2015年09月12日

京都で「蜻蛉」(第22回)/傍記混入の確証

 ワックジャパンでハーバード本「蜻蛉」を読むのは2ヶ月ぶりです。
 今日も、いろいろと楽しい話が展開しました。

 「蜻蛉」巻においては、変体仮名の「阿」は語頭に使われることが多いようです。
 手元の翻字データで検索したところ、「蜻蛉」巻に「阿」は110例ありました。その内、語頭に使われるのは105例です。
 語頭ではない例は、「しつめ阿へ須」(27ウ)、「しのひ阿万りて」(41オ)、「物阿つ可ひ尓」(44オ)、「おし阿个多る」(60ウ)、「おき阿可りて」(63ウ)の5例だけでした。しかも、これらはいずれも複合語の中に見られるものであり、「阿」が語頭にあるとも言える例です。
 結果的に、「阿」が語中や語尾に使われているものは1例もありませんでした。

 こうした変体仮名の字母の使われ方とその傾向については、今後とも「変体仮名翻字版」のデータが揃っていく中で、折々に確認していきたいと思います。その過程で、写本の親子関係、書写者や書写年代等を知る手掛かりが、着実に得られるようになることでしょう。

 また、本文異同から異文の発生事情が明らかになりました。
 以下の例は、これまでに気づかなかった傍記混入の事例なので、ここに新たな事実の提示として詳しく報告します。

 5丁ウラから6丁オモテにかけて、「人二まれ・お尓ゝ(5ウ)・まれ・」とあるところで、興味深い異文があるのです。次の写真は、見開きの中心(折り目)部分です。


150912_hitonimare




 手元の資料で、ハーバード本を底本にして14本を校合してみたところ、次のような結果がでました。
 以下、翻字表記は「変体仮名翻字版」がハーバード本以外に用意できないので、従来の翻字様式のもので校合した結果を示します。
 諸本の略号は次の通りです。
 6桁の算用数字は『源氏物語別本集成 第15巻』(伊井・伊藤・小林編、おうふう、2002年)で底本陽明文庫本の本文に付けた文節番号です。

底本【ハーバード本】(ハーバード大学美術館蔵)
 大島本[ 大 ](古代学協会蔵、『源氏物語大成』底本)
 平瀬本[ 平 ](文化庁蔵)
 尾州家河内本[ 尾 ](名古屋市蓬左文庫蔵)
 麦生本[ 麦 ](天理図書館蔵)
 阿里莫本[ 阿 ](天理図書館蔵)
 池田本[ 池 ](天理図書館蔵)
 御物本[ 御 ](東山御文庫蔵)
 正徹本[ 正 ](国文学研究資料館蔵)
 LC本[ L ](米国議会図書館蔵)
 陽明文庫本[ 陽 ](陽明文庫蔵、『源氏物語別本集成』底本)
 保坂本[ 保 ](東京国立博物館蔵)
 高松宮本[ 高 ](国立歴史民俗博物館蔵)
 国冬本[ 国 ](天理図書館蔵)

人にまれ[ハ=大平尾麦阿池御正L国]・・・・520481
 ナシ[保]
 人[陽]
 人にもまれ/も$[高]
おにゝ[ハ=大尾麦阿御正陽保高国]・・・・520482
 おにに[平]
 をにゝ[池]
 鬼にも[L]
まれ/〈改頁〉[ハ]・・・・520483
 まれ[大平尾麦阿池御正L陽高国]
 侍れ[保]
ナシ[ハ=大平尾麦阿池御正L高国]・・・・520484
 かみに[陽]
 ひとに[保]
ナシ[ハ=大平尾麦阿池御正L高国]・・・・520485
 まれ[陽保]

 
 これら14本を整理すると、おおよそ次の2つの本文が伝わって来ていることがわかります。

・ハーバード本「人にまれ・おにゝ・まれ」
  (他の11本も同文)
・保坂本   「をにゝ・侍れひとに・まれ
  (陽明本は「おにゝ・まれ・かみに・まれ」)

