2018年10月20日

日本大学であった第7回盲史研究会に出席

 早朝より新幹線で上京しました。秋晴れです。しかし、富士山は雲をかぶっていて不機嫌でした。

 地下鉄丸の内線「御茶ノ水」駅の改札口で、立教大学の尾崎さんと10時に待ち合わせです。尾崎さんは現在修士論文を執筆中なので、そのことや今後の進路について話をしながら、本日の会場である日本大学歯学部(4号館3階第3講堂)に向かいました。

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 会場の受付横の窓からは、ニコライ堂がすぐそばに見えます。

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 「日本盲教育史研究会」は今回で7回目。会員数が200名に届こうとしていることからわかるように、着実に発展しています。
 総会では、これまでの引田会長から伊藤新会長へとバトンタッチがあり、役員の改選もありました。あらためての新しいスタートです。

 今回の研究会は、以下のテーマが設定されています。

研究会テーマ

「視覚障害者の職業問題を考察する」



 視覚障害者にとって古くて新しい課題が職業問題です。鍼灸按摩などの現状も大きく変わってきています。記念講演は、第5回研究会での警女さんに続き、今回は男性盲人の職業の原点「琵琶法師」を取り上げます。近現代の職業問題も、原点まで遡った大きな歴史的パースペクティブの中で考えていきたいものです。


■講演と演奏 平家を語る琵琶法師
  鈴木孝庸(たかつね)氏(新潟大学名誉教授 前田流平家琵琶奏者)

 琵琶と語りが一緒になることはないそうです。「祇園精舎のかねのこゑ〜」を語ってくださってから、会場のみんなで『平家物語』の冒頭を一緒に声を出しての体験です。声は出せても節回しに付いて行くのが大変でした。
 現在、平曲を語るのは20人しかいらっしゃらないそうです。その内、盲人の伝承者は名古屋の今井勉検校お一人だけだとのこと。意外でした。
 引き続き、「祇王」を語ってくださいました。
 最後に「那須与市」で扇の的を射抜く場面を、参会のみんなが一緒に声を出し、語りの体験をしました。楽しいひと時となりました。

 昼食後は、琵琶の演奏と講演に関する質疑応答からです。
・なぜ平家が琵琶語りの芸能になったか等、3人からの質問がありました。
・後の質問討議では、2つの流派についての質問もありました。テキストの違いではなくて語りの違いだ、と師匠は言っておられたとのことです。

■問題提起
  大橋由昌(筑波大学附属盲学校同窓会長、日本盲教育史研究会副会長)
「近代盲教育における鍼按教育を中心に 明治期を中心に」

 昭和22年の「あはき法」(あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律)の問題は、医療全体の視点で見ていくべきだ、という観点からの発表でした。
・後の質問討議では、障害者の高齢化と生徒減少に関しての質問。
・障害者に社会性がなくなっている、との指摘も。
・障害を持つ就業者の年収128万円の根拠は何か。
・盲学校の治療室を変えていかなければならない。
・盲学校の先生は、学者派と職人派にわかれる。
・食える職人を育てる必要性があると。

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  指田忠司(高齢・障害・求職者雇用支援機構、障害者職業総合センター特別研究員)
「新職業開拓をめぐる我が国の取り組みと欧米諸国の相互交流」

 視覚障害者について明治以降の職業教育を振り返り、「新職業開拓」についての問題点を整理した発表でした。就業支援として適職を探すことよりも、やりたいことをサポートすべきであるとの持論を展開なさいました。
・後の質問討議で、失明軍人杖は昭和16年からあるのでは、とのこと。
・本会の事務局長をなさっている岸先生によると、日露戦争の頃から握りの部分に飾りのない杖はあったと。
・日本は海外から研究し尽くされ、経営面で遅れている。
・日韓台の鍼灸の実態と、鍼の禁止について。
・今は、日本だけの視覚障害者が鍼をできる。韓国は補助的なことに留まる。
・海外の状況。就業資格所有者はあまりいない。

 以下、大橋先生と指田先生にさまざまな質問と意見が寄せられました。とりまぜて列記しておきます。
・盲学校の生徒について。魅力のある理療科を作ることが課題だと指摘。
・自立活動と共に、いろんな経験をさせて社会性を大切にしたい。
・自立活動の中でのコミュニケーション能力の向上を。
・他者の視点で物事を見ることが重要。
・現場の先生から、主語が「私」だけにならないようにしているとの報告。
・盲学校出身であることを隠す生徒のことと自立のこと。
・支援学校の教員として、手助けと失敗経験をさせることも大事だと。
・無免許の同業者の存在。ブレーキの効かない過剰養成の問題につながる。
・生徒の現状は、努力ではなく最初から見える結果で満足し、先生方もそうなっている。
・保護者が社会のせいにしていないか。
・現役の盲学校の先生とコラボして語り合える場がほしい。

 とにかく、会場からは多くの質問や意見が出ました。上記のメモは、あくまでも私が聞き、理解できたと思われることだけを記したものです。勘違いをして聞いたこともあることでしょう。雑駁なメモであることは、ご寛恕のほどを願います。
 この質疑応答は、予定の時間をオーバーするほどでした。
 「日本盲教育史研究会」が果たす役割は重要です。今後とも、こうした篤い意見交換を通して、理想と現実を埋め合わせながら、視覚障害者をめぐる教育の問題は展開していくのです。この会は、その意味では貴重な旗振り役を担うことになると思われます。この会の活動には、ますます目がはなせません。

 懇親会は、すぐ近くの神保町でありました。約30名もが集まる盛会でした。私は、指田先生の横に陣取り、多くのことを教えていただきました。北海道での研修会の時以来です。福島県立盲学校の渡邊先生と引き合わせてくださったのは指田先生でした。この研究会を通して、多くの方々と情報交換ができています。
 指田先生と私の席の前に、全国特別支援学校校長会会長の桑山先生がお出でになりました。全国に盲学校は67校あるそうです。そして、尾崎さんが小さい頃、桑山先生は盲学校で指導をしたとのことです。大きくなって今は私がその役目を、ということで、意気投合して楽しい話に発展しました。不思議な出会いがあるものです。

 懇親会では、私にも少しだけ自己紹介をする時間をいただきました。私は、2020年の東京オリンピックで『百人一首』のイベントが計画されているので、盲史研の後援をお願いしました。そして、『百人一首』に挑戦しようという方も、一人は確保しました。この『点字 百人一首』についても、さらに盛り上がるようにお手伝いしたいと思っています。

 お開きになって帰る頃には、外は大雨になっていました。指田先生に腕をお貸しして、お茶の水駅まで傘をさして濡れながら急ぎました。お見送りした後、私は聖橋を渡ったところの東京医科歯科大学の後ろにあるホテルに入りました。そういえば、昨年3月までの9年間は、越中島にある東京医科歯科大学の官舎に住んでいました。そこは、伊井春樹先生が国文学研究資料館が開館した時からずっとお住まいだった所です。伊井先生がお住まいだったので、私も希望してそこに入居したという経緯のある官舎だったのです。人のつながりはおもしろく、そして楽しいものです。
 
 
 
posted by genjiito at 23:47| Comment(0) | ■視覚障害
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