2017年10月06日

読書雑記(212)山本兼一『信長死すべし』

 『信長死すべし』(山本兼一、角川文庫、平成26年12月)を読みました。

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 正親町天皇と信長の確執が語られていきます。正親町天皇が発した信長粛清の命令は、まずは誰が、そしていつ、どのようにして実行するのかで話は展開していくのです。
 折しも、先月9月12日に、明智光秀の密書の原本が見つかったことがニュースになっていました。足利義昭を奉じて室町幕府再興を光秀が画策していたということが、本能寺の変の3日後に書かれた書状から読み解けるとのことです。

 本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】
(中略)
藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。

 光秀は書状の日付の翌日、備中高松城(岡山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃げる際に命を落とした。(毎日新聞、2017.9.12)


 本作『信長死すべし』の最終章「無明 明智光秀 天正十年六月五日 近江 安土」が、まさにこの手紙がやりとりされた時期にあたります。
 真相はどうだったのでしょうか?

 さて、山本兼一は、正親町天皇が信長を殺して、旧来の国家体制を維持しようとしたという立場で本作を書いています。その間を近衛前久が奔走し、光秀が実現した、というのです。
 今回見つかった光秀の書状を、もし山本兼一が生きていたらどのように説明したでしょうか。そんなことを考えるのも、楽しい歴史推理だと思います。
 正親町帝は、信長を誅する者を亀卜よって決めます。その経緯が、当時の勢力地図と大名の人柄をうまく評しています。また、その密勅を伝える人選でも、近衛前久、細川幽斎、筒井順慶、山科言継、今井宗久、里村紹巴等々、多彩な人々が候補に挙がり、紹巴が適任者となるくだりは、目の前で話が展開しているように語られていきます。山本氏の筆の力です。そして、近衛前久が前面に出ます。「夢幻のごとくなり 近衛前久 天正十年五月十九日 近江 安土城」の章が秀逸でした。
 終章に近い「点前天下一 近衛前久 天正十年六月一日 京 本能寺」での信長のお点前の場面(358〜361頁)は、お茶人でもある山本兼一の筆の力が伝わって来ました。
 最後まで、一気に読ませる作品です。公家のずる賢さも、存分に楽しめました。【4】

※本書は、2012年六月に角川書店より単行本として刊行されたものです。
 
 
 
posted by genjiito at 21:00| Comment(0) | ■読書雑記
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