 以下、ここでは保坂本の「侍れ」は諸本の「まれ」と等価な本文と見做し、陽明本の「かみに」は「ひとに」と等価な本文として扱うことにします。これは、字句の意味の問題ではなくて、書写されている文字がどのようにして本行に取り込まれるか、ということを考えるものだからです。

 この2種類の本文には、傍記本文が本行に混入したことが想定できます。
 それには、どのような傍記がなされていたかによって、次の2通りのパターンが考えられます。

(1)人にまれ(傍記)
   おにゝまれ(本行)

(2)おにゝまれ(傍記)
   人にまれ(本行)

(1)の例で傍記「人にまれ」が本行に前入すると、ハーバード本等になります。
  「人にまれ・おにゝ・まれ」
(2)の例で傍記「おにゝまれ」が本行に前入すると、保坂本(陽明本)になります。
  「おにゝ・まれ・人に・まれ

 これまでの調査では、私が〈甲類〉と分別している本文群は【傍記後入】となることが多く、〈乙類〉に分別している本文群は【傍記前入】となる場合が多いことがわかっています。
 詳しくは、かつて発表した私の論文、「若紫における異文の発生事情 ―傍記が前後に混入する経緯について―」(『源氏物語の展望 第1輯』、三弥井書店、2007年)に書きました。
 〈甲類〉は傍記が傍注箇所の直後の本行に混入し、〈乙類〉はその傍注箇所の直前に混入する傾向があることを明らかにしたものです。

 それは、「若紫」における傍記の混入傾向であり、あくまでも仮説です。
 今それが「蜻蛉」にも適用できるかどうかは、すべて今後の検討しだいです。ここでは、「若紫」のパターンを適用するとどうなるか、ということを見ておきます。

 「蜻蛉」の本文は、2類4群に分別できます。



┌〈甲類〉┬第一群[大尾平正L]
│    └第二群[麦阿]
└〈乙類〉┬第一群[保陽・高国]
     └第二群[池御]


 ここで、ハーバード本は〈甲類〉に属しているので【傍記後入】タイプとしましょう。すると、上記の傍記パターンで見ると、(2)の「おにゝまれ」が傍記されていた写本の属性を伝えるものであり、その傍記が直後の本行に混入したものだ、ということになります。
 これに対して〈乙類〉は【傍記前入】タイプだとすると、(2)の「おにゝまれ」という傍記が直前の本行に混入したといえます。
 そして、今問題としている保坂本と陽明本は共に〈乙類〉に属しているので、この想定で整合性は取れているいえます。

 つまり、何段階か前の平安時代に近い親本には上記(2)のように書かれていた、ということで異文発生の原因が説明できることになります。
 再確認すると、次のように書写されていた写本から、こうした異文が発生した、ということです。

おにゝまれ(傍記)
人にまれ(本行)


 拙著『ハーバード大学美術館蔵『源氏物語』「蜻蛉」』(新典社、2014年)の解説では、傍記混入について詳しく書けなかったので、上記の確証を新たな仮説の一つとして追加し、ここに提示しておきます。

 これまでに私は、『源氏物語』の本文は〈甲類〉と〈乙類〉の2分別できる、ということと、異文が発生する原因に傍記混入という現象があることを、機会を得ては仮説として提示してきました。
 これについては、従来の池田亀鑑が提唱した〈青表紙本〉〈河内本〉〈別本〉という3系統論は、すでに完全に破綻しています。しかし、一般には今でもこの系統論が便利に重宝がられて使われているのが現状です。一日も早く、この3系統論をリセットして、あらたな本文分別に着手すべき時代となっています。

 私見に対しては、賛同意見も反対意見も、いまだにどなたからもいただいていません。
 今回の傍記混入の例も含めて、この私案についてのご批正をよろしくお願いいたします。
posted by genjiito at 23:43| Comment(0) | ◎源氏物語
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