2019年04月10日

谷崎全集読過(31)「小さな王国」

■「小さな王国」
 東京で小学校の教員をしていた貝島は、立身出世を諦めてからはG県に移り住み、自然の中で生活を営みます。
 その学校で、転校生がクラスを仕切るようになります。先生は、その過程を具に見て、この生徒たちの力関係について考えます。そして、その生徒が多くの生徒に言いつけを守らせていることから、教師にできないことを可能にしていることに脱帽するのでした。生徒と同一化して一緒に遊ぶ心構えが必要だとの結論に至るのです。
 先生は、次第に生活が苦しくなる中で、赤ん坊のミルクにも困ります。そこで、子どもたちが遊んでいた手製のお札での買い物ごっこにかこつけて、仲間にしてもらってミルクを手に入れようとするのです。子どもの遊びと現実が交錯し、正気を失っていく先生の姿が活写されます。人間の弱さと、かろうじて踏みとどまる大人が、巧みに描かれています。【5】

初出誌:『中外』大正7年8月号

 今回読んだ『谷崎潤一郎全集』の解説で、伊藤整は次のように言っています。少し長くなることを厭わずに、以下に引いておきます。

 「小さな王國」は大正七年八月號の「中外」に發表された。この作品が發表された翌々月の大正七年十月、當時の指導的社會評論家であつた吉野作造が「中央公論」の「時論」において次のやうに述べた。「『中外』八月號に載せられた谷崎潤一郎氏の『小さな王國』は我國現代の社會問題に關し頗る暗示に富む作物である。小學生の單純な頭腦から割り出された共産主義的小生活組織の巧みに運用せらるゝ事や、前途有望を以て自らも許し人も許して居つた青年教育家の生活の壓迫に苦しめる結果、不知不識其共産的團軆の中に入つて行く經過は、一點の無理がなくすら/\と説き示されて居る。作者の覘ひ所は何れにあるにせよ、我々は之によつて現代人が何となく共産主義的空想に耽つて一種の快感を覺ゆるの事實を看過する事は出來ない。而して少しく深く世相を透觀する者にとつて、今やしゃ社會主義とか共産主義とかいふ事は、理論ではない、一個の嚴然たる事實である。」この前年の大正六年十月に、ロシアの十月革命が成立してゐたのである。
 簡單に言へば、この作品は少年の世界に形を借りたところの、統制經濟の方法が人間を支配する物語りである。現代社會は必然的に統制經濟の社會へと推移しつつある。その統制經濟社會で、ある權力のもとに發行される紙幣が、卽ち經濟上の約束が、人間の生活意識を變へ、人間の價値判斷を狂はせるといふ物語りである。谷崎潤一郎の全作品の中で最も特色のある現代社會の批判性を備へた作品と見ることが出來る。吉野作造がこれを面白いと思つたのは、大きな必然性があつた。
 一般的に言ふと、明治時代は、封建性の濃厚な社會秩序の重壓から人間性を解放する努力がされた時代であり、無意味な古き秩序に抵抗する力點となつたのが、明治三十年頃からの社會主義者たちの行つた社會改革運動であり、また文士たちの作品活動を通して戀愛の自由を主張することによる愛情生活の改革であつた。そして大正期前半においては、自然主義者たち、夏目漱石、「白樺」派の人々の仕事を通して、個人の人格、その自由が文學作品の上では通念として確立されてゐた。しかし、この時、別な危險、卽ち個人の自由を原則として成立した資本主義制度は、その確立とともに、組織化された經濟力として人間を支配し、その考へ方を人工的に變化させ、人間を組織の奴隷とする危險が起つてゐたのである。そしてこの危險は、もつと新しい統制經濟を行ふ共産主義社會においても必ず起り得るものであり、現代社會の本質にある組織の非人間性につながるものであつた。
 谷崎潤一郎はこの作品においてそれを諷刺してゐるやうに今の讀者の目には見えるであらう。しかし、そのやうな圖式的諷刺性はこの作者に縁のないものである。むしろ、作者はさういふ物語りを面白いと思つて書いたのであらう。しかし、面白いと思ふことは、その物語りの實質が人間性にとつて關係がある、といふ藝術家の判斷である。面白さが人間生活の本質にかかはりがある時、それは結果として社會問題道徳問題に關係があることとなる。作者の面白がつた面と吉野作造の面白がつた面とは、眞實といふ楯の兩面であつたのだ。
(中略)
 作者はまた、一篇の「小さな王國」を興味ある物語りとして描くことによつて、更に、經濟的な拘束が人間の自主性を奪ひ、自由な人間を奴隷に變化させてしまふ危險のあることを證明した。周知のやうに、これ等のテーマは、實に現代の文學の中心にある二大テーマと言つていいのである。(265〜267頁)

 
 
 
posted by genjiito at 20:17| Comment(0) | □谷崎読過
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