2020年10月08日

読書雑記(301)アレックス・カー+清野由美『観光亡国論』

 『観光亡国論』(アレックス・カー+清野由美、中公新書ラクレ、2019年3月)を読みました。

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 最近、観光関係の本を読み漁っています。しかも、初心者用の入門編として刊行されている読み物を。
 これは、予想外に観光学というものが、学問領域において立ち後れていることを知ったからです。今、新型コロナウイルスが観光業界や観光地を大混乱に陥れています。しかし、そのことに関して、観光学の分野から学問的な知見はほとんど社会に還元されていないようです。マスコミなどに観光学者がまったく呼ばれないことは、その表れではないかと思っています。なぜなのだろう、というところから、原点に返り、初心者は初心者らしくわかりやすい読み物からその基礎的な知識を蓄えることにしたのです。というよりも、観光学とされる分野から刊行されている専門書は、まずは単語レベルで躓いてしまい、私の理解にほど遠いからでもあります。

 いろいろと読んできたせいか、本書のインバウンドやオーバーツーリズムに関する事実確認の頁は、これまでの本でも指摘されていることなので読み飛ばすようになりました。本書は1年半も前の刊行なので、その数値も、その分析も、現在の新型コロナウイルスによる観光客激減の今の実態との接点は希薄です。
 観光が新型コロナウイルスによって打ちのめされた今、本書はインパクトを欠いた物となったことが惜しまれます。しかし、合間合間に語られる話には、注意してチェックした箇所が多いのです。また、読みやすい本なので、疲れません。
 この本の中から、いくつか抜き出しておきます。「看板公害」「視覚汚染」「聴覚汚染」ということばも、新鮮な響きをもっています。

■観光地の看板の多さを嘆き、対応策3点の提示
・看板の数を減らす。
・看板の位置を検討する。
・デザインに配慮する。(126頁)



■無意味な撮影禁止
 京博や奈良博よりも、さらにかたくなに「秘仏精神」を守っているのが、ほかならぬ寺社です。たとえば京都の禅寺に残る襖絵は、日本の誇りといえる美術品ですが、「秘仏精神」、あるいは著作権への強い執着心によって「撮影禁止」が行き渡っています。
 写真撮影を解禁している美術館や寺院は、写真を撮ることが来館者の勉強になることを理解しています。誰かが写真をネットにあげたとしても、それが自分たちの持っている宝物の発信になるととらえています。(129頁)



■多言語表示は本当に必要か
 最近では、世界各国から観光客を日本にお迎えしましょう、という背景もあり、英語、中国語、韓国語、フランス語、スペイン語、アラビア語と、看板に記される言語にもキリがない状況があります。国際的な観光機運の中で、多言語表示は、基本的には良いことではあります。ただし日本の場合、インバウンド増加を呼び水に、もともと過剰な看板が多言語化して、2倍、3倍と増えていく事態を招きかねません。実際に福岡県のあるお寺では、外国人観光客が急増したことで、境内での飲酒飲食やスケートボードの乗り回しなどマナー違反も急増。12か国語でマナーを喚起する看板を設置しました。しかし、それでも効果はなかったそうです。
 さらに気をつけるべきは、観光名所や商業施設などで、マナー喚起のアナウンスを多言語でエンドレスに流す動きです。看板は目をそらせば見なくてすみますが、耳を直撃するアナウンスからは逃れられず、それは精神的なストレスになります。アナウンスにも適切なやり方を取り入れなければ「視覚汚染」のみならず「聴覚汚染」も広がってしまいます。
 言語に限っていえば、日本語と英語、もしどうしても必要なら中国語、という3か国語で事足ります。(131頁)



■観光地での翻訳の品質
 観光客が興味を持つポイントは、それぞれの母国の文化によって違いますし、また興味を満足させるための文章表現、スタイルも変わってきます。そのためには、外国からのインバウンド動向に詳しく、文章表現のスキルのある人に頼む必要があります。外国人の翻訳なら誰でもいいわけではないのです。翻訳には、その国の文化レベルが如実に現れます。翻訳はきちんとしたプロにお願いして欲しいと強く感じています。(133頁)



