2018年12月05日

読書雑記(249)【復元】〈その3〉「空中分解する日本語訳」

 これまでにブログとして公開しながらも、何度も消え去った記事を復元したものです。
 今回は、2006年4月8日に公開した、「読書雑記(248)【復元】「古代エジプト語(コプト語)の写本解読」」(2018年12月03日)に続くものです。これは全5回で構成されており、その内の3つ目の記事になります。

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年4月8日公開分
 
副題「原書はどんな文章なのでしょうか」
 
 久しぶりにハズレの本を読むことになりました。
 先日のブログで触れた『ダ・ビンチ・コード・デコーデッド』(集英社、2006.4.10)は、目次と小見出しに釣られて買った本でした。既述の通り、『ダ・ビンチ・コード』を読み終わったので、早速、本書を手にしました。読んでみてガッカリ。半ばまでは、まったくおもしろくありません。というより、日本語の文章がすんなりと入ってきません。知識の断片がこれでもかと飛び交うだけで、キリスト教に素人の私には、とてもついて行けません。話が次から次へと展開し、あっちへ跳びこっちへ跳びしているうちに、内容が空中分解していくのです。私には、そうとしか感じられず、本当に字面を流し読みするしかありませんでした。

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 半ばを過ぎたころに、こんな文字列に、フト目が留まりました。

キリスト教徒の休日は土曜日から日曜日に変更され、ユダヤ教とキリスト教との間の距離が広がった。しかも、かつてキリストの誕生日は一月六日に祝われていた。(127頁)


 しかし、この話題もおもしろくならないままに、すぐに終息します。楽しそうなネタが並んでいるようなのです。しかし、原作者が話ベタなのか、それとも日本語の翻訳がうまくいかなかったのか、本当に気の毒な本になっています。
 一見して豊富そうなネタを、読者のほうで繋ぎ合わせて楽しめる人にとっては、意義深い本なのでしょう。しかし、私には、とてもついて行けません。原作が酷いのか、日本語訳に問題があるのか、あるいは読者を選ぶ本なのか。私とは相性の合わない本であったことは確かです。自分の理解力の欠如は、今は目を瞑ります。
 後半に、教訓書からの次の引用がなされています。皮肉にも、これは私にとっての本書のことを言い当てているようなので、ついチェックをしてしまいました。

本を買うときには必ず、博学で慎重なキリスト者の忠告を仰ぐようにしよう。無益なものや、有害なものを買ってしまうかもしれないから。本をかかえていると思ってはいるが、ごみ袋を持ち歩いている人が実に多い(127頁)


 言いえて妙、とはこのことでしょうか。私は、しっかりと、ごみ袋を抱えてしまいました。

 あまり貶してばかりではいけないので、本書を読んで少し勉強になったことも記しておきましょう。第五章(123頁)と第七章(158頁)にある以下の文章は、今後の確認事項になるかもしれません。前述の「キリストの誕生日」のことも、この部分にあります。これらは、本当は、本書で詳しく、楽しく述べておいてほしいことなのですが。

コンスタンティヌスは歴史の書き換えを決行する機会をつかみ、新版・新約聖書の編纂を命じた。キリスト教の指導者たちが適切だと判断した範囲内で、自由な創作が認められたのだ。〈改行〉 これの意味するところは、現在我々の元にある新約聖書は、四世紀に、コンスタンティヌスにとって好ましい政治的意図をもって書かれたということである。それは、アメリカ大統領が、自分の政治的目標と合致するようにシェクスピアを修正するようなものだ。
(中略)我々の知っているキリスト教の創立者は一世紀のイエス・キリストではなく、四世紀のコンスタンティヌスとなる。(「新約聖書の書き換え」の項、129頁・131頁)
 
 
我々が信じ込むよう仕向けられたもう一つの誤解は、ユダによるイエスへの裏切りである。ユダが、自分にとって不利であるにもかかわらず、警戒されているキリストの使徒だと宣伝することは不自然であり、彼がこの役割に選ばれたのは、反ユダ的策略の一環である。イエスの告発を招いたとされているユダヤの人びとと、名前が似ているためだった。(「ユダの〈裏切り〉」の項、156頁)


 この指摘は、昨日のニュースで発表された、2世紀に異端の禁書として文献に出てくる〈ユダの福音書〉の解読のことなどは、まったく知られていない時点で書かれたものです。「反ユダ的策略の一環」というのは問題ですが、ユダの裏切りへの著者なりの疑問は、もっと信念を持って書き込めばよかたっのにと、惜しまれます。

福音書の中には、キリスト教の〈公認路線〉に合致しないために切り捨てられたものもある。元来の、互いに矛盾するマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、その時々の流儀と政治的傾向に沿って訳され、書き換えられてきた。五千ほど現存する新約聖書の写本の中に、四世紀以前のものはない。昔の柄と刃がその時々に取り換えられてはいても、提示されているのは原初のキリスト教の斧だと信じる者もいるようだが、それは明らかに間違っている。(「福音書の書き換え」の項、157頁)


 ここに、「四世紀以前のものはない」とあります。しかし、昨日のニュースによると、2世紀には確認されている〈ユダの福音書〉の解読に成功したのですから、これからの進展が楽しみです。

 結局、私はこの本を、読み飛ばすことになりました。これだけ氾濫する出版物の中から選択するのですから、こんなこともある、という例として記しておきます。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
 
posted by genjiito at 20:06| Comment(0) | ■読書雑記
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