2018年12月02日

読書雑記(247)【復元】〈その1〉『ダ・ビンチ・コード』

 これまでに何度も、ウエブに公開した記事が消えています。すべて、プロバイダの情報管理に起因するものでした。特に、2004年から2006年にかけて書いたブログの記事は壊滅状態です。
 そのような中で、自宅のハードディスクの中やウェブ上で幸運にも探し出し、拾い出せた文章や写真は見つけ次第に、忘れない内にと復元してきました。これまでに、105本の記事を復元して公開しています。記事のタイトルの中に【復元】と記しているので、検索すればそれらを特定することは容易です。

 今回の復元記事は、今から12年半以上も前に書いた5本を、公開した順番にアップします。
 いずれも、ベストセラーとなった小説『ダ・ビンチ・コード』に刺激され、当時いろいろと聖書や福音書に関する本を読んでいた頃のメモです。こうした問題は、10年も経った今はどのような評価がなされているのか、今まだ検証していません。的外れなコメントや、すでに批判の対象となっていることを取り上げているかもしれません。その点は、かつての記事をそのまま復元したものであり、その後の勉強が追いついていないということでお許しください。
 しかし、『源氏物語』の本文が写本としてどのような経緯で今に伝えられて来ているのか、という問題意識は明確にその根底にあります。
 このようなことを考えていた、というメモとして、ここに復元しておきます。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年4月6日公開分
 
元題「聖書の増補・改訂とは?」

副題「知的な刺激に満ちた『ダ・ビンチ・コード』」
 
 角川文庫の『ダ・ビンチ・コード』が、発売1ヶ月ほどで発行部数が百万部を突破したそうです。来月から映画が公開されるので、そのこととも関連して読む人が増えているのでしょう。
 私も、単行本の時から読もうと思いながら、それでも文庫化を待っていました。電車の中で読むことになるので、持ち歩きに便利な文庫本が重宝するからです。単行本が2冊セット、文庫本が3冊セットです。さらには、写真が100枚以上も収録されたビジュアル版もあります。しかし、これは重たい本です。
 海外の翻訳物を読む時、私はどうしても巻頭に添えてある「主な登場人物」のリストを参考にします。それが今回、なんとなく犯人が見えてきた原因となりました。上中下の3冊のうち、中巻でおおよそわかりました。犯人探しにはあまり興味がないので、どうでもいいことですが。

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 何かと話題になっている割には、この本はそんなに長く読みつがれることはないように思われます。おもしろい話です。しかし、その反面、飽きやすいともいえましょう。もう一度読もうとは思わない人が多いと思います。
 私は、この本を読んでから、すぐに『ダ・ビンチ・コード・デコーデッド』(集英社、2006.4.10)を買いました。「デコーデッド」とは「解読」の意味なので、これは謎解き本です。すでに、『ダ・ビンチ・コード』の嘘を暴く式の本が何冊か書店に並んでいます。しかし、これは、そうした興味本位一色ではないようなので買いました。でも、まだ読んでいません。このブログを書くまでは、自室のこれから読む本を並べた書棚に置き、頁を繰るのは我慢しています。この本は、ようやく明日から読むことになります。

 『ダ・ビンチ・コード』を読んで、私は、登場人物の一人である英国人の宗教史学者ティービングの、次のことばに興味を持ちました。

聖書は人の手によるものだということだ。神ではなくてね。雲の上から魔法のごとく落ちてきたわけではない。渾沌とした時代の史記として人間が作ったもので、数かぎりない翻訳や増補、改訂を経て、徐々に整えられた。聖書の決定版というものは、歴史上一度も存在していないのだよ(文庫・中・130頁)


 このくだりの「増補、改訂」に、私は反応しました。私は、現在伝わっている『源氏物語』が、紫式部一人が執筆した作品だとは思っていません。いろいろな人の手が入った、いわば「増補・改訂」されたものを、今読んでいると思っています。だから、こうした記述に出会うと、つい反応するのです。聖書もそうなのか? と。
 そして、次の箇所では、エジプトやインドへと思いが飛びました。

十二月二十五日はエジプトのオシリスや、ギリシャのアドニスとディオニュソスの誕生日でもある。また、インドのクリシュナが生まれたときには、イエスと同じく金貨と乳香と没薬を贈られている。キリスト教の毎週の聖日すら、異教から借用したものだ(132頁)


 私はキリスト教について疎いので、おもしろい指摘だと思いました。
 さらには、次もそうです。

“神の子“というイエスの地位は、ニケーア公会議で正式に提案され、投票で決まったものだ」(134頁)


 こうしたことは、学問的にはどうなっているのか、興味があります。ティービングの語ることは、まだ続きます。今度は、少し長い文章を引用します。非常に問題のある箇所だと思います。

コンスタンティヌスは資金を提供して新たな聖書を編集するよう命じ、イエスの人間らしい側面を描いた福音書を削除させ、神として記した福音書を潤色させた。以前の福音書は禁書とされ、集めて焼却された(中略)
 コンスタンティヌスが抹殺しようとした福音書のなかには、かろうじて残ったものがある。一九四〇年代から五〇年代にかけて、パレスチナの砂漠にあるクムラン付近の洞窟で、死海文書が発見された。そして、一九四五年にはナグ・ハマディでコプト語文書が見つかっている。これらは聖杯の真実の物語を記すとともに、イエスの伝道を実に人間くさく描いている。もちろんヴァチカンは、情報操作の伝統に則って、文書の公開を懸命に阻止しようとした。まあ、当然だろうな。これらの文書によって、史実とのあからさまな矛盾や欺瞞が露見し、今日の聖書が改竄編集のたまものであることが疑問の余地なく立証されるのだから。イエス・キリストという男こそ神であると言い広めて、その影響力を権力基盤の安定のために利用してきたことが発覚してしまう(136頁)


 聖書が編集された背景、とでもいうべきものが暗示されています。「今日の聖書が改竄編集のたまもの」だという記述は、その真偽を調べたくなります。その聖書の編集者に関して、ティービングはさらに次のように語りを展開させていきます。

かつての教会は、人間の預言者であるイエスが神だと世間を納得させなくてはならなかった。それゆえ、イエスの生涯の世俗的な面を記した福音書を、すべて聖書から除外した。しかし昔の編集者にとっては不都合なことに、とりわけ扱いにくいひとつの話題が数々の福音書に繰り返し現れていた。それがマグダラのマリアだ(153頁)


 最後にもう一箇所、興味あることばを引いておきます。

イエスは男女同権論者の草分けだ。教会の未来をマグダラのマリアの手に委ねるつもりだった(161頁)プラム


 ここで引いたこれらのことばは、すべて中巻にあります。この本は、この中巻までが一番盛り上がります。そして、下巻に入ると、徐々におもしろくなくなりました。読後感は、肩すかし、というのが正直なところです。後半がもったいないように思えます。でも、知的な刺激を与えてくれた点では、いい作品といえましょう。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 
posted by genjiito at 19:45| Comment(0) | ■読書雑記
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