■家の中で傘を開くことを不吉とする文化
ある新設のホテルでは、レストランの照明シェードに、逆さにした和傘を取り付けていました。デザイナー目線で見た和風≠フ新しい解釈なのかもしれませんが、この光景を見て、知り合いの京都人はぞっとしたそうです。なぜなら京都には、家の中で傘を開くことを不吉な印として忌み嫌う文化が今も伝えられているからです。
 これらの現象は、日本の文化や伝統に対する観光客や事業主の無知、という表面的な問題だけではなく、根本に別の要因があります。それはすなわち、当の日本人が自分たちの伝統の着物や、町家のような空間の継承を放棄したということです。まがい物の着物や逆さの傘は、単純に「デザイン目線」から生まれたものではなくて、「観光客を喜ばせるために、無理に創造した日本」として、ほかならぬ日本人が作ったものなのです。
(145頁)



■世界遺産の変質
 ユネスコサイドは、世界遺産に登録された後、徐々に始まるのではありません。登録された段階、もしくはその前でも起こります。
 ミャンマーにあるバガン遺跡は世界三大仏教遺跡の一つで、11世紀から13世紀に建てられた仏塔や仏教遺跡が3000以上も残る、実に神秘的な場所です。有名なカンボジアの世界遺産であるアンコールワットより、さらに規模が大きく、気球に乗って日の出を見るツアーが観光客から人気を博しています。
 ミャンマー政府はかつてバガンの世界遺産登録を進めましたが、軍事政権下ということもあり、遺跡の管理体制が十分でなく、話は進展しませんでした。その後、民主化を機に世界遺産登録への機運が再び高まり、その盛り上がりと並行するように、観光客がワッと押し寄せるようになりました。
 夕方になれば絶景スポットとされる高さ数十メートルほどの寺院に人々が大挙して集まり、その混み合うさまは古代寺院の神秘どころではなく、危険そのものです。中には夕暮れをBGM付きで楽しみたいということで、あたりかまわず音楽をかける人も出ているといいます。
 ユネスコサイドの流れは4段階を踏んで進みます。

1、世界遺産に登録される、あるいは登録運動が起こる。
2、観光客が押し寄せて遺産をゆっくり味わえなくなる。
3、周辺に店や宿泊施設が乱立して景観がダメになる。
4、登録地の本来の価値が変質する。(155頁)



■地方の町や村と観光
 人口減少が進む日本、とりわけ地方の町や村は、観光という起爆剤を持ち込まないと、やがて経済が回らなくなり、消滅への道をたどってしまいかねません。町の消滅は、同時に文化と歴史の消滅を意味します。(160頁)



■数は成功の指標とはならない
 観光が成功するためには、地域の活性化、雇用の改善、ダメージと収入のバランス、そこに住む人と訪れる人の喜びなど、もっといろいろな要素がある。それなのに数だけを指標にしたら、それは観光過剰を呼びますね。(181頁)



■本来の観光の姿
 「観光コミュニティ」とは、訪れた国の自然や環境、文化に触れ、地元の人々の精神的な部分までを理解することこそが観光だ、とする精神のことです。
 もちろん国を町、村、地域に置き換えても同じ。そのような「観光コミュニティ」の精神があることで、地方の小さな村の暮らしが成り立っていく。それを可能にする行動こそが、本来の「観光」なのです。
 残念ながら大型観光に「観光コミュニティ」の精神はありません。数十分だけ滞在して、写真を撮って帰る。そこには土地に対する愛情もなければ理解もない。受け入れる地域にしたって、そこから外部に発信できることは乏しいものです。(186頁)

 
 
 
posted by genjiito at 23:37| Comment(0) | ■読書雑記
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