2018年03月23日

【速報】本日(3月23日・金)映画『ビルマの竪琴』放映

 直前のお知らせですみません。
 本日3月23日(金、18:24〜20:54)、「BS朝日」で映画『ビルマの竪琴』(85年版、中井貴一主演)が放送されることを知りました。谷口先生、情報提供をありがとうございます。

 本ブログでは、「読書雑記(213)竹山道雄『ビルマの竪琴』」(2017年10月13日)で取り上げています。
 その時には引用しなかったことで、次のような作者の記述があります。

 物語が世にでた後になってからビルマに関する本をかなり読みましたが、それで見ると、具体的な点ではまちがっているところがいくつもあることが分りました。何も知らないで書いたのですから、まちがっている方が当然なくらいです。たとえば僧さんの生活などは何も分りませんでした。僧さんが跣足で歩いているように書きましたが、それはあやまりで、僧さんにかぎって、日本人が「ポンジー草履」とよぶものをはいているのだそうです。
 昨年ビルマから三人の新聞記者が来て、あの本の英訳本を読んで、宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は宗教についてはきわめて敏感だから、これをビルマに紹介するときにはこの点に気をつけるように、といわれました。あれをビルマ語に訳そうという計画があり、その許可を求めてこられましたから、よろこんで同意しましたが、はたして仕事はすすんでいますかどうですか。(新潮文庫、平成29年6月25日、百六刷改版、227頁、「ビルマの竪琴ができるまで」竹山道雄「昭和二十八年しるす」)


 後半のビルマ語への翻訳に関しては、今回のミャンマーでの調査により、3種類の翻訳本と漫画があることがわかりました。現在のミャンマーではコピー本が氾濫しているので、さらに調べるとまだ見つかることでしょう。

 また、出家中の僧侶が楽器を吹いたり弾いたりすることは戒律違反となるため、これは許されておらず本来できない行為だということを聞きました。ただし、水島が出家をするのは、物語の後半だったように思います。後で確認します。そうした指摘はそれとして、この作品が出来た背景について作者が語っていることも確認しておく必要がありそうです。作品は時代の産物です。作者の意図を無視して現在の物差しだけで測ったり、現代の物の見方だけで評価とすることに慎重でありたいと思うからです。

 最初には、場所はシナの奥地のある県城というつもりでした。それは、戦争中に新聞で、ある写真を見て、印象がふかかったからです。その写真は、城の中の楼閣で、焼けくずれた厚い壁にさまざまの落書がのこっているところでしたが、あたりには木も芽をふき草もしげって、いかにも棲愴たるありさまでした。ここに日本兵がたてこもって、敵に包囲されてくるしい数週間をすごしたが、ついに切りぬけたということでした。
 ここにこもっている日本兵が合唱をしていると、かこんでいる敵兵もそれにつられて合唱をはじめ、ついに戦いはなくてすんだ。−こういう筋を考えました。
 敗戦といういたましい事実が頭にこびりついていたし、気の毒な帰還兵の姿を毎日のように見ていた頃ですから、義務をつくして苦しい戦いをたたかった人々のためには、できるだけ花も実もある姿として描きたい、という気持がありました。
 しかし、この合唱による和解という筋立ては、場所がシナではどうもうまくゆきませんでした。日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです(このことは、意味のふかいことと思われますが、いまは別にします)。共通の歌は、われわれが子供のころからうたっていて、自分の国の歌だと思っているが、じつは外国の歌であるものでなくてはなりません。「庭の千草」や「ほたるの光」や「はにゅうの宿」などでなくてはなりません。そうすると、相手はイギリス兵でなくてはならない。とすると、場所はビルマのほかにはない。−じつはこういう事情から、舞台がビルマになりました。
 ところで、私はビルマには行ったことがありません。いままでこの国には関心も知識もなく、敗戦の模様などは何も報ぜられなかったのですから、様子はすこしも分りません。ただ私は学生時代に夏休みに台湾に行ったことがあり、あちらこちらを歩いて、カッパン山やアリ山にも登り、蛮人部落も訪ね、熱帯色ゆたかな南の端まで行きました。この旅行は楽しい記憶です。あの台湾の強烈で豪華な風土を思いうかべて、あとは空想で第一話を書きました。
(中略)
 第二話以下が雑誌にのったのは二十二年九月号からでした。
 しかし、あのころは材料が手に入りませんでした。ビルマでは大規模の激戦があって、たくさんの損害があったにちがいないと推測はしていましたが、ここに三十万の戦死者がいたということを知ったのは、あれを書きあげた後でした。このようなことについては、連載が終って本にする際に、かなり手を入れました。戦中は敗戦については知らされないし、戦後も戦争にふれることは一切タブーだし、われわれはずいぶん後になるまで、戦争についての具体的な事実は知りませんでした。実地のことは、さっぱり分りませんでした。
(新潮文庫、平成29年6月25日、百六刷改版、220〜223頁、「ビルマの竪琴ができるまで」竹山道雄「昭和二十八年しるす」)


 また、文庫本に収録された平川祐弘氏の「『ビルマの竪琴』余聞」には、次のように記されています。

ルイ・アレン教授は第二次世界大戦中ビルマで日本軍と戦った英軍の語学将校であったが、『ビルマの竪琴』の冒頭に出てくる音楽の調べをきっかけにした日英両軍交歓のエピソードは実際にはなかった、あのエピソードは第一次世界大戦のクリスマスの際に起った英独両軍の交歓の話をもとにしたのであろう、と解釈した(『比較文学研究』三十六号)。あるいはそうかもしれない。しかし敵の陣営から流れてくる楽の音に将兵が耳を傾け、心動かされる情景は日本では昔から謡曲『敦盛』などにも美しく描かれている。『ビルマの竪琴』が戦没者の遺族の気持をも慰めたのは、作中にそのような日本人の伝統的な仏教的心性が肯定的に説かれているからではあるまいか。作品中に出てくる坊様たちの姿もビルマの小乗仏教の実体とはいろいろかけ離れているであろう。しかし『新潮』昭和五十九年八月の竹山道雄追悼号で加藤幸子氏が適切に指摘したように、そうした論が文明批評の先端部として、敗戦直後の近代主義謳歌の日本でいちはやく提出されていたところに、かえって深い意味があるように思われるのである。(新潮文庫、平成29年6月25日、百六刷改版、248〜249頁)


 いろいろな意見を見るにつけ、この『ビルマの竪琴』は児童文学としての視点から読んでいくことが、まずは大切ではないかと思います。そして、映画については、これも原作との関係性を意識して観る必要があるように思います。史実と虚構、文字による受容と映像による視聴と対峙する原作の位置づけなどは、私にとっては今後とも考えるテーマの一つでもあります。

 また、下のようなブログがあることも、谷口先生から教えていただきました。

「ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか」
https://hogetest.exblog.jp/4011267/

「ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)」
https://hogetest.exblog.jp/4011262/

 取り急ぎ、速報として記しておきます。
 
 
 
posted by genjiito at 15:52| Comment(0) | ◎国際交流
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