2018年12月12日

読書雑記(253)【復元】〈その5〉上映中の「ダ・ビンチ・コード」は編集変更版?

 消えたブログを、折々に復元しています。再構築できたもので、『ダ・ヴィンチ・コード』と『ユダの福音書』に関するシリーズ全5話については、これが最終話です。
 これまでに、これに関連する4本の記事は、以下の通りです。

「読書雑記(247)【復元】〈その1〉『ダ・ビンチ・コード」(2018年12月02日)

「読書雑記(248)【復元】〈その2〉「古代エジプト語(コプト語)の写本解読」(2018年12月03日)

「読書雑記(249)【復元】〈その3〉「空中分解する日本語訳」(2018年12月05日)

「読書雑記(250)【復元】〈その4〉『ユダの福音書を追え』のユダとは何者」(2018年12月09日)


(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年5月21日公開分
 
副題「撮影道具と物語展開がバラバラ」
 
 やはり突然でしたが、映画『ダ・ビンチ・コード』を、封切りの日に観に行きました。奈良の西大和にある小さな映画館です。観客はいっぱいでした。しかし、私にとっては大ハズレの映画でした。最近は、わざわざ映画館に脚を運んでも、ガッカリして帰ることが多いのです。そんなに観ないから、ということもあるのでしょうか。自分が時代遅れになったようで、選ぶセンスが狂ってきたのかもしれません。ことごとくハズレばかりを観ています。私の興味が、映画となったものとズレているとしか思えません。ただし、『たそがれ清兵衛』はいい映画だったと思います。鑑賞基準が違うせいだ、ということにしておきましょう。

 さて、『ダ・ビンチ・コード』というベストセラーの映画化も、期待を大きく裏切る出来の悪さでした。現今の映画は、楽しむためにはそれなりのルールがあり、その制約の中で観るようになっている、ということなのだとしたら、私には映画を観る資格はないと言えましょう。映画が私を楽しませてくれないし、うまく騙してくれないのです。
 それはともかく、以下は、とにかく思いつくままに。

 先月の、4月6日に「聖書の増補・改訂とは? ―知的な刺激に満ちた『ダ・ビンチ・コード』―」というタイトルで本ブログを書きました。そこで私は、「何かと話題になっている割には、この本はそんなに長く読みつがれることはないように思われます。おもしろい話です。しかし、その反面、飽きやすいともいえましょう。もう一度読もうとは思わない人が多いと思います。」と書きました。
 小説はいまいちでした。しかし、キリスト教に関する問題提起をしてくれたのは有益だったと思います。ちょうどいいタイミングで、つい先頃の4月7日に、『ユダの福音書』という1700年前のパピルス文書も解読されたというニュースが公表されたばかりです。これまでの常識を再検討することは、キリスト教の原点に目を向ける意味からも、意義深いことです。この小説はともかく、映画はそうした役割の一端を担うべきものでした。残念です。

 映画がわかりにくかったのは、どこに起因するのでしょうか。あらかじめ小説を読んでいたにもかかわらず、それでもストーリーを追うのに疲れました。また、映画は、字幕版と吹替版があり、私は内容をしっかりと理解したかったので、吹替版を観ました。字幕版は、会話が相当省略してあることが多いので、今回のように言葉による説明が大切な内容の時には、吹替版がいいと思います。そして、吹替版ですら内容がよくわからなかったのですから、字幕版の内容は、どの程度の翻訳だったのか、次に機会があれば、ぜひ字幕版を観たいと思います。

 映画館では、まずパンフレットを買いました。その巻頭見開きには、「ダ・ビンチは、その微笑みに、何を仕組んだのか。」とあります。

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 これは、モナリザの絵のことを言っているのでしょう。しかし、モナリザの絵は、この映画ではほんの一瞬しか出ませんし、話題の展開には大きな影響を持っていません。『最後の晩餐』についてのコメントならば、そのメッセージはパンフレットを手にした人に伝わります。なぜこんなことばが、巻頭にあるのでしょうか。

