2020年03月11日

読書雑記(280)松本薫『日南X』

 『日南X』(松本薫、日南町観光協会、2019年9月、全497頁)を読みました。

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 池田亀鑑賞のことでお世話になっている、鳥取県日野郡日南町が舞台のミステリーです。特に、生山駅周辺が中心です。もっとも、この駅の周りは特徴がないので、イメージを作り上げることは容易ではありません。日南町役場を、もっとクローズアップすれば、日南町のイメージ作りは可能だったのではないでしょうか。
 まず、巻頭に置かれた「日南町全図」に見入ってしまいました。あらためて、この地の地理的な状況を知ることができました。
 清張の父が矢戸の生まれであることが語られます。しかし、ここでもそうであるように、前半は事実が先走りしていて、読者は後追いで話を追いかけさせられます。語り方の問題だとしても、読者と一緒に説明がなされていく方が、読む者としては楽に読み進められます。
 オオクニヌシが亡くなったとされる神社で、見つけられた死体がすぐに消えます。その死体のそばに紙切れが落ちていました。ここは、次のように語られています。新聞記者である牟田口直哉は、娘の春日が拾ったこの紙切れを「捨てておけ」と言います。どうも変なやりとりです。

拾った紙きれのことを思いだした春日は、ハンガーに吊るしてある制服から取りだし、くしゃくしゃに丸められたそれをテーブルの上で広げた。
[荒ぶる神と闘うため、大国主命は甦る](注・枠囲い)
 ワープロで書かれたらしい文字で、そう記されていた。
「倒れていた人のそばにあったん。腕は縮こまってる感じで、そのちょっと先に落ちてた。赤猪岩神社はオオクニヌシが生き返ったところらしいけど、どういう意味なんやろ」
「うーん、ようわからんな。倒れてたのは、高齢の男の人だったんだよな?」
「うん、歳はようわからんけど、おじいさんっぽい人やった」
「けど、その人はおらんようになった……」
「うん……」
「まあ、ほかしとき」
「うん……」
 娘の話は直哉も気になるが、かといって今のところはどうしようもない。(59〜60頁)


 この紙切れは、どう見ても大切な証拠となる遺留品です。そうであるのにこのような対応を新聞記者がすることに、不審な思いを抱きました。登場人物の非現実的な言動に、作者の真意がどこにあるのか違和感を感じました。もし、娘が本当にこれを捨てていたら、この物語はどうなるのでしょうか? オオクニヌシとの接点がなくなります。自爆行為です。もちろん、オオクニヌシの取り上げ方も中途半端です。読者のどなたも、共感は得られないことでしょう。
 後に、父はこの紙切れに書かれたメモのことを思い出します。

「奇妙な話やなあ。そういえば、春日が拾った紙にも『大国主命は甦る』と書いてあったよな」
「うん。この事件が『古事記』のストーリーを真似てるとしたら、犯人はきっとオオクニヌシやわ」
 直哉は「おいおい」と苦笑いしたが、春日にしてみれば大真面目だし、それは昼間に青戸純平がいったことでもあった。例の紙きれを見た純平は、
「これ、オオクニヌシがよみがえって悪い神をやっつけるっていう意味だろ。だとしたら、大石見神社でも何か起こるかもしれない」
と不吉な予言をしたのである。それが当たってしまったことになる。(75頁)


 しかし、まだその意味には言及されません。わざと関係ないかのような書き振りです。作者の大きな失態だと思います。その後は、この紙切れが謎解きの一つのアイテムとなるのですから。
 さらには最終章で、「あの紙きれにこだわってここまで追いつめた。大したもんだ」(456頁)とあります。「紙きれにこだわった」というのは、あくまでも途中からであって、最初は不自然なほどに、まったく無関心だったのです。「まあ、ほかしとき」と言ったのですから。このあたりも、一貫しない語り口だと言えます。
 また、巻頭の地図に、赤猪岩神社が見当たりません。そして、大きな地図の方にありました。米子の近くです。大石見神社は記されており、次のように語られています。

