするようになった。ウイルスの感染を防ぐために、濃厚接触を避ける。単純にとらえるなら、一連のコロナ騒ぎは、さわる文化の危機ということができる。
(中略)
 2021年は究極の濃厚接触、新たな触れ合いのマナーが創出される記念の年となることを期待したい。さあ、「距離」を感じない時代だからこそ、一歩踏み出してみよう。伸ばした手の先に、目に見えない豊かな世界が広がっていることを信じて!(4〜6頁)


 本書を手にされた方の多くは、新型コロナウイルスへの興味と関心から、目が見えない人はどう考えているのかを知りたいと思っておられるはずです。そうであれば、まずは第3章「禍転じて福と為す」新たな博物館構想」から読み進められたらいいかと思います。この、タイムリーな話題から入って、その後で巻初に戻り、広瀬ワールドを堪能していただきたいものです。
 その第3章から、私がチェックした文章を引きます。

「距離」を取ることは、視覚優位・視覚偏重の近代的な価値観にも合致する。しかし、僕は「濃厚接触」の本来の意義が軽視・忘却されてしまうことに大きな危惧を抱いている。時代の流れに逆らうことになるかもしれないが、「濃厚接触」のプロである視覚障害者が、“触”の大切さを発信すべきではなかろうか。今、そんな使命感に突き動かされて、この本を書いている。(133頁)
(中略)
 「人に優しい」という表現には違和感があった。少しひねくれた言い方になるが、「人に優しい」で用いられる「人」とは誰だろうか。そこには、健常者(多数派)が障害者(少数派)に対して優しいという図式が見え隠れする。健常者の「上から目線」というと言い過ぎだろうか。僕は、「してあげる/してもらう」という一方向の人間関係を打破するのが「ユニバーサル」の真意だと考えている。(136頁)


 さて、巻初に戻ります。次の説明文があります。

 点字考案以前、各国の盲学校では通常の視覚文字(線文字)を凹凸化した触覚教材が使用されていた。線文字は視覚的な認知には適しているが、触覚で読み取るのは難しい。(15頁)


 実は、私は「古写本『源氏物語』の触読研究」(http://genjiito.sakura.ne.jp/touchread/)というテーマに取り組んでいた時、広瀬さんにも研究協力者になっていただき、目が見えなくても変体仮名が読める、という挑戦をしました。何人か読める人が出てきているので、この線文字の触読は、今の技術を活用すれば可能になったと思います。ただし、目が見えても変体仮名を読むのは大変なので、訓練は必要ですが。

 続く、写真による紙上展示は、視覚で触覚を追体験するという、一風変わった世界を味わえました。見えないと、これがどのように感覚として伝わるのかを、興味深く目で追い続けました。これは、情報の共有化のためにも有効な試みです。

 第二部に入り、アメリカ出張の体験談は、広瀬さんらしさが満載で、楽しく読み進めることができました。私も、海外に行くと視覚障害者の施設に足を運ぶようにしています。しかし、やはり目が見えない広瀬さんの方が、比較にならないほどに、多くの情報を獲得しておられます。身体中が周りの情報を受け入れる態勢になっているからでしょう。見えることによる鈍感さを実感する、広瀬流の巧みな文章です。
 能力主義社会アメリカでの障害者の就職難(頁95)、寿司の話(97頁)、音訳者の声で読書を続けてきたこと(101頁)、古文書を点訳・音訳すること(105頁)、琵琶法師が語る『平家物語』を「聴き手」「聴衆」の視点で卒論に取り組んだこと(111頁)、竜安寺の石庭のミニチュア作成に協力したこと(129頁)などなど、もう一度読み直そうと思っている箇所は枚挙に暇がありません。

 耳による読書の話(101頁)から、私は平安時代の読書を思いました。『源氏物語』は、お姫様が侍女の読む物語を聴くことが原点だという、玉上琢彌氏の物語音読論です。それ以前に、折口信夫も語り伝えられて来た『源氏物語』を論じています。ここで広瀬さんが展開する耳による読書は、まさにそれです。とすると、『源氏物語』の作者の手元にあったさまざまな〈物語〉群は、黙読のための文章ではなくて、声で語られるための、読み上げられるためのテキストだったはずです。『平家物語』が思い合わされます。つまり、伝えられ、集まっていた語りの数々を、個人が目で読める〈物語〉にまとめあげたのが、作者だとされている紫式部という女性たちだったのではないでしょうか。わたしが『源氏物語』の作者を紫式部という一人の人間に限定しないのは、こうした語りを原点に持つ〈物語〉として、『源氏物語』を見ているからです。
 期せずして、広瀬さんの話からあらためて自論を確認することになりました。そして、その語りの痕跡を見つけ出さなくては、と思うようになりました。今に伝わる『源氏物語』は黙読用に整理されたものであるならば、その前段階として耳で聴く〈物語〉だった頃の面影が、広瀬さんたちと輪読することで見えてくるのかもしれません。耳に訴える〈物語〉ならではの言葉の塊を引き出せないかと。いい刺激をもらいました。

 次の文章には、社会を鋭く見抜いたものの見方が伺えます。ここには、自立精神が旺盛な広瀬さんがいます。

 僕はガイドヘルパー(外出支援者)制度の拡充を喜ぶ一方で、視覚障害者たちを一人で「歩かせない」優しい社会に、ある種の危機感を抱いている。さあ、棒(白杖)を持って歩め、されば望(希望)が見えてくる!(117頁)


 優しさを追い求める社会や、オンライン会議、さらにはマスクが、五感を研ぎ澄まして生きている広瀬さんにとって、生きづらいものであることには、感覚的に理解できます(118〜119頁)。さらには、「僕たち全盲者は「顔」が勝負である。視覚障害者の「顔」には、人間本来の「野生の勘」が集約されている。」という言葉に接し、つい自分の顔を触ってしまいました。自分はどうだろう、と。

 私自身の日常生活とはまったく違う広瀬さんのものの見方や考え方を見聞きし、多くの知的刺激をいただきました。来年も、一緒に仕事をする機会がありそうです。折々に、このブログでも報告しますので、お楽しみに。

 なお、ちょうど本日、本書のプロモーション動画が公開されました。
 広瀬さんからいただいた宣伝文句を引きます。

「なぜさわるのか」「どうさわるのか」について、僕なりの主張を述べています。
 さまざまなモノ(民族資料)に実際に触れながら、「濃厚接触」の魅力を訴える楽しい動画なので、ぜひご覧ください。
 動画は(僕が喋り過ぎたので)2種類あります。
 完全版は46分、ダイジェスト版は14分です。

(1)完全版のアドレス
 https://youtu.be/KW5M8ucd14M

(2)ダイジェスト版のアドレス
 https://youtu.be/EKboZgkQYRA

 
 
 
posted by genjiito at 21:43| Comment(0) | ■視覚障害
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