 主演のトム・ハンクスは、2004年にスピルバーグ監督の『ターミナル』に出ていました。その映画は、私にとっては作り話過ぎて、トム・ハンクスも大根役者を演じていたので失望しました。落ち目のアメリカを象徴する映画でした。今回の『ダ・ビンチ・コード』では、トム・ハンクスはがんばっていました。しかし、いかんせん台本が悪かったとしか言いようがありません。映像は良かったので、総合的な完成度の低さが惜しまれます。

 監督のロン・ハワードは、『ビューティフル・マインド』ですばらしい映画を作った人です。なぜこの『ダ・ビンチ・コード』がこんな不出来に終わっているのか不思議です。
 私の今の結論をメモとして記しておきます。撮影終了後のフイルムの編集段階で、内容が引き起こすキリスト教に関するさまざまな問題に配慮をしたために、当初の編集意図が変更されたのでは、と思われます。事実、この映画が上映されるや、世界各地で上映禁止が取りざたされています。バチカンの法王庁も、この映画は事実ではない作り話だとの声明を出しました。本来は、監督はもっと小説にあるがままに、ストレートにキリスト教に対する問題点を盛り込むつもりだったにもかかわらず、いろいろな状況により映像をつなぎ変えることとなり、結果的に撮影シーンの選択と物語展開がバラバラになったのではないか、と判断します。
 映画のパンフレットに、監督のインタビューが載っています。そこでハワードは、

この本ではキリストの人生について、衝撃的な説が展開されていますね。この説に、あなたは賛成ですか、反対ですか?

という質問に対して、次のように答えています。

このプロジェクトに携わった初期の段階で、僕はある決心をした。それは、僕自身がこれらの説についてどう思うかを、絶対表には出さないということだ。僕らの目的は、観客自身に考えてもらうこと。そして新鮮にミステリーやサスペンスの要素を楽しんでもらうこと。僕個人の意見を押し付けるのは、間違っている 。

 つまり、最初から監督のメッセージは封印されていたのです。これでは、いい映画になるはずがありません。
 ぜひ、監督が本当に作りたかった映画に再構築して、本来の物語展開にして観せてほしいものだと思います。話の切れ目がうまくつながっていないところも、丁寧に埋めたものにしてほしいものです。まさに、反応を恐れた妥協の産物に堕落したものとなっているのですから。

 映画パンフレットに、監督のハワードが語ったこととして、こんなことも記されていました。ここで彼とあるのは、小説の作者であるダン・ブラウンです。

彼が学んだり読んだりして得たものを我々が解釈していくうえで、彼は貴重な情報源となった。その情報の中には、彼が本を書いた後に発見したものもあって、それらも脚本に織り込まれている。だから、この映画は、ある意味で『ダ・ビンチ・コード』の最新版、注釈付きの『ダ・ビンチ・コード』なんだ

 それならなぜ、最近明らかになった『ユダの福音書』について、少しでもいいから触れなかったのでしょうか。関係者の間では、この文書のことは話題になっていました。もっとも、内容の不足を補強するには、時間が足りなかったのかもしれません。この映画がイマイチ盛り上がりに欠けるのは、こうした事情も関係しているのかもしれません。とにかく、監督がテーマから逃げていることは明らかです。
 さらには、小説も映画も、ルーブル美術館のガラスのピラミッドが活かされていません。聖杯に結びつけるために、無理やり持ち出したものとしか思えません。ルーブル美術館へ行ったことのある方には伝わるかと思います。
 これは、作り直してほしい映画です。編集し直してほしいものです。

 この映画は、莫大な興行収入が予測されています。ベストセラー小説とともに記録として残るでしょう。しかし、共に作品の寿命は短いものだと言えましょう。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
posted by genjiito at 23:25| Comment(0) | ■読書雑記
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