地図で見ると、赤猪岩神社と大石見神社のあいだは、直線距離でも三十キロメートル近く離れている。死なないまでも重傷を負った人間が、自分で移動することは考えられないから、だれかが運んだのだろうが、ただしその場合でも、背中の刺し傷はどうなったのかという疑問は残る。(74頁)


 殺害された死体が放置された赤猪岩神社がどこにあるのか。これは、話を具体的にイメージするのに必要な情報です。それが、あまりにも遠いところにあるので、話の脈絡が寸断されます。大石見神社は、井上靖と縁の深い上石見駅の近くにあることは、巻頭の地図からわかります。そこから花見山に向かって道を入ると、池田亀鑑が生まれた家や通った小学校がある神戸上があります。それなのに、大石見神社と直線距離で三十キロメートルの赤猪岩神社の場所が、なかなかわからなかったのです。
 読み進んでいっても、人間関係がどうもすんなりと頭に入りません。説明が途切れ途切れとなり、言い差しのままで進むので、誰と誰がどうしたということがよくわからない内に、話だけは進んで行きます。もったいないことです。
 話は、日南町が町村合併した昭和20年代からのこと、リゾート開発とゴルフ場問題、そしてオオクニヌシにまつわる謎が、それぞれ並行して展開します。松本清張やシベリア抑留のことも話題となり、ネタは豊富です。しかし、それが小出しなので、読者は話に集中できず、途切れがちなので読み続けるのに疲れます。読者を惹きつけておく小説作法が必要だと思いました。
 中盤から青戸要一が逮捕されるくだりは、おもしろく展開し、読まされます。青戸要一を最初から出して、その軸を回しながら物語を編むことも可能だったように思います。その方が、緊張感のある物語となったことでしょう。
 また、佐埜喜久雄という人物も、もっと丁寧に登場させたらよかったと思います。青戸と佐埜の登場が遅いため、前半がゆるゆるの話になったのです。
 殺された男から偽名で春日の元に届いた手紙は、父に渡してほしいというものでした。そのことが、しばらく放置されます。父が大阪に出張中だとしても、事件に関する大事な手紙だという認識がある春日が何も手を打たないのは、あまりにも不自然です。こうしたあたりへの目配りが、本作には散見します。読む方が「忘れてませんか」とハラハラします。物語の構成に関わることなので、細部への詰めが行き届いていないようです。
 さらには、『冬景色』の歌詞を書いた紙の扱いがぞんざいです。犯人の関係を暗示する重要なカギとなるものです。それが、電話ボックスに落ちていたりするのです。また、その歌詞の中の「こずば」を「木庭」に当てるのは、あまりにも無理があります。
 後半になって、さまざまにうごめいていた人々が、急に地縁や血縁で収斂していきます。いかにも作り話に仕立てた舞台裏がさらされ、冷ややかに読み続けることになります。また、木庭修造、佐埜喜久雄、牟田口直哉、その母親の関係は、最後になって明らかにされます。後出しジャンケンです。

 この物語を読みながら、ポケットベルを使って連絡を取る姿には、イライラさせられました。今の若い読者は、ポケットベルすら知りません。謎を解くのに、通信手段が旧態依然のため、タイムラグで物語が遅滞するのはもとより、迅速な情報交換ができていません。
 この作品の時代設定は、平成4年、1992年です。携帯電話の歴史から見ると、1990年代半ばより第2世代移動通信システムサービスが始まり、通信方式がアナログからデジタルへと移行しています。本書の刊行は2019年9月で、あとがきは7月となっています。20世紀から21世紀にかけては、通信が急速に変化した時期です。私がインターネットに『源氏物語』のホームページを公開したのは、1995年9月でした。今でも文科系でのホームページの草分けといわれているのは、本ブログで何度も書いた通りです。そんな、通信環境が劇的に展開した時代を背景にするリスクは、幅広い層に読んでもらうためにも何とか回避すべきでした。
 そうしたことを思うと、スマホでなくてガラケーでいいので、移動式電話を駆使しての調査、捜査情報のやり取りをする展開にすべきでした。
 たとえば、新聞記者である父が大阪に出張している時に、娘のもとに殺された男から真相を記した封書が届きます。そのことを父に伝えようにも、ポケットベルでは返信を受けることの煩わしさから、先延ばしにします。その部分を引きます。

