2020年01月06日

久しぶりに大阪日本橋へ

 所用があって、大阪の日本橋から難波に出かけました。ここの人混みの中を歩くのは、本当に久しぶりです。
 日本橋は、完全に若者たちの趣味の街となっています。私が毎日仕事帰りにここに通っていた1980年代は、コンピュータや電子部品を探し求めるおじさんたちがたむろしていました。30代になったばかりだった私も、その一人でした。
 大正区にあった職場には、日本橋に置いていた自転車で通っていたのです。帰りに日本橋の電気店をはしごし、民生品として出始めたばかりのパーソナルコンピュータ(パーコン、後のパソコン)の情報収集に明け暮れる日々だったのです。すでに何度も書いたように、その頃この日本橋で、小学生や中学生が後ろから覗く大人に自信満々で店頭のパソコンを操作するのを、食い入るように見つめていたものです。その子供たちに、「マシン語」と呼ばれるコンピュータ用の言語を教えてもらいました。それは、ゼロ(0)とイチ(1)だけで記述する命令指示書です。BASIC言語が出回る直前です。
 この街は、私がコンピュータの言語を店頭で覚えた場所です。今、そんな匂いはまったくしません。この街に通うことは、高校から短大の教員になっても続きました。科学研究費補助金を獲得し、コンピュータを活用しての『源氏物語』の本文と写本の研究にのめり込みました。最初のテーマは「源氏物語古写本の画像データベース化と別本諸写本の位相に関する研究」(1992年)でした。そのことが、東京の研究所から上京のお誘いを受けることにつながったのです。
 当時の東京の秋葉原には、大阪の日本橋ほどの若々しい熱気はありませんでした。勢い、文学研究にコンピュータを導入することにおいても、やがて夢と期待は大きく失速していきました。
 日本文学データベース研究会を大阪大学の中に創設し、文学研究を支援する流れを作ろうともしました。しかし、その理想は、『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(1986年)、『人文科学データベース研究』(全6冊、1988〜1990年)、『国語教師のパソコン』(1989年)、『パソコン国語国文学』(1995年)、『CD−ROM 古典大観 源氏物語』(1999年)に仲間とのコラボレーションの成果として世に問うたまでで終息したのです。文学研究に限定すれば、国文学界の流れはワープロによる原稿の清書と、情報の整理に留まるものでした。考えることを手伝ってくれる、アシストをしてくれるはずのハードウェアもソフトウェアも生まれないままに、今に至っています。今のコンピュータの姿は、当時思い描いた研究者の手助けをする情報文具とはほど遠いものです。どうしてこんなことになってしまったのか、と、こうしてキーボードに文字を入力しながら思い返しています。
 知的な刺激を与えてくれるパソコンは、文科系向けには育たなかったのです。返す返すも残念です。「もし」が許されるのであれば、私が1999年に大阪を離れて上京しなかったら、この流れは変わっていたはずだと、今でも思うことがあります。その代わり、私が目を海外に転ずる好機を東京で摑むことができたことは、それはそれで別の意味で幸運でした。今の自分につながっているのですから。
 そんな、とてつもない夢を追いかけて通っていた街が、この日本橋です。あれから40年近くが経ち、電飾と若者でごった返す街を訪れ、感慨を持って歩きました。私の人生を変えた街、夢が叶わなかった街、がこの日本橋なのです。
 今の若い方々には、AIが文学研究を支援してくれ、また一緒に考えるアシスタントとなるように、新しい波を起こしてくれることを願ってやみません。AIを使いこなすのではなくて、AIがパートナーとして一緒に付き合える仲間になればいい、と思っています。

 家に帰ると、梅が咲き揃っていました。明日の七草に間に合いました。

200106_ume.jpg 
 
 
posted by genjiito at 22:50| Comment(0) | *回想追憶
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。