2017年02月18日

読書雑記(193)入口敦志『漢字・カタカナ・ひらがな』

 『漢字・カタカナ・ひらがな 表記の思想』(入口敦志、平凡社、2016年12月)を読みました。

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 本書は、ブックレット〈書物をひらく〉というシリーズの一書です。
 漢字・カタカナ・ひらがなが持つ身分的位置付けについて、わかりやすく語っています。文字表記の歴史的な流れとその意味を、文化という視点から展開するものです。
 入口氏は江戸時代を中心とする学芸の研究者です。その立場から見た古典文学についての提言は、多くの問題点を浮き上がらせ、刺激的な物の見方を提示するものとなっています。さまざまな示唆をいただきました。

 以下、私がチェックした箇所を引用しておきます。


自筆本の大きさと写本の小ささ
 定家の奥書から、貫之自筆本はかなり長大な継紙であったことがわかる。例えば藤原道長自筆の『御堂関白記』など、男によって書かれた漢文の日記は巻子本であった。貫之自筆の『土佐日記』も、それに匹敵するような大きさとかたちを持っていたということができる。
 ところが、それを写した定家本も為家本も、どちらも列帖装六つ半枡形本といわれる小さな本になっている。このかたちは多くひらがなの物語などを写す場合につかわれるものである。であれば、定家も為家も、『土佐日記』をひらがなの物語類と同じようにあつかったということになるのではないか。漢文で書かれた男の日記は、写本にされる場合にも大きな本に写されることが多い。定家自身の日記『明月記』も巻子本である。もちろん漢文で書かれている。貫之が選択したかたちは、男の漢文日記と同じ巻子本のかたちであった。しかし、定家をはじめとする後代の人々は、『土佐日記』を漢文日記とは同等にはあつかわなかったわけだ。ここには漢字とひらがなをめぐる位相の差異がみられるのである。
 もう一点、定家本の奥書が漢文であることにも留意すべきだろう。例えば『源氏物語』のようなひらがなの物語でも、その写本の奥書は決まって漢文であった。ひらがなで状況や経緯を説明することはほとんどないのだ。公式のものは漢文であるという伝統はなかなか消えることはない。(24頁)
 
 
 十六世紀以前は文字を使える身分階層は限られていて、ひらがなも上層身分の人が使うものであった。その違いは主に公私、性差、長幼の別であって、身分差ではなかった。それが、十七世紀以降、徐々にひらがなが庶民のものとなり、身分を越えて広がっていくようになる。玄朔がひらがなを用いた『延寿撮要』を庶民に向けたものとしていることから、それ以前、室町時代末にもそういう傾向はあったといえるかもしれない。むしろ『延寿撮要』をはじめとするひらがな本の出版が、ひらがなが庶民のものになる契機を作ったと考えるのだ。あくまでも私見であり検証を必要とするが、ひとつの仮説として提示しておきたい。(48頁)
 
 
楷書とひらがなの組み合わせ
 今の日本語は、楷書の漢字とひらがなとが何の違和感もなく併存している。そのこと自体に疑問を持つ人はおそらくひとりもいないだろう。しかし、江戸時代以前、楷書の漢字とひらがなとを組み合わせることはまずあり得ないことだった。(50頁)
 
 
 ちなみに、「叡覧」で改行されている(前掲図11参照)のは、叡覧する人物すなわち後陽成天皇を敬って、文字の上に別の文字がこないように配慮してのもの。これを「平出」(へいしゅつ)と呼ぶ。後出の「閾字」(けつじ)よりも一段と高い敬意をあらわしている。(59頁)
 
 
注目したいのは、文中に見える「中華」「中国」の文字である。上に一字分余白があるのは「閾字」といい、その下にある文字が指し示すものを敬ってあけるもの。同じ文中、「神明」「聖」「皇統」の文字にも閾字があり、神や天皇を敬ってのものであることがわかる。(65頁)
 
 
 本書でみてきたように、貫之や宣長は漢語を廃した和文に対して相当に意識的であったと考える。また、漢文あるいは中国語そのものに習熟せよと主張する徂徠にしても、やはり意識してのことであった。表記を思想としてとらえるゆえんである。
 漢字制限論やかなだけで日本語を表記しようという運動がある。しかし、それらはマイナーであって、日本人の考え方の主流にはなっていない。漢字とひらがなを混ぜて書くのが日本語であると、なんとなく思い込んでいるだけのように思われるのだ。
 韓国では、漢字を廃してハングルだけで表記しようとしている。民族が生んだ文字への国粋的なこだわりともいえるが、その運動は相当に進んでいるようにみえる。一方、フランスの植民地化を経たベトナムでは、表記はすべてローマ字であり、チュノムや漢字は使わない。子規のいうとおりで、だからといってベトナム人がベトナム人でなくなったわけではない。同様に、日本語もひらがなだけで書く、あるいはローマ字で表記しても不便は感じない可能性があるのだ。
 いずれの方向を選ぶにせよ、我々は日本語の表記についてもっとつきつめて考えてみる必要があるのではないだろうか。(84〜85頁)

 
 
 

posted by genjiito at 23:54| Comment(0) | 読書雑記
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