根雨駅前の電話ボックスから支局にかけると、ナベケンが出て、父は昨日から大阪へ出張中だと教えてくれた。
「今日には帰るっていってたんだけど、予定が延びて明日になるそうだよ」
「そうなんですか」
 封筒は鞄に入れて持ち歩いており、今日にも一度家に帰って渡すつもりだったのに、あてがはずれた。
「何か急ぎの用事があった?」
「うん、ちょっと」
「ポケベル鳴らしてみたらどうかな」
 そうですね、といって春日は電話を切ったが、父のポケットベルを呼びだすつもりはなかった。休日でも来ている先生はいるから取り次いではもらえるだろうけど、学校に電話がかかってくるのは嫌だったし、用件だけ伝えることに意味はない。
 それにしても、父さんはなんでこんなときに大阪なんか行ったんや!(277頁)


 電話は取り次ぎによって利用されていた時代です。この時点で、この物語はすでに窒息状態となり、今の感覚では理解に苦しむ、こじつけのような理屈が必要になってしまったのです。それを避けるためには、携帯電話がまだ普及する前の古い時代の話だ、ということをもっと強調しておくべきでした。とにかく、若い読者はこうした後手にまわる連絡方法には、ついていけないことでしょう。理解が及ばないことなのです。その加筆補訂の労を惜しんだために、若者にはこの時代遅れの社会的な背景の設定が、理解と共感を得られないものとして最初から立ちはだかってしまった、と言えます。
 エピローグでインターネットのことに触れています。しかし、時すでに遅しでした。
 後半からは、情に訴え掛ける手法で、感動的に語られます。そうであれば、序盤を大幅に縮小し、ミステリー仕立てではなく人間関係と郷土をテーマとする物語にしてはどうだろう、と思っています。作者には失礼ながら、松本清張、井上靖、シベリア抑留、が中途半端に扱われているので、それらは割愛したらいかがでしょうか。松本清張と日南町、井上靖と日南町については、あまりにもそっけない扱いです。紹介にもなっていません。かといってこの2人を取り上げると、情報が膨らみすぎます。それでなくとも、今の500頁もの物語は、町民が読むには負担です。町民に読んでもらうことを配慮するなら、半分の分量の250頁位が限度でしょう。
 シベリア抑留についても、私の父が戦後シベリアへ連れていかれ、強制労働に従事させられたことは、本ブログで何度も書きました。本作では、シベリアでの思想教育について触れています。しかし、現在その実態は、どこまで明らかにされているのでしょうか。父も、その教育に加担していたようです。しかし、最後まで父は、具体的には証してはくれませんでした。この問題も、本作のようにさっとなぞる程度では、命をかけてシベリアの地で生きた関係者に対して、失礼だと思います。軽く見過ぎだと思いました。少なくとも、私の父がこの本を読んだら激怒することでしょう。シベリアで生きた人間の本質を見ずに、適当なことを書くなと言うはずです。犯人たちがシベリアから帰還したことと関係するので、余計に私はもっと調べて書いてほしかったとの思いが残りました。ネタにしてミステリーで扱うには、あまりにも重いテーマが背景にありすぎるのです。
 そうしたことを整理して、物語前半の割愛と、松本清張、井上靖、シベリア抑留の話、そしてオオクニヌシのことなども再考して削ぎ落としたら、もっと日南町の良さが滲み出る、過疎化が急速に進む町で展開する、人間の物語が生まれることでしょう。
 日南町で池田亀鑑文学碑を守る会の事務局長をなさっている久代安敏さんとは、2009年12月に感動的な出会いがありました。「日南町議の久代氏と思わず握手」(2009年12月15日)それから、その後は10年の長きにわたり、毎年お付き合いが続いています。
 そんな縁のある日南町と日南町のみなさまに愛着を持つ者の一人として、本作品はスリム化を図った改訂を施すことにより、さらに日南町のイメージが浮かび上がる物語に再生されるでしょう。作品の改稿や改変はよくあります。いい作品に生まれ変わることを楽しみにしています。
 
 
 
posted by genjiito at 21:07| Comment(0) | ■読書雑記
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