2020年05月16日

読書雑記(284)カミュ『ペスト』

 現在進行中の新型コロナウイルスの渦中で、これまでに読む機会のなかった『ペスト』(カミュ、新潮文庫、令和2年4月30日、91刷)を読みました。まさに、この時期に合わせて刷り増しされた本です。

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 この〈物語〉はいつ書かれたものだろう、と、あらためて確認するほど、いま世界中で蔓延している新型コロナウイルスの状況を再現したドラマとして読んでしまいます。確かに、細かいところは違います。しかし、期せずして再現だと思って、地球規模で起きている今の様子を思い描きながら読みました。時代感覚がそのままスライドするのです。
 ただし、そのことが、本作をよく理解できないままに読み終える結果となりました。今を理解するために、過去の出来事を知る縁になるのでは、という動機が、この作品の理解を歪めたように思われます。読み手である私の過ちでした。登場する人々を、丹念に読み解くべきでした。描かれている人間の思いを汲み取るべきでした。そこを、ペストという病気に惹かれ、新型コロナウィルスに通い合うものを探し求めてしまったのです。作者の意図から大きく外れる読み方をした、と思われるのが悔やまれます。

 時は今から80年前の1940年代、アルジェリアの要港オランでの話です。街中でネズミが死んでいることから語り出されます。一日に数千匹のネズミが焼却されることに発展していきます。事態はますます酷くなっていくのです。やがて住人が亡くなり、刻一刻と恐ろしいことが襲来していることが実感されてきます。
 その圧倒的な迫力は認めるものの、この小説の文章は、私にとっては馴染みにくいものでした。語り口が、右へ左へ、行ったり来たりと、落ち着きません。こうしたパターンに慣れないせいか、話になかなか集中できませんでした。

八月の半ばというこの時期には、ペストがいっさいをおおい尽したといってよかった。もうこのときには個人の運命というものは存在せず、ただペストという集団的な史実と、すべての者がともにしたさまざまの感情があるばかりであった。その最も大きなものは、恐怖と反抗がそれに含まれていることも加えて、別離と追放の感情であった。それゆえに筆者は、この暑熱と病疫の絶頂において、総括的な状況と、そして――例証的な意味で――生存者市民の暴行、死亡者の埋葬、引き離された恋人たちの苦しみなどについて、書いておくのが適当だと信ずるのである。(247頁)


 この作品が読み難い文章に思えるのは、言い直しや言い換えが多く、ダラダラと語りが続くせいではないか、と思います。あることを例える時などに、言葉を微妙に変えながら列記し、また、挿入や併記で言い換えたり、喩えたりと、あの手この手が用いられています。医師ベルナール・リウーの想像が際限もなく膨らんでいくのを、語り手が丹念に言葉として紡いでいくせいかもしれません。読み手である私は、いろいろな思いを語るリウーに引き回されるのです。そのために、作者の語り口に付いていくのに疲れ、読み難い文章だと思うようになってしまったのだと思えます。
 このカミュについては、その文体に高い評価が与えられています。1957年に、44歳でノーベル賞を受賞します。しかし、そうであっても、私には文章の意味が真っ直ぐには伝わってきませんでした。これは、相性の問題なのでしょうか。翻訳文にも、原因があるかもしれません。そうであっても、とにかく読み続けました。
 主人公の医師リウーは、目の前で展開する現実としてのペストによる災害を、克明に記録するのでした。その姿勢は、本作の最後で次のように語られています。

