2019年04月12日

清張全集複読(32)「日光中宮祠事件」「真贋の森」

■「日光中宮祠事件」
 一警察署の捜査に不可解な点が多く見られました。それを追求する刑事が物語を紡ぎ出します。署長が初動時の失敗を覆い隠すために、意地になって一家心中を主張し続けたためとして進展します。面子が背景にあると見るのです。
 そんな中、一枚の小切手を徹底的に調べていくことで、活路が見い出されます。面子に拘る警察への批判意識が顕著です。さらには、犯人グループとでも言うべき朝鮮人の存在を意識した物語に仕立て上げています。この時期の世相と清張の興味と関心が、その背後にあるように思います。【4】


初出誌:『週刊朝日 別冊 新緑特別読物号』(昭和33年4月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による次の「あとがき」から、清張の調査手法の一端がうかがえます。
「日光中宮祠事件」は、戦後の混乱時の模様をまざまざとみせている実際の事件だ。一刑事が犯人を探し回って追及する姿がある警察雑誌に出ていたので、もっと詳しい関係書類を見たいと思い、当時の栃木県警察部長だった人を転任先の埼玉県警本部に訪ね、書類の一切を貸してもらった。これも、ほとんど記録通りに書いたが、話を聞いた場所の浦和の料亭の冬枯れた池の色がまだ眼に残っている。(551頁)

 
 
 
■「真贋の森」
 雑文書きの宅田伊作の元に、門倉孝造という博物館を解雇された骨董の鑑定屋がやって来ました。宅田は、日本美術界の大ボスであった東京帝大の本浦奨治教授に美術界から締め出された男でした。そのようなことがなければ、東大の同期仲間に伍する地位も名誉も手にしていたに違いないと悔やむのです。しかし、実証的な研究手法の津山誠一教授に近づいたがために、冷遇されることになったのです。
 津山先生は、本浦先生の業績の3分の2は贋作を扱ったものだと言います。しかし、《学者の礼儀》から問題視されなかったのです。また、《職人的》な鑑賞技術を持っていた研究者でもあったのです。
 宅田は、朝鮮で無為の13年間を過ごした後、内地の美術館の嘱託になります。しかし、2年後には本浦とその弟子の一言で、美術館の理事は宅田を馘にします。学者の世界の裏側が語られています。
 この作品には、日本美術史という学問に対する清張の不満や不合理だと思ったことが執拗に書き綴られています。日本美術に贋作が跳梁しているのは、特権者に作品が握られているからだと言います。所蔵家という地中に埋没しているのだと。そして、そうしたことを「盲点」という言葉の使い方で表現していることに興味を持ちました(294頁上段、314頁下段)。
 宅田は、九州から酒匂鳳岳という画家を連れて来て贋画家に育て上げます。それも、浦上玉堂だけを描かせるのです。そして、その贋作をアカデミズムの権威を試すために活用し、成功するのでした。さらには、贋画12〜13枚を売り立てに出すのです。正式に鑑定させ、封建的な日本美術史の盲点を突くのでした。
 しかし、少しでも自分を認めてほしいという人間の本性から、計画に狂いが生じます。人間を見つめる清張の面目躍如たるものがあります。この亀裂に、人間の本質が語られているのです。【4】


初出誌:『別冊文藝春秋』(昭和33年6月)
 
※『松本清張全集 37』(文藝春秋社、1973.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」には次のようにあります。

「真贋の森」は、ヒントを取った実際の事件がないでもない。美術界に少し詳しい人なら、誰でもあの事件かと合点するだろう。しかし、この創作は全く私のものである。
 この作品は、在野の美術家に主人公を設定したが、いわゆる官製的な権威が飾りものであることを書きたかった。たとえば、文部省の技官だとか、文化財保護委員という名前だけで、古美術界や骨董屋の問にはハバが利くのである。国立博物館員の「肩書」で有難がられるのと同じである。(551頁)

 
※『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)に「津山孝造教授」(93頁)とあるのは、「津山誠一教授」の間違いであり、「角倉孝造」と混同したものです。
 
 
 
posted by genjiito at 20:02| Comment(0) | □清張復読
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