2018年05月23日

わが父の記(7)母が縫った着物を電車に忘れる

 父が亡くなったのは35年前の5月です。妻に言わせると、今でも父は、陰ながらずっと私を見守ってくれているのだとか。たしかに、生きていられることが意味不明のこの身体です。こんなに臓器が欠損しているボロボロの身体なのに、元気に好きなことができていることを、不思議に思うことがしばしばです。
 我が家の仏壇には、大好きだった甘いものを欠かしません。特に父は、キンツバが好物でした。そのお供えを、しょっちゅうお腹が空く私がつまみ食いするので、妻によく叱られています。自分が糖尿病であることを忘れていると。私の反論は、満腹になった両親からのおすそ分けだから、身体に悪いはずがない、と。心身共に栄養補給をしているのです。
 調査旅行に出かける時には、必ず仏壇に手を合わせてから出かけます。
 14年前に亡くなった母も、父と一緒に、私を日々温かく見守ってくれているようです。しかし、それでも父の加護を感じることが多いように思うのは、どうしてでしょうか。
 父は厳格だったので、正直言ってあまり馴染めませんでした。心を割って話をしたことはなかったと思います。しかし、私をとことん信じてくれていたことは、折々に感じていました。
 一度だけ、父に嘘をつきました。見抜ぬれたのかどうかはわかりません。しかし、最後まで信じ通してくれたので救われました。大事に到らずに済み、今でも申し訳ないという気持ちと共に、感謝をしています。
 その父は、68歳で亡くなりました。父の歳に近づきつつある今、超えてはいけないのでは、という複雑な気持ちもあります。なるようにしかならないと思うものの、意識することがあるのです。
 これまでに何度も書いたように、18歳の時に内蔵が破裂しました。手術後に医者が言った、45歳と63歳で迎えるはずの内蔵の耐用年数を、奇跡的にクリアして今があります。そのことがあるので、次の節目である来年の68歳も、何事もなかったかのように通過するだろうと、楽観的に思っています。両親が見ていてくれるから、という何の根拠もない確信からのものです。
 父は、見事なまでに人のために尽くし、徹底して人の面倒を見て、そして家族を守ってくれた一生だったと思います。
 そんな父にも、失態に慌てふためいたことがありました。
 母は、得意の裁縫で、貧しい家計を助けていました。本家が呉服屋だったので、なおさら幼い頃から躾けられていたのでしょう。毎日夜中まで、縫い物をしていました。休日になると、父は私を連れて、縫い上がった着物を持って、大阪市内の呉服屋さんに届けていました。
 そんなある日。近鉄電車で鶴橋駅で乗り換えて、環状線で大阪駅に向かう時です。父が血相を変えてあたふたとして、着物を近鉄の網棚に忘れたと言うのです。いつものゆったりとした父ではなくて、この人は一体誰だろうと思うほどの慌てようでした。小走りに改札へ向かう父に、とにかく付いていくのが大変でした。
 幸い、近鉄電車の終点である上本町駅に、母が縫った着物があることがわかりました。途端に力が抜けた父の姿は、ビニールの人形のように見えました。

posted by genjiito at 21:47| Comment(0) | *回想追憶
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