2019年04月18日

2002年春にインドで書いた未公開日記(その8/第8週)

 2002年に、私はインドのデリー大学に客員教授として赴任していました。その時の大学での様子や、インドでの日常生活をあるがままに記した日録は、これまでにその中盤までは公開してきました。その後、サーバーがクラッシュしたために、読めないままとなっていた記事を、折々に再現しています。特に、前々回の「2002年春にインドで書いた未公開日記(その6)」(2019年01月22日)からは、「第8週 02/24〜03/02」の出来事を扱っています。すでにクラッシュしたままのホームページでも、この「第8週」以降は未公開のままだった部分です。メモを元にして、適宜インドでのことを思い出しながら、再現していきます。
 今回は、その「第8週 02/24〜03/02」の内の、前回復元した2月25日の「2002年春にインドで書いた未公開日記(その7/第8週)」(2019年01月24日)に続く、2月27日の出来事です。2月26日については、結婚式場へ飛び入りで参加した写真などはあるものの、日録がどこにも見当たらないので、またいつかということにしましょう。

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■2002.2.27■



 N2君と一緒にデリー大学へ行く。私は授業。N2君は、そのタクシーを使ってデリー北部の調査に出向く。

 ジャンパトの中心地にある、メルディアンホテルで、インドでのマックイベントがあった。

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 その時のメモから。
 ・PDAに対する質問について、担当者は答えられなかった。
 ・プレゼンテーターに答えられない場面が多々あり。サポ−タ−が答えていた。
 ・デリーのバスとスクータ−を例にしての「PCバス」の説明は、あまりにも低レべルなもの。インドらしい例示。しかし、元々がパワー不足の乗り物すぎるのでよくない例え。

 ジャンパトからの帰り道のこと。
 いつもの通り、ジャンパトロードでオートリクシャーを探す。走り寄ってきた車の運転手に行き先を言って50ルピーでと言ったところ、メーターで走るというので辞めて別のものを探すふりをしたところ、50ルピーで行くというので乗る。
 ジャパンか? コーリアか? と聞かれたので、ジャパンだと答える。
 走り出してから、運転手がショッピングセンターを知っているので寄ると言う。しかし、ノーと断わる。しつこくランチボックスがどうのこうのと言うので、とにかくノーだと断った。しばらく走ってから、突然道路脇に止めて、ここのショッピングセンターで買い物をしないかと言う。とにかく嫌だから、急いで行ってくれと言うが、エンジンを止めたまま動かない。腹が立ったので、オートリクシャーから飛び降りて、近くのバス停の方に歩き出した。
 すると、運転手はとにかく乗れと言うので、また乗って帰ることにした。よほど別のオートリクシャーに乗り換えようかと思った。しかし、支払わないままになるのが後々面倒になってはと思い、とにかくそのまま乗ったのである。目的地の近くに来たときに、何か話しかけて来たが、無視した。お寺の前に着いたとき、50ルピーを出そうとすると、80ルピーだと言う。無意識に、日本語で「アホか」と言ってしまっていた。50だと言ったはずだと言って50を突きつけると、じゃあ70でいいと言う。腹が立ったので、「お前は嘘つきだ」と言って、50ルピー札を運転手の膝に投げつけてお寺の門に入った。門番のB2さんがいて、門を開けてくれたので、後ろから追いかけられる心配はなかった。とんでもない運転手である。インドに来て、こんなに酷いのに会ったのは初めてである。
 後でN2君に聞いたところでは、そんなときには、最後まで気分が悪いので、途中で下りて10ルピーを投げつけるのだそうだ。つまり、そんなことをしていたら、もらえるはずの50ルピーも手に入らない、ということを教えてやる必要があるからだと言うことである。ただし、私の場合は、次に乗り継いだオートリクシャーが、帰るところまでいくらの値段で交渉すればいいのかわからないので、乗り捨てるのも大変だったのである。今日の場合でも、少し遠回りしていたので、止まったショッピングセンターの場所がまったくわからない状況だった。なかなか難しい問題である。
 それはともかく、部屋に帰り、シャワーを浴びようとしていたときに、小僧さんが夕食を知らせて来た。いつもより早い。食堂へ行くとすぐに、アイヨディアで50人以上が列車を放火されて殺された、というニュースをみんなが教えてくれた。N2君に以前から聞いていたことだが、こんなに早く、それも問題を起こすはずのVHPのメンバーがムスリムによって殺されるとは、素人の私でさえ、まったく予想外のことであった。となると、後はVHP側の仕返しという暴動の心配である。
 N2君・N8先生と2人の若い女性と共に、この問題で話し合う。というより、2人の専門家の説明を聞いた。とにかく、何が起きても不思議ではない状況になっているようである。10年ぶりの危険な状態であり、しかも、10年前よりももっとひどい状態だそうだ。私は、すぐに帰国のことを考えた。1月26日の共和国記念日にも、テロのことが予想されたので、あの時もいつでも帰国できるようにスーツケースを整理していた。また、そんな事態になるかもしれない。みんなは笑っていたが、しかしそれもあり得るか、というのが今日のニュースである。テレビは、夜になるとこの事件の報道はしなくなった。規制がかかったようである。
 そして9時過ぎに、上人が今テレビで、今後10日以内にラーム寺院建設を中止しない場合は、非常事態宣言を出すことになるとの発表がなされたと伝えに来られた。まさに、大変なことである。どのようなルートで外出禁止令が出、どのような形で国外退去ということになるのかも、詳しく聞いた。明日はデリー大学へ行く日なので、大丈夫かということも確認したが、何とか大丈夫だろうとのことであった。明朝の判断である。

 
 
 
posted by genjiito at 23:28| Comment(0) | ◎国際交流
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