2020年05月04日

京都新聞で読む〈やまとうた〉の新案内人は垣見修司さん

 京都新聞の月曜日に、「古典に親しむ」というシリーズが連載されていることは、「京洛逍遥(600)四分咲きの桜と新聞記事の意義」(2020年03月23日)で紹介した通りです。先週4月27日の小林一彦さんの「古典に親しむ 新古今和歌集の森を歩く」では、「五十二 春との別れ」と題して次の〈読み人しらず・春下・一七二〉の歌が紹介されました。

待てといふにとまらぬものと知りながら
  しひてぞ惜しき春の別れは


 この最終回を、小林さんは新型コロナウイルスに触れつつ、次のように語り終えておられます。

 古典和歌には、人と自然との循環型の暮らしが、やわらかなやまと言葉でよみこまれている。蒸し暑い夏、底冷えの冬も、季節を口説きながら、共生してきたのだ。疫病すら、人と同じ自然界の一部。敵味方の別なく、共生することでしのいできた歴史がある。古典から学ぶべきことは、たくさんある。


 小林さんは『新古今和歌集』の案内人として、歌ごころの乏しい私にもよくわかるように、やさしく和歌の楽しみ方を教えてくださいました。52週も続いたのですね。ありがとうございました。

 今日(2020年03月23日月曜日)からは、バトンタッチを受けた垣見修司さんの「古典に親しむ 万葉集のやまとうた」がスタートしました。
 第1回は「山吹」と題して、次の歌が紹介されています。

うぐひすの 来鳴く山吹
  うたがたも 君が手触れず 花散らめやも
      (大伴池主、巻十七・三九六八)


 初回は、まさに小林さんのバトンを受けた形で、次のように語り出しておられます。

 新型コロナウイルスの感染拡大で、今年はゴールデンウイークも遠出はせずにもっぱら自宅で過ごしている人が多いだろう。三月からこのかた卒業式や入学式も、楽しみにしていた旅行もほとんどが取りやめになり、春がずいぶん永く感じられた。
 『万葉集』の最終編者と目される大伴家持も、天正十九(七四七)年の春は、死を意識するほどの大病を患い外出のままならない日々を過ごしていた。何十日も苦しみようやく快方に向かったものの、痛みは残り体力も落ちてしまった。家の外では春花の香りが立ちこめ、林にはうぐいすが囀っているだろう。この良い時季、音楽を奏で酒を飲んで楽しみたいが、まもなく行われる上巳(後の桃の節句)の宴には出席できそうもない。そんなうらめしい思いを歌にして、経緯を記した漢文の序とともに、友人の大伴池主に宛てて贈っている。
 掲げた歌は池主が家持への丁寧な返信として詠んだもの。


 そして、最後はきっちりと着地が決まります。

 同族で仕事仲間でもあった家持と池主との友情は、この病後の書簡のやりとりをきっかけにしてさらに深まった。そして立夏の頃にはすっかり快復した家持はその後数年のうちに多くの秀歌を詠み、さらに「万葉集』の編纂を成すことになる。


 垣見さんとは、昨年4月からご縁があって連絡をとることとなりました。私の科研の研究協力者として来てもらうことになった吉村君は、同志社大学の学部三回生でした。私が指導する学生さんではないので、アルバイトとして大阪大学に来てもらうにあたり、垣見さんにご許可をいただくために、メールで連絡をとったのが最初でした。当初の指導教授であった岩坪健さんが、1年間のサバティカルで大学を一時的に離れられるということで、その間の身を預けられたのが垣見さんだったのです。岩坪さんには、昨春失職した私の身の振り方を親身になって相談に乗ってくださり、いろいろと動いていただきました。私が社会人入学した、大阪大学大学院の博士後期課程での先輩でもあります。共に、伊井春樹先生のもとで『源氏物語』の勉強をした研究仲間です。人と人とのつながりは、本当に大切なものであり、ありがたいものです。そして、うれしいものであり、実に楽しいものです。
 この4月から、吉村君は岩坪さんの指導を受けて卒業論文に集中することとなります。しかし、折悪しく新型コロナウイルスのため、キャンパスでの直接の指導は今しばらくは難しいことでしょう。いろいろなことがあるものです。

 そんなこんなの中で、垣見さんの『万葉集』が始まりました。
 毎週の楽しみが、また増えました。
 
 
 
posted by genjiito at 20:55| Comment(0) | ■古典文学
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