2020年05月15日

京洛逍遥(625)王朝絵巻さながらの行列がなかった今年の葵祭 -2020

 例年であれば、今日は葵祭の華やかな行列が見られる日です。しかし、今年は新型コロナウイルスの感染が拡大するのを避けるために、斎王代が注目を浴びる行列(路頭の儀)は、残念ながら中止となりました。斎王代も選ばれないままだったとか。最近では、1995年に雨のために中止となっています。
 神事である社頭の儀は、関係者だけで行われるとのことなので、それが終わるお昼前を見計らって出かけました。

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 ちょうど神事が終わり、神職の方々がお戻りになるところが、西の鳥居から姿だけ見えました。

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 楼門に回ると、神事が無事に終わり最後の挨拶をなさっているところでした。

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 葵祭の当日に、このような楼門の姿を見るとは思いませんでした。本来ならばこの時間は、御所を出発した行列が下鴨神社の境内に到着し、ご奉仕の方々や馬などの喧騒に包まれている頃です。

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 光琳の梅には、みごとな梅の実が生っていました。

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 本殿の前の門の様子も、いつもと違います。

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 お守り代わりにお祭りのシンボルをいただきました。

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 境内の「媛小松」も、いつもと違ってお祭りの日ということで神々しく見えます。

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 この横に立つ説明書きを、スマホのアプリ「一太郎 Pad」で撮影して文字をテキストにしました。ほとんど正確に変換してくれます。

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媛小松 マツ科/ヒメコマツ

ちはやぶる 鴨の社のひめこ松
よろずよふとも 色はかわらじ
     藤原 敏行 (古今和歌集)

 賀茂祭(葵祭)、御蔭祭のとき
奏される東游はわが国最古の
歌舞である。
この松は歌の二段目「求め子」で
鴨の社のひめ小松とうたわれた
媛小松である。
 なお「ひめこ松」のひめは
当神社の御祭神
玉依媛命の御名にちなんで
「媛」と記されるようになった。


 葵祭の記念に、宝泉堂の申餅をいただいて帰りました。最近、自宅でお茶を点てて練習を始めたので、ちょうどいいお茶菓子になります。

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 お昼は、下鴨本通りにある千成食堂に行きました。今月の連休明けから新装となったそうです。

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 お店の中に、青伸ホームの花が飾ってあることに気付きました。

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 青伸ホームの青山さんには、賀茂川の右岸からこの左岸の地に移ってくる時に、大変お世話になりました。まだ東京との往き来をしていた時には、折々に自転車で我が家の前を通りかかり、様子を気にかけて見ていてくださいました。今も、時々お声掛けにひょっこりと来てくださいます。何度か上がっていただき、お茶を飲みながらお話をしています。その青伸ホームさんからのお祝いの花を見て、お店の方と青伸さんの話をしました。地元の方とのご縁が、こうして少しずつ拡がっていくのは楽しいものです。

 今週はじめ、5月11日(月)の京都新聞に、同志社大学の垣見さんが連載なさっている「古典に親しむ 万葉集のやまとうた」の第2回目の記事が「賀茂神社」と題して掲載されていました。紹介されていたのは大伴坂上郎女の次の歌です。

 夏四月、大伴坂上郎女、賀茂神社を拝み奉る時に、便ち逢坂山を越え、近江の海を望み見て晩頭に帰り来りて作る歌一首
 木綿畳 手向の山を 今日越えて
   いづれの野辺に 廬りせむ我
         (巻六・一〇一七)


 ここで、賀茂神社と葵祭に関して、次のように説明されています。

題詞によれば、郎女は賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を参拝したついでに、山背・近江の国境にある逢坂山を越えて近江の海(琵琶湖)を望見している。
(中略)
 この歌は京都市中心部との関わりも深い。郎女が奈良の地から遠く四、五十キロの道を北上して賀茂神社に詣でたのは、旧暦四月の第二の酉の日に行われる賀茂の祭(後の葵祭)が目的であったらしい。賀茂神社では奈良時代以前から祭日に騎射が行われ、多くの人々を集めていた。騎射は「うまゆみ」といい、葵祭で行われる流鏑馬神事のルーツである。しかし多人数が武器を持って集うことが嫌われ、文武二(六九七)年以降、禁じられたり山背国の人のみの参加に制限されたりしながら、天平十 (七三八)年には乱闘しないことを条件に解禁されている。坂上郎女の歌は天平九年の作と見られるが、解禁前でも他国からの見物人が絶えないのが実態だったのだろう。平安京がまだ存在しない天平の時代に、奈良の都びとが鴨川のほとりを旅した折の作である。


 奈良時代の歌人が賀茂祭(今の葵祭)を見に来ていたことを知り、驚きと共に新鮮な知識と接する機会になりました。長い時間の流れの中で、人々が生きていた証しを確認し、その地に今自分が立っていることの奇縁を感じています。
 
 
 
posted by genjiito at 20:59| Comment(0) | ◎京洛逍遥
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