 この記録も終りに近づいた。もう、医師ベルナール・リウーも、自分がその作者であることを告白していい時であろう。しかし、この記録の最後の事件を叙述する前に、彼はせめて自分の差し出がましい行為を弁明し、また自分が客観的な証言者の語調をとることに留意したことを理解してもらうようにだけはしておきたいのである。ペストの全期間中、彼はその職務によって、市民の大部分の者に会い、彼らの感情を感じとることのできる状態に置かれた。したがって、彼は自分の見聞したところを報告するには適切な位置にあったわけである。しかし、彼はそれを、望ましい控え目な態度で行おうとした。全般的に、彼は努めて、自分の見えた以上のものは報告しないように、また自分のペスト仲間たちにも結局彼らがいだくには至らなかったような思想は賦与しないように、そして偶然あるいは不幸のおかげで、彼の手にはいることとなった記録だけを引用するように、心掛けたのである。(446頁)


 こうした語りのスタンスを保って、目の前で進行する事実と、それにまつわる人々の行動が語られていきます。ペストと人間の長い〈物語〉が展開します。
 例えば、次の話などは今に通じるものです。

あるカフェが「純良な酒は黴菌を殺す」というビラを掲げたので、アルコールは伝染病を予防するという、そうでなくても公衆にとって自然な考え方が、一般の意見のなかで強まってきた。毎晩、二時頃、カフェから追い立てられた相当の数に上る酔っ払いたちが街頭にあふれ、そしてしきりに楽観的な言葉をわめき散らしているのであった。(114〜115頁)

(中略)

 ところで、初めの頃われわれの葬式の特徴をなしたものは、迅速さということであった。すべての形式は簡略化され、そして一般的なかたちでは葬儀の礼式というものは廃止されていた。病人は家族から遠く離れて死に、通夜は禁止されていたので、結局、宵のうちに死んだ者はそのまま死体だけでその夜を過し、昼の間に死んだ者は時を移さず埋葬された。もちろん、家族には知らされたが、しかしたいていの場合は、その家族も、もし病人のそばで暮していた者なら予防隔離に服しているので、そこから動くことができなかった。家族が故人と一緒に住んでいなかった場合には、その家族は指定された時刻に出向くのであったが、その時刻というのは、遺体が清められ、棺に納められて墓地へ出発する時刻だったのである。(255頁)


 長い物語を経て、そのペストが収束の兆しを見せ、街も新しい生活を迎えようとしていたその時、リウーの分身とでも言うべきタルーが、ペストに感染した兆候を見せます。

 タルーは身動きもせず戦っていた。ずっと一晩じゅう、ただの一度も、苦痛の襲来に対して反射的なあがきを示さず、ただそのあらんかぎりの重厚さと、あらんかぎりの沈黙とをもって戦っていた。しかしまた、ただの一度も口をきこうとせず、つまり彼一流の告白の仕方で、もう心をそらすことなど全然不可能になったことを告白していた。リウーは戦いの推移をただ友の目つきによってたどっていた――かわるがわる開きあるいは閉ざされる目、眼球に一層強く圧しつけられ、あるいは反対にたるむ眼瞼、何か一つのものに凝集され、あるいはリウーと母親のほうへ振り向けられる視線。リウーがこの視線に出くわすたびごとに、タルーは非常な努力をしながらほほえんでみせた。(422頁)


 その病魔との戦いぶりは、読むものの胸を打ちます。そして、克明で感動的な描写を伴って、ついに亡くなります。
 見たまま聞いたままの一部始終を、リウーの目を通して丹念にことばにして語り残しています。冷静な態度と判断が、多くのことを今に伝えてくれます。

 最後は、次のように、未来を見据えての予言的な語りによって閉じられます。

 事実、市中から立ち上る喜悦の叫びに耳を傾けながら、リウーはこの喜悦が常に脅やかされていることを思い出していた。なぜなら、彼はこの歓喜する群衆の知らないでいることを知っており、そして書物のなかに読まれうることを知っていたからである――ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。(458頁)


 ペストという病気の恐ろしさは、この作品を通して、具体的に十分に伝わってきました。それだけに、私が十分に読み切れなかったと思われる登場人物たちおのおのの思いに、再度の通読の機会を得て耳を傾けたいと思っています。【4】
 
 
 
posted by genjiito at 19:41| Comment(0) | ■読書雑記
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